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17:36 「殺害し」→「切りつけ」の間違いです。吉良上野介はこの時背中と額を切りつけられていますが、今川氏真の玄孫 品川伊氏に助けられ別室に移されました。
あ、書いてありましたねw
浅野長政って意外な事に徳川家康と碁の趣味と碁のレベルがピッタリで碁を通じてガチな友達だったらしく、長政が亡くなった後ショックで家康が大好きだった碁を辞めるくらい仲が良かったらしい。
どうする家康では家康が「浅野殿にはよく言って聞かせます」と言っていましたが、実際この頃の長政は家康よりある意味上の立場で、家康からしたら東国での影響力を奪ってくる存在です。家康があの裏で長政失脚に動いていてもおかしくはないです。
でもそれじゃ何故、浅野長政は関ヶ原で東軍についたのかがいまいち不詳でござりまするな…😮
@@用宗東田子の浦-w8pかつての大物が復権のために大老筆頭の家康を頼ったという理解でいいかと思います。(暗殺事件の実態は不明ですが)三成も同様の理由で奉行引退後は家康に近づいていますが、拠点や息子の所在が長政と三成の運命を分けたという感じですね。
@@用宗東田子の浦-w8p幸長が三成達との対立を押し出してる以上、西軍入りした自分の勝利=息子の上がり目を潰す(下手すりゃ腹も切らせるかも)になってしまう。それならいっそのこと徳川の天下取りに命運託した方が潔いという判断になったのでは。真田みたいに優秀な子が複数人居るなら、わざと兄弟同士で東西に別れてどちらが勝っても生き残る作戦もアリとは思いますけど。
難しいところだけど、自分を失脚させた三成に味方する気は無かっただろう。
今回も新情報満載で、驚きました。浅野長政は名前が浅井長政と似ていて、いつもはっきりしない人物でした。でも、何と秀吉の一門衆で寧々の従兄弟、秀吉の義弟だったんですね!!今回の大河ドラマで突然秀吉に異議を唱えるので、どんな素性の人物だろうと不思議でした。でも秀吉の親類衆で、文武両道の武将であり、秀長、利休と並ぶ豊臣家中の中心人物であれば、納得です。一時は三成をも支配下に置いていたとは、意外でした。そしてもう一つ、彼の三男の曾孫が、あの浅野内匠頭で忠臣蔵で改易になっているんですね!!驚きました。この家系は断絶しても、別の弟の家系が福島正則改易後の広島42万石を持ち、江戸時代終わりまで続いたというのも、立派です。長政は替えの効かない存在であり、家康との折衝にも関わっていたほどなのに、秀次事件に連座して失脚してしまうとは、気の毒です。晩年は何とか政権中枢への復活を果たしても、五奉行の筆頭というかつてとは大きなギャップのある役職となり、最終的には豊臣と別れて生きて行く道を選んだわけですね。政争に巻き込まれ、有能な人物が没落していく過程をなぞるような人生ですね。
小田原の陣でも、秀次事件でも伊達政宗は徳川家康のとりなしで助けられてますね。これじゃ、政宗が関ヶ原で東軍側になるのは無理もないですね。
しかし振り返ると豊臣政権って脆いよなあまあ個人的な求心力という意味では家康も秀吉もどう変わりはないけどこれを2代目以降できちんと政権の骨格を作れたという意味でやはりこの時代は譜代の家臣がどれだけ存在するかっていうのは大きいんだろう
重要人物ながら、イマイチぱっとしない人なので知識がありませんでした。凄く勉強になりました。
13:12 石田三成によって能登に配流された幸長はこの事がきっかけで三成を恨み前田利家が亡くなった日の夜に加藤清正、福島正則等と共に三成襲撃するのである。
再来年の大河は豊臣兄弟ですが、浅野長政も義兄弟。どのように扱われるか興味津々です。この動画に刻々と動く情勢の中で北政所との関係を加えて頂ければ面白いかもしれませんね。稲沢住人より。
なんで関ヶ原で浅野が家康についたのか良く解りました。幸長の遺恨だけでなく秀次事件も関係があったのですね。寧々の態度もおかしいと思っていましたが実家の浅野家を蔑ろにした秀吉と秀次失脚の原因となった淀殿がいれば仕方無い事だったのでしょう。
石田三成らと並ぶ代表的な豊臣家家臣の1人
0:11: 📚 麻野長は秀吉の一文州であり、豊富政権内でも別格の地位にあったが、関ヶ原の戦いの原因となる対立関係にあった。4:30: ✨ 豊臣政権の重要な実力者であった長崎直轄良化の活躍とその後の小田原抜における役割について説明されています。7:55: 💼 武行州の欧州諸相は武行州ではなく長や前田都市などしか取り付けなかった。11:27: 📜 石田三成の影響力が拡大し、長秀一文州が豊富政権の支配力を上げる一方、長秀一文州の地位は転落していく。15:18: 📝 長森の朝鮮都会計画と密接に関わりながらも、秀事件以降は政権から離れていた長は、三成と共に復帰し、語業と呼ばれるようになりました。Tammy AIで要約できました!ご参考になれば幸いです。
長男浅野幸長が関ヶ原後豊臣一門であるにも関わらず、豊臣秀頼の摂津大坂城の南で接する紀伊和歌山城主となったのは、淺野いたのでせう。幸長の娘は一人は家康の孫松平忠昌(越前家)に、もう一人は尾張家初代德川義直に嫁いでいます。
浅野長政、、せっかく秀吉に臣従して続いたと思われた宇都宮家とのいざこざが原因で改易にさせられたんだよな。。伊達政宗とも絶縁されてるし。あんまり好きじゃない。でも広島の家系の浅野長勲は最後の大名として昭和まで健在だったし、確か浅野家は明治維新までかなり少ない代替わりで済んでるはずで、この点もうまく立ち回ったように感じる。武蔵の浅野長政屋敷跡は行ったことあるけど、今は保育園になっていて見学は出来ません。
水野忠邦も直系の男系子孫の一人なのか?
宇都宮の1件でも伊達との摩擦でも、微妙に黒さを伺わせるエピソード群
幸長と家康は仲が良いと聞いたことがあるですが長政も家康寄りだったんですね。
淀君がボケ始めた秀吉を三成達と利用し寧々の心を豊臣家から遠ざけた時点で勝負あり。秀次が関白のままで忠誠心ある前田、浅野、宇喜多、南部等がそれなりの権威を保っていたら家康もおちおち出てこれなかったのかなと思います。
関白秀次が生き残ったら、秀吉の死後は秀次を担ぎ上げる大名たちと、秀頼を担ぎ上げる吏僚派とそれに与する大名たちとで日本を二分する大合戦になっていただろう。
伊達家の確執で一番有力視されてるのは南部信直との親交だと思いますが、それ以外に伊達家との断交に影響したのは浅野長政自身の実務能力不足だと思いますね元々戦も政務も大した能力のない武将が時勢で不相応な職務につく事はそれほど珍しくないですが、後の動きを見る限りその辺は伊達も徳川も見抜いてたように感じます浅野幸長が武勇に優れてなければ早期に没落していたでしょうね
まあ後に広島藩42万6千石の大封を得たのはすごいな。😮
岩槻は岩付だったのですね。
その岩付(岩槻)城を築いた太田道灌の解説動画を強く希望しま-す。
江戸時代以降、岩付から現在の岩槻に変わったようですね。
春日部も、もともとは「粕壁」だった。
利家とまつで浅野長政が蒲生氏郷を呼び捨てしてたのに「そんな訳ねえだろ」とか思ってたけど浅野の方が本当に立場上だったのかな……?
普通に立場、上ですよ。蒲生は会津に抜擢された実力者ってだけです。政権内でこれから中心にって段階なので。
もし浅野長政の考え通り宇都宮国綱の養子に長重を送り込んでたら宇都宮家は関ケ原まで生き残っていたかな?どのみち子孫がやらかして取り潰されてそうな気もする。
浅野長政…前田利長…加藤清正の立て続けの死去は偶然か…。
こんばんは😊😅😮
浅野長政に絶交された男!とはいえその半分は政宗の言い掛かり
浅井長政公と紛らわしく、さしたる武功もなく。地味な官僚武将という風な浅野長政ですが。コツコツ堅実に誠実に生きて来た我がご先祖様を取り上げて頂きありがとうございます。
どうでもいいけど浅野長政って何で浅井長政と名前被りしそうになってんだか…😞まあ浅野家の家字が『長』だからなんだろうけど、何故に浅井氏と同じ名前にしてんのか理解に苦しむ。
浅野長矩は江戸城にて吉良義央を殺してないのでは?😅
忠臣蔵の浅野は浅野といっても本家筋ではない浅野。
@@DoReMiLightとは言え浅野長政が得た常陸真壁が播州赤穂のルーツです。赤穂浪士の中には常陸や下野由来の武士が少なくありません。
(-⊙ω⊙-)ゞ忠臣蔵の人かあと途中で気づいた
浅野長政といえば朝鮮出兵の軍議の席で天下統一後変貌した秀吉を狐憑きと批判したエピソード。
え?吉良さん城内で浅野さんに?忠臣蔵は?
ミスりました。ご指摘ありがとうございます。
レキショック様よく伊達政宗は長政に絶交を申し出られたと思いました。
この人の子孫が後々やらかす?
17:36 「殺害し」→「切りつけ」の間違いです。
吉良上野介はこの時背中と額を切りつけられていますが、今川氏真の玄孫 品川伊氏に助けられ別室に移されました。
あ、書いてありましたねw
浅野長政って意外な事に徳川家康と碁の趣味と碁のレベルがピッタリで碁を通じてガチな友達だったらしく、長政が亡くなった後ショックで家康が大好きだった碁を辞めるくらい仲が良かったらしい。
どうする家康では家康が「浅野殿にはよく言って聞かせます」と言っていましたが、実際この頃の長政は家康よりある意味上の立場で、家康からしたら東国での影響力を奪ってくる存在です。
家康があの裏で長政失脚に動いていてもおかしくはないです。
でもそれじゃ何故、浅野長政は関ヶ原で東軍についたのかがいまいち不詳でござりまするな…😮
@@用宗東田子の浦-w8pかつての大物が復権のために大老筆頭の家康を頼ったという理解でいいかと思います。(暗殺事件の実態は不明ですが)
三成も同様の理由で奉行引退後は家康に近づいていますが、拠点や息子の所在が長政と三成の運命を分けたという感じですね。
@@用宗東田子の浦-w8p
幸長が三成達との対立を押し出してる以上、西軍入りした自分の勝利=息子の上がり目を潰す(下手すりゃ腹も切らせるかも)になってしまう。
それならいっそのこと徳川の天下取りに命運託した方が潔いという判断になったのでは。
真田みたいに優秀な子が複数人居るなら、わざと兄弟同士で東西に別れてどちらが勝っても生き残る作戦もアリとは思いますけど。
難しいところだけど、自分を失脚させた三成に味方する気は無かっただろう。
今回も新情報満載で、驚きました。浅野長政は名前が浅井長政と似ていて、いつもはっきりしない人物でした。でも、何と秀吉の一門衆で寧々の従兄弟、秀吉の義弟だったんですね!!今回の大河ドラマで突然秀吉に異議を唱えるので、どんな素性の人物だろうと不思議でした。でも秀吉の親類衆で、文武両道の武将であり、秀長、利休と並ぶ豊臣家中の中心人物であれば、納得です。一時は三成をも支配下に置いていたとは、意外でした。そしてもう一つ、彼の三男の曾孫が、あの浅野内匠頭で忠臣蔵で改易になっているんですね!!驚きました。この家系は断絶しても、別の弟の家系が福島正則改易後の広島42万石を持ち、江戸時代終わりまで続いたというのも、立派です。長政は替えの効かない存在であり、家康との折衝にも関わっていたほどなのに、秀次事件に連座して失脚してしまうとは、気の毒です。晩年は何とか政権中枢への復活を果たしても、五奉行の筆頭というかつてとは大きなギャップのある役職となり、最終的には豊臣と別れて生きて行く道を選んだわけですね。政争に巻き込まれ、有能な人物が没落していく過程をなぞるような人生ですね。
小田原の陣でも、秀次事件でも伊達政宗は徳川家康のとりなしで助けられてますね。
これじゃ、政宗が関ヶ原で東軍側になるのは無理もないですね。
しかし振り返ると豊臣政権って脆いよなあ
まあ個人的な求心力という意味では家康も秀吉もどう変わりはないけど
これを2代目以降できちんと政権の骨格を作れたという意味で
やはりこの時代は譜代の家臣がどれだけ存在するかっていうのは大きいんだろう
重要人物ながら、イマイチぱっとしない人なので知識がありませんでした。
凄く勉強になりました。
13:12 石田三成によって能登に配流された幸長はこの事がきっかけで三成を恨み前田利家が亡くなった日の夜に加藤清正、福島正則等と共に三成襲撃するのである。
再来年の大河は豊臣兄弟ですが、浅野長政も義兄弟。どのように扱われるか興味津々です。この動画に刻々と動く情勢の中で北政所との関係を加えて頂ければ面白いかもしれませんね。稲沢住人より。
なんで関ヶ原で浅野が家康についたのか
良く解りました。
幸長の遺恨だけでなく秀次事件も
関係があったのですね。
寧々の態度もおかしいと思っていましたが
実家の浅野家を蔑ろにした秀吉と
秀次失脚の原因となった淀殿がいれば
仕方無い事だったのでしょう。
石田三成らと並ぶ代表的な豊臣家家臣の1人
0:11: 📚 麻野長は秀吉の一文州であり、豊富政権内でも別格の地位にあったが、関ヶ原の戦いの原因となる対立関係にあった。
4:30: ✨ 豊臣政権の重要な実力者であった長崎直轄良化の活躍とその後の小田原抜における役割について説明されています。
7:55: 💼 武行州の欧州諸相は武行州ではなく長や前田都市などしか取り付けなかった。
11:27: 📜 石田三成の影響力が拡大し、長秀一文州が豊富政権の支配力を上げる一方、長秀一文州の地位は転落していく。
15:18: 📝 長森の朝鮮都会計画と密接に関わりながらも、秀事件以降は政権から離れていた長は、三成と共に復帰し、語業と呼ばれるようになりました。
Tammy AIで要約できました!ご参考になれば幸いです。
長男浅野幸長が関ヶ原後豊臣一門であるにも関わらず、豊臣秀頼の摂津大坂城の南で接する紀伊和歌山城主となったのは、淺野いたのでせう。幸長の娘は一人は家康の孫松平忠昌(越前家)に、もう一人は尾張家初代德川義直に嫁いでいます。
浅野長政、、せっかく秀吉に臣従して続いたと思われた宇都宮家とのいざこざが原因で改易にさせられたんだよな。。伊達政宗とも絶縁されてるし。あんまり好きじゃない。でも広島の家系の浅野長勲は最後の大名として昭和まで健在だったし、確か浅野家は明治維新までかなり少ない代替わりで済んでるはずで、この点もうまく立ち回ったように感じる。
武蔵の浅野長政屋敷跡は行ったことあるけど、今は保育園になっていて見学は出来ません。
水野忠邦も直系の男系子孫の一人なのか?
宇都宮の1件でも伊達との摩擦でも、微妙に黒さを伺わせるエピソード群
幸長と家康は仲が良いと聞いたことがあるですが
長政も家康寄りだったんですね。
淀君がボケ始めた秀吉を三成達と利用し寧々の心を豊臣家から遠ざけた時点で勝負あり。秀次が関白のままで忠誠心ある前田、浅野、宇喜多、南部等がそれなりの権威を保っていたら家康もおちおち出てこれなかったのかなと思います。
関白秀次が生き残ったら、秀吉の死後は秀次を担ぎ上げる大名たちと、
秀頼を担ぎ上げる吏僚派とそれに与する大名たちとで日本を二分する大合戦になっていただろう。
伊達家の確執で一番有力視されてるのは南部信直との親交だと思いますが、それ以外に伊達家との断交に影響したのは浅野長政自身の実務能力不足だと思いますね
元々戦も政務も大した能力のない武将が時勢で不相応な職務につく事はそれほど珍しくないですが、後の動きを見る限りその辺は伊達も徳川も見抜いてたように感じます
浅野幸長が武勇に優れてなければ早期に没落していたでしょうね
まあ後に広島藩42万6千石の大封を得たのはすごいな。😮
岩槻は岩付だったのですね。
その岩付(岩槻)城を築いた太田道灌の解説動画を強く希望しま-す。
江戸時代以降、岩付から現在の岩槻に変わったようですね。
春日部も、もともとは「粕壁」だった。
利家とまつで浅野長政が蒲生氏郷を呼び捨てしてたのに「そんな訳ねえだろ」とか思ってたけど浅野の方が本当に立場上だったのかな……?
普通に立場、上ですよ。
蒲生は会津に抜擢された実力者ってだけです。
政権内でこれから中心にって段階なので。
もし浅野長政の考え通り宇都宮国綱の養子に長重を送り込んでたら宇都宮家は関ケ原まで生き残っていたかな?どのみち子孫がやらかして取り潰されてそうな気もする。
浅野長政…前田利長…加藤清正の立て続けの死去は偶然か…。
こんばんは😊😅😮
浅野長政に絶交された男!
とはいえその半分は政宗の言い掛かり
浅井長政公と紛らわしく、さしたる武功もなく。
地味な官僚武将という風な浅野長政ですが。
コツコツ堅実に誠実に生きて来た我がご先祖様を取り上げて頂きありがとうございます。
どうでもいいけど浅野長政って何で浅井長政と名前被りしそうになってんだか…😞
まあ浅野家の家字が『長』だからなんだろうけど、何故に浅井氏と同じ名前にしてんのか理解に苦しむ。
浅野長矩は江戸城にて吉良義央を殺してないのでは?😅
忠臣蔵の浅野は浅野といっても本家筋ではない浅野。
@@DoReMiLightとは言え浅野長政が得た常陸真壁が播州赤穂のルーツです。赤穂浪士の中には常陸や下野由来の武士が少なくありません。
(-⊙ω⊙-)ゞ忠臣蔵の人かあと途中で気づいた
浅野長政といえば朝鮮出兵の軍議の席で天下統一後変貌した秀吉を狐憑きと批判したエピソード。
え?吉良さん城内で浅野さんに?
忠臣蔵は?
ミスりました。ご指摘ありがとうございます。
レキショック様
よく伊達政宗は長政に絶交を申し出られたと思いました。
この人の子孫が後々やらかす?