平原遺跡

Поділитися
Вставка
  • Опубліковано 15 гру 2024

КОМЕНТАРІ • 14

  • @古屋公夫-s9s
    @古屋公夫-s9s 28 днів тому

    平原遺跡の古墳の被葬者は鵜草葺不合命の母親の豊玉姫命です。

  • @sunsun2181
    @sunsun2181 Рік тому +3

    この平原遺跡は、「原田大六はこの平原1号墓の主を玉依姫命とし、大日孁貴であるという説を提示している」とWikipediaにあるように、大日孁貴 = 天照大神の役割をしていた女王の墓とみられます。さらに、「1号墓から出土した大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)を、その文様と大きさから原田大六は「八咫鏡」と解し、伊勢神宮の八咫鏡も元々は同型の鏡であったのではないか、との説を提示している[3]。伊勢神宮の神家が著した神道五部書の一つ『御鎮座伝記』に「八咫鏡」の形は「八頭花崎八葉形也」とあり、この「八頭花崎八葉形也」の図象[注釈 2]を持つ考古遺物は現在のところ、この「大型内行花文鏡」のみである。」とあり、要するに皇室直系の、三種の神器が出ている墓です。
    天皇でさえ見たことのない、三種の神器があるのだから、もっと糸島市は宣伝して
    「この墓は、皇室の先祖の墓。天照大神の娘たちが眠る土地」とばんばん宣伝すればいいんです!! 博物館があるようですが、もっと予算を取ればいいんです。
    神武天皇陵のある奈良県並みのスーパー遺跡なんだから、日本人は修学旅行は絶対にここに来るようにっていうくらいでもいいんです。
    唯一無二なんだから、もっと自信をもって宣伝しまくればいい。
    邪馬台国が―とかいう、馬鹿の口を黙らせるくらいの、大発見、大発掘なんですから、がんばっていただきたい。ああ、もったいない。再評価が必要だし、もっと遺跡周辺を整備すべきです。1号墓だけでなく、他の墓ももっと宣伝したらいいんです。
    天皇陛下に、一度行幸してもらえばいいんです。もっとがんばってください。
    橿原考古学研究所とかに頼んで、皇室の先祖の墓をもっと、掘ってもらえばいいんです。畿内は予算があるのか、わりときれいに公園や資料館が整備されています。
    キトラ古墳などより、もっと価値があるですから、何度もいいますが、がんばってください。

  • @マキエフカ
    @マキエフカ Рік тому +1

    通常の舶載の内行花文鏡は概ね魏•西晋時代以降につくられてますから、通常より2倍の大きさであるこの大型鏡も恐らく魏•西晋以降の作と思われます(つまり大きい方が古いとは考え難い)。割竹形木棺にしても甕棺末期に筑後川系の棺が主流となるので弥生後期の比較的新しい時期と思われます(石棺より木棺の方が新しい傾向にある)。以上の2点だけ見ても平原王墓築造時期は従来の2世紀中説よりもっと後の世代で、3世紀前-中になるのではと考えます。

    • @katumoku10
      @katumoku10 7 місяців тому

      有難うございます。ほとんど同じ意見です。割竹形木棺は弥生墳丘墓から検出されることもあるようですが、この墳墓は木棺の底に辰砂を大量に敷き詰める様式ですので、大和盆地などの出現期古墳に見られるものです。しかも、玉類が数多くあり耳トウも出土しているので女性のものです。ですから247年ごろ死亡した卑弥呼の次の女王台与のものと推理できます。台与は266年に西晋に朝貢していますのでその後になります。この頃の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べると、環濠や溝から出土するものは敵方の矢の可能性が高く、戦いの痕跡と考えられます(詳細は「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。 blog.goo.ne.jp/katumoku10/e/b10e9e3b086acbfb734e7892c25e390e
      平原王墓の周溝からも鉄鏃が10個出土していますのでこの地で狗奴国勢に襲われて戦死した可能性があります。記紀では景行天皇の九州遠征の話の続きになります。そして棺の上に素環頭大刀が1本置かれているのは意味があると思います。恐らく女性の身で奮戦して戦死したので、鎮魂の意味で副えたものでしょう。つまり、応神天皇を産んだ女傑の神功皇后のモデルになった人物が女王台与だった分かります。
      応神天皇の父は記紀では仲哀天皇となっていますが、日本書紀の記録から父の日本武尊が薨去して38年後に生まれた計算になっていますので、杜撰な作り話です。古墳時代初頭の日本建国の戦いは、崇神天皇の四道将軍、景行天皇の九州遠征、日本武尊の東海遠征などのルート上で戦跡が見られましたので、崇神紀から応神即位までの約400年の話に引き延ばしたと分かりました。
      初代ヤマトの祭祀王応神天皇の本当の父は日本書紀で、神功皇后の傍らで常に皇后を助けた300歳の白髭・白髪の老人武内宿禰です。五代の天皇に仕えた人物とされていますが、本当は出雲・丹波に拠点を置いて日本海沿岸のムナカタ海人族を束ねた王久々遅彦高野御子(豊岡市久久神社祭神、狗奴国の官狗古智卑狗)です。纏向遺跡を王都とする狗奴国の勢力を除き、列島の主要部をほとんど支配下にしたので記紀で大国主命と呼ばれた人物なのです。大国主も高良山で戦死し、祇園山古墳に葬られたと推理しています。詳しくは【刮目天の古代史】目からウロコの大発見?をご参照ください(;^ω^) blog.goo.ne.jp/katumoku10/e/537a67c1dd757df37eed88ae9da06bf6

  • @mikihisadao
    @mikihisadao Рік тому +1

    東南陸行五百里到伊都國 東南至奴國百里 は、方角を誤認識していると言う人がいるんですが
    末盧国を唐津付近に比定するほうが無理がある。

  • @kogetennakanishibungu7020
    @kogetennakanishibungu7020 Рік тому +3

    方形周溝墓であろうと径百余歩で無かろうと、これこそが卑弥呼の墓じゃあないんですかね。

    • @kogetennakanishibungu7020
      @kogetennakanishibungu7020 Рік тому

      追伸。
      末盧国の港を呼子とすれば、東南陸行五百里到伊都國は記述通りである。

    • @sunsun2181
      @sunsun2181 Рік тому +1

      発掘をした原田先生が、「玉依姫の墓」といっていて、要するに天照大神の娘とか、孫娘の墓だって予想してます。
      なんで、女王の墓ぽいといったら、いつもいつも「邪馬台国がー」ばっかりなのか? 天照大神の墓のほうが格上だろうに。
      ちなみに、邪馬台国に、馬はいない。カササギがいない。→九州には馬もカササギもいたので、九州説はない。いいかげん、あきらめろっていいたいですね。
      邪馬台国の卑弥呼より、天照大神のほうが、人物としては格上じゃん。

    • @kogetennakanishibungu7020
      @kogetennakanishibungu7020 Рік тому

      @@sunsun2181 さん
      なんでも「邪馬台国 卑弥呼」とは思っていません。
      卑弥呼が格上とも思いません。何故なら、
      生口を魏に送るなど、皇族の祖先にあるまじき行いだからです。
      三種の神器については解釈していませんが、魏志倭人伝を素直に読む限り、
      「伊都国が邪馬台国の首都で最終到着地」に間違いはありません。
      馬やカササギでは論拠に乏しい。魏志倭人伝や記紀を完全に無視する畿内説はない。
      いいかげん、あきらめろっていいたいですね。

    • @katumoku10
      @katumoku10 7 місяців тому

      @@sunsun2181 さん 記紀神話は江戸時代にできたってことご存じですか?
      古事記は9世紀の学者多人長が突然表に出してきたものですが、正史に古事記の記録が全くないし、日本書紀で参照した痕跡もないので、人長の創作なのです。
      日本書紀は天武天皇崩御の34年後に藤原不比等によって完成されています。不比等は天武天皇の妃鵜野讃良(持統天皇とされていますが、即位していなかったと分かりました)と組んで優秀な皇子たちを排除して鵜野の孫珂瑠を即位させ、不比等の娘宮子を妃とし、外戚となって実権を握ったのです。ですから、権力の正統性を言うために、日本建国の史実を神話に閉じ込め、藤原の祖神を活躍させ、史実を相当濊供していたことが物証で明確になりました。
      古事記は日本書紀で隠された史実を、藤原氏に悟られぬようにして暴露する暗号書だったのです。ほとんどの古史古伝も同様な趣旨です。江戸時代の国学者本居宣長が古事記を発掘し、絶賛したので、その影響を受けた神道家平田種圧が復古神道を造ったのです。幕末の志士に人気になり、明治になった記紀神話に基づく国家神道が創設され、学校で国史を教えたので日本国民に天皇の歴史書として定着したのです。戦後は教えられなくなりましたが、何となく天皇の歴史だと洗脳されていますが、本当は勝者藤原氏の歴史書だったのです。それに気づくと、不比等の意図を読み歴史を推理できます。詳しくは【刮目天の古代史】目からウロコの大発見?をご参照ください(;^ω^) blog.goo.ne.jp/katumoku10/e/537a67c1dd757df37eed88ae9da06bf6
      平原王墓は卑弥呼の宗女台与のものと推理しています。
      卑弥呼の墓は宇佐市安心院町三柱山古墳ですよ(^_-)-☆
      詳細は「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」参照!
      blog.goo.ne.jp/katumoku10/e/74f785bb3cd854bd03b8ab8031ab7dc6