Subject と Object は非常に面白くインスパイアされました。 自分は二元論を見ると、人間中心主義!脳のなかでアラートがなり、三極目を探したくなります。(^^) S と O と思いを巡らせ、考えついたのが V です。 そう SVO 構文です。 渡部さんは撮影所作やカメラの触感、旅などを語りますが、“写真”における V の表現もあるんだと僕は考えます。 ある意味、そこは北さんが見落としているところで、このyoutubeの批判でもあります。 写真の身体性、撮影という動きの表現に写真拡張の可能性を見ます。 もしかしたら、動画の方が得意分野かもしれないけど。
大変楽しく視聴させていただきました。
これから写真を始めようとカメラを買った矢先にこのお話をお聞きし、自分は写真を通して何をしたいのか考えさせられる良い機会になりました。
お話をお聞きしておりますと、写真に関して、実用的視点で捉えた場合、目的レイヤーとして「記録する」、機能レイヤーとして「事実(被写体)を伝える」、物理レイヤーとして「写真」「動画」「彫刻」「3Dプリンター」など、様々なものがある。
一方で、芸術的視点で捉えた場合、機能レイヤーとして「事実(被写体)を変換する」、物理レイヤーとして、北氏の「乾電池(物質融合)」、小松氏の「踏み絵❓(本質を問う)」、べシュティ氏の「FedEx(移動彫刻)」となり、ここから逆算し上位の目的レイヤーを捉えると「価値を創造する」となるのかなと思いました。
この芸術的視点から、インプットとアウトプットの間(ボックス)において「事実(被写体)を変換する」ことにより「価値が創造される」と捉えると、そのボックスは「カメラ」であるのか、「企業(物流)」であるのか、「社会システム」であるのかの違いであり、特にテクノロジーの進展により、事実を変換しやすくなったことを踏まえ、「写真」の概念をどこまで拡張することができるのか、「写真」の概念のギリギリのところを攻めることにより、今までにはない新たな写真の価値を創造(拡張)できるのではないのかなと思いました。
ちなみに、事実を変換する上で、あまりにも飛躍しすぎてしまうと、固定概念が邪魔をすることによって、「これって何、もう写真じゃないじゃん」となるのかな、でも、それが議論を生むことによって、「写真」の概念が拡張し、そして、芸術から実用へと繋がるのかなとも思いました。
三回この動画を視聴し直しました。「拡張する現代写真」確かに写真の概念が揺らぎました。ありがとうございました。
うわぁ〜〜、凄いの観ちゃったなぁ😅 なるほどぉ、概念がシフトされますねぇ。 1980年から現代音楽の世界で色々と追求・研究し、現代音楽の創作作品に参加させて頂いた頃の苦悩を思い出します。
自分の「常識」や「思い込み」が崩れました。すごくおもしろかったです。ありがとうございました。
いつも楽しく見させて頂いております。大変面白いお話でした。
入力→ブラックボックス→出力を写真としますと、人間が生きている事自体が写真になるように思えました。
脳の働きを簡単に考えますと、五感からの入力を統合して何らかの運動(筋肉や心の動き)に変えてます。この運動がなければ人は何一つ外に向けて何かを発することはできませんし、その変換がどう起きるかは人や時代環境によって分かりませんからブラックボックスです。また、体から考えましても口から入れたものが下から出るのも入力、変換、出力として考えれば写真になると思います。
写真を拡大していきますと、人間のやっている事、人間の生自体が写真になってしまうのでは無いでしょうか。
いつも自分で写真を撮った後に、それで?ていう虚しさがどこかあった気がしていたのですが、何かを伝えたり表現したりするための手段として写真があるという解釈をさせていただき、モヤモヤしていた物が少し晴れた気がしました。
48:50からの話凄い事話してるな
やばい めっちゃ凄い作品の話聞いた
遅ればせながら動画拝見しました。新鮮な概念がたくさんあって衝撃でした。
”ブラックボックスとしてのカメラとしてオブジェクトを撮影して紙に印刷する”
という「選択」それ自体が、本来はもっと広い意味で捉えられるはずの「写真」というものに対する「圧縮」になっているのかなと思えました。
”写真とは2次元の印画紙にプリントしたものだ”という考えそのものが圧縮した考えかもしれなくて、写真の拡張という行為は、そういった考え自体をRAWに戻していく行為のような・・・。
貴重なお話をありがとうございました。
まぁ、揺らぐというか、自分が揺さぶられないものはスルーしていいと思います。スルーしてもきにし続けることは必要かもしれません。
大変興味深く拝聴しました。
ありがとうございました。
メディアアーティストでもある落合陽一さんは、下記の動画で「レンズという演算装置、仕事道具を語る」」という話をされていました。
・75mm編
ua-cam.com/video/lUutrBuSFds/v-deo.html
・50mm編
ua-cam.com/video/trj1ggM2fco/v-deo.html
分かりきらなかった部分への理解が進み、また進んだ部分まで見渡せる新しい地平が広がった気持ちです。
誠にありがとうございました。
とんでもない面白い話でした。。。こんなお話ただでいいんですかという感じです。
素晴らしい対談、ゲストトークですね。人選も実に素晴らしいです。
非常に興味深いお話でした。2Bチャンネルならではの内容だと思います。ありがとうございました。
渡部さんの口から「不敬な行為」という言葉が出て、それが今回の「ちょっと難しい話」の核心だと思いました。その後の北さんの「ゆさぶり」も重要なキーワードだと思います。
渡部さんが、北さんを殴ってからインタビューしたのかと思ったww 内容は面白かったし、聞きやすかったです。
自分がカメラ装置だとしたら、入力として食材を食べ、体から出力されるウンチは写真なのですね。 いやんww
出力としてのウンチはかなり芸術性が高いですね笑
全く同じ入力をしても2つとして同じ出力ができませんし
@@鈴木義孝-m1e Piero Manzoni が缶詰めにして、たんまり出力しましたね。Merda d'artista..
そんなの写真じゃない、とすれば、では何処迄が写真なの?と定義を求められるハメになる。
昨今はカメラ自らカメラの概念を捨てて、動画機やスキャナーと化している。
大震災が起こってから、当たり前の日常が当たり前では無かったと認識するのと同様に、認識を再確認させるアートの存在は、必要不可欠で、現在の写真もその概念の探求の派生上に定着して来た枠組みでしか無いように感じた素晴らしいお話でした。
楽しく聴かせて頂きました。
知識や見聞が広がると思考も広がりますね。
作品も多角的に捉えられて一層楽しめそうです。
ありがとうございました。
56分位の所、先生は相づちをされてましたけど・・・
先生の心の内はちょっと違うのではないか。と思いました。
お話は大変面白いのですが、ここまで拡張した概念を「写真」という言葉に閉じ込める必然性は感じませんでした。
なぜ新しい言葉を作らないのですかね。
12:17 参照資料がない(批評家が取り組んでいない)
13:25 フォトグラフィックオブジェクト
フィルムからセンサーへ、その次のテクノロジーは…脳と脳を直結してイメージを送るのが「写真」になる、でしょうね
「入力→技術的変換→出力」の流れは、写真に限らず化学や生産、食品加工、関数、プログラミング、など多くの分野で良くあるものなので、どこからが写真になるのか興味深いところです。 52:02
最初の6分だけでも面白い。分かりやすいです。
面白い(楽しい)お話でした。及び、ためになる(自身にはその為になる力量はございませんが、けれど楽しい。)
北さんがたまたま見つけたとおっしゃってた画集ってなんて名前でしょうか?
なかなか面白いテーマでした。アートに限らず、世の中の物事を固定観念を打ち破ってみるといろいろな疑問点がでてきます。また、最近の若い人は曲や建物、作品などへの褒め言葉に「かっこいい」をよく使うなと時代に取り残された僕(50代前半)は感じます。3Dプリンターの存在も今回初めて知った。
Picture Industryは翻訳版が面白そうですが。できれば同じ判型、横組みで
どんなものも「入力→なにか→出力」の形を持つと思うんですが…
その「なにか」がカメラのときにそれは写真になるんじゃないかな
アーティストの手を離れて「物流の痕跡」を持った現代美術ってのはわかるけど、それを写真だと解釈する意味や利点が分からない
同感です。
表現行為という言葉でいいと思います。
まだ動画視聴の途中でありますが『写真』とそれをまた語る『写真を語る』とはマネタイズのためのトークンであると。そしてそれを可能にするには安定した基礎収入があることなんだなと。。。
大学の講義みたい。面白い
写真の水平線が広がったようです。
広がったのではなく、後退したのでは
大学の一般教養で、宇宙の見える範囲が広がるのを、「後退する(宇宙の)地平線」だって言ってた
50年近く前で、そのときの宇宙の広さが、何光年だったかは覚えていない ("・ω・")
Subject と Object は非常に面白くインスパイアされました。
自分は二元論を見ると、人間中心主義!脳のなかでアラートがなり、三極目を探したくなります。(^^)
S と O と思いを巡らせ、考えついたのが V です。
そう SVO 構文です。
渡部さんは撮影所作やカメラの触感、旅などを語りますが、“写真”における V の表現もあるんだと僕は考えます。
ある意味、そこは北さんが見落としているところで、このyoutubeの批判でもあります。
写真の身体性、撮影という動きの表現に写真拡張の可能性を見ます。
もしかしたら、動画の方が得意分野かもしれないけど。
あ、乾電池写真の“写真機”を作った下り。
あそこは、V の写真かもしれません。
うーん、破壊・再構築するとか、偶然を痕跡にすることとかが写真の類似性をフォローしているのかなー。手垢が増えたら価値が増えるのかなー。カメラとパソコンと自分の脳内にある無意識のイメージなんかでも充分アートな写真ができると思うんです、最近。(^.^)
単なる思想の違いってだけですよぉ‼️(笑)
昔、ニコンサロンで時の首相の顔写真を並べて踏ませていましたね。間違っていたらごめんなさい。
次のレイヤーの視点は、ベシュティが写真を可能にする現在の社会システム全体を描き出すことで、逆に一枚一枚の写真をつまらなくさせる、意味を失わせてしまう、本質的にどうでもよいものとなってしまう、ということだとすると、現在の社会システムとは異なる社会システムの可能性を提示することかもしれませんね。それは、生産や製造、作品の販売や換金性などなど、すべてのものが「商品化」されうる資本主義システムとは別のものを考えることではないでしょうか。それはおそらく、もう一度、従来の写真に何がしかの意味を回復させるシステムであって、それを実現する方法や価値は多様であり、その答えのヒントは今回の動画のなかで示されているのではないかと、拝見していて感じました。大変勉強になりました。ありがとうございます。また繰り返し拝見して理解を深めたいと思います。
生身の人間がカメラという銃で実景をシューティングして撃ち撮った獲物だけを「写真」と呼ぶようになっていくと思います
なるほどね。写真にこだわる。色々考えた論理をそれらしく構築しているが、必要性は感じないし、芸術も感じられない。たった一人の欧米人にちょっとほめられたくらいで舞い上がってしまうところからも、彼の地に足がついていない浮遊したセンスの片鱗を感じ取れる気がしました。
手塚治虫によって漫画表現は刈り尽くされペンペン草も生えない状況から、後世の世代の漫画家は漫画の枠の中で足掻き苦悩しながら新しい作品を創造しています。漫画家は、あくまで漫画の枠ははみ出してません。それに比べて写真家は先人と同じ枠内では評価されないと、新しい表現について安直すぎじゃ無いですかね。頭の中でこねくり回して、普通の人には現代写真の尖った作品はもう写真に見えないです。クラシックな写真の枠の中で、先人の作品を超えるような美しいと思う作品がみたいですし、そんな作品ならプリントも買いたいと思いますけど。
一理あるとは思いますが、写真は漫画とはいくらなんでも畑が違いすぎて比べるのは無理があるかと思います。視覚イメージの芸術という点では絵画などは、漫画に比べ近しいとは個人的に思うのですが、、いずれにしても語るのが難しいことではありますよね
AIも写真ということか。
プロンプトで、リアルな映像を出せるかって思ってたけど、スマホのパンフォーカスをAdobe Lightroomアプリで、被写界深度表現して、元データありなら、すでにAI使ってるんだと思った
そもそも日本人の写真と言う間違った訳語、日本語を辞めるべき
頓知くらべにワクワクできるか、うんざりするか…
アート写真って単純に俳句のように出会でしょう。しかしそれはアートで無くてもあってもいいんじゃない。何でアートにしたいの?