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優しい駅員さんの映像がありましたが、忘れられない思い出があります。s38高校へ向かう朝、駅には既に汽車が止まっていて運転手の顔も見え間に合わないことはすぐわかりました。線路を渡り駅へ向かいましたが汽笛が鳴らず止まったままです。改札口を通り乗車するとゆっくりと動き始めました。車内は遅刻を気にしてかざわついていましたが、私は運転手の優しさに感激していました。現代ではありえない出来事でした。
そうですね。今は、お客を確認、振り返らずに扉が閉まりますから。
ローカル線と都市圏の通勤電車で差があると思いますが今はむしろ駆け込み乗車の客を延々と待つ印象があります。昔は適当なところでドアを閉めていました。
そうですね。 停車時に駅弁売りの方々が、窓越しに売っていた時、出発時の汽笛がなっても、駅弁売りの方が大急ぎで仕事が終えるまで、待ってましたよね。
私はあなたのビデオが本当に好きです。 日本語が話せないのでごめんなさい。 お時間と労力をありがとう。
こんだけ書けたら大したもんだわ。
とても約60年程前と言うのが恐ろしい程きれいな画質
フィルムは後からなんぼでも高画質化できるからね…フィルムデジタルに勝てる数少ない利点よ
いやいやここまでなかなかねえぞ。
投稿された方、本当に貴重でカラー映像。他の話をするも何ですが、以前はユーチューブにて元となる白黒映像でこの作品を拝見した事があるのですが、やはりカラーですと鮮明に生え昔の作品とは、とても思えないです。ありがとうございます。
岐阜県の大垣出身ですが、この映像に出てくる人物の話し方が自分の祖父そっくりで、とても懐かしい気持ちになりました。東京に来て7年目です。懐かしい故郷の言葉を聞いているようです。
昭和38年といえばまだ2才のころ。その当時の映像をこんなきれいな画質で見られるとは。
ちょっとレベチですよね😮
映画用のフィルムはHD画質に相当するからね
駅員をかつてしてましたが、この時代から、旅客対応の勉強会、ロールプレイングが存在していたことに本当に驚きです。ハード面は最新になりましたが、根幹は何も変わっていません。
私の幼少の頃、阪和線天王寺発の列車で、急な腹痛になりのたうちまわった時、車掌さんが司令所に連絡、急行きのくにを臨時停車させ、医師を乗せ私を治療して頂きました。あの頃の国鉄の職員、機関士、車掌、司令所様ありがとうございました。確かな記憶ではありませんが、臨時停車したのは鳳駅だと、その風景は今もそのロケーションは変わっていません。
心温まる経験談、ありがとうございました。私も幼少時に多少似た経験をしました。あるターミナルの駅で原因不明の腹痛に見舞われました。年配の駅員の方が私を抱いて駅の地下通路を経て、医務室へ運んで下さいましたが、幼いながら不安で怖かった思いがしました。ベットに寝かしてもらい、やがて薬も効いてか痛みも引くと、傍らに母と姉が居ました。姉は、「(医務室の)お姉さんにおせんべい貰っちゃった」とニコニコしており、母も「治してもらえてよかったね」と微笑んでおりました。その時天井斜め上の方から貨物列車の様な通過音がゆっくりと響いて、やがて去って行きましたが(医務室はどうも地下1階であったようでした)、薄暗い小さなその病室での様子に、当時私は何か分からぬも非常な安らぎを感じたものでした。そして名前も知らぬ駅員さんや、医師の方、看護婦のお姉さんに、ふと感謝を思い起こせました…
@@chokupon9111 同じ様な経験なさっているのですね。国鉄から民営化になり、当時の情緒ある風景は少なくなりました。あの頃のうるさいモーターの音やコンプレッサーの音、ディゼルのうるさく、のろまな出足。ガタンゴトンとレールの継目の音、今はロングレールで、インバーターの鋭い加速や乗り心地。立っていても、吊り革が不要な位の安定性。何度かブルートレインに乗って心地よい子守唄の様なレールや車体の軋む音「弁当え〜弁当」の売り子の声。懐かしい!昔に帰れないだろうか?
時代の記録として貴重なだけではなく、ストーリーや画づくりといったカラー映画作品としてもとてもレベルが高いと思います。教育映画を得意としていた岩波映画社の拘りに満ちた仕事も素晴らしいですし、こうした作品を作る意気込みや財政基盤のあった国鉄も凄いと思います。公開に感謝です。
貴重すぎる映画を投稿して下さり、ありがとうございます。今より遥かに多くの業務が人の手で行われていた時代に安全輸送定時輸送に取り組んでくれた先人たちの努力があったからこそ、現在の世界に誇れる安全な日本の鉄道輸送があるということを、強く思わずにはいられません。
この高コスト体制を赤字赤字と批判したのが国民の多くの輿論でしたからね。
日本人の仕事に対する姿勢がいつまでも変わらないことに感銘しました。画質も非常によく、すばらしい動画ありがとうございます
昔は駅員(店員、警官、役人etc.)も、客に普通に言い返してたんだよなそれが、いつの間にか「お客様は神様」になった
今の時代の客はとても神様とは思えない!
最近は駅員がちゃんと言うべきことを言うようになってきて良い傾向ですね
警官はトラック野郎の時代のように言い返せる時代に戻るべきだよ
最近は言い返してると思うよ。SNSで拡散されても、駅員の味方の論調が強いので、尚更言い返せる時代。
お客様は神様は深さ甚大な誤り 過去の遺物としたい
懐かしい。親父が国鉄だったです。親父の制服、制帽姿を思い出しました。
中学1年生の時に昭和が終わり平成を迎えた世代の人間です。思えば、昭和という時代を物心ついて経験できた最後の世代のようにも感じます。自分は鉄道に詳しくはありませんが、働く人のひたむきさ、とても懐かしくノスタルジーを感じる美しい映像です。個人的には、家族旅行のときに飲む火傷するほど熱い売店のお茶が、容器のビニールが溶け込んでいるようなにおいがして苦手だったのを思い出します。それももう、戻ってこない時代の懐かしい思い出です。
このつばめは、懐かしい子供の頃近くに機関区が有って蒸気機関車は毎日飽きるほど見てきた 今と違って機関区に入っても叱られなかった 76歳の想い出
私は父も祖父も日本国有鉄道の職員でした❣️懐かしい映像をありがとうございます この時代は私が小学校にあがったころかと思います 私は江戸っ子ですから当時のこの辺りの様子は知りませんが後に仕事で富山へよく行きました 新幹線がまだ通っていないころです
懐かしい光景です。この当時、駅の近くの線路沿いに住んでしましたので、毎日蒸気機関車を見て育ちました。 学校から帰ったら、蒸気機関車の石炭置き場や蒸気機関車の操車場に遊びに行っていました。 蒸気機関車を見ていると命を宿した生き物のように見えてきます。
画質が本当に綺麗。まるで自分の目でこの世界を見つめたかのよう
戦後の国鉄の職場の様子を良く画像で捉えていますね。この映画のタイトルは、『駅』ですが、場所は駅ですが、岩波映画らしく、人間の人生を国鉄マンとしての鉄道人生を主題に 作りあげています。私は、鉄道ファンですから、列車や車輌も興味あり面白いですが、印象として、構内作業員として国鉄マンになった若者が、ヤードマンの仕事、貨物の入れ替え作業のために、貨車に飛び乗り、連結するまでのブレーキかけの時の前方を身を乗り出して真剣に見る目の表情です。ヤードマンは、危険な仕事で大怪我をする危険が毎日あります。ベテランとなった助役さん達先輩が、後輩の若者に、危険の教えや人生の明日を夢見て働く心構えをそれとなく話して聞かせる愛情が素敵でした。米原のこの若者には、年齢から国鉄を退職しているでしょうが、その後の人生で機関士や駅助役になったのでしょうか。ヤードマンは、東京の田端の大操車場にもバンプ、(バンプとは、貨車を入れ替えるためのヤードの先端を坂にしてあり、入れ替え機関車が、貨車を線路の山の頂上へ運び、頂上から一両一両切り離して、ポイントなどを渡りながら、行き先別の貨物列車の編成を作る構内の設備のこと)があり、大勢のヤードマンがいたと思います。危険なので田端駅の横には、国鉄の田端鉄道病院がありました。子供の頃、私は田端駅改札口を出た陸橋の上から、蒸気機関車が沢山動いていて、陸橋の上まで煙を吹上て来るので、横飛び移動しながら、線路を見ていた記憶があります。この昔の貴重な動画をアップしていだだけることは、とてもありがたく、何度も見たいです。どうもありがとうございます。
米原駅の旧駅舎は覚えていますが、大きく様変わりしましたね。名脇役の戸浦六宏さん(故人)がナレーションをされている点でも貴重な動画だと思います。
時代の流を止める事は出来ないけれど、自分自身この様な日本の素晴らしい時代を見れた事、生きれた事を幸せに思います。
子供が大勢いて、大人ががむしゃらに働き、地方の小さな街も活気にあふれ、いい時代だった、。
遠い昔、まだ幼かった私はつばめに乗って東京へ行きました。懐かしい駅の賑わい、お弁当、みかん、お茶を窓越しに買ってもらった嬉しさ、現代よりはるかに豊かな日々がありました。大人が真剣に働き、子どもはそれを見て大きくなったのです。
昭和38年で、40年前となると大正時代からこの助役さんは米原駅で働いてきたんだな、いろんなものを見てきたんだよなぁ55歳で定年か…いろいろ考えさせられるなぁ
15歳の頃から働いていたと考えると現代人が如何に今は経験不足が多いかが分かるよ
国鉄時代も自然現象で遅延してもお詫びのアナウンスしていたのか……。これは意外。
こんなにきれいな映像なのに、60年前のことでここに写る人たちはもうほとんどいないなんて不思議ですね。
チラッと見えた新幹線のポスター、この僅か一年後に開通とは・・・・・。
19歳の少年はあどけなさが残るけど、でも今の19歳より頼もしく見える。
この時代の人は、誰しも映画の俳優になれるような目の表情の豊かさを持っているなぁ。産まれる前の時代のカラー映像をこんなに綺麗に見られるのは衝撃です。
この頃生まれましたが今に繋がる取り組みが始まっていたのですね。驚き👀‼️です。貴重な映像ありがとうございました❗
私も国鉄OBです。新人は、まず便所掃除からでした。詰所内は常に「指差称呼」「オーライ!」の声が飛んでました。
セットでも観光でもない機関車の勇姿がカッコイイ
今の日本に失われた日本人の力強さを感じる映像です。懐かしい。。
今から60年前の記録映画ですね。当時の駅員・作業員・駅弁売り、そして人々の駅を利用する日常風景を描いた素晴らしい作品です。SLも懐かしいですし、この記録映画の語りは、拙者が子供の頃、悪役もありましたが渋い役者であり名優の戸浦六宏氏、語りができてこそ俳優です。昭和38年は、東京オリンピック前の年で1月か2月頃に、日本は寒波が襲い大雪だったと年配の方に聞いた記憶があります。
素晴らしい記録映像に見入ってしまいました。氷雨の米原駅構内を、あの時代着心地の悪かったであろう黒雨合羽を着て黙々と歩く大橋助役の姿には、何か深いものを感じました。ヤードで貨車へ飛び乗ったり、ポイント器具の手入れを行う仕事も、危険や苦心があったろうこともよく見てとれました。しかし20:04からの車内の散らかり様には驚きました。雪で遅れたことへの不満を口にする乗客の声もリアルでしたが、その腹いせにわざと散らかしていったのですかね…。とにかく苦労が伴う面が多々あった鉄道の仕事を見事に描いていましたね。そしてそんな苦労があっても、国鉄とはやっぱり誇りの持てる職場であったのかな…。大変な懐かしさと共に、そんな感想が持てました
素晴らしい映像をいつもありがとう御座います!国鉄時代の人情味が伝わっていますよ!✌️🤩
80系の出発時の音が入っているのが貴重すぎる
1960年代を再現してるハイビジョン映像か?っていうくらい画質が良くてビックリです。
ポイント、信号の切り替え・・・全部目視作業。人間のなせる業。今では、コンピュータが全てやってくれる。時代の流れとはいえ感慨深いものがある。
ほんとですよね。すべては安心安全、定刻発車につながる仕事。先代の国鉄マンの熱い思いが現代に引き継がれていることに感謝。
画面からは鉄の匂いが感じられました。夜行列車到着後の床の汚れ様はすさまじいものでしたね。何でも座席の下へ押し込んでいたから当然ですが。国鉄が直接関わって制作した映像ならではの臨場感があります。人と人の関わり合いが濃密な時代でした。
昔、俺も国鉄職員でしたからある意味懐かしく拝見してます。
国鉄に入社するのは当時はかなり難関でしたか?
@@ヨーグルト美味すぎ 東京3局だけで、300人募集のところ2000人超の応募があったよ。1日じゃ出来ない為五日間に分けてやったんだけど、けっこう難しかったんです。でも希望の東京北局の運転系職場に拾っていただいた感じで嬉しかったのを今でも忘れないですよ。
まだ生まれていませんが、不思議だけど懐かしさを感じます。日本は昔から素晴らしいと思います😊誇りを持って生きていきたいです😊
映像がとても綺麗に残っていて素晴らしすぎる。まるで20~30年前みたい。
自分が生まれる1年前だ。この時代に戻っていろんな列車に乗って日本一周してみたかったな。
ええなぁ、こういう昭和の匂いが!
米原駅の光景から私の幼い頃の情景がそのまま蘇りました。大阪から客車急行「立山」に乗って富山県へ帰省していました。EF58~SL~ED70とのリレー、米原で駅弁や蕎麦、冷やしミカンを買い込んだこと、SLの煙など。広大な操車場もありましたね。貴重な記録をパソコンで観るとは思いもよりませんでした。ありがとうございました。
初めて米原駅に降り立った時は、田舎の何も無い所なのに、駅だけやたら大きいことに驚いた。しかし湖西線が無かった頃だし、関西から北陸方面の列車は全て米原経由。忙しかったでしょうね。
「これといった産業はないが敷地・構内は広い」・・そういう点では60年近く経っても米原(駅)は変わっていないですね。
山陽新幹線の新山口(旧小郡)もそうですね。今は山口市ですが当時は小郡町で駅の規模と町の規模がアンマッチな気がしました。
今も昔も米原は鉄道の要衝地!
この頃の国鉄が一番好きだったな。新幹線開通直前。東海道線は花形列車の花盛り!ただ、スジ屋さんは大変だったろうな。80系に一等車が付いているのは貴重だ。
ストライキしまくって国民から総スカン食らってましたが
@@ageg5413 諸悪の根源でもある極左労働組合さえ無かったら国鉄時代も良かったのだが・・・ あいつら、機関車・貨車をはじめ、あらゆる車輛に落書きしやがってからに💢
@@NHKをぶっ壊ーす 当時、ストライキの影響で中学校は一週間休みになるし、たまたま福島へ旅行に行っていた祖父母は帰ってこれなくなってしまい、親父と車で迎えに行った懐かしい思い出。東北道も常磐道も未だ無い時代、車の運転も大変だっただろうに・・・。
もちろん高画質に修正した映像でしょうが これ程鮮明になるとは……感激ですね
原盤フィルムがKodachromeだからだと思います
@@sunami808まだこの頃だと、フジはコダックに品質で追いつけてなかったんですかね?
貴重な大阪駅とその周辺の映像まである。そして、清飛羅ってすごい名前・・・。
1963年だから継電連動装置になっているのですね。電気転轍器の進路切り替えが速いですね。電動ポイントなんて幹線らしい景色です。人力で思いテコを操作するのが普通の時代ですから手元の制御盤で転換なんて同じ鉄道マンでもエリート意識はあるのかもしれません。
信号を扱える掛員は、あるはんめん職人です。もちろん、プライドが高いと思います。僕も駅員でしたけど、信号所ヘは、見学程度しかあがった事がありません。白いテコがあるんですが、それはフリーなテコで、操作しても、作動しないのです。そのテコを扱うだけでも、手が震えたものでした。
この二十歳くらいの若者が今や80代、一生はあっという間。。今の一瞬一瞬を大切に生きたい
親父が国鉄マンだったので弁当を持って行ったりして良く駅舎や操作場に行く機会が多くありました…この動画を見ると映像だけでなく、汽笛とか石炭の匂いとか、鐵の錆の匂いとか今でも懐かしく思い出します。
懐かしい映像ですね。1970年頃に親父と二人で名古屋から鹿児島まで国鉄に乗って帰った事があり途中の駅で駅弁を買い食べた記憶があるよ🥸👍
7:17急行にもビュッフェが連結されていた時代。車内で寿司を🍣握っていた大将は、その後、静岡県でつばめ寿司を開業されたが、亡くなられて閉店された。時代の流れを感じます。
4:07 産経新聞記事によると、米原駅ホーム上で長年立ち食いそばを販売していた井筒屋さんが、2020年(令和2年)5月末限りでホーム上での営業を停止して、米原駅2階コンコース売店での駅弁販売に専念したようですね。駅弁立ち売りは全国的にもとっくに廃止されて、福岡県北九州市の鹿児島本線折尾駅に残るのみらしいですが、寂しいものです。
立ち食い蕎麦を辞めて駅弁に専念するパターンもあるのですね・・・千葉の我孫子駅では、かの『裸の大将』にパッケージの掛け紙を描いて貰っていた事でも有名だった『弥生軒(チェーン定食屋とは無関係)』は、1975年頃には弁当が売れなくなり、国鉄時代の1983年には駅弁販売を廃止して、副業として1967年から始めていた立ち食い蕎麦一本に事業を絞って現在に至っています。現在は『唐揚げ蕎麦』で有名な所ですね。
この頃は駅弁の空箱は椅子の下に置いておきましたねー。高崎の「だるま弁当」と横川の「釜飯」を食べたのは記憶にあります。
何年か前に『峠の釜めし』食べましたが、子供の頃に食べた時と全く違い美味しくありませんでした。現代はコンビニ弁当や、冷凍食品まで何を食べても美味しい。でも当時は『峠の釜めし』が最高峰だと思っていたのに。
横川の釜飯を横川駅のホームで売ってるのを電車内から買った記憶あります。今でもトップで美味しい駅弁だと思います。(現在48歳)
米原駅だけで450人の駅員!
努力や頑張りが認められた時代か・・・
そんな時代があったんですね…
社畜「・・・」
新幹線開業1年前の特急こだまが懐かしい
この様な映画が5年も前から公開されていたとは知りませんでした。急行「立山」をD50が牽いて出て行く所もいいですね。当時は交直のつなぎにD50を使っていたんですよね。D50200も写っていました。キリ番なので、当時はちょっと有名なD50でした。良かったです。
当時の映像を見て、なにもかもが人力作業と行いうアナログアクションだったというですね。電車の駅接近や誘導、さらにポイント切り替えに乗客が乗り降りする際の確認作業など、平成末期から令和の現代だと、ビデオやコンピューターなどを駆使していたのが当時ほとんどが人力作業、それだけに職人技の試される時期だったんですね。映像の製作年からして、生まれる直前でしょう。
子供が大勢いて、大人はがむしゃらに働き、地方の小さな街も活気がありいい時代でした、。
赤帽さんのいるし、古き良き時代の駅ですね。
この動画で19歳だった子も今や生きてれば80歳か
こんな綺麗に映像残ってるのが凄い世界は本当に凄い発展成長したんだね
私の生まれた年貴重な映像ありがとうございます
このわずか4~5年後には国労・動労と管理職の間で血みどろの戦いが始まったのが噓のような国鉄黄金時代を飾る頂点の時期
賃金は安く、職域や労組による意識差はあったものの、いわゆる「国鉄一家」の団結があったころですね。子どもの勉強机が高くて買えないとある職員が嘆いたら、施設部の職員が作ってくれた、というエピソードもあったとか。
アップして下さりありがとうございます。
貴重な映像ありがとうございます
国鉄時代の車両がたくさん映ってて幼かった頃を思い出しました☺️EF5878のあずき色のような車両は見たことがなかったです。湘南色車両は今は博物館かな。貴重な映像を観せて頂きありがとうございます🙇
ご貴重な映像ありがとうございます。黄金時代の東海道線のカラー映像、とても貴重と考えます。この映像の人々の多くは戦争経験者と思われますが、当時でも戦災から立ち上がってきたとは思えないくらいの鉄道技術ですね。
Wonderful history. Thank you :)
こんなに綺麗な映像があるなんてすごい昔は熟女さんに会いに行った時若いツバメがつばめに乗って来ましたよと お土産を持って行ったよなぁと
八高線の高麗川駅で汽車を待っている間によく駅員さんが汽車や貨物の脇に乗って誘導している光景を見かけました。懐かしいです。
要衝、米原駅国鉄の黄金期の様子が伝わってきます
私は3歳でした。兄が7歳で亡くなったとき、魚津から金沢大学病院に雪の1月3日に亡くなりました。ちょうどそのころの国鉄のドキュメンタリーですね。ありがとうございます。
素晴らしい!何もかも。当時の国鉄黄金時代、それも列車ではなく当時の駅員の仕事ぶりを鮮明な画像で今に伝える超一級の資料です。興奮。鉄道ピクトリアル誌と鉄道ファン誌は既に発刊。鉄道ジャーナル誌は未だ出ていない頃。(昭和43年創刊)特急つばめのパーラーカー。客車時代の急行立山…。北陸方面の雪による遅延…。何もかも伝説ですよ。およそ60年、国鉄分割民営化、東海道新幹線が東京〜新大阪2時間半とか、急行立山がサンダーバードへ、敦賀止まりで北陸新幹線に乗り換えとか、当時の人びとが聞いたら荒唐無稽なホラ話にしか聞こえないでしょう。
20年ぐらい前にヒストリーチャンネル(CS放送)で観た記憶があります。確か国鉄記録映画リマスター特集で何本か放送されたうちの一つだったような。
当時父24、母22歳。戦争の苦しさから逃れようと、明日になればと日々を戦ってきた時代。
貴重な綺麗な動画有り難うございます。しかしながらもうこの時代から「米原ダッシュ」してて草www
カラーで力が入っているのでしょうが、カメラワークといい、編集といい、とても秀逸な作品です。当時の岩波映画マンの力量が偲ばれます。
画質が本当にきれいですね。昨日の出来事の如く。
この時期の米原駅は、実に広大で、にもかかわらず、大都市の駅のような喧騒は無く、SL.ELの汽笛、貨車の連結音が響き、詩情さえ感じられた。跨線橋から見る操車場には、待機の貨車群がギッシリ並び、上下線の離れたプラットホームの間には、待機中の機関車が間近に見られ、鉄道ファンの為にある駅のようだった。しかし今はすっかり簡素なってしまった。とても残念です。.
映っている若者が80歳を過ぎているなんて信じられない。
声も鮮明に入ってる、よくも動画あげてくれて有り難うございました😂
フジハシオサム君は存命なら75歳か、民営化時は40代だからそのままJRに採用されたのだろうか。
この時代ですと一桁国道も狭く、曲がりくねり24時間延々と続くトラックに二人が乗り、昼夜交代しなが走り続ける感じのを動画で見ました。高速も無い、道も橋も少ない、トラックや乗用車も少なく、鉄道が物流を担い社会活動と世界に負けない成長競争をした鉄道全盛期の熱い時代が◎
少し進んで1983年(昭58)だと高速道路が建設され始めたり1桁国道が近代化し始めてたけどまだ物流と言えば鉄道(JR貨物など)だった時代…
60年前ながらリマスタリングしたようなクリアな映像米原駅の在来線ホームは今もこの頃の雰囲気を残してますよね蒸気機関車のススで汚れた顔を洗った洗面台は20年ぐらい前までは残ってたそう・・
この時代の「動画」としては「カラー(で高画質)」ってだけでものすごい貴重ではないでしょうか。感謝いたします。ちなみに、3:20くらいのところにある、発車間際の列車のホームで係員が肩から弁当類をもって窓越しに販売する風景ってのマンガとアニメでしか見たことがなかった(忍者はっとりくん(?))ですが、はじめて実写を目の当たりにして感動しました。
時代考証の意味でもとても貴重な映像資料をありがとうございます。この時代はまだ戦争経験者の方々が日本を動かしていたせいか、現在の我々がだいぶ失ってしまった日本人らしさが眩しいです。この頃に比べて今の日本人は私も含めて覚悟と責任感が薄れてしまったと感じました。反省したいです。
そうですね。昭和38年は1963年ですから、戦後生まれは年上でもまだ18歳、社会の中堅を担っていたのはほとんどが戦前戦中・大正・明治世代ですね。55歳定年だと生まれは明治41年。
当時の人の多くは、現代人の多くよりも必死で働いていたかもしれませんが、その代わり、多くの人のマナーは圧倒的に悪かったですねタバコの吸殻は線路にポイ捨てタンは吐く列に並ばず我先に押し合いへし合いちょっと腹が立つとすぐに怒号ゴミは椅子の下や通路や窓の外
昭和50年代まではそんな感じでしたね。駅のトイレは糞尿まみれた激臭も当たり前で悪夢そのものでした。
国鉄には様々な問題課題があったといいますが、そこで働いた人々の生き様には感じ入ります。
車内床面の痰壺現役に感激。これの清掃も駅員の苦役だったらしい。蒸気の煤煙やら、結核予防のため、皆さん痰を吐きました
新幹線が旅情を奪ったとは、言い過ぎかもしれないが、この映像を見るとそんな気がしてきます。
米原は私の地元からも近くて、この頃は京都に行く時には直通の北陸本線から大阪行きには乗っていました。田村と米原はSLでヨンサントウまで頑張ってしましたが、その後はDD50型もしくはDE10型になりました。
現代とあまり変わらない画質でタイムスリップしたかのよう
終点で列車清掃、痰壺が写っていました。子供の頃の記憶ではもっと沢山の痰壺があったように思います。列車が揺れるとタバコが浮かんだ水面がチャプチャプと揺れていました。
ナレーションがまた、悪役俳優の戸浦六宏さんが務めているのがいいですねえ。
見せていただいて有意義でしたありがとうございました
20:40吊り掛けモーターのいい音してるなぁ!
懐かしいね😂私、小1かな?31年組!彦根市内在住でした。そうイヤ〜小学生の頃、米原駅には未だまだSLが沢山あったなぁ😌 珍しくもなく 普通の景色だったわ‼️ 令和の時代からすると…あの頃が1番良かったかも知れん👌
優しい駅員さんの映像がありましたが、忘れられない思い出があります。
s38高校へ向かう朝、駅には既に汽車が止まっていて運転手の顔も見え間に合わないことはすぐわかりました。線路を渡り駅へ向かいましたが汽笛が鳴らず止まったままです。改札口を通り乗車するとゆっくりと動き始めました。車内は遅刻を気にしてかざわついていましたが、私は運転手の優しさに感激していました。
現代ではありえない出来事でした。
そうですね。
今は、お客を確認、振り返らずに扉が閉まりますから。
ローカル線と都市圏の通勤電車で差があると思いますが
今はむしろ駆け込み乗車の客を延々と待つ印象があります。
昔は適当なところでドアを閉めていました。
そうですね。 停車時に駅弁売りの方々が、窓越しに売っていた時、出発時の汽笛がなっても、駅弁売りの方が大急ぎで仕事が終えるまで、待ってましたよね。
私はあなたのビデオが本当に好きです。 日本語が話せないのでごめんなさい。 お時間と労力をありがとう。
こんだけ書けたら大したもんだわ。
とても約60年程前と言うのが恐ろしい程きれいな画質
フィルムは後からなんぼでも高画質化できるからね…
フィルムデジタルに勝てる数少ない利点よ
いやいやここまでなかなかねえぞ。
投稿された方、本当に貴重でカラー映像。
他の話をするも何ですが、以前はユーチューブにて元となる白黒映像でこの作品を拝見した事があるのですが、やはりカラーですと鮮明に生え昔の作品とは、とても思えないです。
ありがとうございます。
岐阜県の大垣出身ですが、この映像に出てくる人物の話し方が自分の祖父そっくりで、とても懐かしい気持ちになりました。
東京に来て7年目です。懐かしい故郷の言葉を聞いているようです。
昭和38年といえばまだ2才のころ。その当時の映像をこんなきれいな画質で見られるとは。
ちょっとレベチですよね😮
映画用のフィルムはHD画質に相当するからね
駅員をかつてしてましたが、この時代から、旅客対応の勉強会、ロールプレイングが存在していたことに本当に驚きです。ハード面は最新になりましたが、根幹は何も変わっていません。
私の幼少の頃、阪和線天王寺発の列車で、急な腹痛になりのたうちまわった時、車掌さんが司令所に連絡、急行きのくにを臨時停車させ、医師を乗せ私を治療して頂きました。あの頃の国鉄の職員、機関士、車掌、司令所様ありがとうございました。確かな記憶ではありませんが、臨時停車したのは鳳駅だと、その風景は今もそのロケーションは変わっていません。
心温まる経験談、ありがとうございました。私も幼少時に多少似た経験をしました。あるターミナルの駅で原因不明の腹痛に見舞われました。年配の駅員の方が私を抱いて駅の地下通路を経て、医務室へ運んで下さいましたが、幼いながら不安で怖かった思いがしました。ベットに寝かしてもらい、やがて薬も効いてか痛みも引くと、傍らに母と姉が居ました。姉は、「(医務室の)お姉さんにおせんべい貰っちゃった」とニコニコしており、母も「治してもらえてよかったね」と微笑んでおりました。その時天井斜め上の方から貨物列車の様な通過音がゆっくりと響いて、やがて去って行きましたが(医務室はどうも地下1階であったようでした)、薄暗い小さなその病室での様子に、当時私は何か分からぬも非常な安らぎを感じたものでした。そして名前も知らぬ駅員さんや、医師の方、看護婦のお姉さんに、ふと感謝を思い起こせました…
@@chokupon9111
同じ様な経験なさっているのですね。
国鉄から民営化になり、当時の情緒ある風景は少なくなりました。あの頃のうるさいモーターの音やコンプレッサーの音、ディゼルのうるさく、のろまな出足。ガタンゴトンとレールの継目の音、今はロングレールで、インバーターの鋭い加速や乗り心地。立っていても、吊り革が不要な位の安定性。
何度かブルートレインに乗って心地よい子守唄の様なレールや車体の軋む音
「弁当え〜弁当」の売り子の声。懐かしい!昔に帰れないだろうか?
時代の記録として貴重なだけではなく、ストーリーや画づくりといったカラー映画作品としてもとてもレベルが高いと思います。教育映画を得意としていた岩波映画社の拘りに満ちた仕事も素晴らしいですし、こうした作品を作る意気込みや財政基盤のあった国鉄も凄いと思います。公開に感謝です。
貴重すぎる映画を投稿して下さり、ありがとうございます。
今より遥かに多くの業務が人の手で行われていた時代に安全輸送定時輸送に取り組んでくれた先人たちの努力があったからこそ、現在の世界に誇れる安全な日本の鉄道輸送があるということを、強く思わずにはいられません。
この高コスト体制を赤字赤字と批判したのが国民の多くの輿論でしたからね。
日本人の仕事に対する姿勢がいつまでも変わらないことに感銘しました。
画質も非常によく、すばらしい動画
ありがとうございます
昔は駅員(店員、警官、役人etc.)も、客に普通に言い返してたんだよな
それが、いつの間にか「お客様は神様」になった
今の時代の客はとても神様とは思えない!
最近は駅員がちゃんと言うべきことを言うようになってきて良い傾向ですね
警官はトラック野郎の時代のように言い返せる時代に戻るべきだよ
最近は言い返してると思うよ。
SNSで拡散されても、駅員の味方の論調が強いので、尚更言い返せる時代。
お客様は神様は深さ甚大な誤り 過去の遺物としたい
懐かしい。親父が国鉄だったです。親父の制服、制帽姿を思い出しました。
中学1年生の時に昭和が終わり平成を迎えた世代の人間です。思えば、昭和という時代を物心ついて経験できた最後の世代のようにも感じます。自分は鉄道に詳しくはありませんが、働く人のひたむきさ、とても懐かしくノスタルジーを感じる美しい映像です。個人的には、家族旅行のときに飲む火傷するほど熱い売店のお茶が、容器のビニールが溶け込んでいるようなにおいがして苦手だったのを思い出します。それももう、戻ってこない時代の懐かしい思い出です。
このつばめは、懐かしい
子供の頃近くに機関区が有って蒸気機関車は毎日飽きるほど見てきた 今と違って機関区に入っても叱られなかった 76歳の想い出
私は父も祖父も日本国有鉄道の職員でした❣️懐かしい映像をありがとうございます この時代は私が小学校にあがったころかと思います 私は江戸っ子ですから当時のこの辺りの様子は知りませんが後に仕事で富山へよく行きました 新幹線がまだ通っていないころです
懐かしい光景です。この当時、駅の近くの線路沿いに住んでしましたので、毎日蒸気機関車を見て育ちました。
学校から帰ったら、蒸気機関車の石炭置き場や蒸気機関車の操車場に遊びに行っていました。
蒸気機関車を見ていると命を宿した生き物のように見えてきます。
画質が本当に綺麗。まるで自分の目でこの世界を見つめたかのよう
戦後の国鉄の職場の様子を良く画像で捉えていますね。
この映画のタイトルは、『駅』ですが、場所は駅ですが、岩波映画らしく、人間の人生を国鉄マンとしての鉄道人生を主題に 作りあげています。
私は、鉄道ファンですから、列車や車輌も興味あり面白いですが、印象として、構内作業員として国鉄マンになった若者が、ヤードマンの仕事、貨物の入れ替え作業のために、貨車に飛び乗り、連結するまでのブレーキかけの時の前方を身を乗り出して真剣に見る目の表情です。
ヤードマンは、危険な仕事で大怪我をする危険が毎日あります。ベテランとなった助役さん達先輩が、後輩の若者に、危険の教えや人生の明日を夢見て働く心構えをそれとなく話して聞かせる愛情が素敵でした。
米原のこの若者には、年齢から国鉄を退職しているでしょうが、その後の人生で機関士や駅助役になったのでしょうか。
ヤードマンは、東京の田端の大操車場にもバンプ、
(バンプとは、貨車を入れ替えるためのヤードの先端を坂にしてあり、入れ替え機関車が、貨車を線路の山の頂上へ運び、頂上から一両一両切り離して、ポイントなどを渡りながら、行き先別の貨物列車の編成を作る構内の設備のこと)
があり、大勢のヤードマンがいたと思います。危険なので田端駅の横には、国鉄の田端鉄道病院がありました。
子供の頃、私は田端駅改札口を出た陸橋の上から、蒸気機関車が沢山動いていて、陸橋の上まで煙を吹上て来るので、横飛び移動しながら、線路を見ていた記憶があります。
この昔の貴重な動画をアップしていだだけることは、とてもありがたく、何度も見たいです。
どうもありがとうございます。
米原駅の旧駅舎は覚えていますが、大きく様変わりしましたね。
名脇役の戸浦六宏さん(故人)がナレーションをされている点でも貴重な動画だと思います。
時代の流を止める事は出来ないけれど、自分自身この様な日本の素晴らしい時代を見れた事、生きれた事を幸せに思います。
子供が大勢いて、大人ががむしゃらに働き、地方の小さな街も活気にあふれ、いい時代だった、。
遠い昔、まだ幼かった私はつばめに乗って東京へ行きました。懐かしい駅の賑わい、お弁当、みかん、お茶を窓越しに買ってもらった嬉しさ、現代よりはるかに豊かな日々がありました。大人が真剣に働き、子どもはそれを見て大きくなったのです。
昭和38年で、40年前となると大正時代からこの助役さんは米原駅で働いてきたんだな、いろんなものを見てきたんだよなぁ
55歳で定年か…いろいろ考えさせられるなぁ
15歳の頃から働いていたと考えると現代人が如何に今は経験不足が多いかが分かるよ
国鉄時代も自然現象で遅延してもお詫びのアナウンスしていたのか……。
これは意外。
こんなにきれいな映像なのに、60年前のことでここに写る人たちはもうほとんどいないなんて不思議ですね。
チラッと見えた新幹線のポスター、この僅か一年後に開通とは・・・・・。
19歳の少年はあどけなさが残るけど、でも今の19歳より頼もしく見える。
この時代の人は、誰しも映画の俳優になれるような目の表情の豊かさを持っているなぁ。
産まれる前の時代のカラー映像をこんなに綺麗に見られるのは衝撃です。
この頃生まれましたが今に繋がる取り組みが始まっていたのですね。驚き👀‼️です。貴重な映像ありがとうございました❗
私も国鉄OBです。
新人は、まず便所掃除からでした。
詰所内は常に「指差称呼」「オーライ!」の声が飛んでました。
セットでも観光でもない機関車の勇姿がカッコイイ
今の日本に失われた日本人の力強さを感じる映像です。懐かしい。。
今から60年前の記録映画ですね。当時の駅員・作業員・駅弁売り、そして人々の駅を利用する日常風景を描いた素晴らしい作品です。SLも懐かしいですし、この記録映画の語りは、拙者が子供の頃、悪役もありましたが渋い役者であり名優の戸浦六宏氏、語りができてこそ俳優です。昭和38年は、東京オリンピック前の年で1月か2月頃に、日本は寒波が襲い大雪だったと年配の方に聞いた記憶があります。
素晴らしい記録映像に見入ってしまいました。氷雨の米原駅構内を、あの時代着心地の悪かったであろう黒雨合羽を着て黙々と歩く大橋助役の姿には、何か深いものを感じました。ヤードで貨車へ飛び乗ったり、ポイント器具の手入れを行う仕事も、危険や苦心があったろうこともよく見てとれました。しかし20:04からの車内の散らかり様には驚きました。雪で遅れたことへの不満を口にする乗客の声もリアルでしたが、その腹いせにわざと散らかしていったのですかね…。とにかく苦労が伴う面が多々あった鉄道の仕事を見事に描いていましたね。そしてそんな苦労があっても、国鉄とはやっぱり誇りの持てる職場であったのかな…。大変な懐かしさと共に、そんな感想が持てました
素晴らしい映像をいつもありがとう御座います!国鉄時代の人情味が伝わっていますよ!✌️🤩
80系の出発時の音が入っているのが貴重すぎる
1960年代を再現してるハイビジョン映像か?っていうくらい画質が良くてビックリです。
ポイント、信号の切り替え・・・全部目視作業。人間のなせる業。今では、コンピュータが全てやってくれる。時代の流れとはいえ感慨深いものがある。
ほんとですよね。すべては安心安全、定刻発車につながる仕事。先代の国鉄マンの熱い思いが現代に引き継がれていることに感謝。
画面からは鉄の匂いが感じられました。夜行列車到着後の床の汚れ様はすさまじいものでしたね。何でも座席の下へ押し込んでいたから当然ですが。国鉄が直接関わって制作した映像ならではの臨場感があります。人と人の関わり合いが濃密な時代でした。
昔、俺も国鉄職員でしたからある意味懐かしく拝見してます。
国鉄に入社するのは当時はかなり難関でしたか?
@@ヨーグルト美味すぎ 東京3局だけで、300人募集のところ2000人超の応募があったよ。1日じゃ出来ない為五日間に分けてやったんだけど、けっこう難しかったんです。でも希望の東京北局の運転系職場に拾っていただいた感じで嬉しかったのを今でも忘れないですよ。
まだ生まれていませんが、不思議だけど懐かしさを感じます。日本は昔から素晴らしいと思います😊誇りを持って生きていきたいです😊
映像がとても綺麗に残っていて素晴らしすぎる。まるで20~30年前みたい。
自分が生まれる1年前だ。この時代に戻っていろんな列車に乗って日本一周してみたかったな。
ええなぁ、こういう昭和の匂いが!
米原駅の光景から私の幼い頃の情景がそのまま蘇りました。大阪から客車急行「立山」に乗って富山県へ帰省していました。EF58~SL~ED70とのリレー、米原で駅弁や蕎麦、冷やしミカンを買い込んだこと、SLの煙など。広大な操車場もありましたね。貴重な記録をパソコンで観るとは思いもよりませんでした。ありがとうございました。
初めて米原駅に降り立った時は、田舎の何も無い所なのに、駅だけやたら大きいことに驚いた。
しかし湖西線が無かった頃だし、関西から北陸方面の列車は全て米原経由。
忙しかったでしょうね。
「これといった産業はないが敷地・構内は広い」・・そういう点では60年近く経っても米原(駅)は変わっていないですね。
山陽新幹線の新山口(旧小郡)もそうですね。今は山口市ですが当時は小郡町で駅の規模と町の規模がアンマッチな気がしました。
今も昔も米原は鉄道の要衝地!
この頃の国鉄が一番好きだったな。
新幹線開通直前。
東海道線は花形列車の花盛り!
ただ、スジ屋さんは大変だったろうな。
80系に一等車が付いているのは貴重だ。
ストライキしまくって国民から総スカン食らってましたが
@@ageg5413 諸悪の根源でもある極左労働組合さえ無かったら国鉄時代も良かったのだが・・・ あいつら、機関車・貨車をはじめ、あらゆる車輛に落書きしやがってからに💢
@@NHKをぶっ壊ーす 当時、ストライキの影響で中学校は一週間休みになるし、たまたま福島へ旅行に行っていた祖父母は帰ってこれなくなってしまい、親父と車で迎えに行った懐かしい思い出。東北道も常磐道も未だ無い時代、車の運転も大変だっただろうに・・・。
もちろん高画質に修正した映像でしょうが これ程鮮明になるとは……感激ですね
原盤フィルムがKodachromeだからだと思います
@@sunami808まだこの頃だと、フジはコダックに品質で追いつけてなかったんですかね?
貴重な大阪駅とその周辺の映像まである。
そして、清飛羅ってすごい名前・・・。
1963年だから継電連動装置になっているのですね。電気転轍器の進路切り替えが速いですね。電動ポイントなんて幹線らしい景色です。人力で思いテコを操作するのが普通の時代ですから手元の制御盤で転換なんて同じ鉄道マンでもエリート意識はあるのかもしれません。
信号を扱える掛員は、あるはんめん職人です。もちろん、プライドが高いと思います。僕も駅員でしたけど、信号所ヘは、見学程度しかあがった事がありません。白いテコがあるんですが、それはフリーなテコで、操作しても、作動しないのです。そのテコを扱うだけでも、手が震えたものでした。
この二十歳くらいの若者が今や80代、一生はあっという間。。今の一瞬一瞬を大切に生きたい
親父が国鉄マンだったので弁当を持って行ったりして良く駅舎や操作場に行く機会が多くありました…この動画を見ると映像だけでなく、汽笛とか石炭の匂いとか、鐵の錆の匂いとか今でも懐かしく思い出します。
懐かしい映像ですね。1970年頃に親父と二人で名古屋から鹿児島まで国鉄に乗って帰った事があり途中の駅で駅弁を買い食べた記憶があるよ🥸👍
7:17急行にもビュッフェが連結されていた時代。
車内で寿司を🍣握っていた大将は、その後、静岡県でつばめ寿司を開業されたが、亡くなられて閉店された。
時代の流れを感じます。
4:07 産経新聞記事によると、米原駅ホーム上で長年立ち食いそばを販売していた井筒屋さんが、2020年(令和2年)5月末限りでホーム上での営業を停止して、米原駅2階コンコース売店での駅弁販売に専念したようですね。駅弁立ち売りは全国的にもとっくに廃止されて、福岡県北九州市の鹿児島本線折尾駅に残るのみらしいですが、寂しいものです。
立ち食い蕎麦を辞めて駅弁に専念するパターンもあるのですね・・・
千葉の我孫子駅では、かの『裸の大将』にパッケージの掛け紙を描いて貰っていた事でも有名だった『弥生軒(チェーン定食屋とは無関係)』は、1975年頃には弁当が売れなくなり、国鉄時代の1983年には駅弁販売を廃止して、副業として1967年から始めていた立ち食い蕎麦一本に事業を絞って現在に至っています。
現在は『唐揚げ蕎麦』で有名な所ですね。
この頃は駅弁の空箱は椅子の下に置いておきましたねー。
高崎の「だるま弁当」と横川の「釜飯」を食べたのは記憶にあります。
何年か前に『峠の釜めし』食べましたが、子供の頃に食べた時と全く違い美味しくありませんでした。
現代はコンビニ弁当や、冷凍食品まで何を食べても美味しい。でも当時は『峠の釜めし』が最高峰だと
思っていたのに。
横川の釜飯を横川駅のホームで売ってるのを電車内から買った記憶あります。今でもトップで美味しい駅弁だと思います。(現在48歳)
米原駅だけで450人の駅員!
努力や頑張りが認められた時代か・・・
そんな時代があったんですね…
社畜
「・・・」
新幹線開業1年前の特急こだまが懐かしい
この様な映画が5年も前から公開されていたとは知りませんでした。急行「立山」をD50が牽いて出て行く所もいいですね。当時は交直のつなぎにD50を使っていたんですよね。D50200も写っていました。キリ番なので、当時はちょっと有名なD50でした。良かったです。
当時の映像を見て、なにもかもが人力作業と行いうアナログアクションだったというですね。電車の駅接近や誘導、さらにポイント切り替えに乗客が乗り降りする際の確認作業など、平成末期から令和の現代だと、ビデオやコンピューターなどを駆使していたのが当時ほとんどが人力作業、それだけに職人技の試される時期だったんですね。
映像の製作年からして、生まれる直前でしょう。
子供が大勢いて、大人はがむしゃらに働き、地方の小さな街も活気がありいい時代でした、。
赤帽さんのいるし、古き良き時代の駅ですね。
この動画で19歳だった子も今や生きてれば80歳か
こんな綺麗に映像残ってるのが凄い
世界は本当に凄い発展成長したんだね
私の生まれた年
貴重な映像ありがとうございます
このわずか4~5年後には国労・動労と管理職の間で血みどろの戦いが始まったのが噓のような国鉄黄金時代を飾る頂点の時期
賃金は安く、職域や労組による意識差はあったものの、いわゆる「国鉄一家」の団結があったころですね。
子どもの勉強机が高くて買えないとある職員が嘆いたら、施設部の職員が作ってくれた、というエピソードもあったとか。
アップして下さりありがとうございます。
貴重な映像ありがとうございます
国鉄時代の車両がたくさん映ってて幼かった頃を思い出しました☺️
EF5878のあずき色のような車両は見たことがなかったです。湘南色車両は今は博物館かな。
貴重な映像を観せて頂きありがとうございます🙇
ご貴重な映像ありがとうございます。
黄金時代の東海道線のカラー映像、とても貴重と考えます。
この映像の人々の多くは戦争経験者と思われますが、当時でも戦災から立ち上がってきたとは思えないくらいの鉄道技術ですね。
Wonderful history. Thank you :)
こんなに綺麗な映像があるなんてすごい
昔は熟女さんに会いに行った時
若いツバメがつばめに乗って来ましたよと お土産を持って行ったよなぁと
八高線の高麗川駅で汽車を待っている間によく駅員さんが汽車や貨物の脇に乗って誘導している光景を
見かけました。懐かしいです。
要衝、米原駅
国鉄の黄金期の様子が伝わってきます
私は3歳でした。兄が7歳で亡くなったとき、魚津から金沢大学病院に雪の1月3日に亡くなりました。ちょうどそのころの国鉄のドキュメンタリーですね。ありがとうございます。
素晴らしい!何もかも。当時の国鉄黄金時代、それも列車ではなく当時の駅員の仕事ぶりを鮮明な画像で今に伝える超一級の資料です。興奮。
鉄道ピクトリアル誌と鉄道ファン誌
は既に発刊。鉄道ジャーナル誌は未だ出ていない頃。(昭和43年創刊)
特急つばめのパーラーカー。
客車時代の急行立山…。北陸方面の雪による遅延…。何もかも伝説ですよ。
およそ60年、国鉄分割民営化、東海道新幹線が東京〜新大阪2時間半とか、急行立山がサンダーバードへ、敦賀止まりで北陸新幹線に乗り換えとか、当時の人びとが聞いたら荒唐無稽なホラ話にしか聞こえないでしょう。
20年ぐらい前にヒストリーチャンネル(CS放送)で観た記憶があります。確か国鉄記録映画リマスター特集で何本か放送されたうちの一つだったような。
当時父24、母22歳。戦争の苦しさから逃れようと、明日になればと日々を戦ってきた時代。
貴重な綺麗な動画有り難うございます。
しかしながらもうこの時代から「米原ダッシュ」してて
草www
カラーで力が入っているのでしょうが、カメラワークといい、編集といい、とても秀逸な作品です。
当時の岩波映画マンの力量が偲ばれます。
画質が本当にきれいですね。
昨日の出来事の如く。
この時期の米原駅は、実に広大で、にもかかわらず、大都市の駅のような喧騒は無く、SL.ELの汽笛、貨車の連結音が響き、詩情さえ感じられた。跨線橋から見る操車場には、待機の貨車群がギッシリ並び、上下線の離れたプラットホームの間には、待機中の機関車が間近に見られ、鉄道ファンの為にある駅のようだった。しかし今はすっかり簡素なってしまった。とても残念です。
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映っている若者が80歳を過ぎているなんて信じられない。
声も鮮明に入ってる、よくも動画あげてくれて有り難うございました😂
フジハシオサム君は存命なら75歳か、民営化時は40代だからそのままJRに採用されたのだろうか。
この時代ですと一桁国道も狭く、曲がりくねり24時間延々と続くトラックに二人が乗り、昼夜交代しなが走り続ける感じのを
動画で見ました。高速も無い、道も橋も少ない、トラックや乗用車も少なく、鉄道が物流を担い社会活動と世界に負けない成長競争をした鉄道全盛期の熱い時代が◎
少し進んで1983年(昭58)だと高速道路が建設され始めたり1桁国道が近代化し始めてたけどまだ物流と言えば鉄道(JR貨物など)だった時代…
60年前ながらリマスタリングしたようなクリアな映像
米原駅の在来線ホームは今もこの頃の雰囲気を残してますよね
蒸気機関車のススで汚れた顔を洗った洗面台は20年ぐらい前までは残ってたそう・・
この時代の「動画」としては「カラー(で高画質)」ってだけでものすごい
貴重ではないでしょうか。感謝いたします。
ちなみに、3:20くらいのところにある、発車間際の列車のホームで
係員が肩から弁当類をもって窓越しに販売する風景っての
マンガとアニメでしか見たことがなかった(忍者はっとりくん(?))ですが、
はじめて実写を目の当たりにして感動しました。
時代考証の意味でもとても貴重な映像資料をありがとうございます。
この時代はまだ戦争経験者の方々が日本を動かしていたせいか、
現在の我々がだいぶ失ってしまった日本人らしさが眩しいです。
この頃に比べて今の日本人は私も含めて覚悟と責任感が薄れて
しまったと感じました。反省したいです。
そうですね。昭和38年は1963年ですから、戦後生まれは年上でもまだ18歳、社会の中堅を担っていたのはほとんどが戦前戦中・大正・明治世代ですね。55歳定年だと生まれは明治41年。
当時の人の多くは、現代人の多くよりも必死で働いていたかもしれませんが、その代わり、多くの人のマナーは圧倒的に悪かったですね
タバコの吸殻は線路にポイ捨て
タンは吐く
列に並ばず我先に押し合いへし合い
ちょっと腹が立つとすぐに怒号
ゴミは椅子の下や通路や窓の外
昭和50年代まではそんな感じでしたね。駅のトイレは糞尿まみれた激臭も当たり前で悪夢そのものでした。
国鉄には様々な問題課題があったといいますが、そこで働いた人々の生き様には感じ入ります。
車内床面の痰壺現役に感激。
これの清掃も駅員の苦役だったらしい。
蒸気の煤煙やら、結核予防のため、皆さん痰を吐きました
新幹線が旅情を奪ったとは、言い過ぎかもしれないが、この映像を見るとそんな気がしてきます。
米原は私の地元からも近くて、この頃は京都に行く時には直通の北陸本線から大阪行きには乗っていました。田村と米原はSLでヨンサントウまで頑張ってしましたが、その後はDD50型もしくはDE10型になりました。
現代とあまり変わらない画質でタイムスリップしたかのよう
終点で列車清掃、痰壺が写っていました。子供の頃の記憶ではもっと沢山の痰壺があったように思います。列車が揺れるとタバコが浮かんだ水面がチャプチャプと揺れていました。
ナレーションがまた、悪役俳優の戸浦六宏さんが務めているのがいいですねえ。
見せていただいて有意義でした
ありがとうございました
20:40吊り掛けモーターのいい音してるなぁ!
懐かしいね😂私、小1かな?31年組!彦根市内在住でした。そうイヤ〜小学生の頃、米原駅には未だまだSLが沢山あったなぁ😌 珍しくもなく 普通の景色だったわ‼️ 令和の時代からすると…あの頃が1番良かったかも知れん👌