【寺社参詣】#86 粉河寺(和歌山県紀の川市/西国3番/粉河観音宗)~フルーツ王国・紀州粉河の古刹~ Kokawadera Temple

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  • Опубліковано 2 чер 2023
  • 神社仏閣巡り「寺社参詣シリーズ」第86回は、和歌山県の北端、北を和泉山脈、南を紀伊山地に挟まれ、市域の中心を一級河川紀の川が流れる、紀の川市にある、粉河観音宗総本山、西国三十三所第3番札所、風猛山粉河寺です。
    国宝「粉河寺縁起絵巻」には、粉河寺草創の説話が2つ語られています。
    一つ目は、粉河寺草創と千手観音の由来に関するもの。
    紀伊国の猟師だった大伴孔子古は、宝亀元(770)年のある日、山の中に不思議な光を放つ場所をみつけ、その場所に小さな庵を結びました。この庵が粉河寺の起源とされています。その後孔子古の家に一人の童子(童男行者)が訪れ、一夜の宿を求めました。孔子古が応じると、童子は宿の御礼にと、7日かけて千手観音の像を彫りました。
    8日目の朝、孔子古が見ると、そこに童子の姿はなく、金色の千手観音像だけがあり、孔子古は観音を信仰するようになった とのことです。
    二つ目は、千手観音の霊験に関する説話。
    河内国の長者であった佐太夫の娘は、重い病を患っていたが、そこへ現れた童行者が千手千眼陀羅尼を唱えて祈祷したところ、佐太夫の娘の病は全快。喜んだ佐太夫が御礼にと財宝を差し出しましたが、童行者をこれを受け取らず、娘が差し出した提鞘と袴のみを受け取り、「私は紀伊国那賀郡粉河に居る」とだけ告げて立ち去りました。
    翌春に佐太夫家族が粉河を訪ね、小さな庵を見つけると、小さな千手観音の像があり、その手には、娘の提鞘と袴があり、あの童行者は、千手観音の化身だったと、その場で出家し、孔子古とともに、粉河寺の繁栄に尽くした と書かれています。
    この説話のどこまでは史実なのかは定かではありませんが、粉河寺は、平安時代には朝廷や貴族の保護を受けており、清少納言の「枕草子」や後白河法皇の「梁塵秘抄」、西行の「山家集」、架空の物語である「うつほ物語」「狭衣物語」などに、粉河寺への言及があります。平安時代後期には、その頃から始まったとされる西国三十三所観音霊場巡りの札所として栄えました。
    鎌倉時代には天台宗の寺院として、子院550坊、大勢の僧兵を擁し、寺領4万石と広大な荘園を持つ、当時根来寺や金剛峯寺と肩を並べるほどの大寺院であったとのことです。
    しかし、天正13(1585)年、羽柴秀吉の紀州征伐の際に全山焼失し、現在国宝となっている前出の「粉河寺縁起絵巻」もこの時に焼損しています。
    また正徳3(1713)年には大火災が発生し、大門以外の建物のほとんどを焼失しています。
    その後は紀州徳川家の庇護と檀信徒の寄進により、江戸時代中期から後期にかけて、現存する諸堂が建てられ、現在まで続く伽藍が完成しました。
    寛政12(1800)年には、紀州藩第10代徳川治宝により、塔頭寺院だった十禅院を、天台宗安楽律院派の寺院に改め、十禅律院として独立、さらに明治時代の神仏分離では、鎮守社とされていた粉河産土神社が独立しました。
    粉河寺時代も、太平洋戦争後、天台宗より粉河観音宗として独立、同宗の総本山となりました。
    粉河寺は、JR和歌山線 粉河駅から北へ延びる参道を800mほど歩いた場所、紀ノ川の河岸段丘にあります。国指定重要文化財の大門から、右へ伸びる参道の途中には、本坊や童男堂、念仏堂、太子堂などがあり、その先にある中門をくぐると、国の名勝に指定されている粉河寺庭園、さらに珍しい複合仏堂の本堂などがあります。さらに奥には、十禅律院や粉河産土神社などが並びます。
    境内にある茶屋「あこ茶屋」では、ぜんざいセットや甘酒、あめ湯、ひやしあめといった茶屋らしいメニューのほか、名物「風猛そば」や丼などもあります。
    高野山の麓を流れる紀ノ川流域、現在では年間を通して各種フルーツが採れる「フルーツ王国」紀州粉河の古刹、西国三十三所第3番札所・厄除観音、風猛山粉河寺の動画をご覧下さい。
    撮影機材:GoPro HERO 8
    【使用BGM】
    「夏色叙情」(甘茶の音楽工房)
    amachamusic.ch...
    【Webサイト】
    粉河寺公式Webサイト
    www.kokawadera...
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