一介のかんざし細工屋嘉蔵が何故四国で黒船を製作できたのか?続々海外よりやってくる黒船に対して宇和島藩主伊達宗城から託された黒船製作!

Поділитися
Вставка
  • Опубліковано 12 вер 2024
  • 江戸時代、一介の細工屋嘉蔵が何故黒船を製作できたのか?
    どのような経緯で?
    誰に頼まれたのか??
    どうやって技術を???
    日本に海外から続々とくる黒船、それに対抗するには国産での黒船の製作が必須!
    幕府、雄藩ともに焦眉の急であった黒船製作でしたが、そこには大きな問題が。。。
    そう、それは今まで日本にはなかった蒸気機関の国産化でした。。
    近年の歴史家からも「これは現在でも地方でロケットを製作するような難易度であっただろう。」というコメントをもらうほどのものだったようです。
    蒸気機関の開発にまつわる話など、お時間があればぜひご覧ください。
    前原巧山(まえばら こうざん)、本名を嘉蔵(かぞう)といい、1812年に現在の愛媛県八幡浜で生まれました。彼はその卓越した技術と創造力で、日本の造船技術に革新をもたらしました。
    巧山が育った時代は、鎖国政策の続く江戸時代。しかし、1853年の黒船来航により日本の雄藩と呼ばれる各藩はこぞって黒船の所有、製作を目指すこととなります。
    しかしそれまで日本になかった蒸気機関を含め難易度の極めて高い黒船製造。製造方法の伝授もない中で、手探りでの開発がはじまりました。
    巧山に製作を依頼したのは宇和島藩。最終的に巧山は純国産の蒸気船開発を開始します。
    未知のものに挑む江戸時代のものづくり、どうぞご覧ください。

КОМЕНТАРІ •