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このビデオは私にたくさんの良いアイデアを与えてくれました、ありがとう!
親王妃勢津子様のエピソードは誰より孝明帝がどれほどお喜びになったかと思うと... 言葉に出来ない
戊辰戦争の直接のきっかけを作ったのは庄内藩。戊辰戦争を最期迄戦ったのは庄内藩。
上杉謙信「たわけだな、会津は」伊達政宗「あんな連中、助けたくないな」毛利元就「これが井上派が言うとったアームストロング砲か」島津義弘「子孫たちも頑張っとる!」
木戸孝允は会津藩追討の命令なんて出してません。もし出したというなら証拠を見せて頂けると嬉しいです。そもそも、木戸にそんな権限なんてないですからね? 長州藩の中では重要人物ではありましたが、倒幕側は薩長しかいないわけではないですから。上級司令部の下参謀も西郷と宇和島藩士の林です。また会津討伐命令を下したのは宇和島藩士の林です。討伐を命令を出した理由は会津藩が・鳥羽伏見の開戦責任を認めずに正当防衛を主張・恭順の姿勢をとりながらも、戦準備をしている(武備恭順)・新政府軍に不満を持つ抗戦派の旧幕府陸軍の江戸城脱走に手を貸すなど、新政府軍を挑発する行為をとっている。(会津藩の山川健次郎が著者の本にも会津藩が脱走に手を貸した事について認めている)からです。世良修三は容保の首をもってこいだなんて言ってないんですけどね。また会津藩は戦争を有利にするために蝦夷地を担保にしてドイツと武器や軍資金の交渉をしていたやりとりの証拠が2013年に見つかっています。北海道新聞でも取り上げられました。ちなみにこの蝦夷地は「幕府から防衛にという目的で会津藩へ譲渡されたもの」それを担保にしてるわけです。これって幕府だけではなく孝明天皇をも裏切る行為なんですけど。漫画でわかりやすい動画だと思いますが、動画にするのであれば、もっといろいろ調べてからにしてほしいですね。会津戦争や戊辰戦争の動画なんてyoutube上にたくさんあるわけですから。
薩長、公家が力を取りたかった単なるクーデター
小御所会議での辞官納地はその後の慶喜の粘り強い交渉と越前・土佐・尾張などの親幕派諸藩の執拗な抵抗に、ほぼ骨抜きとされ、松平容保のしなくてよい蛮勇がなければ薩長側が窮地に陥るところでした。ところで、薩摩藩が江戸城を放火したと言うのは本当ですか?江戸市中の放火くらいはあったと思っておりましたから、、。さて、木戸孝允が会津を処罰せよと言ったのは、会津の観光史学と呼ばれる、会津の悲劇を売り物にしたい小説家等による完全な捏造です。木戸は寧ろ、会津に同情的で長州は会津よりも前に朝敵の汚名を着せられ、処罰されてます(三家老の切腹など)。その同じ道を歩みつつある会津に、長州と同じように赦免されるよう模索してます。例えば、会津戦開戦前1868年4月25日、新政府軍は会津に対してこんな降伏勧告を行ってます。「松平肥後守容保。その方は今まで数々の暴動に及んでいるが、その罪科一等を減じて許されるためには、その罪を悔い改め、服罪する姿勢を示して、天朝の慈悲を仰ぐ態度を見せるように。そうすれば、寛大な処分にする場合があるので、その旨を心得違いせぬように沙汰する」その直後の4月29日、今度は奥羽越列藩同盟の仲間の仙台藩・米沢藩と、会津藩は協議を持ち、仙台藩家老の但木土佐から「鳥羽・伏見の戦いの首謀者の首級を差し出すべき」と要求され、強い説得の末、一旦はこの降伏案を受け入れました。会津が降伏を受け入れたと理解した列藩同盟は翌月の閏4月12日、仙台・米沢両藩主が直々に降伏歎願書を新政府軍に手渡しました。ところで首謀者というのは藩主のことでなく、家老格。第一次長州征伐の長州藩の時と同じ処罰を受ける覚悟をせよ、と仲間から説得されたわけですが、第一次長州征伐では無抵抗だった長州藩は3人の家老の首を差し出しましたが、会津は、その後も抵抗をしたのに、たった一人の家老の首で許されています。会津はその直後の閏4月15日、新政府軍に「謝罪をするつもりはない覚悟でございますので、その旨を願い上げます」と、挑発的な回答書を送ってます。藩祖保科正之は徳川宗家を第一に考えよと遺言を残したのに、慶喜が謹慎する中、容保は上野や宇都宮に兵を差し向け、慶喜の怒りを買うような不忠者ですが、藩内保守強派は根拠もない蛮勇が蔓延り、会津藩は越後や福島仲通りで大規模な略奪を行い、北海道をビスマルクに売ろうとしたり(未遂に終わって良かった)、江戸期最悪の偽金づくりを行いました。そして、世良修蔵の手紙を捏造し、仙台藩を戊辰戦争に引きずり込み、近隣の小国、二本松藩に介入、所謂、二本松少年隊の悲劇は会津が起こしたことでした。ついでに飯盛山の若き白虎隊の悲劇も隊長の日向内記が食料を探すと言って、一人、お城に逃げ帰ったことを抜きには考えられません。唯一蘇生した飯沼貞吉の手記には食料はあったと記していますから、、、。また、婦女隊に薙刀を持たせて戦わせた会津藩の首脳には恥という概念を持ち合わせていないのでしょうか?動画にあるように重税を課された領民はヤーヤー一揆と呼ばれる反逆をし、新政府に様々な協力をしました。会津の武士道精神を過剰に賛賛美も良いのですが実際、資料に基づくと会津の蛮行や失敗の方が圧倒的に目立つような気がします。
それで今は令和ってことか
木戸孝允は会津戦争が終わった後に会津藩主に対して厳罰な処罰(会津藩が罪を認めなかった事や戦争を続けようと画策して数々の敵対する行動や蝦夷地売却の件も含めて)を求めたのであって、慶喜が降伏した後に会津藩追討なんて言ってませんね。世良の件も仙台出身の戊辰戦争研究家によると世良を悪者にするため密書が捏造された可能性を指摘してるので、世良は悪者にされて斬られただけの被害者の可能性がありますね。
何でこんな長文なんだ
長州藩の単なる復讐戦争
このビデオは私にたくさんの良いアイデアを与えてくれました、ありがとう!
親王妃勢津子様のエピソードは誰より
孝明帝がどれほどお喜びになったかと思うと... 言葉に出来ない
戊辰戦争の直接のきっかけを作ったのは庄内藩。
戊辰戦争を最期迄戦ったのは庄内藩。
上杉謙信「たわけだな、会津は」
伊達政宗「あんな連中、助けたくないな」
毛利元就「これが井上派が言うとったアームストロング砲か」
島津義弘「子孫たちも頑張っとる!」
木戸孝允は会津藩追討の命令なんて出してません。もし出したというなら証拠を見せて頂けると嬉しいです。
そもそも、木戸にそんな権限なんてないですからね? 長州藩の中では重要人物ではありましたが、
倒幕側は薩長しかいないわけではないですから。
上級司令部の下参謀も西郷と宇和島藩士の林です。
また会津討伐命令を下したのは宇和島藩士の林です。
討伐を命令を出した理由は
会津藩が
・鳥羽伏見の開戦責任を認めずに正当防衛を主張
・恭順の姿勢をとりながらも、戦準備をしている(武備恭順)
・新政府軍に不満を持つ抗戦派の旧幕府陸軍の江戸城脱走に手を
貸すなど、新政府軍を挑発する行為をとっている。
(会津藩の山川健次郎が著者の本にも会津藩が脱走に手を
貸した事について認めている)
からです。
世良修三は容保の首をもってこいだなんて言ってないんですけどね。
また会津藩は戦争を有利にするために蝦夷地を担保にしてドイツと武器や軍資金の交渉をしていたやりとりの
証拠が2013年に見つかっています。北海道新聞でも取り上げられました。
ちなみにこの蝦夷地は「幕府から防衛にという目的で会津藩へ譲渡されたもの」
それを担保にしてるわけです。これって幕府だけではなく孝明天皇をも裏切る行為なんですけど。
漫画でわかりやすい動画だと思いますが、動画にするのであれば、もっといろいろ調べてからに
してほしいですね。会津戦争や戊辰戦争の動画なんてyoutube上にたくさんあるわけですから。
薩長、公家が力を取りたかった単なるクーデター
小御所会議での辞官納地はその後の慶喜の粘り強い交渉と越前・土佐・尾張などの親幕派諸藩の執拗な抵抗に、ほぼ骨抜きとされ、松平容保のしなくてよい蛮勇がなければ薩長側が窮地に陥るところでした。
ところで、薩摩藩が江戸城を放火したと言うのは本当ですか?江戸市中の放火くらいはあったと思っておりましたから、、。
さて、木戸孝允が会津を処罰せよと言ったのは、会津の観光史学と呼ばれる、会津の悲劇を売り物にしたい小説家等による完全な捏造です。
木戸は寧ろ、会津に同情的で長州は会津よりも前に朝敵の汚名を着せられ、処罰されてます(三家老の切腹など)。その同じ道を歩みつつある会津に、長州と同じように赦免されるよう模索してます。
例えば、会津戦開戦前1868年4月25日、新政府軍は会津に対してこんな降伏勧告を行ってます。
「松平肥後守容保。その方は今まで数々の暴動に及んでいるが、その罪科一等を減じて許されるためには、その罪を悔い改め、服罪する姿勢を示して、天朝の慈悲を仰ぐ態度を見せるように。そうすれば、寛大な処分にする場合があるので、
その旨を心得違いせぬように沙汰する」
その直後の4月29日、今度は奥羽越列藩同盟の仲間の仙台藩・米沢藩と、会津藩は協議を持ち、仙台藩家老の但木土佐から「鳥羽・伏見の戦いの首謀者の首級を差し出すべき」と要求され、強い説得の末、一旦はこの降伏案を受け入れました。
会津が降伏を受け入れたと理解した列藩同盟は翌月の閏4月12日、仙台・米沢両藩主が直々に降伏歎願書を新政府軍に手渡しました。ところで首謀者というのは藩主のことでなく、家老格。第一次長州征伐の長州藩の時と同じ処罰を受ける覚悟をせよ、と仲間から説得されたわけですが、第一次長州征伐では無抵抗だった長州藩は3人の家老の首を差し出しましたが、会津は、その後も抵抗をしたのに、たった一人の家老の首で許されています。
会津はその直後の閏4月15日、新政府軍に「謝罪をするつもりはない覚悟でございますので、その旨を願い上げます」と、挑発的な回答書を送ってます。
藩祖保科正之は徳川宗家を第一に考えよと遺言を残したのに、慶喜が謹慎する中、容保は上野や宇都宮に兵を差し向け、慶喜の怒りを買うような不忠者ですが、藩内保守強派は根拠もない蛮勇が蔓延り、会津藩は越後や福島仲通りで大規模な略奪を行い、北海道をビスマルクに売ろうとしたり(未遂に終わって良かった)、江戸期最悪の偽金づくりを行いました。そして、世良修蔵の手紙を捏造し、仙台藩を戊辰戦争に引きずり込み、近隣の小国、二本松藩に介入、所謂、二本松少年隊の悲劇は会津が起こしたことでした。
ついでに飯盛山の若き白虎隊の悲劇も隊長の日向内記が食料を探すと言って、一人、お城に逃げ帰ったことを抜きには考えられません。唯一蘇生した飯沼貞吉の手記には食料はあったと記していますから、、、。また、婦女隊に薙刀を持たせて戦わせた会津藩の首脳には恥という概念を持ち合わせていないのでしょうか?動画にあるように重税を課された領民はヤーヤー一揆と呼ばれる反逆をし、新政府に様々な協力をしました。会津の武士道精神を過剰に賛賛美も良いのですが実際、資料に基づくと会津の蛮行や失敗の方が圧倒的に目立つような気がします。
それで今は令和ってことか
木戸孝允は会津戦争が終わった後に会津藩主に対して厳罰な処罰(会津藩が罪を認めなかった事や戦争を続けようと画策して数々の
敵対する行動や蝦夷地売却の件も含めて)を求めたのであって、
慶喜が降伏した後に会津藩追討なんて言ってませんね。
世良の件も仙台出身の戊辰戦争研究家によると世良を悪者にするため密書が捏造された可能性を指摘
してるので、世良は悪者にされて斬られただけの被害者の可能性がありますね。
何でこんな長文なんだ
長州藩の単なる復讐戦争