後白河が愛した平家の女性 滋子

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  • Опубліковано 20 гру 2024

КОМЕНТАРІ •

  • @たま-v2e
    @たま-v2e Рік тому +1

    今、オンデマンドで大河ドラマ「平清盛」を観てます。冗談と思われますが、動画の中の白河、鳥羽、後白河天皇、平清盛、平時信、平時子、平滋子が先祖です。勿論一般人ですが、何故先祖と分かるか?は明治の先祖が天皇家と血縁の為、今上天皇の祖先の検索サイトで古代からの家系が分かります。
    ドラマで観る先祖は不思議な感じですが、滋子が素敵な人だったと知り、見習って生きなければと思います。法住寺、厳島神社等ゆかりの地に行こうと思ってます。
    動画有難うございます。😊

  • @とらねこ-v3h
    @とらねこ-v3h 2 роки тому +19

    表舞台には出て来ないけど、上西門院の影響力が凄い。滋子が後白河院に寵愛されなければ皇統譜が変わっただろうし、頼朝助命には彼が直前まで仕えていた上西門院の意向があった可能性が高く、歴史の転換点になっています。

    • @吉田和久
      @吉田和久 11 місяців тому +1

      😊😊😊😊😊😊

  • @とらねこ-v3h
    @とらねこ-v3h 2 роки тому +25

    平時の偉人は知名度低め。それは平和なので物語にならないから。滋子は後白河院と平家が暴走しないように繋ぎ止める重要人物でした。滋子がいなくなったとたんに動乱が始まってしまいます。滋子が長寿だったら歴史が違っていた可能性があります。

  • @おみこ-s9w
    @おみこ-s9w 6 місяців тому

    平家物語を読んでいると天皇制から武家政権への時代の流れのダイナミズムをひしひしと感じます
    かういふいろいろな出来事が集まって大きな転換期へと時が流れてゆくのだなあとお話を伺っていて感じました

  • @shingoyoshikawa7594
    @shingoyoshikawa7594 2 роки тому +8

    後白河天皇の前後、近衛16歳、六条12歳、高倉20歳と短命な天皇が続くわけですが、歴史の闇を感じます(あくまで個人の意見ですw)。

  • @千両一滴
    @千両一滴 2 роки тому +4

    「愛しい愛しい慈〜子チャン」🥰

  • @あさ-y7y
    @あさ-y7y 2 роки тому +2

    滋子ちゃんと丹後局さんは被ってるの?

  • @るりしーさ
    @るりしーさ Рік тому

    時子の母親は、端者(宮中での下働き役)で、滋子の母親はかなりの身分の姫君で、幼少期は遊んだりしたけど、年頃になると、お互いの母親の身分の差からか、あまり交流しなくなり、滋子が宮中に上がり、働くようになった頃には、時子も平家宗家の奥方として、かなりの身分になったから、再び交流し合うようになったとか?

  • @篠原大和-w1y
    @篠原大和-w1y 2 роки тому

    美人の基準、はその時代により多少の違いはあると思います。近い明治で写真の残っている、カミソリと言われた切れ者外交官、陸奥宗光の奥さん、亮子さん。現代にも通ずる美人ですね。そして、シーボルトの孫娘、クオーター美人、アニメ銀河鉄道999のメーテルのモデルで博多美人。初代ミス日本、女優の山本富士子さん、陸奥亮子に似た美人ですね。最近だと誰ですかね?広瀬すず、北川景子、あたりか?でも日本史上の美人とはいえないかもしれません。
    傾国美女、傾城美女、権力者をメロメロして時代を変えてしまった女性。中国では、妲己、貂蝉、楊貴妃、あたりか。日本では秋田美人の小野小町、そして今回の平滋子。個人的には姪にあたる、柴漬け食べた〰️い!の建礼門院。明智光秀の 娘、ガラシャ。信長の妹、お市。色々ごたくをならべたけど、客観的にみて日本史上の美人は、平滋子と細川ガラシャですかね( =^ω^)

  • @torikara25
    @torikara25 2 роки тому +3

    物心付く年になった憲仁親王は、どう思ってたんでしょうね🤔
    日記や物語に、メインキャラ?人々の心情は残されてても、周りの人々の心情は残されてないのが残念です。私が知らないだけかなぁ…💦

    • @kashimashi_rekishi_ch
      @kashimashi_rekishi_ch  2 роки тому +4

      大きくなっても平家の傀儡天皇&上皇でしたからね~。

  • @徳田幸治-v5g
    @徳田幸治-v5g 2 роки тому +6

    熊野詣に33回?1千年以上前に?当時まともな道などなかったんでしょう。輿、使えたのかな?

    • @kashimashi_rekishi_ch
      @kashimashi_rekishi_ch  2 роки тому +13

      道はありましたwww というか、みんなが熊野詣しすぎて道ができた、といったほうがいいかもしれません。

  • @syun7247
    @syun7247 2 роки тому +4

    この世は今も昔も女のものだったのですねえ。

  • @きのきのぴ-c8f
    @きのきのぴ-c8f 2 роки тому +9

    美しさだけでなく、頭脳明晰というのはすごい武器。
    一人の女性に平家の面々が必死にすがりつき上へ上へ登り詰めようとする様子は、芥川龍之介の蜘蛛の糸を想像してしまいました。おどろおどろしくて、いとこわし(笑)
    今日も面白かった~いよいよ鎌倉殿が間近です~大河と平行して、とんでも話し楽しみです♥️

  • @妹尾兼衡
    @妹尾兼衡 2 роки тому +9

    後白河法皇の異母兄と言われる平清盛の父親、平忠盛に育てられた妹尾兼康の子孫です!

    • @kashimashi_rekishi_ch
      @kashimashi_rekishi_ch  2 роки тому +2

      すごい!!! 「鎌倉殿の13人」の倶利伽羅峠の戦いで、出てきますかね?

  • @滝口小次郎
    @滝口小次郎 2 роки тому +3

    清盛は二条親政派だし

  • @MrHibari0505
    @MrHibari0505 2 роки тому +5

    平清盛は 後白河院の息子って聞いたような聞かないような 後白河院が
    自分の子供を妊娠していた女御を 褒美として 清盛の父になる人に与えたと。当時はそういう事があったらしい

    • @kashimashi_rekishi_ch
      @kashimashi_rekishi_ch  2 роки тому +11

      後白河じゃなくて白河院ですね。白河院の寵愛していた祇園女御の妹が清盛の母で、女御の妹が早くに亡くなって、女御が清盛を育てたため、そんな噂が流れた、という説があります。

    • @shingoyoshikawa7594
      @shingoyoshikawa7594 2 роки тому +2

      忠盛「いもが子は 這う程にこそなりにけれ」女御が産んだ子は這う程成長しました
      白河院「ただもりとりてやしなひにせよ」忠盛の子として養え
      と言う連歌による問答が残ってます。