「予言」の表記を使う理由。「預言」は中国語のコピペで翻訳ミスだった!?

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  • Опубліковано 29 січ 2025

КОМЕНТАРІ • 22

  • @goodnews-eq6pt
    @goodnews-eq6pt 2 місяці тому +2

    私も予言でなく預言を信じていました。
    目からウロコです。
    ありがとうございます。

    • @SanSeverin
      @SanSeverin 9 днів тому

      日本語聖書には昔から重訳による欠陥があると言われていました。今は考古学の進展もあり、聖書翻訳は飛躍的に進化しています。

  • @SanSeverin
    @SanSeverin 9 днів тому

    確かに違和感はあるよね。日本の聖書翻訳は中国語訳からの漢字を借りてきたものが多いからね。ヘブル語のナービーには「与えられた者」または「語る者」を意味したという説もあるよね。ギリシャ語ではプロフェテスという語があてられていて、「代わりに語る者」の意味があります。そこで「神の代弁者」という意味で用いられたのでしょうね。英語やフランス語では「未来を語る者」という意味で用いています。「預」は「豫」(「予」の旧字体)の俗字で、本来は「あらかじめ語る者」の意味でしかないです。ローエーは予見者かな。この場合でも予言者の方がしっくりくるね。いずれにしろ、誤訳と神学用語が聖書を難解にしているね。解決策として、予言者でもOKとしちゃえば良いのかもね。一般人にもイメージしやすくなるね。

  • @KIRIN434
    @KIRIN434 2 місяці тому +1

    はじめてコメントさせていただきます。
    大変興味深く拝見しました。また原語の語彙やニュアンスも分かって、勉強になりました。
    この問題、中国文学者の高島俊男氏が週刊文春の連載エッセイで取り上げたのを読んで以来、気になっていたことでした。高島氏が何週にもわたって、言葉を尽くして解説していたのが印象的でした。(今はちくま文庫『最後のお言葉ですが・・・』に入っています)
    簡単に言えば、「預」に「あずかる」の意味を付したのは日本独自の用法で、預も豫も予もすべて「あらかじめ」の意味しか本来は(中国では)ない、だから中国語から借りた「預言」に「あずかる」の意味はない、と。動画でおっしゃっていること、まさにそのとおりの内容でした。
    「言葉を預かる」と解説した方が、何かありがたみが増すような感じがあるのですかね。預かったらいずれ返却するのですかね(これは冗談)。
    これからも動画楽しみに拝見します。

    • @ura.cloudchurch
      @ura.cloudchurch  2 місяці тому

      そんなエッセイがあったんですね!!!
      読んでみたいです!!!
      ありがとうございます。

  • @sarahdaniel636
    @sarahdaniel636 Місяць тому

    ペトロの手紙二 1:20
    何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。

  • @虎1-v1w
    @虎1-v1w Місяць тому

    そういうごまかしをやっていることは信憑性にさえ影響すると思われますけどね。

  • @will_of_stone
    @will_of_stone 3 місяці тому +3

    なるほどとも思いますが、預という字にはあらかじめという意味もあるようです。ネット情報で申し訳ないのですが、「小学館 デジタル大辞泉」預の解説 -では
    1 あずける。「預金・預血・預託」
    2 あらかじめ。「預言」
    とありました。つまり予言でも預言でもどちらでもいいのでは?

    • @KIRIN434
      @KIRIN434 2 місяці тому +1

      横から失礼します。
      それは話が逆ではないですかね。「預」の字に日本で「あずける/あずかる」の意味を付け足したから、日本語においては「あずける/あずかる」の意味は当然あります。『大辞泉』は日本語を扱っている辞書です。
      こういう時は漢和辞典のほうが良いですよ。中国語ではどうなのかが分かります。例えば『漢字源』で「預」を引くと、「国」という但し書きのもとに「あずかる、あずける」が記載されています。
      「国」というのは、「日本においては」という意味の注記です。
      「預言」というのは中国語を借りたのだから、日本語の事情を優先させるのは違うのではないでしょうか。

  • @はぐれ羊
    @はぐれ羊 3 місяці тому +1

    今晩は、拓馬さん あらら普段対して気にとめていませんでしたがその様な意味があったのですね。お勉強になりました(笑)P/Sこの度も良い事を語って下さり感謝です☆

  • @kan-mitsuharu-003
    @kan-mitsuharu-003 3 місяці тому +2

    韓国語の聖書では「預言者」のことを「先知者」と書いています。これから先のことを知っている者がprophetである、という考え方です。

  • @タツノコ-h5u
    @タツノコ-h5u 3 місяці тому +1

    最初の教会に行った時、教会内で聞く日本語が日本語ではない!と感じました。そして日本語の神は神道的な神を指すのであって、聖書の神を指すのではないと感じ、教会での言葉を理解することができなくなって、教会に行くのをやめました。あの言葉の違和感の原因が分かりました。どうもありがとうございました。

  • @サムライエッジ
    @サムライエッジ 3 місяці тому +1

    お疲れ様です
    聖書、愛、教会、霊がそうだったとは知らんかった~
    予言も考える必要ありますね
    神の場合は日本には色々物を神してしまうからおかしくなると言う話しは聞いた事がある
    訳てるのでまだまだ誤りな言葉あるでしょうね🤔

  • @さとたん
    @さとたん 3 місяці тому +2

    とてもわかりやすい説明ありがとうございます😊
    まったりの方でも他にも翻訳の違いのせいで意味が変わってしまってる箇所についてやってましたね!他にもエラーがありそう、、、
    拓馬さんに新改訳2024を作って欲しい🙏

  • @SirJack-lr3vm
    @SirJack-lr3vm 3 місяці тому

    スペイン語のProfetaという単語が予言者を直接に意味します、この言葉からpredecirという動詞が発生します。Predecirは未来を見て未来について告げると定義される単語です、英語のpredictやprophetという言葉のようにラテン語から由来します、「prae」と 「dicere」の融合です、praeは「先」と意味してdicereは「言う」を意味する。この言葉は聖書で「予言」として使用される。結論は予めの漢字を使うのが正しいです実は英語とスペイン語が母国語で日本語を勉強した頃に聖書を読んだところ「預かる」の漢字を「預言」で使われるのを見て違和感を感じた。

  • @chiek5676
    @chiek5676 3 місяці тому

    確かに中国語で「預」を調べると in advance , prior, beforehand,、、、 です。「前もって~」という意味ですね。専門用語をなるべく排除!も大賛成!、、、でも信じて40年。未信者の人に同意する時、思わず言ってしまうのが、「アーメン!」(笑)

  • @たっかめ-q6h
    @たっかめ-q6h 2 місяці тому +1

    エホバの豚商人。ありもしない携挙を待ち望む。

  • @のりこ-o2c
    @のりこ-o2c 3 місяці тому +1

    本来的に預言かな
    世界的共通な言葉でいいんじゃない??
    預けられた運命って感じかな
    予言は、科学的に証明できるもの

    • @ura.cloudchurch
      @ura.cloudchurch  3 місяці тому +3

      動画見てからコメントお願いします。

    • @pppjjj-m9s
      @pppjjj-m9s 3 місяці тому

      @@ura.cloudchurch
      ・語源的には小林さんのコメント[動画見てからコメントお願いします。]の通りなのですが…
      ・『人の立場(聖書を人に引き寄せた場合)』であれば、のりこさんの感覚も理解は出来ます。
                   ⇣
      ①言葉を預かった『人』がいる … (預けられた運命)
      ②予言の認識         … (予言は科学的証明可能)
      ③『人=世』が判断基準
        ⇓
      もちろん、問題はのりこさんにあると思います。
                   ⇣
      😈『健全なメッセージを、趣旨に沿って受け取れない(☓受け取らない)』   👈原因:認知の歪み = 罪
      😈『価値観を、完全に人側に寄せてしまう(☓寄せる)』   👈原因:認知の歪み = 罪
                   ⇣
      ただ、感覚的に『世が基準』となってれば…(世的な価値観が大きく介在する場合)無自覚に👿になるのも…仕方ないかと。なので、自分オンリーの認知の歪みとは対応を変える必要あると思います。
        ⇓
      step1. … 世的な考え方としてはきちんと受け取り、
      step2. … でも、神を基準に生きるクリスチャンとして…それは不味いよと伝える。   
                   ⇣
       【具体的対応例】
      step1 …「世的にはそのような受け取り方が普通だと思います。私もそう思います。」
      step2 …「ただ、あなたもクリスチャンですよね。その基準はどこにあるか…それを踏まえて、今一度考慮して頂けたら幸いです。(それでも反感を持つのであれば(´・ω・`))」
        ⇓
      これを伝えるのが、`今回`クリスチャンとしてやることかなと感じました。
       *通常(小林さん個人には)個別にメールでお伝えしていますが、…このことはのりこさんにもお伝えするべきと判断し、コメントにてお伝えすることにしました
       *のりこさんの目に触れることがあれば、幸いです