【ゆっくり解説】家康を悩ませた、問題だらけの家臣5選!!!
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- Опубліковано 7 вер 2024
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歴史は何のために学ぶのか。この疑問を持ったことがある方は少なくないでしょう。仕事では直接使うことはほとんどないですよね。
過去を学ぶことで未来に活かせると私は考えています。教養という意味でも社会で必要な知識でしょう。
先人たちはどのような暮らしでなぜそのような文化が形成されたのか。面白いことばかりです。
こういった考えから、このチャンネルでは社会人の方が、ゆっくり楽しく歴史上の偉人のことを学べ、更に、そこから日常でも役立てられるような動画を作っています。
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ほぼ毎日17時に動画を配信中 にっぽんぽん 運営 山本陽太
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#ゆっくり #ゆっくり日本史 #ゆっくり解説
大久保家は祖父美清康以前から弘忠、元康の岡崎松平の流亡時を支えた股肱中の股肱之臣だけに
後の扱いが酷い。 じゃから彦左衛門もも三河物語で批判している
三河人ですが大賀弥四郎は実際は大岡姓だと云われていますね。名族大岡氏を憚って大賀氏と後世に伝えたとか
中世の大名の家臣団なんかは独立性が高い国衆が多いことを考えると家康は上手く統率した方かな
なんか徳川家康の家臣団としての『三河武士』というと忠義・忠節の塊みたいに言われてるけど、史実だと家康は三河武士の質の悪さと不服従に生涯苦しめられてるんですよね。
そもそも三河という国の守護(大名)は室町幕府の下にあっては一色氏や細川氏であり松平氏ではないんですよね。 幕府の権威が失墜し戦国時代になると三河は今川氏が権力を維持し統治し続けた駿河、守護の没落はあっても織田家の台頭・実効支配によって一応は纏まっていた尾張といった隣国と違って守護の没落後はこれといった有力者が現れず小・中豪族が争う一種の無法地帯となってました。 そんな中武力に優れた家康の祖父松平 清康が力ずくで三河を支配下においた(実際には西三河止まりだったみたいですが)んだけど松平氏による統治を固める前に家臣の裏切りで死亡、元の状況になってしまったんです。 今川義元による三河平定までまともな統治者がいない状況だったんですよね。
で、その今川義元が三河に軍を進める時に使った大義名分が『三河の正当な統治者である松平 広忠(家康の父)を助ける』だったのでその後何となく『三河の正当な統治者は松平家』みたいな空気が出来たんだけど当事者達にしてみると『何であいつが!!』という気分だったみたいです。
なので三河の国人の大半は家康に対してとにかく不服従だったんです。 実際大阪の陣の時なんか真田信繁(幸村)の猛攻の際家康を守るべき三河武士による旗本は家康をほっぽりだして我先に逃げ出してます。 それに絶望した家康が腹を切る寸前だったというのは有名な話です。
本田重次は「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」と日本一短い手紙を送った人物でありますな。
娘婿の親族を助けるために家康に喧嘩売った戦国最強もいましたしね。
結論、三河武士はめんどくさい。
石川数正は裏切ったのではなく、家康を守る為に秀吉側に出奔したという話もあります。徳川と豊臣が戦にならない様に他の家臣には内密に、家康と計っての行動だと。
江戸幕府開いてから数正の子供を徹底的に冷遇し、結局取り潰してますからよほど恨んでたんじゃないかと思いますので、私は違うと思ってます。
@@hirohiro1770 そういえば数正よりその兄の家系の方が優遇されてましたね。もっとも家康は自分の子供にも冷たい人でしたけどね。
@@user-wq1bf8ww2q
ですね、お兄さんの家系はちゃんと後々まで残ってたはず。
概ね家臣は大事にしたようですが、信康や忠輝への仕打ちはかなりアレですよね。
@@hirohiro1770 信康は謀叛なんだからそりゃあ…
石川数正出奔後家康は軍事の改正を武田式に変えたという話がある。
ちなみに後に豊臣秀吉と榊原康政が会見した時に石川数正も同席したという話もあるが康政は数正を無視していたという。
家康の従兄弟の水野勝成は数々の軍功をあげたけど
親子喧嘩の仲裁させられたり、大阪の陣では「将であるから昔のように自ら先頭に立って戦ってはならない」と厳しく命じられていたのに、やってしまい大叱責を受けたらしい
功績も多いが、中々に家康を悩ませた人物だと思う。
本多重次、いや作左衛門というと、未だに長門裕之の顔が…家康も手を焼くほどのやかましさだが、主君を思う気持ちは人一倍強かったように思えた。
誰も聞いたこともない
家臣だた笑