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オマケの言葉通り、たとえ2泊の行程でも緊張からの解放、そして、家族と再会できる喜びが車内から溢れていた。そんな光景を想像してしまいます...
@@exp.m.k.2300 さま満州や華北ではソ連からの侵攻、国共内戦という過酷な状態でした。そんな中引き揚げ、南風崎に上陸されたのはある意味安寧の空間だったかもしれませんが、あちこちが被災していたことに戦争の悲惨さを感じたものと思います。そうした方々も含めて戦後の復興に携わったのは感謝ですね。
そんな和気あいあいとした光景なわけないだろ戦争が終わってからも2年も極限状態にいたんだぞ
@@夢待翔太 集まってわいわいしているとは言ってない...
いつもご視聴とコメントありがとうございます。exp.m.k.2300さんの仰る通りで、きっと弾けるような『喜び』ではなく、やっと帰ってこられた、大切な人に会えるという滲み出るような喜びだったのでしょうね。それでも車窓には変わり果てた各地の姿が映っていたでしょうから、複雑な気持ちで乗車していたのでしょうね。復興に携わったすべての人々に感謝ですね。
@@exp.m.k.2300さま引き揚げ列車に乗った時点では家族と再会できるかどうか分からないケースや、さらには空襲や機銃掃射に遭われて行方不明と言うケースもありました。私の祖父は引き揚げて東京に戻ってきてから家族が宮城県に疎開していたことを知ったそうです。
お一人お一人のお気持ちを思うと、このダイヤを見てるだけで涙がでそうになりました。博多、広島、尾道、岡山、大阪、京都、名古屋、静岡、横浜、そして東京。深夜や二日がかりでの故郷着。戦地から生き延びて日本にたどり着けた命。その命を故郷に送り届けて東へと向かった列車だったのでしょうね。
この電車にすら辿り着けなかった多くの御霊を思うと涙😢
人によっては東京から上野へ行き、そこから北への列車に乗った人もいたのでしょうね。
@@baatarismbaatarism9209 さまたしかにそう思います。
復員列車というニュース映像にありました。復員列車が品川に到着すると接続の山手線電車は普段の乗客を降ろした上で引揚者の専用に充てられ、北の故郷を目指して上野に向かったようですね……
@@hisakounosuke2474 そんな対応もあったんですね。乗客たちも引き上げ者のためならと、下車してくれていたのでしょうか。この時代だと山手線であっても列車本数は削減されていたと思うのですが。
この動画に格安航空券のCMは皮肉が過ぎるね
各駅の到着時刻を追っているだけで当時の風景が浮かんでくるようで、涙が出ますね南風崎を深夜に出て、夜が明ける頃車窓に見えるのは朝日に輝く玄界灘。西進して着く広島は見渡す限りの焼け野原とバラックで、真夜中に通過する阪神地区は幾度も大空襲で焼かれて真っ暗。翌朝の名古屋で再び焼け野原の都市を見て、でも晩に東京に着いて降り立ってみれば、敗戦の虚脱の中でも必死に生きようとする人々の息吹を感じる。我が身を捧げて戦った祖国の焼け爛れた姿に復員兵は何を思ったのでしょう。戦後の鉄道運行状況に関する記述は宮脇俊三氏の名著「時刻表昭和史」からでしょうか。同じような文章を読んだ気がします
引き上げてきた人たちは原爆で焼けた広島駅をどんな想いで見たのだろう。
ほとんどの都市が焼け野原だったから広島着く頃には「広島もか😢」だと思う。戦争を生きた祖父が阪神・淡路大震災の神戸を見て「空襲の後と同じ…」って言ってたから。😨
やっと祖国に帰ってきたと思ったらどこもかしこも焼け野原なのきついな
私の祖母は女子挺身隊として16歳のとき神奈川の藤沢で働いていたそうです。終戦後は、地元の秋田まで無蓋車に乗って3泊4日かかったとか。
乗り継ぎの連絡で苦労した感がありますね。
本土決戦で連合軍が湘南海岸に上陸することを想定して藤沢に来られたのかもしれません。秋田まで屋根の無い車両となると9月から10月でも寒さに震えながらの帰郷となったのかも。無事に帰り着けたからこそ皆様の人生があったものと思います。
戦地で頑張られた方々を故郷に無事帰還出来るようと運行された当時の国鉄職員さん、頭が下がりますこんなに細かく降車駅もあって。見るだけで胸がいっぱいになります(祖父はフィリピンで終戦を迎え、日本に何とか帰還しました、どのような経路で戻ってきたかまで聞いておきたかった今更ですが)
いつもご視聴とコメントありがとうございます。乗客のほとんどは疲労困憊だったと思いますが、焼け野原と化した都会の車窓に心を痛めつつも、やっと日本に帰ってこられた喜びを静かにかみしめていたのでしょうね。当時を生きた人たちの話をもっと聞いておけばよかったと私も思います。
豊橋→辰野の飯田線が戦後でも令和でも 6時間40分というのはすげーな
終戦から日本に辿り着くまで2年以上、やっと日本に辿り着いてもまだまだ長い旅路って...車窓には焼け野原が続くという状況をずっと見せられながらな訳だしね。まだまだ辿り着かない状態は今の感覚だと心が折れますね。下車したその後は復興で激務だったと想像がつきますから、改めて戦争をくぐり抜けてきた先人の皆様の精神力の凄さを感じますね。
現在とは名前が異なる駅、路線等武雄→武雄温泉肥前山口→江北佐賀線→廃止瀬高町→瀬高肥前神埼→神埼三田川→吉野ヶ里公園甘木線→甘木鉄道雑餉隈→南福岡筑肥線→博多-姪浜は廃止篠栗線→当時は篠栗が終点勝田線→廃止筑前新宮→福工大前室木線→廃止伊田→田川伊田長門一ノ宮→新下関正明市→長門市宇部西線→小野田線西宇部→宇部宇部→宇部新川阿知須→本由良小郡→新山口三田尻→防府周防富田→新南陽己斐→西広島可部線→当時は布(廃止)が終点備後十日市→三次宇品線→廃止府中町→府中玉島→新倉敷西総社→総社西大寺→東岡山播但線→姫路-飾磨港は廃止高砂線→廃止西ノ宮→西宮神崎→尼崎神足→長岡京湊町→JR難波大原市場→甲賀御油→愛知御津二俣線→天竜浜名湖鉄道堀ノ内→菊川清水港線→廃止袖師→廃止岩淵→富士川鈴川→吉原
いつもご視聴とコメントありがとうございます。一覧になったものを見ると、大変多くの駅名や路線名の変化があったことがわかり、80年の時の流れを感じることができました。ここまでまとめるには大変な時間がかかったと思います。ありがとうございました。
以前の駅名の方がしっくりくるものが多いですね。ああそういえばそういう駅名だったなと。
今回の時刻表の旅は、見ていて胸が詰まる思いでした。祖国のために命をかけて戦った兵士の方々には本当に頭が下がります。どのような思いで終戦直後の日本の景色を見ていたのでしょうかね。
従軍した人達は無事に帰って来れた事と爆撃で変わり果てた故郷の姿に喜びと驚きが入り混じった、何とも言えない思いを抱いたと思います。従軍前は鉄道員だった人や復員後に新たに鉄道の世界に飛び込んだ人達はRTO(GHQ)による上位車両による専用列車の組成命令や乗車優遇。質、量とも戦中より落ちた石炭による復員列車や、買い出し列車の運転。資材統制により遅々として進まない車両や施設の新製や修繕/改造に憤りを覚えつつ、日々遅延や運休は出さぬという思いでそれこそ血の滲む思いで運行されてたと思います。
ハウステンボスの土地が以前何だったかなんて、思いもよりませんでした。
かなり疲れ果てての帰郷になったのではないかと思いますが、各停車駅で出迎える人との再会を喜ぶ光景が浮かんできます。もしこの列車に乗ったことのある人が、まだご存命であれば話を聴きたいくらいです。
素晴らしい作品
佐世保の浦頭に上陸され、様々なチェックの後南風崎からこの列車に乗って山陽線、東海道線を通って東京に向かっていたのですね。車窓から見える焼け野原と化した本土は皆様にどう映ったのでしょう。この引き揚げ列車に乗られた方もほとんどは亡くなっているものと思いますが、引き揚げてこられた方を含めた皆様が戦後の復興、そして住み良い我が国を作り上げたことは素晴らしいものです。私の母親の一家も大連から南風崎、さらに佐賀県の武雄に引き揚げてきましたが、先人たちの記録を後世に伝えていくことは大切なものと思います。つい先日母の姉から引き揚げのことを聞く機会がありました。母、そして母の姉が生きているうちに浦頭の記念館を訪ねたいですね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。疲労感や喪失感の中に、安心感と喜びも共存する複雑な気持ちで乗車していたのでしょうね。実際に乗車した方々の声を実際に聞くことが非常に難しくなっていることが残念でなりません。引き揚げのお話を直接聞ける機会があったのですね。私も祖父母からもっと話を聴くことができればよかったなと思います。九州を訪れた際には、是非記念館に立ち寄りたいと思います。
4年半で1150本ということは、ほぼ毎日運転されていた時期があるということ。終戦後の物資不足のなかでも長崎から東京まで毎日列車を走らせていたのは国鉄の矜恃でしょう
@@pananaq0810 ダイヤのスジを確保するためにGHQとの途方もない交渉をやり切った人たちもいたし、列車を走らせるための機関車、客車、石炭などを確保するために苦労した人たちもいたのでしょう。外地から命からがら帰ってきた人たちを、せめて故郷に帰らせるために、頑張り続けた人たちが、あちこちにいたのでしょうね。
復員は、当時の国家的プロジェクトでしたからね。旧陸軍省と旧海軍省が第一復員省、第二復員省に変わり、その業務を担っていたようです。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。燃料不足や車両不足で各地で列車本数が削減される中、これだけの本数を確保できたのは、国家的プロジェクトであったことはもちろんのこと、多くの方々の努力によって達成できたことなのでしょうね。
@@tomoyankun 東京発早岐行きの臨時普通列車がこれの送り込みのようですね
物資不足も然ることながらGHQとCTSの存在も……
普段何気なく利用してる駅にも引き揚げ列車が停車してたんだなあ。
この列車を想像すると泣けてくる😢
昔、引き揚げてきた駅を探すドラマがありました途中で南風崎駅だと分かる
40時間以上かかるんですか。ただ、そこまで辿り着き道のりの長さからすればたった40時間なんでしょうね。
この列車は全行程が陸路だから機雷の恐怖からは解放されたはず。米軍がばら撒いたものの他、日本軍が設置して敗戦によって管理されなくなって流れ出したものとかカオスな状態。もう少しで日本だというところで機雷に触れたことで沈没した引き揚げ船がある。
いいコメントっすね
いつもご視聴とコメントありがとうございます。引き揚げ者の約1割は何らかの病にかかっていたとの記録もありますから、想像を絶する移動であったことは間違いないのでしょうね。
はじめまして。佐世保市に住むものです。南風崎、浦頭、旧海軍針尾海兵団跡の援護局。祖父も引揚げ、遠縁は軍医見習い後、援護局で医師をしていたりありましたが、それはさておき。お世話になった国鉄OBの方がいて、その方のつてで4人の方に雑誌の取材を受けていただいたことがあります。最年長の方は引揚げ列車を運転士ていた方がいらっしゃいます。某蒸気機関車の雑誌で述べていらっしゃいます。でも、その方も3,4年前にはお亡くなりになり、また、別の方で戦後まもなく早岐機関区に入られた、大変お世話になった方も、昨年9月に鬼籍に入られました。もう、あの頃のお話を訊くことはできません。もっとこちらの鉄道に関する知識があれば、話も深まったと思い、残念で仕方がありません。今のうちに記録を残し、その当時のお話ができたならば録音や書面に書き留めることがとても大切だと思ってしまいました。ありがとうございます。
はじめまして。ご視聴とコメントありがとうございます。当時の大変さを知り、そして未来のために尽力した方々のお話を聴くことができないことが残念です。書面に残しておくことの大切さを実感致します。引き揚げ列車の運転士をしていた方のお話、大変貴重ですね。頂いたコメントを機に様々な資料を探してみようと思います。ありがとうございました。
小さい頃「昔ここ(南風崎駅)から東京行の汽車の出よった」と親から聞いて嘘だと思ってましたその後引揚げ列車の存在を知りましたどんな運行形態だったのかずっと謎でしたが、これを見てスッキリしましたありがとうございました
私のおじいさんは15歳で国鉄入社(当時は鉄道省)、戦争が始まり中国へ渡り、満州鉄道の駅助役を経て佐世保の浦頭港に帰国。おじいさんは滋賀県出身でしたが中国で出会った佐世保出身の祖母と佐世保に暮らすことに。その後国鉄北佐世保駅(現、松浦鉄道)の駅員を勤め1981年に亡くなりました。私が生まれる2年前なのでおじいさんに会うことはありませんでした。こうして見てみると戦争が終わり、故郷へ帰る列車の中の人達の心境は様々だっと思います。歓喜に湧く人もいれば、焼けてなくなった故郷でこれからどうするか、等、このダイヤを経て考えさせられる事が沢山ありますね。興味深い動画ありがとうございます。
こんな旅路を強いられた引き揚げ者を思えば、静岡県内のロングシートで腰が痛いなんて言ってられませんね・・・
沼津からは電機の牽引で急行運転というラストスパートは意外。
急行運転は単に物資不足な上に大減便とはいえ過密ダイヤを乱すからではないかと。
片道42時間ですか…とてつもなく大変な行程だったと思います。でも、寝台車や食堂車がなかろうと、引き揚げてこられた方々にとっては生きて家族の元に帰ってこられた安堵感が勝っていたのかもしれませんね。長崎や広島の惨禍を目の当たりにしながらの帰還の旅、どのような思いだったんでしょうね。それから、途中駅での接続列車にも注目ですね。大阪発呉線経由広島行きにまず驚きましたが、さらには「大阪発福知山線経由敦賀行き」。進行方向逆やろと思っていたら、よく見ると「西舞鶴・小浜線経由」の文字。こんな列車まで走っていたんですね。今じゃほぼ需要は皆無と思われますが、当時は必要とされたんでしょうね。引き揚げ者に思いを馳せつつ、また今よりもはるかに鉄道が重視された時代背景にも思いを馳せながら拝見させて頂きました。
我々の日本🇯🇵の為に辛く大変な思いをされた方々にとって、この列車で故郷を目指し、これから復興に向けて再び御苦労なされた事と思います。現在が在るのはこの時代の人のおかげです。感謝と敬意しかありません!ありがとう御座いました。
加藤登紀子や森繁久弥もこの電車に乗ったんですね
この列車に乗られた方は東京まで43時間半の長旅は疲れたというよりは生きて帰れたという安堵の思いだったのかと思います。途中の広島は原爆投下から2年3ヶ月しか経っていません。降り立った方はどんな思いだったか。
核兵器の恐ろしさ、そして未だ復興しない広島を見て呆然とされていたことと思います。それから80年たっても世界各地で戦争は無くなりませんね。内外の方々に広島と長崎、そして浦頭を見学し、平和の尊さを知っていただければと思います。それを考えるとやはり広島と長崎を直結する新幹線は必要ではないかと考えてしまいます。
通信が発達していない時代、この列車内ではまだ故郷のご家族がご健在か否かわからないままの方々が多かったかも知れませんね…。こんな観点からも皆様のつらさが垣間見えます。
南風崎駅(はえのさき)はハウステンボスの隣駅になりますね。しかし出発時間が終電後と言う乗客有効時間外と言うのが凄いですね。因みに南風崎は民間人がメインで軍人の帰還港は舞鶴だったそうです(シベリアに抑留された人等)。
この当時、ハウステンボス駅はなかったので南風崎まで歩いたようです。
シベリアに連行された方は舞鶴でしたね。こちらは収容所に何年も抑留、さらには強制労働で命を落とされた方も少なくありませんでした。
新潟県民のせいか、引き揚げと言うと舞鶴港が思い浮かびますな。いかりや長介さんがドリフのコントのなかで「舞鶴港に大陸から引き揚げてくるんだ!」といったセリフがあったのを思い出しました。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。この時代は夜行列車も少なく、最終列車の時間も大変早い状況でした。それでも時刻表上は毎日3本の設定があり、深夜に出発させているところに、引揚列車をなんとかして走らせようとした熱意が伝わってきます。
祖父母が体験した激動の昭和の国鉄に昭和晩年から平成令和のJR。時刻表は奥が深い…まだ電車とは言わず[汽車]という祖父母です。
ハウステンボスは東京から3回ほど行ったことがあり、南風崎駅は大村線の成り立ちから歴史のある駅であることは察していましたが、大変な歴史を背負った駅なのですね。引揚記念館資料館など再訪しなければと思いました。
当時から大きな駅ではなかったはずなので、列車待ちの混雑ぶりが想像できます。
電気機関車での牽引は関門トンネルと東海道本線の沼津~東京間だけですね。三等車だけで時間がかかるとは言っても命が保証された状態で列車に乗れることの方が大きかったと思います。この列車の終点は東京ですが、無料で交付された引揚乗車証に書かれた駅に到着した時、初めて故郷に帰ってきたと実感したことでしょう。
佐世保は米軍に摂取され、仕方なく早岐近くの港に引き上げ船が着き、南風崎から引き上げ列車が運転されたとのこと。今ではハウステンボスがある辺りです。JR九州は20年くらい前に「懐かしの南風崎ツアー」をやり、当時を知る人らが参加したとの事です。
この時すでに柳井港駅があったのですね。後々できる防予汽船がその路線を引き継ぐことになる、大陽汽船なる会社(残念ながらネット上では詳細が不明…)の船が、既にそこから松山の三津へ当時の人々を運んでいた…?自分の住む愛媛はじめ四国を故郷とする方々は、いったいどのような道筋で故郷を目指されたのか、想像しながら拝見しました。
しかし、博多で翌朝、京都でさらに翌翌朝、東京はその夕方と長丁場ですね。それでも引き上げ船と比べれば快適であったのでしょうけど。
@@nori-tabi さま引き揚げ船は横になるのがやっとというくらいのものだったようです。さらには本土でも一つのボックス席に6人ずつ。それでも南風崎の時点では立つ人が多かったものと思います。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。引き揚げ船も引き揚げ列車もどちらも快適な移動とは到底言えない状況ですね。それでも目的地まで移動できるということだけで、ありがたかったのでしょうね。
時刻表を見るに限り、短距離でメインに繋げる戦略ですな。
乗り換え先路線の所要時間が軒並み現代よりも遅い中、豊橋~辰野間の時間が殆ど変わっていない飯田線
当時は多くの列車が蒸気機関車牽引の「汽車」で、後年電車や気動車になって速くなったと思いますが、飯田線は当時も電化されており「電車」であったことが、時間が変わらない理由のひとつではないでしょうか。
これをみてアジア歴史資料センターで当時の南方・北方・満洲中華方面の引揚船や鉄道の手配に向けての会議報告?や情勢の確認や注意事項などがみられたのですが、字は所々薄いし旧字体だしカタカナで書いてあるしで読むのが難しかった、また今度にしよう……。
お疲れ様でした。
静岡から先、特に丹那トンネルを抜けてからは、熱海の次は小田原、そしてその次は横浜。各停なのに特急並みの停車駅。早く帰り着きたい、そういう気持ちが表れたダイヤに見えました。
小田原の次は大船でしたね。小田原~東京はこの時代であれ近郊列車の本数が多かったことから通過としていたのでしょう。東京に近くなると引き揚げ者だけではなく東海道線を行く一般の方々の乗車も多かったことと思います。
都市部に帰還する人が見るのは、見慣れた景色……ではなかったでしょう。栄えていた街並みが焼け野原となり、バラックが立ち並ぶ光景を目にしたことかと思います。
東京行き2本、上野行きが1本運転されていたそうです。上野行きは東北方面への引き揚げ者の利便を考慮した行先だったのでしょう。上野行きの時刻もアップお願いいたします。
皆様、ご苦労様です。この船は日本の船です。引き上げ船ですはこのアナウンスの後,田端義夫さんのかえり船という曲が流れ,みんな泣いたんだよ。シベリアから引き上げてきた祖父が話していました。九州からの長い道のり,乗車していた人はどんな想いで過ごしていたのでしょうか。
南風崎(はえのさき)って言うんや…最初南宮崎に見えてしまった
10:42 新大阪駅は17年後に設置
ということは17年で新幹線を開業させるまで発展したんですね…
@@六角ベンゼン 17年で蒸気機関車から夢の超特急に変わる 進化の歴史はすごい
自分の曾祖父さんが樺太の敷香という町で産まれたそうですじいちゃんが戦前に鉄路と船を通って1度行ったことがあると言っていました。何回か話を聞きましたが数年前に亡くなり最早当時を知る術も無いので調べられるようでしたら動画にしていただけると有難いです
おそらく本州からだと青森の方から船で函館、そこから宗谷本線などで稚内、そこから船で樺太に渡った後は豊原(現ユジノサハリンスク)から樺太東線で確か終点が上敷香でしたのでそこの一駅前に敷香駅があったのでそういうルートではないかと
0:22 ハウステンボス駅は45年後に開業
地図で調べると、この列車が運用されていた後に開業した駅が意外と多いです。
気が遠くなるような所要時間ですね。車窓からみた景色はどうだったろう。米軍によって焼き尽くされた荒涼とした景色でしたか??それとも焼き尽くされた中にも希望が芽吹く景色でしたか??
当時の映像を観てみると、1946年頃に運転された引き揚げ列車の乗客は疲れ切った表情をしている人が多い一方で、本土で終戦を迎えた人々からは蔑ろにされていたそうです。その状況を見かねたとある東京の学生たちが品川駅の東海道線ホーム(現在の7・8番線?)に集まり、東京以遠に乗り継ぐ引上げ客の荷物持ちや案内、労いをボランティアで行っていました。翌年になると、駅構内の案内放送が当時のNHKアナウンサーの指導の下で改良され、引き揚げ列車に対する評価も変わっていきました。また、次第に引き揚げ列車単体での運転は少なくなり、一般列車の一部を引上げ客の団体で貸し切るという形態になったようです。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。1946年には焼け野原の中で羽根つきをする子供もみかけられるようになったようです。きっと少しずつ活気が戻っていく途中であったのでしょうね。ボランティアの話や案内放送のお話は初めて知りました。大変心を打たれるエピソードですね。
ここまでたどり着く苦労に比べたら、長い乗車時間なんて・・・。長崎出身なのに、このことはあまり知られていない・・・。今度帰省したら、南風崎行ってみようと思います。
日本の土を踏んでから2日目の日没後にようやく東京に到着できた。
引揚援護局の事務所が現在のハウステンボスの敷地内にあり、その最寄り駅が南風崎駅だったということなのね。始発駅である『南風崎(はえのさき)』は難読なので読みを併記してくださるとありがたかったです。ちなみに現在でも、この区間を普通列車で乗り通すと30時間くらいかかります。また、門司と下関の間において連絡船乗船の滞留が発生せず、米軍によって撒かれた機雷に脅えることなく関門海峡を通過できたことは関門トンネルの偉大さを感じさせます。南風崎発 ⇒ 早岐で佐世保線 ⇒ 肥前山口で長崎本線 ⇒ 鳥栖で鹿児島本線 ⇒ 門司で山陽本線 ⇒ (門司と下関間をトンネルにより関門海峡を通過) ⇒ 神戸で東海道本線 ⇒ 東京着
引き揚げ列車の過酷な旅、そして超満員であることを想像すると恐ろしい旅程だ。トイレや食事なども苦労したに違いない。
ロシア鉄道でも運行されるなら、ぜひ乗ってみたいです。なかなか体験できない貴重な体験ですし。
深夜や未明に関西(姫路〜京都)到着か😮急病に罹った時、厄介やな😖医院(大学病院ではなく開業医)がやっていない時間帯なので。実際、引き揚げ途中に命を落とす人も少なくなかった(特に乳幼児👶)。日中に南風崎発車の引き揚げ列車でも、夜に関西に着く。また夕方に、広島や横川(当時の広島の隣駅。当然、新白島は未開業)に到着。原爆の惨禍残る町に夕暮れとあって、寂寥感を多くの人が感じたに違いない😔
今はただの小さな駅の南風崎が歴史を担っていた時代があったんですね😮ハウステンボスもちょっと見方が変わりました😅故郷に帰る人でごった返す様子が伺えます😊
今と駅名が違うケースがありますね堀ノ内とか大原市場とか、何や?って思ってググっちゃいました
今と駅名が違う駅ですが、少し前にコメントにまとめて書かせていただきました。
1コメかの噂の復員引き上げ列車ですか。そりゃ戦争の傷だらけになってボロボロで帰ってきたもんだ・・・南風崎(はえのさき)ということは、筑肥線からそれぞれの目的地に散っていくのか。
大村線→佐世保線→長崎本線ですね。本州から大陸に渡った方にとっては初めての関門トンネルという方も多かったことと思います。変わり果てた都市の姿を見て呆然とされた方も多かったこととは思いますが、祖国の建て直しに尽力された皆様にも感謝です。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。また、1番にコメントいただきありがとうございます。道中の変わり果てた各地の姿に驚いたでしょうね。悲しむ方も多かったと思いますが、同時に復興していくために決意を固くした人もいたのでしょうね。
実家の最寄りにも停車してたんだなあ
細かいですが三島通過に驚きました。伊豆箱根鉄道との乗換優先度は低く沼津で降りろってことだったのかな。新幹線駅ができて三島の相対的地位が上がるのはまだ先のことなのかもですね。
2:52 スペースワールド駅は52年後に設置
早く東京方面に行きたい方は門司で急行に乗り換える方もいたでしょうね。
13:23 金山駅は15年後に設置
筑豊本線の若松→篠栗は間違っていますね。篠栗線はまだ開通しておらず、筑豊本線は冷水峠を経由して原田に抜けるルートでした。(25パーミルという急勾配区間ゆえ補助機関車を必要としていた)ちなみに、冷水峠を貫く冷水トンネルは日本初の長尺レールを採用した区間で、その技術は後の関門トンネルに活かされました。(マンガン鋼レールのため、特に戦後の混乱期には摩耗がひどかったようです)
篠栗線は当時は吉塚から篠栗までで、篠栗から桂川までは未開業(1968年開業)でした。
動画作成どうもお疲れ様です。当時の様子を、より詳しく表現できるよう乗換案内を国鉄だけでなく、私鉄も加えて頂けたらと思います。復員された方々の輸送の一役を担った、今はなき少私鉄にもスポットライトを当てて頂けたら嬉しいです。
この列車の本来の目的は東京への上り一方通行ですが、列車運行上はそうも行かなくて下り列車で回送する必要があり、それが臨時普通列車の東京発早岐行でした。おそらく早岐客貨車区所属の車両で、早岐区で整備点検又は車両交換の後に南風崎へ回送していたと思われます。早岐客貨車区と言えば特急「日本海」の運用を担当して、遥か青森駅までを守備範囲に入れた事もある長距離運用で有名な車両基地なのが趣味的に面白い所です。あと、宮脇俊三氏の著書にありましたが、東京で早岐と言われても一般人にはピン!とくるハズもなく「この汽車は本当に大阪へ行きますか?」と不安な気持ちになってたみたい。
東京からの列車だと、この頃の設定では、この方面はたいてい長崎が到着駅ですからね。関東で行き先が『早岐(はいき)』と言われてもピンとこない人がいるのもうなづけます。
@@akirakajiwara9478 さん佐世保は横須賀・呉と並ぶ重要軍港ですから、この方面だと佐世保行もメジャーですね。ちなみに早岐は佐世保まであと3駅で南風崎は隣駅(当時)です。
そうですね、字面だけなら岐阜県のどこか?みたいなイメージありますよねw
山陽本線内…長門一宮、周防冨田、三田尻、己斐、玉島、西大寺?小郡→新山口は知ってるけど
長門一ノ宮→新下関周防富田→新南陽三田尻→防府己斐→西広島玉島→新倉敷西大寺→東岡山です。
こういう長距離列車は現代式でも空席管理が面倒くさそう
機関車は何回も替わったのでしょうね。
深夜帯以外はほぼ各停ですね。そうすると、この列車に乗って深夜帯の駅に引き揚げた人達は、途中の駅で降りて1泊だったのでしょうか?また、この列車は南風崎駅発車時が最も混んでいて、その後徐々に空いていったのでしょうか?
深夜の駅に到着された方→朝まで駅の待合室で待つか野宿だったのでしょう。今と違い、幹線は一日中列車が行き交っており、係の方が常駐していたことと思います。
自己レスです。本来なら、遠近分離し、例えば九州内のみとか、大阪止まりとか区間運転の列車も用意した方が効率的なのでしょうが、このころは物資が限られていたため、そこまで考えられなかったのでしょうね。
切符はどうしてたんでしょうか。引揚者の中にはお金がない方もいたと思うんですが、そういう方はどうしてたんでしょうね。
引揚者用に無償の引揚乗車証が交付されます。乗車証に引揚者の最終目的地の駅を記入してもらいます。この列車の終点東京が下車駅とは限りませんよ。
@@radiotanpa そうなんですね。教えていただきありがとうございます。
新橋東京間が13分!
深夜関西通過は意図を感じます
3本の引き揚げ列車があり、東京に深夜に着かないようにするためにこのような時間設定にしていたのではないでしょうか。列車は降車駅ごとの割り当て制だったものと思います。東京行きの中には大阪に夜に着く設定のものもありました(乗車券は引き揚げの収容施設で着駅までの片道切符が支給されたそうです。)
南風ことを(はえ)と呼ぶのも不思議、はえ=蠅、南風(はえ)
可部線の接続列車が違うと思いますが…
横浜の次が品川、川崎駅がないのはなぜでしょう。川崎駅は日本の鉄道の開業時から存在していたと思うのですが。
横須賀線の停車駅で東海道線は通過でした。1980年のMS分離前東海道線東京→新橋→品川→【川崎は一部の列車停車、基本的に通過】→横浜→大船→小田原方面横須賀線【東海道線と共用】東京→新橋→品川→川崎→横浜→保土ヶ谷→戸塚→大船→久里浜方面⭐東戸塚駅はまだありません現在の横須賀線停車駅東京→新橋→品川→西大井→武蔵小杉→新川崎→横浜→保土ヶ谷→東戸塚→戸塚→大船→久里浜方面
どちらかというと上野行きを扱ってほしかった。もちろん上野での接続列車も。
この列車は、乗ったことはある?
結果 1150本ですか?はいかいいえか?正解は、コメント欄で!
オマケの言葉通り、たとえ2泊の行程でも緊張からの解放、そして、家族と再会できる喜びが車内から溢れていた。そんな光景を想像してしまいます...
@@exp.m.k.2300 さま
満州や華北ではソ連からの侵攻、国共内戦という過酷な状態でした。
そんな中引き揚げ、南風崎に上陸されたのはある意味安寧の空間だったかもしれませんが、あちこちが被災していたことに戦争の悲惨さを感じたものと思います。
そうした方々も含めて戦後の復興に携わったのは感謝ですね。
そんな和気あいあいとした光景なわけないだろ戦争が終わってからも2年も極限状態にいたんだぞ
@@夢待翔太
集まってわいわいしているとは言ってない...
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
exp.m.k.2300さんの仰る通りで、きっと弾けるような『喜び』ではなく、やっと帰ってこられた、大切な人に会えるという滲み出るような喜びだったのでしょうね。それでも車窓には変わり果てた各地の姿が映っていたでしょうから、複雑な気持ちで乗車していたのでしょうね。
復興に携わったすべての人々に感謝ですね。
@@exp.m.k.2300さま
引き揚げ列車に乗った時点では家族と再会できるかどうか分からないケースや、さらには空襲や機銃掃射に遭われて行方不明と言うケースもありました。
私の祖父は引き揚げて東京に戻ってきてから家族が宮城県に疎開していたことを知ったそうです。
お一人お一人のお気持ちを思うと、このダイヤを見てるだけで涙がでそうになりました。博多、広島、尾道、岡山、大阪、京都、名古屋、静岡、横浜、そして東京。深夜や二日がかりでの故郷着。戦地から生き延びて日本にたどり着けた命。その命を故郷に送り届けて東へと向かった列車だったのでしょうね。
この電車にすら辿り着けなかった多くの御霊を思うと涙😢
人によっては東京から上野へ行き、そこから北への列車に乗った人もいたのでしょうね。
@@baatarismbaatarism9209 さま
たしかにそう思います。
復員列車というニュース映像にありました。
復員列車が品川に到着すると接続の山手線電車は普段の乗客を降ろした上で引揚者の専用に充てられ、北の故郷を目指して上野に向かったようですね……
@@hisakounosuke2474 そんな対応もあったんですね。乗客たちも引き上げ者のためならと、下車してくれていたのでしょうか。この時代だと山手線であっても列車本数は削減されていたと思うのですが。
この動画に格安航空券のCMは皮肉が過ぎるね
各駅の到着時刻を追っているだけで当時の風景が浮かんでくるようで、涙が出ますね
南風崎を深夜に出て、夜が明ける頃車窓に見えるのは朝日に輝く玄界灘。西進して着く広島は見渡す限りの焼け野原とバラックで、真夜中に通過する阪神地区は幾度も大空襲で焼かれて真っ暗。翌朝の名古屋で再び焼け野原の都市を見て、でも晩に東京に着いて降り立ってみれば、敗戦の虚脱の中でも必死に生きようとする人々の息吹を感じる。我が身を捧げて戦った祖国の焼け爛れた姿に復員兵は何を思ったのでしょう。
戦後の鉄道運行状況に関する記述は宮脇俊三氏の名著「時刻表昭和史」からでしょうか。同じような文章を読んだ気がします
引き上げてきた人たちは原爆で焼けた広島駅をどんな想いで見たのだろう。
ほとんどの都市が焼け野原だったから広島着く頃には「広島もか😢」だと思う。戦争を生きた祖父が阪神・淡路大震災の神戸を見て「空襲の後と同じ…」って言ってたから。😨
やっと祖国に帰ってきたと思ったらどこもかしこも焼け野原なのきついな
私の祖母は女子挺身隊として16歳のとき神奈川の藤沢で働いていたそうです。
終戦後は、地元の秋田まで無蓋車に乗って3泊4日かかったとか。
乗り継ぎの連絡で苦労した感がありますね。
本土決戦で連合軍が湘南海岸に上陸することを想定して藤沢に来られたのかもしれません。
秋田まで屋根の無い車両となると9月から10月でも寒さに震えながらの帰郷となったのかも。
無事に帰り着けたからこそ皆様の人生があったものと思います。
戦地で頑張られた方々を故郷に無事帰還出来るようと運行された当時の国鉄職員さん、頭が下がります
こんなに細かく降車駅もあって。
見るだけで胸がいっぱいになります
(祖父はフィリピンで終戦を迎え、日本に何とか帰還しました、どのような経路で戻ってきたかまで聞いておきたかった今更ですが)
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
乗客のほとんどは疲労困憊だったと思いますが、焼け野原と化した都会の車窓に心を痛めつつも、やっと日本に帰ってこられた喜びを静かにかみしめていたのでしょうね。
当時を生きた人たちの話をもっと聞いておけばよかったと私も思います。
豊橋→辰野の飯田線が
戦後でも令和でも 6時間40分というのはすげーな
終戦から日本に辿り着くまで2年以上、
やっと日本に辿り着いてもまだまだ長い旅路って...
車窓には焼け野原が続くという状況をずっと見せられながらな訳だしね。
まだまだ辿り着かない状態は今の感覚だと心が折れますね。
下車したその後は復興で激務だったと想像がつきますから、
改めて戦争をくぐり抜けてきた先人の皆様の精神力の凄さを感じますね。
現在とは名前が異なる駅、路線等
武雄→武雄温泉
肥前山口→江北
佐賀線→廃止
瀬高町→瀬高
肥前神埼→神埼
三田川→吉野ヶ里公園
甘木線→甘木鉄道
雑餉隈→南福岡
筑肥線→博多-姪浜は廃止
篠栗線→当時は篠栗が終点
勝田線→廃止
筑前新宮→福工大前
室木線→廃止
伊田→田川伊田
長門一ノ宮→新下関
正明市→長門市
宇部西線→小野田線
西宇部→宇部
宇部→宇部新川
阿知須→本由良
小郡→新山口
三田尻→防府
周防富田→新南陽
己斐→西広島
可部線→当時は布(廃止)が終点
備後十日市→三次
宇品線→廃止
府中町→府中
玉島→新倉敷
西総社→総社
西大寺→東岡山
播但線→姫路-飾磨港は廃止
高砂線→廃止
西ノ宮→西宮
神崎→尼崎
神足→長岡京
湊町→JR難波
大原市場→甲賀
御油→愛知御津
二俣線→天竜浜名湖鉄道
堀ノ内→菊川
清水港線→廃止
袖師→廃止
岩淵→富士川
鈴川→吉原
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
一覧になったものを見ると、大変多くの駅名や路線名の変化があったことがわかり、80年の時の流れを感じることができました。
ここまでまとめるには大変な時間がかかったと思います。ありがとうございました。
以前の駅名の方がしっくりくるものが多いですね。ああそういえばそういう駅名だったなと。
今回の時刻表の旅は、見ていて胸が詰まる思いでした。
祖国のために命をかけて戦った兵士の方々には本当に頭が下がります。
どのような思いで終戦直後の日本の景色を見ていたのでしょうかね。
従軍した人達は無事に帰って来れた事と爆撃で変わり果てた故郷の姿に
喜びと驚きが入り混じった、何とも言えない思いを抱いたと思います。
従軍前は鉄道員だった人や復員後に新たに鉄道の世界に飛び込んだ人達は
RTO(GHQ)による上位車両による専用列車の組成命令や乗車優遇。
質、量とも戦中より落ちた石炭による復員列車や、買い出し列車の運転。
資材統制により遅々として進まない車両や施設の新製や修繕/改造に
憤りを覚えつつ、日々遅延や運休は出さぬという思いでそれこそ血の滲む
思いで運行されてたと思います。
ハウステンボスの土地が以前何だったかなんて、思いもよりませんでした。
かなり疲れ果てての帰郷になったのではないかと思いますが、各停車駅で出迎える人との再会を喜ぶ光景が浮かんできます。
もしこの列車に乗ったことのある人が、まだご存命であれば話を聴きたいくらいです。
素晴らしい作品
佐世保の浦頭に上陸され、様々なチェックの後南風崎からこの列車に乗って山陽線、東海道線を通って東京に向かっていたのですね。車窓から見える焼け野原と化した本土は皆様にどう映ったのでしょう。
この引き揚げ列車に乗られた方もほとんどは亡くなっているものと思いますが、引き揚げてこられた方を含めた皆様が戦後の復興、そして住み良い我が国を作り上げたことは素晴らしいものです。
私の母親の一家も大連から南風崎、さらに佐賀県の武雄に引き揚げてきましたが、先人たちの記録を後世に伝えていくことは大切なものと思います。
つい先日母の姉から引き揚げのことを聞く機会がありました。母、そして母の姉が生きているうちに浦頭の記念館を訪ねたいですね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
疲労感や喪失感の中に、安心感と喜びも共存する複雑な気持ちで乗車していたのでしょうね。実際に乗車した方々の声を実際に聞くことが非常に難しくなっていることが残念でなりません。
引き揚げのお話を直接聞ける機会があったのですね。私も祖父母からもっと話を聴くことができればよかったなと思います。
九州を訪れた際には、是非記念館に立ち寄りたいと思います。
4年半で1150本ということは、ほぼ毎日運転されていた時期があるということ。終戦後の物資不足のなかでも長崎から東京まで毎日列車を走らせていたのは国鉄の矜恃でしょう
@@pananaq0810 ダイヤのスジを確保するためにGHQとの途方もない交渉をやり切った人たちもいたし、列車を走らせるための機関車、客車、石炭などを確保するために苦労した人たちもいたのでしょう。
外地から命からがら帰ってきた人たちを、せめて故郷に帰らせるために、頑張り続けた人たちが、あちこちにいたのでしょうね。
復員は、当時の国家的プロジェクトでしたからね。旧陸軍省と旧海軍省が第一復員省、第二復員省に変わり、その業務を担っていたようです。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
燃料不足や車両不足で各地で列車本数が削減される中、これだけの本数を確保できたのは、国家的プロジェクトであったことはもちろんのこと、多くの方々の努力によって達成できたことなのでしょうね。
@@tomoyankun
東京発早岐行きの臨時普通列車がこれの送り込みのようですね
物資不足も然ることながら
GHQとCTSの存在も……
普段何気なく利用してる駅にも引き揚げ列車が停車してたんだなあ。
この列車を想像すると泣けてくる😢
昔、引き揚げてきた駅を探すドラマがありました
途中で南風崎駅だと分かる
40時間以上かかるんですか。ただ、そこまで辿り着き道のりの長さからすればたった40時間なんでしょうね。
この列車は全行程が陸路だから機雷の恐怖からは解放されたはず。
米軍がばら撒いたものの他、日本軍が設置して敗戦によって管理されなくなって流れ出したものとかカオスな状態。
もう少しで日本だというところで機雷に触れたことで沈没した引き揚げ船がある。
いいコメントっすね
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
引き揚げ者の約1割は何らかの病にかかっていたとの記録もありますから、想像を絶する移動であったことは間違いないのでしょうね。
はじめまして。佐世保市に住むものです。南風崎、浦頭、旧海軍針尾海兵団跡の援護局。祖父も引揚げ、遠縁は軍医見習い後、援護局で医師をしていたりありましたが、それはさておき。
お世話になった国鉄OBの方がいて、その方のつてで4人の方に雑誌の取材を受けていただいたことがあります。最年長の方は引揚げ列車を運転士ていた方がいらっしゃいます。某蒸気機関車の雑誌で述べていらっしゃいます。
でも、その方も3,4年前にはお亡くなりになり、また、別の方で戦後まもなく早岐機関区に入られた、大変お世話になった方も、昨年9月に鬼籍に入られました。
もう、あの頃のお話を訊くことはできません。もっとこちらの鉄道に関する知識があれば、話も深まったと思い、残念で仕方がありません。
今のうちに記録を残し、その当時のお話ができたならば録音や書面に書き留めることがとても大切だと思ってしまいました。
ありがとうございます。
はじめまして。
ご視聴とコメントありがとうございます。
当時の大変さを知り、そして未来のために尽力した方々のお話を聴くことができないことが残念です。書面に残しておくことの大切さを実感致します。
引き揚げ列車の運転士をしていた方のお話、大変貴重ですね。
頂いたコメントを機に様々な資料を探してみようと思います。
ありがとうございました。
小さい頃「昔ここ(南風崎駅)から東京行の汽車の出よった」と親から聞いて嘘だと思ってました
その後引揚げ列車の存在を知りました
どんな運行形態だったのかずっと謎でしたが、これを見てスッキリしました
ありがとうございました
私のおじいさんは15歳で国鉄入社(当時は鉄道省)、戦争が始まり中国へ渡り、満州鉄道の駅助役を経て佐世保の浦頭港に帰国。
おじいさんは滋賀県出身でしたが中国で出会った佐世保出身の祖母と佐世保に暮らすことに。その後国鉄北佐世保駅(現、松浦鉄道)の駅員を勤め1981年に亡くなりました。
私が生まれる2年前なのでおじいさんに会うことはありませんでした。
こうして見てみると戦争が終わり、故郷へ帰る列車の中の人達の心境は様々だっと思います。
歓喜に湧く人もいれば、焼けてなくなった故郷でこれからどうするか、等、このダイヤを経て考えさせられる事が沢山ありますね。
興味深い動画ありがとうございます。
こんな旅路を強いられた引き揚げ者を思えば、静岡県内のロングシートで腰が痛いなんて言ってられませんね・・・
沼津からは電機の牽引で急行運転というラストスパートは意外。
急行運転は単に物資不足な上に大減便とはいえ過密ダイヤを乱すからではないかと。
片道42時間ですか…とてつもなく大変な行程だったと思います。
でも、寝台車や食堂車がなかろうと、引き揚げてこられた方々にとっては生きて家族の元に帰ってこられた安堵感が勝っていたのかもしれませんね。長崎や広島の惨禍を目の当たりにしながらの帰還の旅、どのような思いだったんでしょうね。
それから、途中駅での接続列車にも注目ですね。大阪発呉線経由広島行きにまず驚きましたが、さらには「大阪発福知山線経由敦賀行き」。進行方向逆やろと思っていたら、よく見ると「西舞鶴・小浜線経由」の文字。こんな列車まで走っていたんですね。今じゃほぼ需要は皆無と思われますが、当時は必要とされたんでしょうね。
引き揚げ者に思いを馳せつつ、また今よりもはるかに鉄道が重視された時代背景にも思いを馳せながら拝見させて頂きました。
我々の日本🇯🇵の為に辛く大変な思いをされた方々にとって、この列車で故郷を目指し、これから復興に向けて再び御苦労なされた事と思います。現在が在るのはこの時代の人のおかげです。感謝と敬意しかありません!ありがとう御座いました。
加藤登紀子や森繁久弥もこの電車に乗ったんですね
この列車に乗られた方は東京まで43時間半の長旅は疲れたというよりは生きて帰れたという安堵の思いだったのかと思います。途中の広島は原爆投下から2年3ヶ月しか経っていません。降り立った方はどんな思いだったか。
核兵器の恐ろしさ、そして未だ復興しない広島を見て呆然とされていたことと思います。
それから80年たっても世界各地で戦争は無くなりませんね。
内外の方々に広島と長崎、そして浦頭を見学し、平和の尊さを知っていただければと思います。
それを考えるとやはり広島と長崎を直結する新幹線は必要ではないかと考えてしまいます。
通信が発達していない時代、この列車内ではまだ故郷のご家族がご健在か否かわからないままの方々が多かったかも知れませんね…。
こんな観点からも皆様のつらさが垣間見えます。
南風崎駅(はえのさき)はハウステンボスの隣駅になりますね。しかし出発時間が終電後と言う乗客有効時間外と言うのが凄いですね。因みに南風崎は民間人がメインで軍人の帰還港は舞鶴だったそうです(シベリアに抑留された人等)。
この当時、ハウステンボス駅はなかったので南風崎まで歩いたようです。
シベリアに連行された方は舞鶴でしたね。こちらは収容所に何年も抑留、さらには強制労働で命を落とされた方も少なくありませんでした。
新潟県民のせいか、引き揚げと言うと舞鶴港が思い浮かびますな。いかりや長介さんがドリフのコントのなかで「舞鶴港に大陸から引き揚げてくるんだ!」といったセリフがあったのを思い出しました。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
この時代は夜行列車も少なく、最終列車の時間も大変早い状況でした。
それでも時刻表上は毎日3本の設定があり、深夜に出発させているところに、引揚列車をなんとかして走らせようとした熱意が伝わってきます。
祖父母が体験した激動の昭和の国鉄に昭和晩年から平成令和のJR。
時刻表は奥が深い…
まだ電車とは言わず[汽車]という祖父母です。
ハウステンボスは東京から3回ほど行ったことがあり、南風崎駅は大村線の成り立ちから歴史のある駅であることは察していましたが、大変な歴史を背負った駅なのですね。引揚記念館資料館など再訪しなければと思いました。
当時から大きな駅ではなかったはずなので、列車待ちの混雑ぶりが想像できます。
電気機関車での牽引は関門トンネルと東海道本線の沼津~東京間だけですね。
三等車だけで時間がかかるとは言っても命が保証された状態で列車に乗れることの方が大きかったと思います。この列車の終点は東京ですが、無料で交付された引揚乗車証に書かれた駅に到着した時、初めて故郷に帰ってきたと実感したことでしょう。
佐世保は米軍に摂取され、仕方なく早岐近くの港に引き上げ船が着き、
南風崎から引き上げ列車が運転されたとのこと。
今ではハウステンボスがある辺りです。
JR九州は20年くらい前に「懐かしの南風崎ツアー」をやり、当時を知る人らが参加したとの事です。
この時すでに柳井港駅があったのですね。後々できる防予汽船が
その路線を引き継ぐことになる、大陽汽船なる会社(残念ながらネット上では詳細が不明…)の船が、
既にそこから松山の三津へ当時の人々を運んでいた…?
自分の住む愛媛はじめ四国を故郷とする方々は、いったいどのような道筋で
故郷を目指されたのか、想像しながら拝見しました。
しかし、博多で翌朝、京都でさらに翌翌朝、東京はその夕方と長丁場ですね。それでも引き上げ船と比べれば快適であったのでしょうけど。
@@nori-tabi さま
引き揚げ船は横になるのがやっとというくらいのものだったようです。
さらには本土でも一つのボックス席に6人ずつ。
それでも南風崎の時点では立つ人が多かったものと思います。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
引き揚げ船も引き揚げ列車もどちらも快適な移動とは到底言えない状況ですね。
それでも目的地まで移動できるということだけで、ありがたかったのでしょうね。
時刻表を見るに限り、短距離でメインに繋げる戦略ですな。
乗り換え先路線の所要時間が軒並み現代よりも遅い中、豊橋~辰野間の時間が殆ど変わっていない飯田線
当時は多くの列車が蒸気機関車牽引の「汽車」で、後年電車や気動車になって速くなったと思いますが、飯田線は当時も電化されており「電車」であったことが、時間が変わらない理由のひとつではないでしょうか。
これをみてアジア歴史資料センターで当時の南方・北方・満洲中華方面の引揚船や鉄道の手配に向けての会議報告?や情勢の確認や注意事項などがみられたのですが、字は所々薄いし旧字体だしカタカナで書いてあるしで読むのが難しかった、また今度にしよう……。
お疲れ様でした。
静岡から先、特に丹那トンネルを抜けてからは、熱海の次は小田原、そしてその次は横浜。各停なのに特急並みの停車駅。早く帰り着きたい、そういう気持ちが表れたダイヤに見えました。
小田原の次は大船でしたね。
小田原~東京はこの時代であれ近郊列車の本数が多かったことから通過としていたのでしょう。
東京に近くなると引き揚げ者だけではなく東海道線を行く一般の方々の乗車も多かったことと思います。
都市部に帰還する人が見るのは、見慣れた景色……ではなかったでしょう。栄えていた街並みが焼け野原となり、バラックが立ち並ぶ光景を目にしたことかと思います。
東京行き2本、上野行きが1本運転されていたそうです。上野行きは東北方面への引き揚げ者の利便を考慮した行先だったのでしょう。上野行きの時刻もアップお願いいたします。
皆様、ご苦労様です。
この船は日本の船です。
引き上げ船ですはこのアナウンスの後,
田端義夫さんのかえり船という曲が流れ,
みんな泣いたんだよ。
シベリアから引き上げてきた祖父が話していました。
九州からの長い道のり,乗車していた人は
どんな想いで過ごしていたのでしょうか。
南風崎(はえのさき)って言うんや…
最初南宮崎に見えてしまった
10:42 新大阪駅は17年後に設置
ということは17年で新幹線を開業させるまで発展したんですね…
@@六角ベンゼン 17年で蒸気機関車から夢の超特急に変わる 進化の歴史はすごい
自分の曾祖父さんが樺太の敷香という町で産まれたそうです
じいちゃんが戦前に鉄路と船を通って1度行ったことがあると言っていました。何回か話を聞きましたが数年前に亡くなり最早当時を知る術も無いので調べられるようでしたら動画にしていただけると有難いです
おそらく本州からだと青森の方から船で函館、そこから宗谷本線などで稚内、そこから船で樺太に渡った後は豊原(現ユジノサハリンスク)から樺太東線で確か終点が上敷香でしたのでそこの一駅前に敷香駅があったのでそういうルートではないかと
0:22
ハウステンボス駅は45年後に開業
地図で調べると、この列車が運用されていた後に開業した駅が意外と多いです。
気が遠くなるような所要時間ですね。
車窓からみた景色はどうだったろう。米軍によって焼き尽くされた荒涼とした景色でしたか??それとも焼き尽くされた中にも希望が芽吹く景色でしたか??
当時の映像を観てみると、1946年頃に運転された引き揚げ列車の乗客は疲れ切った表情をしている人が多い一方で、本土で終戦を迎えた人々からは蔑ろにされていたそうです。
その状況を見かねたとある東京の学生たちが品川駅の東海道線ホーム(現在の7・8番線?)に集まり、東京以遠に乗り継ぐ引上げ客の荷物持ちや案内、労いをボランティアで行っていました。
翌年になると、駅構内の案内放送が当時のNHKアナウンサーの指導の下で改良され、引き揚げ列車に対する評価も変わっていきました。また、次第に引き揚げ列車単体での運転は少なくなり、一般列車の一部を引上げ客の団体で貸し切るという形態になったようです。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
1946年には焼け野原の中で羽根つきをする子供もみかけられるようになったようです。きっと少しずつ活気が戻っていく途中であったのでしょうね。
ボランティアの話や案内放送のお話は初めて知りました。大変心を打たれるエピソードですね。
ここまでたどり着く苦労に比べたら、長い乗車時間なんて・・・。
長崎出身なのに、このことはあまり知られていない・・・。
今度帰省したら、南風崎行ってみようと思います。
日本の土を踏んでから2日目の日没後にようやく東京に到着できた。
引揚援護局の事務所が現在のハウステンボスの敷地内にあり、その最寄り駅が南風崎駅だったということなのね。
始発駅である『南風崎(はえのさき)』は難読なので読みを併記してくださるとありがたかったです。
ちなみに現在でも、この区間を普通列車で乗り通すと30時間くらいかかります。
また、門司と下関の間において連絡船乗船の滞留が発生せず、米軍によって撒かれた機雷に脅えることなく関門海峡を通過できたことは関門トンネルの偉大さを感じさせます。
南風崎発 ⇒ 早岐で佐世保線 ⇒ 肥前山口で長崎本線 ⇒ 鳥栖で鹿児島本線 ⇒ 門司で山陽本線 ⇒ (門司と下関間をトンネルにより関門海峡を通過) ⇒ 神戸で東海道本線 ⇒ 東京着
引き揚げ列車の過酷な旅、そして超満員であることを想像すると恐ろしい旅程だ。トイレや食事なども苦労したに違いない。
ロシア鉄道でも運行されるなら、ぜひ乗ってみたいです。なかなか体験できない貴重な体験ですし。
深夜や未明に関西(姫路〜京都)到着か😮
急病に罹った時、厄介やな😖医院(大学病院ではなく開業医)がやっていない時間帯なので。実際、引き揚げ途中に命を落とす人も少なくなかった(特に乳幼児👶)。
日中に南風崎発車の引き揚げ列車でも、夜に関西に着く。
また夕方に、広島や横川(当時の広島の隣駅。当然、新白島は未開業)に到着。
原爆の惨禍残る町に夕暮れとあって、寂寥感を多くの人が感じたに違いない😔
今はただの小さな駅の南風崎が歴史を担っていた時代があったんですね😮
ハウステンボスもちょっと見方が変わりました😅
故郷に帰る人でごった返す様子が伺えます😊
今と駅名が違うケースがありますね
堀ノ内とか大原市場とか、何や?って思ってググっちゃいました
今と駅名が違う駅ですが、少し前にコメントにまとめて書かせていただきました。
1コメ
かの噂の復員引き上げ列車ですか。そりゃ戦争の傷だらけになってボロボロで帰ってきたもんだ・・・
南風崎(はえのさき)ということは、筑肥線からそれぞれの目的地に散っていくのか。
大村線→佐世保線→長崎本線ですね。
本州から大陸に渡った方にとっては初めての関門トンネルという方も多かったことと思います。
変わり果てた都市の姿を見て呆然とされた方も多かったこととは思いますが、祖国の建て直しに尽力された皆様にも感謝です。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
また、1番にコメントいただきありがとうございます。
道中の変わり果てた各地の姿に驚いたでしょうね。悲しむ方も多かったと思いますが、同時に復興していくために決意を固くした人もいたのでしょうね。
実家の最寄りにも停車してたんだなあ
細かいですが三島通過に驚きました。伊豆箱根鉄道との乗換優先度は低く沼津で降りろってことだったのかな。新幹線駅ができて三島の相対的地位が上がるのはまだ先のことなのかもですね。
2:52 スペースワールド駅は52年後に設置
早く東京方面に行きたい方は門司で急行に乗り換える方もいたでしょうね。
13:23 金山駅は15年後に設置
筑豊本線の若松→篠栗は間違っていますね。篠栗線はまだ開通しておらず、筑豊本線は冷水峠を経由して原田に抜けるルートでした。(25パーミルという急勾配区間ゆえ補助機関車を必要としていた)
ちなみに、冷水峠を貫く冷水トンネルは日本初の長尺レールを採用した区間で、その技術は後の関門トンネルに活かされました。(マンガン鋼レールのため、特に戦後の混乱期には摩耗がひどかったようです)
篠栗線は当時は吉塚から篠栗までで、篠栗から桂川までは未開業(1968年開業)でした。
動画作成どうもお疲れ様です。当時の様子を、より詳しく表現できるよう乗換案内を国鉄だけでなく、私鉄も加えて頂けたらと思います。復員された方々の輸送の一役を担った、今はなき少私鉄にもスポットライトを当てて頂けたら嬉しいです。
この列車の本来の目的は東京への上り一方通行ですが、列車運行上はそうも行かなくて下り列車で回送する必要があり、それが臨時普通列車の東京発早岐行でした。
おそらく早岐客貨車区所属の車両で、早岐区で整備点検又は車両交換の後に南風崎へ回送していたと思われます。
早岐客貨車区と言えば特急「日本海」の運用を担当して、遥か青森駅までを守備範囲に入れた事もある長距離運用で有名な車両基地なのが趣味的に面白い所です。
あと、宮脇俊三氏の著書にありましたが、東京で早岐と言われても一般人にはピン!とくるハズもなく「この汽車は本当に大阪へ行きますか?」と不安な気持ちになってたみたい。
東京からの列車だと、この頃の設定では、この方面はたいてい長崎が到着駅ですからね。
関東で行き先が『早岐(はいき)』と言われてもピンとこない人がいるのもうなづけます。
@@akirakajiwara9478 さん
佐世保は横須賀・呉と並ぶ重要軍港ですから、この方面だと佐世保行もメジャーですね。
ちなみに早岐は佐世保まであと3駅で南風崎は隣駅(当時)です。
そうですね、字面だけなら岐阜県のどこか?みたいなイメージありますよねw
山陽本線内…長門一宮、周防冨田、三田尻、己斐、玉島、西大寺?
小郡→新山口は知ってるけど
長門一ノ宮→新下関
周防富田→新南陽
三田尻→防府
己斐→西広島
玉島→新倉敷
西大寺→東岡山
です。
こういう長距離列車は現代式でも空席管理が面倒くさそう
機関車は何回も替わったのでしょうね。
深夜帯以外はほぼ各停ですね。そうすると、この列車に乗って深夜帯の駅に引き揚げた人達は、途中の駅で降りて1泊だったのでしょうか?
また、この列車は南風崎駅発車時が最も混んでいて、その後徐々に空いていったのでしょうか?
深夜の駅に到着された方→朝まで駅の待合室で待つか野宿だったのでしょう。
今と違い、幹線は一日中列車が行き交っており、係の方が常駐していたことと思います。
自己レスです。
本来なら、遠近分離し、例えば九州内のみとか、大阪止まりとか区間運転の列車も用意した方が効率的なのでしょうが、このころは物資が限られていたため、そこまで考えられなかったのでしょうね。
切符はどうしてたんでしょうか。引揚者の中にはお金がない方もいたと思うんですが、そういう方はどうしてたんでしょうね。
引揚者用に無償の引揚乗車証が交付されます。
乗車証に引揚者の最終目的地の駅を記入してもらいます。
この列車の終点東京が下車駅とは限りませんよ。
@@radiotanpa
そうなんですね。
教えていただきありがとうございます。
新橋東京間が13分!
深夜関西通過は意図を感じます
3本の引き揚げ列車があり、東京に深夜に着かないようにするためにこのような時間設定にしていたのではないでしょうか。
列車は降車駅ごとの割り当て制だったものと思います。
東京行きの中には大阪に夜に着く設定のものもありました(乗車券は引き揚げの収容施設で着駅までの片道切符が支給されたそうです。)
南風ことを(はえ)と呼ぶのも不思議、はえ=蠅、南風(はえ)
可部線の接続列車が違うと思いますが…
横浜の次が品川、川崎駅がないのはなぜでしょう。川崎駅は日本の鉄道の開業時から存在していたと思うのですが。
横須賀線の停車駅で東海道線は通過でした。
1980年のMS分離前
東海道線
東京→新橋→品川→【川崎は一部の列車停車、基本的に通過】→横浜→大船→小田原方面
横須賀線【東海道線と共用】
東京→新橋→品川→川崎→横浜→保土ヶ谷→戸塚→大船→久里浜方面
⭐東戸塚駅はまだありません
現在の横須賀線停車駅
東京→新橋→品川→西大井→武蔵小杉→新川崎→横浜→保土ヶ谷→東戸塚→戸塚→大船→久里浜方面
どちらかというと上野行きを扱ってほしかった。もちろん上野での接続列車も。
この列車は、乗ったことはある?
結果 1150本ですか?はいかいいえか?
正解は、コメント欄で!