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実は凄かった二代目の秀忠
意外な話として、大の煙草嫌いで、そのため江戸城には喫煙室があってそうな。なんと既に分煙が進んでいたという話。
なんの資料の情報?
@@teraikazuya829nishiaraieki すいません、昔読んだ本にあったのですがソースとしては分かりません。ちなみに1609年に秀忠は火災防止として禁煙令をだしています。
@@鳳梨-p5y 童門冬二の小説にもその話がありましたね。
客観的事実として秀忠は「秀忠」の諱を死ぬまで使い続けたんですよね。皆さん知っての通り「秀忠」は豊臣秀吉に与えられた諱。豊臣家を滅亡させた後は豊臣に与えられた諱なんか捨てて他の諱に変えてもおかしくないはず。なのに「秀忠」の諱を使い続けたのは、秀忠の秀吉に対する思いも感じられるんです。
近年では関ヶ原の戦いの後、豊臣家に対して強硬的だったのは秀忠の方だとされるけど、仰る通り終生「秀忠」の諱を使い続けたり江が淀殿・秀頼の菩提寺を建てるのを許してるから秀忠の豊臣家に対する感情は謎
@@山城弾正 さんですよね。本当に豊臣家に対して悪い感情があるのなら、「秀忠」の諱なんかさっさと捨てて「家〇」って感じの諱に変えてるはずですよね。
兄の結城秀康や、毛利秀就、織田秀雄、仙石秀久 等々…秀吉の偏諱を受けて江戸時代以降も変えてない者は他にいくらでもいる信長の偏諱を受けた丹羽長重や黒田長政、さらに遡れば後醍醐天皇(尊治)の偏諱を受けた足利尊氏なども同様たとえ主家が衰退、滅亡しようとも、基本的に新たな主君や、より格上の人物から重ねて偏諱を受けない限り、自ら偏諱を捨てるのはあまりよろしくない家康が今川義元からの偏諱を捨てたことの方がイレギュラー秀忠は、松平氏の通字の「忠」は継いでいるわけだし(この時点では「家」は通字じゃない)、「家忠」とか「忠康」は同族に同名の人がいるから変えようもない敵といえど供養をするのは普通のことだしね確かに秀忠が秀吉寧々夫妻に好感情を持っていた節はあるかもしれないが、それとこれとは別少なくとも淀や秀頼に対しては大して思い入れはないと思う
結城秀康は徳川が豊臣を滅ぼす前に既に死んでますよ?
うーんこの司馬史観ゴリッゴリ信長は家康の好きにしてって言ったという資料が残ってますね関ヶ原の遅参と言っても何月何日に合戦するから集合と決められる訳がないので(真田を攻めるのは家康の指示通りの規定の行動)予想外だったのは関ヶ原の合戦の速度と中山道が大雨で伝令と進軍に遅れが出たことですが、それを秀忠の責任とするのは難しいかと
秀忠は戦の才能がない代わりに政治の才能があったということでしょうね。実は側近の土井利勝の献策だったという話はありますが。😅
保科正之の存在を隠し通せたのは土井利勝のお陰だしな
有能な人を見出したり、ウソを見抜いたり、選んだ人に仔細を任せられる度量はトップに求められる「政治の才能」の内だし別に良いんじゃないかな。秀忠とほぼ同期で大陸の皇帝やってた崇禎帝さんなんか、めちゃくちゃ有能な人を下衆い勘繰りで処刑しちゃってるんだし。
葵徳川三代は面白かったわ
永田町の人達より優秀だったかもしれない。
有名な政策なのにあんまり秀忠の功だと強調されないね
戦働きは父に及ばずとも為政者としては、同世代の二代目よりも素晴らしいと思うぞ。各諸法度を定め、天皇家と婚姻させたし家光に襷を繋いだイメージかなぁ。政治家としては超一流。
家康は秀忠を守成の時代のリーダーにふさわしいと見抜いてたんだろう!
西田敏行のイメージになってしまう
「ひひっ ひひっ お... おそれながら.... ち... 父上にはご機嫌麗しく...」「ひ・で・た・だ 味噌汁は欠かすな! 身体に良い。」西田さんと津川さんとの掛け合い場面しか思い浮かばないですね。
秀忠を戦下手というのは少々過酷かな。元々秀忠が中山道に行った当初は長期戦になることを見込んで、道中の諸大名を平定していくことを期待されていたのだし、家康が途中で方針を変えて短期決戦に持ち込もうと考えたのが秀忠陣営にきちんと伝わっていなかった可能性もある。秀忠が時間をかけて真田を攻撃しても不思議ではなかったと思います。
いきなり真田昌幸と闘う羽目になったのが秀忠の不幸だと思う。
関ヶ原では擁護の余地はあるが、動画の通り、大坂の陣で京への行程で逆に急ぎすぎて兵士を疲弊させたのを、家康に怒られているからね・・・大きな戦場に立つ機会に恵まれなかったのもあるが、軍事面のセンスがなかったのは確かだと思う
有能な二代目と聞いて思い浮かぶのは時代順に藤原不比等、藤原基衡、足利義詮、北条氏綱、徳川秀忠、伊達忠宗だな。共通点は政治能力の高さかな。
治世向けの将軍…だけど朝廷、豊臣家や諸大名に対して果断な対応も
隠居後も江戸城に住み続けたことで「政治の中心地は江戸」というのを決定づけてもいる。
西田敏行のイメージが強い
曹丕と徳川秀忠は優秀な2代目の代名詞ですよ
内政家としては紛れも無く優秀ですね。曹沖や信康が生きていたら、宰相や筆頭老中で終わっただろうけど
13:44地図上の長崎が指宿あたりを指してる笑
隆慶一郎さんの「影武者徳川家康」では悪役として描かれてたけど恐妻家という印象。秀忠が駿府に家康詣でをした際、家康が気を遣って秀忠の寝所に女性をあてがったけど断ったなんて話がある。
秀忠と言えば功を焦りすぎてやらかしちまったってイメージしかなかったよw
家康が信康を信長の命令で自刃させたとか、関ヶ原で真田が大活躍で秀忠軍が遅れたとかは、事実として扱うにはもうかなり怪しがられていて注釈つけないと行けないレベルの話じゃないの?
実際はどうだったの?
@@津辺晴翔 さん過去のことなので事実はどうかを判断できませんが信康の件については親子(三河と岡崎の)の確執による徳川内部の都合による処断で信長に対しては信康の岳父であるため信康への処分についての事前の報告もしくは許可のために使者を送ったにすぎないのではないかという説のほうが最近は強い感じみたいですねえ…秀忠の上田城攻めについてはもともと当時の記録に真田の大戦果を記しているものはなく秀忠軍がもともと予定の信州攻略を始めようと布陣ができたところに家康からこちらの合戦が始まりそうだから信州攻略はもういいからはよ来てね的な手紙が来てそれに従って陣を引き払って移動していますので真田の武勲話は判官贔屓的な伝承でしかないかと…
@@h417-e4n ほんとかよ
@@津辺晴翔 さん疑問に感じた場合は書籍なリネットなりでご自身でお調べください少なくともネットに繋ぐことができる以上調べる手段はお持ちのはずです
@@津辺晴翔 信康切腹については安土日記や当代記などの同時代資料で信長は「家康殿の思う通りにして下さい」という旨を言った事しか書かれていません。第二次上田合戦に関しては「真田が秀忠を打ち負かした」というのは関ヶ原から130年も経った頃に書かれた書物にしか記載が無く、信頼性のある同時代資料は発見されていない事と、秀忠の遅参が「徳川主力を温存した」などと言う話が出たりした事、家康から叱責された理由は「遅参」のみで、真田に負けた事は理由にされていない事も合わせて考えると、「物語」に属する話だと思います。
日本史上最大の遅刻をしたのに2代目ゲットまさに「遅刻の神様」
先見では秀忠はあまりに優秀。家光は秀忠の政策をさらに締め付けキツくしただけだったように思いますね。
先見性が?樺太や台湾を開拓しようとしていたの?あるいはイスラムを含む外国の知識や技術を分析して導入する組織でも作ろうとしていたの?
@@tevalleyluckman8746なんなの?あなた
@@camel2158 普通に優秀と言うのではなく、あまりに優秀と言うのならそれに近い発想を持って欲しかったと思って言っている。ちなみに戦国末期の名医・曲直瀬 道三は西洋医学と東洋医学の統合化を提唱していた。この意見が通れば少なくとも医学やそれに付随する技術や知識を日本は継続的に導入し、史実よりも早い近代化の基礎形勢が為されたと思う。樺太や台湾の開拓はいたずらに国を閉ざしたり、大名を取り潰すのではなく、明確に他国の領土でもない近隣の島嶼を史実で取り潰される大名たちに開拓させて、日本の土地を増やすくらいの気概を持って欲しかったという意味を込めた提案だよ。
@@tevalleyluckman8746そんなのしたら、江戸は早々に終わって、今の日本はなくなっていた気がする。それが良かったかどうかは知らんけど
@@澤茉帆太琉 かもね。私の考えを幕府が実行に移そうとしたら、まず、開拓に駆り出されるのは豊臣系の大名だっただろうし、特に台湾ではかなりの犠牲が出そうだ。(まあ、台湾現住民には美女が多いことくらいが慰めだろう。)人や物の行き来も確実にするために船舶の建造技術は発展し続けて、輸送警護を基本任務とする幕府海軍が維持され、大英帝国に似た軍組織を持ちそうだ。さらに台湾開拓が成功したら他の南海の島々の開拓も始まって、マリアナ諸島、へたをすればミンダナオ辺りまで開拓や植民が進み、幕府の目が届きにくい辺境での海賊行為や密貿易も盛んになって、幕府の統制が届きにくい南海地域の大名たちが独自性をもっていき、田沼意次の死や松平定信の懐古的な政治への反発で幕府は南海大名の党勢力を完全に失ってしまい、彼らは半世紀近く早められた明治維新と同時に日系国家を立ち上げ、後の国会の核となる列侯会議の指導の下、台湾をはじめとする南洋の日系国家を纏め上げようと腐心する大日本帝国政府は、史実の帝国と言うよりも”連合帝国”のような体制の下に諜報活動と表裏の交渉による政治的駆け引きを重視した統治スタイルを持つ国家になってしまうと思う。軍は海軍主体となり、政治機構は諜報活動重視の仕組みで整備されていくだろう。そうなった場合、史実通りに毛利や薩摩が英国の扇動で体制変革の軍を起こそうとしても、強力な海軍によって本拠地を海側から攻められてあっさりと終わるだろう。幕府も早く終わるが、薩長主導の維新も早期に終わってしまう。
徳川秀忠はやり手だ。
最強の二代目
実務に長けた冷徹な為政者。石田三成に通じるものがあるかも。
秀忠の戦いたくねぇって気持ちはびしびし伝わる
0を1にする力はたぶん乏しかったんだろうけど、1を100や200にする力は非常に優れてたに違いない
家康は信長の家来になったことないよ
最後の方はほとんど家臣みたいなもんだろ。論功行賞の対象にされちゃってたし。
三郎信康と比べたら後の子供みんな物足りなかったんではあったんだろうな家康公からしたら
凄く楽しく見てたんだけど長崎の場所😂
秀忠が立花宗茂を取り立てたのが、大阪夏の陣の秀忠軍総崩れ阻止と息子の家光時代に起きた島原の乱の総大将知恵伊豆を救うことになったことを考えると人を見る目はあったのだろう。しかも両者とも「関ケ原」に間に合わなかったという妙な因縁があるのも笑えるな。
武家諸法度も禁中並公家諸法度も 鎖国も、家光だと中坊の頃に 教わった記憶があるんですが、 そうでしたか。
数年前までの歴史の常識はかなり変わるしね。ちなみに鎖国なんかしてなかったよってのが最近の説なはず。日本人奴隷化対策と宗教による占領にむけた地ならしを防ぐ手段だったに過ぎず世界に遅れていた訳ではない。幕末も列強諸国の動向にかなり詳しくしっかり対応したから日本が維持された。薩英戦争も昔は薩摩フルボッコって習ったけど、実際には薩摩だけで英国に大打撃与え英国の日本占領諦めさせて友好関係に持ち込んでる。色々調べて色んな角度から見ると歴史は面白いね。笑
偶然かわからないですが、豊前の大名は築山殿の血縁息子(信康)娘(亀姫)で固めている。
(小声)汚名は挽回ではなくて返上
挽回するなら名誉ですね
秀忠時代から厳しい改易が行われ続けた結果、家光時代に「由比正雪の乱」が引き起こされてしまう。なので世継ぎがいなかった場合に幾分緩和され、末子相続や養子縁組による相続で大名を存続させる方向に代わっていたんだよね。後は秀忠時代には、優秀な部下たち、例えば自分の息子?と言われている保科正之、知恵伊豆こと松平信綱、大老酒井忠勝など、輩出して、実務的にすごく安定した。後ははじめ御三家は尾張、紀州、駿府だったと聞いている、多分次男の忠長の乱行が無ければ御三家の一人になっていた可能性が高いな。
由井正雪は家綱時代
紫衣事件はどっちかというと秀忠の関ケ原以上のやらかし案件。譲位で幕府の影響を示したと言っているが、あれで家康時代からやってきた和子入内が無意味となってしまった。秀忠が優秀だった事に異論は無いが、間違っている箇所も多々見られる解説動画なのでそのまま信じるのは危険かなぁ。
家康や家光のために誹謗中傷されてる二代目
次男の秀康が亡くなっているから、将軍になれた、というのは間違い。秀康が存命中に、秀忠は征夷大将軍になっている。
秀忠は遅刻将軍の異名のイメージしかない
あれはしゃーなしやろ
秀康が他界後後継ではなく、秀忠が二代将軍就任2年後の1607年歿。千姫は先夫豊臣秀頼歿後本多忠勝の孫忠刻に嫁いでいて、二人の間の娘勝姫(秀忠娘三女同名勝姫は秀康嫡男忠直の妻)が後の岡山藩池田光政に嫁いでいる。水戸頼房が德川姓を名乗ったのは、秀忠や家光弟駿河家德川忠長が死去後。長崎の位置が肥前ではなく薩摩になっている。
徳川15代の中で最も頭脳派だった可能性あり。
まだ2分しか見てないけど信長って主君じゃなくね秀康死ぬの秀忠が将軍になった2年後じゃね
結城秀康 と 秀忠は、どうする家康 で誰がやるの?
秀忠が凄いんじゃなくてやはり生前の家康が「これでもか!これでもか!」と万全の万全の更に万全の手を打って打ちまくってたからこそだと思いますけどね
鎖国していたと言うのは嘘ですよ? 限定的ですが、外国と貿易してしました。そして当時は鎖国という概念が存在していません
文官としては結構優秀じゃないかな。
千姫は池田家には嫁いでません。千姫の子供がとついでます。
秀忠さん教科書に載るレベルで江戸幕府の官僚制度や法制度の基盤固めた有能やろwって個人的に思ってたけれど世間じゃ単に教科書に名前載ってるだけの人なんか……>有名な二代目歴史のプロパー、かなり詳しい素人、単なる歴史好きの素人、大学受験で偏差値65より上の素人それら以外の人で温度差があると思うけれど単なる歴史好きの素人の私が有名だろうと思った二代目は藤原不比等(藤原氏2代目)源頼家(鎌倉幕府二代目将軍)北条義時(鎌倉幕府二代目執権)黒田清隆(第二代内閣総理大臣)嬴胡亥(秦二世皇帝)劉禅(蜀後主)司馬衷(西晋恵帝)楊広(隋煬帝)李世民(唐太宗)ホンタイジ(清太宗文皇帝)カンビュセス2世(アケネメス朝ペルシア)ティベリウス(帝政ローマ2代目皇帝)アブー・バクル(初代正統カリフだがムハンマドの後継者という意味合いで二代目)シャルルマーニュ(フランクローマ帝国皇帝としては初代だがカロリング朝フランク王国としては2代目国王)ジョン・アダムス(米合衆国2代目大統領)ウラジーミル・プーチン(ロシア連邦第2・4代大統領)
世界的には秀忠の方が優秀で、家光はカトリックと農民の大量虐殺者と家臣に政策丸投げのボンボンといった所か。
織田と徳川は対等だったのでは(?)とコメント有るね。でも、長男に「信康」名付けさせたから、実質的には織田が主で徳川は従の、関係だったと思う。「信」で織田が上(主)で「康」で徳川が下(従)と、意識させる為にね。次男「秀康」も秀吉が養子にしたけど実質的には人質で、同じ意識をさせる為だろう。三男「秀忠」も「秀」で豊臣(主)に、「忠」で忠義を持って従え的な、意識付けをさせる為だろう。
秀忠の忠は家康の父、松平広忠からでしょ。
@@user-ponkotsukakumei ですね家康の康は祖父の清康秀忠の忠は祖父の広忠家光の家は祖父の家康とそれぞれ祖父から一字取ってるんですよね
@@もふもふ-x4p ちなみに松平清康の父の名は信忠なので松平広忠もちゃんと法則に当てはまっていますね(o'ω')ノ
では、家光の「光」は、八代前の信光の「光」からだな。www
@@樽井冷泉鈴 家光の諱は金地院崇伝が選定したので違いますね。
13:50 地理ももう少し勉強なされた方が…
猫のお毛皮を着こなしてた様で、大失態を演じた、一つは、狸の中の狸、真田昌幸相手だと、格が違い過ぎだから、致し方無いかも知れないんだが?、大阪の陣迄、影響したんですね。偉大な父と息子の間に挟まれて、影は凄く薄いんですけれど?、しかしまぁ、以外と言うか何だか、父が亡くなってから、猫のお毛皮を脱ぎ捨てたんだねぇ。
これぞ内政の鬼
長女の千姫は岡山池田家に嫁いでない😅
恐らく家康の次女・督姫とごっちゃになってるな...千姫は初め豊臣家、死別&出戻りのち本多家に嫁いでいる☝️
信長と家康は対等では?
対等では無いね。今でいうと、アメリカと日本の関係に近いかも。
米帝様と日隷の関係にほぼ等しい。ただし憲法9条がないので自衛隊が日本軍としてベトナムや湾岸戦争に参加して「日隷の兵は米帝の軍用犬」って恐れられてる感じだな。
ほんと はわかりません。全てが憶測
家康から激怒ばかりのやらかし将軍秀忠の最大のミス、育児がなっていない(まるで駄目な男。家光やその息子綱吉を見れば解る)。
長女 千姫は 太閤秀吉と淀君の 豊臣秀頼と結婚してる。 その後が池田
池田と結婚したのは娘の勝姫でしょ
千姫が嫁したのは本田忠勝の孫の本田忠刻。忠刻の生母は家康の孫熊姫。
姫路だからごっちゃになってる?
なぜ源氏長者になれなかったのですか?
実は凄かった二代目の秀忠
意外な話として、大の煙草嫌いで、そのため江戸城には喫煙室があってそうな。なんと既に分煙が進んでいたという話。
なんの資料の情報?
@@teraikazuya829nishiaraieki すいません、昔読んだ本にあったのですがソースとしては分かりません。ちなみに1609年に秀忠は火災防止として禁煙令をだしています。
@@鳳梨-p5y
童門冬二の小説にもその話がありましたね。
客観的事実として秀忠は「秀忠」の諱を死ぬまで使い続けたんですよね。
皆さん知っての通り「秀忠」は豊臣秀吉に与えられた諱。
豊臣家を滅亡させた後は豊臣に与えられた諱なんか捨てて他の諱に変えてもおかしくないはず。
なのに「秀忠」の諱を使い続けたのは、秀忠の秀吉に対する思いも感じられるんです。
近年では関ヶ原の戦いの後、豊臣家に対して強硬的だったのは秀忠の方だとされるけど、仰る通り終生「秀忠」の諱を使い続けたり江が淀殿・秀頼の菩提寺を建てるのを許してるから秀忠の豊臣家に対する感情は謎
@@山城弾正 さん
ですよね。
本当に豊臣家に対して悪い感情があるのなら、「秀忠」の諱なんかさっさと捨てて「家〇」って感じの諱に変えてるはずですよね。
兄の結城秀康や、毛利秀就、織田秀雄、仙石秀久 等々…秀吉の偏諱を受けて江戸時代以降も変えてない者は他にいくらでもいる
信長の偏諱を受けた丹羽長重や黒田長政、さらに遡れば後醍醐天皇(尊治)の偏諱を受けた足利尊氏なども同様
たとえ主家が衰退、滅亡しようとも、基本的に新たな主君や、より格上の人物から重ねて偏諱を受けない限り、自ら偏諱を捨てるのはあまりよろしくない
家康が今川義元からの偏諱を捨てたことの方がイレギュラー
秀忠は、松平氏の通字の「忠」は継いでいるわけだし(この時点では「家」は通字じゃない)、「家忠」とか「忠康」は同族に同名の人がいるから変えようもない
敵といえど供養をするのは普通のことだしね
確かに秀忠が秀吉寧々夫妻に好感情を持っていた節はあるかもしれないが、それとこれとは別
少なくとも淀や秀頼に対しては大して思い入れはないと思う
結城秀康は徳川が豊臣を滅ぼす前に既に死んでますよ?
うーんこの司馬史観ゴリッゴリ
信長は家康の好きにしてって言ったという資料が残ってますね
関ヶ原の遅参と言っても何月何日に合戦するから集合と決められる訳がないので(真田を攻めるのは家康の指示通りの規定の行動)
予想外だったのは関ヶ原の合戦の速度と中山道が大雨で伝令と進軍に遅れが出たことですが、それを秀忠の責任とするのは難しいかと
秀忠は戦の才能がない代わりに政治の才能があったということでしょうね。実は側近の土井利勝の献策だったという話はありますが。😅
保科正之の存在を隠し通せたのは土井利勝のお陰だしな
有能な人を見出したり、ウソを見抜いたり、選んだ人に仔細を任せられる度量はトップに求められる「政治の才能」の内だし別に良いんじゃないかな。
秀忠とほぼ同期で大陸の皇帝やってた崇禎帝さんなんか、めちゃくちゃ有能な人を下衆い勘繰りで処刑しちゃってるんだし。
葵徳川三代は面白かったわ
永田町の人達より
優秀だったかもしれない。
有名な政策なのにあんまり秀忠の功だと強調されないね
戦働きは父に及ばずとも為政者としては、同世代の二代目よりも
素晴らしいと思うぞ。各諸法度を定め、天皇家と婚姻させたし
家光に襷を繋いだイメージかなぁ。政治家としては超一流。
家康は秀忠を守成の時代のリーダーにふさわしいと見抜いてたんだろう!
西田敏行のイメージになってしまう
「ひひっ ひひっ お... おそれながら.... ち... 父上にはご機嫌麗しく...」
「ひ・で・た・だ 味噌汁は欠かすな! 身体に良い。」
西田さんと津川さんとの掛け合い場面しか思い浮かばないですね。
秀忠を戦下手というのは少々過酷かな。元々秀忠が中山道に行った当初は長期戦になることを見込んで、道中の諸大名を平定していくことを期待されていたのだし、家康が途中で方針を変えて短期決戦に持ち込もうと考えたのが秀忠陣営にきちんと伝わっていなかった可能性もある。秀忠が時間をかけて真田を攻撃しても不思議ではなかったと思います。
いきなり真田昌幸と闘う羽目になったのが秀忠の不幸だと思う。
関ヶ原では擁護の余地はあるが、動画の通り、大坂の陣で京への行程で逆に急ぎすぎて兵士を疲弊させたのを、家康に怒られているからね・・・
大きな戦場に立つ機会に恵まれなかったのもあるが、軍事面のセンスがなかったのは確かだと思う
有能な二代目と聞いて思い浮かぶのは時代順に藤原不比等、藤原基衡、足利義詮、北条氏綱、徳川秀忠、伊達忠宗だな。共通点は政治能力の高さかな。
治世向けの将軍…だけど朝廷、豊臣家や諸大名に対して果断な対応も
隠居後も江戸城に住み続けたことで「政治の中心地は江戸」というのを決定づけてもいる。
西田敏行のイメージが強い
曹丕と徳川秀忠は優秀な2代目の代名詞ですよ
内政家としては紛れも無く優秀ですね。
曹沖や信康が生きていたら、宰相や筆頭老中で終わっただろうけど
13:44
地図上の長崎が指宿あたりを指してる笑
隆慶一郎さんの「影武者徳川家康」では悪役として描かれてたけど恐妻家という印象。
秀忠が駿府に家康詣でをした際、家康が気を遣って秀忠の寝所に女性をあてがったけど断ったなんて話がある。
秀忠と言えば功を焦りすぎてやらかしちまったってイメージしかなかったよw
家康が信康を信長の命令で自刃させたとか、関ヶ原で真田が大活躍で秀忠軍が遅れたとかは、
事実として扱うにはもうかなり怪しがられていて注釈つけないと行けないレベルの話じゃないの?
実際はどうだったの?
@@津辺晴翔 さん
過去のことなので事実はどうかを判断できませんが
信康の件については親子(三河と岡崎の)の確執による徳川内部の都合による処断で
信長に対しては信康の岳父であるため信康への処分についての事前の報告もしくは許可のために使者を送った
にすぎないのではないかという説のほうが最近は強い感じみたいですねえ…
秀忠の上田城攻めについてはもともと当時の記録に真田の大戦果を記しているものはなく
秀忠軍がもともと予定の信州攻略を始めようと布陣ができたところに家康からこちらの合戦が始まりそうだから
信州攻略はもういいからはよ来てね的な手紙が来てそれに従って陣を引き払って移動していますので
真田の武勲話は判官贔屓的な伝承でしかないかと…
@@h417-e4n ほんとかよ
@@津辺晴翔 さん
疑問に感じた場合は書籍なリネットなりでご自身でお調べください
少なくともネットに繋ぐことができる以上調べる手段はお持ちのはずです
@@津辺晴翔
信康切腹については安土日記や当代記などの同時代資料で
信長は「家康殿の思う通りにして下さい」という旨を言った事しか書かれていません。
第二次上田合戦に関しては
「真田が秀忠を打ち負かした」
というのは関ヶ原から130年も
経った頃に書かれた書物にしか
記載が無く、信頼性のある同時代資料は発見されていない事と、
秀忠の遅参が「徳川主力を温存した」などと言う話が出たりした事、
家康から叱責された理由は「遅参」のみで、真田に負けた事は理由にされていない事も合わせて考えると、「物語」に属する話だと
思います。
日本史上最大の遅刻をしたのに2代目ゲット
まさに「遅刻の神様」
先見では秀忠はあまりに優秀。家光は秀忠の政策をさらに締め付けキツくしただけだったように思いますね。
先見性が?
樺太や台湾を開拓しようとしていたの?
あるいはイスラムを含む外国の知識や技術を分析して導入する組織でも作ろうとしていたの?
@@tevalleyluckman8746なんなの?あなた
@@camel2158 普通に優秀と言うのではなく、あまりに優秀と言うのならそれに近い発想を持って欲しかったと思って言っている。
ちなみに戦国末期の名医・曲直瀬 道三は西洋医学と東洋医学の統合化を提唱していた。
この意見が通れば少なくとも医学やそれに付随する技術や知識を日本は継続的に導入し、史実よりも早い近代化の基礎形勢が為されたと思う。
樺太や台湾の開拓はいたずらに国を閉ざしたり、大名を取り潰すのではなく、明確に他国の領土でもない近隣の島嶼を史実で取り潰される大名たちに開拓させて、日本の土地を増やすくらいの気概を持って欲しかったという意味を込めた提案だよ。
@@tevalleyluckman8746そんなのしたら、江戸は早々に終わって、今の日本はなくなっていた気がする。それが良かったかどうかは知らんけど
@@澤茉帆太琉 かもね。
私の考えを幕府が実行に移そうとしたら、まず、開拓に駆り出されるのは豊臣系の大名だっただろうし、特に台湾ではかなりの犠牲が出そうだ。(まあ、台湾現住民には美女が多いことくらいが慰めだろう。)
人や物の行き来も確実にするために船舶の建造技術は発展し続けて、輸送警護を基本任務とする幕府海軍が維持され、大英帝国に似た軍組織を持ちそうだ。
さらに台湾開拓が成功したら他の南海の島々の開拓も始まって、マリアナ諸島、へたをすればミンダナオ辺りまで開拓や植民が進み、幕府の目が届きにくい辺境での海賊行為や密貿易も盛んになって、幕府の統制が届きにくい南海地域の大名たちが独自性をもっていき、田沼意次の死や松平定信の懐古的な政治への反発で幕府は南海大名の党勢力を完全に失ってしまい、彼らは半世紀近く早められた明治維新と同時に日系国家を立ち上げ、後の国会の核となる列侯会議の指導の下、台湾をはじめとする南洋の日系国家を纏め上げようと腐心する大日本帝国政府は、史実の帝国と言うよりも”連合帝国”のような体制の下に諜報活動と表裏の交渉による政治的駆け引きを重視した統治スタイルを持つ国家になってしまうと思う。
軍は海軍主体となり、政治機構は諜報活動重視の仕組みで整備されていくだろう。
そうなった場合、史実通りに毛利や薩摩が英国の扇動で体制変革の軍を起こそうとしても、強力な海軍によって本拠地を海側から攻められてあっさりと終わるだろう。
幕府も早く終わるが、薩長主導の維新も早期に終わってしまう。
徳川秀忠はやり手だ。
最強の二代目
実務に長けた冷徹な為政者。石田三成に通じるものがあるかも。
秀忠の戦いたくねぇって気持ちはびしびし伝わる
0を1にする力はたぶん乏しかったんだろうけど、1を100や200にする力は非常に優れてたに違いない
家康は信長の家来になったことないよ
最後の方はほとんど家臣みたいなもんだろ。論功行賞の対象にされちゃってたし。
三郎信康と比べたら後の子供みんな物足りなかったんではあったんだろうな家康公からしたら
凄く楽しく見てたんだけど
長崎の場所😂
秀忠が立花宗茂を取り立てたのが、大阪夏の陣の秀忠軍総崩れ阻止と息子の家光時代に起きた
島原の乱の総大将知恵伊豆を救うことになったことを考えると人を見る目はあったのだろう。
しかも両者とも「関ケ原」に間に合わなかったという妙な因縁があるのも笑えるな。
武家諸法度も禁中並公家諸法度も 鎖国も、家光だと中坊の頃に 教わった記憶があるんですが、 そうでしたか。
数年前までの歴史の常識はかなり変わるしね。ちなみに鎖国なんかしてなかったよってのが最近の説なはず。日本人奴隷化対策と宗教による占領にむけた地ならしを防ぐ手段だったに過ぎず世界に遅れていた訳ではない。幕末も列強諸国の動向にかなり詳しくしっかり対応したから日本が維持された。薩英戦争も昔は薩摩フルボッコって習ったけど、実際には薩摩だけで英国に大打撃与え英国の日本占領諦めさせて友好関係に持ち込んでる。色々調べて色んな角度から見ると歴史は面白いね。笑
偶然かわからないですが、豊前の大名は築山殿の血縁息子(信康)娘(亀姫)で固めている。
(小声)汚名は挽回ではなくて返上
挽回するなら名誉ですね
秀忠時代から厳しい改易が行われ続けた結果、家光時代に「由比正雪の乱」が引き起こされてしまう。なので世継ぎがいなかった場合に幾分緩和され、末子相続や養子縁組による相続で大名を存続させる方向に代わっていたんだよね。
後は秀忠時代には、優秀な部下たち、例えば自分の息子?と言われている保科正之、知恵伊豆こと松平信綱、大老酒井忠勝など、輩出して、実務的にすごく安定した。
後ははじめ御三家は尾張、紀州、駿府だったと聞いている、多分次男の忠長の乱行が無ければ御三家の一人になっていた可能性が高いな。
由井正雪は家綱時代
紫衣事件はどっちかというと秀忠の関ケ原以上のやらかし案件。
譲位で幕府の影響を示したと言っているが、あれで家康時代からやってきた和子入内が無意味となってしまった。
秀忠が優秀だった事に異論は無いが、間違っている箇所も多々見られる解説動画なのでそのまま信じるのは危険かなぁ。
家康や家光のために誹謗中傷されてる二代目
次男の秀康が亡くなっているから、将軍になれた、というのは間違い。
秀康が存命中に、秀忠は征夷大将軍になっている。
秀忠は遅刻将軍の異名のイメージしかない
あれはしゃーなしやろ
秀康が他界後後継ではなく、秀忠が二代将軍就任2年後の1607年歿。千姫は先夫豊臣秀頼歿後本多忠勝の孫忠刻に嫁いでいて、二人の間の娘勝姫(秀忠娘三女同名勝姫は秀康嫡男忠直の妻)が後の岡山藩池田光政に嫁いでいる。水戸頼房が德川姓を名乗ったのは、秀忠や家光弟駿河家德川忠長が死去後。長崎の位置が肥前ではなく薩摩になっている。
徳川15代の中で最も頭脳派だった可能性あり。
まだ2分しか見てないけど
信長って主君じゃなくね
秀康死ぬの秀忠が将軍になった2年後じゃね
結城秀康 と 秀忠は、どうする家康 で誰がやるの?
秀忠が凄いんじゃなくてやはり生前の家康が「これでもか!これでもか!」
と万全の万全の更に万全の手を打って打ちまくってたからこそだと思いますけどね
鎖国していたと言うのは嘘ですよ? 限定的ですが、外国と貿易してしました。そして当時は鎖国という概念が存在していません
文官としては結構優秀じゃないかな。
千姫は池田家には嫁いでません。千姫の子供がとついでます。
秀忠さん教科書に載るレベルで
江戸幕府の官僚制度や法制度の基盤固めた有能やろwって
個人的に思ってたけれど
世間じゃ単に教科書に名前載ってるだけの人なんか……
>有名な二代目
歴史のプロパー、かなり詳しい素人、
単なる歴史好きの素人、大学受験で偏差値65より上の素人
それら以外の人で
温度差があると思うけれど
単なる歴史好きの素人の私が
有名だろうと思った二代目は
藤原不比等(藤原氏2代目)
源頼家(鎌倉幕府二代目将軍)
北条義時(鎌倉幕府二代目執権)
黒田清隆(第二代内閣総理大臣)
嬴胡亥(秦二世皇帝)
劉禅(蜀後主)
司馬衷(西晋恵帝)
楊広(隋煬帝)
李世民(唐太宗)
ホンタイジ(清太宗文皇帝)
カンビュセス2世(アケネメス朝ペルシア)
ティベリウス(帝政ローマ2代目皇帝)
アブー・バクル(初代正統カリフだがムハンマドの後継者という意味合いで二代目)
シャルルマーニュ(フランクローマ帝国皇帝としては初代だがカロリング朝フランク王国としては2代目国王)
ジョン・アダムス(米合衆国2代目大統領)
ウラジーミル・プーチン(ロシア連邦第2・4代大統領)
世界的には秀忠の方が優秀で、家光はカトリックと農民の大量虐殺者と家臣に政策丸投げのボンボンといった所か。
織田と徳川は対等だったのでは(?)とコメント有るね。
でも、長男に「信康」名付けさせたから、実質的には織田が主で徳川は従の、関係だったと思う。
「信」で織田が上(主)で「康」で徳川が下(従)と、意識させる為にね。
次男「秀康」も秀吉が養子にしたけど実質的には人質で、同じ意識をさせる為だろう。
三男「秀忠」も「秀」で豊臣(主)に、「忠」で忠義を持って従え的な、意識付けをさせる為だろう。
秀忠の忠は家康の父、松平広忠からでしょ。
@@user-ponkotsukakumei
ですね
家康の康は祖父の清康
秀忠の忠は祖父の広忠
家光の家は祖父の家康
とそれぞれ祖父から一字取ってるんですよね
@@もふもふ-x4p
ちなみに松平清康の父の名は信忠なので
松平広忠もちゃんと法則に当てはまって
いますね(o'ω')ノ
では、
家光の「光」は、八代前の信光の「光」からだな。www
@@樽井冷泉鈴
家光の諱は金地院崇伝が選定したので
違いますね。
13:50 地理ももう少し勉強なされた方が…
猫のお毛皮を着こなしてた様で、大失態を演じた、一つは、狸の中の狸、真田昌幸相手だと、格が違い過ぎだから、致し方無いかも知れないんだが?、大阪の陣迄、影響したんですね。偉大な父と息子の間に挟まれて、影は凄く薄いんですけれど?、しかしまぁ、以外と言うか何だか、父が亡くなってから、猫のお毛皮を脱ぎ捨てたんだねぇ。
これぞ内政の鬼
長女の千姫は岡山池田家に嫁いでない😅
恐らく家康の次女・督姫とごっちゃになってるな...
千姫は初め豊臣家、死別&出戻りのち本多家に嫁いでいる☝️
信長と家康は対等では?
対等では無いね。
今でいうと、アメリカと日本の関係に近いかも。
米帝様と日隷の関係にほぼ等しい。ただし憲法9条がないので自衛隊が日本軍として
ベトナムや湾岸戦争に参加して「日隷の兵は米帝の軍用犬」って恐れられてる感じだな。
ほんと はわかりません。全てが憶測
家康から激怒ばかりのやらかし将軍秀忠の最大のミス、育児がなっていない(まるで駄目な男。家光やその息子綱吉を見れば解る)。
長女 千姫は 太閤秀吉と淀君の 豊臣秀頼と結婚してる。 その後が池田
池田と結婚したのは娘の勝姫でしょ
千姫が嫁したのは本田忠勝の孫の本田忠刻。忠刻の生母は家康の孫熊姫。
姫路だからごっちゃになってる?
なぜ源氏長者になれなかったのですか?