【ゆっくり解説】ギリギリ1万石だった藩9選...貧乏すぎる藩の実態!!!
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- Опубліковано 6 лют 2024
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ギリギリっす...
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歴史は何のために学ぶのか。この疑問を持ったことがある方は少なくないでしょう。仕事では直接使うことはほとんどないですよね。
過去を学ぶことで未来に活かせると私は考えています。教養という意味でも社会で必要な知識でしょう。
先人たちはどのような暮らしでなぜそのような文化が形成されたのか。面白いことばかりです。
こういった考えから、このチャンネルでは社会人の方が、ゆっくり楽しく歴史上の偉人のことを学べ、更に、そこから日常でも役立てられるような動画を作っています。
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ほぼ毎日17時に動画を配信中 にっぽんぽん 運営 山本陽太
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#ゆっくり #ゆっくり日本史 #ゆっくり解説
200以上ある藩のうち、有名な大名・藩主だけが取り上げられるため、日本を仕切っていたのは数藩+幕府であると勘違いしがちであるが、
このように独立した小藩を取り上げて紹介してくれるのは、ためになる。
雄藩がヤバすぎて他影薄い
@@user-pd1ve3jy9f 大藩が多い東北も仙台や会津米沢を除いたら影薄いですね。
鬼平犯科帳のコミックで、9990石の旗本が10石の加増を先祖の意志を継いで断った話があったはずだけど――これを見ると大名にならない方がいいなぁ。
そういえば大名になると経済的に困るので旗本のままでいた家もあったとか。
石高9999石で。
表高では横田家が9500石で旗本筆頭でした。
上杉鷹山は婿入り先も貧乏だったが、実家はその上をいく赤貧。
大名とは名ばかりで江戸屋敷は使用人を雇えず、母である藩主の奥方が家事の殆どをやっていた。
福岡藩黒田家の分家である秋月藩五万石の娘さん。お付きの御女中三十人、警護役武士八人一緒に高鍋藩に遣わされてる。
全員の賄料三千石と嫁入り道具費用として千両持込み。
因みに最後の松浦氏を(まつうら)と呼んでいますが、(まつら)が正式な呼び方です。
松浦(まつら)家は諱を使い回すことが多く、歴代を並べると混乱します、あと諱が棟(ただす)や静(きよし)など一文字の諱を持つ藩主が存在します。
多分AI音声が漢字を読んだからそうなったんだと思うよ
こんなのAIじゃない。ただの読み上げ機能でしょ
末盧国に関わることですので一部の方には発音は重要です。
歴史を語るのであれば、読み方は無視できない
素晴らしい動画。チャンネル登録しました🙂。
チャンネル登録したぜ!
寄合旗本についても取り上げて欲しいな。
1万石は殿様の個人収入では無くて、藩としての財政になるのでここから家臣の給料や城の維持費、インフラ整備などなどが支出されるためそりゃ厳しいでしょう。
1万石というのはその土地で1万石の米が収穫できるだろう、という意味です。それが表高です。
そして実際に収穫出来るのが実高です。そのうち5割を年貢に納めるのが五公五民と言い、当時の標準らしいです。
1万石の大名より高級取りの旗本の方が裕福そう
初期はまあ金持ちな旗本は結構いたが、江戸時代半ばではもうほとんどが副業がないとヤバいレベルに財政悪化していた。給料は変わらないがその給料の米の価値が下がってしまったのが大きい。
江戸庶民は白米を食べていたが武士は支給された玄米をそのまま食べていたという話がありますね。
庶民の白米食べ過ぎが、江戸後期の「江戸患い」が蔓延。
それは参勤交代があるなしによるところが大きいかも。大身の旗本はだいたい参勤交代する交代寄合っていう旗本だったするし、大名同様に石高に応じて行列の人数がきっちり決められていたので。一番楽なのは内分分家なんかの本家の大名から知行を領地ではなく米でもらってて、参勤交代がない江戸定府の大名とか旗本かな。家臣なんかも本家から派遣されてたりして藩や家中運営もほとんど依存できるし。
@@user-rk6jy9ni7c 金がそもそも産出量が激減していて幕末の万延小判なんで慶長小判の半分位の大きさですものね
意外と注目しない1万石大名のお話って面白かったです。😸👍
ギリ大名とかは、こんな風にそれで興味持たれたりもするんだけどね。今で言う魅力度最下位な茨城県みたいな。
逆に3万石とか中途半端な藩は、よほどな特殊性とか事件がないと本当に注目されない。
なので、石高が少ない藩は特産品を造る事に精をだしてる。
赤穂藩も5万石だが、塩田の活用で「赤穂の塩」とブランド品にまで殖産を進めていた。
この塩田製法を教えて欲しいと願い出た吉良家と騒動になった一因とも言われている。
私の実家のある五島藩は参勤交代人数が2人とか3人とか記録が残ってる。
楽しそう、
ということは大名より石高が低い交代寄合はもっと少人数か。松平郷松平家は徳川の本家なのに440石だから一人で徒歩かな?
@@yh6146
信じられない。
120石でも1人従者がいたなら松平郷松平家も同じだったかな?ちなみに松平家は自前の江戸屋敷が無かったから分家の屋敷に居候していた。
@@manacish
お殿様は家来と家族的なお付き合いをしていたかもね。
なんだか、お供か1人の参勤交代って絵になるわ。
明治維新後の庚午事変について解説していただけたら幸いです。
椎谷藩が出てくるとは思わなかったw・・・なんか胸熱w
よく頑張ったと思う!
そういえば過去の解説であった苗木藩も1万石だった。1万石なのに城持ち大名。
苗木藩の遠山家も一万石で山城でした
かなり貧乏でした
一応その一族から遠山の金さんこと
遠山景元が出ていますが(金さんも大名にまでなっている)
江戸町奉行で大名になったのは大岡越前だけではなかったでしょうか。
分家1940石相続+生家2000石相続+町奉行後の加増=1万石
そして一応徳川家康の妹の子孫。
@@captainfuture3754さん。
その大岡忠相様は痔持ちでお白洲に出座したのは生涯で二回です。
@@mahoroba6332
初耳!
後北条氏の子孫が藩主の河内狭山藩も1万石だったよね。
1万1千石だか1万3千石だかじゃなかったかな
そうですね、紹介して欲しかったな。
後北条氏って秀吉に滅亡に追い込まれたと思ってた。一部は生き残ってたんだね
河内狭山で1万石ながら明治維新まで生き残ったのは大したもの。
豊臣政権としてはお家は続けさせるつもりだったし徳川とはそこそこ仲良かった
律令制時代の旧国とか廃藩置県直後の道府県とか戦国大名の勢力範囲みたいのは見かけるけど
藩時代の各藩の支配地域を地図にしたものって見ない気がするけどどうなんですかね?
市町村並に細かくなるから作らないとか?
柳生藩
十兵衛の時代は分割したので、旗本になっています。
後に大名に戻りました。
そもそも12500石だったから弟に分知する時に十兵衛が1万石で残りを弟の分にすれば良かったのに。
磯田先生の本を拝読している様な楽しさを感じました。
初めてチャンネル拝見して良かったです。
これから 楽しみにさせて頂きます。
拝
Let'sキャッツのゴットデスマッチの姿勢チャチャチャ
8番目の柳本藩は陣屋が2つありました
正しくは芝・柳本1万石です
桜井市の陣屋跡に織田という地名が残っています
サムネの城の話してくれよぉ
たぶん苗木城っすね
遠山氏
1万500石だったそうです
去年行きましたが、軽く運動ができて楽しい山城跡ですよ
動画出してくれてました
主ありがとう😊
あと、解説ありがとうございます♪
千野隆司作「俺は1万石」高岡藩もある。
1万石っても、そこから家臣だの家人・奉公人に城(もしくは陣屋)の維持費、武具の維持に馬の維持、領地のインフラ整備に幕府重臣とか他領主との交際費、幕府からの公役なんかあるから実際領主が使えるのは200~300石くらい(贅沢しなければそこそこの生活ができる)じゃないかね 赤字ばっかの藩が殆どだっていうし
1万石は殿様の収入じゃなくて藩の税収だからそれを考えると確かに財政が苦しいのも納得かな。
@@extra9253石高は税収ですらなく、生産高なので税収はその4−5割
当時の一般的な税率は四公六民とかだろうから、1万石だと実質的な藩の収入は4千石くらいになるのかな。そこから家臣へ俸禄や藩の運営費を賄うのだろうから、確かに藩主の手元に残るのはそのくらいかも。名前は忘れたけどどこかの大大名が自由に使えるお金が年間200両だかと聞いたことあるから、1万石の藩主だとその十分の一、二十分の一とかなんだろうな
米は四公六民だが、雑穀(麦、粟、稗、大豆、芋)は、藩主の専決事項(殆ど五公五民)他に産物にも税を掛けた。豊後森藩一万二千五百石は、明礬の全国シュア70%で非常に裕福でした。
城下鰈の豊後日出藩も裕福でしたし、播州森藩も赤穂の塩で裕福でした。
@@user-wn6bz7mr1k それはあくまで特産品と呼べるものをを生産することが出来た藩だけでしょ。雑穀や菜種も結局色んな藩がやり始めた結果ぱっとしない値段まで下落してるし。
平戸藩の松浦氏はマツウラでなくマツラと読むのだそうです。
平戸藩9代目藩主の松浦静山(マツラ セイザン)がなかなか興味深いんですよね。説明すると長くなるのでとりあえず、城内に博物館的なものを作った。甲子夜話の著者。明治天皇の曽祖父。
本名松浦清(マツラキヨシ)さんですね。剣の腕も一流、屈指のコレクターでもあり、正に文武両道を地でいく方ですよね。その昔NHKの時代劇「妻は、くの一」で田中泯さんが好演されていたのが印象深いです。
@@user-zg2kg3ns1t
観てました。 松本幸四郎? 奈落に転落事故?
吉宗側用人
加納久道=伊勢八田藩1万石のち上総一宮藩最終的には加増で1万3千石
有馬氏倫=伊勢西条藩1万石のち下総五井→下野吹上藩
大河では小林稔侍とすまけいが演じてた。
摂津麻田藩(青木一重の子孫)に曽祖父が大庄屋で苗字帯刀で最後の殿様に仕えていた。一万石なのだが、藩祖の青木一重公が、一万石でよいから、富士の家紋がほしいと家康にお願いしたらしい。摂津は豊かな土地で実質10万石なんだけど、1万石の藩の分の年貢しか取られなかったそうだ。麻田藩は城ではなく陣屋とよばれ、30年前まで蛍池に陣屋跡が残ってました。
土佐24万石❗抜け荷の儲けを加えると124万石。
旗本だと参勤交代とかないとかならあえて9000石になるように分けるのは賢いかもね
旗本でも参勤交代してた家もありはするんですよ・・・(^_^;
交代寄合と言われた旗本で30家余りあったそうです。
大岡忠相も一万石の大名に取り立てられたけど一度も
任地に行く事はなかった。
大岡忠相が徳川吉宗から拝領したのが三河西大平藩でしたね。
ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%A4%A7%E5%B9%B3%E8%97%A9
↑
西大平藩Wiklpedia
朝日新聞社発刊の幕末の江戸と現在の東京の市街地図(大名屋敷の名前と祿高記載)を照らし合わせた書籍(価格2万円+消費税)には現在の法務省の所在地が大岡家の屋敷跡ですが、幕末の大岡家は【2万3千石に加増】されていました。
子孫も江戸定府だから基本的に江戸にいた。
家光に取り入って大名になった鷹司信平…ウホッ!
大名になったのは信平の孫で本人は7000石。
昔付き合ってた彼女が吉井にいて、よく陣屋門の近くで待ち合わせしてたのはいい思い出。ありがとう鷹司信平!
3代から7代まで交互(紀州家より)に当主となっていた所謂両統迭立という珍しい家。
一万石だろうがだろうが百万石だろうが、大名としての『格式』を保たないといけないのが辛いよな。
九千九百石の旗本の方が、大名より位は低くても、台所事情は気楽だったかも。
なんだかんだの超貧乏大名もちゃんと参勤交代は守ってたのが江戸時代の不思議だなぁと言うかある意味日本人らしさがこの辺で完成したのでしょうかねぇ・・・
出雲国、松江藩の分藩で、母里藩、広瀬藩は一万石です。貧乏でした。母里藩は、身分に構わず頑張ったので、幕末はそこそこ稼いでいたようです。現金収入に力を入れたのが良かったようです。
椎谷藩は、江戸警護に功あり辻番所一手持ち許されてるし、その功績で本来は外様だが椎谷藩谷氏に限って譜代に加えられる。歴代殿様は、若年寄、大番頭、老中も務めてる。役職に付いてる時は参勤交代免除。
2:01 松前藩ーー😭😭。石高基準だと五千石にすら遠く及ばないけど、一応◎◎万石格ってイレギュラーな扱いだったけど一応藩でした。頼みます。仲間に入れて🥺🙏。父方のご先祖様その①が浮かばれません😭😭。
松前藩も✴︎✴︎マークの注)の仲間に入れてもらえないだろうか…(;´д`)。
松前藩😭。
徳川吉宗の側近で、加納久通は?
紀州時代から吉宗に仕え、最終は伊勢、上野、下総などに所領が有り。
伊勢東阿倉川に1万石で陣屋を構えてるけど?
※東阿倉川藩(1726~1826まで存在)、現在の四日市東阿倉川。
上杉家の分家米沢新田藩は、家臣も本家からの出向
江戸屋敷も米沢本家の屋敷の一部を藩邸としてた。
特定の領地はナシ、毎年米沢本家から一万俵を与えられてた。言わば内証分家何だけど、何故か幕府から大名と認められてしまう。
東京で一番小さい羽村市って…結構大きい工場なかった?下手に大きい地方の市より収入デカくない?
立花家は誾千代姫の直系?
誾千代に実子はいません。また夫の宗茂にも実施がいません。なので宗茂弟の三池1万石藩主立花直次(高橋統増)の子孫で続いています。
暴れん坊将軍で一万石から九千九百石に減封してくれって頼んでた大名がいたことは覚えてる。参勤交代がきつ過ぎるから大名辞めたいって、きっとあれが一万石大名の本音なんだろうね。
参勤交代しない定府大名でも、
江戸と国元に人員を分けて政務を行うので人件費はかかるし、
江戸は物価がたけぇしでそれはそれで大変だったそうな。
参勤交代してた大名だと、もし仮に旗本にしてもらったとしても、参勤交代のある交代寄合になるだけだろうし、石高に応じてきっちり人数が定められているから、人数減っても負担のキツさは変わらないと思う
税率入れたら、四公六民だったら、手取り四千石くらい?
家臣団に渡す分があるからもっと無い
特殊な例として、五千石の喜連川藩の紹介もして欲しかった。
その藩は栃木の喜連川ですか?
足利氏の小弓公方と古河公方の末裔の家ですね。
徳川家から同族として厚遇された藩です。
@@user-go4xw1mz6g
勉強になります。
別のチャンネルにあります
喜連川は最近色んなチャンネルで取り上げられてる
万石超えの家臣についても知りたい
米が採れない松前藩は「1万石格」だったが海産物の交易などで栄え、渥美半島にあった田原藩は地理的要因もあり石高に比べ収穫量が低く経済的に苦しかったとか。
企業だとざっくり利益1000万で従業員1人みたいなイメージだっけ?
年商7億で利益はそのうちの6,7割って考えるとせいぜい従業員30~40人くらいの規模か・・・。
村の公務員でももっといそう。
細かいですが、最後の家「まつら」と読みます。
蒔田氏は、一万石だったが、弟2人に其々一千石を分け与えて本家は八千石となり幕末迄続いた。幕末に手柄を立てて二千石加増され改めて一万石大名として立藩。明治維新後に子爵を授けられる。
柳本藩の織田秀親の事例は、肥後藩細川家の五代当主、細川宗孝の事例を思い出します(あっちは家紋を見間違えたことによる人違い殺人でしたが)。
この時も仙台藩伊達家のとりなしで弟に家督相続が認められました(さらにその弟である六代当主、細川重賢は徳川治貞、上杉治憲と共に寛政の三名君と呼ばれました)。
米価は60キロ政府買い上げ価格15000円程ですから一石は37500円かと。
これで考えると、今の農家も小藩もやってられない。
石高は生産量なので、大名の収入はそれに四公六民や五公五民などの税率をかけた値
大身旗本にしてもらえませんか?
と申し出て、減封してもらい晴れて五千石くらいの旗本にしてもらえないのかな?参勤交代もダルいし
二分割して 5000石 の旗本二家になる 三分割で3333石の旗本三家とか
やっぱり 旗本と大名では格式が違うからな そんなことは考えないだろうなぁ
願い出ればしてもらえそうな気もするけど、そもそも参勤交代していた大名だと仮に旗本になったとしても、参勤交代しなくちゃならない交代寄合っていう旗本になると思うので、それはそれで財政的にもさらにキツくなる。もともと定府大名だったら参勤交代しなくていいかもだけど
先祖が三池藩士でした。
ご先祖のお墓の一部が今でも下手渡藩領にあります。
先祖霊供養極楽安座成就
立花氏がなぜ新政府側になったか?わずか1万石のしかも外様で幕閣。流され福島へ80年行ったが三池藩は忘れてはおらず、幕末に帰ってくる。九州、福岡、大牟田市であるから新政府軍。1万石は国ではないので、貧乏ではなく一国一城の決まりで大名でも城は持てない陣屋大名。日本一小さな大名で外様大名ながら幕閣で位も従二位で福岡藩熊本藩の大藩も頭が上がらず。三池藩は日本一小さな大名であるが多くの人材を輩出!戦国時代は信州真田藩とも親族関係を結ぶ。家老の子は初代関東軍総司令官やダーウンの進化論。最後の藩主は初代学習院長。皇室の人望も厚く、子爵ながら孫は明治天皇系第一皇女を嫁にもらう。千葉の一之宮藩も三池藩から養子。子孫に麻生太郎など。現在大牟田市は炭鉱閉鎖で人口減少。しかし、もともと学問の町。前黒田日銀総裁、最高裁、野村証券前会長、現在の世界医師会会長など。日本一小さな外様大名である。大牟田市北部には戦艦ヤマトの軍司令官の墓あり!陸海軍大将排出!
サムネの城の名前は?
藩となると五千石とかもね、あったよね。
大名としての体裁を保つのが 大変だよ
三池藩主の子孫にあたるのが麻生元総理大臣
俺、もし当時一万石だったら1石幕府に返納して大名やめて旗本になりゅ
もし将軍が綱吉なら、その要望を嘆願した時点で激怒され、旗本への転入どころか取り潰し、本人はどこかの藩へのお預け処分にされそう。
武士は食わねど高楊枝、誇りや面子を尊ばない者は武士に非ず、金に汚い商人の様だと周りから蔑まれる覚悟が必要。武士は慎ましく生活するだけなら貧しくはならない。それぞれの格式や身分に合わせた家臣を抱え、付き合いや行事に金が飛んでいく。
私の地元の七日市藩は10014石。畑作からの年貢が約半分の貧しい藩で、本家の加賀前田家からの援助なくして成り立たない財政だったようです。
国家老二百石、次席家老百五十石。他は石高務め五十人、その他は全て扶持米務め(半農半士)、毎年七日市藩誕生の祝に前田家本家から百両と太刀贈られる。藩主大阪城加番(数年毎に就任)事に百両と太刀贈られる。飢饉に五百両贈られる。大飢饉に至っては千両贈られる。
毎年の前田家本家、分家の富山、大聖寺の参勤交代の宿場町として繁盛する。因みに国家老一族は藩祖利孝公誕生の折利家公から直にお守役として付けられた家柄。利孝は、芳春院と共に江戸で人質生活を送ってる。芳春院からは我が子同然に扱われて同じく芳春院守護で遣わされた奥山に養育係をさせる。
江戸賄料として利孝には幕府から二千人扶持、前田家本家から千人扶持を与えられてた。石高にすると九千石。夏の陣にて本多正信に属して手柄を立てて
七日市藩を立藩。その折家老、小姓頭、徒士頭、物頭、代官を前田家本家から宛てがわれる。
因みに前田家本家の分家では無く幕府からの新規取り立て別家である。
藩祖は前田利家の五男とかでしたっけ。でも本家の加賀藩から知行を分けられたのではなく、大坂の陣の手柄で幕府から直接知行をもらって立藩したのだとか
利家の五男の利孝公が藩祖になります。
利孝公はお松と一緒に人質として江戸に送られ、加賀前田家の分知ではなく大坂の陣の活躍で七日市の領地を与えられています。
詳しくありがとうございます。今でも地元の高校に陣屋の一部が残っていいるんですよね。昔あのあたりによく行くことがあって、門だけは外から見たことがあります
大名の話はネタに尽きませんよね。
かつてあった江戸三百藩というサイト復活してくれないかな。
小島藩
我故郷菰野藩は一万二千石勝ち申したな
石高は藩の収入なら、大名自身の年収はずっと少なそう。コメ以外の収入がかなり有ったのかな?
それでもガッツリ搾り取られます。天童藩はガッツリ搾り取った唄が唄われます。
天童藩?のぶおの子孫の藩です!
@@user-by6kk1ps2q様
紅花ですね
小幡を追い出されて国主格までボッシュートされたのに懲りねえ奴だ
ま、そのムダに高い気位のおかげで将棋の駒が名産になったんだけど…
ギリギリ藩主・・・
ギリギリチョップ以上ギリギリガールズ以下ぐらいのギリギリか❓
アンナミラーズの、スカートみたいに、ギリギリですね…
登録者数10万人のUA-camrくらい?
織田有楽斎は信長の弟ですよ
まあ、新田の開発とかで、本当に取れ高が1万石の所は少ないし、幕府の役職に付けて別に収入を稼げる譜代大名もかなり多いしな。
実高が高い大名家もありますよね。😊
収入は米だけじゃなく特産品とかの貿易でも利益を出せますからね。
一万石大名だと、大阪城加番務めると役料一万石でしたね。
年収600〜800万みたいなかんじか、、、、😅
それで国を運営するんだから極貧だわな。
いろいろ経費もかかるし。
松浦は摂津源氏渡辺党からなんてすかね、、
下松浦党。上松浦党波多野氏は秀吉から潰されてる。
サムネの城は何処の城なの。昔ビーバップハイヒールで一度だけ見た記憶があるんだけどよく覚えていない。
1万石で山城の城持ち大名だとすると遠山家の苗木藩かな?
@@manacish ありがと
検索かけたらそうみたい。助かった。
陪臣である大藩の家老も1万石貰っていますね(維新後に男爵家になっている家が多い)
加賀藩には有名な加賀八家という万石以上の家も(本多家は5万石でその家臣には2000石もいた)
そういう大名級の陪臣も扱ってください
ちなみに加賀八家の前田土佐守家は藩祖の前田利家と正室の松の次男の子孫。皮肉にも藩主は利家の側室の息子の子孫。
その本多家は正信の家系でしたっけ。陪臣だけど朝廷から諸大夫にも叙せられるんですよね
@@manacish 加賀前田家は江戸時代初期を除き御三家以外で家臣が従五位下に任官できる唯一の大名。尾張と紀州は6人、水戸は5人、加賀は4人と決まっていた。ちなみに御三家は付家老が優先で加賀は本多家と前田土佐守が優先で従五位下に任官していた。
長家三万三千石も、代々朝散太夫従五位下大隅守名乗ってる。
お金で苦労してたのね。致し方無いとは言えね。新田開発や、殖産興業に勤しんでたとしてもね。
あの名奉行、大岡越前之上も普通の旗本だったが吉宗公に、好かれてラストは一万石の大名に出世しました。つまりは、9000石までは旗本何だわ。下の旗本等は20石かな?他は、食いぶちが無いから旗本は、名前だけ。なので、傘張り等で凌いで居る有り様。旗本の大部分は、元は武田の家臣が殆ど。生粋の旗本は、案外少ない!らしい。
結局 今の都道府県も藩の名残りだもんな
さらにいえば、律令制の国の名残でもあるように思う
浅尾藩、田分け者の典型だな。
ウチの先祖、浅尾藩士らしい^_^
@@user-wk3be2bs3x 忠臣蔵もそうだけど、忠臣とは殿様が暗愚でないと(笑)。
御先祖様は、忠臣だったのでしょう🙈🙊🙉
家臣団に扶持を与えないといけない!!🎉🎉🎉🎉🎉
河内狭山藩も紹介して欲しかったな。
西大路藩もね。
織田家は先祖が家臣だった細川や浅野、池田、前田あたりが大大名なのがなんとも言えないかな
新発田藩溝口家なんかは元々は丹羽長秀の家臣で織田家からしたら陪臣だからもっと何ともいえなかったろうな。まぁ溝口氏は本能寺のちょっと前に信長の直臣にはなれたみたいだけど。
前田家と同列だった丹羽家もね。
所詮江戸時代、江戸に居なければ田舎じゃ金使う場所もないからね。
え、でも羽村は半分横田基地だから補助金でてんじゃないの?知らんけど
良く1石一城のあるじって言い方をするけど正確に言えば1万石Ⅰ城のあるじってって言うのが正しいのやな。
一国一城
10升=1俵、10俵=一石なのでは?
一升≒ 2kg位 一俵≒ 60kg位 なので 一俵≒ 30升位なのでは?
下野大田原藩の大田原氏は1万1000石ながら城持ちでした(大田原城)。
佳く 調べた