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1カ月後には、東京新大阪間が、約6時間27分から4時間になるんですね。そして現在は2時間27分。すごいことです。
この特急みどりは新幹線が開業したあとは特急つばめに変わりみどりは佐世保・大分行きになり、初めて日豊本線との縁ができた。その後昭和42年10月ダイヤ改正で581系電車の昼行運用になり、夜行の月光と手を組んだ。ただしまだ1等車(後のグリーン車)は連結されていなかった。そしてヨンサントウ白紙ダイヤ改正では485系に変わっています。これがヨンナナサンダイヤ改正までの定期では唯一の485系でした。臨時では夜行の特急夕月がありました。
昭和33年の設定当初は横浜・名古屋・京都にのみ停車だった模様
浜松や岐阜は通過するのに熱海には停まる。当時はきっと温泉客もたくさんいて重要な駅だったのですね
名古屋出たら次は京都って、信じれん😳乗りたかつた😭🥰
のぞみ設定直後にはそれを体験できました。 1列車だけとはいえ名古屋通過したんで。
山陽本線の踏切で見たような気がする。さくら とか つばめ のほうをよく見かけた。食堂車があって白いテーブルクロス、窓際に一輪挿しが飾ってあったのが外からでもよく見えた。いつぞやは、甲子園優勝校の津久見だったか日田林工だったが大優勝旗を携えて九州へ下って行くのが見えた。ベージュに赤線の特急は懐かしい。
黒澤明監督の天国と地獄という映画で、犯人が明日の第2こだまに乗れ、という指示がありました。元旅行会社勤務の先輩曰く、前日で一等車五人分の指定券なんて、まずこだまは無理、と笑っていました。当時の特急はそれだけ貴重な存在だったのが理解できました。
新幹線開通前の東海道線は正に特急街道でしたね、午前中は151がゾロゾロ午後には皆さんない好きなブルートレインが続々と東京駅を出発していましたね、懐かしい記憶ですね。ありがとうございます。 しかしJR東は東海道本線の速達化には全く興味がないのでしょうね。
321Mが当時のままなのすごすぎる
151形電車にはビュッフェに電話室が設けてあり、電話を掛けれたりのサービスがあったのですね。当時、一般の家庭で固定電話あるのは稀だった。卒業アルバムの住所録を見ても、どの卒業生の家も電話が無い。近鉄特急にも電話サービスがあった。
電話は交換台を経由していたので、沿線地域のみしか送受信が出来なかった(初期の東海道新幹線も同じ)
だから黒澤明の天国と地獄の肝にも使えたんですね、😃@@原田寛-e3u
浜松、豊橋、そして滋賀県全通過は凄い。そして大阪で乗継わずか10分。特急みどりも停車駅が少なく明石、倉敷あたりも通過するまさに「特別急行」
いつもご視聴とコメントありがとうございます。当時の鉄道設備をフルに活用して、目的地への速達性を考えていますよね。仰る通り、まさしく特別急行だなと思います。
明石駅に特急が止まるようになったのはヨンナナサンダイヤ改正で特急はまかぜが初めてだった。また夜行急行の中にも明石駅には止まらなかった列車もあった。例えば急行桜島・高千穂や、阿蘇、それに寝台急行もつくしを除いて止まらなかった。今の特急は昔の準急並みの停車駅になっている。
特急つばめは1往復米原に止まっていた。
15:30 しれっと下関(23:38)→米子(9:04)って出てるのやばい。寝台無しの夜行じゃないかwww
まだ、大阪〜博多間をキハ82で運行してたんですね。関門トンネル直通運転するためかな?当時は交直流型特急電車がなかったからかな?
まだ広島〜下関が未電化でしたからね(電化は1964年10月)。
@@vfcfha なるほど、そもそもまだ電化すら出来てなかったんですね。直通させるには気動車しか無理だったんですね〜。
この時代も安城位で「只今、安城駅を定刻で通過しました~」的な放送あったのかな
なんで安城?あ、三河安城駅ね。
@njh3528 定時通過の放送は準備をさせるためのものなんでどっちかというと当時は刈谷か大府あたりかと思います
今では意外な通過駅!北陸本線乗換 米原!神戸では三宮通過,神戸停車!北九州では小倉、黒崎通過,門司停車 時代もかわったものです。
いきなりおすすめ出てきて見てしまいました。昼行特急でも門司停車小倉通過があったんですね!夜行ではそれがザラだったことは知ってましたが。生まれも育ちも小倉の自分にとっては馬鹿にされてる気分ww今の門司駅は何の変哲もない郊外の駅になってしまいましたが、小倉駅の賑わいは変わりませんね。
ご視聴とコメントありがとうございます。現在の小倉駅の印象からすると、通過列車が多いことは意外で驚きですよね。当時と人の移動の仕方が違っていたことが想像できますね。
北九州市のご当地グルメ「小倉焼うどん」は「あんこ入りうどん」と勘違いした人はおりませんかね?
当時の座席ラジオ&公衆電話サービスは、今でいうコンセント&USB+Wi-Fi完備に相当するんでしょうな。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。仰る通りですね。当時の人々にとっては、今のサービス以上に豪華に感じたかもしれませんね。
動画の速度を2倍にしてみたら、やけに疾走感が出てしまいました。
今度リクエストをするなら昭和55年の東海道新幹線「ひかり1号」で東京から博多への時刻表の旅をリクエストします
第1こだまの今は政令市の浜松通過もそうですが、みどり号の三ノ宮・小倉通過も凄いです。
これをみるとこの一ヶ月後に開通した新幹線がいかにサラリーマンの日帰り出張を可能にしたかがわかる。先人たちの苦労に感謝。
新幹線開通によって東京大阪間ぐらいだと日帰り強要されることに鳴って楽になったのか酷になったのか。
5:18 食堂車の食事、贅沢やったんやろうな、、今の初任給20万としたら、ビール1550円か、、
ご視聴とコメントありがとうございます。今よりも嗜好品が贅沢なものであったことがわかります。食堂車の食事は本当に特別なものだったのでしょうね。
一応、東京を朝7時に出ればその日のうちに博多に着けるんですね。それにしても高速道路も飛行機もなかった時代、この時間で移動するにはそれこそ「特別な運賃」を払わなければならなかったんですね。
航空機移動もできるようにはなっていましたが、当時としてはかなり高額でした。
小倉ではなく門司に停まるのが当時らしい。鉄道的には門司の格が高かった。
僕は東京から新幹線で帰る時はよくチキン弁当を買って食べています。時々横浜の崎陽軒のシウマイ弁当を買って帰ることもあります。どちらも昔ながらの味でおいしいですね。
この当時の特急はどこの路線のどんな列車も停車駅は厳選されて(実際今では考えられないが大阪発山陰のち博多行きの特急まつかぜは運転開始当初福知山線ノンストップでしばらくして宝塚のみに停車してそれが長らく続いた)また食堂車はあって当たり前1等車2等車は全席指定が当たり前で、東京大阪間の電車特急は横浜・名古屋・京都は全列車停車してあと熱海・沼津・静岡・浜松・豊橋・岐阜・米原には各列車2駅追加停車で運転され、大阪九州も大都市や商工業都市に限定されて停車駅を設けてました。なおみどりの場合かもめと停車駅をシェアしていたはずです(姫路・岡山・広島・下関には絶対止まるがそれ以外はシェア)。なお神戸は三ノ宮との兼ね合いで下り第二富士と上り第一富士のみ神戸・三ノ宮停車でそれ以外は厳格に神戸停車か三ノ宮停車に分かれてました。これは特急の連続停車は関門間の機関車交換に伴う停車は例外中の例外と見做して厳格に避けられてました。なので門司に停車したら小倉通過、小倉に停車する場合は門司通過というのが当時の不文律となってました。本編中の京都発普通神戸行きは現在の快速電車です(京阪間の当時の停車駅は高槻のみ)。この当時の快速電車は基本京都神戸間(かつての急行電車の運転区間)でこの中から延長運転で下りは西明石・姫路・播州赤穂・上郡、上りは草津・安土・米原まで行ってました。
こだまの乗車率は高かったですが、当時は特急は別格です。正に特別急行列車です。当時の長距離の移動手段は普通列車か夜行列車です。急行、準急、夜行列車の二等に乗れればまだいい方です。
幼い頃、九州から大阪に向けて、急行「しろやま」に乗ったことがあった。寝台主体の当時からすれば豪華な特急「あかつき」には及ばなかったものの、「しろやま」に乗ったのは編成が少数派の寝台車だったから自分はそこそこ恵まれていたのだろうな。
当時は6時間半で大阪まで行けるというだけでも画期的だったんですね。現在では7時に東京駅を出れば、新幹線乗り継いで13時半には鹿児島中央の手前まで行くことができます
当時のプロ野球選手こんな感じで博多から東京迄移動頻繁にしてたんやからね。
ご視聴とコメントありがとうございます。遠征が大変だったことがわかりますね。
@@tomoyankunプロ野球の移動は、この頃ですと、クロスシートの列車ですよ。夜行(もちろん寝台ではなくクロスシート!)もよく利用していたはず。
この頃は今のように特急に簡単に乗れる時代ではありません。特急に乗れたのは限られた主力選手だけですが、主力選手でも夜行列車で移動することがありましたよ。どのチームも遠征になると旧客のボックス席か通路に新聞紙やゴザを敷いて雑魚寝です。10時間以上の移動はザラです。
@@radiotanpa さん主力選手や首脳陣は、一等寝台(「マロネ40」「マロネ41」「ナロネ10」辺りか)でしたが他は二等車が当たり前でしたからね。
静岡県内に停まるんだ横浜〜名古屋ノンストップだったような
今の時代から考えると当時の停車駅(最速達列車停車駅=最重要駅)の基準が違い過ぎて驚きました。 小倉飛ばしも衝撃的ですが小郡に停車していたのもびっくりですね、県庁所在地へ向かう山口線への乗換駅とはいえ当時は小郡【町】だった筈です。あと姫路での3分停車や岩国停車も意外でした。 往時を体感できる素晴らしい動画を作成して頂きありがとうございます。
小郡は昔から特急が多く停車しており、新幹線博多開業直後でも、最速ひかりの一部が小郡に停車していました。
今でもそうですが、県都山口への玄関口兼島根県西部への窓口でもあったんですよ。元小郡町民より
結局合併まで市は名乗ってはないし、その点では本質的には当時と今とで違いはないと思う
これより 5年位後 幼稚園位の時に 神戸から 小倉に 父の帰省に連れられて 父と2人で 乗った記憶があります 赤いラインの電車に乗った記憶は鮮明にあります 夜に到着したのも 覚えてます 道中の記憶はないですが 長旅だったんですね
昔は、飛行機よりも鉄道がメインだったことがわかりますね。
大変興味深く拝見させていただきましたwikiによるとこだま号の途中の停車駅は横浜名古屋京都だけとなっており、それを信じていたのですがこの頃は熱海や静岡も追加されていたんですかね
ご視聴とコメントありがとうございます。1960年のダイヤ改正で停車駅が2駅増やされたと記憶しております。それ以前の横浜名古屋京都のみ停車のインパクトはすごいですね。
横浜名古屋京都のみとなると現在の新幹線「のぞみ」以上に停車駅が少ないことになりますね。
こだま号で実際に東京大阪を日帰りした人はいたのでしょうか。現地滞在時間は3時間ですね。
目的や要件にもよりますが、どちらか片道を夜行にした方が効率が良さそうですな。(・ε・` )
いてもおかしくはないでしょう。東京or大阪でお昼過ぎに会議を行うだけ、取引先と交渉事をやるだけ、役所や裁判所に行くだけ、という仕事はありますので。
ご視聴とコメントありがとうございます。理論的には可能ですが、実用性の観点から考えると日帰りを選択する人は短時間で用事が済む人に限られるでしょうから限定的だったでしょうね。
現地滞在時間は3時間。東京・大阪間を実際に日帰りした強者ビジネスマンがどれほどいたのか考えてしまいます。
それに、東京駅にそんな早く来られる人も限られていたでしょう。
@@houseyfk さんその代わり、東京~大阪には夜行急行が充実していました「銀河」「明星」「彗星」等
もはや(東海道新幹線)こだま抜いてひかり
大阪駅での乗り換え時間猶予が10分。。よほど体力とコンデションが良くないと、強行できない旅程ですな。
当時はマルス券ではなかったから切符の購入が困難だった。先人の最速達としての心意気と努力の結晶です。とても参考になりました
乗車券センターのベテラン職員がくるくる高速で回っている座席予約台帳入れから目的の列車の台帳を取り出して手で記載すると言う原始的な方法だった様ですね。マルスと言うと、少年の頃に不愛想な国鉄職員が目的の列車が記載された金属のページをバタンバタンと捲ってから棒を差し込んで発券していたのを覚えています。
100年後だと飛行機でもこういった類いの動画を見て驚かれたりしそう。2024年の時は東京→パリが飛行機で13時間かかっていましたー、みたいな。2124年では東京→パリ3時間で行けるのに当時は日帰り出来なかったんだ、当時の人は大変だったね~ みたいな笑
福岡に住んでいますが国鉄時代に南福岡駅が雑餉隈駅だったのは初めて知りました
タイムスリップして旅行した気分を味わうことができました。昔は夜行の普通列車が何本も走っていたんですね。
食堂車のメニューはやはり割高ですね駅弁が100円だ何だの時代、シチュー定食がその3倍以上、ステーキにいたっては4~6倍とはね今やファミレスで若い子でもステーキ食べてるのを見ると羨ましいですねw
昔々のステーキは、そりゃもう大変な御馳走ですよ。
今とは時間の流れが違いすぎる。雑誌や新聞を見て時間潰してたのかなぁ。
個人的にですが、こだまがきたなら燕との比較もお願いします
シツで連絡する321Mってこんな時代から走ってたんだ…今は沼津までとはいえ東京発の時間も一緒だしすげえや…
キハ80みどりにはセノハチの補機はつながなかったんですかな。
気動車は補機はつながなかったようです。
そもそも急勾配なのは上り方向でしたな。失礼しました。(ヽ´ω`)しかし、気動車では補機をつながなかったのに、電車(151、153系)には補機が必要だったというのは面白いですな。
キハ58系は板谷峠も補機が付きませんでした...
板谷峠、特急つばさのキハ80系とキハ181系は補機をつないでいたみたいです。
@@exp.m.k.2300さん板谷峠では多客期にはトラブル防止の為か、急行にも補機がついたとの証言もありますな。(*´・∀・)
三ノ宮ではなく神戸に停まったり、1964年時点の普通がすでに爆速だったりいろいろ驚くことばかり。
1964年って戸塚駅はなかったんだ
当時戸塚駅は横須賀線の電車のみ停車していました。現在の保土ヶ谷、東戸塚と同じでした。
@@hc-ir2dr 東海道線は全列車通過だったので、ホームがあっても時刻表に記載は無かったということなんですねSM分離前は戸塚も通過していたというのは不思議な感覚です
新幹線が出来る直前でもその日のうちに東京から福岡までたどり着けるようにと精一杯のダイヤを組んでいたのですね。それだけでもありがたいものだったと共に国鉄の関係者の苦労が偲ばれるものです。特急券はプラチナチケットでどちらの列車もなかなか取れなかったものと思います。それでも取れればラッキーだったのでしょう。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。当時の技術と設備で精一杯頑張っていたことがわかりますね。途中の支線で優等列車への乗り継ぎが思ったより少なく、東京→福岡への利用を想定していたことが伝わってきます。
子どもを乗せて喜ばせようとなんとか【こだま】の切符を確保したら、当日現れたのが153系の【かえだま】で子どもが泣いて困った!( ノД`)…とかもあったようで。
この頃のダイヤで最南端⇒最北端とかどれくらいかかるのでしょうか???
特急は少なかったものの、長距離や夜行列車が多かったので、在来線縛りならば、夜間にほとんど移動出来ない現在よりも速いように思いますが、いかがでしょうか。(*´・ω・)
ご視聴とコメントありがとうございます。大変面白そうですね。しっかりと調べたことがないので、一度取り上げてみようと思います。新幹線抜きならば、当時の方が速いでしょうね。
この当時、S38/11月号だと稚内12:00(急行天北)19:12札幌19:30(特急おおぞら)24:00函館00:15(青函連絡船)04:45青森05:05(特急はつかり)上野15:35についた東京18:20(寝台特急みずほ)13:22鹿児島に着いた
旅をしてる気分になりました。乗ってみたかったです。食堂車でご飯食べたいです。
ご視聴とコメントありがとうございます。私も同じで、食堂車でのご飯はもう一度食べてみたいです。
広島県民の気づき。今では当たり前になっている可部線の乗り換え。当時はなかったのですよね。配線の関係で横川駅始発で。放水路工事関係の線路付け替えも近い時期なので。
ご視聴とコメントありがとうございます。今では当たり前の、広島駅での可部線の乗り換えですが、当時は無かったことが驚きでした。
「こだま」「みどり」を通し運転することはできなかったのかな。一番列車のテープカットは、実在するであろう「児玉みどり」さんに!
政界屈指の鉄道好きとして知られる石破茂新総裁も幼少の頃に東京から鳥取を家族で移動したときに乗ったのでしょうね😊
東京駅に15番線なんてあったっけ?と思ったら新幹線のホームだ。開業直前だよね?
7:29 第一こだま(151系電車)、大阪に着いた(13時30分。東京発は7時):途中の停車駅は、横浜、熱海、静岡、名古屋、京都16:52 みどり(キハ82系の気動車)、博多に着いた(22時35分。大阪発は13時40分):途中の停車駅は、神戸、姫路、岡山、福山、広島、岩国、徳山、小郡、下関、門司、博多
これもまた特別な想いが生まれるね。高速鉄道の先駆けのようなもんだもんな。本当に良くできてると思う。いつも見ていて、凄いなぁと思いますよ。わがまま言って申し訳ないですが、東北系・羽越系も見てみたいですね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。東京ー九州間の需要に応えるため、当時の設備と技術で精一杯頑張ったことがわかりますね。東北系や羽越系も乗り換え路線も多く、大変面白そうですね、とり上げてみようと思います。リクエストありがとうございます。
東京6:43=大阪13:30(大阪に)行って帰ってくるから「こだま」とはよく言ったもの。
東京を朝7時に出発して乗り継ぎして博多に到着したのが夜の10時半頃……1964年当時の人は九州に行くのが一苦労って感じですね……日帰りはできないから何日か滞在してから帰ることになるでしょうね😅
ビジネス等で飛行機が使えなければ、おそらく東京ー博多間は寝台特急あさかぜ利用が多かったのではないでしょうか?他に、この頃には、寝台特急さくら、みずほ、はやぶさもあったはず。昼行特急乗り継ぎは稼働日が1日無駄になるのに対し、寝台特急なら前日夕方から翌朝までの時間を移動に当てられるので効率的だったのでしょう。
@@kataakeo7730 確かに九州方面の寝台特急なら日豊本線経由の列車を除いて博多には停車するはずですからね。九州方面の出張や旅行ならそっちの方が時間を有効に使えそうです。
@@jops-tv4202 「日豊本線廻りの寝台特急は富士があったはず」と書こうとしましたが、何と1964年10月改正での設定でした。もっとも、特急みずほの一部が門司で切り離され、大分まで運行していました。
このころの長距離列車だと寝台列車が多くあったから一般の人はそれを使っていたのではないでしょうか?国鉄としても東京→大阪ぐらいの距離は特急、それ以上は寝台列車を使ってくれっていう感じだと思う。新幹線の登場で鉄道の在り方が変わったのは事実だと思う。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。現在はオンライン会議か日帰り出張が可能になりましたが、当時は宿泊がセットになることが多かったのでしょうね。効率性や生産性の観点からは比べ物にならないでしょうが、なんとも言えないゆったりした感覚がありますね。
遠近分離などを加味した上で、必ずしも都市規模に比例した停車駅選定では無いなか徳山 小郡(新山口)に停車するのは のぞみ のルーツって感じがする
特急みどりの大阪-神戸間24分走行も速い!
durian0410さんしかも、当時特急用ディーゼル車の先駆けだった「キハ82形」ですからね。
流石特急停車駅が少ないですね門司停車小倉通過は驚きましたまつかぜ時代は門司通過小倉停車だったしさくらは小倉通過でした昔は門司駅もブルトレ以外の特急も停車していたのですね次は上野発稚内や根室着の時刻表が見てみたいです
いつもご視聴とコメントありがとうございます。現在の感覚でいくと、小倉通過には大変違和感がありますね。今後は東北線系統も作成してみようと思います。リクエストありがとうございます。
寝台特急富士も小倉と中津を飛ばして別府迄無停車だった時代が有りました
乗り換え時間含めて15時間35分は当時としたら最速でしたね寝台特急で一番早かったのが「はやぶさ」で16時間50分。乗り換えにしてもどちらかが急行になってしまうので一番早くても第一つばめ(09:00)→広島で急行しろやま(20:40)→博多02:46の17時間46分。この乗り継ぎが当時としてはどれだけ早かったか解りますねしかし、当時は列車によっては通しの特急券が発行されることが有った(はつかり→おおぞろ・白鳥→おおぞら・秋田でのつばさ→白鳥)ものの、このこだま→みどりは「流石に日中の移動は少ないんじゃね?」って事で設定を見送ったとの事値段的には、東京~博多は一等運賃3690円・東京~大阪・大阪~博多の一等特急料金は其々1760円・東京~大阪のパーラーカー料金1650円で片道8860円「あさかぜ」利用だったら、東京~博多の一等特急料金は1760円・個室寝台料金3080円で片道8530円当時の飛行機料金は片道12000円(日本航空・直行便1時間30分・伊丹経由便3時間30分)一等で行ったら無茶高い(笑)。しかしながら岡山や広島に向かう方や名古屋から博多方面の方に対しては乗継割引適用して欲しかったです岩日線は、岩国の最終が18:46で1分前に出発しちゃっています。これこそ「なんとかならぬのか!!」の象徴ですね。しかし、岩日線沿線沿いに国鉄バスが運行していたので、カバーしていたのではないか?と推測します19:20に周防広瀬行・20:10に秋谷行が運行
お疲れ様です。いつも興味ある動画配信有り難うございます。東京駅から博多駅まで掛かった旅費を当時の時刻表から計算してみました。「第1こだま」「みどり」両特急とも2等車で旅すると、3810円、両特急とも1等車を利用かつ「こだま」のパーラーカーに乗ると、9260円。ちなみに羽田空港から福岡空港まで当時のジェット飛行機で旅するとなると、羽田7時50分発福岡9時20分着の日本航空303便があり、料金はなんと…13000円でした。
イロハで計算すると飛行機はまさにイ、ですね(笑)今とたいして変わらんか今の方が安いという
復活してくれたら乗りたい
指定席券があっという間に売り切れるだろうね。
5:06「大卒初任給が2万円」とありますが、今の約1/10ですね。食堂車のメニュー価格を今のファミレスなどと比較すると1/5ぐらいだと思いますので、相対的には2倍ほど高かったことになりますね。
当時の消費者物価指数は、今の1/4~1/5です。しかし、食堂車のメニュー価格は今の喫茶店の1/10のような気がします。
こだまの停車駅すげぇ。この列車に「のぞみ」の愛称を与えても良かったのでは。停車駅だけ言えば「新幹線ひかり」すら凌駕してる。。。
やろうと思えば大阪まで日帰り出張できるという意味で「こだま」と名付けられたといわれているので、この頃に「のぞみ」はアイデアとして出ていないと思いますね。
@@シャナ-x7c 新幹線が開業してひかり、JRになってのぞみ、ある種のインフレですね
それにしても、なぜ特急みどりが気動車特急なのでしょう?と疑問に思いましたが、何とこの頃はまだ交直流特急電車が存在しなかったからでした。交直流特急電車のデビューは東海道新幹線開業と同じく、1964年10月改正からでした。
それともうひとつ、広島〜小郡の電化完成が同年7月で10月改正まではSLが走ってる状況だったのです。
485系や583系のような交直流電車は1968年のヨンサントオで走り出したようです。
東海道新幹線開通と同時に、特急つばめが、新大阪~博多へ西にスライド移籍し、最初の1年間は151系で走って、九州に入ると電気機関車牽引という異例というか苦肉の処置がとられてました。
@@SuperAKYURA481も完成が遅れた上にリスク回避?で北陸が先行しましたからね。
浜松、米原、三ノ宮、明石、小倉の通過は今では考えられない当時の在来線の特別急行を象徴する停車駅だった
政弘樹さん当時の特急は「特別急行」そのもので、県庁所在地の拠点駅等重要とされる駅にしか停車しませんでしたからね、その分を補完していたのが、急行・準急(この違いは走行距離の差→1968年10月の「ヨン・サン・トオ」白紙ダイヤ改正で急行に統一)でしたからね。
@@原田寛-e3u 小倉に停車せず門司に停車って、当時は鉄道管理局が門司にあったからなのでしょうか?
@@ごとおひろこ それもありますが、内燃機関運転士(ディーゼル車両運転士)の資格者が門司機関区にしかいなかったからでは?
@@原田寛-e3u なるほど(^^)/
そうですね。私が物心ついた昭和40年代後半ではどの列車も神戸を通過しても三ノ宮は停車するという状態でした。
豊橋、米原通過とは!
三ノ宮通過で神戸は停車ですか?
自分がそれを書き込んだあと、以前からそういう指摘がされていたことに気づいて笑ったが、さらに加勢か。やはり、現代人には違和感ある、いかにも昭和中期の三ノ宮通過で神戸停車だな。
ええええ 小倉 過ごしましたね 小倉は昔は少ない駅でしたか⁉️
浜松、豊橋、三ノ宮、倉敷、小倉…そこそこ大きな駅も通過ですか😅
特急「第1こだま」 東京 → 横浜 → 熱海 → 静岡 → 名古屋 → 京都 → 大阪 → 特急「みどり」 大阪 → 神戸 → 姫路 → 岡山 → 福山 → 広島 → 岩国 → 徳山 → 小郡(新山口) → 下関 → 門司 → 博多 😮
今在来線で東京博多間を行くのも特急はほとんど走っておらず18切符でも新山口が限界とされるが首都圏の旧ライナー系特急では時短効果が短く、サフィールはただの全指特急特急では無くオールグリーン車。首都圏の特急は時短が薄く座席確約のメリットしか無い。も京都倉敷間では陰陽特急が走るが時短が期待できるのは阪神間を過ぎてからだし本数も1~2時間間隔で思うように時短効果がない。jr九州に入れば特急はあるが時間が遅い。在来線だけで東京博多間は特急okでもタイミングが合わなければ特急に乗れないので実質18切符の旅と変わらない。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。丁寧な解説ありがとうございます。コメントしていただいた内容をもとに考えると、現在の在来線ではどれだけお金を支払ったとしても、18切符との差はあまり大きくなさそうですね。
7:24の辺りで、大阪駅到着…。まだ、新大阪駅が誕生していない。あ、新蒲原駅も無いんだった…。
大阪の乗り換え時間が10分だと、今なら蓬莱の豚まん買う時間がない!だいたい何人かは行列してるので…
第一こだま東京~大阪所要時間6時間30分停車駅 横浜、熱海、静岡、名古屋、京都みどり大阪~博多所要時間 8時間55分停車駅 神戸、姫路、岡山、福山、広島、岩国、徳山、小郡、下関、門司合計所要時間 15時間35分在来線のスピードではこれが限界新幹線博多開通時は東京~博多の所要時間は6時間26分現在は約5時間前後で走行している新幹線のスピードアップの効果を示す動画だった
細かい事ですが、博多開業時は6時間56分でした。当時筑豊地区の路盤が安定してなく速度制限がかかっておりました。
東京〜広島を結んだ昼行特急の第1・第2つばめをお願いします。
小田原、沼津、浜松通過って凄いね
小田原・沼津は湘南電車との兼ね合いがあったでしょうし、浜松は静岡との関係で停車しなかったのでは(電化が浜松迄の時代は機関車付け替えの関係で「つばめ」「はと」が静岡と交互停車していた時代もありました)
大阪~博多間の特急「みどり」が6両編成の短さというのにも驚きました。大阪駅で待ち合わせ10分という手頃な時間を設定しているので、「第1こだま」からの乗り継ぎ客も想定していたんじゃないかなとも思うんですが、岡山・広島方面までの需要はあまりなかったんでしょうか。
1964年9月時点なら東京〜広島間は9時発の「第一つばめ」がありますから、需要が分散された?
他に京都~長崎・宮崎間の「特急かもめ」もありました。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。他の方のコメントにもありますように、『第一つばめ』に乗車すれば東京から乗り換えなしで行けますから、分散していたのかもしれませんね。
みどり号の岩国から西、軒並み1分間の停車時間は余裕時分の少ない目一杯の走りをしていたように映ります。そして小倉飛ばし、衝撃す。。
新幹線でさえ品川に止まる昨今とは隔世を感じますね、しかし、最後の言葉はワンカップO関のCMを思い出しますw
次回の「時刻表の旅」シリーズのリクエストではありますが、東海道線特急としての「おおとり」号を取り上げて下さる様、お願い致します。「おおとり」というと北海道特急としてのイメージが強いですが、元々は東海道線にて使われていた列車愛称なんですってね。
中京圏の出張族でごった返していそうだなあ。
今となれば18切符があるが流石に東京~博多は一枚では無理模様です。
岡崎安城刈谷大府の並びは凄いな 当時は蒸気機関車自体の名残か駅間距離は長かったんだな
蒲郡~名古屋が、一部停車や臨時停車まで含めるとほぼ快速停車駅w後から開業したのが、三河塩津、三ケ根、相見、西岡崎、三河安城、東刈谷、野田新町、逢妻、南大高、金山、尾頭橋、と当時の倍になってる
今や錦川鉄道になっている岩日線。18時47分に岩国に到着した時点で連絡がないとは...当時から厳しかったのでしょうか...今回も珠玉の列車たちにただただ感動😢
岩日線最終列車の岩国駅発車が18時46分…。調整してよ!と10月改正号を見たら50分発になってて、下りはと号岩国18時47分着としっかり接続。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。私も同じで、動画を作成している途中で「接続してよ!」と思いました。岩日線の営業係数が、昭和39年時点で600を超えていたとの情報もありますので、かなり厳しかったのでしょうね。
返信いただいたコメントを見て、当時も無慈悲なダイヤってあったのかと思ってしまいました...
@@exp.m.k.2300 さんなんだか、某「名古屋の赤いあんちくしょう」の逝っとけダイヤみたい。
三ノ宮通過で神戸停車、今とは逆だったんですね。
というより特急がガチると名古屋まで新幹線こだまの1時間落ちで来れるんやな、えぐすぎ
これまたよくお調べになられましたね! 主様のチョイスが秀逸すぎます😃コメント数が多いのも、皆さん大変関心のある動画なのですね😊
この時代の特急はほんと停車駅少なくて、正に特別な急行ですよね!。
特急を特別急行だ、ということを知らない人も多いと思います。
そもそも、急行がなくなった以上、特別急行の意味はない。現行の特急は全て急行に統一して何ら差し支えない。
@@Kineosporia 臨時急行はごくまれにあるから、料金の観点から考えようぜ
当時のダイヤでは輸送力の限界を超えていたのがよくわかりますね。モータリゼーションの影響をまだ受けてなくて鉄道移動が主だった頃にしては運行本数や両数が全然少ない。。現在の新幹線って、なんだかんだでなくてはならない存在ですね。
新幹線の速達列車も当初の停車駅に戻して欲しい。東京の次は名古屋そして京都・新大阪…と。
おぉ、熱海に停まって浜松、豊橋には停まらないのか。静岡の次が名古屋ってのも凄いな。左側ばかり見てたけど、右側の情報もおもしろい。
通過駅がㇾと昭和の時刻表だな!
これなら東京〜広島・山口・福岡はこだま〜みどり接続よりも、ブルートレインだと(3段寝台といえども)寝たまま一晩で快適に移動できるから、重宝されたわけですね。
料金がどれほど違うかわかりませんが、特急のナハネ20よりも、急行のオロネ10の方が快適そうですな。(*´・∀・)
@@クモハ165 オロネ10は583系みたいな寝台でかつ2段式だったような。それなら快適そうですね。
@@kataakeo7730 手元の1964年9月号(復刻版)で調べたら、オロネ10(Bロネ)は貴重な最新車なので九州直通急行には連結なし。そこで広島行き急行「安芸」と広島までの20系ハネ利用と比較してみました。等級制時代だから計算が面倒でしたが、特急2等寝台下段は3230円、安芸1等寝台上段は5190円と出ました。当時の「1等」って敷居が高かったのですね。
@@akiratan さん勉強になりますな!(*´・∀・)てっきり急行の方がいくらか安くて実はお得!とかかなと勝手に想像しておりました。(ヽ´ω`)
@@クモハ165 当時のブルトレ4往復には個室(ナロネ20・ナロネ22)が連結されていますが、当時は政財界の「富裕層」にしか手が届かない、まさに特別な「部屋」だったのですかね。
小田原も三島も沼津も浜松も豊橋も岐阜も米原も停まらないのかwそれにしても物価が安いなぁ。
この列車乗りたかったです。十数年前なら九州行き寝台特急や特急東海で追体験できましたが、それも遠い時代になりました。臨時列車で走らせてほしいですが、無理ですね。(現代であれば、東海道線普通グリーン車・ホームライナー・新快速乗り継ぎでしょうか)食堂車での食事も、もはや記憶の彼方です。(十数年前に北斗星・トワイライトでかろうじて・・)昭和は遠くなりにけりですね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。優等列車で追体験することもできなくなってしまいましたね。座席指定のできる列車を乗り継ぐ程度しかできないなと思います。食堂車、10年ほど前に北斗星の食堂車で夕食と朝食を食べたのが最後でした。
面白い
この企画面白いです。この当時、吉幾三さんの故郷に東京から向かったらどうなるかとか、あるいは日本縦断やったらどうなるかとか、そんなのもやって頂くと感謝です。
駅弁の価格が半世紀で10倍になってるんだなぁ
1カ月後には、東京新大阪間が、約6時間27分から4時間になるんですね。そして現在は2時間27分。すごいことです。
この特急みどりは新幹線が開業したあとは特急つばめに変わりみどりは佐世保・大分行きになり、初めて日豊本線との縁ができた。その後昭和42年10月ダイヤ改正で581系電車の昼行運用になり、夜行の月光と手を組んだ。ただしまだ1等車(後のグリーン車)は連結されていなかった。そしてヨンサントウ白紙ダイヤ改正では485系に変わっています。これがヨンナナサンダイヤ改正までの定期では唯一の485系でした。臨時では夜行の特急夕月がありました。
昭和33年の設定当初は横浜・名古屋・京都にのみ停車だった模様
浜松や岐阜は通過するのに熱海には停まる。当時はきっと温泉客もたくさんいて重要な駅だったのですね
名古屋出たら次は京都って、信じれん😳乗りたかつた😭🥰
のぞみ設定直後にはそれを体験できました。 1列車だけとはいえ名古屋通過したんで。
山陽本線の踏切で見たような気がする。さくら とか つばめ のほうをよく見かけた。食堂車があって白いテーブルクロス、窓際に一輪挿しが飾ってあったのが外からでもよく見えた。いつぞやは、甲子園優勝校の津久見だったか日田林工だったが大優勝旗を携えて九州へ下って行くのが見えた。ベージュに赤線の特急は懐かしい。
黒澤明監督の天国と地獄という映画で、犯人が明日の第2こだまに乗れ、
という指示がありました。元旅行会社勤務の先輩曰く、前日で一等車
五人分の指定券なんて、まずこだまは無理、と笑っていました。当時の
特急はそれだけ貴重な存在だったのが理解できました。
新幹線開通前の東海道線は正に特急街道でしたね、午前中は151がゾロゾロ午後には皆さんない好きなブルートレインが続々と東京駅を出発していましたね、懐かしい記憶ですね。
ありがとうございます。 しかしJR東は東海道本線の速達化には全く興味がないのでしょうね。
321Mが当時のままなのすごすぎる
151形電車にはビュッフェに電話室が設けてあり、電話を掛けれたりのサービスがあったのですね。
当時、一般の家庭で固定電話あるのは稀だった。卒業アルバムの住所録を見ても、どの卒業生の家も電話が無い。
近鉄特急にも電話サービスがあった。
電話は交換台を経由していたので、沿線地域のみしか送受信が出来なかった(初期の東海道新幹線も同じ)
だから黒澤明の天国と地獄の肝にも使えたんですね、😃@@原田寛-e3u
浜松、豊橋、そして滋賀県全通過は凄い。
そして大阪で乗継わずか10分。特急みどりも停車駅が少なく明石、倉敷あたりも通過するまさに「特別急行」
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
当時の鉄道設備をフルに活用して、目的地への速達性を考えていますよね。仰る通り、まさしく特別急行だなと思います。
明石駅に特急が止まるようになったのはヨンナナサンダイヤ改正で特急はまかぜが初めてだった。また夜行急行の中にも明石駅には止まらなかった列車もあった。例えば急行桜島・高千穂や、阿蘇、それに寝台急行もつくしを除いて止まらなかった。今の特急は昔の準急並みの停車駅になっている。
特急つばめは1往復米原に止まっていた。
15:30 しれっと下関(23:38)→米子(9:04)って出てるのやばい。寝台無しの夜行じゃないかwww
まだ、大阪〜博多間をキハ82で
運行してたんですね。
関門トンネル直通運転するためかな?
当時は
交直流型特急電車がなかったからかな?
まだ広島〜下関が未電化でしたからね(電化は1964年10月)。
@@vfcfha なるほど、そもそもまだ電化すら出来てなかったんですね。
直通させるには気動車しか無理だったんですね〜。
この時代も安城位で「只今、安城駅を定刻で通過しました~」的な放送あったのかな
なんで安城?あ、三河安城駅ね。
@njh3528 定時通過の放送は準備をさせるためのものなんでどっちかというと当時は刈谷か大府あたりかと思います
今では意外な通過駅!北陸本線乗換 米原!神戸では三宮通過,神戸停車!北九州では小倉、黒崎通過,門司停車 時代もかわったものです。
いきなりおすすめ出てきて見てしまいました。
昼行特急でも門司停車小倉通過があったんですね!
夜行ではそれがザラだったことは知ってましたが。
生まれも育ちも小倉の自分にとっては馬鹿にされてる気分ww
今の門司駅は何の変哲もない郊外の駅になってしまいましたが、小倉駅の賑わいは変わりませんね。
ご視聴とコメントありがとうございます。
現在の小倉駅の印象からすると、通過列車が多いことは意外で驚きですよね。当時と人の移動の仕方が違っていたことが想像できますね。
北九州市のご当地グルメ「小倉焼うどん」は「あんこ入りうどん」と勘違いした人はおりませんかね?
当時の座席ラジオ&公衆電話サービスは、今でいうコンセント&USB+Wi-Fi完備に相当するんでしょうな。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
仰る通りですね。当時の人々にとっては、今のサービス以上に豪華に感じたかもしれませんね。
動画の速度を2倍にしてみたら、やけに疾走感が出てしまいました。
今度リクエストをするなら昭和55年の東海道新幹線「ひかり1号」で東京から博多への時刻表の旅をリクエストします
第1こだまの今は政令市の浜松通過もそうですが、みどり号の三ノ宮・小倉通過も凄いです。
これをみるとこの一ヶ月後に開通した新幹線がいかにサラリーマンの日帰り出張を可能にしたかがわかる。先人たちの苦労に感謝。
新幹線開通によって東京大阪間ぐらいだと日帰り強要されることに鳴って楽になったのか酷になったのか。
5:18
食堂車の食事、贅沢やったんやろうな、、
今の初任給20万としたら、ビール1550円か、、
ご視聴とコメントありがとうございます。
今よりも嗜好品が贅沢なものであったことがわかります。食堂車の食事は本当に特別なものだったのでしょうね。
一応、東京を朝7時に出ればその日のうちに博多に着けるんですね。それにしても高速道路も飛行機もなかった時代、この時間で移動するにはそれこそ「特別な運賃」を払わなければならなかったんですね。
航空機移動もできるようにはなっていましたが、当時としてはかなり高額でした。
小倉ではなく門司に停まるのが当時らしい。鉄道的には門司の格が高かった。
僕は東京から新幹線で帰る時はよくチキン弁当を買って食べています。時々横浜の崎陽軒のシウマイ弁当を買って帰ることもあります。
どちらも昔ながらの味でおいしいですね。
この当時の特急はどこの路線のどんな列車も停車駅は厳選されて(実際今では考えられないが大阪発山陰のち博多行きの特急まつかぜは運転開始当初福知山線ノンストップでしばらくして宝塚のみに停車してそれが長らく続いた)また食堂車はあって当たり前1等車2等車は全席指定が当たり前で、東京大阪間の電車特急は横浜・名古屋・京都は全列車停車してあと熱海・沼津・静岡・浜松・豊橋・岐阜・米原には各列車2駅追加停車で運転され、大阪九州も大都市や商工業都市に限定されて停車駅を設けてました。なおみどりの場合かもめと停車駅をシェアしていたはずです(姫路・岡山・広島・下関には絶対止まるがそれ以外はシェア)。なお神戸は三ノ宮との兼ね合いで下り第二富士と上り第一富士のみ神戸・三ノ宮停車でそれ以外は厳格に神戸停車か三ノ宮停車に分かれてました。これは特急の連続停車は関門間の機関車交換に伴う停車は例外中の例外と見做して厳格に避けられてました。なので門司に停車したら小倉通過、小倉に停車する場合は門司通過というのが当時の不文律となってました。
本編中の京都発普通神戸行きは現在の快速電車です(京阪間の当時の停車駅は高槻のみ)。この当時の快速電車は基本京都神戸間(かつての急行電車の運転区間)でこの中から延長運転で下りは西明石・姫路・播州赤穂・上郡、上りは草津・安土・米原まで行ってました。
こだまの乗車率は高かったですが、当時は特急は別格です。正に特別急行列車です。
当時の長距離の移動手段は普通列車か夜行列車です。急行、準急、夜行列車の二等に乗れればまだいい方です。
幼い頃、九州から大阪に向けて、急行「しろやま」に乗ったことがあった。
寝台主体の当時からすれば豪華な特急「あかつき」には及ばなかったものの、「しろやま」に乗ったのは編成が少数派の寝台車だったから自分はそこそこ恵まれていたのだろうな。
当時は6時間半で大阪まで行けるというだけでも画期的だったんですね。
現在では7時に東京駅を出れば、新幹線乗り継いで13時半には鹿児島中央の手前まで行くことができます
当時のプロ野球選手こんな感じで博多から東京迄移動頻繁にしてたんやからね。
ご視聴とコメントありがとうございます。
遠征が大変だったことがわかりますね。
@@tomoyankunプロ野球の移動は、この頃ですと、クロスシートの列車ですよ。夜行(もちろん寝台ではなくクロスシート!)もよく利用していたはず。
この頃は今のように特急に簡単に乗れる時代ではありません。
特急に乗れたのは限られた主力選手だけですが、主力選手でも夜行列車で移動することがありましたよ。
どのチームも遠征になると旧客のボックス席か通路に新聞紙やゴザを敷いて雑魚寝です。10時間以上の移動はザラです。
@@radiotanpa さん
主力選手や首脳陣は、一等寝台(「マロネ40」「マロネ41」「ナロネ10」辺りか)でしたが他は二等車が当たり前でしたからね。
静岡県内に停まるんだ
横浜〜名古屋ノンストップだったような
今の時代から考えると当時の停車駅(最速達列車停車駅=最重要駅)の基準が違い過ぎて驚きました。 小倉飛ばしも衝撃的ですが小郡に停車していたのもびっくりですね、県庁所在地へ向かう山口線への乗換駅とはいえ当時は小郡【町】だった筈です。あと姫路での3分停車や岩国停車も意外でした。 往時を体感できる素晴らしい動画を作成して頂きありがとうございます。
小郡は昔から特急が多く停車しており、新幹線博多開業直後でも、最速ひかりの一部が小郡に停車していました。
今でもそうですが、県都山口への玄関口兼島根県西部への窓口でもあったんですよ。元小郡町民より
結局合併まで市は名乗ってはないし、その点では本質的には当時と今とで違いはないと思う
これより 5年位後 幼稚園位の時に 神戸から 小倉に 父の帰省に連れられて 父と2人で 乗った記憶があります 赤いラインの電車に乗った記憶は鮮明にあります 夜に到着したのも 覚えてます 道中の記憶はないですが 長旅だったんですね
昔は、飛行機よりも鉄道がメインだったことがわかりますね。
大変興味深く拝見させていただきました
wikiによるとこだま号の途中の停車駅は横浜名古屋京都だけとなっており、それを信じていたのですが
この頃は熱海や静岡も追加されていたんですかね
ご視聴とコメントありがとうございます。
1960年のダイヤ改正で停車駅が2駅増やされたと記憶しております。それ以前の横浜名古屋京都のみ停車のインパクトはすごいですね。
横浜名古屋京都のみとなると現在の新幹線「のぞみ」以上に停車駅が少ないことになりますね。
こだま号で実際に東京大阪を日帰りした人はいたのでしょうか。
現地滞在時間は3時間ですね。
目的や要件にもよりますが、どちらか片道を夜行にした方が効率が良さそうですな。(・ε・` )
いてもおかしくはないでしょう。東京or大阪でお昼過ぎに会議を行うだけ、取引先と交渉事をやるだけ、役所や裁判所に行くだけ、という仕事はありますので。
ご視聴とコメントありがとうございます。
理論的には可能ですが、実用性の観点から考えると日帰りを選択する人は短時間で用事が済む人に限られるでしょうから限定的だったでしょうね。
現地滞在時間は3時間。東京・大阪間を実際に日帰りした強者ビジネスマンがどれほどいたのか考えてしまいます。
それに、東京駅にそんな早く来られる人も限られていたでしょう。
@@houseyfk さん
その代わり、東京~大阪には夜行急行が充実していました「銀河」「明星」「彗星」等
もはや(東海道新幹線)こだま抜いてひかり
大阪駅での乗り換え時間猶予が10分。。
よほど体力とコンデションが良くないと、強行できない旅程ですな。
当時はマルス券ではなかったから切符の購入が困難だった。先人の最速達としての心意気と努力の結晶です。とても参考になりました
乗車券センターのベテラン職員がくるくる高速で回っている座席予約台帳入れから目的の列車の台帳を取り出して手で記載すると言う原始的な方法だった様ですね。マルスと言うと、少年の頃に不愛想な国鉄職員が目的の列車が記載された金属のページをバタンバタンと捲ってから棒を差し込んで発券していたのを覚えています。
100年後だと飛行機でもこういった類いの動画を見て驚かれたりしそう。
2024年の時は東京→パリが飛行機で13時間かかっていましたー、みたいな。
2124年では東京→パリ3時間で行けるのに当時は日帰り出来なかったんだ、当時の人は大変だったね~ みたいな笑
福岡に住んでいますが国鉄時代に南福岡駅が雑餉隈駅だったのは初めて知りました
タイムスリップして旅行した気分を味わうことができました。
昔は夜行の普通列車が何本も走っていたんですね。
食堂車のメニューはやはり割高ですね
駅弁が100円だ何だの時代、シチュー定食がその3倍以上、ステーキにいたっては4~6倍とはね
今やファミレスで若い子でもステーキ食べてるのを見ると羨ましいですねw
昔々のステーキは、そりゃもう大変な御馳走ですよ。
今とは時間の流れが違いすぎる。
雑誌や新聞を見て時間潰してたのかなぁ。
個人的にですが、こだまがきたなら燕との比較もお願いします
シツで連絡する321Mってこんな時代から走ってたんだ…
今は沼津までとはいえ東京発の時間も一緒だしすげえや…
キハ80みどりにはセノハチの補機はつながなかったんですかな。
気動車は補機はつながなかったようです。
そもそも急勾配なのは上り方向でしたな。失礼しました。(ヽ´ω`)しかし、気動車では補機をつながなかったのに、電車(151、153系)には補機が必要だったというのは面白いですな。
キハ58系は板谷峠も補機が付きませんでした...
板谷峠、特急つばさのキハ80系とキハ181系は補機をつないでいたみたいです。
@@exp.m.k.2300さん
板谷峠では多客期にはトラブル防止の為か、急行にも補機がついたとの証言もありますな。(*´・∀・)
三ノ宮ではなく神戸に停まったり、1964年時点の普通がすでに爆速だったりいろいろ驚くことばかり。
1964年って戸塚駅はなかったんだ
当時戸塚駅は横須賀線の電車のみ停車していました。
現在の保土ヶ谷、東戸塚と同じでした。
@@hc-ir2dr 東海道線は全列車通過だったので、ホームがあっても時刻表に記載は無かったということなんですね
SM分離前は戸塚も通過していたというのは不思議な感覚です
新幹線が出来る直前でもその日のうちに東京から福岡までたどり着けるようにと精一杯のダイヤを組んでいたのですね。それだけでもありがたいものだったと共に国鉄の関係者の苦労が偲ばれるものです。
特急券はプラチナチケットでどちらの列車もなかなか取れなかったものと思います。それでも取れればラッキーだったのでしょう。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
当時の技術と設備で精一杯頑張っていたことがわかりますね。
途中の支線で優等列車への乗り継ぎが思ったより少なく、東京→福岡への利用を想定していたことが伝わってきます。
子どもを乗せて喜ばせようとなんとか【こだま】の切符を確保したら、当日現れたのが153系の【かえだま】で子どもが泣いて困った!( ノД`)…とかもあったようで。
この頃のダイヤで最南端⇒最北端とかどれくらいかかるのでしょうか???
特急は少なかったものの、長距離や夜行列車が多かったので、在来線縛りならば、夜間にほとんど移動出来ない現在よりも速いように思いますが、いかがでしょうか。(*´・ω・)
ご視聴とコメントありがとうございます。
大変面白そうですね。しっかりと調べたことがないので、一度取り上げてみようと思います。新幹線抜きならば、当時の方が速いでしょうね。
この当時、S38/11月号だと稚内12:00(急行天北)19:12札幌19:30(特急おおぞら)24:00函館00:15(青函連絡船)04:45青森05:05(特急はつかり)上野15:35についた
東京18:20(寝台特急みずほ)13:22鹿児島に着いた
旅をしてる気分になりました。
乗ってみたかったです。
食堂車でご飯食べたいです。
ご視聴とコメントありがとうございます。
私も同じで、食堂車でのご飯はもう一度食べてみたいです。
広島県民の気づき。今では当たり前になっている可部線の乗り換え。当時はなかったのですよね。配線の関係で横川駅始発で。放水路工事関係の線路付け替えも近い時期なので。
ご視聴とコメントありがとうございます。
今では当たり前の、広島駅での可部線の乗り換えですが、当時は無かったことが驚きでした。
「こだま」「みどり」を通し運転することはできなかったのかな。
一番列車のテープカットは、実在するであろう「児玉みどり」さんに!
政界屈指の鉄道好きとして知られる石破茂新総裁も幼少の頃に東京から鳥取を家族で移動したときに乗ったのでしょうね😊
東京駅に15番線なんてあったっけ?
と思ったら新幹線のホームだ。
開業直前だよね?
7:29 第一こだま(151系電車)、大阪に着いた(13時30分。東京発は7時):途中の停車駅は、横浜、熱海、静岡、名古屋、京都
16:52 みどり(キハ82系の気動車)、博多に着いた(22時35分。大阪発は13時40分):途中の停車駅は、神戸、姫路、岡山、福山、広島、岩国、徳山、小郡、下関、門司、博多
これもまた特別な想いが生まれるね。
高速鉄道の先駆けのようなもんだもんな。
本当に良くできてると思う。
いつも見ていて、凄いなぁと思いますよ。
わがまま言って申し訳ないですが、東北系・羽越系も見てみたいですね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
東京ー九州間の需要に応えるため、当時の設備と技術で精一杯頑張ったことがわかりますね。
東北系や羽越系も乗り換え路線も多く、大変面白そうですね、とり上げてみようと思います。リクエストありがとうございます。
東京6:43=大阪13:30
(大阪に)行って帰ってくるから「こだま」とはよく言ったもの。
東京を朝7時に出発して乗り継ぎして博多に到着したのが夜の10時半頃……1964年当時の人は九州に行くのが一苦労って感じですね……日帰りはできないから何日か滞在してから帰ることになるでしょうね😅
ビジネス等で飛行機が使えなければ、おそらく東京ー博多間は寝台特急あさかぜ利用が多かったのではないでしょうか?
他に、この頃には、寝台特急さくら、みずほ、はやぶさもあったはず。
昼行特急乗り継ぎは稼働日が1日無駄になるのに対し、寝台特急なら前日夕方から翌朝までの時間を移動に当てられるので効率的だったのでしょう。
@@kataakeo7730 確かに九州方面の寝台特急なら日豊本線経由の列車を除いて博多には停車するはずですからね。九州方面の出張や旅行ならそっちの方が時間を有効に使えそうです。
@@jops-tv4202 「日豊本線廻りの寝台特急は富士があったはず」と書こうとしましたが、何と1964年10月改正での設定でした。もっとも、特急みずほの一部が門司で切り離され、大分まで運行していました。
このころの長距離列車だと寝台列車が多くあったから一般の人はそれを使っていたのではないでしょうか?
国鉄としても東京→大阪ぐらいの距離は特急、それ以上は寝台列車を使ってくれっていう感じだと思う。
新幹線の登場で鉄道の在り方が変わったのは事実だと思う。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
現在はオンライン会議か日帰り出張が可能になりましたが、当時は宿泊がセットになることが多かったのでしょうね。効率性や生産性の観点からは比べ物にならないでしょうが、なんとも言えないゆったりした感覚がありますね。
遠近分離などを加味した上で、必ずしも都市規模に比例した停車駅選定では無いなか
徳山 小郡(新山口)に停車するのは のぞみ のルーツって感じがする
特急みどりの大阪-神戸間24分走行も速い!
durian0410さん
しかも、当時特急用ディーゼル車の先駆けだった「キハ82形」ですからね。
流石特急停車駅が少ないですね
門司停車小倉通過は驚きました
まつかぜ時代は門司通過小倉停車だったしさくらは小倉通過でした
昔は門司駅もブルトレ以外の特急も停車していたのですね
次は上野発稚内や根室着の時刻表が見てみたいです
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
現在の感覚でいくと、小倉通過には大変違和感がありますね。今後は東北線系統も作成してみようと思います。リクエストありがとうございます。
寝台特急富士も小倉と中津を飛ばして別府迄無停車だった時代が有りました
乗り換え時間含めて15時間35分は当時としたら最速でしたね
寝台特急で一番早かったのが「はやぶさ」で16時間50分。乗り換えにしてもどちらかが急行になってしまうので一番早くても第一つばめ(09:00)→広島で急行しろやま(20:40)→博多02:46の17時間46分。
この乗り継ぎが当時としてはどれだけ早かったか解りますね
しかし、当時は列車によっては通しの特急券が発行されることが有った(はつかり→おおぞろ・白鳥→おおぞら・秋田でのつばさ→白鳥)ものの、このこだま→みどりは「流石に日中の移動は少ないんじゃね?」って事で設定を見送ったとの事
値段的には、東京~博多は一等運賃3690円・東京~大阪・大阪~博多の一等特急料金は其々1760円・東京~大阪のパーラーカー料金1650円で片道8860円
「あさかぜ」利用だったら、東京~博多の一等特急料金は1760円・個室寝台料金3080円で片道8530円
当時の飛行機料金は片道12000円(日本航空・直行便1時間30分・伊丹経由便3時間30分)
一等で行ったら無茶高い(笑)。しかしながら岡山や広島に向かう方や名古屋から博多方面の方に対しては乗継割引適用して欲しかったです
岩日線は、岩国の最終が18:46で1分前に出発しちゃっています。
これこそ「なんとかならぬのか!!」の象徴ですね。
しかし、岩日線沿線沿いに国鉄バスが運行していたので、カバーしていたのではないか?と推測します
19:20に周防広瀬行・20:10に秋谷行が運行
お疲れ様です。いつも興味ある動画配信有り難うございます。
東京駅から博多駅まで掛かった旅費を当時の時刻表から計算してみました。
「第1こだま」「みどり」両特急とも2等車で旅すると、3810円、
両特急とも1等車を利用かつ「こだま」のパーラーカーに乗ると、9260円。
ちなみに羽田空港から福岡空港まで当時のジェット飛行機で旅するとなると、
羽田7時50分発福岡9時20分着の日本航空303便があり、料金はなんと…
13000円でした。
イロハで計算すると飛行機はまさにイ、ですね(笑)
今とたいして変わらんか今の方が安いという
復活してくれたら乗りたい
指定席券があっという間に売り切れるだろうね。
5:06「大卒初任給が2万円」とありますが、今の約1/10ですね。食堂車のメニュー価格を今のファミレスなどと比較すると1/5ぐらいだと思いますので、相対的には2倍ほど高かったことになりますね。
当時の消費者物価指数は、今の1/4~1/5です。しかし、食堂車のメニュー価格は今の喫茶店の1/10のような気がします。
こだまの停車駅すげぇ。この列車に「のぞみ」の愛称を与えても良かったのでは。停車駅だけ言えば「新幹線ひかり」すら凌駕してる。。。
やろうと思えば大阪まで日帰り出張できるという意味で「こだま」と名付けられたといわれているので、この頃に「のぞみ」はアイデアとして出ていないと思いますね。
@@シャナ-x7c 新幹線が開業してひかり、JRになってのぞみ、ある種のインフレですね
それにしても、なぜ特急みどりが気動車特急なのでしょう?と疑問に思いましたが、何とこの頃はまだ交直流特急電車が存在しなかったからでした。
交直流特急電車のデビューは東海道新幹線開業と同じく、1964年10月改正からでした。
それともうひとつ、広島〜小郡の電化完成が同年7月で10月改正まではSLが走ってる状況だったのです。
485系や583系のような交直流電車は1968年のヨンサントオで走り出したようです。
東海道新幹線開通と同時に、特急つばめが、新大阪~博多へ西にスライド移籍し、最初の1年間は151系で走って、九州に入ると電気機関車牽引という異例というか苦肉の処置がとられてました。
@@SuperAKYURA
481も完成が遅れた上にリスク回避?で北陸が先行しましたからね。
浜松、米原、三ノ宮、明石、小倉の通過は今では考えられない
当時の在来線の特別急行を象徴する停車駅だった
政弘樹さん
当時の特急は「特別急行」そのもので、県庁所在地の拠点駅等重要とされる駅にしか停車しませんでしたからね、その分を補完していたのが、急行・準急(この違いは走行距離の差→1968年10月の「ヨン・サン・トオ」白紙ダイヤ改正で急行に統一)でしたからね。
@@原田寛-e3u
小倉に停車せず門司に停車って、当時は鉄道管理局が門司にあったからなのでしょうか?
@@ごとおひろこ それもありますが、内燃機関運転士(ディーゼル車両運転士)の資格者が門司機関区にしかいなかったからでは?
@@原田寛-e3u なるほど(^^)/
そうですね。私が物心ついた昭和40年代後半ではどの列車も神戸を通過しても三ノ宮は停車するという状態でした。
豊橋、米原通過とは!
三ノ宮通過で神戸は停車ですか?
自分がそれを書き込んだあと、以前からそういう指摘がされていたことに気づいて笑ったが、さらに加勢か。
やはり、現代人には違和感ある、いかにも昭和中期の三ノ宮通過で神戸停車だな。
ええええ 小倉 過ごしましたね 小倉は昔は少ない駅でしたか⁉️
浜松、豊橋、三ノ宮、倉敷、小倉…そこそこ大きな駅も通過ですか😅
特急「第1こだま」 東京 → 横浜 → 熱海 → 静岡 → 名古屋 → 京都 → 大阪 → 特急「みどり」 大阪 → 神戸 → 姫路 → 岡山 → 福山 → 広島 → 岩国 → 徳山 → 小郡(新山口) → 下関 → 門司 → 博多 😮
今在来線で東京博多間を行くのも特急はほとんど走っておらず18切符でも新山口が限界とされるが首都圏の旧ライナー系特急では時短効果が短く、サフィールはただの全指特急特急では無くオールグリーン車。首都圏の特急は時短が薄く座席確約のメリットしか無い。
も京都倉敷間では陰陽特急が走るが時短が期待できるのは阪神間を過ぎてからだし本数も1~2時間間隔で思うように時短効果がない。
jr九州に入れば特急はあるが時間が遅い。在来線だけで東京博多間は特急okでもタイミングが合わなければ特急に乗れないので実質18切符の旅と変わらない。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
丁寧な解説ありがとうございます。コメントしていただいた内容をもとに考えると、現在の在来線ではどれだけお金を支払ったとしても、18切符との差はあまり大きくなさそうですね。
7:24の辺りで、大阪駅到着…。まだ、新大阪駅が誕生していない。あ、新蒲原駅も無いんだった…。
大阪の乗り換え時間が10分だと、今なら蓬莱の豚まん買う時間がない!
だいたい何人かは行列してるので…
第一こだま
東京~大阪
所要時間6時間30分
停車駅 横浜、熱海、静岡、名古屋、京都
みどり
大阪~博多
所要時間 8時間55分
停車駅 神戸、姫路、岡山、福山、広島、岩国、徳山、小郡、下関、門司
合計所要時間 15時間35分
在来線のスピードではこれが限界
新幹線博多開通時は東京~博多の所要時間は6時間26分
現在は約5時間前後で走行している
新幹線のスピードアップの効果を示す動画だった
細かい事ですが、博多開業時は6時間56分でした。当時筑豊地区の路盤が安定してなく速度制限がかかっておりました。
東京〜広島を結んだ昼行特急の第1・第2つばめをお願いします。
小田原、沼津、浜松通過って凄いね
小田原・沼津は湘南電車との兼ね合いがあったでしょうし、浜松は静岡との関係で停車しなかったのでは(電化が浜松迄の時代は機関車付け替えの関係で「つばめ」「はと」が静岡と交互停車していた時代もありました)
大阪~博多間の特急「みどり」が6両編成の短さというのにも驚きました。大阪駅で待ち合わせ10分という手頃な時間を設定しているので、「第1こだま」からの乗り継ぎ客も想定していたんじゃないかなとも思うんですが、岡山・広島方面までの需要はあまりなかったんでしょうか。
1964年9月時点なら東京〜広島間は9時発の「第一つばめ」がありますから、需要が分散された?
他に京都~長崎・宮崎間の「特急かもめ」もありました。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
他の方のコメントにもありますように、『第一つばめ』に乗車すれば東京から乗り換えなしで行けますから、分散していたのかもしれませんね。
みどり号の岩国から西、軒並み1分間の停車時間は余裕時分の少ない目一杯の走りをしていたように映ります。
そして小倉飛ばし、衝撃す。。
新幹線でさえ品川に止まる昨今とは隔世を感じますね、しかし、最後の言葉はワンカップO関のCMを思い出しますw
次回の「時刻表の旅」シリーズのリクエストではありますが、東海道線特急としての「おおとり」号を取り上げて下さる様、お願い致します。「おおとり」というと北海道特急としてのイメージが強いですが、元々は東海道線にて使われていた列車愛称なんですってね。
中京圏の出張族でごった返していそうだなあ。
今となれば18切符があるが流石に東京~博多は一枚では無理模様です。
岡崎安城刈谷大府の並びは凄いな 当時は蒸気機関車自体の名残か駅間距離は長かったんだな
蒲郡~名古屋が、一部停車や臨時停車まで含めるとほぼ快速停車駅w
後から開業したのが、三河塩津、三ケ根、相見、西岡崎、三河安城、東刈谷、野田新町、逢妻、南大高、金山、尾頭橋、と当時の倍になってる
今や錦川鉄道になっている岩日線。18時47分に岩国に到着した時点で連絡がないとは...
当時から厳しかったのでしょうか...
今回も珠玉の列車たちにただただ感動😢
岩日線最終列車の岩国駅発車が18時46分…。調整してよ!と10月改正号を見たら50分発になってて、下りはと号岩国18時47分着としっかり接続。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
私も同じで、動画を作成している途中で「接続してよ!」と思いました。
岩日線の営業係数が、昭和39年時点で600を超えていたとの情報もありますので、かなり厳しかったのでしょうね。
返信いただいたコメントを見て、当時も無慈悲なダイヤってあったのかと思ってしまいました...
@@exp.m.k.2300 さん
なんだか、某「名古屋の赤いあんちくしょう」の逝っとけダイヤみたい。
三ノ宮通過で神戸停車、今とは逆だったんですね。
というより特急がガチると名古屋まで新幹線こだまの1時間落ちで来れるんやな、えぐすぎ
これまたよくお調べになられましたね!
主様のチョイスが秀逸すぎます😃コメント数が多いのも、皆さん大変関心のある動画なのですね😊
この時代の特急はほんと停車駅少なくて、正に特別な急行ですよね!。
特急を特別急行だ、ということを知らない人も多いと思います。
そもそも、急行がなくなった以上、特別急行の意味はない。
現行の特急は全て急行に統一して何ら差し支えない。
@@Kineosporia 臨時急行はごくまれにあるから、料金の観点から考えようぜ
当時のダイヤでは輸送力の限界を
超えていたのがよくわかりますね。
モータリゼーションの影響をまだ受けてなくて鉄道移動が主だった
頃にしては
運行本数や両数が全然少ない。。
現在の新幹線って、
なんだかんだで
なくてはならない存在ですね。
新幹線の速達列車も当初の停車駅に戻して欲しい。東京の次は名古屋そして京都・新大阪…と。
おぉ、熱海に停まって浜松、豊橋には停まらないのか。静岡の次が名古屋ってのも凄いな。左側ばかり見てたけど、右側の情報もおもしろい。
通過駅がㇾと昭和の時刻表だな!
これなら東京〜広島・山口・福岡はこだま〜みどり接続よりも、ブルートレインだと(3段寝台といえども)寝たまま一晩で快適に移動できるから、重宝されたわけですね。
料金がどれほど違うかわかりませんが、特急のナハネ20よりも、急行のオロネ10の方が快適そうですな。(*´・∀・)
@@クモハ165 オロネ10は583系みたいな寝台でかつ2段式だったような。それなら快適そうですね。
@@kataakeo7730 手元の1964年9月号(復刻版)で調べたら、オロネ10(Bロネ)は貴重な最新車なので九州直通急行には連結なし。そこで広島行き急行「安芸」と広島までの20系ハネ利用と比較してみました。等級制時代だから計算が面倒でしたが、特急2等寝台下段は3230円、安芸1等寝台上段は5190円と出ました。当時の「1等」って敷居が高かったのですね。
@@akiratan さん
勉強になりますな!(*´・∀・)てっきり急行の方がいくらか安くて実はお得!とかかなと勝手に想像しておりました。(ヽ´ω`)
@@クモハ165 当時のブルトレ4往復には個室(ナロネ20・ナロネ22)が連結されていますが、当時は政財界の「富裕層」にしか手が届かない、まさに特別な「部屋」だったのですかね。
小田原も三島も沼津も浜松も豊橋も岐阜も米原も停まらないのかw
それにしても物価が安いなぁ。
この列車乗りたかったです。十数年前なら九州行き寝台特急や特急東海で追体験できましたが、それも遠い時代になりました。臨時列車で走らせてほしいですが、無理ですね。(現代であれば、東海道線普通グリーン車・ホームライナー・新快速乗り継ぎでしょうか)
食堂車での食事も、もはや記憶の彼方です。(十数年前に北斗星・トワイライトでかろうじて・・)昭和は遠くなりにけりですね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
優等列車で追体験することもできなくなってしまいましたね。座席指定のできる列車を乗り継ぐ程度しかできないなと思います。
食堂車、10年ほど前に北斗星の食堂車で夕食と朝食を食べたのが最後でした。
面白い
この企画面白いです。この当時、吉幾三さんの故郷に東京から向かったらどうなるかとか、あるいは日本縦断やったらどうなるかとか、そんなのもやって頂くと感謝です。
駅弁の価格が半世紀で10倍になってるんだなぁ