Розмір відео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показувати елементи керування програвачем
Автоматичне відтворення
Автоповтор
大正生まれの祖母がかまどで煮炊きをしていました餅つきも手動でついていたし、味噌や梅干しもよくもらってました食事に限らずほぼ何でも手作り 昔の人には尊敬しかない
@@焼きピクルス_カリカリ梅風味昔の人を舐めない方がいい。華奢な身体して丸太を担ぐ人もいたくらいだぞ😂❓️
@@鈴木勉-e1b いや、私が計算したのは大正時代の終わりに生まれた場合です。やから大正時代の真ん中辺りに生まれてたら今110歳ほど。さすがにいくら昔の人が凄くても無理があるかと
そもそも今の話をしているとは限らないだろ
@@kansas2527 私が言いたいことを代弁してくださりありがとうございます。そう、大正生まれの祖父母が生きていた頃の話をしたつもりだったんです
@kansas2527 ?どゆことです?
死んだお袋から聞いた話だけど、お袋が子供のころ、お母さんが、「そのうち、寝ててもご飯が炊ける時代が来るよ」なんてよく言ってたそうです。
一般的じゃないだけで、すでにガス炊飯器はあっただろうからねえ。
当時の人からしたらものすごーく便利な生活してるけど、便利になった分、仕事や社会のシステムも高度化・複雑化してるから、便利なのが良いことなのか悪いことなのか分からなくなった
お祖父ちゃん達やお祖母ちゃん達の時代ですね、大変だったんですね。お父さんやお母さんを育ててくれて有難う御座いました
うちの曾祖父は氷屋さんで製氷機の技師でした!器械は24時間監視体制なので大変なお仕事だったようですが戦前・戦中・戦後も氷の需要は多く、かなり稼げていたようですよ!
氷屋さん懐かしくていいですね!数年前、京都で久々に氷屋さんが搬入してるタイミングに出くわして感動したので、そのお店のかき氷を食べに行きました🫶
氷は機械で生成していたんですか?
@@yutagame7935 昔のアンモニア冷媒の製氷機ですね。天然氷もよく出回っていましたが、衛生と保存の観点からたくさん氷を出荷するため、人工氷も結構早い時代から普及されていたみたいです。
@@鈴木-i1o そんな昔から、氷にする技術があったんですね。昔の時代だから、山から持ってきたのだと思ってました。
65歳を過ぎたおばあちゃんですが、私の祖父母の家には製氷機、蓄音機、冷蔵庫、が納戸の部屋に保管されていたのを見たことがあります。祖父母の家の建て直しの際に、処分してしまったようですが、今考えると歴史を物語る貴重品でしたよねー。捨てなきゃ良かったのかも...😅
還暦ちょっと超えの私ですが、小さいころ親戚の叔父が氷を販売していました。その氷で夏になるとかき氷を食べさせてもらいました。アルマイト弁当箱は懐かしいです。
東北の田舎昭和50年頃まで朝に『こ〜り〜。こ〜りはいらんかぁ~。』と、言いながら売り歩いていてくれてました。1個の氷で夏でも、大体3日位持ちました。大体氷屋さんも、購入する家を曲がってくれる事もありました。大っきなノコギリみたいなのでザクザクと、切り分けてくれました。店頭に行けば、ドライアイスも、売ってくれました。氷屋さんが来た日は、午前中売りに来てくれる八百屋さんからスイカとかメロンとか肉(肉は、昔は副菜)なんかを購入してました。夕方近く魚屋とお豆腐屋さん来て…。通りには、色々とリヤカーで売りに来る…。たまに暑すぎる時に今のアイスの『アイスクリン』を買ってもらたなぁ…。練乳に卵を入れて棒に刺してある。今思えば?っと思う味。夏休み、朝6:30ラジオ体操終わったらその足で、集会所に集まって宿題午前中は、1〜4年生。わからない時は、5〜6年が当番で2人位だったかな?勉強をみてあげて、午後から5〜6年が集まる。部活帰りの中学生が5〜6年生の勉強をみてくれた。とても中学生に憧れた。夕方頃売れ残ったのかな?集会所での勉強が終わり帰りの時間になると氷屋さんと紙芝居屋さんが庭に現れる。煎餅にジャムを塗ったお菓子か水飴かを売っていて、隣にかき氷屋さんに変身したオジサンが、いちごシロップやらメロンやらレモンのシロップをかけてくれる。なんか昔は、大人が入ると恥ずかしい子供だけの独特な時間ってありました。上の子は下の子の面倒を見るのが義務っていうか…。アルマイト=土方弁当とか言われてましたね
なんていい時代なんだ!!😢
@@rosy0371さま不便でしたよ〜
アルマイトのお弁当箱、今でも売っていますよ(^^)私はあのお弁当箱が好きでしたね〜❤
情景が浮かび、とても楽しい気持ちになりました。大変なこともたくさんあったと思いますが、素敵な時代ですね
35歳です。23歳の時祖母が死にましたが、それまで軽トラででしたけど魚屋さんと八百屋さんが熊本市内の祖母の家に来てました。懐かしい思い出と重なりました。ありがとうございます!
幼児のころ 伯母の家に母と遊びに行って伯母が「氷屋さんに知らせないと 冷蔵庫の氷がもう小さくなった」と言っていたのを憶えています60年くらい前のこと。
田舎は氷屋もなかったです家電は裸電球とラジオだけ軒先にランプ煮物は竈門 実家は築400年でした。
まな板は木のやつをずっと使ってます。最初はプラスチックのを使ってましたが、木のほうが包丁の刃が長持ちするよと聞いてためしに買ってみたら、ぜんぜん切れ味が落ちなくなって感動してそれ以来ずーっと木です。
いいこと聞いた!木に替えよう
マイクロプラスチックのこともあるしね
トトロ見た後だから嬉しいほんとためになる
「うちの小さな女中さん」昭和初期の家政がよくわかる楽しいコミックです。
大正生まれの祖母が平成になってもリビングで食べる時はおひつを使って食卓にご飯を出してくれていましたおかわりしたいと言うと嬉しそうにおひつの蓋を開けてよそってくれました懐かしいなぁ…足付きまな板は台所の戸棚の端っこに入れてあったような記憶があります「これなんだろ?」と見かける度に思ってました
今でも一部の魚屋さんや料理屋さんでは氷冷蔵庫(外装はステンレス)を使っていて、毎日氷屋さんが氷柱を配達しているところを見かけますよ。電子レンジや炊飯ジャーのない時代、お茶漬けや雑炊もアリでしたが、一般の家庭では冷ご飯を蒸し器で温め直していましたね。
電気冷蔵庫は食材に電気冷蔵庫特有の変な匂いやエグ味がつく事があるからねー。高度成長期ごろの冷蔵庫はそれが本当ひどかった
平成の途中まで、水道が通らなかった地域出身ですが、井戸にモーターをつけていたので、どの家も普通に蛇口から水が出ていました。出てくる水は、カルキで消毒された水道水ではなく、地下水ですが。夏、生ぬるくて冬は冷えている水道水と違って、井戸水は夏冷たくて冬は温かいんですよ😊そして、冷蔵庫はありましたが、動画で紹介されたように、夏は丸ごとのスイカを井戸につるして冷やしたりしました。中学校の時、給食がなかったので(郡部は給食だったけど、市は給食は小学校だけだった)、冬はアルマイトのお弁当箱を教室の保温機に入れて温めていました。一方、ランチジャーは昭和50年代には存在していて、父はランチジャーのお弁当を持っていってました。
氷冷式冷蔵庫は、朝、氷屋さんに氷を大きく切ってもらう前に小さくなった氷を麦茶のやかんに入れて、井戸に吊るして冷やし、冷蔵庫は掃除をして氷を待ったと祖母が話してくれたことがある。あれにもピンきりがあって、中は銅板で外も螺鈿で細工されていたり、漆塗りがあったりと芸術的な物から、ブリキ張りで写真のような木製のものまで様々だったとのこと。まぁ見た目が立派でも、性能はあまり変わらず、冷やすものと言えばおかずをと言うより、ほんのちょっとしたもの、カルピス原液やビールサイダー等の飲み物や、料理前の肉魚。常備菜の保存は、はいちょうと呼ばれる、網戸式の風通しの良い棚。水道がない頃は井戸頼みだったけど、冷やすことを捨てて蓋をつけてポンプで組み上げたりする家庭も多かったと聞く。戦前の都会では、水道も普及していて、ガスコンロもあったそうだけど、練炭や炭の方が安かったから、主にこれらの着火に使い、煮物焼き物は七輪などを利用したと言うこと。又はお湯を急いで沸かしたいときに使うとか、兎に角ガス料金節約のために主婦は頭を使ったと。ただ、これは都会の話で、戦後農村の台所改善が叫ばれ、モダンで明るいキッチンに多くの主婦は憧れたらしい。いろりやかまどでは、火の微妙な加減は難しい、でも実際に使ったらご飯の味が落ちてがっかりしたと祖母は笑っていた。
Wa ka ri ma su. I ma no hi to ni wa, zettai wa ka ra nai ha na shi. A ma ri, ben ri ni na ri su gi te ne. I ma, ano ko ro no sei ka tsu, mou I chi do ya tte mi tai. "Survival Skill Test" no yo u ni shi te.......
アルマイト製弁当箱は母が使っていたものを貰って高校生の時使ってた笑 懐かしいなまた使ってみたいな
子供の時、冷蔵庫がありませんでした。氷屋さんで氷を買ってました。魚や肉は買ってすぐ調理してました。西瓜は川で冷やしてました。
昭和何年ごろのお話しですか?
@@abbey_aikawa4310 30年代初めの頃です。中頃にはもう冷蔵庫がありました。
@@chiiko2013 とすると昭和20年代生まれですか?貴重なお話がリアルタイムで聞けました!
@@abbey_aikawa4310 いえ、昭和32年生まれで、幼稚園に入る前の記憶があるんです。
私の祖母が子供の頃、私から見てひいひいおじいさんが船大工で、石綿を使って冷蔵庫を作ってくれた話を思い出しました😂たぶん、祖母が言ってた冷蔵庫も氷冷蔵庫のことだったんだろうなとこの動画でわかって嬉しいです、ありがとうございました
自分は平成生まれですが、祖父母宅は釜戸で薪を焚く五右衛門風呂でした。途中から釜戸にガスバーナーというハイブリッド?式になってましたが…足が下につかないよう板を沈めるのですが、子供の頃はアトラクションのように感じてましたね。
私は五右衛門風呂に入ったことがないのですが、周りも熱いんですか?イメージは釜ごと煮えたぎっている感じ。
@@yukirosello8467 ヒノキだったので周りも多少は熱いですが触れないほどでもないです!一番風呂はお爺ちゃんだったのでその頃はもっと熱いのかもしれませんが…底に沈める板は踏んでいないと浮いてくるので縁に手を掛けないと入れないですしね。
@@nbrkgc なるほどー!入ってみたいです。ありがとうございました。
私は令和に入ってからガスなし薪風呂生活になりました。ボタン1つでお湯が出るのって凄いんだなと改めて思います。
@@山童茶花-l1g 薪で炊いたお風呂は湯冷めしないと言いますよ。あなたのお風呂が羨ましいです。
すごく興味深い内容でした🐥✨
電化製品の普及と言えば、松下電器(現パナソニック)の松下幸之助が当時唯一家庭にあった電源(裸電球)のソケットを二股にして他の物で電気を使える様にしたと言うのが松下電器の始まりでしたね
水道水のように家電製品を行き渡らせたい、彼の思いに気がつかないほど豊かさを享受できているのは幸せです。
たった百年前まで電気もガスもなかったって考えるとすごいよな
@@amtanwwww 大正生まれの祖父の話だと、大正の終わりには、電気、ガス、上下水道、ラジオ、冷蔵庫、路面電車、地下鉄銀座線が既にあったらしいです。
平成生まれですが、祖父母の家でも見た事ない物ばかりで驚きです…
昭和40年代、都内の住宅街に「金物雑貨屋さん」のトラックが巡回販売してたのを覚えています。洗面器とか鍋、ホウキやチリトリ、買い物籠、プラ製ゴミ箱なんかも販売してました。
アフリカのとある国で住んでますが首都でも電気も水道無い家が多いので、今でもこれに近い環境をよく見かけますうちは電気あるので冷蔵庫あるものの洗濯はタライで手洗いです氷屋の類も無いので肉屋でも店先で捌いて常温で売ってます
昔に比べたら便利になっているはずなのに、家事がいまだに負担になっているのは何故なのだろう。
生活水準もあがっているから。負担に感じないレベルまで下げたらいいけど満足度も下がる
今は共働きできますが昔は専業主婦が必要だったのが分かりますね
やりたいこと・やれること・やることが増えたから?
給料が下がって物価が上がってるから
@@貴族-s5k何を言ってんの?
ばあちゃんがよくお茶漬けを食べていたのも、ぬか漬けを作っていたのも、基本キッチンにいたのもこういう歴史を知ってると腑に落ちる長年の習慣で落ち着いたのかもな
水道が無かった時代は、食器はめったに洗いません。箱膳といって個人の食器を入れてあるお膳を使ってました。食事の最後にお茶とお新香で食器をぬぐって綺麗にして食べてそのまま次の食事まで箱膳の中に入れて、次の食事まで納戸に仕舞ってまっていました。今でもお寺などの修行体験に行くとこの食事方法を教えてくれます。ご参考まで
ご飯も麦が入ってるから、今の白米のようにベトベトしませんからね。味噌汁も油分はほとんどないから飲み干してしまえばお椀はきれいなものです。自分は健康上の理由で麦10割の麦飯にしてますが、炊いてもパラパラしてるし、茶碗は汚れませんね。
お寺さんだと最後に茶碗に残った米粒をタクワンと少しのお茶で綺麗に掃除して締めくくりますね
海のすぐそばに住んでたけど、昔の人は食後にヒョイッと海に来て海水で食器軽く洗うだけだったってばあちゃんが言ってたなあ
一人暮らしの今の自分もですご飯やインスタントラーメンなら良く観察して、良しまだいける!って。
井戸があるじゃん。洗剤の代わりに小麦粉できれいになるぞ。水を使わないのなら小麦粉に吸着させたとか?おばあさんが小麦粉は洗剤の代わりじゃったって言ってたぞ。
子供の頃、田舎のじいちゃんの家が五右衛門風呂。灯りもなく、薄暗いくて不気味。浮いた板をうまく踏んで浸かるのが難しく、中に浸かっても縁に触れると熱いから身動き出来ず全くいい思い出がないです。
子供の頃に祖父祖母の家で五右衛門風呂の風呂焚きが面白いからかまどに薪をくべまくったら熱湯になってしまったことがある
私の祖母の家も五右衛門風呂でした。懐かしいです。私も同じく板を沈められず難儀しました。全然リラックスなんてできないんですよね。でも、五右衛門のお湯は体の芯から温まり湯冷めしにくかったです。
@@お魚くわえたトラ猫 おっしゃる通りですね。薪でわかすお風呂のお湯は身体の芯から温まって湯冷めしにくいと聞きますね。この年齢になってその良さに気付かされています。ご返信頂きありがとうございます。
同じくです。祖父母の家が薪で焚く五右衛門風呂でした。風呂釜の鉄の内側は火が走ってるんだから絶対触っちゃダメだよ、と言い聞かせられて入りましたが、今にして思えば良くあのお風呂に子どもたちだけで入らせてたなと思います😂
@@tanabatatume2720 そう思いますよね。五右衛門風呂に入るのは子供にとって危険が一杯www私のじいちゃんの家の五右衛門風呂は灯りがなかったので真っ暗。確かローソクの炎だけだったような気がします。オバケも出そうで怖かった記憶があります。今では懐かしい思い出です。ご返信ありがとうございました。
私の母の実家では中学生の頃までご飯はかまどで炊いていました😀底のおこげでお茶漬けして食べていました🎉懐かしい味です❤
60歳です。子供の頃、母が口癖のように「お嫁に行ったら冷やご飯しか食べられなくなるから」と、娘の私には炊きたてご飯を出してくれました。おかげで母の見通しはあっさり外れましたね。お嫁には行きましたよ(笑)それも、ちょっと変わりました、お嫁に行く、から結婚する、に。
50年位前の親戚の農家では、井戸が外にあって、食器を外で洗っていたのを記憶してます。お風呂も外、トイレも外、冬は寒かったでしょうね。
1974年って、すでにパソコンやテニスゲームもあったし、でもまだ井戸水のところもあって、生水が飲めない所もあった。サイケな時代ですね😊
母方の実家は昭和の終わり頃まで薪で風呂焚きしてたよ。と言っても山間部の僻地ではなく大阪の街中。すぐ近くの商店街からミカンやリンゴの木箱を貰ってきてそれを燃料にしてた。炬燵も豆炭使ってたなあ。豆炭炬燵の上でワープロ使うという時代感覚がバグる環境だった。
素敵な動画を観せて頂きありがとうございます✨戦前から京都市内には大阪ガス旧京都工場があったみたいで、昭和3年(1928年)に旧京都瓦斯の工場として建設されて京都市民に都市ガスを送り続けてきたようです😊その巨大タンクは「五条七本松のガスタンク」と親しみを込めて呼ばれていたようです😮戦前にはガスが通っていたのですが、戦時中はガス供給がなくなり、市内は森も山も無くて、燃やすものも無いので、嵐山とかに、行って桂川に流れてきた枝を拾ったり新京阪(今の阪急電車)を使ってコークスを大阪までもらいに行き、使ったり、、燃やすものが手に入らないと大変困ったみたいですよ!😊
かまどを見て「はじめちょろちょろ中パッパッ 赤子泣いてもフタ取るな」を思い出しました
今となっては懐かしい水晶米の袋にも、確か同じ事書いていた様な?
これだと専業主婦ばっかなのマジで理解出来る
二十歳ですが、幼稚園の頃冬になるとみんなアルマイト弁当箱になり、お昼までストーブの周りに置いて温かいご飯を食べていたのを思い出しました
アルマイト弁当箱より木製のわっぱのほうがオシャレに感じます🌺高価だからプラスチック弁当箱しか持ってないけど。
炭治郎のお母さん、残ったごはんでお煎餅作ってあげるって子どもたちに言ってた🍘昔の人はすごい
バチくそ2000年産まれだが、母の志向でこの生活してた……😂意外と楽しい。ただ、一人暮らしを始めた時の洗濯機とレンジとシャワーには興奮してもう戻れない。
小学生の頃、実家が江戸時代からの庄屋の家系だったので、台所は土間でかまどが2つ存在しておりました。お風呂も外に専用の家屋があって薪で沸かしていましたね。トイレもトイレ用の家屋があって和式のポットン便所でした。アルマイト製の弁当使っていましたが、朝食の残りを入れていたので、煮物とか入っていたりするとご飯に煮物の汁が融合してたりしてましたね。
昔はご飯炊いたらおはちに入れた、冷蔵庫は上の棚に氷を入れた、氷屋さんが毎日氷を届けてくれるほんの少し前、昭和30年代半ばくらいのこと 昨日の事のように覚えている😅😅😅
50年前になりますが近所の魚屋は氷を敷いた棚に魚を並べて販売していたいましたね。ハエが寄ってくるのではたきのようなもので払っていたのを覚えています。
氷冷蔵庫は前後も有ったらしいですよ、今の80歳前後の身内が、小学生の頃まで使っていたそうです。😅電気は月曜日に計画停電するからだそうで、電気冷蔵庫の存在は、その当時から知っていたらしいです。🙂
田舎に親戚が要れば機会を見て訪れて見ると良い。僕も子供の頃親戚のお宅で当時珍しい「五右衛門風呂」に入れて貰った経験が有った。貴重な社会勉強でした。
かつてはそんなになんでもしゃがんでやっていたのか。日本人女性の足が短く太く曲がってしまうのもわかる気がする。でもその分足腰は強かったろうね。
どこの奥さんも足の甲に正座ダコがあったよ。
昭和30年生まれです。東京で育ちました。幼稚園のお弁当箱はアルマイト製でした。今も保存容器として使っています。家電は洗濯機、扇風機、テレビ、ラジオくらいでした。小学校になった辺りで掃除機と冷蔵庫が来ました。低学年までは今で言うアイスボックスが冷蔵庫でした。夏場だけの道具で一貫氷を早朝売りに来る氷屋さんから買っていました。掃除は茶がらを絞って蒔き、箒とちりとりで掃き集める。その後雑巾掛けをする。お勝手はガス、水道でしたが、しばらく羽釜でした。電気炊飯器はかなり後に来たと記憶しています。その頃の気温は今程過酷ではなく、夏場は暑い時間帯は午後だけでしたし、冷房が無くても過ごせていました。冬は火鉢や練炭、その後ガスストーブになりました。石油ストーブの普及はずっと後の事。学校もコークスを燃やすダルマストーブで、ストーブ当番がありました。子供だったからか、時間がゆっくり流れていたような気がします。夕飯の買物は毎日でしたし、真冬でも弟のおしめを外の水道場で手洗いしていた母親は偉大だと子供心に思いました。専業主婦でなければとても結婚生活などできなかったと思います。
祖母が氷屋さんでした!こんな感じだったんですね!
トトロでも見ましたが、お風呂、大きいのはわかるけれど、左隣の小さいのは何だろ?
水道がない場合そっちに入ってる水で熱さを埋めてコントロールしてた覚えがあるなー。50年も前の幼児期の記憶なのであやふやですが。
昭和50年あたりまでは、高校の弁当の時間にはお茶当番があり(給湯室からデカいやかんを運ぶ係?)、みんなアルマイトの弁当箱のフタに入れて飲んでいたらしい…😮
今では考えれないでしょうが、昔の台所は竈門使うので床は板張りではなく、土を固めた土間でした。小さい頃ですが、うちの家の母屋には竈門でした(昭和四十年代)その為に床も土間でした。その後、別の家を建てましたが、ガスコンロの台所でもコンクリートの土間で今もそのままです。なので居間とには数十センチの段差があります。
氷冷蔵庫は喫茶店で使ってたような気がする。 廃棄された現物は覚えがあるかな。竈門も母方の実家にあったな。 臼があって正月には餅つきしてたわ。覚えているのは電化やガス化へ移行しつつあった時代の姿。あれだけ忙しけりゃ家の外と中の役割分担は当たり前の世界だね。
今から46年前私が小学生の頃アルマイトの弁当箱売ってましたよたしかキャラクターのデザインやアニメのデザインです😊
子どもの頃の氷冷蔵庫でした。氷屋さんがリヤカーにむしろで包んだ氷を積んで売りに来てくれてました。
薪で炊く竈のご飯は最高に美味しいですよねぇ~ 昨今の若い人達は竈で炊くなんて知らないですね
父方の実家も母方の実家も家の真ん中に土間が有って奥の庭にトイレが有りました。玄関から部屋に入って別の部屋に居る時にトイレに行きたくなったら一度玄関迄戻って靴を履いて用を足しに行ってました。家に長居して居ると自分の靴はどこだったっけ?と捜す事が有りました😂
当時の人に言わせると作ったもの、買ったものは残さずその日に食べると言うものだったらしいです。ある意味、明日にとっとくという習慣はなかったようです。野菜はざる すいかは水の中にドボン。ご飯は柳の入れ物に入れて井戸の中に吊るしておくという話は聞きました。
便利な世の中になっても幸福度は変わらない
寧ろ情報社会になったおかげで比較対象が安易に出来る様になったから、今の生活に満足してないと思う人が多い気がします。
ガス炊飯器…懐かしい。美味しいんですよね。
私の母親の実家が海産物のお店だったので木製の大きな冷蔵庫に氷屋さんがノコギリで小分けして入れてたの覚えています。冷蔵庫無い時代、卵は箱に籾殻入れて保存してました。お店で買う品物の包装は新聞紙が使われてました。刺身や肉の細切れ等を入れるのに木を薄く切ったった物が使われてました。初期の電気冷蔵庫には鍵も付いてました。釜戸等は農家や大きな家じゃないと在りませんよ、一般家庭は七輪が主流です。昭和30年前後の話しです。昭和26年生まれです。
東京出身、平成育ちのギリ30代だけど子供のときに家にガスコンロも炊飯ジャー、上下水道もあった、けどカマドも井戸もあったし実際に使えたよ。使ったことないけど、五右衛門風呂もあった(両親から聞いた話では、すのこを敷かないと火傷するらしい)。井戸は定期の水質検査が必要なのと、ポットに井戸水を入れると土のカスが溜まるんだよね。でも、住宅街で直ぐに薪が調達できないから、日常では使ってなかったけど、使ったことはあるよ。アルミの弁当箱は使ったことないけど、家にはあったな。当時、家にジャーは一つで白飯と赤飯を用意するってなって、薪をくべてカマドでお米を炊いた思い出は貴重なのかな?だいたい30年前の話しで昭和では無いですよ、わたしも年取ったな🤔
50年くらい前は給食の食器もアルマイトだったしな
30年くらい前の鳥取ではまだアルマイト食器だったし米はアルマイト極大メスティンで戦艦の如く蒸気炊飯、おかずはアルミバケツでしたよ。まあ、給食ってだけでクソまずかったんで今でも嫌いな食品は「給食」なのです。
20年くらい前も使ってるよちょっとやそっとじゃ壊れないし消毒しやすいし合理的な食器よ
15年くらい前も使ってたやで
40年前でもアルマイトだったよ
今でも現役です...
祖父母の家の納戸部屋に、製氷機、氷冷蔵庫、蓄音機、などが保管されていたのを見たことがあります。家の建て直しの際に処分されたようですが、今となれば貴重品になっていたかもですね。量産されていたのだったら違うかもしれませんが。現在67歳のおばあちゃんですが、小学生2、3年の頃には既に祖父母の家には電気冷蔵庫があった記憶があります。当時の台所は、土間でしたが懐かしいです。(かまどはあったかなぁ🤔)その直後、土間の台所と風呂場をリフォームし、近代的なキッチンへ。お風呂のリフォームは当時は1週間かかってのおおごと。夏の暑い時期だったので、毎日ドラム缶風呂でお風呂に入った記憶があります。祖母が付きっきりで薪をくべて、妹と二人で入ったお風呂タイムは楽しかったなぁ♪♪今では考えられませんよね〜😂
まな板を使う国は意外と多いよ?
中国とかは、持ち運びはもちろん、洗うのも力が必要そうな分厚いまな板ですね
懐かしいな~婆ちゃん爺ちゃんちは、一々トイレに行くにも土間に降りて行ってたな、居間から1メートル位先に階段が有って踏み外しで鼻血ぶーしたなw井戸に落ちて死にかけた事も有ったわ🤣
私が子どもの頃は、祖父母宅にはお米を炊くしか機能のない炊飯器と保温器と二つありました。昭和50年代でした。保温器は今も欲しいですね。
学生の時、西友のフードコートでバイトしてて夏にカキ氷やってんだけど初めて氷屋さんのでっかい氷見たときの驚きはよく覚えてる。
保育園の頃はアルマイトのお弁当箱だったので、ストーブで先生が温めてくれた。
実家の辺りの氷屋さんが廃業したのは平成に入った直後だったけど、漁港の町だったからギリギリ残ってたんだな。
アルマイトのお弁当箱😂
幼稚園時代、冬はアルマイトのお弁当箱持ってけばストーブでお昼の時間まで温めてくれたんよね😊
おかずにたくあん入ってるとなかなか匂ってたなあ
ドカベン懐かしい。本当に小さい頃にはまだ父が使っていました。
氷冷蔵庫以外みんな使っていた、手押しの井戸ポンプが懐かしい。電気製品は60Wの裸電球が一つだけ、何にも無かった。戦争未亡人の母、その我が家は貧しかった、雨漏りで寝る場所を探した。貧乏暮らしが身についた人生だった。人間は 生まれも育ちも必要だった、何にもナシで貧しい人生だった、もう終わるが、、。 80歳 もう疲れた。
よくアカウント作れたな
こんな話を沢山して下さい、とても興味深く読ませていただきました😊
いつに戻りたい?そこからどう頑張る?
今なら木製の方がスタイリッシュかもなぁ
氷冷蔵庫は、昭和37年ころにあったただし、水道、電気、ガスは完備していて、井戸は集合住宅にはない弁当は、保育園は円が作り、小中までは学校内で調理する形態だった冒頭に出ていた洗濯機の水抜きは散々手伝わされた(ローラーの中に洗濯物入れて、くるくる回す
9:04 実家では昭和60年になる辺りまでは、ガス炊飯器を使ってご飯を炊いていた。 とは言っても、画像のような炊飯器ではなかった。いつも早起きしていた私が、前の晩に米を研いでおいて起きたら点火する当番になってた。
「日本の民家」という戦後すぐの日本のいろんな地域の民家を紹介する当時の映像があるけど、今では発展している地域でも割と電気すら通ってない場所が多い。
つくばい式って何?と思って動画みてたら昭和末の祖母ちゃん宅の流しがそうだったと思い出した。
昔は水汲みと風呂焚きは子供の仕事だったらしいです。
その一方でブルシットジョブが増えてんだよな…便利を求めすぎるのって格差を生む狂気
当時を知らない人の説明だなぁ。学校の教科書みたい。東京郊外は電気、ガス。水道は通っているけれど、戦後まもなくは停電が多かったね。だからロウソクは必需品。ロウソクの炎の中に手を通したりして遊んだね。スッと通すと熱くない。電線やコンセントは壁や柱を走っていて、コンセントは大きかったね。風呂釜はガスのものではないから焚き付けと石炭で沸かし、毎日掃除。煙突も定期的に掃除しないと煙突から火の子が飛んでアブナイ。焚き付けはナタで薪を細かく割る、子供がナタ振ってやったな。好きだった。氷冷蔵庫は冷却力が無いから、ほぼ毎日買い物に行くし、洗濯は洗濯板で大仕事。今の主婦が「子供の世話も大変で・・」なんて言っているのを聞くと笑っちゃうよ。女性はマジ重労働だった。プラスチックはベークライトレコード板程度で、プラスチック製の物は無い。すべてが木か金属製。冬になれば火バチ一つしかないから、手も足も耳もしもやけ。はれてかゆくて、皮がむける頃に春がくる。SDGSも結構だが、あんな時代に戻るのはお断り~だわい。
西東京市にレトロ生活をしている夫婦がいらっしゃいます。建物から氷冷蔵庫まで全てです。因みに"天日干し"は"てんぴぼし"と読みます。
氷はどこで買ってるのかな…
21:00の弁当箱、数年前も使ってたので今も現役ですw
【水道・電気・ガス】 水道高熱のインフラ整備は市部と郡部に大きな差がありました。 これらは電線や導管で供給元と消費者を結ぶ必要があり、市部の中心部から需要の在る郡部へとアメーバーのように伸びていったのです。 以下では、一昨年に古希を迎えた幼少期(1960年ころ)の水道電気ガスについて説明します。 私は五歳の頃に郡部から大阪市に隣接する造成地に引っ越しました。今では市部と言って良いでしょうが、当時は周囲に田畑が広がる郡部でした。・水道 造成地には水道が供給されていましたが、未だ高価で安定していなかったのか数戸毎に井戸が掘られていて、日常的に使用されていました。 郡部の実家では井戸と水瓶を使用していました。・電気 電気は供給されていましたが、配電盤には 15A のヒューズが取り付けられていて、炊飯器と電気炬燵などを同時に使用するとヒューズが切れ、交換してもらうまで電気を使用できませんでした。 我が家の場合は父が電気技師なので自分で交換していました。近所のヒューズ交換も引き受けていたようです。・ガス 都市ガスが供給されていましたが台所の一口焜炉だけだったので、七輪などを併用していました。 郡部の実家は未だ竈を使用していました。・氷冷蔵庫 小学生の中頃ですから 1960年代の前半まで我が家には氷冷蔵庫がありました。氷は定期的に毎夕リアカーで配達されていました。・電化成品 東京オリンピックは自宅のテレビで見た記憶があるので、電気冷蔵庫も同じころの導入だったと思います。 電気掃除機は珍しく、買ったという人から貸してもらって掃除をした記憶があります。湿した新聞紙を撒かなくても埃が立ちませんでした。
ずっと気になってるんですけど、氷を入れる冷蔵庫の氷が解けた際に出る水はどうやって処理するんですか?桶に氷を入れているのも見たことありますが、大体氷の塊をそのまま上段の棚に入れてますが、あれは排水溝みたいなものがあるんでしょうか?
冷蔵庫の下に水受けが有ったと思いますよ。親の仕事で気にしたことなかったけれど。期の枠の中はおがくずだ詰まっていた記憶。スイカなんかはバケツの水で冷やすだけで、あんな大きいものは冷蔵庫には入れないよ。氷にかじりついたりしたような気が(子供には大きい氷。実際にはかじれないけどね)「氷カキ」と言う、先のとんがったドライバーみたいなのが有ったな。ガシガシガシって氷を崩す。
便利な生活はプラスチック様々ですね
氷冷式冷藏庫は今でも作つています
平成初期もアルミのお弁当箱使ってました。ストーブで温めてた。
アルミではない、アルマイト
ミシュランに載ってる寿司屋さんが氷冷蔵庫を使ってました。保管したネタの状態が全然違うらしいですよ。
最初の写真は、外国人向けのお土産用に撮影された葉書の写真ですよね。実際は、床でまな板を使ったりしないけど、ポーズや構図的には分かりやすい。しかし、現代は、この写真みたいに、本当に床の上で料理してると勘違いしてる人が多いけど😂
まだ時々ガス炊飯器使ってますが電気炊飯器に比べてガス炊飯器で炊いた飯は美味いですよね
子供の頃ですがガスの炊飯器を使ってご飯炊いてました美味しいですよね
@@風谷月夜 電気ジャーより確実に美味いですよね因みにうちのガス炊飯器は40年選手です笑
私は家にガスを通してないのでキャンプ道具と無水鍋でご飯を…ガス炊飯器懐かしいです。三菱の昭和30年製の扇風機のみで今年の夏を乗り越えました。最近の家電と違い、故障知らずなのは心強いですね。
厳密にいえば、国産の電化炊飯器や冷蔵庫、洗濯機は戦前からありましたけどね(テレビ以外)。掃除機や扇風機も
システムキッチンの普及は昭和30年代ですが。「暮らしの手帳」の実験記事が詳しいです
1940年の「幻の東京オリンピック」の時、テレビは実用化寸前だった。
前回東京オリンピックの直前に大阪で新婚生活を始めたうちんちにはガス炊飯器とガス冷蔵庫がありました。大阪ガスの本社ビルのレストラン行きたい。。。
たまにものすごく腰が曲がったお婆さんとか足が不自由な高齢者とか見かけるけど、若い頃のこういう無茶がたたった結果なのだろうか...と思ってしまった。昔は昔の、今は今の苦労があるよね。
凄〜い!いつ見ても良く調べてあるね!いつも感心しながら見ていますよ!ご飯の所に一つだけ追加なんだけど、1960年に炊き上がったご飯を保温する保温釜が発売されましたよ😊まぁ、どうでもいいですけどちなみに私の生まれた家の隣には、空き家でしたが台所には土の竈門があり、お風呂は五右衛門風呂があって、庭には2羽のニワトリじゃなくて井戸があり、ちょい不気味な空き家がありました。
いつも思うけどオープニングかっこいい
中•高学校時代まで使っていたアルマイト弁当箱は、結婚数十年後の今でも"巌鶏(と家では呼んどりますが要するに"のし鶏"かも)"の型として現役で頑張ってくれています。
保育園にご飯だけ(主食)持っていくんだけど保温庫で温められるようにアルミの弁当箱指定でした
母が子供の頃、土間の台所だった頃、外の井戸に水を汲みに行かなくても、家の中で水を引き上げるシステムがあり、😂洗い物はそんなに大変ではなかったと言っていました。どんな仕組みだったんだろう。。
アルミニウム弁当箱なつかぢい😂
アルマイト
大正生まれの祖母がかまどで煮炊きをしていました
餅つきも手動でついていたし、味噌や梅干しもよくもらってました
食事に限らずほぼ何でも手作り 昔の人には尊敬しかない
@@焼きピクルス_カリカリ梅風味
昔の人を舐めない方がいい。
華奢な身体して丸太を担ぐ人もいたくらいだぞ😂❓️
@@鈴木勉-e1b いや、私が計算したのは大正時代の終わりに生まれた場合です。やから大正時代の真ん中辺りに生まれてたら今110歳ほど。さすがにいくら昔の人が凄くても無理があるかと
そもそも今の話をしているとは限らないだろ
@@kansas2527
私が言いたいことを代弁してくださりありがとうございます。
そう、大正生まれの祖父母が生きていた頃の話をしたつもりだったんです
@kansas2527 ?どゆことです?
死んだお袋から聞いた話だけど、お袋が子供のころ、お母さんが、「そのうち、寝ててもご飯が炊ける時代が来るよ」なんてよく言ってたそうです。
一般的じゃないだけで、すでにガス炊飯器はあっただろうからねえ。
当時の人からしたらものすごーく便利な生活してるけど、便利になった分、仕事や社会のシステムも高度化・複雑化してるから、便利なのが良いことなのか悪いことなのか分からなくなった
お祖父ちゃん達やお祖母ちゃん達の時代ですね、大変だったんですね。お父さんやお母さんを育ててくれて有難う御座いました
うちの曾祖父は氷屋さんで製氷機の技師でした!
器械は24時間監視体制なので大変なお仕事だったようですが
戦前・戦中・戦後も氷の需要は多く、かなり稼げていたようですよ!
氷屋さん懐かしくていいですね!数年前、京都で久々に氷屋さんが搬入してるタイミングに出くわして感動したので、そのお店のかき氷を食べに行きました🫶
氷は機械で生成していたんですか?
@@yutagame7935 昔のアンモニア冷媒の製氷機ですね。天然氷もよく出回っていましたが、衛生と保存の観点からたくさん氷を出荷するため、人工氷も結構早い時代から普及されていたみたいです。
@@鈴木-i1o
そんな昔から、氷にする技術があったんですね。
昔の時代だから、山から持ってきたのだと思ってました。
65歳を過ぎたおばあちゃんですが、私の祖父母の家には製氷機、蓄音機、冷蔵庫、が納戸の部屋に保管されていたのを見たことがあります。
祖父母の家の建て直しの際に、処分してしまったようですが、今考えると歴史を物語る貴重品でしたよねー。
捨てなきゃ良かったのかも...😅
還暦ちょっと超えの私ですが、小さいころ親戚の叔父が氷を販売していました。その氷で夏になるとかき氷を食べさせてもらいました。
アルマイト弁当箱は懐かしいです。
東北の田舎昭和50年頃まで
朝に『こ〜り〜。こ〜りはいらんかぁ~。』と、言いながら売り歩いていてくれてました。1個の氷で夏でも、大体3日位持ちました。
大体氷屋さんも、購入する家を曲がってくれる事もありました。大っきなノコギリみたいなのでザクザクと、切り分けてくれました。店頭に行けば、ドライアイスも、売ってくれました。
氷屋さんが来た日は、午前中売りに来てくれる八百屋さんからスイカとかメロンとか肉(肉は、昔は副菜)なんかを購入してました。夕方近く魚屋とお豆腐屋さん来て…。通りには、色々とリヤカーで売りに来る…。たまに暑すぎる時に今のアイスの『アイスクリン』を買ってもらたなぁ…。練乳に卵を入れて棒に刺してある。今思えば?っと思う味。夏休み、朝6:30ラジオ体操終わったらその足で、集会所に集まって宿題午前中は、1〜4年生。わからない時は、5〜6年が当番で2人位だったかな?勉強をみてあげて、午後から5〜6年が集まる。部活帰りの中学生が5〜6年生の勉強をみてくれた。とても中学生に憧れた。夕方頃売れ残ったのかな?集会所での勉強が終わり帰りの時間になると氷屋さんと紙芝居屋さんが庭に現れる。煎餅にジャムを塗ったお菓子か水飴かを売っていて、隣にかき氷屋さんに変身したオジサンが、いちごシロップやらメロンやらレモンのシロップをかけてくれる。なんか昔は、大人が入ると恥ずかしい子供だけの独特な時間ってありました。上の子は下の子の面倒を見るのが義務っていうか…。
アルマイト=土方弁当とか言われてましたね
なんていい時代なんだ!!😢
@@rosy0371さま
不便でしたよ〜
アルマイトのお弁当箱、今でも売っていますよ(^^)私はあのお弁当箱が好きでしたね〜❤
情景が浮かび、とても楽しい気持ちになりました。
大変なこともたくさんあったと思いますが、素敵な時代ですね
35歳です。23歳の時祖母が死にましたが、それまで軽トラででしたけど魚屋さんと八百屋さんが熊本市内の祖母の家に来てました。懐かしい思い出と重なりました。ありがとうございます!
幼児のころ 伯母の家に母と遊びに行って
伯母が「氷屋さんに知らせないと 冷蔵庫の氷がもう小さくなった」と言っていたのを憶えています
60年くらい前のこと。
田舎は氷屋もなかったです家電は裸電球とラジオだけ軒先にランプ煮物は竈門 実家は築400年でした。
まな板は木のやつをずっと使ってます。
最初はプラスチックのを使ってましたが、木のほうが包丁の刃が長持ちするよと聞いてためしに買ってみたら、ぜんぜん切れ味が落ちなくなって感動してそれ以来ずーっと木です。
いいこと聞いた!木に替えよう
マイクロプラスチックのこともあるしね
トトロ見た後だから嬉しい
ほんとためになる
「うちの小さな女中さん」
昭和初期の家政がよくわかる楽しいコミックです。
大正生まれの祖母が平成になってもリビングで食べる時は
おひつを使って食卓にご飯を出してくれていました
おかわりしたいと言うと嬉しそうにおひつの蓋を開けてよそってくれました
懐かしいなぁ…
足付きまな板は台所の戸棚の端っこに入れてあったような記憶があります
「これなんだろ?」と見かける度に思ってました
今でも一部の魚屋さんや料理屋さんでは氷冷蔵庫(外装はステンレス)を使っていて、毎日氷屋さんが氷柱を配達しているところを見かけますよ。
電子レンジや炊飯ジャーのない時代、お茶漬けや雑炊もアリでしたが、一般の家庭では冷ご飯を蒸し器で温め直していましたね。
電気冷蔵庫は食材に電気冷蔵庫特有の変な匂いやエグ味がつく事があるからねー。
高度成長期ごろの冷蔵庫はそれが本当ひどかった
平成の途中まで、水道が通らなかった地域出身ですが、井戸にモーターをつけていたので、どの家も普通に蛇口から水が出ていました。
出てくる水は、カルキで消毒された水道水ではなく、地下水ですが。
夏、生ぬるくて冬は冷えている水道水と違って、井戸水は夏冷たくて冬は温かいんですよ😊
そして、冷蔵庫はありましたが、動画で紹介されたように、夏は丸ごとのスイカを井戸につるして冷やしたりしました。
中学校の時、給食がなかったので(郡部は給食だったけど、市は給食は小学校だけだった)、冬はアルマイトのお弁当箱を教室の保温機に入れて温めていました。
一方、ランチジャーは昭和50年代には存在していて、父はランチジャーのお弁当を持っていってました。
氷冷式冷蔵庫は、朝、氷屋さんに氷を大きく切ってもらう前に小さくなった氷を麦茶のやかんに入れて、井戸に吊るして冷やし、冷蔵庫は掃除をして氷を待ったと祖母が話してくれたことがある。
あれにもピンきりがあって、中は銅板で外も螺鈿で細工されていたり、漆塗りがあったりと芸術的な物から、ブリキ張りで写真のような木製のものまで様々だったとのこと。
まぁ見た目が立派でも、性能はあまり変わらず、冷やすものと言えばおかずをと言うより、ほんのちょっとしたもの、カルピス原液やビールサイダー等の飲み物や、料理前の肉魚。
常備菜の保存は、はいちょうと呼ばれる、網戸式の風通しの良い棚。
水道がない頃は井戸頼みだったけど、冷やすことを捨てて蓋をつけてポンプで組み上げたりする家庭も多かったと聞く。
戦前の都会では、水道も普及していて、ガスコンロもあったそうだけど、練炭や炭の方が安かったから、主にこれらの着火に使い、煮物焼き物は七輪などを利用したと言うこと。又はお湯を急いで沸かしたいときに使うとか、兎に角ガス料金節約のために主婦は頭を使ったと。
ただ、これは都会の話で、戦後農村の台所改善が叫ばれ、モダンで明るいキッチンに多くの主婦は憧れたらしい。いろりやかまどでは、火の微妙な加減は難しい、でも実際に使ったらご飯の味が落ちてがっかりしたと祖母は笑っていた。
Wa ka ri ma su. I ma no hi to ni wa, zettai wa ka ra nai ha na shi. A ma ri, ben ri ni na ri su gi te ne. I ma, ano ko ro no sei ka tsu, mou I chi do ya tte mi tai. "Survival Skill Test" no yo u ni shi te.......
アルマイト製弁当箱は母が使っていたものを貰って高校生の時使ってた笑 懐かしいな
また使ってみたいな
子供の時、冷蔵庫がありませんでした。氷屋さんで氷を買ってました。魚や肉は買ってすぐ調理してました。西瓜は川で冷やしてました。
昭和何年ごろのお話しですか?
@@abbey_aikawa4310 30年代初めの頃です。中頃にはもう冷蔵庫がありました。
@@chiiko2013 とすると昭和20年代生まれですか?貴重なお話がリアルタイムで聞けました!
@@abbey_aikawa4310 いえ、昭和32年生まれで、幼稚園に入る前の記憶があるんです。
私の祖母が子供の頃、私から見てひいひいおじいさんが船大工で、石綿を使って冷蔵庫を作ってくれた話を思い出しました😂
たぶん、祖母が言ってた冷蔵庫も氷冷蔵庫のことだったんだろうなとこの動画でわかって嬉しいです、ありがとうございました
自分は平成生まれですが、祖父母宅は釜戸で薪を焚く五右衛門風呂でした。
途中から釜戸にガスバーナーというハイブリッド?式になってましたが…
足が下につかないよう板を沈めるのですが、子供の頃はアトラクションのように感じてましたね。
私は五右衛門風呂に入ったことがないのですが、周りも熱いんですか?イメージは釜ごと煮えたぎっている感じ。
@@yukirosello8467 ヒノキだったので周りも多少は熱いですが触れないほどでもないです!
一番風呂はお爺ちゃんだったのでその頃はもっと熱いのかもしれませんが…
底に沈める板は踏んでいないと浮いてくるので縁に手を掛けないと入れないですしね。
@@nbrkgc なるほどー!入ってみたいです。ありがとうございました。
私は令和に入ってからガスなし薪風呂生活になりました。
ボタン1つでお湯が出るのって凄いんだなと改めて思います。
@@山童茶花-l1g 薪で炊いたお風呂は湯冷めしないと言いますよ。あなたのお風呂が羨ましいです。
すごく興味深い内容でした🐥✨
電化製品の普及と言えば、松下電器(現パナソニック)の松下幸之助が当時唯一家庭にあった電源(裸電球)のソケットを二股にして他の物で電気を使える様にしたと言うのが松下電器の始まりでしたね
水道水のように家電製品を行き渡らせたい、彼の思いに気がつかないほど豊かさを享受できているのは幸せです。
たった百年前まで電気もガスもなかったって考えるとすごいよな
@@amtanwwww 大正生まれの祖父の話だと、大正の終わりには、電気、ガス、上下水道、ラジオ、冷蔵庫、路面電車、地下鉄銀座線が既にあったらしいです。
平成生まれですが、祖父母の家でも見た事ない物ばかりで驚きです…
昭和40年代、都内の住宅街に「金物雑貨屋さん」のトラックが巡回販売してたのを覚えています。
洗面器とか鍋、ホウキやチリトリ、買い物籠、プラ製ゴミ箱なんかも販売してました。
アフリカのとある国で住んでますが首都でも電気も水道無い家が多いので、今でもこれに近い環境をよく見かけます
うちは電気あるので冷蔵庫あるものの洗濯はタライで手洗いです
氷屋の類も無いので肉屋でも店先で捌いて常温で売ってます
昔に比べたら便利になっているはずなのに、家事がいまだに負担になっているのは何故なのだろう。
生活水準もあがっているから。負担に感じないレベルまで下げたらいいけど満足度も下がる
今は共働きできますが昔は専業主婦が必要だったのが分かりますね
やりたいこと・やれること・やることが増えたから?
給料が下がって物価が上がってるから
@@貴族-s5k何を言ってんの?
ばあちゃんがよくお茶漬けを食べていたのも、ぬか漬けを作っていたのも、基本キッチンにいたのもこういう歴史を知ってると腑に落ちる
長年の習慣で落ち着いたのかもな
水道が無かった時代は、食器はめったに洗いません。
箱膳といって個人の食器を入れてあるお膳を使ってました。
食事の最後にお茶とお新香で食器をぬぐって綺麗にして食べてそのまま次の食事まで箱膳の中に入れて、次の食事まで納戸に仕舞ってまっていました。
今でもお寺などの修行体験に行くとこの食事方法を教えてくれます。
ご参考まで
ご飯も麦が入ってるから、今の白米のようにベトベトしませんからね。味噌汁も油分はほとんどないから飲み干してしまえばお椀はきれいなものです。
自分は健康上の理由で麦10割の麦飯にしてますが、炊いてもパラパラしてるし、茶碗は汚れませんね。
お寺さんだと最後に茶碗に残った米粒をタクワンと少しのお茶で綺麗に掃除して締めくくりますね
海のすぐそばに住んでたけど、昔の人は食後にヒョイッと海に来て海水で食器軽く洗うだけだったってばあちゃんが言ってたなあ
一人暮らしの今の自分もです
ご飯やインスタントラーメンなら
良く観察して、
良しまだいける!
って。
井戸があるじゃん。洗剤の代わりに小麦粉できれいになるぞ。
水を使わないのなら小麦粉に吸着させたとか?おばあさんが
小麦粉は洗剤の代わりじゃったって言ってたぞ。
子供の頃、田舎のじいちゃんの家が五右衛門風呂。灯りもなく、薄暗いくて不気味。浮いた板をうまく踏んで浸かるのが難しく、中に浸かっても縁に触れると熱いから身動き出来ず全くいい思い出がないです。
子供の頃に祖父祖母の家で五右衛門風呂の風呂焚きが面白いからかまどに薪をくべまくったら熱湯になってしまったことがある
私の祖母の家も五右衛門風呂でした。懐かしいです。私も同じく板を沈められず難儀しました。全然リラックスなんてできないんですよね。でも、五右衛門のお湯は体の芯から温まり湯冷めしにくかったです。
@@お魚くわえたトラ猫
おっしゃる通りですね。
薪でわかすお風呂のお湯は身体の芯から温まって湯冷めしにくいと聞きますね。この年齢になってその良さに気付かされています。ご返信頂きありがとうございます。
同じくです。祖父母の家が薪で焚く五右衛門風呂でした。風呂釜の鉄の内側は火が走ってるんだから絶対触っちゃダメだよ、と言い聞かせられて入りましたが、今にして思えば良くあのお風呂に子どもたちだけで入らせてたなと思います😂
@@tanabatatume2720
そう思いますよね。
五右衛門風呂に入るのは子供にとって危険が一杯www
私のじいちゃんの家の五右衛門風呂は灯りがなかったので真っ暗。確かローソクの炎だけだったような気がします。オバケも出そうで怖かった記憶があります。今では懐かしい思い出です。ご返信ありがとうございました。
私の母の実家では中学生の頃までご飯はかまどで炊いていました😀底のおこげでお茶漬けして食べていました🎉懐かしい味です❤
60歳です。子供の頃、母が口癖のように「お嫁に行ったら冷やご飯しか食べられなくなるから」と、娘の私には炊きたてご飯を出してくれました。おかげで母の見通しはあっさり外れましたね。お嫁には行きましたよ(笑)それも、ちょっと変わりました、お嫁に行く、から結婚する、に。
50年位前の親戚の農家では、井戸が外にあって、食器を外で洗っていたのを記憶してます。お風呂も外、トイレも外、冬は寒かったでしょうね。
1974年って、すでにパソコンやテニスゲームもあったし、でもまだ井戸水のところもあって、生水が飲めない所もあった。サイケな時代ですね😊
母方の実家は昭和の終わり頃まで薪で風呂焚きしてたよ。と言っても山間部の僻地ではなく大阪の街中。すぐ近くの商店街からミカンやリンゴの木箱を貰ってきてそれを燃料にしてた。炬燵も豆炭使ってたなあ。豆炭炬燵の上でワープロ使うという時代感覚がバグる環境だった。
素敵な動画を観せて頂きありがとうございます✨
戦前から京都市内には大阪ガス旧京都工場があったみたいで、昭和3年(1928年)に旧京都瓦斯の工場として建設されて京都市民に都市ガスを送り続けてきたようです😊その巨大タンクは「五条七本松のガスタンク」と親しみを込めて呼ばれていたようです😮戦前にはガスが通っていたのですが、戦時中はガス供給がなくなり、市内は森も山も無くて、燃やすものも無いので、嵐山とかに、行って桂川に流れてきた枝を拾ったり新京阪(今の阪急電車)を使ってコークスを大阪までもらいに行き、使ったり、、燃やすものが手に入らないと大変困ったみたいですよ!😊
かまどを見て「はじめちょろちょろ中パッパッ 赤子泣いてもフタ取るな」を思い出しました
今となっては懐かしい水晶米の袋にも、確か同じ事書いていた様な?
これだと専業主婦ばっかなのマジで理解出来る
二十歳ですが、幼稚園の頃冬になるとみんなアルマイト弁当箱になり、お昼までストーブの周りに置いて温かいご飯を食べていたのを思い出しました
アルマイト弁当箱より木製のわっぱのほうがオシャレに感じます🌺
高価だからプラスチック弁当箱しか持ってないけど。
炭治郎のお母さん、残ったごはんでお煎餅作ってあげるって子どもたちに言ってた🍘
昔の人はすごい
バチくそ2000年産まれだが、母の志向でこの生活してた……😂
意外と楽しい。ただ、一人暮らしを始めた時の洗濯機とレンジとシャワーには興奮してもう戻れない。
小学生の頃、実家が江戸時代からの庄屋の家系だったので、台所は土間でかまどが2つ存在しておりました。
お風呂も外に専用の家屋があって薪で沸かしていましたね。
トイレもトイレ用の家屋があって和式のポットン便所でした。
アルマイト製の弁当使っていましたが、朝食の残りを入れていたので、煮物とか入っていたりするとご飯に煮物の汁が融合してたりしてましたね。
昔はご飯炊いたらおはちに入れた、冷蔵庫は上の棚に氷を入れた、氷屋さんが毎日氷を届けてくれる
ほんの少し前、昭和30年代半ばくらいのこと 昨日の事のように覚えている😅😅😅
50年前になりますが近所の魚屋は氷を敷いた棚に魚を並べて販売していたいましたね。
ハエが寄ってくるのではたきのようなもので払っていたのを覚えています。
氷冷蔵庫は前後も有ったらしいですよ、今の80歳前後の身内が、小学生の頃まで使っていたそうです。😅電気は月曜日に計画停電するからだそうで、電気冷蔵庫の存在は、その当時から知っていたらしいです。🙂
田舎に親戚が要れば機会を見て訪れて見ると良い。僕も子供の頃親戚のお宅で当時珍しい「五右衛門風呂」に入れて貰った経験が有った。貴重な社会勉強でした。
かつてはそんなになんでもしゃがんでやっていたのか。日本人女性の足が短く太く曲がってしまうのもわかる気がする。でもその分足腰は強かったろうね。
どこの奥さんも足の甲に正座ダコがあったよ。
昭和30年生まれです。東京で育ちました。幼稚園のお弁当箱はアルマイト製でした。今も保存容器として使っています。家電は洗濯機、扇風機、テレビ、ラジオくらいでした。小学校になった辺りで掃除機と冷蔵庫が来ました。低学年までは今で言うアイスボックスが冷蔵庫でした。夏場だけの道具で一貫氷を早朝売りに来る氷屋さんから買っていました。掃除は茶がらを絞って蒔き、箒とちりとりで掃き集める。その後雑巾掛けをする。お勝手はガス、水道でしたが、しばらく羽釜でした。電気炊飯器はかなり後に来たと記憶しています。その頃の気温は今程過酷ではなく、夏場は暑い時間帯は午後だけでしたし、冷房が無くても過ごせていました。冬は火鉢や練炭、その後ガスストーブになりました。石油ストーブの普及はずっと後の事。学校もコークスを燃やすダルマストーブで、ストーブ当番がありました。
子供だったからか、時間がゆっくり流れていたような気がします。
夕飯の買物は毎日でしたし、真冬でも弟のおしめを外の水道場で手洗いしていた母親は偉大だと子供心に思いました。専業主婦でなければとても結婚生活などできなかったと思います。
祖母が氷屋さんでした!
こんな感じだったんですね!
トトロでも見ましたが、お風呂、大きいのはわかるけれど、左隣の小さいのは何だろ?
水道がない場合そっちに入ってる水で熱さを埋めてコントロールしてた覚えがあるなー。
50年も前の幼児期の記憶なのであやふやですが。
昭和50年あたりまでは、高校の弁当の時間にはお茶当番があり(給湯室からデカいやかんを運ぶ係?)、みんなアルマイトの弁当箱のフタに入れて飲んでいたらしい…😮
今では考えれないでしょうが、昔の台所は竈門使うので床は板張りではなく、土を固めた土間でした。
小さい頃ですが、うちの家の母屋には竈門でした(昭和四十年代)
その為に床も土間でした。
その後、別の家を建てましたが、ガスコンロの台所でもコンクリートの土間で
今もそのままです。
なので居間とには数十センチの段差があります。
氷冷蔵庫は喫茶店で使ってたような気がする。 廃棄された現物は覚えがあるかな。
竈門も母方の実家にあったな。 臼があって正月には餅つきしてたわ。
覚えているのは電化やガス化へ移行しつつあった時代の姿。
あれだけ忙しけりゃ家の外と中の役割分担は当たり前の世界だね。
今から46年前私が小学生の頃アルマイトの弁当箱売ってましたよたしかキャラクターのデザインやアニメのデザインです😊
子どもの頃の氷冷蔵庫でした。氷屋さんがリヤカーにむしろで包んだ氷を積んで売りに来てくれてました。
薪で炊く竈のご飯は最高に美味しいですよねぇ~ 昨今の若い人達は竈で炊くなんて知らないですね
父方の実家も母方の実家も家の真ん中に土間が有って奥の庭にトイレが有りました。玄関から部屋に入って別の部屋に居る時にトイレに行きたくなったら一度玄関迄戻って靴を履いて用を足しに行ってました。家に長居して居ると自分の靴はどこだったっけ?と捜す事が有りました😂
当時の人に言わせると作ったもの、買ったものは残さずその日に食べると言うものだったらしいです。ある意味、明日にとっとくという習慣はなかったようです。
野菜はざる すいかは水の中にドボン。ご飯は柳の入れ物に入れて井戸の中に吊るしておくという話は聞きました。
便利な世の中になっても幸福度は変わらない
寧ろ情報社会になったおかげで比較対象が安易に出来る様になったから、今の生活に満足してないと思う人が多い気がします。
ガス炊飯器…懐かしい。
美味しいんですよね。
私の母親の実家が海産物のお店だったので木製の大きな冷蔵庫に氷屋さんがノコギリで小分けして入れてたの覚えています。冷蔵庫無い時代、卵は箱に籾殻入れて保存してました。お店で買う品物の包装は新聞紙が使われてました。刺身や肉の細切れ等を入れるのに木を薄く切ったった物が使われてました。初期の電気冷蔵庫には鍵も付いてました。釜戸等は農家や大きな家じゃないと在りませんよ、一般家庭は七輪が主流です。昭和30年前後の話しです。昭和26年生まれです。
東京出身、平成育ちのギリ30代だけど
子供のときに家にガスコンロも炊飯ジャー、上下水道もあった、けどカマドも井戸もあったし実際に使えたよ。使ったことないけど、五右衛門風呂もあった(両親から聞いた話では、すのこを敷かないと火傷するらしい)。井戸は定期の水質検査が必要なのと、ポットに井戸水を入れると土のカスが溜まるんだよね。
でも、住宅街で直ぐに薪が調達できないから、日常では使ってなかったけど、使ったことはあるよ。アルミの弁当箱は使ったことないけど、家にはあったな。
当時、家にジャーは一つで白飯と赤飯を用意するってなって、薪をくべてカマドでお米を炊いた思い出は貴重なのかな?
だいたい30年前の話しで昭和では無いですよ、わたしも年取ったな🤔
50年くらい前は給食の食器もアルマイトだったしな
30年くらい前の鳥取ではまだアルマイト食器だったし米はアルマイト極大メスティンで戦艦の如く蒸気炊飯、おかずはアルミバケツでしたよ。
まあ、給食ってだけでクソまずかったんで今でも嫌いな食品は「給食」なのです。
20年くらい前も使ってるよ
ちょっとやそっとじゃ壊れないし消毒しやすいし合理的な食器よ
15年くらい前も使ってたやで
40年前でもアルマイトだったよ
今でも現役です...
祖父母の家の納戸部屋に、製氷機、氷冷蔵庫、蓄音機、などが保管されていたのを見たことがあります。
家の建て直しの際に処分されたようですが、今となれば貴重品になっていたかもですね。
量産されていたのだったら違うかもしれませんが。
現在67歳のおばあちゃんですが、小学生2、3年の頃には既に祖父母の家には電気冷蔵庫があった記憶があります。
当時の台所は、土間でしたが懐かしいです。
(かまどはあったかなぁ🤔)
その直後、土間の台所と風呂場をリフォームし、近代的なキッチンへ。
お風呂のリフォームは当時は1週間かかってのおおごと。
夏の暑い時期だったので、毎日ドラム缶風呂でお風呂に入った記憶があります。
祖母が付きっきりで薪をくべて、妹と二人で入ったお風呂タイムは楽しかったなぁ♪♪
今では考えられませんよね〜😂
まな板を使う国は意外と多いよ?
中国とかは、持ち運びはもちろん、洗うのも力が必要そうな分厚いまな板ですね
懐かしいな~婆ちゃん爺ちゃんちは、一々トイレに行くにも土間に降りて行ってたな、居間から1メートル位先に階段が有って踏み外しで鼻血ぶーしたなw
井戸に落ちて死にかけた事も有ったわ🤣
私が子どもの頃は、祖父母宅にはお米を炊くしか機能のない炊飯器と保温器と二つありました。
昭和50年代でした。
保温器は今も欲しいですね。
学生の時、西友のフードコートでバイトしてて夏にカキ氷やってんだけど初めて氷屋さんのでっかい氷見たときの驚きはよく覚えてる。
保育園の頃はアルマイトのお弁当箱だったので、ストーブで先生が温めてくれた。
実家の辺りの氷屋さんが廃業したのは平成に入った直後だったけど、漁港の町だったからギリギリ残ってたんだな。
アルマイトのお弁当箱😂
幼稚園時代、冬はアルマイトのお弁当箱持ってけばストーブでお昼の時間まで温めてくれたんよね😊
おかずにたくあん入ってるとなかなか匂ってたなあ
ドカベン懐かしい。
本当に小さい頃にはまだ父が使っていました。
氷冷蔵庫以外みんな使っていた、手押しの井戸ポンプが懐かしい。
電気製品は60Wの裸電球が一つだけ、何にも無かった。
戦争未亡人の母、その我が家は貧しかった、雨漏りで寝る場所を探した。
貧乏暮らしが身についた人生だった。
人間は 生まれも育ちも必要だった、何にもナシで貧しい人生だった、もう終わるが、、。
80歳 もう疲れた。
よくアカウント作れたな
こんな話を沢山して下さい、とても興味深く読ませていただきました😊
いつに戻りたい?そこからどう頑張る?
今なら木製の方がスタイリッシュかもなぁ
氷冷蔵庫は、昭和37年ころにあった
ただし、水道、電気、ガスは完備していて、井戸は集合住宅にはない
弁当は、保育園は円が作り、小中までは学校内で調理する形態だった
冒頭に出ていた洗濯機の水抜きは散々手伝わされた(ローラーの中に洗濯物入れて、くるくる回す
9:04 実家では昭和60年になる辺りまでは、ガス炊飯器を使ってご飯を炊いていた。 とは言っても、画像のような炊飯器ではなかった。
いつも早起きしていた私が、前の晩に米を研いでおいて起きたら点火する当番になってた。
「日本の民家」という戦後すぐの日本のいろんな地域の民家を紹介する当時の映像があるけど、今では発展している地域でも割と電気すら通ってない場所が多い。
つくばい式って何?と思って動画みてたら
昭和末の祖母ちゃん宅の流しがそうだったと思い出した。
昔は水汲みと風呂焚きは子供の仕事だったらしいです。
その一方でブルシットジョブが増えてんだよな…
便利を求めすぎるのって格差を生む狂気
当時を知らない人の説明だなぁ。学校の教科書みたい。
東京郊外は電気、ガス。水道は通っているけれど、戦後まもなくは停電が多かったね。
だからロウソクは必需品。ロウソクの炎の中に手を通したりして遊んだね。スッと通すと熱くない。
電線やコンセントは壁や柱を走っていて、コンセントは大きかったね。
風呂釜はガスのものではないから焚き付けと石炭で沸かし、毎日掃除。煙突も定期的に掃除しないと煙突から火の子が飛んでアブナイ。
焚き付けはナタで薪を細かく割る、子供がナタ振ってやったな。好きだった。
氷冷蔵庫は冷却力が無いから、ほぼ毎日買い物に行くし、洗濯は洗濯板で大仕事。
今の主婦が「子供の世話も大変で・・」なんて言っているのを聞くと笑っちゃうよ。女性はマジ重労働だった。
プラスチックはベークライトレコード板程度で、プラスチック製の物は無い。すべてが木か金属製。
冬になれば火バチ一つしかないから、手も足も耳もしもやけ。はれてかゆくて、皮がむける頃に春がくる。
SDGSも結構だが、あんな時代に戻るのはお断り~だわい。
西東京市にレトロ生活をしている夫婦がいらっしゃいます。建物から氷冷蔵庫まで全てです。因みに"天日干し"は"てんぴぼし"と読みます。
氷はどこで買ってるのかな…
21:00の弁当箱、数年前も使ってたので今も現役ですw
【水道・電気・ガス】
水道高熱のインフラ整備は市部と郡部に大きな差がありました。
これらは電線や導管で供給元と消費者を結ぶ必要があり、市部の中心部から需要の在る郡部へとアメーバーのように伸びていったのです。
以下では、一昨年に古希を迎えた幼少期(1960年ころ)の水道電気ガスについて説明します。
私は五歳の頃に郡部から大阪市に隣接する造成地に引っ越しました。今では市部と言って良いでしょうが、当時は周囲に田畑が広がる郡部でした。
・水道
造成地には水道が供給されていましたが、未だ高価で安定していなかったのか数戸毎に井戸が掘られていて、日常的に使用されていました。
郡部の実家では井戸と水瓶を使用していました。
・電気
電気は供給されていましたが、配電盤には 15A のヒューズが取り付けられていて、炊飯器と電気炬燵などを同時に使用するとヒューズが切れ、交換してもらうまで電気を使用できませんでした。
我が家の場合は父が電気技師なので自分で交換していました。近所のヒューズ交換も引き受けていたようです。
・ガス
都市ガスが供給されていましたが台所の一口焜炉だけだったので、七輪などを併用していました。
郡部の実家は未だ竈を使用していました。
・氷冷蔵庫
小学生の中頃ですから 1960年代の前半まで我が家には氷冷蔵庫がありました。氷は定期的に毎夕リアカーで配達されていました。
・電化成品
東京オリンピックは自宅のテレビで見た記憶があるので、電気冷蔵庫も同じころの導入だったと思います。
電気掃除機は珍しく、買ったという人から貸してもらって掃除をした記憶があります。湿した新聞紙を撒かなくても埃が立ちませんでした。
ずっと気になってるんですけど、氷を入れる冷蔵庫の氷が解けた際に出る水はどうやって処理するんですか?
桶に氷を入れているのも見たことありますが、大体氷の塊をそのまま上段の棚に入れてますが、あれは排水溝みたいなものがあるんでしょうか?
冷蔵庫の下に水受けが有ったと思いますよ。
親の仕事で気にしたことなかったけれど。
期の枠の中はおがくずだ詰まっていた記憶。スイカなんかはバケツの水で冷やすだけで、あんな大きいものは冷蔵庫には入れないよ。
氷にかじりついたりしたような気が(子供には大きい氷。実際にはかじれないけどね)
「氷カキ」と言う、先のとんがったドライバーみたいなのが有ったな。ガシガシガシって氷を崩す。
便利な生活はプラスチック様々ですね
氷冷式冷藏庫は今でも作つています
平成初期もアルミのお弁当箱使ってました。ストーブで温めてた。
アルミではない、アルマイト
ミシュランに載ってる寿司屋さんが氷冷蔵庫を使ってました。
保管したネタの状態が全然違うらしいですよ。
最初の写真は、外国人向けのお土産用に撮影された葉書の写真ですよね。実際は、床でまな板を使ったりしないけど、ポーズや構図的には分かりやすい。しかし、現代は、この写真みたいに、
本当に床の上で料理してると勘違いしてる人が多いけど😂
まだ時々ガス炊飯器使ってますが
電気炊飯器に比べてガス炊飯器で炊いた飯は美味いですよね
子供の頃ですがガスの炊飯器を使ってご飯炊いてました
美味しいですよね
@@風谷月夜 電気ジャーより確実に美味いですよね
因みにうちのガス炊飯器は40年選手です笑
私は家にガスを通してないのでキャンプ道具と無水鍋でご飯を…
ガス炊飯器懐かしいです。
三菱の昭和30年製の扇風機のみで今年の夏を乗り越えました。
最近の家電と違い、故障知らずなのは心強いですね。
厳密にいえば、国産の電化炊飯器や冷蔵庫、洗濯機は戦前からありましたけどね(テレビ以外)。掃除機や扇風機も
システムキッチンの普及は昭和30年代ですが。「暮らしの手帳」の実験記事が詳しいです
1940年の「幻の東京オリンピック」の時、テレビは実用化寸前だった。
前回東京オリンピックの直前に大阪で新婚生活を始めたうちんちにはガス炊飯器とガス冷蔵庫がありました。
大阪ガスの本社ビルのレストラン行きたい。。。
たまにものすごく腰が曲がったお婆さんとか足が不自由な高齢者とか見かけるけど、若い頃のこういう無茶がたたった結果なのだろうか...と思ってしまった。
昔は昔の、今は今の苦労があるよね。
凄〜い!
いつ見ても良く調べてあるね!
いつも感心しながら見ていますよ!
ご飯の所に一つだけ追加なんだけど、1960年に炊き上がったご飯を保温する保温釜が発売されましたよ😊
まぁ、どうでもいいですけど
ちなみに私の生まれた家の隣には、空き家でしたが台所には土の竈門があり、お風呂は五右衛門風呂があって、庭には2羽のニワトリじゃなくて井戸があり、ちょい不気味な空き家がありました。
いつも思うけどオープニングかっこいい
中•高学校時代まで使っていたアルマイト弁当箱は、結婚数十年後の今でも"巌鶏(と家では呼んどりますが要するに"のし鶏"かも)"の型として現役で頑張ってくれています。
保育園にご飯だけ(主食)持っていくんだけど
保温庫で温められるようにアルミの弁当箱指定でした
母が子供の頃、土間の台所だった頃、外の井戸に水を汲みに行かなくても、家の中で水を引き上げるシステムがあり、😂洗い物はそんなに大変ではなかったと言っていました。どんな仕組みだったんだろう。。
アルミニウム弁当箱なつかぢい😂
アルマイト