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宮脇俊三氏の時刻表昭和史にも終戦直後、この映像のように窓や屋根、機関車にまで人々が溢れており、当時は列車に乗るのがどれだけ大変だったか、克明に描かれてましたね。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。宮脇俊三さんは、お客さんの観点で、種村直樹さんは新聞記者の観点で、折に触れてこの当時の輸送の状況を旅行雑誌や鉄道雑誌に書かれていました。記事にするほどの、出来事が戦後長く続いていたのですね。
戦時中は兵隊になった鉄道員達の代わりに女性駅員、車掌が居ましたね!!大いなる旅路にも同じ場面がありました
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。戦時中~戦後すぐあたりは、地方の軽便鉄道へ行くと、小学生くらいの、10歳ー13歳あたりの子どもが貨車の入れ換え手伝ってたり、乗車券売りさばいていたりそんな記録が映画や写真で残ってます。今ならお金払って、やりたい少年たちが飛びつきそうな場面ですけど。
@@qsht確かにありましたね、今の時代は19歳から採用されるでしょう
ダブルルーフの客車が時代を感じます。そして出演者にビッグネームが!作曲家の山田耕筰氏が出演していたとは驚きです。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。そもそも音楽映画なのですが、おっしゃるように、山田耕筰さんのほか、いまでもご存命のピアニスト、室井摩耶子さんも特別出演されていて、たいへんな配役の映画として密かに有名な作品です。この映画を収録時にはすでに、山田耕筰さんは昭和23年に脳溢血で倒れて左半身はマヒが見られるものの、映画後半では自らタクトを執り大活躍しています。当時の独立プロの意気込みが感じられます。二段屋根の木造客車はこの当時、地方線へ充てられていたのですが、「乗れればいい」「走ればいい」「運べればいい」時代でしたので、脚色もありますが劇場公開当時も重い時代でした。
確か昭和30年頃の公開だから、撮影はその前年くらい(ちょうど特急つばめがゴジラに襲われてた頃か?)だと思いますけど、地方線にはまだ木造客車が残っていたんですね山奥の学校で演奏した時「この子たちはみんな、この山奥で木こりや炭焼きをして一生を終えるんだ」 みたいなセリフが印象的でしたが、後年になって後日談の記事に「林業がダメになりまして、その子たちはみんな、町へ出て行ってしまいました」というのが更に印象的でした
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。この出典映画の全編をカラー化試行して、わたくしどものサイトssqqhhvvtt1.jp/ の、ssqqhhvvtt1.jp/video/kknwisumiwari%20farbe-1.mp4 で公開中です。同様の台詞が劇中後半に小林桂樹さんによって語られています。こんな映画作品がつくられることは、今後たぶん、無いと思われます。
C50の後ろにダブルルーフの客車かっこいいな。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。この映画作品のような、C50型の蒸気機関車と、二段屋根の17m客車のコンビネーションは、映画制作当時は特に平野部で比較的あちこちの線区で観られ、あとの時代になっても"汽車"を象徴するイメージが残りました。日本の鉄道模型のメーカーでは、この組み合わせをモチーフにして最初期の製品を売り出していたほどです。 カッコ良さで人気があったんですね。
あれほど詰め込む様に混んだ列車を見ると30年前頃の東海道線上りで大船から川崎まで途中から片足立ちになっているのに何故か疲れなかった謎の混雑を思い出します
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。そうですね、大船~川崎間は「横須賀線から来た電車に乗ってよ」と言いたくなるような混雑で、横浜で降りた人数以上乗ってくるのには閉口する毎日でした。特にあの区間は東京駅までトイレがずっと開かなかったのも謎の一つです。
この映画見たことあります。群馬交響楽団の黎明期を映画化したもので、当時としては大変な労力をもって撮影されました。オーケストラを題材にした映画はこの後作られていないのではないでしょうか。何と言っても山田耕筰さんが出ていたこと、貴重な映画です。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。おっしゃる通り、日本では後にも先にも例の少ない音楽映画ですね。独立プロと今井正監督が不安の中で制作した名作ですが現在も根強く高い支持と評価を得ています。配役テロップに「草笛光子」と出るのですが、実はさらに30分長いヴァージョンが存在していました。「室井摩耶子」もビッグな音楽家として貴重な演奏場面が含まれています。
@@qsht チャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番を演奏していましたね。
楽団員と担ぎ屋 まさに戦後の混乱期ですねよく見ると山田耕作先生のお名前が。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。これは全編が音楽映画(モデルは群馬交響楽団)なので、他にもピアニストの室井摩耶子さん(103歳ご存命)とか重鎮さんが出演されてます。山田耕筰さんは、本作出演時点で半身不随でしたが、ラストシーンでは大活躍します。
ちなみに昭和40年代に入ってもこんな感じで、115系電車が導入されてようやく落ち着いたという経緯がありました。※それでも酷いもので最終的には上越新幹線の開業まで待たなければなりませんでした。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。新前橋電車区の電車と70系電車を運用する時間が、この地域のラッシュ時間帯からズレているので有名でしたね。これは列車編成の原因以外に、スジ引きにも問題がありました。交換の貨物列車も長い時間本線引き上げで入れ換えしていましたので、(おまけに朝っぱらから東武授受と足尾競合が桐生以東で3か所もある)信号扱いも大変だったと思います。
1973年(昭和48年)にはこの殺人的混雑に165系電車が使われていて、そこへ労使紛争による順法闘争が合わさったところ、乗客の暴動、上尾事件と首都圏国電暴動が発生していますからね80系が首都圏から早期に追い出されたのは混雑のためでした
こんな状態だと切符買わなくても乗り込めそうだが、そうしなかった人のほうが多かったのは古き良き日本だなあ
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。この映画の時代は鉄道員の権限はとても絶大で、不正乗車はもとより、無札で突破しようものなら有形力使っても従わせることもありました。それと同時に当時の日本人はおよそ律儀で、切符はどんなに混んでいても窓口で求める順序を通していたんですね。
高崎駅西口にある『豊田家旅館』は小林桂樹さんの遠縁に当たるそうですね
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。そうなんですよ。わたくしたちチャンネルスタッフも10年ほど前に投宿したことがあるのですが、女将さんといろいろお話しして、加東大介さんとの2ショット写真を拝見させていただいたことがあります。お仏壇がなぜか3基もあって、そこから高崎軌道線の写真も出してきて見せていただきました。レトロな構えの車寄せで、お風呂のタイルも素敵でした。
@@qsht 様興味深いお話、有り難うございました。家庭の事情で10年間、高崎に住んで都内まで通勤していました。今は高崎を離れていますが、親族が多いので、たまに帰ります。
手すりを持たずに戸井握っている。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。このさい、振り落とされなければ掴めるところはどこでも掴んでおかないとたいへんなことになる時代でしたね。
鉄道員、詰襟制服もいれば、ネクタイしてる人もいる…ちょうど変わる頃か…
毎度ご視聴いただきましてありがとうございます。鉄道員は開業直後から戦争前まで、とても誇りの高い仕事意識を世間的にも有していました。詰襟にカラーを装着する制服が、その矜持をよく物語っていますね。
現実にあった光景とはいえ 今だったら『危険な撮影』としてNG👎️でしょうね。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。"今"どころか、当時もNGな場面でもあったのですが、もう少し厳密に申し上げますと、「撮影はOK」「公開はNG」とするのが当時の映評記事ですね。国鉄高鉄局全面協力で、C50の前端に櫓悍を組んで踟躊撮り(Heave to shot)をするやり方は、「裸の太陽(東映)ua-cam.com/video/XLB1t7oNods/v-deo.html 」でも活用されています。やってしまうところが、独立プロのすごいところでした。
@@qsht さま『黒鉄役者』を教えていただいたアレですね。実際に演じているのは 江原真二郎さんではないにしろ 当時はスタントマン等居なかっただろうから どんな方が『吹き替え』ていたのだろう?何れにしても 危険な撮影には変わりないですね。でも そんなハラハラ感を持ちながらの手に汗握るシーンとなりました。
よく見る映像なんですが落下して落ちる人などいなかったんですかね?トンネルでは煤煙もろに受けるし、雨風も容赦ないだろうし…
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。 >落下して落ちる人など戦前はわかりませんが、終戦直後から10年くらいの間は、この動画のような輸送状況が都市部の近郊でも常に見られたようで、新聞記事だけでも「動力車の先頭から転落して轢かれ」「線路脇電信柱に攫われて」「対向列車に触車して」とゆう報道がとても多く拾えます。引き揚げもずっと続いていたので、気の毒なことですが、輸送需要はあるのに、戦災で車輛が不足していたこともあって、とくに橋梁上とか隧道内の転落は凄惨を極めたようです。
@@コジ-r5e 様「御茶ノ水駅構内で走行中の電車のドアが破れ、乗客が神田川に転落。死傷者多数」なんて事故も起きてます車内にいても危ない時代だったみたいですね
僕の知らなかった世界のいい切り取りです。違法な大荷物持った乗客を止めてる客を、後の関係ない客が俺が乗れねえじゃねえかと助太刀する感じは、今の中国人がーとかいう若い日本人に見せてやりたいよ、自分たちも貧しかったらこういうことするんだよ、同じ日本人でも。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。この映画の本編をご覧になると、カットライズした部分の流れの相違が分かるのですが、おっしゃるように、この時代の人たちの、こうした振る舞いも、混沌としている中で、それも礼儀の一つになり、美しく印象されるわけです。お客さんも鉄道員も困難な時代なのだけれども、ほどほどのところで掛け合いつつも助け合う、むかしの人は大丈夫(ますらを)とか、撫子(なでしこ)などと大和言葉で形容した景色の切り取りです。古い出来事でも学べるところは踏襲したいものですね。
インドみたいな乗り方。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。インド🇮🇳の両隣国のパキスタン🇵🇰とバングラデシュ🇧🇩の鉄道も、今なお似たような乗り込み具合ですが、日本終戦直後と異なるのは、座席に空席があっても、ハコ乗りするところですね。
宮脇俊三氏の時刻表昭和史にも終戦直後、この映像のように窓や屋根、機関車にまで人々が溢れており、当時は列車に乗るのがどれだけ大変だったか、克明に描かれてましたね。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
宮脇俊三さんは、お客さんの観点で、
種村直樹さんは新聞記者の観点で、
折に触れてこの当時の輸送の状況を
旅行雑誌や鉄道雑誌に書かれていました。
記事にするほどの、出来事が戦後長く続いていたのですね。
戦時中は兵隊になった鉄道員達の代わりに女性駅員、車掌が居ましたね!!大いなる旅路にも同じ場面がありました
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
戦時中~戦後すぐあたりは、地方の軽便鉄道へ行くと、
小学生くらいの、10歳ー13歳あたりの子どもが
貨車の入れ換え手伝ってたり、乗車券売りさばいていたり
そんな記録が映画や写真で残ってます。
今ならお金払って、やりたい少年たちが飛びつきそうな場面ですけど。
@@qsht確かにありましたね、今の時代は19歳から採用されるでしょう
ダブルルーフの客車が時代を感じます。そして出演者にビッグネームが!作曲家の山田耕筰氏が出演していたとは驚きです。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
そもそも音楽映画なのですが、おっしゃるように、山田耕筰さんのほか、
いまでもご存命のピアニスト、室井摩耶子さんも特別出演されていて、
たいへんな配役の映画として密かに有名な作品です。
この映画を収録時にはすでに、山田耕筰さんは昭和23年に脳溢血で倒れて
左半身はマヒが見られるものの、映画後半では自らタクトを執り大活躍しています。
当時の独立プロの意気込みが感じられます。
二段屋根の木造客車はこの当時、地方線へ充てられていたのですが、
「乗れればいい」「走ればいい」「運べればいい」時代でしたので、脚色もありますが
劇場公開当時も重い時代でした。
確か昭和30年頃の公開だから、撮影はその前年くらい(ちょうど特急つばめがゴジラに襲われてた頃か?)だと思いますけど、地方線にはまだ木造客車が残っていたんですね
山奥の学校で演奏した時
「この子たちはみんな、この山奥で木こりや炭焼きをして一生を終えるんだ」
みたいなセリフが印象的でしたが、後年になって後日談の記事に
「林業がダメになりまして、その子たちはみんな、町へ出て行ってしまいました」
というのが更に印象的でした
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
この出典映画の全編をカラー化試行して、
わたくしどものサイトssqqhhvvtt1.jp/ の、
ssqqhhvvtt1.jp/video/kknwisumiwari%20farbe-1.mp4 で公開中です。
同様の台詞が劇中後半に小林桂樹さんによって語られています。
こんな映画作品がつくられることは、今後たぶん、無いと思われます。
C50の後ろにダブルルーフの客車かっこいいな。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
この映画作品のような、
C50型の蒸気機関車と、二段屋根の17m客車のコンビネーションは、
映画制作当時は特に平野部で比較的あちこちの線区で観られ、
あとの時代になっても"汽車"を象徴するイメージが残りました。
日本の鉄道模型のメーカーでは、この組み合わせをモチーフにして
最初期の製品を売り出していたほどです。
カッコ良さで人気があったんですね。
あれほど詰め込む様に混んだ列車を見ると30年前頃の東海道線上りで大船から川崎まで途中から片足立ちになっているのに何故か疲れなかった謎の混雑を思い出します
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
そうですね、大船~川崎間は
「横須賀線から来た電車に乗ってよ」と言いたくなるような混雑で、
横浜で降りた人数以上乗ってくるのには閉口する毎日でした。
特にあの区間は
東京駅までトイレがずっと開かなかったのも謎の一つです。
この映画見たことあります。群馬交響楽団の黎明期を映画化したもので、当時としては大変な労力をもって撮影されました。オーケストラを題材にした映画はこの後作られていないのではないでしょうか。何と言っても山田耕筰さんが出ていたこと、貴重な映画です。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
おっしゃる通り、
日本では後にも先にも例の少ない音楽映画ですね。
独立プロと今井正監督が不安の中で制作した名作ですが
現在も根強く高い支持と評価を得ています。
配役テロップに「草笛光子」と出るのですが、
実はさらに30分長いヴァージョンが存在していました。
「室井摩耶子」もビッグな音楽家として
貴重な演奏場面が含まれています。
@@qsht チャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番を演奏していましたね。
楽団員と担ぎ屋 まさに戦後の混乱期ですね
よく見ると山田耕作先生のお名前が。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
これは全編が音楽映画(モデルは群馬交響楽団)なので、他にも
ピアニストの室井摩耶子さん(103歳ご存命)とか
重鎮さんが出演されてます。
山田耕筰さんは、本作出演時点で半身不随でしたが、
ラストシーンでは大活躍します。
ちなみに昭和40年代に入ってもこんな感じで、115系電車が導入されてようやく落ち着いたという経緯がありました。※それでも酷いもので最終的には上越新幹線の開業まで待たなければなりませんでした。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
新前橋電車区の電車と70系電車を運用する時間が、
この地域のラッシュ時間帯からズレているので有名でしたね。
これは列車編成の原因以外に、スジ引きにも問題がありました。
交換の貨物列車も長い時間本線引き上げで入れ換えしていましたので、
(おまけに朝っぱらから東武授受と足尾競合が桐生以東で3か所もある)
信号扱いも大変だったと思います。
1973年(昭和48年)にはこの殺人的混雑に165系電車が使われていて、
そこへ労使紛争による順法闘争が合わさったところ、
乗客の暴動、上尾事件と首都圏国電暴動が発生していますからね
80系が首都圏から早期に追い出されたのは混雑のためでした
こんな状態だと切符買わなくても乗り込めそうだが、そうしなかった人のほうが多かったのは古き良き日本だなあ
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
この映画の時代は鉄道員の権限はとても絶大で、
不正乗車はもとより、
無札で突破しようものなら有形力使っても
従わせることもありました。
それと同時に当時の日本人はおよそ律儀で、
切符はどんなに混んでいても
窓口で求める順序を通していたんですね。
高崎駅西口にある『豊田家旅館』は小林桂樹さんの遠縁に当たるそうですね
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
そうなんですよ。
わたくしたちチャンネルスタッフも
10年ほど前に投宿したことがあるのですが、
女将さんといろいろお話しして、
加東大介さんとの2ショット写真を
拝見させていただいたことがあります。
お仏壇がなぜか3基もあって、
そこから高崎軌道線の写真も出してきて
見せていただきました。
レトロな構えの車寄せで、
お風呂のタイルも素敵でした。
@@qsht 様
興味深いお話、有り難うございました。
家庭の事情で10年間、高崎に住んで都内まで通勤していました。
今は高崎を離れていますが、
親族が多いので、たまに帰ります。
手すりを持たずに戸井握っている。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
このさい、振り落とされなければ
掴めるところはどこでも掴んでおかないと
たいへんなことになる時代でしたね。
鉄道員、詰襟制服もいれば、ネクタイしてる人もいる…ちょうど変わる頃か…
毎度ご視聴いただきましてありがとうございます。
鉄道員は開業直後から戦争前まで、
とても誇りの高い仕事意識を
世間的にも有していました。
詰襟にカラーを装着する制服が、その矜持をよく物語っていますね。
現実にあった光景とはいえ 今だったら『危険な撮影』としてNG👎️でしょうね。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
"今"どころか、当時もNGな場面でもあったのですが、
もう少し厳密に申し上げますと、
「撮影はOK」「公開はNG」とするのが当時の映評記事ですね。
国鉄高鉄局全面協力で、C50の前端に櫓悍を組んで踟躊撮り(Heave to shot)をするやり方は、
「裸の太陽(東映)ua-cam.com/video/XLB1t7oNods/v-deo.html 」でも活用されています。
やってしまうところが、独立プロのすごいところでした。
@@qsht さま
『黒鉄役者』を教えていただいたアレですね。
実際に演じているのは 江原真二郎さんではないにしろ 当時はスタントマン等居なかっただろうから どんな方が『吹き替え』ていたのだろう?
何れにしても 危険な撮影には変わりないですね。でも そんなハラハラ感を持ちながらの手に汗握るシーンとなりました。
よく見る映像なんですが落下して落ちる人などいなかったんですかね?トンネルでは煤煙もろに受けるし、雨風も容赦ないだろうし…
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
>落下して落ちる人など
戦前はわかりませんが、終戦直後から10年くらいの間は、この動画のような輸送状況が
都市部の近郊でも常に見られたようで、新聞記事だけでも
「動力車の先頭から転落して轢かれ」「線路脇電信柱に攫われて」「対向列車に触車して」
とゆう報道がとても多く拾えます。
引き揚げもずっと続いていたので、気の毒なことですが、
輸送需要はあるのに、戦災で車輛が不足していたこともあって、
とくに橋梁上とか隧道内の転落は凄惨を極めたようです。
@@コジ-r5e 様
「御茶ノ水駅構内で走行中の電車のドアが破れ、乗客が神田川に転落。死傷者多数」
なんて事故も起きてます
車内にいても危ない時代だったみたいですね
僕の知らなかった世界のいい切り取りです。
違法な大荷物持った乗客を止めてる客を、後の関係ない客が俺が乗れねえじゃねえかと助太刀する感じは、今の中国人がーとかいう若い日本人に見せてやりたいよ、自分たちも貧しかったらこういうことするんだよ、同じ日本人でも。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
この映画の本編をご覧になると、
カットライズした部分の流れの相違が分かるのですが、
おっしゃるように、この時代の人たちの、こうした振る舞いも、
混沌としている中で、それも礼儀の一つになり、
美しく印象されるわけです。
お客さんも鉄道員も困難な時代なのだけれども、
ほどほどのところで掛け合いつつも助け合う、
むかしの人は大丈夫(ますらを)とか、撫子(なでしこ)などと
大和言葉で形容した景色の切り取りです。
古い出来事でも学べるところは踏襲したいものですね。
インドみたいな乗り方。
いつもご視聴いただきましてありがとうございます。
インド🇮🇳の両隣国の
パキスタン🇵🇰とバングラデシュ🇧🇩の鉄道も、
今なお似たような乗り込み具合ですが、
日本終戦直後と異なるのは、
座席に空席があっても、ハコ乗りするところですね。