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興味のある方は東郷隆先生の「九重の雲 闘将桐野利秋」を読んでみてください。
京都滞在中の日記から無学では無かった事が分かります坂本龍馬と交流があったというよりも坂本龍馬を使っていたのが薩摩藩だったので軍事のトップである西郷隆盛の側近として坂本龍馬の対応役だったのです、恐らく報酬を渡したりしていたのでしょう陸軍少将となるとフランスのゲランの香水を愛用していたし軍服もフランスの仕立て屋にオーダーしていた様です
大河ドラマ翔ぶが如くで、杉本哲太氏の熱演を思い出しますね。
榎木孝明さん主演の「半次郎」も良かったです。榎木さんは、武術の心得もありましたしね。
西郷どん では、大野拓朗さんが演じましたね!
改めて考えると、この時の日本は北海道から九州まで内戦があったってことだよね。国が生まれ変わる時は、結果的にこうなるんだね。興味深い。
日本中で殺し合いの内輪揉めをしてるのに、外国につけ込まれなかったことだけはすごい不平等条約も時間はかかったけどその後改正してるし。
動画タイトルにある、36名を瞬殺したエピソードは動画内のどこにありますか?
私は薩摩の人間です。半次郎は鳥羽伏見の戦いで36名斬ったと同行した富田通信兵が目撃しており本人も証言しております。「敵の刀を奪う事三度(恐らく自身の刀を含み4本)で36名斬っている」と。良く二~三人斬れば血糊で斬れなくなくと言う風潮が有りますが、かの剣聖柳生 厳包(連也斉)は錬者で有れば10人斬ろうが血糊は乗らず。としています。まぁ突きや撲殺等により36人斬りは不可能では無いと思います。特に半次郎の健脚ぶりは有名でその縦横無尽の動きは稲妻の如しと言われていました。雲耀の太刀に雲耀の健脚。半次郎が最後まで戦場を掛け巡り戦い続けられたのは鬼神の様な強さと速さが有ったからではと言われています。生涯300人は斬ったであろうとも言われています。単に人斬りの器に非ず。剣聖の域に達して居たのかもしれません。
桐野姓は、人 きりの 半次郎からだと何かの本で読んだ覚えがある。
幕末の人斬りは教養がある故の暴走ってイメージが強い!
生きていたなら、西郷に次ぐ陸軍大将になってただろうし、そののちの内閣で総理大臣になっていたかもしれない。また、日清・日露の対外戦争においても強力な存在感を以て影響を与えたのは間違いない。つくづく歴史は非情だと思う。
豪傑だが軍略の才はなかった しかし好漢だった
もしも江藤新平が率いる佐賀の軍や神風連の乱の兵、秋月の乱の兵などがタイミングよく薩軍と協力していたら?もしかしたら時代は変わっていたかも?動画主さん、鹿児島を代表する方の動画を作って頂いてありがとうございます
ご視聴ありがとうございます!興味深い考察ですね!喜んでいただき大変うれしいです。
それぞれの乱を起こした理由が違いますし、下野したりした過激士族の動向を調べる為に、東京政府の密偵が相当数九州に入り込んでいたから、連係は無理だったんじゃないでしょうか。
自分元新撰組一番隊員ですが、中村半次郎さんは御陵衛士の服部さんや一番隊員の大石鍬次郎をも手合わせで圧倒してました。キレッキレでした。取り上げありがとうございます。懐かしく思い涙します
ちぇすと~~❗
成仏してくれ
成仏してクレメンス
使用しているbgmを教えてください!
返信お待たせいたしました!BGMは、概要欄に記載されている通り、「フリーBGM・音楽素材 H/MIX GALLERY」様の楽曲を利用しております。
せごどんはおいの師ごわす腕のごれてん、みんじゃばがブッチギレてん、最後まで共にチェスト行きもす!! 桐野としあき
武士らを全員軍に入隊させて、軍隊を立ち上げりゃあ良かったんだよ。軍のトップに西郷隆盛を据えておさえときゃ善かったんだよ。
政府内で「征韓論」が支持されなかった為、西郷が職を辞して下野したのが始まりですね。(江藤新平らもこの時辞めて佐賀の乱に繋がります)軍や警察にいた薩摩藩士が次々に辞めて、西郷を追って鹿児島に帰ってしまいましたから。
桐野はどうでもいいが、篠原は惜しいと言われていて、評価の分かれる人物でしたね
斬り合い何て経験して無いと解りませんよね.刀の時代だから出来た事だと思いますが当然刀も刃こぼれが出ますよね.此れじゃ斬れないのでので研ぎにも可なり出してたんでしょうね.
幕末期はテロと言うべき暗殺が日本史上で最も多く暗殺術も発達した時代です。屋内での戟剣術の進歩で刀を振り上げ打ち込むようなことは天井の低い日本家屋では使えず、刺突術が発達したのです。その頃に使用された刀剣を見たら理解できますが、切っ先が長く反りが少ない直刀に近いものが多用されてます。俗に言う勤王刀です。実際につばぜり合いなどをしてては集団戦術を多用する新選組などを相手にしたら切ってくださいと自分で言ってるようなものです。刀を突くのなら相当な人数の相手が出来ます。下の方で桐野が千葉周作を相手にとか書かれてるコメを見ましたが、千葉が亡くなったのが1855年で桐野はまだ16歳で薩摩から出たこともない時期です。吉川英治先生や司馬遼太郎先生の書かれた小説を事実と混同されてる方をよく見かけますが、小説家は読み物を書いてるので有って歴史の事実を書いているとは限りません。読者が喜びそうなこと、楽しませること考えさせることを書くのが小説家であって真実に沿って書くは限りません。
以蔵と桐野と交遊があった竜馬さんは凄いと思う。
人斬り…ではありませんが…幕末最強と言われる「仏生寺弥助」お願い致します🙇💦
ご視聴ありがとうございます!以前、仏生寺弥助の解説も当チャンネルにありますので是非御覧ください!URL:ua-cam.com/video/350fzoO5a3k/v-deo.html
@@いとをかし日本の歴史ゆっくり解 殿❗ありがとう御座居ました🙌❗
15:54〜「彼の意に反して鹿児島士族の反政府運動の先頭に推し挙げられた」とありますが、意思に反していたとする根拠はありますか?
具体的根拠はありませんが、西南戦争中西郷自らが作戦立案や指揮を積極的に行わず、桐野らに任せて自分は神輿に徹していた態度からじゃないですか。
明治新政府になっても長州、山県有朋らの進める「徴兵」に反対、あくまでも戦は士族の特権ここが分かれ目。西南戦争では薩摩士族 対 鎮台兵の戦いで農民、町民から徴兵された明治新政府軍に苦戦、これを目の当たりにした桐野、別府、辺見、村田新八はどのような想いで散っていったのか。
村田新八あたりは、結果は解っていたんじゃないでしょうか。西郷同様、仲間の為に命を差し出したんじゃないでしょうかね。
早口やなぁ
人斬り半次郎は池波正太郎の創作ではないですか。
私は薩摩の人間です。毎年お盆には南洲神社を参拝致しております。池波正太郎氏の半次郎は確かに創造であり余りにも美し過ぎます。地元での真の半次郎はもっと生々しく人を「斬ぃ多くって」おり鬼神の如く伝わっております。私個人の想いとしては半次郎も凄まじいのですが、「赤鬼、辺見十郎太」の方がより凶暴で魔神の如しで有った様に思えます。
刀が脂で切れなくなるのでは? 何本も刀を持っていたのかな? 手術でも刃を何本も変えるよ。
それは世間の風潮です。胴斬り等血糊が拭えない無理な試し斬りをすればそうなるかも知れませんが、剣聖柳生 厳包は日本刀は斬り手が手練れなら脂は乗るが血糊は乗らず10人斬ろうが問題は無いとしています。逆に斬り手が未熟なら刀身が曲がり血糊も残り二人も斬れないと。
刀の本数ですが、半次郎の場合は同行した富田通信兵が目撃しており「敵の刀を奪う事三度(恐らく自身の刀を含み4本)で36名斬っている。」との証言が残って居ります。
@@takeruyamato2324so I c. さすが日本刀ですね。刀の重さもあるし手術でつかうscalpelと別なんですね。手術の場合は、皮膚切開と内部切開で脂でベトベトです
@@takeruyamato2324 フィクションをお楽しみくださいませ🙇
やはり、宮本武蔵でしょう。吉岡一門を二刀流で電光石火の如く、瞬殺で70人を切りましたね。
バカボンドではそうでしたが目撃者の証言が無ければ何とも。半次郎の場合は同行した富田通信兵が目撃しており本人の証言も聞いている。「敵の刀を奪う事三度(恐らく自身の刀を含み4本)で36名斬っている。」良く二~三人斬れば血糊で斬れなくなくと言う風潮が有るが、柳生 厳包(連也斉)は錬者で有れば10人斬ろうが血糊は乗らず。としている。まぁ突きや撲殺等により36人斬りは不可能では無い。特に半次郎の健脚ぶりは有名でその縦横無尽の動きは稲妻の如しと言われていた。雲耀の太刀に雲耀の健脚。半次郎が最後まで戦場を掛け巡り戦い続けられたのは鬼神の様な強さが有ったからではと思われる。生涯300人は斬ったと言われる。単に人斬りの器に非ず。剣神の域に達して居たのかもしれない。
あのエピソード自体が、本当にあったかどうか解りませんからね。
幕末の経緯を長々と説明しすぎ!そっち知りたきゃ別に解説してるのは山程あるし、とっくに知ってるって人も多い。桐野利秋の話をしろや。
慶喜は松平定敬には冷たい男、勤王の人数と幕府方の人数では幕府方の方が多かったのに慶喜が戦いの最中に江戸に逃げた、勝てる戦を自分から辞めた、家康が息引き取る時に将軍は水戸から出すなと言ってた慶喜は水戸の人間だ、この慶喜について江戸に行った為にに定敬は流浪の藩主になってしまった定敬がいない時に家臣の半分が勤王になってしまい定敬は城のない藩主となった、慶喜について行ったばかりに
興味のある方は東郷隆先生の「九重の雲 闘将桐野利秋」を読んでみてください。
京都滞在中の日記から無学では無かった事が分かります
坂本龍馬と交流があったというよりも坂本龍馬を使っていたのが薩摩藩だったので軍事のトップである西郷隆盛の側近として坂本龍馬の対応役だったのです、恐らく報酬を渡したりしていたのでしょう
陸軍少将となるとフランスのゲランの香水を愛用していたし軍服もフランスの仕立て屋にオーダーしていた様です
大河ドラマ翔ぶが如くで、杉本哲太氏の熱演を思い出しますね。
榎木孝明さん主演の「半次郎」も良かったです。
榎木さんは、武術の心得もありましたしね。
西郷どん では、大野拓朗さんが演じましたね!
改めて考えると、この時の日本は北海道から九州まで内戦があったってことだよね。国が生まれ変わる時は、結果的にこうなるんだね。興味深い。
日本中で殺し合いの内輪揉めをしてるのに、外国につけ込まれなかったことだけはすごい
不平等条約も時間はかかったけどその後改正してるし。
動画タイトルにある、36名を瞬殺したエピソードは動画内のどこにありますか?
私は薩摩の人間です。半次郎は鳥羽伏見の戦いで36名斬ったと同行した富田通信兵が目撃しており本人も証言しております。「敵の刀を奪う事三度(恐らく自身の刀を含み4本)で36名斬っている」と。良く二~三人斬れば血糊で斬れなくなくと言う風潮が有りますが、かの剣聖柳生 厳包(連也斉)は錬者で有れば10人斬ろうが血糊は乗らず。としています。まぁ突きや撲殺等により36人斬りは不可能では無いと思います。特に半次郎の健脚ぶりは有名でその縦横無尽の動きは稲妻の如しと言われていました。雲耀の太刀に雲耀の健脚。半次郎が最後まで戦場を掛け巡り戦い続けられたのは鬼神の様な強さと速さが有ったからではと言われています。生涯300人は斬ったであろうとも言われています。単に人斬りの器に非ず。剣聖の域に達して居たのかもしれません。
桐野姓は、人 きりの 半次郎からだと何かの本で読んだ覚えがある。
幕末の人斬りは教養がある故の暴走ってイメージが強い!
生きていたなら、西郷に次ぐ陸軍大将になってただろうし、そののちの内閣で総理大臣になっていたかもしれない。また、日清・日露の対外戦争においても強力な存在感を以て影響を与えたのは間違いない。つくづく歴史は非情だと思う。
豪傑だが軍略の才はなかった しかし好漢だった
もしも江藤新平が率いる佐賀の軍や神風連の乱の兵、秋月の乱の兵などがタイミングよく薩軍と協力していたら?もしかしたら時代は変わっていたかも?動画主さん、鹿児島を代表する方の動画を作って頂いてありがとうございます
ご視聴ありがとうございます!
興味深い考察ですね!
喜んでいただき大変うれしいです。
それぞれの乱を起こした理由が違いますし、下野したりした過激士族の動向を調べる為に、東京政府の密偵が相当数九州に入り込んでいたから、連係は無理だったんじゃないでしょうか。
自分元新撰組一番隊員ですが、中村半次郎さんは御陵衛士の服部さんや一番隊員の大石鍬次郎をも手合わせで圧倒してました。
キレッキレでした。
取り上げありがとうございます。懐かしく思い涙します
ちぇすと~~❗
成仏してくれ
成仏してクレメンス
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BGMは、概要欄に記載されている通り、
「フリーBGM・音楽素材 H/MIX GALLERY」様の楽曲を利用しております。
せごどんはおいの師ごわす
腕のごれてん、みんじゃばがブッチギレてん、最後まで共にチェスト行きもす!! 桐野としあき
武士らを全員軍に入隊させて、軍隊を立ち上げりゃあ良かったんだよ。軍のトップに西郷隆盛を据えておさえときゃ善かったんだよ。
政府内で「征韓論」が支持されなかった為、西郷が職を辞して下野したのが始まりですね。(江藤新平らもこの時辞めて佐賀の乱に繋がります)
軍や警察にいた薩摩藩士が次々に辞めて、西郷を追って鹿児島に帰ってしまいましたから。
桐野はどうでもいいが、篠原は惜しいと言われていて、評価の分かれる人物でしたね
斬り合い何て経験して無いと解りませんよね.刀の時代だから出来た事だと思いますが当然刀も刃こぼれが出ますよね.此れじゃ斬れないのでので研ぎにも可なり出してたんでしょうね.
幕末期はテロと言うべき暗殺が日本史上で最も多く暗殺術も発達した時代です。屋内での戟剣術の進歩で刀を振り上げ打ち込むようなことは天井の低い日本家屋では使えず、刺突術が発達したのです。その頃に使用された刀剣を見たら理解できますが、切っ先が長く反りが少ない直刀に近いものが多用されてます。俗に言う勤王刀です。実際につばぜり合いなどをしてては集団戦術を多用する新選組などを相手にしたら切ってくださいと自分で言ってるようなものです。刀を突くのなら相当な人数の相手が出来ます。下の方で桐野が千葉周作を相手にとか書かれてるコメを見ましたが、千葉が亡くなったのが1855年で桐野はまだ16歳で薩摩から出たこともない時期です。吉川英治先生や司馬遼太郎先生の書かれた小説を事実と混同されてる方をよく見かけますが、小説家は読み物を書いてるので有って歴史の事実を書いているとは限りません。読者が喜びそうなこと、楽しませること考えさせることを書くのが小説家であって真実に沿って書くは限りません。
以蔵と桐野と交遊があった竜馬さんは凄いと思う。
人斬り…ではありませんが…
幕末最強と言われる「仏生寺弥助」お願い致します🙇💦
ご視聴ありがとうございます!
以前、仏生寺弥助の解説も当チャンネルにありますので是非御覧ください!
URL:ua-cam.com/video/350fzoO5a3k/v-deo.html
@@いとをかし日本の歴史ゆっくり解 殿❗
ありがとう御座居ました🙌❗
15:54〜「彼の意に反して鹿児島士族の反政府運動の先頭に推し挙げられた」
とありますが、意思に反していたとする根拠はありますか?
具体的根拠はありませんが、西南戦争中西郷自らが作戦立案や指揮を積極的に行わず、桐野らに任せて自分は神輿に徹していた態度からじゃないですか。
明治新政府になっても長州、山県有朋らの進める「徴兵」に反対、あくまでも戦は士族の特権ここが分かれ目。西南戦争では薩摩士族 対 鎮台兵の戦いで農民、町民から徴兵された明治新政府軍に苦戦、これを目の当たりにした桐野、別府、辺見、村田新八はどのような想いで散っていったのか。
村田新八あたりは、結果は解っていたんじゃないでしょうか。
西郷同様、仲間の為に命を差し出したんじゃないでしょうかね。
早口やなぁ
人斬り半次郎は池波正太郎の創作ではないですか。
私は薩摩の人間です。毎年お盆には南洲神社を参拝致しております。
池波正太郎氏の半次郎は確かに創造であり余りにも美し過ぎます。
地元での真の半次郎はもっと生々しく人を「斬ぃ多くって」おり鬼神の如く伝わっております。
私個人の想いとしては半次郎も凄まじいのですが、「赤鬼、辺見十郎太」の方がより凶暴で魔神の如しで有った様に思えます。
刀が脂で切れなくなるのでは? 何本も刀を持っていたのかな? 手術でも刃を何本も変えるよ。
それは世間の風潮です。胴斬り等血糊が拭えない無理な試し斬りをすればそうなるかも知れませんが、剣聖柳生 厳包は日本刀は斬り手が
手練れなら脂は乗るが血糊は乗らず10人斬ろうが問題は無いとしています。逆に斬り手が未熟なら刀身が曲がり血糊も残り二人も斬れないと。
刀の本数ですが、半次郎の場合は同行した富田通信兵が目撃しており「敵の刀を奪う事三度(恐らく自身の刀を含み4本)で36名斬っている。」との証言が残って居ります。
@@takeruyamato2324so I c. さすが日本刀ですね。刀の重さもあるし手術でつかうscalpelと別なんですね。手術の場合は、皮膚切開と内部切開で脂でベトベトです
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やはり、宮本武蔵でしょう。吉岡一門を二刀流で電光石火の如く、瞬殺で70人を切りましたね。
バカボンドではそうでしたが目撃者の証言が無ければ何とも。半次郎の場合は同行した富田通信兵が目撃しており本人の証言も聞いている。「敵の刀を奪う事三度(恐らく自身の刀を含み4本)で36名斬っている。」良く二~三人斬れば血糊で斬れなくなくと言う風潮が有るが、柳生 厳包(連也斉)は錬者で有れば10人斬ろうが血糊は乗らず。としている。まぁ突きや撲殺等により36人斬りは不可能では無い。特に半次郎の健脚ぶりは有名でその縦横無尽の動きは稲妻の如しと言われていた。雲耀の太刀に雲耀の健脚。半次郎が最後まで戦場を掛け巡り戦い続けられたのは鬼神の様な強さが有ったからではと思われる。生涯300人は斬ったと言われる。単に人斬りの器に非ず。剣神の域に達して居たのかもしれない。
あのエピソード自体が、本当にあったかどうか解りませんからね。
幕末の経緯を長々と説明しすぎ!そっち知りたきゃ別に解説してるのは山程あるし、とっくに知ってるって人も多い。桐野利秋の話をしろや。
慶喜は松平定敬には冷たい男、勤王の人数と幕府方の人数では幕府方の方が多かったのに慶喜が戦いの最中に
江戸に逃げた、勝てる戦を自分から辞めた、家康が息引き取る時に将軍は水戸から出すなと言ってた
慶喜は水戸の人間だ、この慶喜について江戸に行った為にに定敬は流浪の藩主になってしまった
定敬がいない時に家臣の半分が勤王になってしまい定敬は城のない藩主となった、慶喜について行ったばかりに