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13:50 『頼朝は、2寸くらいの銀の観音像(自仏像)を髷に入れた』『鎌倉殿〜』千鶴丸の死をカラフルな小さな観音像を握りしめて頼朝(大泉洋)が悔しがってた❗️唐突すぎる観音像が謎だったので気になってました、ありがとうございます😊
当時のお墓事情、全く知らなかったので勉強になりました。中尊寺のミイラの件も納得できました。
すごい!勉強になりました。建物自体(お堂)が、お墓の扱いということですね。
為になるお話ありがとうございます。明治の廃仏毀釈で法華堂が廃さなければ、わかり易かったかも知れませんね。因みに義時の墓は伊豆の国市の北条寺にあるみたいですね。
以前に古い時代は風葬だったと知った時、ショックだったと同時に「だったら戦場で死んだりしてお墓作ってもらえなかったりしても特に問題がある訳じゃないんだろうな」と思って何だかすこし安心した覚えがあります。勘違いといえばオーストリアのウィーンには公園か墓地かにモーツァルトの像があって、そこをお墓と勘違いする日本人が昔は多かったとか。今は有名な『アマデウス』という映画のラストシーンで貧乏だったモーツァルトの遺体が共同墓地の大穴の中にアカの他人さんのそれと一緒に放り込まれるシーンがあるので“個人的”なお墓が無いのは割と知られているそうですけどね
わ~、そういえばそうですね!
私も頼朝、義時のお墓参りに行きましたが、今一よくわからなかったのが、この動画で理解でき、スッキリしました。ありがとうございました。
勉強になるわぁ。ありがとうございます。
私も全く同じ間違いをしました。名越の切り通しも面白いですよね。
仲間がいた!wwww
かわいしょうーこちゃん、ぺちゃくちゃ、ぺちゃくちゃと、早口で次から次と、よーしゃべるけど、、すごく、耳に聞きやすくて、、面白くて、、楽しいやんか。
3:57 16:55 江戸期に作られた石塔がお墓のように見えるって話で、昔放送大学ラジオの特別講義で聴いたトンデモ回を思い出しました。曰く位牌も墓石も儒教(彼によると儒「学」ではない)の宗教観の反映で、我々現代の日本人もそれに従うべきとのこと。日本は長きにわたり仏教優勢だったのは知っていたので、なんでこんな人がラジオで45分間番組を持てるのかと不思議でした。こういう後世に作られた歴史を有難がれと主張する人とは逆に、きりゅう先生は、一瞬は後世に惑わされたとはいえきちんと歴史を調べて訂正するのは誠実で謙虚な態度で、学生(がくしょう)としてさすがと思います。
勉強になります!楽しみにしてますかます!
ありがとうございます。
さすがに博学のきりゅうさんでも、失敗されるんですね。でも、お話を聞いたら、これは無理もない、誰だって間違えますよね。同じ日本でも時代が変われば、風習も価値観も変わるという典型のような例ですね。私達が当然と思っていることも、江戸時代以降に常識となったことで、それ以前は遺体を放置していたとは、驚きました。平泉の金色堂の藤原三代のミイラも、この風習に則っていたのだなあ、としみじみ納得できました。私は大学で歴史を専攻していましたが、このチャンネルで知った理由や事情ほど、心から理解できたことはありません。これからも、知的好奇心を満たすため、楽しみに視聴させていただきます。
遅ればせながら「歴史ツアー/土方歳三(青春篇)」、拝見しました。ああいった紀行動画、以前に上げてたのを知りませんでした。シリーズ化して下さい、と言いましたけど考えてみればコロナ騒動が治まるまで難しいですね。
納得、わかりやすい説明ありがとうございます。
わ〰️良いですね😃鎌倉でも山の中って感じで✨観光案内所で地図をもらって1人で史跡巡り😍真似させていただきます🔥
いつも楽しく拝見しております。小学校の遠足で北条政子と源実朝の墓に行きましたが、あれは供養塔だったとは!日本史の授業の中に文化史という枠はあるので、葬礼についても、その中で教えれば良いのにと思います。
儚い(墓ない)人生だったということですな。
先日の動画できりゅうさんが仰っていた失敗談ですね~😆
墓石は、後世に作られたものですが、つい手を合わせてしまいますね。紫式部と小野篁の墓石も、後世に誰かが作ったものなのでしょうね。それでも、今は長岡に行ってみたいです。義経が平泉にいることを知り、静御前が後を追ったと信じたいですね。京都からのルートを考えると、北陸道から長岡、長岡から会津を抜けて福島へ行くルートが自然のような気がします。コロナが落ち着いたら、長岡に行ってみます。
金色堂の場合、遺体は堂内の須弥壇の中に納められているので「お堂の下に安置=金色堂がお墓」という表現のニュアンスは事実とは違うと私は感じました。
この間行った時は大江広元の墓も表示がありました。その横の毛利季光の墓も。大江広元の墓は天園ハイキングコースの外れにもありますよね。
なんと表示が! ありがたいですね~💖
勉強になったねぇ(^ ^)勉強になったよぅ^_^
清泉小学校に通い、寿福寺に先祖の墓が在るので鎌倉には馴染みがあるのですが、鎌倉時代には墓と云うものが無かったとは全く知りませんでした。有意義なお話し、ありがとうございます。
おもしろかったです。私は両親とも散骨だったので、親の「お墓」はありません。お参りはどうするの? と訊かれると、そのために位牌があるのだと答えます。墓=埋葬地というわけではないですね。
本当にお墓の認識も様々ですよね。
放置が衝撃的過ぎて!!せめて土葬とか、と現代人としては考えてしまいます。フレッシュなご遺体があるって、うーん、すごいですね。
鳥葬が浮かんだ…🚻🦅
いつも楽しく拝見させて頂いております。こちらのチャンネルのお陰で鎌倉殿の13人を深く理解して見ることができ、大変助かっています。ありがとうございます。第26回の紀行で頼朝の墓として例の石塔が紹介されていたので、NHKも誤解してる~wwwと、この動画を教えてあげたくなりました~www
あれは後に島津家が建てた頼朝の墓なので、正確には供養塔なんですけどねww
あ~勘違い!!だったんですね、そしてお墓なのに平地!お墓跡を普通に歩いてるんですね。全くお墓事情は知らなかったのでお勉強になりました~
ビックリでした(笑)
あのよく知られたの頼朝像は実は別人、と最近言われてますね。でも、私の中ではやっぱり「頼朝」と言えば あの姿が浮かびますね。なんかイメージぴったり😁
私もです! いいの、私の中の頼朝像は、もうあれでwww
他の方の指摘もあるかもしれませんが、中尊寺金色堂を建てたのは秀衡の2代前の清衡で、後三年の役の死者全般を弔うことが当初の目的だったようです(炎立つ2部の、すっかり老け込んだ清衡が金色堂の竣工を見守る〆は印象的でした)
このお話を聞いて大変ためになりましたし、足利尊氏が後醍醐帝のため 嵐山に当時広大な天龍寺を建てた理由がわかりました。室町時代とか江戸時代より前 高貴な方々のお墓事情はそんなに変わらなかったのでしょうか?
マダガスカルのメリナ王国でも貴族しか街中(防壁の内)に埋葬できなかったそうですし、何処も似たようなものだと思います
島津と毛利で先祖の墓を建てて張り合ってたというのも、力を持て余していた感がありますね
きりゅう先生版「街道をゆく」ですね。面白かったです!シリーズ化して下さい。
頑張りますwww
(*゚∀゚)*。_。)*゚∀゚)*。_。)ホントホント!説得力あるし、面白いですからシリーズいいですね!
勉強になりましたなぜ長州藩が大江広元の墓を建立したんでしょうね
大江広元が毛利家の祖先だからです。
現在のような墓(墓石)は無かった.はかない命…(たいへん失礼つかまつりました😞)
そーなんだね。よく分かりました。
なるほどー😂やはり少しのことにも、先達はあらまほしき事なり
清少納言〜💓
頼朝の墓参りに行きました白旗神社に小学生?の説明文があり良く調べていましたよ
丁寧に説明して頂き、有難う御座います。史跡に設置されている案内版・説明文はすべからくこんな状態で、ある程度(いや、完璧に)知識が無いとほぼ間違えてしまいます。まあ、親切に長々と記述すると誰も読まないという事になるので、学芸員の方は最初から諦めているのでしょう。また、美観の点でも最小限に止めるのを良しとする傾向にありますから、本当に知りたかったら、自身で調べてねって事でしょう。
本当にそうですね。
先週末鎌倉に行って同じ間違いをしてきました…一週間前に気づいていれば…
お仲間💖
勘違いされて花だらけにしてもらった大江さんも、あの世で痛し痒しに違いないですね。義時の霊にしてみれば、大江さんだって当時の墓じゃないんだから、いっその事こっちをおれの墓にしてくれればいいのに、、、とボヤいてるのかも。
二ヶ月位前に知人からかしましチャンネルを教えてもらってからは、鎌倉殿を見た後にいつも楽しく拝見しております。お墓、半年くらい前に行った時に、どういう事?と思いながらそのままにしていました、笑。この動画を拝見し納得!いつも分かりやすくたくさんの学びをさせて頂き感謝です!!
大江広元から「最近俺の墓に人が来なくなったのはお前のせいだ」と文句言われそう。あの空き地がお墓だとは誰も思いません。献花台でも設置してくれればいいのに。
最近、少しわかりやすくなったそうですよ。
寿福寺に政子ちゃん眠っておらんのかあ😇残念
今になってみると、天然痘などの疫病の流行が、穢れ意識に影響していたようにも思いますけどどうなんでしょうね
北条義時の墓に行く坂はきつい
大江殿は毛利氏の祖先なので立派なお墓になっていますね。義時の法華堂はなにもないですがVRアプリで過去の法華堂の立派さが再現されていましたよ。
見ました。VRはありがたいですね~。
今のお墓が江戸時代からとなると、戦国武将なんかの墓もないということなのかな?
寿福寺の右側道を登ったところにある北条政子の菩提塔には、何度も行ったことがあります。その途中に、私の友人の自宅がありますが、宅地への出入口がトンネルになっており、他人は誰も気がつかないことでしょう。興味本位でトンネルを抜けると、不法侵入になるので、気をつけてください。
墓石まで階段下、左の白旗神社の場所に頼朝を祀る法華堂があったと言われているので、ここが墓所ではないでしょうか。
先日、ブラ○モリで訪れてた鎌倉のお墓。その回を観た時に不思議だった謎が解けました! でも、そうすると頼朝さんたちの遺体?ミイラ?はどこにあるんでしょうねぇ
個人的には、「そこで島津重豪かい!」というのもツッコミどころですよね。まあ、島津氏は自称頼朝の子孫ですからわからんでもないのですが…
私も同じ勘違いをしてました(°_°)なんだか分かりにくい場所に石碑が建てられてるなぁって思いながら手を合わせました。この動画を見て納得しました(笑)
とっても分かりやすくて面白い動画をありがとうございます😊これからも楽しみにしています♪
北条義時が創建した伊豆の国市の北条寺にお墓がありますけど…。
北條寺のお墓は後から泰時が建てたもので埋葬されたのはこちらだそうですよーーー
頼朝墓の北東から山道を伝って上ると(手を使わないと登れないです)、三公墓(と私はそう呼んでいますが)のある処に出ます。そこにある島津忠久墓が実はこの墓域のメインなのですよ。この墓域を整備したのは島津重豪(島津斉彬を育てた人ですね)で、彼は将軍家御台所・広大院篤姫の実父だったので幕府からもアンタッチャブルだったんです。天璋院篤姫は同じ島津の出と言うことで、広大院から名を貰ったのですね。島津忠久は頼朝の子と言う明らかに嘘の話があって、しかし島津はそれを嘘と知りつつ権威付けに利用しているわけです。俺らは頼朝の子孫やで、つまりは源氏の嫡流やで、と徳川将軍家に喧嘩を売っているのですね。しかしそれを咎められない。なぜなら御台所の実父だから。
大江広元公墓と毛利季光公墓、この両名は親子ですが、これはこの墓域が整備された後、まだ明治維新にはなっていないどさくさの時期に長州藩が整備したものです。ここは宝治合戦で三浦氏が族滅された場所でもあって、大河ドラマ「北条時宗」で浅野温子がゲルニカみたいな演技をしていた(時宗の母で毛利季光の娘役だったので)、その舞台です。つまりは三浦に味方した毛利季光の死に場所でもある。季光の一子、経光が生き延びてその子孫が長州毛利家です。なぜ島津忠久墓と並ぶようにして、大江広元墓と毛利季光墓があるのかは定かではないですが、少なくとも毛利季光はそこで死んでいるので、彼が一番理屈が通っています。
詳細ありがとうございます。
大河で天璋院が有名になったので、混同してしまいそう💦
この頃の平均年齢っていくつくらい何でしょう‼️頼朝は確か51くらいだったと思うけど…
乳幼児死亡率が半端なく高いですよね~。
そうですね〰産まれてもいろんな原因で⭕亡しているね…育って生存競争だw
源頼朝の墓も江戸時代に建てられた、供養塔である。
義時の墓は伊豆の国市にあるけど鎌倉にもあるの?
鎌倉で亡くなっているので、伊豆の国市のお墓は供養塔になるんじゃないでしょうか。(まあ、鎌倉人のお墓と呼ばれるものは、全部供養塔なんですがww)
@@kashimashi_rekishi_ch マジですか?あれが供養塔なの?墓参りする人あれが義時の墓だと思って行ってますよ。
13:50 『頼朝は、2寸くらいの銀の観音像(自仏像)を髷に入れた』
『鎌倉殿〜』千鶴丸の死をカラフルな小さな観音像を握りしめて頼朝(大泉洋)が悔しがってた❗️唐突すぎる観音像が謎だったので気になってました、ありがとうございます😊
当時のお墓事情、全く知らなかったので勉強になりました。中尊寺のミイラの件も納得できました。
すごい!
勉強になりました。建物自体(お堂)が、お墓の扱いということですね。
為になるお話ありがとうございます。
明治の廃仏毀釈で法華堂が廃さなければ、わかり易かったかも知れませんね。因みに義時の墓は伊豆の国市の北条寺にあるみたいですね。
以前に古い時代は風葬だったと知った時、ショックだったと同時に「だったら戦場で死んだりしてお墓作ってもらえなかったりしても特に問題がある訳じゃないんだろうな」と思って何だかすこし安心した覚えがあります。勘違いといえばオーストリアのウィーンには公園か墓地かにモーツァルトの像があって、そこをお墓と勘違いする日本人が昔は多かったとか。今は有名な『アマデウス』という映画のラストシーンで貧乏だったモーツァルトの遺体が共同墓地の大穴の中にアカの他人さんのそれと一緒に放り込まれるシーンがあるので“個人的”なお墓が無いのは割と知られているそうですけどね
わ~、そういえばそうですね!
私も頼朝、義時のお墓参りに行きましたが、今一よくわからなかったのが、この動画で理解でき、スッキリしました。
ありがとうございました。
勉強になるわぁ。ありがとうございます。
私も全く同じ間違いをしました。名越の切り通しも面白いですよね。
仲間がいた!wwww
かわいしょうーこちゃん、ぺちゃくちゃ、ぺちゃくちゃと、早口で次から次と、よーしゃべるけど、、すごく、耳に聞きやすくて、、面白くて、、楽しいやんか。
3:57 16:55 江戸期に作られた石塔がお墓のように見えるって話で、昔放送大学ラジオの特別講義で聴いたトンデモ回を思い出しました。曰く位牌も墓石も儒教(彼によると儒「学」ではない)の宗教観の反映で、我々現代の日本人もそれに従うべきとのこと。日本は長きにわたり仏教優勢だったのは知っていたので、なんでこんな人がラジオで45分間番組を持てるのかと不思議でした。こういう後世に作られた歴史を有難がれと主張する人とは逆に、きりゅう先生は、一瞬は後世に惑わされたとはいえきちんと歴史を調べて訂正するのは誠実で謙虚な態度で、学生(がくしょう)としてさすがと思います。
勉強になります!楽しみにしてますかます!
ありがとうございます。
さすがに博学のきりゅうさんでも、失敗されるんですね。でも、お話を聞いたら、これは無理もない、誰だって間違えますよね。同じ日本でも時代が変われば、風習も価値観も変わるという典型のような例ですね。私達が当然と思っていることも、江戸時代以降に常識となったことで、それ以前は遺体を放置していたとは、驚きました。平泉の金色堂の藤原三代のミイラも、この風習に則っていたのだなあ、としみじみ納得できました。私は大学で歴史を専攻していましたが、このチャンネルで知った理由や事情ほど、心から理解できたことはありません。これからも、知的好奇心を満たすため、楽しみに視聴させていただきます。
遅ればせながら「歴史ツアー/土方歳三(青春篇)」、拝見しました。
ああいった紀行動画、以前に上げてたのを知りませんでした。シリーズ化して下さい、と言いましたけど考えてみればコロナ騒動が治まるまで難しいですね。
納得、わかりやすい説明ありがとうございます。
わ〰️良いですね😃鎌倉でも山の中って感じで✨観光案内所で地図をもらって1人で史跡巡り😍真似させていただきます🔥
いつも楽しく拝見しております。
小学校の遠足で北条政子と源実朝の墓に行きましたが、あれは供養塔だったとは!
日本史の授業の中に文化史という枠はあるので、葬礼についても、その中で教えれば良いのにと思います。
ありがとうございます。
儚い(墓ない)人生だったということですな。
先日の動画できりゅうさんが仰っていた失敗談ですね~😆
墓石は、後世に作られたものですが、つい手を合わせてしまいますね。
紫式部と小野篁の墓石も、後世に誰かが作ったものなのでしょうね。
それでも、今は長岡に行ってみたいです。
義経が平泉にいることを知り、静御前が後を追ったと信じたいですね。
京都からのルートを考えると、北陸道から長岡、長岡から会津を抜けて福島へ行くルートが自然のような気がします。
コロナが落ち着いたら、長岡に行ってみます。
金色堂の場合、遺体は堂内の須弥壇の中に納められているので「お堂の下に安置=金色堂がお墓」という表現のニュアンスは事実とは違うと私は感じました。
この間行った時は大江広元の墓も表示がありました。その横の毛利季光の墓も。大江広元の墓は天園ハイキングコースの外れにもありますよね。
なんと表示が! ありがたいですね~💖
勉強になったねぇ(^ ^)
勉強になったよぅ^_^
清泉小学校に通い、寿福寺に先祖の墓が在るので鎌倉には馴染みがあるのですが、鎌倉時代には墓と云うものが無かったとは全く知りませんでした。
有意義なお話し、ありがとうございます。
おもしろかったです。私は両親とも散骨だったので、親の「お墓」はありません。お参りはどうするの? と訊かれると、そのために位牌があるのだと答えます。墓=埋葬地というわけではないですね。
本当にお墓の認識も様々ですよね。
放置が衝撃的過ぎて!!
せめて土葬とか、と現代人としては考えてしまいます。フレッシュなご遺体があるって、うーん、すごいですね。
鳥葬が浮かんだ…🚻🦅
いつも楽しく拝見させて頂いております。
こちらのチャンネルのお陰で鎌倉殿の13人を深く理解して見ることができ、大変助かっています。
ありがとうございます。
第26回の紀行で頼朝の墓として例の石塔が紹介されていたので、
NHKも誤解してる~wwwと、この動画を教えてあげたくなりました~www
あれは後に島津家が建てた頼朝の墓なので、正確には供養塔なんですけどねww
あ~勘違い!!だったんですね、
そしてお墓なのに平地!お墓跡を普通に歩いてるんですね。
全くお墓事情は知らなかったのでお勉強になりました~
ビックリでした(笑)
あのよく知られたの頼朝像は実は別人、と最近言われてますね。でも、私の中ではやっぱり「頼朝」と言えば あの姿が浮かびますね。なんかイメージぴったり😁
私もです! いいの、私の中の頼朝像は、もうあれでwww
他の方の指摘もあるかもしれませんが、中尊寺金色堂を建てたのは秀衡の2代前の清衡で、後三年の役の死者全般を弔うことが当初の目的だったようです
(炎立つ2部の、すっかり老け込んだ清衡が金色堂の竣工を見守る〆は印象的でした)
このお話を聞いて大変ためになりましたし、足利尊氏が後醍醐帝のため 嵐山に当時広大な天龍寺を建てた理由がわかりました。
室町時代とか江戸時代より前 高貴な方々のお墓事情はそんなに変わらなかったのでしょうか?
マダガスカルのメリナ王国でも貴族しか街中(防壁の内)に埋葬できなかったそうですし、何処も似たようなものだと思います
島津と毛利で先祖の墓を建てて張り合ってたというのも、力を持て余していた感がありますね
きりゅう先生版「街道をゆく」ですね。面白かったです!シリーズ化して下さい。
頑張りますwww
(*゚∀゚)*。_。)*゚∀゚)*。_。)ホントホント!説得力あるし、面白いですからシリーズいいですね!
勉強になりました
なぜ長州藩が大江広元の墓を建立したんでしょうね
大江広元が毛利家の祖先だからです。
現在のような墓(墓石)は無かった.
はかない命…(たいへん失礼つかまつりました😞)
そーなんだね。よく分かりました。
なるほどー😂
やはり少しのことにも、
先達はあらまほしき事なり
清少納言〜💓
頼朝の墓参りに行きました白旗神社に小学生?の説明文があり良く調べていましたよ
丁寧に説明して頂き、有難う御座います。
史跡に設置されている案内版・説明文はすべからくこんな状態で、ある程度(いや、完璧に)知識が無いとほぼ間違えてしまいます。まあ、親切に長々と記述すると誰も読まないという事になるので、学芸員の方は最初から諦めているのでしょう。また、美観の点でも最小限に止めるのを良しとする傾向にありますから、本当に知りたかったら、自身で調べてねって事でしょう。
本当にそうですね。
先週末鎌倉に行って同じ間違いをしてきました…
一週間前に気づいていれば…
お仲間💖
勘違いされて花だらけにしてもらった大江さんも、あの世で痛し痒しに違いないですね。
義時の霊にしてみれば、大江さんだって当時の墓じゃないんだから、いっその事こっちをおれの墓にしてくれればいいのに、、、とボヤいてるのかも。
二ヶ月位前に知人からかしましチャンネルを教えてもらってからは、鎌倉殿を見た後にいつも楽しく拝見しております。お墓、半年くらい前に行った時に、どういう事?と思いながらそのままにしていました、笑。この動画を拝見し納得!いつも分かりやすくたくさんの学びをさせて頂き感謝です!!
大江広元から「最近俺の墓に人が来なくなったのはお前のせいだ」と文句言われそう。あの空き地がお墓だとは誰も思いません。献花台でも設置してくれればいいのに。
最近、少しわかりやすくなったそうですよ。
寿福寺に政子ちゃん眠っておらんのかあ😇残念
今になってみると、天然痘などの疫病の流行が、穢れ意識に影響していたようにも思いますけどどうなんでしょうね
北条義時の墓に行く坂はきつい
大江殿は毛利氏の祖先なので立派なお墓になっていますね。義時の法華堂はなにもないですがVRアプリで過去の法華堂の立派さが再現されていましたよ。
見ました。VRはありがたいですね~。
今のお墓が江戸時代からとなると、戦国武将なんかの墓もないということなのかな?
寿福寺の右側道を登ったところにある北条政子の菩提塔には、何度も行ったことがあります。その途中に、私の友人の自宅がありますが、宅地への出入口がトンネルになっており、他人は誰も気がつかないことでしょう。興味本位でトンネルを抜けると、不法侵入になるので、気をつけてください。
墓石まで階段下、左の白旗神社の場所に頼朝を祀る法華堂があったと言われているので、ここが墓所ではないでしょうか。
先日、ブラ○モリで訪れてた鎌倉のお墓。その回を観た時に不思議だった謎が解けました! でも、そうすると頼朝さんたちの遺体?ミイラ?はどこにあるんでしょうねぇ
個人的には、「そこで島津重豪かい!」というのもツッコミどころですよね。
まあ、島津氏は自称頼朝の子孫ですからわからんでもないのですが…
私も同じ勘違いをしてました(°_°)
なんだか分かりにくい場所に石碑が建てられてるなぁって思いながら手を合わせました。
この動画を見て納得しました(笑)
とっても分かりやすくて面白い動画をありがとうございます😊
これからも楽しみにしています♪
北条義時が創建した伊豆の国市の北条寺にお墓がありますけど…。
北條寺のお墓は後から泰時が建てたもので埋葬されたのはこちらだそうですよーーー
頼朝墓の北東から山道を伝って上ると(手を使わないと登れないです)、三公墓(と私はそう呼んでいますが)のある処に出ます。そこにある島津忠久墓が実はこの墓域のメインなのですよ。この墓域を整備したのは島津重豪(島津斉彬を育てた人ですね)で、彼は将軍家御台所・広大院篤姫の実父だったので幕府からもアンタッチャブルだったんです。天璋院篤姫は同じ島津の出と言うことで、広大院から名を貰ったのですね。島津忠久は頼朝の子と言う明らかに嘘の話があって、しかし島津はそれを嘘と知りつつ権威付けに利用しているわけです。俺らは頼朝の子孫やで、つまりは源氏の嫡流やで、と徳川将軍家に喧嘩を売っているのですね。しかしそれを咎められない。なぜなら御台所の実父だから。
大江広元公墓と毛利季光公墓、この両名は親子ですが、これはこの墓域が整備された後、まだ明治維新にはなっていないどさくさの時期に長州藩が整備したものです。ここは宝治合戦で三浦氏が族滅された場所でもあって、大河ドラマ「北条時宗」で浅野温子がゲルニカみたいな演技をしていた(時宗の母で毛利季光の娘役だったので)、その舞台です。つまりは三浦に味方した毛利季光の死に場所でもある。季光の一子、経光が生き延びてその子孫が長州毛利家です。なぜ島津忠久墓と並ぶようにして、大江広元墓と毛利季光墓があるのかは定かではないですが、少なくとも毛利季光はそこで死んでいるので、彼が一番理屈が通っています。
詳細ありがとうございます。
大河で天璋院が有名になったので、混同してしまいそう💦
この頃の平均年齢っていくつくらい何でしょう‼️
頼朝は確か51くらいだったと思うけど…
乳幼児死亡率が半端なく高いですよね~。
そうですね〰
産まれても
いろんな原因で⭕亡しているね…
育って生存競争だw
源頼朝の墓も江戸時代に建てられた、供養塔である。
義時の墓は伊豆の国市にあるけど鎌倉にもあるの?
鎌倉で亡くなっているので、伊豆の国市のお墓は供養塔になるんじゃないでしょうか。(まあ、鎌倉人のお墓と呼ばれるものは、全部供養塔なんですがww)
@@kashimashi_rekishi_ch
マジですか?あれが供養塔なの?墓参りする人あれが義時の墓だと思って行ってますよ。