写真美術館の山田裕理さんに聞いてみた

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  • Опубліковано 11 вер 2024
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КОМЕНТАРІ • 5

  • @slowglass21
    @slowglass21 Рік тому +3

    とてもエキサイティングな内容でした。新進作家展の学芸員インタビューは毎年シリーズ化してほしいと思います。

  • @user-df9ml3bz7p
    @user-df9ml3bz7p Рік тому +3

    面白かったです。最近公募展を見て、「じゃない写真」と「である写真」の間に「なのか写真」と言えるものが出てきているように見えます。アマチュア写真家と公募展の審査員の間もじわじわと、じゃない写真の方向に進んでいて、その過程として「なのか写真」というものが出てきたように思います。同時にその分野のクオリティが急速に上がってきていて、それはCGのプロフェッショナル達が参加し始めているように思えます。PC嫌いの多い写真家も世代交代しているのかな。と、この動画を聞きながら思いました😅

  • @masakinakasuga9850
    @masakinakasuga9850 8 місяців тому

    海外の大学院のお話にありましたが、写真を撮ること自体が目的で入学した学生が2割、写真を撮ることは目的を達成するための手段であるということで入学した学生が8割いるということですが、
    写真を手段と捉える学生は、何らかの目的があるということもあり、写真の枠にとらわれることなく、境界線を超えた枠外も捉えることできるのではないかと思いました。
    そういうことからしますと、写真を目的と捉える学生にとって、「写真とは撮るものである」という固定観念が邪魔をするため、「じゃない写真」は生まれず、認められないとなる一方で、写真を手段と捉える学生は、写真を撮る行為はあくまでも手段の一つであり、写真を活用し、または、写真を異なる手法で表現するという意味において、「写真を撮る」というのではなく、「写真を創る」という表現の方がふさわしいのではないかと思いました。
    また、写真を手段であると捉えた場合、少し異なりますが、Takramというデザインコンサルティングファームでは、ビエンナーレにおいて、荒廃した世界で使うための「水筒」をデザインするというテーマで、汲むための水がないのであれば、排泄する尿を濾過して体内に循環させる「人工臓器」を作れば、「水筒」でなくても荒廃した世界を生き抜くことができるというように、目的を達成させるために、「水筒」から「人工臓器」に変換したようであり、「写真」においても、このような概念の拡張という事象が生じているのかなと感じました。
    ただし、あまりにも概念が拡張しすぎると、「これってもう水筒じゃないじゃん」「これってもう写真じゃないじゃん」となるので、「これって写真かな、どうかな」という写真の概念のギリギリのところで「じゃない写真」を創る必要があるのかなとも思いました。

  • @norihosaka3638
    @norihosaka3638 Рік тому +2

    インスタレーションについて、話しが噛み合ってないですね。

    • @norihosaka3638
      @norihosaka3638 Рік тому

      じゃない写真のアップデートをもっと聞きたかったです。
      写真の存在論=写真を成立させる条件は何か?
      へち問いが変わっているように、保坂は感じています。