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貴重な映像をありがとう。懐かしくて涙がでます。
雨や雪の日の夜の米原駅には、風情があって好きでした。私も、埼玉から敦賀の親戚の家に遊びに行く時、よく利用していました。とても懐かしい❗️
貴重映像ありがとうございました。国鉄解体時、幼児だったので記憶にありません。何でもかんでもスピードの時代、鉄道の醍醐味が消えるのは悲しい😢加越の接近放送のおばさん声、昔の大阪駅と同じ声😳
米原駅は直流電化区間の変更等に拠り、規模縮小で在来線ホームと構内配線を大改造してるので、映像の頃と今では大分違ってます(変わって無いのは新幹線側の2本の在来線ホーム)Wikipediaの米原市のページに昭和の頃の航空写真が有りますので今の写真と見比べてみて下さい東海道本線の下り線ホーム等の位置が全く違うのが分かりますから
近江鉄道がその影響で一時は離れ小島になってましたね。今はJRの駅に近いところへ移設されましたけど。2・3番線は平屋根なのに5~8番線ホームは三角屋根なのもきちんと理由あるんですな。そこだけ国鉄時代が残っているということか。
ホームの立ち食いそば屋さんは、大きな釜でそばを茹でてて、とても美味しいかった。
0系がまだ主役の時代ですね❗僕昔(1986年)富山 の親戚の家に向かうとき米原まで0系こだまをつかい米原から富山行き加越に乗ったこと有ります。しらさぎの旧塗装もなつかしい
コメントありがとうございます。いわゆる米原周りルートと言うやつですね。加越も懐かしい名前です。そんなのあったなと思ってしまいました。
特急加越は数回利用した事あるよ北陸本線の普通は昔から乗り継ぎが悪く(敦賀、福井、金沢、富山、直江津等)、一部区間特急を使わないと、自宅まで帰れなかった(途中で宿泊する事に)
米原江は、昭和45年頃が一番賑わっていたと思う。特急つばめをはじめ特急白鳥や雷鳥、しらさぎに、急行阿蘇玄海や、比叡、立山ゆのくに越後、循環急行しろがねに、こがねちくま銀河さらに、きたぐにやつるぎなどたくさんあった。臨時では奄美、みやざき、桜島などたくさんありました。現在は、急行はすべてなくなり、夜行もなくなった。あの頃を懐かしく思う。
のちに有名となる419系電車の赤色塗装が特に珍しいものですな。食パン電車と呼ばれ、同型の715系が1999年までに消える中、21世紀の2011年までたくましく残った583系の生まれ変わりですが。あと東側に貨物側線が多いですねえ。だから近江鉄道の米原駅はかつて国鉄の駅から結構離れたところにあったのか。今は移設されましたが。この頃はデッドセクションも田村・米原間にあり、直流車の新快速が敦賀まで入るなど予想できなかったでしょうね。
北陸線のこの赤い(ワイン色?)の419系だけは凄く印象に残っています。いつの間にかみんな白色になっていましたが・・・そして車内の少し不思議な感じが今でも記憶に残っています。
419系食パン電車は北陸名物で金沢付近でよく利用したなぁ、空いてる時は良いんだけど、込み合うとドア付近にお客が溜まって遅延連発だった縮小改造される以前から乗り換えで米原駅は利用しまくってたので覚えてる今の米原駅東海道本線下りホーム2,3番と昔の下りホーム2、3番の位置は全く違うんだよ、前は使わない1番ホームも有ったし(今は1番線はホームが無く下り本線に成ってる(昔とは位置が違うけども))新幹線側の2本のホームは(5、6番線ホームと、7,8番線ホーム)昔から今の位置で、今の2、3番線ホームは移設した物(移設(新設)したのでホームが短い12両編成+α程度))昔の米原駅はホームが5面で1~10番線(6番線は欠番)まで有って、東海道下りホームから上りホームまでの間に北陸線と中線が複数有って遠かった(旧近江鉄道ホームの近くにJRの1番ホームが有ったんだよ(その横に旧下り専用の2,3番ホーム))坂田、田村間の交直切り換えを長浜に移設した後、米原駅も縮小されて今の様に成っちゃった
@@tsukamasa8532幼いころに米原乗り換えで新幹線に乗り、広島を目指していました。印象に残っているのは下りのホームから新幹線までの跨線橋(地下道?)だったかが長かった記憶があります。真ん中の広がっていた交通の拠点という感じの駅が好きでした。あとよくみるとまだ旧客の列車が残っていたのでしょうかね?この時代・・・
@@tsukamasa8532 まだ越後湯沢駅と違い、定期特急が発着する乗り継ぎ拠点なだけでもマシな印象はありますけどね。米原はかつては町にある唯一の東海道新幹線駅でもありましたが、米原市に市制施行したことでコレも過去のものとなりました。私も青春18利用や北陸への旅行で米原は昔から利用していますが、記憶にあるのはその東海道下り線が移設され、近江鉄道の駅舎が離れ小島のように残っていた頃からですな。新幹線に合わせて在来線が移設された例だと、浜松駅なんかも元はそんな感じだった印象。米原は西浜松に貨物機能が移った浜松と違い、米原操車場が現役で貨物駅も現在建設中ですけどね。
@@speedbird019 昭和60年だと旧型客車列車は残ってはいたけど、米原付近の北陸本線からは撤退した後だと思う昭和57年頃までは北陸本線でも旧型客車列車が有り、米原田村間をDD50、DE10が牽引し、田村駅から交流機EF70、ED70等が牽引してた(実物は見た事無いけど、雑誌等に写真とか記事が掲載されてたよ)旧型客車列車は東北本線黒磯以北とか、奥羽本線、羽越本線、山陰本線等では1980年代最後頃までは残ってたし、自分も乗車したよ
あの特急しらさぎ スイッチバック方向転換 のため 座席回転 しましたね。北陸新幹線出来ましたが、今も年末年始なんかは東海道⇔北陸乗り換え混雑してるのかな・・米原で新幹線取れなくて、ガラガラになったシラサギでそのまま行って、名古屋からのぞみに乗ったな。加越はなくなりましたね。
修学旅行で、初めて乗った新幹線が、0系の新幹線でした。そうですか、当時の米原駅は、名古屋鉄道監理局の管轄だったのですね。
名古屋管理局ですよ。
90年代の半ばでも大分さびれた印象でしたが、その当時でもまだ博多ひかりとかの速達列車でも停まってたのは最後の輝きだったんでしょうね。下のコメントを拝見するとそう感じます。
近距離輸送に関してはむしろ今の方が活気ありますよん国鉄時代はどの線も今の半分かそれ以下の本数でしたからね新快速も民営化までは米原には乗り入れず彦根で折り返していました当時から本数少なかった近江鉄道は更に苦境にたたされていますけど
新幹線上りホーム、まだ壁が無かった頃ですね。
北陸線は本数少なかったですね。親戚の家にいくときしらさぎに乗って富山にいき富山から普通に乗ったこと有ります。413,457,419系Townとれいん乗ったこと有ります
北陸線だけでなく、この頃は東海道線も悲惨でしたよ手持ちの1985年(昭和60年)8月号時刻表を見ましたが、大垣~米原は1時間間隔、米原~草津は30分間隔が日中の基本ダイヤでした。新快速は草津止まりで、この頃は今日の琵琶湖線区間はほとんどその恩恵を得られていません。まあ米原~敦賀は2~3時間に1本、湖西線の永原~近江塩津は日5本の時代で、更に悲惨だったのは確かですが(湖西線のデッドセクション区間は今日の羽越線よろしく気動車運用だったし)
@@asakazefuji 米原駅は117系新快速時代から利用してるけど、当時も東海道線の乗り継ぎ連絡は良くはなかった(姫路駅での連絡も良いとは...)何時も米原駅では30分程度待ってたし、夜遅く成ると客車夜行急行ちくまを米原駅~大垣駅間で利用したりしてたよ湖西線は気動車連絡時代に乗ってます(キハ40系で手動でドアを開けたような気が...)一日数本しかなく、苦労して乗り継ぎを考えだしました北陸本線は本数はともかく、普通列車同士の乗り継ぎが非常に悪かったです(到着の数分前とかに発車してしまう嫌がらせダイヤ)
@@tsukamasa8532 117系新快速といえば、国鉄時代は名古屋鉄道管理局と大阪鉄道管理局の境が米原・彦根間だったこともあり、米原一歩手前の彦根で新快速は折り返してしまっていたようですね。今でもJR東海と西日本の在来線乗換は決して便利とは言い難いですが、米原以東でも普通ないし快速系統(岐阜までは各停)が30分間隔の運転、米原以西は新快速と普通が各々30分間隔となっただけでもだいぶマシになったんだなあと思えてきます(国鉄時代はその半分ずつだった模様)。
特に近年はバリアフリーで段差のある車両は淘汰されつつあります。
大阪を基準にして近郊列車の終点が米原。名古屋を基準にして近郊列車の終点が米原。米原での連絡を優先しようとしたら、大阪や名古屋でのパターンダイヤは崩れてしまう。米原駅の宿命だ。
駅のアナウンスに、名古屋の管轄だったと感じられました。〇番線。
駅は変わったけどあの界隈は相変わらずなんもないよな
7番ホームの隣にある短いホームは何?自分の子供の頃には無かったような気がするけど。。。あと、駅の放送も懐かしい。同じ東海道線でいうと、大垣や名古屋もこの自動放送だった気がします。
貨物専用のホームでは?旅客用の乗り換え通路の南側に、貨物専用の通路がありました。画像に映っている奥に見える通路。旧東口改札の南側に荷物用の窓口カウンターみたいになのがあったような。子供の頃、荷物を取りに行った記憶があります。
旅客ホームが5本もあるのに、更に追加された貨物ホームです。大阪よりに貨物専用の跨線橋が有り、それと貨物エレベーターで繋がってました。旅客用階段とは繋がってません。
国鉄末期に魔改造された食パン列車も…でも食パン列車が通勤時間にも使われてたと、思うとなんか酷いですね。扉の幅が確か700mmぐらいだったと思います。やる気ないですね…。まぁお金がないのは分かりますけど
食パン電車は北陸本線と東北本線で何回も乗車してるけど、元寝台特急車なので乗り心地自体は悪くなかったよボックスシートも広かったし通勤通学時間帯は扉付近に乗客が溜まり乗り込めず、車掌が案内放送で「入口付近で立ち止まらず奥に入って下さい」って言ってたね(大抵無視されてたけど...)通勤通学時間帯は30分~45分で終わり、空いて楽に成るんだけど夏休みの期間は長距離移動客が多く、こっちの方が悲惨だった記憶が有るよ、始発駅で座れないと終点まで(2時間とか)立つ事に成っちゃって...
米原は駅も街も小さくなったなあ
やっぱりそう感じますか。私もこの前使ってみて驚きました・・・
東海道新幹線の当初の開業駅で駅も街も廃れたのは米原だけですからね。
駅前は駐車場だらけですもんね。コンビニは無くなったと聞いてます。
1975年に湖西線が出来て関西対北陸の街道からは離れてしまいましたしねえ。あと1982年の上越新幹線開通で、東京から北陸へのルートもメインが北回りに変わってしまった。北陸新幹線全通で更に傾向が拍車。貨物に関しても湖西線経由に振り返られたものが多く、駅配線もだいぶ整理されて今の格好に。
平和堂も閉店?やら改装やらですし・・・
とりあえず国鉄時代は先頭車にテールライトを、最後尾にヘッドライトを点灯させる運転士が多かったのはよく分かりました。
なにか間違いがあったのでしょうね(笑)
今となっては、加越もしらさぎに変わったな。51号から米原発着なので判りやすいですね。
その通りですが、私にとっては、加越と言う言葉が懐かしいです。
冒頭に聞こえてくる子供も、今頃もうアラフォーなんだろうなぁ……
正直、電車以外の風景は今と大差ないな・・・
そうでもない米原駅、東海道線はホームがだいぶ整理されてるし中線もなくなってしまってる今は橋上駅舎となり全く違う光景ですよ
このときはまだ米原以北は関西じゃなくて北陸って感じですね。
実際、鉄道管理局的にも米原駅は名古屋の管轄、ここから北が金沢の、西が大阪のとなっていたようです民営化前に境界線が引き直されたエリアの一つ
野球のKKコンビとサッカーキンタデルブイトレの時代
マジですか?今東海道線は米原までは新快速や快速、特快がきますが
近距離列車に関してはこの頃より本数大きく増えてるんですよね、実際3方向全てに関して
貴重な映像をありがとう。
懐かしくて涙がでます。
雨や雪の日の夜の米原駅には、風情があって好きでした。私も、埼玉から敦賀の親戚の家に遊びに行く時、よく利用していました。とても懐かしい❗️
貴重映像ありがとうございました。
国鉄解体時、幼児だったので記憶にありません。
何でもかんでもスピードの時代、鉄道の醍醐味が消えるのは悲しい😢
加越の接近放送のおばさん声、昔の大阪駅と同じ声😳
米原駅は直流電化区間の変更等に拠り、規模縮小で在来線ホームと構内配線を大改造してるので、映像の頃と今では大分違ってます
(変わって無いのは新幹線側の2本の在来線ホーム)
Wikipediaの米原市のページに昭和の頃の航空写真が有りますので今の写真と見比べてみて下さい
東海道本線の下り線ホーム等の位置が全く違うのが分かりますから
近江鉄道がその影響で一時は離れ小島になってましたね。
今はJRの駅に近いところへ移設されましたけど。
2・3番線は平屋根なのに5~8番線ホームは三角屋根なのもきちんと理由あるんですな。そこだけ国鉄時代が残っているということか。
ホームの立ち食いそば屋さんは、大きな釜でそばを茹でてて、とても美味しいかった。
0系がまだ主役の時代ですね❗僕昔(1986年)富山 の親戚の家に向かうとき米原まで0系こだまをつかい米原から富山行き加越に乗ったこと有ります。しらさぎの旧塗装もなつかしい
コメントありがとうございます。
いわゆる米原周りルートと言うやつですね。
加越も懐かしい名前です。そんなのあったなと思ってしまいました。
特急加越は数回利用した事あるよ
北陸本線の普通は昔から乗り継ぎが悪く(敦賀、福井、金沢、富山、直江津等)、一部区間特急を使わないと、自宅まで帰れなかった(途中で宿泊する事に)
米原江は、昭和45年頃が一番賑わっていたと思う。特急つばめをはじめ特急白鳥や雷鳥、しらさぎに、急行阿蘇玄海や、比叡、立山ゆのくに越後、循環急行しろがねに、こがねちくま銀河さらに、きたぐにやつるぎなどたくさんあった。臨時では奄美、みやざき、桜島などたくさんありました。現在は、急行はすべてなくなり、夜行もなくなった。あの頃を懐かしく思う。
のちに有名となる419系電車の赤色塗装が特に珍しいものですな。
食パン電車と呼ばれ、同型の715系が1999年までに消える中、21世紀の2011年までたくましく残った583系の生まれ変わりですが。
あと東側に貨物側線が多いですねえ。だから近江鉄道の米原駅はかつて国鉄の駅から結構離れたところにあったのか。今は移設されましたが。
この頃はデッドセクションも田村・米原間にあり、直流車の新快速が敦賀まで入るなど予想できなかったでしょうね。
北陸線のこの赤い(ワイン色?)の419系だけは凄く印象に残っています。
いつの間にかみんな白色になっていましたが・・・
そして車内の少し不思議な感じが今でも記憶に残っています。
419系食パン電車は北陸名物で金沢付近でよく利用したなぁ、空いてる時は良いんだけど、込み合うとドア付近にお客が溜まって遅延連発だった
縮小改造される以前から乗り換えで米原駅は利用しまくってたので覚えてる
今の米原駅東海道本線下りホーム2,3番と昔の下りホーム2、3番の位置は全く違うんだよ、前は使わない1番ホームも有ったし(今は1番線はホームが無く下り本線に成ってる(昔とは位置が違うけども))
新幹線側の2本のホームは(5、6番線ホームと、7,8番線ホーム)昔から今の位置で、今の2、3番線ホームは移設した物
(移設(新設)したのでホームが短い12両編成+α程度))
昔の米原駅はホームが5面で1~10番線(6番線は欠番)まで有って、東海道下りホームから上りホームまでの間に北陸線と中線が複数有って遠かった(旧近江鉄道ホームの近くにJRの1番ホームが有ったんだよ(その横に旧下り専用の2,3番ホーム))
坂田、田村間の交直切り換えを長浜に移設した後、米原駅も縮小されて今の様に成っちゃった
@@tsukamasa8532
幼いころに米原乗り換えで新幹線に乗り、広島を目指していました。
印象に残っているのは下りのホームから新幹線までの跨線橋(地下道?)だったかが長かった記憶があります。
真ん中の広がっていた交通の拠点という感じの駅が好きでした。
あとよくみるとまだ旧客の列車が残っていたのでしょうかね?この時代・・・
@@tsukamasa8532
まだ越後湯沢駅と違い、定期特急が発着する乗り継ぎ拠点なだけでもマシな印象はありますけどね。
米原はかつては町にある唯一の東海道新幹線駅でもありましたが、米原市に市制施行したことでコレも過去のものとなりました。
私も青春18利用や北陸への旅行で米原は昔から利用していますが、記憶にあるのはその東海道下り線が移設され、近江鉄道の駅舎が離れ小島のように残っていた頃からですな。
新幹線に合わせて在来線が移設された例だと、浜松駅なんかも元はそんな感じだった印象。米原は西浜松に貨物機能が移った浜松と違い、米原操車場が現役で貨物駅も現在建設中ですけどね。
@@speedbird019
昭和60年だと旧型客車列車は残ってはいたけど、米原付近の北陸本線からは撤退した後だと思う
昭和57年頃までは北陸本線でも旧型客車列車が有り、米原田村間をDD50、DE10が牽引し、田村駅から交流機EF70、ED70等が牽引してた(実物は見た事無いけど、雑誌等に写真とか記事が掲載されてたよ)
旧型客車列車は東北本線黒磯以北とか、奥羽本線、羽越本線、山陰本線等では1980年代最後頃までは残ってたし、自分も乗車したよ
あの特急しらさぎ スイッチバック方向転換 のため 座席回転 しましたね。北陸新幹線出来ましたが、今も年末年始なんかは東海道⇔北陸乗り換え混雑してるのかな・・米原で新幹線取れなくて、ガラガラになったシラサギでそのまま行って、名古屋からのぞみに乗ったな。加越はなくなりましたね。
修学旅行で、初めて乗った新幹線が、0系の新幹線でした。
そうですか、当時の米原駅は、名古屋鉄道監理局の管轄だったのですね。
名古屋管理局ですよ。
90年代の半ばでも大分さびれた印象でしたが、その当時でもまだ博多ひかりとかの速達列車でも停まってたのは最後の輝きだったんでしょうね。下のコメントを拝見するとそう感じます。
近距離輸送に関してはむしろ今の方が活気ありますよん
国鉄時代はどの線も今の半分かそれ以下の本数でしたからね
新快速も民営化までは米原には乗り入れず彦根で折り返していました
当時から本数少なかった近江鉄道は更に苦境にたたされていますけど
新幹線上りホーム、まだ壁が無かった頃ですね。
北陸線は本数少なかったですね。親戚の家にいくときしらさぎに乗って富山にいき富山から普通に乗ったこと有ります。413,457,419系Townとれいん乗ったこと有ります
北陸線だけでなく、この頃は東海道線も悲惨でしたよ
手持ちの1985年(昭和60年)8月号時刻表を見ましたが、大垣~米原は1時間間隔、米原~草津は30分間隔が日中の基本ダイヤでした。
新快速は草津止まりで、この頃は今日の琵琶湖線区間はほとんどその恩恵を得られていません。
まあ米原~敦賀は2~3時間に1本、湖西線の永原~近江塩津は日5本の時代で、更に悲惨だったのは確かですが(湖西線のデッドセクション区間は今日の羽越線よろしく気動車運用だったし)
@@asakazefuji
米原駅は117系新快速時代から利用してるけど、当時も東海道線の乗り継ぎ連絡は良くはなかった(姫路駅での連絡も良いとは...)
何時も米原駅では30分程度待ってたし、夜遅く成ると客車夜行急行ちくまを米原駅~大垣駅間で利用したりしてたよ
湖西線は気動車連絡時代に乗ってます(キハ40系で手動でドアを開けたような気が...)
一日数本しかなく、苦労して乗り継ぎを考えだしました
北陸本線は本数はともかく、普通列車同士の乗り継ぎが非常に悪かったです(到着の数分前とかに発車してしまう嫌がらせダイヤ)
@@tsukamasa8532
117系新快速といえば、国鉄時代は名古屋鉄道管理局と大阪鉄道管理局の境が米原・彦根間だったこともあり、米原一歩手前の彦根で新快速は折り返してしまっていたようですね。
今でもJR東海と西日本の在来線乗換は決して便利とは言い難いですが、米原以東でも普通ないし快速系統(岐阜までは各停)が30分間隔の運転、米原以西は新快速と普通が各々30分間隔となっただけでもだいぶマシになったんだなあと思えてきます(国鉄時代はその半分ずつだった模様)。
特に近年はバリアフリーで段差のある車両は淘汰されつつあります。
大阪を基準にして近郊列車の終点が米原。名古屋を基準にして近郊列車の終点が米原。米原での連絡を優先しようとしたら、大阪や名古屋でのパターンダイヤは崩れてしまう。米原駅の宿命だ。
駅のアナウンスに、名古屋の管轄だったと感じられました。〇番線。
駅は変わったけど
あの界隈は相変わらずなんもないよな
7番ホームの隣にある短いホームは何?
自分の子供の頃には無かったような気がするけど。。。
あと、駅の放送も懐かしい。
同じ東海道線でいうと、大垣や名古屋もこの自動放送だった気がします。
貨物専用のホームでは?
旅客用の乗り換え通路の南側に、貨物専用の通路がありました。画像に映っている奥に見える通路。
旧東口改札の南側に荷物用の窓口カウンターみたいになのがあったような。子供の頃、荷物を取りに行った記憶があります。
旅客ホームが5本もあるのに、更に追加された貨物ホームです。大阪よりに貨物専用の跨線橋が有り、それと貨物エレベーターで繋がってました。旅客用階段とは繋がってません。
国鉄末期に魔改造された食パン列車も…でも食パン列車が通勤時間にも使われてたと、思うとなんか酷いですね。扉の幅が確か700mmぐらいだったと思います。やる気ないですね…。まぁお金がないのは分かりますけど
食パン電車は北陸本線と東北本線で何回も乗車してるけど、元寝台特急車なので乗り心地自体は悪くなかったよ
ボックスシートも広かったし
通勤通学時間帯は扉付近に乗客が溜まり乗り込めず、車掌が案内放送で「入口付近で立ち止まらず奥に入って下さい」って言ってたね(大抵無視されてたけど...)
通勤通学時間帯は30分~45分で終わり、空いて楽に成るんだけど
夏休みの期間は長距離移動客が多く、こっちの方が悲惨だった記憶が有るよ、始発駅で座れないと終点まで(2時間とか)立つ事に成っちゃって...
米原は駅も街も小さくなったなあ
やっぱりそう感じますか。私もこの前使ってみて驚きました・・・
東海道新幹線の当初の開業駅で駅も街も廃れたのは米原だけですからね。
駅前は駐車場だらけですもんね。コンビニは無くなったと聞いてます。
1975年に湖西線が出来て関西対北陸の街道からは離れてしまいましたしねえ。
あと1982年の上越新幹線開通で、東京から北陸へのルートもメインが北回りに変わってしまった。
北陸新幹線全通で更に傾向が拍車。
貨物に関しても湖西線経由に振り返られたものが多く、駅配線もだいぶ整理されて今の格好に。
平和堂も閉店?やら改装やらですし・・・
とりあえず国鉄時代は先頭車にテールライトを、最後尾にヘッドライトを点灯させる運転士が多かったのはよく分かりました。
なにか間違いがあったのでしょうね(笑)
今となっては、加越もしらさぎに変わったな。51号から米原発着なので判りやすいですね。
その通りですが、私にとっては、加越と言う言葉が懐かしいです。
冒頭に聞こえてくる子供も、今頃もうアラフォーなんだろうなぁ……
正直、電車以外の風景は今と大差ないな・・・
そうでもない
米原駅、東海道線はホームがだいぶ整理されてるし中線もなくなってしまってる
今は橋上駅舎となり全く違う光景ですよ
このときはまだ米原以北は関西じゃなくて北陸って感じですね。
実際、鉄道管理局的にも米原駅は名古屋の管轄、ここから北が金沢の、西が大阪のとなっていたようです
民営化前に境界線が引き直されたエリアの一つ
野球のKKコンビとサッカーキンタデルブイトレの時代
マジですか?今東海道線は米原までは新快速や快速、特快がきますが
近距離列車に関してはこの頃より本数大きく増えてるんですよね、実際
3方向全てに関して