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主題とは外れますが、新快速に追われて走る急行「たかやま」や特急「はまかぜ」は乗ってて怖いくらいエンジンの限界に挑戦するような走りっぷりでした。特急はまかぜの大阪〜姫路間に限定すればキハ181の大出力は活かされてたと思います。
はまかぜ動画でも描きましたが、残念ながらはまかぜはすでに1割のレートダウンがなされており、フルノッチがもともとの5ノッチ運転レベルでお茶を濁していました。その分新快速から逃げるのは大変でした。
キハ18が中間車でした。HOゲージでもエンドウから出ていましたね。
エンドウ(カツミ)、懐かしいな。HOでは、今思うとかなりやばいことしてた。エナメル剥がした架線張ってパンタ集電改造したり。ボルテージ12Vで低いけど、モータ1台あたり1アンペアの大電流だから、よく事故や火傷や火災にならなかったなあ。
面白い切り口の動画です。結局、電化の進展で、急行用中間車や、はたまた、DE50やキハ391(ガスタービン動車)なども量産化される必要がなくなったのです。181系などに使われていた12気筒エンジンも、問題だらけでした。それでも、四国などでは、その需要があったかもしれません。線路が山岳部のグニャグニャ線のために、特急列車は、他の地域に比べて、なかなか投入されませんでした。当時の四国総局の特急列車を走らせる熱望とその努力は、急行列車の顔面に二本線のヒゲをつけさせたほどでした。時がたち、山陰などの中国地方に、187系特急形気動車が投入されました。モデルはキハ58だとされました。この形式はすべてモノクラスの運転台付き先頭車です。現在の状況からすると、おおよそ四国や北海道のような電化が難しいところを除くと、それ以外のところでは、概して、すべての気動車は、全車運転台付きの方が都合がいいのかもしれません。
そうそう、昔は本社も本社だが、運輸管理局がいろんな車両や旅行企画出してたよねー。成田臨とか。。。。
そういえば北海道の客車改造車のキハ141系は中間車はキサハ144型だった。
東北線には6神合体ゴッドマーズみたいな、凄い多層建てDC急行がありましたね。
あっても多分…先頭車化改造されてしまっていたでしょうね今でも四国は2700系の中間車を作りませんしね
引退した、東海のキハ85も中間車キハはあったけど、先頭車(貫通車)の両数が多くて先頭車が多い変態連結も多かったですね。急行型気動車で中間キハが実現していたらキハ85のような感じになっていたかもしれませんね。
キハ18は最後まで先頭車化されませんでしたよ。
6:24連結器のとこに人が座ってる
確かに、上野発秋田行きのおが1号(キハ58系 9連)は停車する各駅で485系特急に抜かれまくってましたね。
名鉄のキハ8000「北アルプス」は、特急でも中間に運転台だらけでした。
キハ8500は5両しか存在しなかったけど、そのうち1両が中間車と、ある意味逆に奇跡でした。
それを言い出したら国鉄キハ185系も大半が先頭車。
キロハ18もありましたな。
キハ10系にも完全な中間車キハ18型がありましたが、結局中途半端で使いづらく不遇な生涯でしたね。やはりローカル運用が多い一般型や急行型気動車の中間車で成功したのはキロ28型あたりが精一杯で、他は厳しいのかも。
一般形の中間車キハ18も、現場では扱いづらかったようですね。キロハ18も、優等車としてはグレードが劣って、両車揃って荷物車や合造車に魔改造、もちろんコチラには運転台は取り付けられたようですが・・・。
気動車の場合ローカル輸送が主体になるだけに中間車はやはり使いづらいのだろう。他の方が言うようにキハ18みたいに一般中間車は運用するとなると最低3両になってしまう為輸送力過剰なのだろう。その後国鉄でも特急形気動車以外ではほぼ運転台付きが主流になるのだから。
キハ18はトイレがなかったと思います。
@@青山大樹-r4wさん… 無かったですね。狭いボックスが整然と並ぶ。キハ17の連結面が隣にくることが多かったから、省略したのかなと思います。キロハは、さすがに優等室の間近にトイレの無いのはマズいと考えたかなと。 Nの10系、完成品はTOMIXだけで、中間車や改造合造車は出さなかったですね。金属製のキットならあったと思います。
Nゲージのキハ18は、スタジオフィールというガレージキットメーカーからかつて発売されていました。
新系列気動車はDML30の余裕を見越して、グリーン車や食堂車は付随車とするように目論んでいたそうでしたが、実際のエンジントラブル多発で失敗に終わったようです。
急行型中間キハですか…。なんだかロマンが広がります。
この辺りは非常に単純な事で1t辺りに対する動力の大きさが電車とディーゼルエンジンとでは異なり、電車のモーターは最大出力の何倍もの性能を出す事ができるのに対し、気動車は最高出力以上所か定格出力(1時間に於ける75%使用)以上の性能は引き出せない事から必然的に1tに対する出力が全く違うと言う事も気動車中間車が少ない背景である事は客車気動車の研究家である故・岡田誠一先生の著書の中で触れられていますね。そう行った意味では内燃動車の利点って大型車以外にないじゃんと言う事になりますが、日本の場合はこの事が逆に利点となっていて、原油からガソリンだけを精製しようとする事は不可能であり、必然的に重油・軽油・灯油・ガソリン・ハイオクガソリン・プラスティックと言う物が同時に精製されて来る事から日本としては「資源の有効活用」が出来る為ディーゼルが必要になってくると言う事はあまり知られていないようで、これを有効活用しようと提唱した男こそが現在の道路税や揮発油税の発案者である「昭和の今太閤」田中角栄氏であり、その懐刀とも猟犬とも言われた「我らのハマコー」こと浜田幸一氏だったりします。『チマチマガソリンとか重油や軽油だけを買うよりも同時生産されて来る物も一気に買い上げた方が相手も喜ぶだろうさ。』と言う様なお話を実はハマコーさんはされていらっしゃったりします。
準急用のキハ55系は全長21.3mという中途半端な長さで登場しました。先頭車では1.3mを運転台区画へ割き中間車は全長20mきっかりとする予定で、兄弟のキハ20ともども運転台は1.3mとされた経緯があったようです。特急形気動車キハ81系で早速破られ、20mきっかりのキロハ18を繋いだ準急「かすが」を除いて特急のような半固定編成の運用は為されませんでした。特急の大衆化の呷りを受けキハ181系時代には編成の整った大馬力気動車長編成の急行なるものの役目は特急形気動車が受け持つようになり確かにお株を奪われました。しかし、1980年前後に老朽化が進行していたキハ17系の置き換え需要をあてにすればキハ58形の玉突きで地方線区に散ったキハ55形同様キハ90系改を投入しキハ58系を散らすifも有ったかもしれません。
急行型の強みは優等列車と普通兼任が可能だからな。通勤ライナーを準急列車から発展させ急行型電車や急行型気動車使ったりあくまで特急型を指定席で貫き自由席や定期券急行料金乗車や通勤ライナー料金は急行型の役割にするとかした場合は
6:24 キハ91の特等席に人が乗ってるw
153系の褪色、キハの油煙汚れなどさらに完成度が上りましたね。中間車キハ18も結局、早々と荷物車や合造車に改造されてしまいました。夢がある内容、楽しませていただきました。
「高速急行気動車」はJR化後にキハ400/480で実現(札幌―旭川間を711系さちかぜと同じタイムで走っていましたし、天北に至っては天北線内において房総特急よりも遥かに高い表定速度で走っていました)していますが?
なるほど今まで気動車に中間車がほとんどないことに不思議さを覚えていました。いつもながら性能の説明すごくわかりやすいです。映像でキハが全て65なのは凄いですね。こんな編成なら勾配でもなんのそのかな?
ちなみに初の中間気動車は電気式のキハ44200ですなこちらは後に液体式に改造され、キハ19になっています後に10系気動車にも中間気動車としてキハ18が製造されましたが、その構造上どうすることもできない致命的な欠陥によって普及しませんでしたそれは運転台がないため、1両単位で編成を組成する場合に運転台のある車両と連結しないと移動できないというものでした基本的に固定編成となる特急型は中間気動車も用意されましたが、1両単位での編成組成となる急行以下では無意味と判断されたようです似たような事例はアメリカでもあり、重連運用が基本となるディーゼル機関車は、当初運転台のあるAユニットと運転台の無いBユニットに分けられていましたしかし、運転台の無いBユニットは単独での移動ができないため、結局全車両に運転台が設置されたそうです
急行電車にあって気動車に無いもの、運転台無し中間車もそうですが、ビュッフェの構想は無かったんでしょうか?キハシ28とかあったらと妄想してしまいます。登場してたとしても短命だったでしょうけれど。しかし、気動車に対するコスト差別は今も変わりませんね。GV-E400とかも幅狭で安普請そのもの。
手持ちの資料では急行気動車ビュフェ構想は見当たりませんが、妄想動画は準備中です。
模型ではキハシ28をつないでいる人が多いですね。私が見たことのある作品は全て運転台ナシでした。ドアは中央に配したり、端部に配したり、作者によってバラバラでした。
地方には43系や10系食堂車を連結した客車急行が残っていましたからね。気動車になると電車以上に冷房や厨房機器に水タンクと重量物が重荷になり地方の軸重に厳しい路線ではネックになるでしょう。そもそも需要が小さく、停車時間に駅弁を買い駅蕎麦を啜れば十分という事なのでしょう。
分割併合の多い気動車急行には食堂車やビュッフェ車は向かないのでは?限られた両数で極力座席数を確保する必要があったので。其れに食堂車を連結するなら、厨房の電源はどうするのか?という問題もあるのでは?冷房化すら難儀していたのだから、食堂車の電源を賄うことは不可能だったのだろう。気動車急行は何度も利用したけど、食事は駅弁で十分だと思ったし、食堂車を連結して欲しいとは思いもしなかった。
子供時代【昭和50年代(1975年~1984年)】両親の実家がある岡山県を通る伯備線・津山線らディーゼル特急・ディーゼル急行列車の天下だったね。DD51形ディーゼル機関車が50系客車を牽引して(岡山~新見)で数本運行されていた。キハ58+キロ28DC急行『伯耆』も忘れられない。キハ181系特急『やくも』は、キサシ180(食堂車)を連結する本州最後のDC『エル』特急だった。岡山駅構内で何度かキサシ180を見たよ。キハ181系8両~11両超大編成は圧巻だったなあ。電車化された『しなの』・『つばさ』などからの(米ヨナ)への転用車両も編成に組み込まれていた。米子駅で昭和57年(1982年)8月にDC特急『まつかぜ』(博多行き)が到着して目の前にキシ80(食堂車)が停車していたのもいい思い出。そのころには『やくも』が381系特急電車に置き換えられていた。あと、当時の津山線にはDE10形ディーゼル機関車が旧型客車を牽引しており、朝夕一本ずつ運行されていた。そして、DC急行『砂丘』だ。キハ58(キハ28)+キロ28+キハ65編成で岡山~玉柏を高速ですっ飛ばしていた。中でもキハ65の台車にはディスクブレーキが採用されていたので車輪が銀色に光っていたから目立っていたよ。昭和50年代の伯備線と津山線こそ最後のDC特急・急行が活躍していた時代でもあった。ちなみに子供時代に見た特急『やくも』キサシ180(食堂車)はエンジンを床下に搭載しておらず、付随車両だった。逆に特急『まつかぜ』キシ80(食堂車)はエンジンを床下に搭載しており動力車両だった。四国でもキハ181系『南風』・『しおかぜ』が運行されていたが、キロ180だけでキサシは連結されていない。
基本、 MM'ユニット方式だった新性能電車と、1両で動けるディーゼルカーの違いですね。
気動車急行の安普請は徹底しててコイルバネ台車に一段窓車内も軽量化と格安素材の板挟みだった経営改善の電車特急増発は急行気動車もだけどオハ50の登場にも響いてる
初期「みえ」のキハ58+キハ65は名古屋ー松阪間85.5㎞を最速72分で走り、評定速度は71㎞/hを誇りました.木曽川鉄橋~松阪は5分後(?)に名古屋を出た近鉄鳥羽行特急とのデットヒートが楽しかったです.きっと見間違いかと思いますが、速度計が105kmを何度も指していた記憶があります.きっと見間違いでしょうけど.その後、5000番台は66分で走り評定速度は77km/hでした.
90年頃のATSって多少の速度超過はスルーしていた記憶が多々ありますw
「みえ」用のキハ58は110km/h対応に改造されていて、台車がキハ80系発生品の空気バネのDT31系に交換、エンジンもカミンズに換装されてますね。
@@やまといわな-f4d さま それが5000番台ですね.
キハ75導入当初が快速みえの楽しい時期でした。キハ75の両数もまだ少なくて、時間によって。・キハ75限定の時速120キロ前提の高速ダイヤ・キハ58-5000+キハ65のパワーアップ車両を使った時速110キロ前提の準高速ダイヤ・未改造のキハ58+キハ28でも走れる低速ダイヤが設定されていて、繁忙期には上記の通りに車両を運用していたけど、閑散期で車両運用に余裕がある時は、キハ75が準高速の時速110キロダイヤも運用に入ったり、玉突きでキハ58のパワーアップ編成が未改造の急行型気動車でも走れる低速ダイヤの運用に入ったりと、走行に余裕を持たせていましたね。
運転台なしの中間車どころか、末期には両運転台に改造されたグループもありましたね。(もっぱら普通列車でしたが)
格下げ車だけど、キハ28で運転台なし車となったのが九州にいた。新形式起こすよりは従来形の追番が良かったのだろうか。
それは四国のグリーン格下げ車じゃないでしょうか?
四国は国鉄時代から指定席扱いに実質格下げしてました、JR化後は早々に引退したはず九州はJR化後にキロ28を形式までキハ28に格下げしましたね長崎地区で、急行由布から流れてきたアコモ改善58と組み新生JRのイメージアップに使われていました
キハ28-5200番台ですね末期は大村線の快速指定席だったような
長崎のキロ格下げのキハ28の行き残りも99年12月に全車廃車になったな最後は普通の自由席だった(シーサイドライナーの指定席は無くなっていた)
@@みずきれいなあの頃のシーサイドライナーは、大半の58や65に485系グリーン車のお下がり座席等を載せていたので、特に区別してませんでした…そんなJR九州ブランドもほんの数年ですっかり墜ちちゃいましたけども
確かにキロは見てもキハは見た記憶ない今や地元では特急すら 中間車が存在しない
4:55 アントが本線に!毎度粗さがしになりますが、153のサハシ サロ の向きがおかしいですハシ+サロ><サロ+シハ となります
そういうとこだぞ編成厨
一般形気動車には中間車があったよね。(旧型や12系の客車改造車を除いて)確かキハ18と、それ以前の湘南顔の(キハ43000かなぁ?形式忘れました。😅)車両くらいしか思い出せない。
中間車ならキハ18がそこそこ作られたのでは?気動車は頻繁に分割併合をするから、なるべく全車に運転席がある方が効率が良い。
そのキハ18、単独車両で操作ができず増解結時に困ってたそうです…それに懲りて国鉄は中間キハ作らんくなったんやないですか!?。それが元でキハ20系など一般形は両運転台メインで増備され、急行型もキロ以外中間車を避けたはず。
解説より映像のCGが凄すぎて内容が入ってこなかった。実写なのかCGなのか…。CGだよね?
非電化時代の関西線に入ったキハ35系に中間車がなかった時点で押して知るべきかと。あとキハ58系だと、細かい分割併合ができたし、定員も165系の先頭車と同じだけ確保できたからかと。
キハ35系に中間キハあればオモロいがアカンか
それをいうと片運転台トイレなしキハ36を製造中止にし両運転台キハ30を増備してた…当時から国鉄は気動車の短編成運用を基本にしてた!?
ディーゼル車が大量生産された時代って、地方路線の長大編成は客車に任せる時代でもありましたよね。宇宙戦艦ヤマトを初放送から観てた世代ですが。
幼い頃中間車のキロハ28 1を徳島駅で見掛けました。
氷見線で12系客車を組み込んで4両で運転していたのがあるいみ急行型の普通車の中間車っぽかったですね。両先頭車がキハ58,28じゃなくてキハ65だったら窓の形状が12系客車と同じだから編成に統一感が出ていたかもしれませんね。キハ58の外観に合わせた無動力中間車だったら、80系電車の中間車を電装解除してキハ58に組み込めば違和感なかったかもしれませんね。色の変更は必要ですが。まぁ80系電車はJRになった時には引退済みでしたが。
先頭のキハ91?連結部に人がくっついている…
特別席です。😂
急行型キハの中間車は見て見たかったというのもあるけど、他の交通機関の台頭、なんで別料金を払って狭い向かい合わせの座席なの?っていう時代が来ていたから実現しても長続きせず、先頭車化改造されていたと思います。キハ40系列だけど、運転台があるけど、さらに反対側にやっつけ仕事のような、運転台を設置されて両運転台車になったのもいますからね。なので、短編成で地方のローカル列車に転用されたときにすべて先頭車だったから使いやすかったと思います。急行型の中間車があったら。。。の姿は、急行型ではなくキハ40系列の改造だけどキハ400で運転されていた急行「宗谷」がお座敷列車用種車をねん出するために両運転台車両で4両編成だったのを1両、特急型だけどキハ183系の中間車で置き換えて走っていたけど、急行型で中間車キハがあったら、こんな感じになっていたんだろうな。。。という印象でした。
そういえば最近katoの「土佐」買いましたが、、これって魔改造のキロ→キハが入っていました。厳密には中間車(純粋な)ではありませんが、、中間気動車ですかね?
確かキハ18の他にキハ19も...
長年の疑問が晴れた
今日味、モーターとエンジンを積んだ車両が特急で走っているし、本数増やして 両数減らしているからね😆でも、全車モーター車の電車は最強です😆
キハ58系列の正面はコストダウンのためパノラミックウインドウにしなかったという話がありましたね。
末期に製造したキハ58とキハ65でパノラミックウインドウが実現しましたね。
キハ65系のグリーン車があったとしたらどんなデザインになったのだろう。
それが実はキロ28の2309〜2314、2508〜2518なのです。昭和44年以降、キハ65と同時期に製造されました。屋根高さと雨樋の位置がキハ65に揃えられています。キロ65にならなかったのはキハ28の代わりににキハ65を数両入れれば編成出力を落とさずに冷房電源も確保できるのでどうせ編成中1両か2両だし設計変更してまでキロを大出力にしなくてもいいんじゃね?ってことだと思います。キハ65はもともとそういう使い方を前提に作られており、トイレがないことからもわかるようにキハ91系やキハ181系のように大出力エンジン車だけで編成を組むことは想定していないのです。
この頃の事情ならわかるけども、四国2700系になると運転席広くて機器もドアも大きいのに中間車がないのはどうかなぁと思う…
昨今の四国では中間車を製造すると持て余す未来しか無い
電車特急ですら2両で運用していた時がありますからね。
名鉄8000系はどうだったんですか?
10系気動車に中間車ありませんでしたっけ?試作だけ?
有りましたね。キハ18です。そこそこの両数が作られたと思います。
そうか、キロ系列以外に中間車ってないな。35系も両運30、基幹35、便所無し36か。
戦前とか敗戦後しばらくの時期はありましたが、急行用は出ませんでした。
キハ35系に中間キハ欲しかったがな通勤型気動車なら中間キハ
@@tike2435 当然だあね
中間車ならキハ18をお忘れでは?
@@鉄道模型大好きおじさん おっと、そうやった。
3両1組固定運用だったら中間キハはワンチャン?姿はオハ12似?
中間キハは僅かですが、10系で有りましたよ。キハ18とかキロハ18とか。その存在を失念されていませんか?🤔
そうですよね。キハ18は40両以上も生産されたはず。私も何度か見掛けました。
昭和40年代になると平均所得が上がって庶民もみんな特急に乗るようになって特急車の座席に慣れていったので、急行の固定ボックスシートは「安いけど座り心地が悪い!」と急激に不人気になったんですよね。それで急行用車両の新製は途絶えるようになりましたね。急行用車両の座席をボックスシートから117系みたいな転換クロスシートに変えていれば急行の衰退は防げたと思うんですが。
2700系と言うあほ車両がある事実
JR四国はキハ185時代から片運転台特急気動車が好き(JR東海のキハ85にも波及)⇒変態連結は東海&四国名物でひょ(爆!)
運転台無しキハ8050がありました。
キハ8050とキロ8150はあったが後者はキハ格下げと同時に運転台取付魔改造でキハ8100になった。ニーズに合わせた増解結には運転台必須なんやろな!?(旧型気動車は運転操作も難しいらしいし)。
主題とは外れますが、新快速に追われて走る急行「たかやま」や特急「はまかぜ」は乗ってて怖いくらいエンジンの限界に挑戦するような走りっぷりでした。特急はまかぜの大阪〜姫路間に限定すればキハ181の大出力は活かされてたと思います。
はまかぜ動画でも描きましたが、残念ながらはまかぜはすでに1割のレートダウンがなされており、フルノッチがもともとの5ノッチ運転レベルでお茶を濁していました。その分新快速から逃げるのは大変でした。
キハ18が中間車でした。HOゲージでもエンドウから出ていましたね。
エンドウ(カツミ)、懐かしいな。HOでは、今思うとかなりやばいことしてた。エナメル剥がした架線張ってパンタ集電改造したり。ボルテージ12Vで低いけど、モータ1台あたり1アンペアの大電流だから、よく事故や火傷や火災にならなかったなあ。
面白い切り口の動画です。結局、電化の進展で、急行用中間車や、はたまた、DE50やキハ391(ガスタービン動車)なども量産化される必要がなくなったのです。181系などに使われていた12気筒エンジンも、問題だらけでした。
それでも、四国などでは、その需要があったかもしれません。線路が山岳部のグニャグニャ線のために、特急列車は、他の地域に比べて、なかなか投入されませんでした。
当時の四国総局の特急列車を走らせる熱望とその努力は、急行列車の顔面に二本線のヒゲをつけさせたほどでした。
時がたち、山陰などの中国地方に、187系特急形気動車が投入されました。モデルはキハ58だとされました。この形式はすべてモノクラスの運転台付き先頭車です。
現在の状況からすると、おおよそ四国や北海道のような電化が難しいところを除くと、それ以外のところでは、概して、すべての気動車は、全車運転台付きの方が都合がいいのかもしれません。
そうそう、昔は本社も本社だが、運輸管理局がいろんな車両や旅行企画出してたよねー。成田臨とか。。。。
そういえば北海道の客車改造車のキハ141系は中間車はキサハ144型だった。
東北線には6神合体ゴッドマーズみたいな、凄い多層建てDC急行がありましたね。
あっても多分…
先頭車化改造されてしまっていたでしょうね
今でも四国は2700系の中間車を作りませんしね
引退した、東海のキハ85も
中間車キハはあったけど、
先頭車(貫通車)の両数が多くて
先頭車が多い変態連結も多かったですね。
急行型気動車で中間キハが実現していたら
キハ85のような感じになっていたかもしれませんね。
キハ18は最後まで先頭車化されませんでしたよ。
6:24
連結器のとこに人が座ってる
確かに、上野発秋田行きのおが1号(キハ58系 9連)は停車する各駅で485系特急に抜かれまくってましたね。
名鉄のキハ8000「北アルプス」は、特急でも中間に運転台だらけでした。
キハ8500は5両しか存在しなかったけど、そのうち1両が中間車と、ある意味逆に奇跡でした。
それを言い出したら国鉄キハ185系も大半が先頭車。
キロハ18もありましたな。
キハ10系にも完全な中間車キハ18型がありましたが、結局中途半端で使いづらく不遇な生涯でしたね。
やはりローカル運用が多い一般型や急行型気動車の中間車で成功したのはキロ28型あたりが精一杯で、他は厳しいのかも。
一般形の中間車キハ18も、現場では扱いづらかったようですね。キロハ18も、優等車としてはグレードが劣って、両車揃って荷物車や合造車に魔改造、もちろんコチラには運転台は取り付けられたようですが・・・。
気動車の場合ローカル輸送が主体になるだけに中間車はやはり使いづらいのだろう。他の方が言うようにキハ18みたいに一般中間車は運用するとなると最低3両になってしまう為輸送力過剰なのだろう。その後国鉄でも特急形気動車以外ではほぼ運転台付きが主流になるのだから。
キハ18はトイレがなかったと思います。
@@青山大樹-r4wさん… 無かったですね。狭いボックスが整然と並ぶ。キハ17の連結面が隣にくることが多かったから、省略したのかなと思います。キロハは、さすがに優等室の間近にトイレの無いのはマズいと考えたかなと。 Nの10系、完成品はTOMIXだけで、中間車や改造合造車は出さなかったですね。金属製のキットならあったと思います。
Nゲージのキハ18は、スタジオフィールというガレージキットメーカーからかつて発売されていました。
新系列気動車はDML30の余裕を見越して、グリーン車や食堂車は付随車とするように目論んでいたそうでしたが、実際のエンジントラブル多発で失敗に終わったようです。
急行型中間キハですか…。なんだかロマンが広がります。
この辺りは非常に単純な事で1t辺りに対する動力の大きさが電車とディーゼルエンジンとでは異なり、電車のモーターは最大出力の何倍もの性能を出す事ができるのに対し、気動車は最高出力以上所か定格出力(1時間に於ける75%使用)以上の性能は引き出せない事から必然的に1tに対する出力が全く違うと言う事も気動車中間車が少ない背景である事は客車気動車の研究家である故・岡田誠一先生の著書の中で触れられていますね。
そう行った意味では内燃動車の利点って大型車以外にないじゃんと言う事になりますが、日本の場合はこの事が逆に利点となっていて、原油からガソリンだけを精製しようとする事は不可能であり、必然的に重油・軽油・灯油・ガソリン・ハイオクガソリン・プラスティックと言う物が同時に精製されて来る事から日本としては「資源の有効活用」が出来る為ディーゼルが必要になってくると言う事はあまり知られていないようで、これを有効活用しようと提唱した男こそが現在の道路税や揮発油税の発案者である「昭和の今太閤」田中角栄氏であり、その懐刀とも猟犬とも言われた「我らのハマコー」こと浜田幸一氏だったりします。
『チマチマガソリンとか重油や軽油だけを買うよりも同時生産されて来る物も一気に買い上げた方が相手も喜ぶだろうさ。』と言う様なお話を実はハマコーさんはされていらっしゃったりします。
準急用のキハ55系は全長21.3mという中途半端な長さで登場しました。先頭車では1.3mを運転台区画へ割き中間車は全長20mきっかりとする予定で、兄弟のキハ20ともども運転台は1.3mとされた経緯があったようです。特急形気動車キハ81系で早速破られ、20mきっかりのキロハ18を繋いだ準急「かすが」を除いて特急のような半固定編成の運用は為されませんでした。
特急の大衆化の呷りを受けキハ181系時代には編成の整った大馬力気動車長編成の急行なるものの役目は特急形気動車が受け持つようになり確かにお株を奪われました。しかし、1980年前後に老朽化が進行していたキハ17系の置き換え需要をあてにすればキハ58形の玉突きで地方線区に散ったキハ55形同様キハ90系改を投入しキハ58系を散らすifも有ったかもしれません。
急行型の強みは優等列車と普通兼任が可能だからな。通勤ライナーを
準急列車から発展させ急行型電車や急行型気動車使ったり
あくまで特急型を指定席で貫き
自由席や定期券急行料金乗車や通勤ライナー料金は急行型の役割にするとか
した場合は
6:24 キハ91の特等席に人が乗ってるw
153系の褪色、キハの油煙汚れなどさらに完成度が上りましたね。中間車キハ18も結局、早々と荷物車や合造車に改造されてしまいました。夢がある内容、楽しませていただきました。
「高速急行気動車」はJR化後にキハ400/480で実現(札幌―旭川間を711系さちかぜと同じタイムで走っていましたし、天北に至っては天北線内において房総特急よりも遥かに高い表定速度で走っていました)していますが?
なるほど今まで気動車に中間車がほとんどないことに不思議さを覚えていました。いつもながら性能の説明すごくわかりやすいです。映像でキハ
が全て65なのは凄いですね。こんな編成なら勾配でもなんのそのかな?
ちなみに初の中間気動車は電気式のキハ44200ですな
こちらは後に液体式に改造され、キハ19になっています
後に10系気動車にも中間気動車としてキハ18が製造されましたが、その構造上どうすることもできない致命的な欠陥によって普及しませんでした
それは運転台がないため、1両単位で編成を組成する場合に運転台のある車両と連結しないと移動できないというものでした
基本的に固定編成となる特急型は中間気動車も用意されましたが、1両単位での編成組成となる急行以下では無意味と判断されたようです
似たような事例はアメリカでもあり、重連運用が基本となるディーゼル機関車は、当初運転台のあるAユニットと運転台の無いBユニットに分けられていました
しかし、運転台の無いBユニットは単独での移動ができないため、結局全車両に運転台が設置されたそうです
急行電車にあって気動車に無いもの、運転台無し中間車もそうですが、ビュッフェの構想は無かったんでしょうか?
キハシ28とかあったらと妄想してしまいます。
登場してたとしても短命だったでしょうけれど。
しかし、気動車に対するコスト差別は今も変わりませんね。
GV-E400とかも幅狭で安普請そのもの。
手持ちの資料では急行気動車ビュフェ構想は見当たりませんが、妄想動画は準備中です。
模型ではキハシ28をつないでいる人が多いですね。
私が見たことのある作品は全て運転台ナシでした。
ドアは中央に配したり、端部に配したり、作者によってバラバラでした。
地方には43系や10系食堂車を連結した客車急行が残っていましたからね。
気動車になると電車以上に冷房や厨房機器に水タンクと重量物が重荷になり地方の軸重に厳しい路線ではネックになるでしょう。
そもそも需要が小さく、停車時間に駅弁を買い駅蕎麦を啜れば十分という事なのでしょう。
分割併合の多い気動車急行には食堂車やビュッフェ車は向かないのでは?
限られた両数で極力座席数を確保する必要があったので。
其れに食堂車を連結するなら、厨房の電源はどうするのか?という問題もあるのでは?
冷房化すら難儀していたのだから、食堂車の電源を賄うことは不可能だったのだろう。
気動車急行は何度も利用したけど、食事は駅弁で十分だと思ったし、食堂車を連結して欲しいとは思いもしなかった。
子供時代【昭和50年代(1975年~1984年)】両親の実家がある岡山県を通る伯備線・津山線らディーゼル特急・ディーゼル急行列車の天下だったね。DD51形ディーゼル機関車が50系客車を牽引して(岡山~新見)で数本運行されていた。キハ58+キロ28DC急行『伯耆』も忘れられない。キハ181系特急『やくも』は、キサシ180(食堂車)を連結する本州最後のDC『エル』特急だった。岡山駅構内で何度かキサシ180を見たよ。キハ181系8両~11両超大編成は圧巻だったなあ。電車化された『しなの』・『つばさ』などからの(米ヨナ)への転用車両も編成に組み込まれていた。米子駅で昭和57年(1982年)8月にDC特急『まつかぜ』(博多行き)が到着して目の前にキシ80(食堂車)が停車していたのもいい思い出。そのころには『やくも』が381系特急電車に置き換えられていた。あと、当時の津山線にはDE10形ディーゼル機関車が旧型客車を牽引しており、朝夕一本ずつ運行されていた。
そして、DC急行『砂丘』だ。キハ58(キハ28)+キロ28+キハ65編成で岡山~玉柏を高速ですっ飛ばしていた。中でもキハ65の台車にはディスクブレーキが採用されていたので車輪が銀色に光っていたから目立っていたよ。昭和50年代の伯備線と津山線こそ最後のDC特急・急行が活躍していた時代でもあった。
ちなみに子供時代に見た特急『やくも』キサシ180(食堂車)はエンジンを床下に搭載しておらず、付随車両だった。
逆に特急『まつかぜ』キシ80(食堂車)はエンジンを床下に搭載しており動力車両だった。
四国でもキハ181系『南風』・『しおかぜ』が運行されていたが、キロ180だけでキサシは連結されていない。
基本、 MM'ユニット方式だった新性能電車と、1両で動けるディーゼルカーの違いですね。
気動車急行の安普請は徹底しててコイルバネ台車に一段窓車内も軽量化と格安素材の板挟みだった
経営改善の電車特急増発は急行気動車もだけどオハ50の登場にも響いてる
初期「みえ」のキハ58+キハ65は名古屋ー松阪間85.5㎞を最速72分で走り、評定速度は71㎞/hを誇りました.木曽川鉄橋~松阪は5分後(?)に名古屋を出た近鉄鳥羽行特急とのデットヒートが楽しかったです.
きっと見間違いかと思いますが、速度計が105kmを何度も指していた記憶があります.きっと見間違いでしょうけど.
その後、5000番台は66分で走り評定速度は77km/hでした.
90年頃のATSって多少の速度超過はスルーしていた記憶が多々ありますw
「みえ」用のキハ58は110km/h対応に改造されていて、台車がキハ80系発生品の空気バネのDT31系に交換、エンジンもカミンズに換装されてますね。
@@やまといわな-f4d さま それが5000番台ですね.
キハ75導入当初が快速みえの楽しい時期でした。
キハ75の両数もまだ少なくて、時間によって。
・キハ75限定の時速120キロ前提の高速ダイヤ
・キハ58-5000+キハ65のパワーアップ車両を使った時速110キロ前提の準高速ダイヤ
・未改造のキハ58+キハ28でも走れる低速ダイヤ
が設定されていて、繁忙期には上記の通りに車両を運用していたけど、
閑散期で車両運用に余裕がある時は、キハ75が準高速の時速110キロダイヤ
も運用に入ったり、玉突きでキハ58のパワーアップ編成が未改造の急行型気動車でも
走れる低速ダイヤの運用に入ったりと、走行に余裕を持たせていましたね。
運転台なしの中間車どころか、末期には両運転台に改造されたグループもありましたね。
(もっぱら普通列車でしたが)
格下げ車だけど、キハ28で運転台なし車となったのが九州にいた。新形式起こすよりは従来形の追番が良かったのだろうか。
それは四国のグリーン格下げ車じゃないでしょうか?
四国は国鉄時代から指定席扱いに実質格下げしてました、JR化後は早々に引退したはず
九州はJR化後にキロ28を形式までキハ28に格下げしましたね
長崎地区で、急行由布から流れてきたアコモ改善58と組み新生JRのイメージアップに使われていました
キハ28-5200番台ですね
末期は大村線の快速指定席だったような
長崎のキロ格下げのキハ28の行き残りも99年12月に全車廃車になったな
最後は普通の自由席だった(シーサイドライナーの指定席は無くなっていた)
@@みずきれいなあの頃のシーサイドライナーは、大半の58や65に485系グリーン車のお下がり座席等を載せていたので、特に区別してませんでした…
そんなJR九州ブランドもほんの数年ですっかり墜ちちゃいましたけども
確かに
キロは見ても
キハは見た記憶ない
今や地元では
特急すら
中間車が存在しない
4:55 アントが本線に!
毎度粗さがしになりますが、153のサハシ サロ の向きがおかしいです
ハシ+サロ><サロ+シハ となります
そういうとこだぞ編成厨
一般形気動車には中間車があったよね。(旧型や12系の客車改造車を除いて)
確かキハ18と、それ以前の湘南顔の(キハ43000かなぁ?形式忘れました。😅)車両くらいしか思い出せない。
中間車ならキハ18がそこそこ作られたのでは?
気動車は頻繁に分割併合をするから、なるべく全車に運転席がある方が効率が良い。
そのキハ18、単独車両で操作ができず増解結時に困ってたそうです…それに懲りて国鉄は中間キハ作らんくなったんやないですか!?。それが元でキハ20系など一般形は両運転台メインで増備され、急行型もキロ以外中間車を避けたはず。
解説より映像のCGが凄すぎて内容が入ってこなかった。
実写なのかCGなのか…。CGだよね?
非電化時代の関西線に入ったキハ35系に中間車がなかった時点で押して知るべきかと。あとキハ58系だと、細かい分割併合ができたし、定員も165系の先頭車と同じだけ確保できたからかと。
キハ35系に中間キハあればオモロいがアカンか
それをいうと片運転台トイレなしキハ36を製造中止にし両運転台キハ30を増備してた…当時から国鉄は気動車の短編成運用を基本にしてた!?
ディーゼル車が大量生産された時代って、地方路線の長大編成は客車に任せる時代でもありましたよね。
宇宙戦艦ヤマトを初放送から観てた世代ですが。
幼い頃中間車のキロハ28 1を徳島駅で見掛けました。
氷見線で12系客車を組み込んで4両で運転していたのがあるいみ急行型の普通車の中間車っぽかったですね。
両先頭車がキハ58,28じゃなくてキハ65だったら窓の形状が12系客車と同じだから
編成に統一感が出ていたかもしれませんね。
キハ58の外観に合わせた無動力中間車だったら、80系電車の中間車を電装解除して
キハ58に組み込めば違和感なかったかもしれませんね。色の変更は必要ですが。
まぁ80系電車はJRになった時には引退済みでしたが。
先頭のキハ91?連結部に人がくっついている…
特別席です。😂
急行型キハの中間車は見て見たかったというのもあるけど、他の交通機関の台頭、
なんで別料金を払って狭い向かい合わせの座席なの?っていう時代が来ていたから
実現しても長続きせず、先頭車化改造されていたと思います。
キハ40系列だけど、運転台があるけど、さらに反対側にやっつけ仕事のような、
運転台を設置されて両運転台車になったのもいますからね。
なので、短編成で地方のローカル列車に転用されたときにすべて先頭車だったから使いやすかったと思います。
急行型の中間車があったら。。。の姿は、急行型ではなくキハ40系列の改造だけど
キハ400で運転されていた急行「宗谷」がお座敷列車用種車をねん出するために
両運転台車両で4両編成だったのを1両、特急型だけどキハ183系の中間車で
置き換えて走っていたけど、急行型で中間車キハがあったら、こんな感じになっていたんだろうな。。。
という印象でした。
そういえば最近katoの「土佐」買いましたが、、これって魔改造のキロ→キハが入っていました。厳密には中間車(純粋な)ではありませんが、、中間気動車ですかね?
確かキハ18の他にキハ19も...
長年の疑問が晴れた
今日味、モーターとエンジンを積んだ車両が特急で走っているし、本数増やして 両数減らしているからね😆
でも、全車モーター車の電車は最強です😆
キハ58系列の正面はコストダウンのためパノラミックウインドウにしなかったという話がありましたね。
末期に製造したキハ58とキハ65でパノラミックウインドウが実現しましたね。
キハ65系のグリーン車があったとしたらどんなデザインになったのだろう。
それが実はキロ28の2309〜2314、2508〜2518なのです。昭和44年以降、キハ65と同時期に製造されました。屋根高さと雨樋の位置がキハ65に揃えられています。キロ65にならなかったのはキハ28の代わりににキハ65を数両入れれば編成出力を落とさずに冷房電源も確保できるのでどうせ編成中1両か2両だし設計変更してまでキロを大出力にしなくてもいいんじゃね?ってことだと思います。キハ65はもともとそういう使い方を前提に作られており、トイレがないことからもわかるようにキハ91系やキハ181系のように大出力エンジン車だけで編成を組むことは想定していないのです。
この頃の事情ならわかるけども、四国2700系になると運転席広くて機器もドアも大きいのに中間車がないのはどうかなぁと思う…
昨今の四国では中間車を製造すると持て余す未来しか無い
電車特急ですら2両で運用していた時がありますからね。
名鉄8000系はどうだったんですか?
10系気動車に中間車ありませんでしたっけ?試作だけ?
有りましたね。
キハ18です。
そこそこの両数が作られたと思います。
そうか、キロ系列以外に中間車ってないな。35系も両運30、基幹35、便所無し36か。
戦前とか敗戦後しばらくの時期はありましたが、急行用は出ませんでした。
キハ35系に中間キハ欲しかったがな
通勤型気動車なら中間キハ
@@tike2435 当然だあね
中間車ならキハ18をお忘れでは?
@@鉄道模型大好きおじさん おっと、そうやった。
3両1組固定運用だったら中間キハはワンチャン?姿はオハ12似?
中間キハは僅かですが、10系で有りましたよ。キハ18とかキロハ18とか。その存在を失念されていませんか?🤔
そうですよね。
キハ18は40両以上も生産されたはず。
私も何度か見掛けました。
昭和40年代になると平均所得が上がって庶民もみんな特急に乗るようになって特急車の座席に慣れていったので、
急行の固定ボックスシートは「安いけど座り心地が悪い!」と急激に不人気になったんですよね。
それで急行用車両の新製は途絶えるようになりましたね。
急行用車両の座席をボックスシートから117系みたいな転換クロスシートに変えていれば急行の衰退は防げたと思うんですが。
2700系と言うあほ車両がある事実
JR四国はキハ185時代から片運転台特急気動車が好き(JR東海のキハ85にも波及)⇒変態連結は東海&四国名物でひょ(爆!)
名鉄8000系はどうだったんですか?
運転台無しキハ8050がありました。
キハ8050とキロ8150はあったが後者はキハ格下げと同時に運転台取付魔改造でキハ8100になった。ニーズに合わせた増解結には運転台必須なんやろな!?(旧型気動車は運転操作も難しいらしいし)。