キスカ島撤退の名指揮官木村昌福少将がみせた太平洋戦争末期の輝き!ミンドロ島沖海戦(礼号作戦)をゆっくり解説

Поділитися
Вставка
  • Опубліковано 6 жов 2024
  • 今回は、太平洋戦争末期の1944年12月に起こった、日本海軍最後の組織的戦闘での勝利といわれるミンドロ島沖海戦(礼号作戦)を紹介します。
    1944年10月、フィリピン奪還を開始したアメリカ軍は、レイテ島に続き、ルソン島上陸への準備段階として12月15日、ミンドロ島へ上陸をはじめました。
    ミンドロ島を米軍の航空基地にするわけにいかない日本軍は、敵泊地の輸送船団と飛行場を攻撃するべく礼号作戦を発動します。このとき、第二水雷戦隊を率いてミンドロ島への艦砲射撃を実施したのが、キスカ島撤退作戦の指揮官として知られる木村昌福少将です。
    奇跡と呼ばれたキスカ撤退作戦で示された木村少将の冷静さや判断力は、この作戦でも遺憾なく発揮され、海軍の掉尾を飾る勝利を上げました。
    末期の戦いで見せた日本海軍の数少ない輝きの1つ、ミンドロ島沖海戦とはどのような戦いだったのかを解説していきます。
    ●注意事項
    ・うp主は東方に詳しくないため、魔理沙と霊夢の口調がおかしい場合があります。
    ・個人が収集した資料に基づき製作しているため、内容に誤りが含まれる場合があります。
    ・使用している画像等は特別に注釈のない限り、時期や所属部隊、兵器の型式などを考慮しておらず、動画内容と無関係のものも含まれます。
    ・当チャンネルの動画には、特定の国や組織、個人を貶める意図はありません。
    ●主要参考文献
    「ミンドロ島沖海戦 劣勢の中で輝く水雷戦隊最後の勝利」堀場亙 歴史群像2015年6月号
    「木村昌福とミンドロ島沖海戦」伊吹秀秋 歴史群像1998年8月号
    「太平洋戦争水上戦」元吉隆 イカロス出版 2015年
    「第二水雷戦隊突入す」木俣滋郎 光人社NF文庫 2013年(新装版)
    「ミリタリー人物列伝 木村昌福」 ミリタリー・クラシックスVol.42
    戦史叢書「海軍捷号作戦<2>フィリピン沖海戦」
    「昭和19年11月20日~昭和19年12月30日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)」アジア歴史資料センター C08030102600
    Naval History and Heritage Command「H-040-2: Leyte, Ormoc Bay, and Mindoro」
    www.history.na...
    #ゆっくり解説#戦史解説#太平洋戦争#日本海軍#第二次世界大戦
  • Розваги

КОМЕНТАРІ • 30

  • @無名-o1h1n
    @無名-o1h1n Рік тому +21

    木村閣下が有能すぎる!

  • @ライヘナウヘルマン
    @ライヘナウヘルマン Рік тому +28

    礼号作戦では南西方面艦隊司令長官の大川内中将もルソン島の司令部で木村提督の艦隊突入を援護するため、アメリカ軍にわざと通信を傍受させて、ありもしない輸送船団によるミンドロ島への上陸作戦を演出したりしてアメリカ軍の注意を別方面に向けさせることに成功してる。

  • @sibakuzoe
    @sibakuzoe Рік тому +19

    木村提督の人命重視の信念、冷静な判断による的確な指揮からは今の時代の我々にも学べることが多い。豪傑のようで漢詩や謡曲の心得もあり、部下の意見もよく聞き任せる知勇兼備の隠れた名将ですね。ぜひ伝記を読んでみてもらいたい。きっと魅了されます。

  • @yoshifumiT
    @yoshifumiT Рік тому +20

    キスカ撤退は、木村さんが陸軍の友人と話し合って、大本営に働きかけて実行したものです。形の上では命令されたのですが。

    • @hamasanTuba
      @hamasanTuba 3 місяці тому

      海軍は一水戦の木村昌福少将、陸軍は北方方面の樋口季一郎中将、この二人が揃っていたから成功した作戦でしょうね。
      乗艦の際の小銃投棄は、木村少将の要請を受けた樋口中将が陸軍部隊に命令を出してますから。

  • @hontonokotoiuzo
    @hontonokotoiuzo Рік тому +29

    日本海軍のハンモックナンバーで地位、昇進を決める方針が決定的に間違っていたことを証明する人物ですね。

    • @すかるいれぶん
      @すかるいれぶん Рік тому +5

      ハンモックナンバーというより、日本の組織論自体に問題があるからです。
      海兵の席次が出世に直結する当時、上位の人ほど軍中枢に近づく出世コースに乗るのですが、軍中央に近づくほど組織にがんじがらめになり、マニュアル通りの無難な選択しかできなくなる傾向があります。そのため、柔軟な発想や決断・行動ができなくなります。日本軍人は階級が高まるほど無能になると評されるのはそのためです。
      例えば木村提督と同じく、戦争末期に困難な作戦を成功させた名将と謳われる松田千秋少将は卒業時14位という上位成績でしたが、氏は戦略家としても戦術家としても柔軟な行動力を以て終戦まで活躍されました。
      また、個人的には好きではないのですが、称賛されることの多い山口多聞提督は海兵次席卒業です。これらを観ても、ハンモックナンバー自体はあまり関係ないと感じます。
      以上取り上げた御三方はいずれも佐官~少将時代の活躍が有名ですが、仮に彼らがすでに出世していて中将クラスで開戦していた場合、彼らも同じく無能の烙印を押されていたと思います。

    • @モリユスト
      @モリユスト 4 місяці тому +1

      今でも、自衛隊は防衛大学卒業時の席次で昇進する。旧軍並みの中身だろうな。兵は勇敢、下士官は優秀、将軍は無能。

  • @JB74-oyakata
    @JB74-oyakata Рік тому +14

    木村中将こそが連合艦隊司令官にふさわしい人材だったと思う。ここでは語られていないが、損傷落伍した重巡三隈
    を救助するために、我、機械故障と偽って反転した逸話もある。

    • @DB-eq4hd
      @DB-eq4hd 9 місяців тому

      三隈の件は事実ではないようですね。物語としては秀逸ですが。

    • @JB74-oyakata
      @JB74-oyakata 9 місяців тому +1

      @@DB-eq4hd 艦長達の太平洋戦争という本の中で、艦長経験者の元部下が三隈救済の証言を
      されてるのを読みましたので実話と思ってましたが、そういう説もあるのですね

    • @DB-eq4hd
      @DB-eq4hd 9 місяців тому +1

      すいません。正確な出典を覚えていないのですが、「ミッドウェー戦記」等に三隈艦長崎山大佐は駆逐艦荒潮へ移されたとあります。また同書を初め、荒潮に救助されたとの証言が複数掲載されています。更に証言では6月7日のミッドウェーは雲ひとつない晴天と記載されています。しかし、艦長たちの…には、前田氏の証言以外には何もなく、崎山大佐は熊野艦上で戦死、更には「朝潮の見た艦影は鈴谷ではなかったか。中略しかもこの日は全天曇っていた。そのために方位を間違えた」なる記載があります。米軍撮影の写真からしても当日は好天だったのは間違いないと思います。なお、Wikiの熊野の項に「鈴谷は熊野と分離して単艦で三隈・最上救援にむかった」と回想しているが、確実な証拠はない。との記載がありました。他にもエビデンスを見つけたらお知らせいたします。

    • @澄川弘樹-v6j
      @澄川弘樹-v6j 3 місяці тому +1

      木村さんを何故、レイテ作戦時の第2艦隊の司令長官にしなかったのか?栗田より優れた指揮官です。早めに、中将に任命したら被害も少なくて済んだはず。

    • @JB74-oyakata
      @JB74-oyakata 3 місяці тому

      @@澄川弘樹-v6j 海軍兵学校の成績が下位だったからでしょうね、成績と実戦は確実に違うってことですよね

  • @サテュロスはぽろぽろ涙が止まらない

    様々な作戦を成功に導いたのは冷静さや無理をせずに時期を待つ姿勢が有ったからこそ何でしょうね・・

  • @塩谷一宏
    @塩谷一宏 Рік тому +11

    戦争末期の体勢絶対無理な状況の中でわずかな勝利でもこんな絶望的な状況の中で一矢報い、更にわずかでも勇気を与えた人望ある木村少将こそたとえ結果は変わらなくともレイテで主力の指揮を任せるべきだった。

  • @まさみつ-x7n
    @まさみつ-x7n Рік тому +5

    何時も拝聴・深謝。木村提督のお話しを聞いていて「江田島海軍兵学校の教育について面白く・現在の教育に何が大きく欠けているのか念頭に置いて番組を作って下さい。江田島からは立派な人格形成に利する教育があったと思います。宜しくお願い致します。

  • @jojolyne
    @jojolyne Місяць тому +1

    我が故郷の英雄、木村閣下に敬礼!!

  • @海鮮もんじゃ焼き
    @海鮮もんじゃ焼き Місяць тому +1

    これがイケイケの戦争初期の話ではなく、ヤブレカブレの戦争末期の話であることに木村提督の統率力と仁徳に感服する。

  • @ミックスミッキー-z2g
    @ミックスミッキー-z2g Рік тому +8

    戦艦伊勢と日向もカムラン湾までは出撃している。置いてきぼりされたが。松型駆逐艦'(最大27ノット)は突入しているので戦艦の速度不足が原因ではないと思う。

  • @揺れこそ正義
    @揺れこそ正義 Рік тому +4

    大淀参戦の話を技術本部が聞いたら魚雷発射管をなんとかして付けてやればよかったとか思ったんだろうな。

  • @Jun-ou3nf
    @Jun-ou3nf 8 місяців тому +7

    栗田の代わりに木村昌福少将を据えたら良かったのになー (^^汗

    • @user-xn8xl4xx4e
      @user-xn8xl4xx4e 3 місяці тому

      二人ともレイテ海戦後に、海軍兵学校の校長、教頭。
      木村中将は栗田提督を尊敬してますし。栗田提督は叩き上げの現場指揮官から尊敬されています。
      古村少将は、栗田提督程の と述べてます。
      栗田提督を貶しているのは、中将クラスが亡くなられてから、松田少将など甲卒業が見下してるだけ。

  • @koh631
    @koh631 Рік тому +7

    味方 敵 への 思いやり 大胆さ etc
    令和 の 日本には 存在しない 指導者 … 木村提督

  • @なかとむ-h9k
    @なかとむ-h9k 11 місяців тому +3

    確か清霜を助けにいったときに米魚雷艇群から攻撃受けたんだよね@@  困ってる所に退避を指示していた足柄が命令無視して助けに入るとか泣ける展開が・・

  • @hide8486
    @hide8486 Рік тому +10

    海軍少将には、有能な方が数人居たと思う。中将はな…

    • @フレッチャー-g2q
      @フレッチャー-g2q 11 місяців тому

      福留繁氏は完璧に戦犯だったと思うし、完全に航空機の存在を軽視していた上、戦争末期の特攻も大西さんが言い出したとはいえ、福留氏が音頭を取ったとしか思えない。
      山口多聞さんの生涯を書いた本で読んだが、山口さんと大西さんは喧嘩することがあるとはいえ、お互いの才能を認めてたけど、福留氏は二人と同期だけど滅茶苦茶仲が悪くて、作戦を巡って福留氏が大艦巨砲主義ばかり称賛して航空機のパイロットや空母をボロクソに軽視するような発言をして取っ組み合いの大喧嘩をしたほどだったとか。

  • @モリユスト
    @モリユスト 4 місяці тому

    駆逐艦の樫、カヤとかは大戦末期のしょぼい武装の雑木林と呼ばれた艦だったが、ダメコンができた防御性能が高い生存性が高い艦種だな。

  • @borderhopper-ch3ci
    @borderhopper-ch3ci Місяць тому

    大型台風で、アメリカ軍の駆逐艦3隻が沈没。嵐で近代軍艦が沈んだ、唯一のケース?