【衝撃】ナチスの後にできた国、東ドイツの生活

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КОМЕНТАРІ • 557

  • @MJ-wz4nq
    @MJ-wz4nq Рік тому +390

    1984年の夏に東ドイツを訪れました。まず西から東に入る時のパスポートチェックだけにも、国境警備の軍人に銃を向けられながらだったり、街中も出歩いている人は少なく、スーパーは同じ建物内でありながら外国人用と地元民用で分かれていた出入り口も違いました。外国人用は、かろうじて少し品物がありましたが、地元民用の棚はスカスカでしたよ。
    車もどこかの国のお下がりの、オンボロ車しか走っていませんでした。とにかく空気が重く暗い!
    西ドイツ側に戻った時、川沿いで綺麗にお墓を飾っている覆面を被った男性を見かけました。
    その人は恋人と川を渡って亡命しようとしたけれど、彼女だけ撃ち殺されてしまったのだそうです。男性は無事に逃げ切れたけれど、それ以来毎日お墓にやって来て綺麗に掃除し飾っているのだとか。当時、西側では有名になった男性だそうです。写真があるのでシェアしたいのですが、やり方が分からないので、すみません。

    • @erikasono565
      @erikasono565 Рік тому +70

      私は86年に西ドイツに来て、86年夏と秋、88年秋、89年夏と、何回かに分けて、計1か月近く東独に滞在して各地を訪れています。
      店でも、レストランでも、地元の人と一緒に普通に買い物をしたり、食事をしたりしていましたけれど?
      ライプツィヒのゲーテがファウストの構想を得たという有名なレストランから、駅構内の労働者にソーセージとポテトを提供しているような安食堂まで、新鮮な野菜果物に乏しいことを除けば、別に普通に地元のドイツ人たちと一緒に食事をしていました。
      店に商品がなかったという記憶もありません。
      -
      88年秋にモスクワを訪れた際には、市内の食料品店に何も品物がなくて、道に皆が行列を作っていたので、一緒に並んで、民家の窓を開けてドーナツを売ったり、道端で農家のおばあさんらしき人がプラムを売ったりしているのを買って空腹を凌ぎましたけれど。
      もちろん、外国人用の外貨払いのレストランに入れば、高いけれど食事にはありつけたのでしょうが、そういう外貨稼ぎに乗せられるのは癪だったので、何が何でも地元の人と同じことをしてやろうとしたら、そういう結果になりました。
      -
      87年夏にブダペストの友人宅を訪ねた際にも、市内を案内してもらったのですが、物資は豊かで、困っているようには見えませんでした。
      89年夏というと、その2か月半後にはベルリンの壁が崩壊して東独は解体されてしまう時期。
      その時点で、ベルリンの壁が崩壊することを予測できた人は少なかったでしょうが、ヨーロッパ・ピクニックなどもあったし、ライプツィヒは86年夏に私が訪れた時とは見違えるように目抜き通りがきれいになって活気があった。
      ですから、89年11月のベルリンの壁崩壊は、唐突に起きたことではなく、それ以前から、年々、少しずつ状況が変わりつつあったように思います。

    • @NeferBastet0601
      @NeferBastet0601 Рік тому +4

      😢

    • @suenpeier1097
      @suenpeier1097 Рік тому +28

      多分その車は国産ですね
      国家がモデルチェンジの必要なしと判断して30年ほぼそのままでした

    • @popjyokohama7001
      @popjyokohama7001 Рік тому +17

      トラバントかな?

    • @user-gf5fi6yp5n
      @user-gf5fi6yp5n Рік тому +6

      ​@@popjyokohama7001さん、トラバントか、ウォルトブルグしかないですよね

  • @user-vc2ij6bp8x
    @user-vc2ij6bp8x Рік тому +674

    日本は敗戦後、分断されなくて本当に良かった。

    • @user-ey8uu5gv8p
      @user-ey8uu5gv8p Рік тому +87

      その時の政治家が頑張ってくれたんですね。

    • @kaima424
      @kaima424 Рік тому +116

      軍人もねソ連との北海道、本土決戦敗北してたら分裂とかなってたかも。

    • @makhir1285
      @makhir1285 Рік тому +20

      ありがとう。朝鮮半島、ベトナム。

    • @user-vb1un2uo9s
      @user-vb1un2uo9s Рік тому +40

      @@user-ey8uu5gv8p GHQが守ってくれ、朝鮮戦争があったからですよ。

    • @user-nanaharunao
      @user-nanaharunao Рік тому +85

      第二次世界大戦後、ソ連が北海道、東北を占領したいと言ったがアメリカが反対した。ほんと分断されていたら…想像しただけで恐ろしい。

  • @MrNapajevol
    @MrNapajevol Рік тому +61

    知り合いの女性で当時小学生で西ベルリンに住んでいた人がいます。
    門が開かれた時、先生が授業をやめて生徒を連れてみんなで壁を見に行ったそうです。
    あとで家に帰ったら、母親に「あんた!授業サボって壁見に行ってたでしょ!」と怒られたとか。
    壁の上に乗って大喜びしてる姿がニュースに大写しになってたらしいです。笑

  • @chichichi02231
    @chichichi02231 Рік тому +30

    夫が旧東ドイツ出身です。義母はよくあの頃はよかった、と言います。場所と年代にもよるのかな。確かにメルケルさんが言うように、すぐに買い込むくせがある気がします😅車も手に入るまで10年以上はかかったみたいです。

  • @jurimoon
    @jurimoon Рік тому +57

    私が子供の頃、ヨーロッパの社会主義国の選手は五輪などで圧倒的な強さを誇っていました。でもみんな表情が暗くて社会主義は怖い国だと思っていたんですが、誰にも心を許せない体制がそうさせたんでしょうね。まりんぬさん、今回もたくさん学びました。ありがとうございます。

    • @user-qe9qp9lz4s
      @user-qe9qp9lz4s Рік тому

      五輪の女子選手は、気の毒に男性ホルモンを投与してましたからね。凄い時代でした。

  • @user-ro9jy3sf6h
    @user-ro9jy3sf6h Рік тому +26

    行きましたよ、東ベルリン。1987年のことでした。仕事でパリに行った帰りに、ミュンヘンと西ベルリンに仕事と観光を兼ねて行ったんですが、その時、いい機会だと思って西ベルリンから観光バスに乗って東ベルリン観光に行きました。検問所を通過するまでに2時間くらいはかかったと思います。軍服を着た東ベルリンの係官がバスに乗り込んで来て、一人一人念入りにパスポートの写真と本人の顔をじっくりと見比べていました。東ベルリンの表通りはかなりの賑わいでしたが、たいていの自動車は例の「トラバント」というプラスチック製の小型車で、あとは兵士をいっぱい荷台に積んだトラックがやたら多く通っていた記憶があります。その兵士たちは皆、我々のピカピカの2階建の観光バスを羨ましそうに見つめていたのがとても印象的でした。東ベルリンの物は車も道路も人も建物も皆、黒ずんだ灰色をしてましたからね。バス観光の途中の休憩で古風な喫茶店のような店に寄った時に私はコーラを注文して飲みましたが、少し炭酸が入った砂糖水といった感じのあまり美味しくない飲み物でしたね。東ベルリンでのことではないですが、当時ブランデンブルグ門の西側(つまり西ベルリン側)にもソ連の管轄していた小さな土地があり、いろんな物に見とれていた私はどうやらそこに入り込んでしまったようです。警備のソ連兵士が何やら大声で怒鳴っているので、いったい何だろうな?と思っていたんですが、実は怒鳴られているのが私自身で、おまけに真っ直ぐに小銃を向けられているのだとはしばらく気が付かず、あの時は本当に冷や汗ものでした。

    • @ay3831
      @ay3831 Рік тому +1

      良い経験をしましたね!
      西側の人間でも観光目的なら入国できたんですね、80年代後期ならわりかし入国制限の緩和もされてたのでしょうか...

    • @erikasono565
      @erikasono565 Рік тому +6

      @@ay3831
      観光目的でなくても、留学や研修目的でも、買い物目的でも、普通に入国できましたよ。
      日本人は観光バスやツァーなどの団体で東独に入る人が多く、私がポツダムやサンスーシ宮殿を一人で観光していたら、日本人団体客が、「こっちじゃないよ」(あなたは他のグループの人でしょう? という意味)というので、「私は一人で来ているので」と言ったら、「えっ、一人で来ているの?」とびっくりされたことも。
      でも私は、東ベルリンの図書館に資料研究に行き、ついでに書店で専門書を買ったり、ヴァイマールで開催されたドイツ文学ゼミに参加し、その合間に一人で東独各地を小旅行したり、西側諸国同様に自由に動き回っていましたけれど?
      -
      違うのは、当時、東独を含む東欧諸国に一人で入国する際には、1日当たり東独なら25マルクなど、強制両替があったこと。
      でも、ウィーンからベルリンに行くのにチェコを汽車で通過した時には、通貨ヴィザを取得しただけで、チェコ国内で下車しなければ強制両替は免除。
      また、87年夏にウィーンからブダペストの友人宅をバスで訪ねた時にも、強制両替はありませんでした。
      ****
      面倒だったのは、西ドイツ国民なら東独や他の東欧諸国にもヴィザなしで入れるのに、日本人の私は、逐一、東独以外の東欧諸国に入るには、ヴィザが必要だったこと。
      そのために、西ドイツの大学の普通のドイツ人学生用のゼミでポーランド・クラクフに行って戦時中に疎開のために預けられたバッハ、モーツァルトなどの大作曲家の自筆譜を見る旅行企画があった際、他のドイツ人学生はヴィザなしでポーランドに入国できるのに、日本人の私は在西ドイツポーランド大使館に出向いてヴィザを獲得しなければならず、南ドイツの本拠地から、当時はベルリンではなくてボンかな? 在西ドイツポーランド大使館にヴィザを発行してもらいに行く時間と費用が大変で遂に断念したことも。
      逆に、ポーランドから西ドイツの大学に留学していた友人が、西ドイツの大学が外国人留学生のために企画した現代ドイツ紙を学ぶゼミの使用旅行で、フランス領のシュトラスブールには、ドイツ人、アメリカ人、それに日本人などはヴィザなしで入ることができるのに、ポーランド人の彼女はヴィザがないとは入れずに、結局、バーデン・バーデンで皆がシュトラスブールから帰ってくるのを待たなければならなかったこともありました。
      一昨年秋にワルシャワで開催されたショパン国際ピアノコンクールに出場した日本人ピアニストの多くは、モスクワ音楽院やワルシャワ音楽院に留学したり、研修を受けたりした経験があり、日本から現地に聴きに行った人もたくさんいたようですが、そうしたことも、ソ連東欧体制下では難しかったということですね。
      -
      尤も、日本のパスポートを持っていれば、観光ヴィザは免除になる国が多いとはいえ、今でもヴィザが必要な国もありますよね。
      2018年夏に、アゼルバイジャン・シェキで開催されたユネスコ共催の国際シンポジウムに私が、発表予定日の10日前になって、病欠した日本人研究者の代わりに急遽研究発表参加を要請された際には、出発までの1週間ほどの間に、英語・ロシア語併記のパワーポイントプレゼンテーションと発表原稿を仕上げながら、フライトの予約やヴィザも取らなければならずに大変でした。
      アゼルバイジャンは親日国で、日本人はヴィザは必要ないとか、乗り換えのイスタンブール空港で取得できるとか、そもそも国際シンポジウムに招待されているのなら、主催者側からの参加証明があればヴィザは必要ないとか、様々な情報が入り乱れる中で、そんなことを言ってもバクー空港まで行けば主催者が迎えの車で来てくれているはずでも、イスタンブール空港で足止めされたら元も子もないというので、ネット経由、クレジットカード払いで1万円くらい払ってヴィザを事前に獲得してから行くことに。
      -
      現代は、政治情勢の関係でヴィザが必要でも、多くの場合にはネット経由、クレジットカード決済でヴィザ発行ができることが多いから楽になったのですが、80年代当時はネットで発行してもらうのではなく、ヴィザは相手国の大使館に、申請と受け取りの2回行かなければならなかった。
      ウィーン滞在中にチェコ経由でベルリンに抜けたり、ブダペストの友人を訪ねにバスで言ったりする際には、チェコやハンガリーのヴィザが必要で、申請してから3日後くらいに受け取りに言って料金を払って受け取ることが必要でも、まだ何とか対処できました。
      でも、ウィーンのような大都市に住んでいるわけでもない南ドイツの本拠地からでは、当時はヴィザを獲るのは容易ではありませんでした。
      尤も当時は、EU域内でも、国境でパスポート検査があり、観光ではなく語学研修などの際には、フランスやイタリアの2か月くらいの滞在でもヴィザが必要だったし、オーストリアに資料研究滞在するのにもヴィザが必要でした。
      今でも面倒なことは多いですが、当時は本当に逐一、ヴィザの獲得や強制両替を請求されて大変でしたよね。

  • @user-nl6lo7ud1x
    @user-nl6lo7ud1x Рік тому +71

    13:22
    中学生位の頃、まさにこれ。
    自分が生きている間に東西ドイツが統一するなんて思えなくて、ずっとこの壁が存在するだろうと思ってました。
    何が起きたのか、分からなかったけど、ニュースで壁が崩壊していくのを見たときは歴史の一ページに立ち会った気分で興奮したのを覚えています。
    あの、大どんでん返しのような出来事が突然起こったという事実。
    同じように、
    未だに国民を抑圧的政治で支配している国が、民主的で、自由で開かれた国になるように…と願ってしまいます。

    • @mmhashi6930
      @mmhashi6930 Рік тому +11

      そうですかあ、私はある日を境にソビエト連邦がなくなったことの方が衝撃的でしたね。

  • @user-ey8uu5gv8p
    @user-ey8uu5gv8p Рік тому +59

    私の両親の子供の頃も、バナナは高級品で金持ちか病気で余命幾ばくもない人しか食べれなかったそうです。
    だから入院の見舞いにバナナが出されると、自分がもう直ぐ死ぬと悟って泣き出す病気もいたとか。

  • @user-zg7jp6ek8o
    @user-zg7jp6ek8o Рік тому +169

    わたしは学生時代、歴史が苦手な科目でした。
    まりんぬさんの動画はどれもとても興味深く、本当に面白いです!!
    こんなに完成度の高い動画をタダで観られる今の時代とまりんぬさんに感謝です…!
    ありがとうございます😆

  • @TheMamire
    @TheMamire Рік тому +22

    「ゲートを開けろ」という言葉に鳥肌が立ちました。
    当時は子供だったのでベルリンの壁や壁の崩壊についてよくわかっていませんでしたが、本当に歴史が大きく動いた時だったのだなぁと感じました。

  • @sjm125
    @sjm125 Рік тому +101

    ゲートを開けろというセリフですごく鳥肌立ちました🥹 こういう政治・社会的歴史取り上げてくれるの本当に嬉しいです😊 毎回楽しみにしてます😌

  • @user-fq5sm3ye1u
    @user-fq5sm3ye1u Рік тому +53

    東西で融和ムードが醸成されつつあった頃とは言え、報道を聞いて押し寄せた東ドイツの群衆に対して戦車や機関銃で応戦することがなくて本当によかった。

  • @abenopool1
    @abenopool1 Рік тому +8

    6:03
    ソ連国家保安委員会(秘密警察)はKGBですね。
    ロシア語: Комите́т госуда́рственной безопа́сности СССР
    略すと、КГБ(カーゲーベー)はアルファベットのKGB(ケージービー)です。

  • @user-ty9ey1rs7u
    @user-ty9ey1rs7u Рік тому +42

    そういえば叔母が亡くなって、遺品整理してた時に出てきた花瓶や皿類がマイセン(東ドイツ製)って書いてあった時は、これが歴史に触れるって事なんだなって感じた。

  • @pp1631
    @pp1631 Рік тому +21

    小1で親に世界地図が欲しいと懇願して買ってもらった その地図には確かに東ドイツ、西ドイツが実在してましたね。
    ソ連もあったしミャンマーもビルマやった時代でしたなぁ。

  • @user-hl7fk6fl1p
    @user-hl7fk6fl1p Рік тому +33

    とても興味深い内容でした!西側諸国が絶対良いとは思えませんが、やはり東側のやってきたことも恐ろしい。。いずれにしても政府が国民を監視して支配するというのは息苦しくて嫌だなと感じます。

  • @miazena8378
    @miazena8378 Рік тому +12

    6:05 KBGではなくてKGBなのでは?

    • @user-uf9pr8wq5k
      @user-uf9pr8wq5k 2 місяці тому +2

      若い娘だからね。多少の間違いはしょうがないて(笑)

  • @user-tm3ts2uo6k
    @user-tm3ts2uo6k Рік тому +31

    冷戦や、ドイツが分断されてたことは知っていたけど実際どんな生活をしていたのかしらなかったのでめっちゃ勉強になった。

  • @vvxx3358
    @vvxx3358 Рік тому +9

    誰もが知っているベルリンの壁と東西ドイツの話なのに、独自の視点とトリビア、おちついたミステリアスな語り口調でぐいぐい引き込まれました。すごい。

  • @kiyotoryomasaki
    @kiyotoryomasaki Рік тому +6

    私の知人の同僚には東ドイツに住んでた日本人がいました。彼曰く、彼も隣人から監視を受けてたと統一後に告白され腰を抜かすほど驚いたそうです。普通の市民で仲良くしてたドイツ人だったそうですよ
    いわゆる安保世代、共産主義に憧れ人生を東ドイツに捧げた日本人なのにです…
    東西ドイツ壁崩壊時に西ドイツに住んでましたが大騒ぎでした
    ベルリン西側のスーパーマーケットに東側のドイツ人が押し寄せ生鮮食料品が品不足になりました…生活格差があまりにも違いすぎて唖然とします
    東ドイツ経済を支えるために増税されたり西ドイツの人々は嬉しさ半分、苦しさ半分で微妙でしたね
    東ドイツ側の自動車トラバントは速度が遅いためアウトバーン(ドイツが誇る高速道路)の乗り入れ禁止でした😂
    同じ国民でも考え方が自由民主主義と社会主義の国ではまったく異なるので結構摩擦が大変でしたね…話すとキリが有りません😂

  • @tomo8855
    @tomo8855 Рік тому +41

    ベルリンの壁が壊される映像は何度となくテレビで見ていますが、実際どんなことがあったのか細かく知ることはなかったので、とっても興味深かったです!歴史的な出来事なので昔のことかと思いがちですが、30年…壁崩壊は平成に入ってからの出来事なんですね…。
    それにしても政府がやる嫌がらせが陰湿すぎますね😅

  • @mary9210
    @mary9210 Рік тому +45

    ベルリンの壁、遠い昔のことかと思ったら自分が小学生の時の話で驚きました。世界史が苦手だったけどまりんぬさんの動画は分かりやすくて面白いです。崩壊の瞬間はこんなにドラマチックだったんですね

  • @user-td1gi4hz8t
    @user-td1gi4hz8t Рік тому +15

    ベルリンの壁崩壊は、何となく覚えていましたが、政治的な事はすっぽり忘れてます。今は一つになっているドイツ、東ドイツの事を調べてみようと思えた動画でした😊

  • @ipkko-Japan
    @ipkko-Japan Рік тому +31

    壁が崩壊したとき、僕は高校生でしたが東西冷戦の終結に立ち会えたことが何より嬉しかったです。ゴルバチョフはロシアで冷遇されましたが、西側のひとりとして偉大な大統領だったといまでもおもってます。

  • @user-ok4gn1bk4m
    @user-ok4gn1bk4m Рік тому +10

    監視する町といえば、うちの近所もそうです。町のリーダーに目をつけられたら町内会を通して、あの一家は危ないと各家庭に噂話ならぬ連絡網を回され見かけたら防犯係に通報を入れる意地悪老人もいる。裏でこそこそ村八分化があるんです。目立った嫌がらせはないのですが
    裏での陰口、プリントを配らない 、回覧板飛ばし、不法投棄、集団で防犯パトロールが付け回すなどの嫌がらせがあります。ついに近くの店にまで連絡網がまわってきてターゲットの被害者が警察に通報。毎日毎日警察が見回っています。こうして村八分ができてく様子がわかる一件でした。みなさんも近所の嫌がらせストーカーはすぐ警察に

  • @user-pu4lz4ho3x
    @user-pu4lz4ho3x Рік тому +19

    今はない国、ユーゴスラビアとかもそうですよね。
    ドイツが1つになった後、ベルリンが発展し、一方で西ドイツの首都だったボンの存在感が薄くなったように感じますが、実際、現地ではどうなのでしょうか?
    今のボンについて、面白い話題があったら、教えて欲しいです。

    • @user-gf5fi6yp5n
      @user-gf5fi6yp5n Рік тому

      ユーゴスラビアは元々平和でよい国でしたがチトーが亡くなってミシェロビッチのアホがチトーが作ったユーゴスラビアを壊しやがったからですね

    • @yukirosello8467
      @yukirosello8467 Рік тому +7

      ユーゴスラビアはいくつかの国に分断されたけれど綺麗な国だったな、当時は。硝子器が有名で、本物かどうか見定めるのに人差し指を切り口に走らせて、指が切れるかどうか試すのは祖父が教えてくれた。
      ボンはずっと経済の中心だったが、今はパッとしないね。音楽やモードなど中心はベルリンに行ったよ。

  • @tkk1457
    @tkk1457 Рік тому +13

    私がドイツに住み始めたのは1991年で既に東西ドイツ統一後。東西のハネムーンは終わり現実が見えて西と東がお互いを非難し始めた頃でした。資本主義民主主義はバラ色ではなく逆に旧東ドイツを懐かしむ声も出たり。西ドイツ人は新しい税金、(東ドイツへの)連帯税にブーブー。東=オストとノスタルジーを合わせてオスタルギーなんて単語もできたくらいです。
    私の住むヘッセン州東部=旧西ドイツは旧東のチューリンゲン州と境界で昔はまさに東西の国境でした。ベルリンの壁ならぬ有刺鉄線があり、ポイントに米軍とソ連軍が駐留してました。戦争が起こるとしたら旧東に出島のようにあるベルリンではなく、こうした東西の国境だったのです。東西統一しても数年は、こちらには米軍基地が2つあり、あちらには旧ソ連▶ロシア兵がおりました。チューリンゲンにドライブしてロシア兵を見た時は映画のロケみたいな感じがしました。
    旧東の方と交流する機会がよくあったけど、さすがに秘密警察のことはタブーでしたね。だって皆さん大なり小なり関係してたわけで。特に東ドイツ時代出世してた人は。

    • @user-fq5sm3ye1u
      @user-fq5sm3ye1u Рік тому +4

      やっぱり統一となると自由で平和的なイメージの一方で、埋まらない経済格差や暗い過去との向き合い方に苦労する面も多いのですね。
      仮に朝鮮半島の統一も本当のこととなったら、ドイツ以上の大混乱は必至ですね。

    • @tkk1457
      @tkk1457 Рік тому +6

      @@user-fq5sm3ye1uさん 統一後30年以上経って統一ドイツしか知らない世代も増えてきたし、現在旧東ドイツは過去という感じです。
      東西冷戦時代、旧東ドイツは共産圏の優等生で経済的にも他の共産圏の国々より安定してました。北朝鮮は経済がボロボロですし異常な独裁国家なので、ドイツの数倍大変と思います。

    • @erikasono565
      @erikasono565 Рік тому +6

      @@tkk1457
      今でも東西ドイツには経済格差がある。
      その要因の一つは、今でも東独地域ではロシア語が通じることが多く、シェンゲン協定域内に組み込まれた東欧圏からの出稼ぎ労働者が入りやすいということがあるのではないかと私は感じている。
      その意味では、東独はまだ過去ではない。
      もっとも最近は、私の住む西ドイツ地域の村でも、ロシア語を聴く機会が増えてきたけれど。
      西ドイツ地域では、ギムナジウムでロシア語は習わないし、よほど大学でスラヴ語を専攻しない限り、普通のドイツ人がロシア語をマスターするのはかなり難しいと思うのだが。
      -
      ちなみに私は、独仏伊は現地の基幹となる語学学校で外国人留学生が現地の大学に入学する際に課される試験レヴェルまでは学んでいるが、スペイン語はドイツ人向けのCD付き教材での独学。
      ロシア語でも同様のドイツ次向けのいい教材を探したのだから見つからなくて、NHKラジオロシア語講座で独学した経緯がある。
      -
      ドイツの普通のギムナジウムでは、英語、フランス語、ラテン語を履修することが多く、フランス語の代わりに古典ギリシャ語、ラテン語の代わりにスペイン語という選択はあっても、ロシア語を選択できることは少なく、手ランスやスペインとの間にあるような交換留学制度もロシアとの間にはない。
      旧東独の学校では、当然ロシア語は習っていたわけで、今でも住民の感覚には大きな差がある。

    • @tkk1457
      @tkk1457 Рік тому

      @@erikasono565 さん、ご意見ありがとうございます。親世代が鬼籍に入り最近若い世代と接することも多くなりました。ドイツ自体がシリアからの難民危機、現在はウクライナとロシアの戦争とドイツ社会の現在のテーマで移民がフォーカスされることが多く、そんな意味で旧東ドイツが過去になりつつあると感じました。もちろんDDR時代に教育を受けた世代が亡くならないと完全に過去にはならないと思います。

    • @erikasono565
      @erikasono565 Рік тому +4

      @@tkk1457
      私も父は亡くなっていますし、私自身昭和世代です。ドイツに来たのは86年で、今37年目です。
      ですが、移民に関しても、ミュンヘンでシリア難民を大量に受け入れている反面、旧東独でネオナチ右翼政党が台頭していたりと、東西ドイツの意識にはかなり開きがあるように感じています。
      また最近、UA-camで、日本での仕事で知り合ったウズベキスタン人女性とドイツ人男性が結婚してミュンヘンに住んで出している動画で、二人がロシア語で会話をしているのを見て、改めて衝撃を受けました。
      -
      そのドイツ人男性は旧東独出身。まだ30代で、教育を受けたのはおそらく東西ドイツ再統合後のはずです。ウズベキスタン人女性も30代で、教育を受けたのはソ連が崩壊し、ウズベキスタンが独立した後のはずです。
      そういう世代でも、旧東独地域出身の人には、まだロシア語を話せる人が多いということです。
      私が住んでいるのが西ドイツ地域なので、旧東独地域で今、どのくらいロシア語教育が行われているのか分かりません。
      でも、親世代がロシア語を話せて、ロシア語が公用語だった旧ソ連諸国やソ連傘下の東欧諸国からの移民も多く、ロシア語が通じる環境が旧東独地域にまだ残っているとしたら、今のウクライナ紛争ではありませんが、旧ソ連とソ連傘下の東欧諸国をめぐる攻防は、まだまだ続きそうな気がします。

  • @nihongodebate
    @nihongodebate Рік тому +24

    88年の冬、
    イギリス留学中に西ドイツ側からベルリンの壁を見に行きました。
    1年後、テレビでベルリンの壁崩壊のニュースを見たときの驚きは今でも覚えています。

  • @user-wl9eo3qg2e
    @user-wl9eo3qg2e Рік тому +2

    1989年11月。新婚旅行から帰って来た時に、ニュース速報を見てビックリしました。ベルリンの壁が未だにあった事、その壁が壊されている映像、大勢の人たちが壁の上で叫んでいる姿。のほほんと新婚旅行をしていたんだなぁ、戦争はまだ終わっていなかったんだなぁ〜と、複雑な気持ちになりました。世界中から戦争や、差別、壁が無くなる事を祈ります。

    • @user-rh3ng3dg6x
      @user-rh3ng3dg6x 4 місяці тому

      同じく両親と西ドイツ観光から帰国してすぐに壁が壊されるニュースでビックリしました。

  • @user-jf2cu5du8j
    @user-jf2cu5du8j Рік тому +27

    壁とイェーガー...なんか聞いた事あるぞ

  • @nametogi
    @nametogi Рік тому +16

    「暗い、冷たい、こわい」という印象の東ドイツですが、じっさいには、体制に順応できれば(不満はあっても我慢できれば)、穏やかでのんきな暮らしができました。
    格安の衣食住、仕事、無料の医療が保証されていました。企業間の競争がないので、仕事は基本的に楽です。
    出世欲がつよければ別ですが、特権階級入りするくらい出世しない限り、生活水準はそれほど変わりません。医師になっても収入は工場労働者と似たようなものです。
    食品については、肉、野菜、果物など生鮮食品の品ぞろえは乏しいものの、パンやケーキ、クッキーなどの甘い系のお菓子はふんだんにありました(少なくとも私が暮らしていた1984-86の頃は)。
    少し高級な食品店もあって、ソ連製のカニ缶やグルメっぽいものも東の通貨で購入できました。
    衣類や靴も、西へ輸出用に生産してるデザインのいいものが、少し高いですが東のマルクで買えました。
    インターショップは西の親戚から贈られた西マルクまたは金券でしか買えないので、西への憧れをかきたてる装置になってました。ドレスデンあたりをのぞくと、西のテレビ放送が見られるので、東の市民は西のことをよく知ってました。
    シュタージについては、電話の盗聴、郵便物の検閲、密告が行われているのは知っていました。とはいえ密告者(IM)があんなにたくさんいたというのを、一般の東の市民が知ったのは、統一後です。統一前はそこまで警戒していませんでした。
    また、ホーネッカーの悪口をつい言ってしまって密告されたとしても、逮捕されることはまずありません。進学や就職、昇進に不利に働いたりはしますが。じっさいに反政府活動に加われば、話は別です。
    統一後シュタージ刑務所を見学したことがありますが、いわゆる拷問が行われていたのは1960年代なかばまでのようです。
    長くなり過ぎたのでこれくらいで。

    • @user-gf5en6hr6t
      @user-gf5en6hr6t Рік тому +3

      ものすごく勉強になります。伝えてくれてありがとうございます!

    • @nametogi
      @nametogi Рік тому +3

      うれしいお言葉ありがとうございます。東ドイツで働き始める前、4年間西ドイツで暮らしてました。東西ドイツの人々の気質の違いなどがけっこう興味深かったです。

  • @ghostterran5302
    @ghostterran5302 Рік тому +15

    いつもありがとうございます。
    東ドイツ派遣時代のプーチンと、当時東ドイツにいたメルケルが付き合っていたという都市伝説が好きですw

  • @lalalalisa2721
    @lalalalisa2721 Рік тому +71

    消えた国シリーズ好きです!!
    学校の授業ではサラッと終わるので詳しく知れて嬉しいです^^

  • @kame7596
    @kame7596 Рік тому +12

    父が出張で東ドイツにいきました。西ドイツからはいったそうですが
    調子乗りの関西人なもんで西ドイツ在住の同僚からは「変な行動だけはするな。帰って来れなくなるぞ」と何度も釘を刺されたそうです🤣
    あとうる覚えですが向こうでドルからマルク?(だったかな)に変えて多少ショッピングしたけど東ドイツでしか使えないからと西ドイツに戻るゲートで募金箱みたいな箱に入れてきたといってました。
    インターショップは聞いてなかった…今度しっかり聞いてみます。
    話が長くなってすみません。
    グッバイレーニンという映画が面白かったですね。昏睡状態の母親が目を覚ましたらドイツ併合されててショックを受けたら可哀想だと息子が必死で東ドイツを装うお話。
    あれはライトに東ドイツが知れて良かったです。
    バルーン奇跡の脱出飛行は緊迫感強過ぎて観ながら心臓が痛かったです。

  • @nackeyt3068
    @nackeyt3068 Рік тому +12

    東側の優等生であった東独でさえ、未だに西独との経済格差を是正しきれてないと聞くが、北朝鮮なんかもうどうしようもないだろうな。

    • @erikasono565
      @erikasono565 Рік тому +6

      東西ドイツの格差が今でも激しい分、日本がやたらとロシアの天然ガスが入らなくなってドイツは大変だろうなどというのも、恐らくは東独地域限定の話だと思いますよ。
      -
      私が住んでいるのは西ドイツ地域ですが、ロシアの天然ガスの影響はありません。
      そもそもドイツでは、都市ガスが発達していず、レンジもオーブンも電気です。最近、私のアパートも石油セントラルヒーティングから太陽光パネルに切り替えたので、ほぼオール電化住宅ですね。
      それで居住面積72㎡のアパートの電気代が月額95ユーロ。3割がた上がりましたが、ガス代、石油代はゼロです。
      -
      また、私の住む地域を含め、旧西ドイツ地域の多くでは、発電は100%再生可能な自然エネルギー(太陽光、風力、水力)であり、火力発電や原発は使用していません。
      更に、エネルギーは地産地消で、民家の屋根に太陽光パネル設置をするのに補助金が出て、余剰電力は州政府が買い上げていますから、フランスの原発電力を買っているというのも嘘です。
      -
      また、ドイツは食料自給率8割超で、小麦も国産。ロシアやウクライナその他から輸入しているわけではありません。
      主食の小麦等の穀類、ジャガイモ、野菜果物、肉類、乳製品などは、ほとんど国産。輸入されているのは、南国の果物や、北海・東海では獲れない魚介類、外国の調味料など、なくてもよい物ばかりです。
      *****
      ついでながら、ドイツのスマホ通信料は、ドイツ・EUの通話・SMSフラット料金で月額10ユーロが相場。
      ドイツでは月額6000円超で日本より高いという報道は嘘です。
      -
      また、ドイツの公的健康保険組合員は、窓口負担ゼロ、薬も1品5ユーロの処方箋代のみ、24時間看護の入院費も1日当たり18ユーロを最長年に14日分まで。これら自己負担も、収入の2%(持病がある場合には1%)が上限で、廃止されるかもしれないと言われている日本の高額療養費より遥かに負担が軽い。
      しかも税金の投入は一切ない独立採算制で、介護保険料込みの健康保険料は、収入の役14%を労使折半と、日本とさして変わりません。
      日本は、総合感冒薬、腹痛薬、下痢止め、ビタミン剤など、効能よりもむしろ副作用の方が強い薬を気休めと医師の保険点数稼ぎに出している。
      ドイツでは、効果が認められない薬には、健康保険は適用されませんし、一つの病気に対する診療費や入院日数の上限が決められていて、医師や病院が勝手に医療点数で荒稼ぎできない仕組みになっています。
      逆に、医師が薬を処方しすぎると罰金を科されるため、医師側も、本当に必要不可欠で効果的な薬や治療を吟味せざるを得ない仕組みです。
      無駄を徹底的に省く代わり、本当に治療が必要な病気は、どんな難病でも、治療費は全額健康保険から出ますし、夜間・週末でも、電話一本でその日の地域の当直当番医師に繋がり、電話で症状を聴いた上で、往診してくれたり、必要なら救急車を呼んで地域の救急病院に連絡を取り、救急搬送もしてくれます。もちろん全額健康保険負担で自己負担はありません。
      軽微な症状でも、その日に薬の処方が必要なら、救急医が処方してくれて、地域の当番薬局の夜間・休日窓口で薬を貰える仕組みです。
      ですから、「日本ほど、最新医療を安く受けられる国はない」というのも嘘です。
      ドイツのほか、オーストリアでも似たような事情で、日本より医療体制、健康保険体制がしっかりしている国はいくらでもあります。
      妊婦検診、分娩入院、新生児検診等全て無料で、祝い金が出る。児童手当、育休手当も充実。
      -
      ドイツは、大学まで国公立で授業料無料。低所得者層は保育料もほぼ無料。低所得者層向けの住宅保障は、一人世帯50㎡、夫婦世帯70㎡、子供一人につき10㎡追加で、この分の家賃・光熱費は政府負担。
      但しこれはドイツ人のみ。
      ドイツは、外国人移民には厳しくて、戦争難民、政治亡命者などは人道的見地から受け入れていますが、経済難民は受け入れていません。
      日本のように、日本人学生には奨学金という名の学生ローンを課しながら、外国人留学生には、授業料無料で、月額20万円の生活費を返済不要の奨学金で出し、別途渡航費も支給、などということはあり得ません。
      -
      ドイツは州政府ごとの完全地方分権ですから、州ごとに多少の違いはあるでしょうし、今でも東西ドイツの経済格差が大きいのは事実。
      それでも、日本政府が間違った情報を流すほど、ドイツの生活は悪くはありません。
      日本国民は、日本政府の嘘情報に、いい加減気づくべきです。

  • @namemy2192
    @namemy2192 Рік тому +3

    ちょっと前のソ連や東ドイツが歴史扱いになっていてそれがショックですわ。
    年をとって分かるのは、今から40年前のことがあれほど最近のように思い出せるということは、その前の40年、つまり戦争もそんな昔のことじゃないということ。
    今と大して変わらない考えのおっさんたちが世界の空気読まんで大間違いをしたんだなあと感じると共に、歴史って言葉はなんなんだろうなとつくづく考えさせられるね。

  • @rikuchiyo
    @rikuchiyo Рік тому +9

    以前シュタージ博物館に行ったことがあります。恐怖しか感じませんでした。。コンラート・シューマンさんは脱走したものの、東ドイツの親戚から脱走をとがめられ続け、アル中になり生涯を終えたと記憶しています。

  • @shenron.shibainu
    @shenron.shibainu Рік тому +5

    コロナの初期に中国にいたけど、朝起きたら壁が出来てて出入りが制限されびっくりした

  • @AKAITANUKIMI
    @AKAITANUKIMI Рік тому +52

    当時は東ドイツのレストランは豪華な食事が数百円、ワインが嗜好品なので数千円だった記憶があります。
    そして西ドイツの地下鉄は、東に入ると誰もいない駅にライトだけが灯き、停車してもドアが開かない。何駅か通過して西に戻ると再びドアが開き昇降できるしくみでした。
    ブランデンブルグ門のゲートが開いた2日後、現場に行きましたが、往復できるのはドイツ人だけでした。お前ら外人はブランデンブルグ門の横のゲートは通せないと言われました。今にしてみれば貴重な体験でした。

    • @yukirosello8467
      @yukirosello8467 Рік тому +6

      私はもうはっきりと覚えていませんが、東西の物価の違いとインフラ整備に差があったな、と思います。

    • @erikasono565
      @erikasono565 Рік тому +1

      @@yukirosello8467
      インフラは、ベルリンの壁崩壊前の89年夏の時点で、観光地のヴァイマールやライプツィヒなどはもうきれいに整備されていたのですよ。
      東西ドイツ再統合後、最も急速に変わったのは、ポツダム広場やウンター・デン・リンデンではないでしょうか。
      壁に近いポツダム広場やフィルハーモニー近辺は、寂れた雰囲気だったのが、きれいに整備されてショッピングアーケードができましたし、ウンター・デン・リンデンは、首都ベルリンの目抜き通りにふさわしい華やいだ雰囲気になりましたね。

    • @AKAITANUKIMI
      @AKAITANUKIMI Рік тому +9

      @@yukirosello8467 様
      そうですね。西ドイツから東ドイツに車で入ったのですが、当時は、道路の上には紫色の雲がかかっていて、理由を聞いたらガソリンの質が悪いとのことでした、出口を見過ごし慌てて降りたら東ベルリン、周りはトラバントばかりで看板はなく何もかもくすんだ感じで人日のと表情は暗かったですね。東ベルリン市内の道路も良くなかったと思います。当時、東西を結ぶ道路は西の資金できれいに舗装されていました。

    • @erikasono565
      @erikasono565 Рік тому +9

      @@AKAITANUKIMI
      東独の人達の表情は、86年夏に初めて訪れた時には、ソ連同様、感情を押し殺した無表情に観えました。
      でも、89年8月に訪れた時には、もう違っていましたよ。
      ライプツィヒやドレスデンには、派手な色に染めた髪の毛を鶏冠のように立て、唇や鼻にピアスをしたパンクのようなお兄さんがいたり。
      良くも悪くも、西側資本主義国の自由で、ある意味退廃的な文化は毛頭毒にも入り込んでいるのが窺えました。
      私が住んでいるのは西ドイツの南部なので、ベルリンの壁崩壊前夜にベルリンで起きていたことは、後からテレビ番組の動画で観ました。
      壁崩壊は誤解と誤報、偶然だったと言いますが、その直前に大規模なデモが東ベルリンで起きていますよね?
      夏の時点で、ヨーロッパ・ピクニックが起きて、東独からハンガリー経由で、国境の鉄条網を壊し、集団でオーストリアに脱出する人が大勢いました。
      ですから、壁の崩壊は決して偶然ではなく、じわじわと西側の情報が東独や東欧諸国に入り込んで、民衆の反発が抑えきれなくなっていたからこそ、必然的に起きたのだと私は思っています。
      -
      まぁ、車で西ドイツから東独に入る道路は、86年、88年に私もゼミ旅行でバスで東独に入り、東ベルリンを目指した時に体験しましたが。
      東独に入った途端、道がデコボコ、周りは貧相な車ばかり、そして国境審査の待ち行列の渋滞が凄かったこと。
      でも、ヴァイマールで開催されたドイツ文学ゼミの講師たちに依れば、観光地であるヴァイマールはいち早くきれいに整備されていたと。
      国境付近の道路などは後回しで、ヴァイマールやライプツィヒ、ドレスデンなどの観光地から先に、東独政府が外貨獲得のために優先的に予算を割いてきれいに整備していたということなのでは?
      -
      ドレスデンでは、ゼンパーオペラも堪能しましたし。
      チケットも格安でしたが、88年に観たボリショイ劇場のオペラやバレエと同じで、89年に観たゼンパーオペラも、演出は古風でしたね。
      ボリショイ劇場も、ゼンパーオペラも、演出が近代的に変わったのは、ソ連東欧体制崩壊後のことです。
      そうした文化政策は、やはり政治体制に大きく影響を受けているようです。

    • @AKAITANUKIMI
      @AKAITANUKIMI Рік тому +1

      @@erikasono565 様
      返信ありがとうございます。
      オペラがお好きとか、ひょっとして
      高嶋勲氏ご存じでは?
      ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B3%B6%E5%8B%B2_(%E3%82%AA%E3%83%9A%E3%83%A9%E6%BC%94%E5%87%BA%E5%AE%B6)
      恩師との関係で少し存じ上げておりますが、
      ドイツ永住を決意されたみたいです。
      私はオペラはからっきしですが。

  • @user-ts6tc9py5l
    @user-ts6tc9py5l Рік тому +30

    中国に留学してましたし
    嫁は中国人ですが
    電話の盗聴やウェイチャットの内容を取られてると思って会話していってます。嫁も多少は気をつけてます

    • @user-mp3cr5gb2l
      @user-mp3cr5gb2l Рік тому +1

      習近平が華為を利用しているのか、華為が習を担いでいるのか。個人的には後者だと踏んでます。
      華為を始めとする浙江財閥系IT技術で人民を監視し、政敵の玉を握り中華皇帝の座に就いた習も実は傀儡。共産党には大陸の浙江系同胞が浸透し、実は台湾が中国を統一しつつあるのではないかとすら思ってます。中台対立はプロレス、台湾に親日ぶりはプロパガンダ情報工作の賜物。安倍元総理の家系も台湾バナナ利権に一枚噛んでたくらい。蓮舫に強く出られないのはそういう事らしい。
      浙江人の野望は中国で成功した監視システムを世界中に構築し、地球の覇権を握ること。EV車などのコネクト技術は国民の監視装置。政府が普及を進めたいのはそのせい。

  • @user-iw6dg7uz1y
    @user-iw6dg7uz1y Рік тому +11

    まりんぬさんの内容をきっかけにしたみなさんのコメントもめっちゃ興味深いです。じっくり読んでしまいました。
    まりんぬさんの内容の深いお話なので、みんな丁寧なコメントをしたくなるんですね。

  • @tkzk330
    @tkzk330 Рік тому +6

    90年の夏に、スウェーデンからフェリーで東ドイツに行きました。ホストファミリーの旅行についていっただけですが、壁崩壊から一年経っても、インフラも住環境も車もめっちゃボロボロで、西との差が歴然としていました。あとびっくりしたのは、海水浴に行ったらみんなスッポンポンで、そういうところは最先端なのかと驚きました😮

  • @user-xb5sh9mh9v
    @user-xb5sh9mh9v Рік тому +7

    今でもベルリンに行けば「チェック・ポイント・チャーリー」という壁時代の検問所がありますよね。ちなみにベルリンの旧東ベルリン側に信号機が少ないのは、当時の東ドイツには「政府の車が最優先」という交通ルールしかなかったからだとか。まぁ噂ですけど(苦笑)。

  • @bearnorth8418
    @bearnorth8418 Рік тому +10

    昔、昔、学生の頃、短期留学していたころ、オーストリアから東ドイツにバスで入り、東ベルリンにも行きました。当時はタバコを吸うのが当たり前の時代でしたが、有人が歩きタバコをしていて、東ベルリンで通行している中年のご婦人の服に、不注意でタバコの燃えカスで穴をあけてしまいました。ものすごい剣幕で、弁償しろではなく、同様の服を持ってこいということで、結局西ベルリンに戻って、それから東ベルリンに服を届けたという事件がありました。お金では解決できず、非常に怖かった思い出として残っています。当時、東ドイツも西ドイツもマルクを単位としたお金を使用していましたが、西ドイツのマルクは、東ドイツでは何倍もの価値がありましたが、1マルクは1マルクで交換させられました。東ベルリンは、暗い怖いとい印象の街でした。

    • @yukirosello8467
      @yukirosello8467 Рік тому +2

      私も大昔の記憶ですが、戦後お金が無かったせいでしょうか、東側の家の壁に銃弾の跡が残っていたのを覚えています。後、マーケットにロシア製の軍帽が売られていたのも覚えてる。

    • @erikasono565
      @erikasono565 Рік тому +6

      東独は、お金があっても簡単には買えないものが多かったですからね。
      衣料品も、古着が当たり前。靴は、仮にイタリア製と書いてあっても、東欧のどこかで生産されていることが多い、と現地の人から教えてもらいました。

      西ドイツマルクと東ドイツマルクの実勢レートは1対9で、東独の銀行ならこのレートで交換してくれました。
      1対1の公式レートで交換させられるのは、1日25マルクの強制交換だけです。

  • @mh.474
    @mh.474 Рік тому +5

    西ドイツの男性と結婚した高校の同級生が
    壁に登ったときのことを興奮気味に
    話していたことを思い出しました
    壁の破片、日本でもすっごく高値で売られていましたねー
    なぜかいろんな人が持ってました
    その後旧西ドイツで
    お金がない元東ドイツ側とは
    かなりの温度差が、何年もあったようです

  • @cancan5892
    @cancan5892 Рік тому +12

    ベルリンの壁の崩壊は、今でもハッキリ覚えています。航空会社に就職し2年目の私は、その日仕事でオーストラリアにいました。歴史的大事件に驚いて❤、ずっと部屋で現地のニュースやCNNを見続けていました。当時ドイツ🇩🇪人と結婚し、こちらに住むとは思ってもいませんでしたが、そんな私にでも、歴史的瞬間に立ち会っているという感覚はありました。ベルリンに行く機会のある方は、是非壁のミュージアムを訪れることをお勧めします。いろいろなことが知れて、感慨深いです。

  • @CH-ru1sj
    @CH-ru1sj Рік тому +4

    ドイツ周辺国に永住予定の日本人です。ベルリンのDDR(旧東ドイツ)ミュージアムを訪ねてみて、当時餓死しないギリギリの配給制度下にあった国民の貧しさ&非社会主義国からの輸入品を含めあらゆる贅沢品を享受できた特権階級(政府関係者)の贅沢ぶりを知りました。後にドイツが東西併合を成し遂げたことは偉業と言えますね。

  • @user-od7lk3ve3v
    @user-od7lk3ve3v Рік тому +40

    今回も本当に勉強になりました。
    たった30年なんですね
    テレビでニュース観てました。
    情報収集は…今も監視されてる気はしてますよね。

  • @CatsloverAustrian
    @CatsloverAustrian Рік тому +15

    ソヴェト連邦、東ドイツに行ったことあります。ただ当時は子どもだったので「旅行に来た」程度にしか思っていませんでした😅 親がオーストリア出身で、オーストリアもよく旅行しました。オーストリアとーハンガリーとの国境沿いに住んでいた親類宅からは、丘陵地帯に作られた鉄柵みたいなものと銃を持った兵士が目視出来ました。もう40年以上前の話です。

    • @erikasono565
      @erikasono565 Рік тому +4

      そのオーストリアとハンガリーの国境地帯の鉄柵が、89年夏、ヨーロッパ・ピクニックで破られて、多くの人が、東独から車でハンガリーに出て、徒歩で団体で柵を超えてオーストリアに脱出したのですよね。
      ただ87年当時でも、ウィーンからハンガリーへはバスが通じていて、ヴィザは必要なものの、個人でも簡単に国境を超えることはできました。

  • @yamashita476
    @yamashita476 Рік тому +13

    ナチスや東西ドイツを題材にした映画がたくさんあって、どの作品も独特な生活で、ドラマチックな人生を送った実話だったりします。
    もしそういう国に生まれてたらと考えてしまう。

  • @bh29f104
    @bh29f104 Рік тому +3

    ドイツの旧首相 メルケル首相は東ドイツ出身でしたのでロシア語を話せる事と、ドイツで働いた事のあるプーチン大統領と話をする時は通訳無しで話をしている姿をよく見られましたね。
    悪い面もある東ドイツですが社会主義としては成功した国でドイツ人の勤勉さは国の経済体形とは関係無いのですよね。
    カール・ツァイス・イエナ等を代表するカメラ、メーカなんかは現代でも人気を誇っています。

  • @user-xj2hd6bn7b
    @user-xj2hd6bn7b Рік тому +33

    KBG(ケービージー)じゃなくてKGB.КГБ(カーゲーベー)ソ連国家保安委員会ですよね。

  • @sevencfx
    @sevencfx Рік тому +9

    ドイツにもベルリンにも訪れた事はありませんが
    “ベルリン天使の詩”と言う映画、ネタバレになってしまうので詳しくは書けませんが
    当時の東西に隔てられたベルリンを感じるには良い映画だと思います。

  • @gmagpontan12341
    @gmagpontan12341 Рік тому +7

    これでも東ドイツの生活は共産圏だとかなり裕福だったみたいですね

  • @user-zo8rt8uc5s
    @user-zo8rt8uc5s Рік тому +5

    まりんぬ先生、お疲れ様です😌💓
    小学生低学年の頃に日本で放映されていた、アメリカの番組「超音速攻撃ヘリ・エアーウルフ」を見て、
    やたらとセリフに西側【または単に西】やら東側【同じく単に東】って、言葉が出てくるのが不思議で、
    西がNATOもしくはその加盟国、東がワルシャワ条約機構もしくはその加盟国の事を言っており、その謂われが東西ドイツから、きているのを知りました~😁
    治安維持法全開で“特高”と“隣組”でビシバシ国民を監視していた頃の日本と、冷戦時のソ連の合わせ技みたいな国ですね~😱
    ちなみに“隣組”の歌は、あの「♪ド・ド・ドリフの大爆笑♪」でおなじみの『ドリフ大爆笑のテーマ』の原曲ですよ~😁
    初めて知った時はかなりビックリしました~‼️👀‼️

  • @mimilili2711
    @mimilili2711 Рік тому +38

    「善き人のためのソナタ」という映画を思い出しました。ドイツがひとつになって良かったです。

    • @yukirosello8467
      @yukirosello8467 Рік тому +4

      あー、私も思い出した。本当に良い映画でしたね😊

    • @yamashita476
      @yamashita476 Рік тому +3

      その映画のタイトルが出てこなくてモヤモヤしてました。
      それですね!

  • @ponchi9353
    @ponchi9353 Рік тому +5

    関係ないかもしれませんが、日本でも70年代米軍の基地内でPX(たしかpost exchenge、まだあるでしょうが)という施設に行ったことを思い出しました。アメリカ国内で流通している品々が売られていました。日本は経済成長の時代でしたが、国内はまだまだ貧しく、PXで売られているものはそれはそれはキラキラしていました。もちろん支払いはドルでした。
    バケツのようなアイスクリームやアメリカのおもちゃの数々に子供がときめかないはずはありません。バドワイザーの値段がどんどん安くなっていったのを覚えています。
    そんな訳で柵(壁じゃないけど)の向こうとこちらでの世界が違いは想像できますが、東ドイツはさらに精神的な苦しさ…なんとも気の毒ですね。

  • @BuckheadVolvoS4
    @BuckheadVolvoS4 Рік тому +7

    ソ連の秘密警察はKBGではなくKGB(カーゲーベー)ですよ‼️

  • @rinoq1969
    @rinoq1969 Рік тому +16

    まりんぬさま こんばんは。
    いつも楽しく為になる配信をありがとうございます。
    ベルリンの壁崩壊は自分が大学生時代でした。
    下宿先のTVでその映像を見、自分が生きている間にこの壁が崩れるなんて・・・との思い出があります。

  • @user-pn4gl6eg2z
    @user-pn4gl6eg2z Рік тому +80

    ベルリン住んでるドイツ人の友達は英語とドイツ語が喋れるのに、
    彼の父親は英語が幼稚園生レベルで、逆にロシア語が喋れてた。

    • @erikasono565
      @erikasono565 Рік тому +26

      80年代以前にソ連東欧圏で育った人なら当然です。
      今でも、東独地域出身の人は、年齢にも依りますが、英語よりロシア語が得意な人も多い。
      但し、88年にモスクワを訪れた際には、英語を話せる人は殆どいなくて、ホテルや空港ですら、酷いロシア語訛りの英語の方ことしか話してくれなかったのに、2002年にベルギーで国際学会があった際には、私と一緒に助手を務めていたロシアの若手研究者の英語が堪能なのにはびっくりしました。
      ソ連崩壊から10年ほどで、若いロシア人には、英語が得意な人が増えたということですね。

    • @travelleryu
      @travelleryu 11 місяців тому +2

      今年言ってきたけど北朝鮮と同じ体制だったアルバニアでさえ老人はロシア語が通じた。ハンガリー、ブルガリア、チェコスロバキア然り。ただ旧ユーゴスラビアは老人でも英語が話せる人沢山いた

  • @user-zt3zw1sv8n
    @user-zt3zw1sv8n Рік тому +8

    ベルリンの壁崩壊へと繋がる事柄として、汎ヨーロッパ・ピクニック(ピクニック事件)も紹介してほしいです
    ピクニックを装って亡命を成功させるという物凄くドラマチックな歴史的事件です

  • @user-pg2tb8hi5r
    @user-pg2tb8hi5r Рік тому +12

    東ドイツでは西ドイツ以上にナチス親衛隊出身者は肩身の狭い生活を送っていましたが、その中で国家保安省(シュタージ)は数少ない再就職先でした。もちろん非公式にですが。元親衛隊情報部やゲシュタポ出身者はかなり優遇された。

    • @TK-uv1nt
      @TK-uv1nt Рік тому +1

      浦沢直樹の漫画でもその辺りの統一後の悲哀が描かれてますね。

  • @user-xd5fj9qm6r
    @user-xd5fj9qm6r Рік тому +1

    母が20代の頃、ソ連や東ドイツによく行ってたと聞きました。ある日、東ドイツのガソリンスタンドで給油しようとしたところ、やはり燃料がなくて断られたらしいんですが、ポケットにあったドル札を見せると無かったたずの燃料が湧いてでてきたとか。カフェでココアやコーヒー、オレンジジュースがなく、紅茶やリンゴジュースしか頼めなかったり、東側あるあるな環境だったようです。
    母は私に話してくれませんが、私は母が西側のエージェントだったと考えてます。

  • @user-mj6wd1lj3v
    @user-mj6wd1lj3v Рік тому +3

    東西ドイツ統合で仕事を失ったシュタージ職員がタクシー運転手に転職したらこれが大繁盛。何故かって?だって住所聞かなくても行き先の名前だけ言えばちゃんと行ってくれるから。
     こんな小噺を聞いたことがありました。

  • @user-we2oe6hy4x
    @user-we2oe6hy4x Рік тому +4

    魔女狩りと雰囲気に似てなくもないですね。愚痴がこぼせない。
    メルケルさんの最後の言葉面白かったです。日本の良さを改めて分かりますね。

  • @user-te6pu4vd1k
    @user-te6pu4vd1k Рік тому +7

    ずっとKGBをKBGと呼んでるのかすごく気になってしまった

  • @greencelerysalad
    @greencelerysalad Рік тому +4

    ソ連の秘密警察はKGB(カーゲーベー)で記憶してるんですが、KBGというものもあったんでしょうか?

  • @user-cd2fw4st1n
    @user-cd2fw4st1n Рік тому +6

    カップヌードルCMのワンシーンで放映されてましたよ。

  • @user-ri3yz4fc6c
    @user-ri3yz4fc6c Рік тому +16

    もう このような 事が 二度と おこりませんように

  • @yuumetal2363
    @yuumetal2363 Рік тому +1

    9:24 ベリーはその辺の木になるから時期が来たら収穫できるよ。それでジャム作ったり

  • @emiabo1653
    @emiabo1653 Рік тому +3

    1992年から2004年に南西ドイツに引っ越すまでベルリンに住んでました。壁が開いてからなのですが、逃がし屋さんとパーティで会ったり、逃げてきた人と知り合って、どうやって逃げたか聞きました。合法的に出てきた人と知り合い、とても優しい人でしたが、東のスパイだったかも😮
    当時の東側のアウトバーンは路面がボロボロで、じきに工場現場だらけに。財源の一部?は西の人が払う東への連帯の追加の税金。

  • @user-pt6gc8ge5g
    @user-pt6gc8ge5g Рік тому +7

    画期的できたよね、壁の崩壊。若かりし頃、この話をニュースで聞いた時には勉強がきらいな私でも理解でしました。そして今、まりんぬさんの動画で改めて衝撃を受けましたね。

  • @Wakagami
    @Wakagami Рік тому +7

    すごいのは、シュタージの長官がサッカークラブに直々に肩入れし、選手の引き抜きや審判への圧力を行い10連覇を達成したという話です
    それがSCディナモ・ベルリン。今現在は名前を改称し4部に所属しています
    そして東西統一後のブンデスリーガは、すっかり東ドイツのクラブがなくなってしまいました……

  • @user-nnnMossa2
    @user-nnnMossa2 Рік тому +4

    10年以上前にキューバに数ヶ月滞在していましたが、共通点が多いですね。フルーツや野菜は豊富でしたが、ハリケーンが来ると市場はすっからかんでしたね。

  • @my-eg8ge
    @my-eg8ge Рік тому +2

    ベルリンの壁が崩壊したのは、ハンガリーとポーランドの改革の影響を受けたからです。特にハンガリーの改革の影響は決定的で、ハンガリーが開いたドイツ国民の西側への脱出ルートを東ドイツがもう一度塞ぐ必要に迫られて、その一つがシャボフスキ氏が勘違いした政策です。

  • @camelyellow3869
    @camelyellow3869 Рік тому +44

    ケービージー(KBG)ではなくケージービー(KGB)では?

  • @kd9919
    @kd9919 Рік тому +2

    小学生の頃、地図帳を先生が出すように言われ、ペンでベルリンの壁がなくなったことを塗りつぶした?記憶があります。先生は君たちはこの歴史的に大事な事件があった事を忘れちゃだめだよみたいな事を言っていました。

  • @TheGodfather1971
    @TheGodfather1971 Рік тому +1

    映画や音楽、文学で追随することしかできなかった東ドイツのリアルな話とても興味深かったです。
    ヴェンダースの『ベルリン 天使の詩』で西側からの壁を見ることができますが思ったより低く、(許可を取っていたと思われますが)近くまで寄れたのだなと思ってました。今はこの壁すらないというのも驚きです。
    デビッド・ボウイが80年代にドイツに渡り、3作のアルバムを制作し「ヒーローズ」という東西の壁に分断された恋人たちを歌った名曲が生まれています。
    今は昔の東ドイツですが、今のドイツは東ドイツのよかった部分はそのまま受け継ぎ(男女平等賃金、労組と経営者の関係など)、マルクスの生誕地らしい(?)政策は残されているため悪いことばかりでもなかったのかなと思えます。
    メルビル元首相といえば、犬嫌いなのにプーチンが会議で犬を同席させたことに怒っていたエピソードが一番残ってます。

  • @gkjf13
    @gkjf13 Рік тому +8

    今回のお話、とっても衝撃的なものだったりじんわりきたりしました。
    昔ドイツの田舎へ行った時に地元の人が「ここは田舎だけれど東ドイツよりはましだよ」みたいなことを言っていたのを思い出しました

  • @user-gi8yr9il1h
    @user-gi8yr9il1h Рік тому +8

    米国留学時代のルームメイトがポーランド人で、荷物の整理をしている時にポーランド時代の配給切符を発見。それには一世帯あたり牛肉500gなどと書いてあるものでした。ポーランドでは物があったとしても配給切符なしで購入できるものは少なかったそうです。東ドイツや旧ソ連も同じようなシステムだったのでは。

  • @aquaaqua7810
    @aquaaqua7810 Рік тому +3

    これねー。生まれたときからベルリンの壁はあって崩壊をリアルタイムでみた世代ですけどほんの30年前なんですよね

  • @Chixirin
    @Chixirin Рік тому +5

    この時のテレビ見ていて、西ドイツの人々がとても東ドイツ人のことを嫌っていたのを思い出します。西と東で温度差がとてもあったなという印象です。今は出身地の差別はないのかな。それなら良いなと思います。

  • @chobimaru4641
    @chobimaru4641 Рік тому +12

    今回も圧倒的なクオリティでおもしろかったです!
    ベルリンの壁についての歴史、とても興味深く視聴させていただきました。
    まりんぬ動画は週末の癒しです。。

  • @user-kf1jb6we9w
    @user-kf1jb6we9w Рік тому +5

    ギュンターシャボフスキーさんやハロルドイェーガーさんはその後どうなったのでしょう…🤔

  • @user-wi9ib6fg4g
    @user-wi9ib6fg4g Рік тому +8

    昔会社で作業着を安く仕入れろって上司の命令でアメ横の中田商店で東ドイツ軍の軍服買ったら社員に不評でマイッタw

  • @orange6974
    @orange6974 Рік тому +8

    「東西 or 南北に分かれている国家は、『民主』とついている方が民主的ではない」という法則がありますねw

  • @Miki-kk5mq
    @Miki-kk5mq Рік тому +4

    共産主義国というもの自体はそもそも話になりませんが、東ドイツにある種のノスタルジーを抱える人がいるという点や現在の福祉国家のことも考えると資本主義国家の存続という意味では共産主義は存在する意味があるのかもしれません。
    今の新自由主義の前に流行ったケインズ主義的福祉国家志向というのはこういうのから来てるのでしょうね。
    バランスが大事だと思います。

    • @erikasono565
      @erikasono565 Рік тому +3

      外国というとアメリカのことしか考えない日本人にとっては、資本主義イコールアメリカ的自由主義で小さな政府なのかもしれません。
      でも、いわゆる西側資本主義陣営の内、欧州各国は、多かれ少なかれ、社会保障の整った福祉国家です。
      中でも、税金が高すぎて、物価も高く、経済が回りにくくなっている北欧諸国などに比べ、ドイツは人件費はそれなりに高いですが、税金や府あ゛っかは北欧諸国ほど高くはなく、経済も今く回っているのに、高度福祉国家です。
      資本主義と高度福祉、社会保障とのバランスを取った国家は現に存在しているのに、日本ではそれを無視して、「ヨーロッパは終わった」などと言い、ドイツのことも、事実に反した嘘情報を流して変に悪く言いたがる。
      -
      私は在独37年目ですが、ドイツはいい国ですよ。
      そして、ドイツの福祉政策は、決して東ドイツが社会主義国だったからではなく、既に19世紀初頭から、ハプスブルク帝国の役人には年金、つまり恩給がついたし、ビスマルクも、「保障のある民衆は、保障のない民衆より扱いやすい」として、社会保障政策にも力を入れているのです。
      -
      翻って日本。
      江戸時代に、加賀藩などのお救い小屋、吉宗公の時代の小石川療養所など、無料で医療が受けられる施設、飢饉時には食事配給も受けられる施設などがあった。
      その割には、明治以降の近代日本は富国強兵に走りすぎて福祉を忘れ、戦後はアメリカ的自由主義に走りすぎている。
      福祉政策を充実すれば、経済は回らなくなるような言い方をする人も多いですが、それは政府の予算を当てにして利益を貪ろうとする人と、政治家が結託しているから。
      -
      例えば、ドイツの公的健康保険組合は、税金の投入一切なし、保険料は介護保険料込みで収入の14%を労使折半と日本並みですが、窓口負担ゼロ、クス第処方箋の1品5ユーロのみ、そうした僅かな自己負担も年収の2%(持病がある人は1%)が上限。
      なぜ実現できるのかと言えば、風邪薬や腹痛薬、下痢止め、ビタミン剤など、日本でもドクターハッシーら、良心ある医師たちは「効能が期待できず、気休めで副作用の方が強いから飲まない方がいい」としている薬は一切出さないから。抗生物質も滅多に出しません。
      風邪の時には、温かくして寝ていた方がいい。たから、肺炎の疑いがない場合には、そのまま帰宅させます。
      腹痛も、長引く時には検査をしますが、一般的な腹痛薬は気休めにすぎない。下痢止めも副作用の方が強いから、水分補給する方がいい。ビタミンは新鮮な果物などから採る方がいいし、必要なら自分でビタミン剤を買う。
      トローチや目薬、鼻スプレーなども、あまり使わない方がいいことの方が多いし、必要なら自分で買う。
      その代わり、本当に必要な医療は、癌だろうが何だろうが、手術代も自己負担ゼロ、254時間看護の入院費も食費など含めて1日18ユーロを最長で1年14日分まで(これも収入の2%を超えたら還付される)で、私のような外国人の一人暮らしで、手術入院を10回くらい繰り返しても、一人で対処できます。
      そもそもドイツでは、病気ごとに診療費の上限、入院日数の上限が定められていて、それ以上は健康保険からは支払われない。
      だから、医師が医療点数を稼ぐために、無用な薬を出したり、病院が患者を社会的入院させるなどということもあり得ません。
      逆に、医師が薬を出し過ぎると罰金を科されるから、医師の方でも慎重にならざるを得ません。
      日本の場合には、医師会が国会議員等に働きかけて、既得権益を守っていて。無用に税金や保険料を浪費して儲けているのです。
      この現実を日本国民は知るべきです。
      -
      一事が万事。
      資本主義と言えば、貧富の差が大きくて、健康保険も破綻しているようなアメリカ型だけだと思い込んでいる日本人は、もう少し学ぶべきです。

  • @user-gk8mb8md6k
    @user-gk8mb8md6k Рік тому +20

    いつも楽しく見させて頂いてます!❤
    2:19 KGBでは…?違ったらごめんなさい。

  • @aichanhorn.87
    @aichanhorn.87 Рік тому +3

    ツェアゼッツング(Zersetzung)ですね。。ひどい時代でしたね。

  • @tm141
    @tm141 Рік тому +2

    ベルリンの壁を越えて(チェックポイントチャーリー)陸の孤島西ベルリンから東ベルリンに言ったことがありました。壁のそばには、まだ第二次大戦で空襲されてまだそのままの教会や街が1980年代後半に見られました。たくさんの人が壁を様々な方法で東から西へ亡命してましたね。西ベルリン側の壁のそばにそれらの写真が壁博物館に展示されてました。そうそう、私が20代の頃は西ドイツの女性は結婚したら家庭に入るべきなんて言っていて自分の想像するより保守的でびっくりしました。東ベルリンのトイレ紙がゴワゴワで茶色の再生紙?みたいなのもびっくりでしたね。貧しいとすぐにわかりました。あ、東ベルリンでカフェに入って確かコーヒー飲みました。それ、もまさか外人むけだったの!!😮

  • @bamberg_life
    @bamberg_life Рік тому +3

    遠い昔の話だと思っていたけど、まだ30年しかたっていないんですね。エレン=イェーガーの名前は壁を解放した(=破壊した)人物として、ホランド=イェーガーからきているのかなと思いました。

  • @pawnpipe
    @pawnpipe Рік тому +2

    戦時中の日本もほぼ同じ状況だった。特高警察が国民を監視し,隣組が密告し,物資は配給制だった。私の祖父 (1900 年頃生) も一度特高に引っ張られたことがある。拷問まではされないものの,相当怖い取調べを受けたらしい。何かまずい発言を密告されたと思われるが,本人は酔っていて何を言ったか覚えていなかった。彼は運動家でも何でもなく,ただの百姓だった。

  • @qfaknot6430
    @qfaknot6430 Рік тому +4

    日本を東京で分断する計画があったことを考えるとアメリカが日本の占領を共産圏へのトロフィーとして扱った理由がよくわかるな。

  • @NinjaHilenn
    @NinjaHilenn Рік тому +1

    シュタージの監視社会の影響で、未だに旧東ドイツの住民が家族や親友以外を信頼せず思いやりや同情心に乏しい傾向が高いという研究結果があるらしいですね

  • @s.t.s7966
    @s.t.s7966 Рік тому +5

    東ドイツ、男女同一賃金と子育ての負担が低いことくらいしか羨ましい要素がないですね…

  • @motothai
    @motothai Рік тому +15

    KBGじゃなくてKGBです。

  • @shinshin7875
    @shinshin7875 Рік тому +4

    KBG→KGB

  • @mics8929
    @mics8929 Рік тому +1

    子供の頃存在を知ったベルリンの壁が崩壊したときは衝撃でした。
    ベルリンの境界の検問所跡は今では観光名所になっています。
    ベルリンの中に西ドイツに属する西ベルリンがあったことが不思議で
    ベルリン出身の友人に「飛び地」について教えてもらいました。
    訪れた2010年頃は旧西・東でベルリン内でも街の雰囲気が違っていて面白かったです。
    ドイツにハーブティーが豊富なのはコーヒーが入手困難だったことも一因かもしれませんね。
    うっかり報道官、国境警察のイェガー、よくやった。

  • @kadoya1812
    @kadoya1812 Рік тому +4

    まりんぬちゃんの動画の編集技術は凄い

  • @user-fl8jg7hk8y
    @user-fl8jg7hk8y Рік тому +6

    私の夫はミュンヒェン音大に通っていましたが、東に見物しに行ったことがあります。物の値段が1/9くらいだったそうです。ビールはミュンヒェンに比べるとあまりうまくなかったそうです。