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「思考には言葉が必要であり、言葉は外からやってくる。言葉にないもの発想できない」という部分がとても腑に落ちました。大学で橋口譲二さんの講義を受ける機会があり、橋口さんがある学生に「君は本をたくさん読みなさい」とおっしゃっていました。その学生は「ふだん本は全く読まない、なぜ読めと言われたか分からない」と困惑していました。今度彼に会ったら渡部さんのこの言葉を教えてあげようと思いました。
AIやNFTなど最新の考えも取り入れて解説していただけて、大変参考になります。これまでは、オリジナリティが創造にもとづくものと考えていましたが、解説を聞いて、結局は発見だということに気づきました。発見とは、既存のものの新しい組合せとも考えられるので、それは無限に存在するもので、新しいものが出にくい現代においてもまだまだ発見の可能性はあるんだと勇気づけられました。
美大にいた頃、デザインを教えてくれて馬場雄二さんにオリジナリティとは異なるもののコラボレーション、だから本を読み旅をして様々なものを知りなさいとよく言われました。社会に出たあと写真や絵の仕事をする中で、漫画的なイラストにも絵画にも系統があり、オリジナルがあり、依頼するときはやはりオリジナルの方や、そこにプラスアルファで少し軸をずらしている方にお願いすることが多いです。オリジナリティを分解したときに、表現における画作りの技術(撮影技術、絵だとデッサン力や塗り方)と、文脈の中での画面の作法(史観的観点、絵では絵柄の系統等)、テーマの選び方(テーマのサイズ感等)などそれぞれ分けて考えつつ、組み合わせていくのが大事かなと考えてますが、そういったもの以外にも考えると良いことはあるのでしょうか?
オリジナリティなんてことを考えずに、それどころかオリジナリティを排する意識で、とにかく撮りたいものをドンドン撮っていき、「結果として」、その人の消そうと思っても決して消せずに残ったものがオリジナリティ。そしてオリジナリティに必ずしも価値があるかは分からず、可能性があるだけ。とにかく初めから「オリジナリティのある写真を撮ろう!」なんて考えない方がいい。
WSで新世紀と写真の地図の話を聞いた当時は、奇抜な事をすればいいんでしょ程度に思っていましたが、いろんな写真を見れば見るほど、地図の広さを知り、いかに地図の外というのが遥か向こうの世界なのかを痛感します。ここ数年何を撮っても“それ私が撮らなくても良いんじゃない?”という言葉に襲われ苦しむ写真生活です。
大変に興味深く拝聴しました。有難うございました。渡部さんのご私見を含めて、オリジナリティを、写真史における写真の方法論のようなものとして、ひとまずは理解しました。その観点からは、横田さんの写真と呼べない写真、鬼海さんのペルソナ、ベッヒャー夫婦の給水塔の写真、グルスキーの99セントの写真などが連想されました。余談ですが、最近、写真家の村越としやさんの、「オムレツの写真を見ていて、その写真が石内都さんの写真であることが分かった」とのツイートが、1枚のオムレツの写真と共に掲載されていました。村越さんの眼力に驚嘆すると共に、私自身も、例えばハービー山口さんの写真には、山口さんを感じることがあります。1枚の写真からその写真の作家が浮かび上がるような写真には、それをオリジナリティのある写真と呼ぶか否かは別としても、憧れてしまいます。
この春まで学んでいた大学の写真コースでも“コンテキスト”をやたらと耳に目にしましたが、腑に落ちないまま...今日やっと少し理解できたような気がします😊。オリジナリティについては自分でも考察したいと思います。いつもありがとうございます!
独創性は、真面目にやるというより、自分を正直にやることだと思います。
先日、innovationに関するセミナーの中で「なぜ、自分には思いつかなかったのか」(ドラッカー)という言葉が最大の賛辞、と語られていました。「誰もができるけど、誰もやらなかったもの」と通じると思いましたのでコメントさせていただきます。
写真を撮ると微妙にその人のクセが出る。それだけでもオリジナリティだと思う。
一定のレベル以上で、「全く異なる技法や形で何をやっても、その人の作品」と感じるのが個性だと思います。たぶん「その人独自の心地良い揺らぎ」なんだと思いますが、それを再現できるのは個性で、再現できないのはマグレだと思います。
同じことをやってみたいと思わせる数 かな
いつも楽しく拝見させて頂いております。私はオリジナルは時代で生まれるものだと思います、紀元前に生まれたもの、江戸時代に生まれたものその時代に生まれたものを後の時代にあのときが根源だったと認識を持ったときオリジナルと定義付けしたのではないでしょうか?オリジナルティは渡部さんの仰るとおり、長い間見過ごされて来たけれど、今偶然生まれたもの、今ひらめいたもの、今気がついたものを具体化したものがオリジナルティではないでしょうか?時が過ぎオリジナルティはオリジナルになって行くと思います。これからも渡部さんのYouTub楽しみにしております。
こちらの動画で北島敬三さんが全く同じことをおっしゃってました。ua-cam.com/video/roqvFf-I6YM/v-deo.html
どうすれば「オリジナリティ」のある写真を撮影することができるようになりますか?「オリジナリティ」を追求する上で、渡部さんがこれまでの経験上、大事と思われている心がけはありますか?以前の動画で「オリジナリティにこだわる奴ほど、一生オリジナリティを手に入れることがなかった」というニュアンスのことを言われていたのが印象に残りました。
オリジナルなんてものは在りません。在るのは組み合わせと、偏りです。ただオリジナルに出会いたいと思っていますし、出会えるのは芸術界隈だと信じています。生きている間にオリジナルに出会うことができれば、幸せです。
写真=自分 が根本と思うのでオリジナリティを最初に考えて撮るというのが わかりません
楽しい話ありがとうございます。オリジナリティを追求するなら、結局コラージュに行き着いてしまうのではないか?と常々思っております。コラージュとして見てもらうのでしたら、せっかく撮ったにもかかわらずレタッチが大袈裟だとか、合成だとかの猜疑心を産まないで済みますしね。その作品が何かしらの核心をついていればコラージュであれ、なんであれ、真の姿に迫れるのでは?と思い定めて日々励んでおります。😊
Nice
オリジナリティ・をと意識してオリジナリティを生み出す物ではない様に感じます自分自身が撮るので自分自身の内部から派生されると感じます
オリジナルとは、一種のロマン主義ではないですか?「宝くじを当てる」発言もありましたが、それはまさにロマンですよね。(^^)いまロマン主義に、リアリティを求めるのは難しいんじゃないでしょうか?ということで、保坂の意見としては、“高らかにオリジナルを語ることこそ陳腐である”と考えます。良い写真は、オリジナルかどうか?という議論から離れた場所に存在すると思います。
以下の28:46あたりに、飯沢さん、金子さん世代の写真評論の批判としてが、調さんと打林さんが同意する箇所があります。それは「料理が目の前にあるのにシェフの話しをする」というものです。ここが写真家オリジナリティ至上主義の一つの原因かと思います。シンポジウム<写真と評論>③ 調文明 インタビュアー:打林俊ua-cam.com/video/hnwnvHvPrk8/v-deo.html
「思考には言葉が必要であり、言葉は外からやってくる。言葉にないもの発想できない」という部分がとても腑に落ちました。
大学で橋口譲二さんの講義を受ける機会があり、橋口さんがある学生に「君は本をたくさん読みなさい」とおっしゃっていました。その学生は「ふだん本は全く読まない、なぜ読めと言われたか分からない」と困惑していました。今度彼に会ったら渡部さんのこの言葉を教えてあげようと思いました。
AIやNFTなど最新の考えも取り入れて解説していただけて、大変参考になります。
これまでは、オリジナリティが創造にもとづくものと考えていましたが、解説を聞いて、結局は発見だということに気づきました。
発見とは、既存のものの新しい組合せとも考えられるので、それは無限に存在するもので、新しいものが出にくい現代においてもまだまだ発見の可能性はあるんだと勇気づけられました。
美大にいた頃、デザインを教えてくれて馬場雄二さんにオリジナリティとは異なるもののコラボレーション、だから本を読み旅をして様々なものを知りなさいとよく言われました。
社会に出たあと写真や絵の仕事をする中で、漫画的なイラストにも絵画にも系統があり、オリジナルがあり、依頼するときはやはりオリジナルの方や、そこにプラスアルファで少し軸をずらしている方にお願いすることが多いです。
オリジナリティを分解したときに、表現における画作りの技術(撮影技術、絵だとデッサン力や塗り方)と、文脈の中での画面の作法(史観的観点、絵では絵柄の系統等)、テーマの選び方(テーマのサイズ感等)などそれぞれ分けて考えつつ、組み合わせていくのが大事かなと考えてますが、そういったもの以外にも考えると良いことはあるのでしょうか?
オリジナリティなんてことを考えずに、それどころかオリジナリティを排する意識で、とにかく撮りたいものをドンドン撮っていき、「結果として」、その人の消そうと思っても決して消せずに残ったものがオリジナリティ。
そしてオリジナリティに必ずしも価値があるかは分からず、可能性があるだけ。
とにかく初めから「オリジナリティのある写真を撮ろう!」なんて考えない方がいい。
WSで新世紀と写真の地図の話を聞いた当時は、奇抜な事をすればいいんでしょ程度に思っていましたが、いろんな写真を見れば見るほど、地図の広さを知り、いかに地図の外というのが遥か向こうの世界なのかを痛感します。ここ数年何を撮っても“それ私が撮らなくても良いんじゃない?”という言葉に襲われ苦しむ写真生活です。
大変に興味深く拝聴しました。有難うございました。渡部さんのご私見を含めて、オリジナリティを、写真史における写真の方法論のようなものとして、ひとまずは理解しました。その観点からは、横田さんの写真と呼べない写真、鬼海さんのペルソナ、ベッヒャー夫婦の給水塔の写真、グルスキーの99セントの写真などが連想されました。
余談ですが、最近、写真家の村越としやさんの、「オムレツの写真を見ていて、その写真が石内都さんの写真であることが分かった」とのツイートが、1枚のオムレツの写真と共に掲載されていました。村越さんの眼力に驚嘆すると共に、私自身も、例えばハービー山口さんの写真には、山口さんを感じることがあります。
1枚の写真からその写真の作家が浮かび上がるような写真には、それをオリジナリティのある写真と呼ぶか否かは別としても、憧れてしまいます。
この春まで学んでいた大学の写真コースでも“コンテキスト”をやたらと耳に目にしましたが、腑に落ちないまま...今日やっと少し理解できたような気がします😊。オリジナリティについては自分でも考察したいと思います。いつもありがとうございます!
独創性は、真面目にやるというより、
自分を正直にやることだと思います。
先日、innovationに関するセミナーの中で「なぜ、自分には思いつかなかったのか」(ドラッカー)という言葉が最大の賛辞、と語られていました。「誰もができるけど、誰もやらなかったもの」と通じると思いましたのでコメントさせていただきます。
写真を撮ると微妙にその人のクセが出る。それだけでもオリジナリティだと思う。
一定のレベル以上で、「全く異なる技法や形で何をやっても、その人の作品」と感じるのが個性だと思います。
たぶん「その人独自の心地良い揺らぎ」なんだと思いますが、それを再現できるのは個性で、再現できないのはマグレだと思います。
同じことをやってみたいと思わせる数 かな
いつも楽しく拝見させて頂いております。私はオリジナルは時代で生まれるものだと思います、紀元前に生まれたもの、江戸時代に生まれたものその時代に生まれたものを後の時代にあのときが根源だったと認識を持ったときオリジナルと定義付けしたのではないでしょうか?オリジナルティは渡部さんの仰るとおり、長い間見過ごされて来たけれど、今偶然生まれたもの、今ひらめいたもの、今気がついたものを具体化したものがオリジナルティではないでしょうか?時が過ぎオリジナルティはオリジナルになって行くと思います。これからも渡部さんのYouTub楽しみにしております。
こちらの動画で北島敬三さんが全く同じことをおっしゃってました。
ua-cam.com/video/roqvFf-I6YM/v-deo.html
どうすれば「オリジナリティ」のある写真を撮影することができるようになりますか?
「オリジナリティ」を追求する上で、渡部さんがこれまでの経験上、大事と思われている心がけはありますか?
以前の動画で「オリジナリティにこだわる奴ほど、一生オリジナリティを手に入れることがなかった」というニュアンスのことを言われていたのが印象に残りました。
オリジナルなんてものは在りません。在るのは組み合わせと、偏りです。
ただオリジナルに出会いたいと思っていますし、出会えるのは芸術界隈だと信じています。
生きている間にオリジナルに出会うことができれば、幸せです。
写真=自分 が根本と思うので
オリジナリティを最初に考えて撮るというのが わかりません
楽しい話ありがとうございます。オリジナリティを追求するなら、結局コラージュに行き着いてしまうのではないか?と常々思っております。コラージュとして見てもらうのでしたら、せっかく撮ったにもかかわらずレタッチが大袈裟だとか、合成だとかの猜疑心を産まないで済みますしね。その作品が何かしらの核心をついていればコラージュであれ、なんであれ、真の姿に迫れるのでは?と思い定めて日々励んでおります。😊
Nice
オリジナリティ・をと
意識してオリジナリティを
生み出す物ではない様に感じます
自分自身が撮るので
自分自身の内部から派生されると感じます
オリジナルとは、一種のロマン主義ではないですか?
「宝くじを当てる」発言もありましたが、それはまさにロマンですよね。(^^)
いまロマン主義に、リアリティを求めるのは難しいんじゃないでしょうか?
ということで、保坂の意見としては、“高らかにオリジナルを語ることこそ陳腐である”と考えます。
良い写真は、オリジナルかどうか?という議論から離れた場所に存在すると思います。
以下の28:46あたりに、飯沢さん、金子さん世代の写真評論の批判としてが、調さんと打林さんが同意する箇所があります。
それは「料理が目の前にあるのにシェフの話しをする」というものです。
ここが写真家オリジナリティ至上主義の一つの原因かと思います。
シンポジウム<写真と評論>③ 調文明 インタビュアー:打林俊
ua-cam.com/video/hnwnvHvPrk8/v-deo.html