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昔、浅草ら辺に住んでいた事があった父と母。父は若い頃「筆おろし」が吉原(赤線)だったと言っていました。母は、吉原大門の近くに住んでいたそうで、花魁道中を一度だけ見た事があるそうです。菩提寺は「浄閑寺」浄閑寺には良くお墓参りに行くのですが、さすが投げ込み寺なので、遊女の骨壷が並んだ祠?の様な物があり、中を少し覗ける様になっているのですが、骨壷がギッシリ。そこに立っていると、なんか涙が出て来ます。
吉原には江戸の最先端の文化があったとはいいますが、以前の動画にもあったように吉原の闇はとてつもなく深く、そこらの本は読むのが辛くなりますね。
どんな歴史であれ当時の人が精一杯生きた結果だから今の価値観で一面だけ見て批判するのはほんとあかんな
単純な花街ではなく、ある意味遊園地やお洒落の発信地的な側面も持っていた吉原。江戸見物のルートになる位だから現代人のイメージとはかなり違う明るさもあったんだと思いますね。※もちろん闇も深いのですが
毎晩性行為をしていた江戸吉原の遊女たちは、ほぼ100%梅毒や淋病にかかっていた。性病と過酷な労働環境で不健康な状態だったため、若い娘であっても妊娠しにくい体になってしまっていたが妊娠したら「冷水に何時間も浸からせる」「串を局部に挿入し子宮を突き刺して流産させる」「水銀を飲ませる」などで流産させた。こういう扱いだったから、寿命も20代前半と短かった。華やかさと闇だね。
基本的なシステムがまだ現代の吉原でも生きていて面白いな。
売られてきた娘達はまさに地獄道ですね。表はどんなに華やかな世界でも、闇だらけです。涙🥲
しかし身売りされるような少女は、どのみち他では生きられないような女性たちばかりだっただろうなまだ、高価で身売りされるだけ容貌がよかった少女たちは幸せだったかも知れない
先日吉原から浄閑寺まで見てまいりました✨この動画で前知識うえておけば、更にためになってたなぁあ。。いつも楽しく拝見させて頂いております♡霊夢と魔理沙大好きですw
今も昔も、経済が発展した都市には華やかな側面も負の側面もあるものですね。
何度も全焼レベルの火事に見舞われたのに復活するところに驚きでした.
火事も喧嘩も江戸の華?
動画内のほとんどの職業が現代でも対応する職種があるのが実に面白い
今回も実に興味深く聴けました。投げ込み寺の一節は、心にぐっとくるものがありました。機会があれば参ろうかなと思います。
いつも楽しみに拝見してます!某八→忘八じゃないでしょうか?
今回も面白かった。男の芸者ってかなりの技量なんだろうなぁ
アッー〇!!!
@@ae190713 少数だから神芸って言いたかったのに…ドウシテ…ドウシテ…
幇間、いわゆる太鼓持ちと呼ばれる人たちですね。確か現代でも4人残っているそうです。
吉原か姫路潘主が大夫にみついだのが幕府から大目玉くらって越後高田に転封になったというエピソードがあった
苦界は本当にその通りですね。
江戸初期は遊郭がなければ当時は普請作業の男だらけで性犯罪が横行する危険があった、という話もあり、家康が吉原に御免色里のお墨付きを与えた、という話がある。昔は法より力の時代だからな。
>今でも似たような物が外国人技能実習制度とか
某有名キャバクラの卓廻しは、支配人もしくはそれに次ぐ人が対応する重要かつ難易度の高い仕事らしいけど、吉原の2階廻しも同じ様な感覚だったのでしょうね。
現代で言う「ウーロン茶小グラス一杯2千円」とか「性技オプション、アレが5000円・アレが10000円」みたいなものも当然当時から存在してたんだろうなぁ。
19:10 吉原での内湯、江戸の一般のお風呂(銭湯)の違いに興味があります…違いなんて無いのかもですが、ドコカで江戸では内湯はNGだったとか聞いたので。
忠臣蔵堀部安兵衛ときて自然に新発田の話が出てくる主
いつもニコニコ現金払いとツケが効かないから、どこかに消えた人とか探すといます
新発田は毎年安兵衛推しですね。自分も子供の頃法被着させられて討ち入りのイベントさせられてました。
遊園地と地獄が並立している場所・・・・・・
某夢の国もブラック企業だと散々言われてますね
子供の時代劇見た時??だったが、こんなに奥深い物だと初めてしりました👍️(市営住宅でTVは1台)楽しかったです👍️😄
『吉原炎上』は…エエ映画や(名取ver)
忘八と言えば、小池一夫の時代劇画ではお馴染みの存在ですね。忘八を主役にした忘八武士道という劇画もありました。
医学が発達していない時代、性病や妊娠は怖かっただろうな😨
春はお上りさん、秋は夏を過ぎて遊びを覚えた人、その他もろもろ、言葉巧みに誘ってそっちの世界に誘導するフリーの女衒がそこら中に居まっせw
舞台観劇の勉強のために見させていただきましたありがとうございます😊
江戸の街を水害から守る為の堤防の日本堤をメイン道路にして通行人に堤防の監視や補修手入れもしてもらって幕府もよく考えてた作戦なのかも知れない。(*^。^*)
とても面白かった昔は吉原という地名がありましたが、今は変更になりましたね遊郭を思い出させるからだそうですが、残してもよかった気がします
性病はまだしも、妊娠の対策が出来なかったというのは地獄の中の地獄ですよね。父親の分からない子を身ごもるというしんどさの上に、妊娠してしまうと仕事が出来ない→生活も出来なくなるので危険な堕胎術を繰り返すしか無く、衰弱してゆくしか無いだなんて…憐れ。
31:55 吉原炎上(何年かぶり22回目)とかだったのか……
吉原遊郭は、もともと日本橋にあったが、明暦の大火(1657年)を機に浅草の北側に移転した。現在の台東区千束周辺で、日本橋の「元吉原」に対する意味で「新吉原」と呼ぶこともある。最盛期は3000人の遊女がいたとされ「1日で1000両の金が動く」と言われるほどにぎわった。1958年の売春防止法施行で遊郭は廃止、その後、ソープランド街へと姿を変えていく。旧遊郭時代の建築物は、ほとんど残っていない。わずかな痕跡から街の記憶を探るのが、吉原観光の楽しみ方だ。遊郭の入口が見えないようS字状にしたとされる道路です。遊郭の唯一の玄関口だった「大門」跡の近くには、蛇のようにくねくねした道路が走る。外から遊郭が見えないようわざとS字状にしたのだという。道路脇には、風に枝を揺らす1本の柳の木が植えられている。遊郭を訪れた客が名残を惜しんで振り返ったという逸話から名付けられた「見返り柳」を再現したものだ。浅草寺の裏手に当たる浅草北部の静かなエリアを「奥浅草」と名付け、誘客を図る奥浅草観光協会の専務理事、不破利郎さん(60)によると、中高年が中心だった吉原の街歩き観光に若者が増えたのは「ここ5~6年のこと」と言う。 街歩きツアーのガイドを務める不破さんは「吉原は、歌舞伎や落語、浮世絵などの題材にされ、江戸文化の発祥の地。この場所での歴史を伝えていきたい」と話す。現在は、吉原周辺のフォトツアーを計画している。台東区も旅行会社「クラブツーリズム」などと連携し、吉原を中心とした奥浅草の街歩きを楽しむツアーを開催している。
今思えば吉原は梅毒の巣窟で江戸人の梅毒罹患率の高さは当時の遺骨を調べた先生が計算していましたね。まあ、今も増えていますが
尼崎のかんなみ新地が突然終了したのでしんみりして見てしまった・・・
供養は基本的には親族がするもので(だからこそ皆必死になって子供を作った)、店が供養を行うのは格別の親切ではあるけれど、行わないからといって非道というわけではない、というのが現代感覚との違いかもしれない。店側は浄財を出してるだけかなりマシな待遇してるし…(そうしないと自分たちが地獄に落ちるかもしれない、という恐怖が動機だったとしても)。遊女たちの親は彼女たちを弔わなかったんだろうか?時代遡ればお墓参りという習慣もないし、たとえ江戸の外にいても何らかの供養はできたと思うんだけどな。
売っ払った時点でいらない娘なのでその後なんて関係無いのではないかな?生きて戻ってこられてもまた食費がかかる。
吉原に売られてくる子の大半は飢饉で食い詰めた農家、潰れた商家の娘。貧しい武士の娘。拐かしにあった少女だったらしいので心配する親はいなかったんではないでしょうか? むしろ貧しさに負けて娘を女衒に売った事がばれると周囲から白い目で見られるので「娘は口入れ屋に頼んで奉公に出した」と言いつくろう親も多かったと聞いた事があります。
葛飾北斎って、やりました❓できれば、配信よろしくお願いします。👍👍
出入管理の厳しさをネタにした噺が暁烏なんだよねアレは遊び人が堅物の若旦那を出汁にして遊びに行ったけど自分達は外れで若旦那が当りだったというのを若旦那の皮肉でサゲる展開が好きな噺です
かなりいい感じの約束のネバーランドのネタバレしてるwwww
落語の居残り佐平次は品川の話だけど、やっぱりあんな呑気に居残り生活エンジョイ出来る訳じゃなくて始末屋みたいな人がいたんだなあ
アレな漫画で妓楼の若様と水揚げ前の禿の悲恋の話があったな…そりゃ忘八とも言われるか
江戸時代の相樸をリクエストします谷風・雷電・小野川がいた時代を
金が目的なので取り立て屋からは〇すことはないけれど、借りた側は必死になって時には逆上してくるから〇さざるを得ないと聞いてなんだかんだ取り立てる側も大変だなと思った昭和の一コマ。
某八って忘八=ワンパだと思ってたけど、どうなんだろ?
大正時代の某3人組「だったら!潜入するなら店番で良いじゃんよ!」
思わぬところで約束のネバーランドのネタバレくらったわ
魔理沙ちゃん、兜かぶってる姿がよく決まってるわ。
せっかくの吉原の地図ですが、見づらく場所が分からないので赤線で囲むとか→つけて欲しいです。
一部の超ラッキーな人を取り上げて、吉原はみんなが思ってるような場所じゃない。恵まれた職場だったと言い張る一部のyou tuberにこの動画を見せてやりたい。かつてチャンネル桜の女性キャスターたちが赤線を復活させるべきだと言った厚顔無恥もけして忘れない。あの時にチャンネル桜を見限ったし、このチャンネルはもう長くないと思った。最近は再生数も最盛期の1/10くらいじゃないだろうか。
この当時は、桜が染井吉野に統一されてないからと
当時の貨幣価値を知らないといまいちピンとこない
始めまして、リクエストなんですけど?大河ドラマで、瓜売りってあったのですが、江戸時代に物売りの掛け声?って他に何があったのか知りたい江戸時代に、蕎麦屋?すし屋?担いで運びながら歩いてるだけじゃ~商売にならないと思うし?その頃どうしてたのか知りたい!!
瓜売りって煮物料理を売ってる人の事です
俺は浅草千束通りのマンションに住んでた! 遊廓から吉原に!
同棲相手がコンパニオン
江戸時代は江戸市中には繁華街はありませんでした、寺社仏閣も神田山王以外全て江戸の外側。当時江戸郊外な観光地浅草の裏側の吉原は江戸っ子から見るとかなり遠い場所駕籠や猪木船などで行くものでした花街を『はなまち』と読むのは間違いで『かがい』です
時代は違えど、東京ディズニーは幾ら動くんだろう?
忘八でいいから働きたいな医者にもかかれるから萌えだけで生きていけるし
なお、これ芸妓に移ると困るからと現実は厳しいのよね
動画ありがとうございます。この吉原における女性への非人道的な態度明治維新後も続き、そしてそうした女性観が戦争中にどういう悲劇を迎えたのかを想うととは感じずにはいられません。
江戸時代の避妊方法と効果を知りたい。
遊女は膣に紙入れるんだよね。
某八じゃなくて、亡八、じゃない?某→なにがし、だよ?
鬼滅の刃コラボかな?
バッグの音楽が 気になりすぎでスミマセン いつも途中で見るのやめてしまいます この曲苦手です
えっ、この曲が好きなのに
昔、浅草ら辺に住んでいた事があった父と母。
父は若い頃「筆おろし」が吉原(赤線)だったと言っていました。
母は、吉原大門の近くに住んでいたそうで、花魁道中を一度だけ見た事があるそうです。
菩提寺は「浄閑寺」
浄閑寺には良くお墓参りに行くのですが、さすが投げ込み寺なので、遊女の骨壷が並んだ祠?の様な物があり、中を少し覗ける様になっているのですが、骨壷がギッシリ。
そこに立っていると、なんか涙が出て来ます。
吉原には江戸の最先端の文化があったとはいいますが、以前の動画にもあったように吉原の闇はとてつもなく深く、そこらの本は読むのが辛くなりますね。
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単純な花街ではなく、ある意味遊園地やお洒落の発信地的な側面も持っていた吉原。江戸見物のルートになる位だから
現代人のイメージとはかなり違う明るさもあったんだと思いますね。
※もちろん闇も深いのですが
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性病と過酷な労働環境で不健康な状態だったため、若い娘であっても妊娠しにくい体になってしまっていたが妊娠したら「冷水に何時間も浸からせる」「串を局部に挿入し子宮を突き刺して流産させる」「水銀を飲ませる」などで流産させた。
こういう扱いだったから、寿命も20代前半と短かった。
華やかさと闇だね。
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まだ、高価で身売りされるだけ容貌がよかった少女たちは幸せだったかも知れない
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今回も実に興味深く聴けました。
投げ込み寺の一節は、心にぐっとくるものがありました。
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某八→忘八じゃないでしょうか?
今回も面白かった。男の芸者ってかなりの技量なんだろうなぁ
アッー〇!!!
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幇間、いわゆる太鼓持ちと呼ばれる人たちですね。確か現代でも4人残っているそうです。
吉原か姫路潘主が大夫にみついだのが幕府から大目玉くらって
越後高田に転封になったというエピソードがあった
苦界は本当にその通りですね。
江戸初期は遊郭がなければ当時は普請作業の男だらけで性犯罪が横行する危険があった、という話もあり、家康が吉原に御免色里のお墨付きを与えた、という話がある。
昔は法より力の時代だからな。
>今でも似たような物が
外国人技能実習制度とか
某有名キャバクラの卓廻しは、支配人もしくはそれに次ぐ人が対応する重要かつ難易度の高い仕事らしいけど、吉原の2階廻しも同じ様な感覚だったのでしょうね。
現代で言う「ウーロン茶小グラス一杯2千円」とか「性技オプション、アレが5000円・アレが10000円」みたいなものも当然当時から存在してたんだろうなぁ。
19:10 吉原での内湯、江戸の一般のお風呂(銭湯)の違いに興味があります…違いなんて無いのかもですが、ドコカで江戸では内湯はNGだったとか聞いたので。
忠臣蔵堀部安兵衛ときて自然に新発田の話が出てくる主
いつもニコニコ現金払いと
ツケが効かないから、どこかに消えた人とか
探すといます
新発田は毎年安兵衛推しですね。自分も子供の頃法被着させられて討ち入りのイベントさせられてました。
遊園地と地獄が並立している場所・・・・・・
某夢の国もブラック企業だと散々言われてますね
子供の時代劇見た時??だったが、こんなに奥深い物だと初めてしりました👍️(市営住宅でTVは1台)
楽しかったです👍️😄
『吉原炎上』は…エエ映画や(名取ver)
忘八と言えば、小池一夫の時代劇画ではお馴染みの存在ですね。
忘八を主役にした忘八武士道という劇画もありました。
医学が発達していない時代、性病や妊娠は怖かっただろうな😨
春はお上りさん、秋は夏を過ぎて遊びを覚えた人、その他もろもろ、言葉巧みに誘ってそっちの世界に誘導するフリーの女衒がそこら中に居まっせw
舞台観劇の勉強のために見させていただきました
ありがとうございます😊
江戸の街を水害から守る為の堤防の日本堤をメイン道路にして通行人に堤防の監視や補修手入れもしてもらって幕府もよく考えてた作戦なのかも知れない。(*^。^*)
とても面白かった
昔は吉原という地名がありましたが、今は変更になりましたね
遊郭を思い出させるからだそうですが、残してもよかった気がします
性病はまだしも、妊娠の対策が出来なかったというのは地獄の中の地獄ですよね。
父親の分からない子を身ごもるというしんどさの上に、妊娠してしまうと仕事が出来ない→生活も出来なくなるので危険な堕胎術を繰り返すしか無く、衰弱してゆくしか無いだなんて…憐れ。
31:55 吉原炎上(何年かぶり22回目)とかだったのか……
吉原遊郭は、もともと日本橋にあったが、明暦の大火(1657年)を機に浅草の北側に移転した。現在の台東区千束周辺で、日本橋の「元吉原」に対する意味で「新吉原」と呼ぶこともある。最盛期は3000人の遊女がいたとされ「1日で1000両の金が動く」と言われるほどにぎわった。1958年の売春防止法施行で遊郭は廃止、その後、ソープランド街へと姿を変えていく。旧遊郭時代の建築物は、ほとんど残っていない。わずかな痕跡から街の記憶を探るのが、吉原観光の楽しみ方だ。遊郭の入口が見えないようS字状にしたとされる道路です。遊郭の唯一の玄関口だった「大門」跡の近くには、蛇のようにくねくねした道路が走る。外から遊郭が見えないようわざとS字状にしたのだという。道路脇には、風に枝を揺らす1本の柳の木が植えられている。遊郭を訪れた客が名残を惜しんで振り返ったという逸話から名付けられた「見返り柳」を再現したものだ。浅草寺の裏手に当たる浅草北部の静かなエリアを「奥浅草」と名付け、誘客を図る奥浅草観光協会の専務理事、不破利郎さん(60)によると、中高年が中心だった吉原の街歩き観光に若者が増えたのは「ここ5~6年のこと」と言う。
街歩きツアーのガイドを務める不破さんは「吉原は、歌舞伎や落語、浮世絵などの題材にされ、江戸文化の発祥の地。この場所での歴史を伝えていきたい」と話す。現在は、吉原周辺のフォトツアーを計画している。台東区も旅行会社「クラブツーリズム」などと連携し、吉原を中心とした奥浅草の街歩きを楽しむツアーを開催している。
今思えば吉原は梅毒の巣窟で江戸人の梅毒罹患率の高さは当時の遺骨を調べた先生が計算していましたね。まあ、今も増えていますが
尼崎のかんなみ新地が突然終了したのでしんみりして見てしまった・・・
供養は基本的には親族がするもので(だからこそ皆必死になって子供を作った)、店が供養を行うのは格別の親切ではあるけれど、行わないからといって非道というわけではない、というのが現代感覚との違いかもしれない。
店側は浄財を出してるだけかなりマシな待遇してるし…(そうしないと自分たちが地獄に落ちるかもしれない、という恐怖が動機だったとしても)。
遊女たちの親は彼女たちを弔わなかったんだろうか?時代遡ればお墓参りという習慣もないし、たとえ江戸の外にいても何らかの供養はできたと思うんだけどな。
売っ払った時点でいらない娘なのでその後なんて関係無いのではないかな?生きて戻ってこられてもまた食費がかかる。
吉原に売られてくる子の大半は飢饉で食い詰めた農家、潰れた商家の娘。貧しい武士の娘。拐かしにあった少女だったらしいので心配する親はいなかったんではないでしょうか? むしろ貧しさに負けて娘を女衒に売った事がばれると周囲から白い目で見られるので「娘は口入れ屋に頼んで奉公に出した」と言いつくろう親も多かったと聞いた事があります。
葛飾北斎って、やりました❓
できれば、配信よろしくお願いします。👍👍
出入管理の厳しさをネタにした噺が暁烏なんだよね
アレは遊び人が堅物の若旦那を出汁にして遊びに行ったけど
自分達は外れで若旦那が当りだったというのを若旦那の皮肉でサゲる展開が好きな噺です
かなりいい感じの約束のネバーランドのネタバレしてるwwww
落語の居残り佐平次は品川の話だけど、やっぱりあんな呑気に居残り生活エンジョイ出来る訳じゃなくて始末屋みたいな人がいたんだなあ
アレな漫画で妓楼の若様と水揚げ前の禿の悲恋の話があったな…そりゃ忘八とも言われるか
江戸時代の相樸をリクエストします
谷風・雷電・小野川がいた時代を
金が目的なので取り立て屋からは〇すことはないけれど、借りた側は必死になって時には逆上してくるから〇さざるを得ないと聞いてなんだかんだ取り立てる側も大変だなと思った昭和の一コマ。
某八って忘八=ワンパだと思ってたけど、どうなんだろ?
大正時代の某3人組「だったら!潜入するなら店番で良いじゃんよ!」
思わぬところで約束のネバーランドのネタバレくらったわ
魔理沙ちゃん、兜かぶってる姿がよく決まってるわ。
せっかくの吉原の地図ですが、見づらく場所が分からないので赤線で囲むとか→つけて欲しいです。
一部の超ラッキーな人を取り上げて、吉原はみんなが思ってるような場所じゃない。恵まれた職場だったと言い張る
一部のyou tuberにこの動画を見せてやりたい。
かつてチャンネル桜の女性キャスターたちが赤線を復活させるべきだと言った厚顔無恥も
けして忘れない。あの時にチャンネル桜を見限ったし、このチャンネルはもう長くないと思った。
最近は再生数も最盛期の1/10くらいじゃないだろうか。
この当時は、桜が染井吉野に統一されてないからと
当時の貨幣価値を知らないといまいちピンとこない
始めまして、リクエストなんですけど?
大河ドラマで、瓜売りってあったのですが、江戸時代に物売りの掛け声?って他に何があったのか知りたい
江戸時代に、蕎麦屋?すし屋?担いで運びながら歩いてるだけじゃ~商売にならないと思うし?
その頃どうしてたのか知りたい!!
瓜売りって煮物料理を売ってる人の事です
俺は浅草千束通りのマンションに住んでた! 遊廓から吉原に!
同棲相手がコンパニオン
江戸時代は江戸市中には繁華街はありませんでした、寺社仏閣も神田山王以外全て江戸の外側。当時江戸郊外な観光地浅草の裏側の吉原は江戸っ子から見るとかなり遠い場所
駕籠や猪木船などで行くものでした
花街を『はなまち』と読むのは間違いで『かがい』です
時代は違えど、東京ディズニーは幾ら動くんだろう?
忘八でいいから働きたいな
医者にもかかれるから
萌えだけで生きていけるし
なお、これ芸妓に移ると困るからと
現実は厳しいのよね
動画ありがとうございます。
この吉原における女性への非人道的な態度明治維新後も続き、そしてそうした女性観が戦争中にどういう悲劇を迎えたのかを想うととは感じずにはいられません。
江戸時代の避妊方法と効果を知りたい。
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某八じゃなくて、亡八、じゃない?某→なにがし、だよ?
鬼滅の刃コラボかな?
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スミマセン いつも途中で見るのやめてしまいます この曲苦手です
えっ、この曲が好きなのに