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この時代の大奥は、健康な世継ぎを送り出すという使命を見失っていたとしか思えませんね。江戸時代後期で頑健な将軍というと、吉宗、家斉、慶喜と、大奥で育てられなかった将軍が多いように思えます。
投稿おつかれさまです。生まれてくる時代が悪かった、という話は沢山ありますが反面で、生まれてくる時代が良かった、という話も聞いたことはないです。その時代、その時代なりの最善が尽くされて人々の思惑で尽くされた結果なのだとは思います。時代の流れは大河の如くうねり、人々を濁流に飲み込みだれも止められない。そこに一幕生まれる悲喜こもごもを垣間見る醍醐味が歴史を知る、学ぶことなのだと改めて実感します。動画作成おつかれさまです。実に
Thanksありがとうございます。大変励みになります江戸時代の平和は偏に幕府の組織力と幕藩体制の絶妙なバランスによって維持されていました。例外は多いですが、英明な当主が才覚を発揮する時代ではなくなったのですしかし、そのバランスが大きく崩れた幕末、幕府権力の修正と複雑な政治問題の解決を、もはや飾りに過ぎない将軍に求められたのは不幸という他ありませんあの時代の将軍や天皇は、世の中を知る機会が殆ど与えられないまま育ちますから、まさに家定は生まれてくる時代が・・というしかない不遇な人物だったと思います
寛永寺の徳川将軍家のお墓に行くと家定さんと天璋院篤姫なかよく眠っておられます。
増上寺なら発掘調査の後に火葬されたから寛永寺で良かった。
もうそろそろ150本ですね。いつも興味深い動画を面白く、分かりやすく作っていただきありがとうございます!(´▽`)江戸時代関連のチャンネルがだんだん更新しなくなっていく中、tera senさんの引き出しの多さに脱帽です。これからもゆるゆると続けて行ってもらえるととても嬉しいです。
Thanksありがとうございます。おかげさまでゆっくり大江戸シリーズも150本近くとなりました。幕末や大奥、吉原などのメジャーな話題だけではなく、恐らく他チャンネルが取り上げない江戸時代の様々な部分にスポットを当て、歴史の面白さをご紹介しております。これからも当チャンネルをよろしくお願いします
暗愚と言うより時代が悪かったと言うのが家定ですね。
大河では家定役を堺正人さんがやってましたね
2008年の大河ドラマ。
徳川家定というと堺雅人や北村一輝に愛希れいかの顔が思い浮かんでしまう、幕末の大奥に登場した滝山の解説をリクエストしまう
御台はどこじゃ~
150回目にはゆっくりの守を出演させて下さい
ま~~た、参勤交代RTAをやって欲しいねえ…😊😊😊😊😊😊
ゆっくりの守、大好きです❤
家定の評価はきっとこれからも低いままなんだろうな…同じく、脳性麻痺の疑いがある家重は最近では「人事能力は素晴らしかった」と評価され始め人によっては「吉宗以上の優れた頭脳を持ち、農業から商業へ舵を切るよう政務をリードしたからそれまでの政策を重要視する幕閣の評価が低かった。だから家重へのネガキャンとして頻尿、言語不明瞭がピックアップされてた」という説を唱える人もいるが、家定はそういう話がないしなあ家重みたいに、彼の言葉、考えを理解してくれる幕臣がいればまた違ったかも
個人で見れば好漢だったかもしれないが、「武家の棟梁」という立場がそれを許さなかった…。
井伊直弼の家定評「世上の風説と違い、中々御聡明に渉らせられ候」
4:38 そういえば足利も13代将軍は改名している。足利義輝は最初義藤といい、細川幽斎の元々の名前の藤孝の藤は義藤から与えられた。
足利将軍はしょっちゅう改名してるイメージがあります
次回は桜田門外の変かな最近ハコヅメ描いた人が新作で幕末物描いてるけど、桜田門外の変のエピソードに痺れた
素晴らしい解説でした♪
将軍家から偏諱を授与される家柄は固定されていたので、家定が将軍に就任した時に「定」の字を使っていた大名(久松松平氏の松平定穀、松平定猷、松平定保)は改名した。因みに家定が偏諱を授けたのは松江松平氏の松平定安と毛利氏の毛利定広の二人だけだった。
歴史に詳しい松平定知アナウンサーも久松松平の末裔です。「定」が付くのも通字だったんでしょうかね。
淳和天皇の諱(大伴)を避けて改姓した伴氏のような前例が
偏諱の風習のおかげで江戸時代はどの将軍の時代の藩主なのか分かりやすい。室町だと偏諱は義ばかりだから分かりにくい。まあ伊達輝宗や毛利輝元みたいに2番目の偏諱もあるけど。
将軍となった時勢が悪すぎた…。色々な思惑があった上なんだろうけど井伊直弼の登用と篤姫の存在が江戸を救った一助になったのはその後の日本の歴史を大きく変えた決断だったと思います。激動期だけあって本人の資質よりその後の日本を左右する運命に否応なく翻弄された人物ですね。
篤姫は今の日蓮正宗の末寺、一言橋常泉寺の大旦那だったんですよ。
阿部正弘が亡くなったのは寛永4年ではなく安政4年が正解です。
ご指摘ありがとうございます安政4年で間違いないです。お詫びして訂正致します
25:40から流れるBGMはなんというやつですか?前々から気になっていたので教えて頂きたい。
いつもありがとうございます。一橋派、明治以降も長らくネガティブキャンペーンをはられた気の毒な将軍という気がします。確かに激動の幕末を舵取りする力量はなかったかもしれませんが、最後に良き伴侶に恵まれましたね。
”明は万歴に滅ぶ”との言葉があるように江戸時代も慶喜はおろか家定より前に滅びが決定していたのかもしれませんね
家慶は、自分が早く亡くなることを予見はしてなかっただろうけど、家定に将軍職を継がず、一大名として幸せに過ごして欲しかったんじゃないかな〜。幕府の権力闘争と因果によって継いだとすると、健闘した将軍、と言って良いのかも?
将軍でもなくて普通に今の時代に生きて接することができたらどんな人なのかなと想像してしまう
塩野干支郎次の作品「ブロッケンブラッド」では劇中劇として家定を主役とした時代劇「幕末ん坊将軍」があった。暴れん坊将軍のパロディなのはそのまんまで家定役の俳優名は「産婆平健(さんばだいら けん)」と言った。
余計なことしなかったから「飾りとしての将軍」を全うした人物ってイメージだなあ、愚ではないが暗な人物って感じ
あの大河ドラマは少女漫画のようで見ている方が頭が痛くなってくるような内容だった
徳川家定の将軍継承問題で一橋慶喜と紀州藩の徳川慶福(後の将軍徳川家茂)の争いが有ったが皮肉にも一橋慶喜は英名と賞されて居て徳川慶福に対しては人物評価に辛辣な勝海舟は「家茂公は若さ故に時代に翻弄されたが、もう少し長生きすれば英邁の君主として名を残した」と評し、家茂が亡くなった事を知った勝海舟は悲嘆の余り日記に「徳川家、今日滅ぶ」と書いたので、両人共に将軍としては有能だった。
どっかのメガネみたいに、平時ならいつもの程度の存在感で終わったが時代にそぐわなかった将軍権威の象徴のままで居られれば無難にこなせたが、外から揺さぶられる状況で、国事をこなすには・・・って感想ですね
中国の清朝も比較的暗君が少なかったけどやはり時代には抗うことはできなかった。
平時であれば仲の良い若夫婦でいられたものを…。家重よりも暗愚だったという評価は家定には当たらないと思います。南紀派から一橋派へと繋ぐ橋渡し役という務めは果たしたものの、大老井伊直弼による安政の大獄を黙認して幕末期の騒動の一方の主役視する歴史学者には、家定は暗君中の暗君という見方をされたようですね。個人的には料理趣味が高じて正室の篤姫にも料理を振る舞っていたというエピソードが好きです。
19:05家慶ではなく家定では?
家慶って、よく慶喜を一橋に迎えたよね…。家慶の直系はいたし、傍系でももっと近いのがいくらでもいたのに。慶喜と家慶の直近の血縁者って初代の家康でしょ?血縁的には200年以上、すでにほぼ他人といっていいのに。よほど気に入ったんだね。
家慶が慶喜を気に入った理由に家定の次に長生きした(と言っても十代半ばでタヒんでるけど)慶昌っていう息子に似ていたからという話があるらしい
一応、慶喜の母が家慶の正室の妹、つまり家慶から見て慶喜は義理の甥といってもいい立場ではある
@@nichirowar一橋慶昌は幼い頃の遊び相手は2歳年上の勝海舟で慶昌が元服して一橋家を継ぐ時に幼馴染の勝海舟を一橋に召し抱える予定だったが慶昌が亡くなり、勝海舟の一橋に使える事は無くなった。
「慶喜」「篤姫」と、これらを刺し身とすると家定はどうしても刺身のツマ扱いなのが事実。平和な時代なら、とはいうものの、なら初代権現様は平和な時代に生まれたのか、というお話にもなりますしね。家定はもとより、幕府体制自体が山田方谷先生の言の通り、どれほどつくろおうとももはや直せないほど古びた存在であった以上、どうしようもなかったでしょうが。まあ、江戸260年の太平を作り上げた、という広く世界史を見渡してもここまで偉業を成し遂げた組織は江戸幕府以外にはないでしょう。さすが儒教。
あまりにも影が薄すぎて高校日本史の教科書ですら将軍継嗣問題との関連でしか名前出てこない人ですよね。まだ主君が生きてるのに後継者争いが勃発するとか日本史どころか世界史的にも前代未聞の事態では
解説を全部見るとちょっと足りてない人やから適当でええやろ感も人間不信に陥らせた原因を作っているとは思うんだよな2代目の嫁や養子周りの話は当てつけにもほどがあるエピソードだとは思う
大奥の白粉か。ひとりごとを言う薬屋が仕えていればな・・・。
キシダメは家定の爪を垢を煎じて飲んでもろて
あれでも小泉や安倍よりはマシだけどね。
もしこの頃有能な将軍居たとしても幕末の結果変わらんかったかな?
徳川斉昭がガチ攘夷派のまま権力を握ったパターンだと同じケースがお隣の李氏朝鮮ですね。攘夷成功しますよ。
この時代の大奥は、健康な世継ぎを送り出すという使命を見失っていたとしか思えませんね。江戸時代後期で頑健な将軍というと、吉宗、家斉、慶喜と、大奥で育てられなかった将軍が多いように思えます。
投稿おつかれさまです。
生まれてくる時代が悪かった、という話は沢山ありますが反面で、生まれてくる時代が良かった、という話も聞いたことはないです。
その時代、その時代なりの最善が尽くされて人々の思惑で尽くされた結果なのだとは思います。
時代の流れは大河の如くうねり、人々を濁流に飲み込みだれも止められない。
そこに一幕生まれる悲喜こもごもを垣間見る醍醐味が歴史を知る、学ぶことなのだと改めて実感します。
動画作成おつかれさまです。
実に
Thanksありがとうございます。大変励みになります
江戸時代の平和は偏に幕府の組織力と幕藩体制の絶妙なバランスによって維持されていました。例外は多いですが、英明な当主が才覚を発揮する時代ではなくなったのです
しかし、そのバランスが大きく崩れた幕末、幕府権力の修正と複雑な政治問題の解決を、もはや飾りに過ぎない将軍に求められたのは不幸という他ありません
あの時代の将軍や天皇は、世の中を知る機会が殆ど与えられないまま育ちますから、まさに家定は生まれてくる時代が・・というしかない不遇な人物だったと思います
寛永寺の徳川将軍家のお墓に行くと家定さんと天璋院篤姫なかよく眠っておられます。
増上寺なら発掘調査の後に火葬されたから寛永寺で良かった。
もうそろそろ150本ですね。いつも興味深い動画を面白く、分かりやすく作っていただきありがとうございます!(´▽`)
江戸時代関連のチャンネルがだんだん更新しなくなっていく中、tera senさんの引き出しの多さに脱帽です。
これからもゆるゆると続けて行ってもらえるととても嬉しいです。
Thanksありがとうございます。おかげさまでゆっくり大江戸シリーズも150本近くとなりました。幕末や大奥、吉原などのメジャーな話題だけではなく、恐らく他チャンネルが取り上げない江戸時代の様々な部分にスポットを当て、歴史の面白さをご紹介しております。これからも当チャンネルをよろしくお願いします
暗愚と言うより時代が悪かったと言うのが家定ですね。
大河では家定役を堺正人さんがやってましたね
2008年の大河ドラマ。
徳川家定というと堺雅人や北村一輝に愛希れいかの顔が
思い浮かんでしまう、幕末の大奥に登場した滝山の解説を
リクエストしまう
御台はどこじゃ~
150回目にはゆっくりの守を出演させて下さい
ま~~た、参勤交代RTAをやって欲しいねえ…😊😊😊😊😊😊
ゆっくりの守、大好きです❤
家定の評価はきっとこれからも低いままなんだろうな…
同じく、脳性麻痺の疑いがある家重は最近では「人事能力は素晴らしかった」と評価され始め人によっては「吉宗以上の優れた頭脳を持ち、農業から商業へ舵を切るよう政務をリードしたからそれまでの政策を重要視する幕閣の評価が低かった。だから家重へのネガキャンとして頻尿、言語不明瞭がピックアップされてた」という説を唱える人もいるが、家定はそういう話がないしなあ
家重みたいに、彼の言葉、考えを理解してくれる幕臣がいればまた違ったかも
個人で見れば好漢だったかもしれないが、「武家の棟梁」という立場がそれを許さなかった…。
井伊直弼の家定評「世上の風説と違い、中々御聡明に渉らせられ候」
4:38 そういえば足利も13代将軍は改名している。足利義輝は最初義藤といい、細川幽斎の元々の名前の藤孝の藤は義藤から与えられた。
足利将軍はしょっちゅう改名してるイメージがあります
次回は桜田門外の変かな
最近ハコヅメ描いた人が新作で幕末物描いてるけど、桜田門外の変のエピソードに痺れた
素晴らしい解説でした♪
将軍家から偏諱を授与される家柄は固定されていたので、家定が将軍に就任した時に「定」の字を使っていた大名(久松松平氏の松平定穀、松平定猷、松平定保)は改名した。因みに家定が偏諱を授けたのは松江松平氏の松平定安と毛利氏の毛利定広の二人だけだった。
歴史に詳しい松平定知アナウンサーも久松松平の末裔です。「定」が付くのも通字だったんでしょうかね。
淳和天皇の諱(大伴)を避けて改姓した伴氏のような前例が
偏諱の風習のおかげで江戸時代はどの将軍の時代の藩主なのか分かりやすい。室町だと偏諱は義ばかりだから分かりにくい。まあ伊達輝宗や毛利輝元みたいに2番目の偏諱もあるけど。
将軍となった時勢が悪すぎた…。色々な思惑があった上なんだろうけど井伊直弼の登用と篤姫の存在が江戸を救った一助になったのはその後の日本の歴史を大きく変えた決断だったと思います。
激動期だけあって本人の資質よりその後の日本を左右する運命に否応なく翻弄された人物ですね。
篤姫は今の日蓮正宗の末寺、一言橋常泉寺の大旦那だったんですよ。
阿部正弘が亡くなったのは寛永4年ではなく安政4年が正解です。
ご指摘ありがとうございます
安政4年で間違いないです。お詫びして訂正致します
25:40から流れるBGMはなんというやつですか?
前々から気になっていたので教えて頂きたい。
いつもありがとうございます。
一橋派、明治以降も長らくネガティブキャンペーンをはられた気の毒な将軍という気がします。
確かに激動の幕末を舵取りする力量はなかったかもしれませんが、
最後に良き伴侶に恵まれましたね。
”明は万歴に滅ぶ”との言葉があるように
江戸時代も慶喜はおろか家定より前に滅びが決定していたのかもしれませんね
家慶は、自分が早く亡くなることを予見はしてなかっただろうけど、家定に将軍職を継がず、一大名として幸せに過ごして欲しかったんじゃないかな〜。
幕府の権力闘争と因果によって継いだとすると、健闘した将軍、と言って良いのかも?
将軍でもなくて普通に今の時代に生きて接することができたらどんな人なのかなと想像してしまう
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徳川家定の将軍継承問題で一橋慶喜と紀州藩の徳川慶福(後の将軍徳川家茂)の争いが有ったが皮肉にも一橋慶喜は英名と賞されて居て徳川慶福に対しては人物評価に辛辣な勝海舟は「家茂公は若さ故に時代に翻弄されたが、もう少し長生きすれば英邁の君主として名を残した」と評し、家茂が亡くなった事を知った勝海舟は悲嘆の余り日記に「徳川家、今日滅ぶ」と書いたので、両人共に将軍としては有能だった。
どっかのメガネみたいに、平時ならいつもの程度の存在感で終わったが
時代にそぐわなかった将軍
権威の象徴のままで居られれば無難にこなせたが、外から揺さぶられる状況で、国事をこなすには・・・って感想ですね
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19:05
家慶ではなく家定では?
家慶って、よく慶喜を一橋に迎えたよね…。
家慶の直系はいたし、傍系でももっと近いのがいくらでもいたのに。
慶喜と家慶の直近の血縁者って初代の家康でしょ?
血縁的には200年以上、すでにほぼ他人といっていいのに。
よほど気に入ったんだね。
家慶が慶喜を気に入った理由に家定の次に長生きした(と言っても十代半ばでタヒんでるけど)慶昌っていう息子に似ていたからという話があるらしい
一応、慶喜の母が家慶の正室の妹、つまり家慶から見て慶喜は義理の甥といってもいい立場ではある
@@nichirowar一橋慶昌は幼い頃の遊び相手は2歳年上の勝海舟で慶昌が元服して一橋家を継ぐ時に幼馴染の勝海舟を一橋に召し抱える予定だったが慶昌が亡くなり、勝海舟の一橋に使える事は無くなった。
「慶喜」「篤姫」と、これらを刺し身とすると家定はどうしても刺身のツマ扱いなのが事実。平和な時代なら、とはいうものの、なら初代権現様は平和な時代に生まれたのか、というお話にもなりますしね。家定はもとより、幕府体制自体が山田方谷先生の言の通り、どれほどつくろおうとももはや直せないほど古びた存在であった以上、どうしようもなかったでしょうが。
まあ、江戸260年の太平を作り上げた、という広く世界史を見渡してもここまで偉業を成し遂げた組織は江戸幕府以外にはないでしょう。さすが儒教。
あまりにも影が薄すぎて高校日本史の教科書ですら将軍継嗣問題との関連でしか名前出てこない人ですよね。まだ主君が生きてるのに後継者争いが勃発するとか日本史どころか世界史的にも前代未聞の事態では
解説を全部見るとちょっと足りてない人やから適当でええやろ感も人間不信に陥らせた原因を作っているとは思うんだよな
2代目の嫁や養子周りの話は当てつけにもほどがあるエピソードだとは思う
大奥の白粉か。ひとりごとを言う薬屋が仕えていればな・・・。
キシダメは家定の爪を垢を煎じて飲んでもろて
あれでも小泉や安倍よりはマシだけどね。
もしこの頃有能な将軍居たとしても幕末の結果変わらんかったかな?
徳川斉昭がガチ攘夷派のまま権力を握ったパターンだと同じケースがお隣の李氏朝鮮ですね。攘夷成功しますよ。