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訂正:鹿児島本線の小倉以西が開通した当初は現在の戸畑経由ではなく、大蔵経由が正しい経路でした。
とても分かりやすい解説、ためになりました。下関と北九州の道路網の歴史がよくわかりました。
感慨深く見せて戴きました。関門橋の建設当時、メインケーブルの台座部分を父に連れられて何度かこっそり見に行った事を思いだしました。山道を抜けて見えたそれはまるでビルみたいに大きかった事。たまに行く度に工事はどんどん進んでいました。七歳の時に初めて橋を渡って親元の宮崎に行った事、いつもは関門トンネルを通る筈がいつの間にか橋に乗っていてビックリした事。まるで空を飛んでいる気分でした。 そんなに昔の事ではないと思っていたのにいつの間にか半世紀近く、時が流れるのは早いですね。
楽しくみさせていただきました。日露戦争の前に(船からの砲撃をさけるため)海から線路を離す理由で、今の東小倉駅付近から小倉裏線として足立駅をつくって(国道3号線になっている)南小倉駅の少し南でデルタ状に日豊線と合流して、大蔵駅方面に線路が延びていた。そのため中津口から三萩野間は、戦争の前から今の広さの道路だったと聞きました。内容と直接関係ないですが、山陽本線の幡生と一ノ宮間のルートは今の下関IC付近経由だったはずです。未だに東駅というバス停があります。
十三間道路のことね、のちの小文字通足立中学校周辺は平成の初め辺りまでまだ広い土地が残っていました東駅は長州鉄道の東下関駅のこと
人道トンネルもあるから人力でも行けるのう🐈🐈
4つとも通ってます 一番多いのは新幹線(10回以上)、次に関門トンネル(車)、その次が関門トンネル(鉄道)で最後に高速です
昔の下関駅は数百メートル東の市営細江町駐車場(下関警察署近く)にありました。当然、九州方面の連絡船もその辺りから出港していました。中国や朝鮮半島向けの航路も同じく。関門トンネル開業に併せて現在の下関駅に移設しました。また、長門一ノ宮駅も現在の新下関駅ではなく、南東方向にある住吉神社付近にありました。山陽新幹線が博多まで延伸開業するのに併せて山陽本線の路線を現在のルートに変更、駅を移設、駅名も新下関駅に改称しました。
戦前の下関駅から、九州方面・・・ではなく門司行きの連絡船だ下関からは朝鮮航路しかなかった 鉄道省の釜山行き、川崎汽船の麗水行き中華民国の天津、上海、イギリスの香港、日本租借地の大連へは、門司から出航していた外国航路は下関にはなかったのが事実です 朝鮮は日本領でしたので
とても分かりやすかったです。ありがとうございます。
関九フェリーが無くなったのは残念。何気に関門連絡船が健在なのはすごい。
コメントありがとうございます。関門連絡船は1時間に3往復ですし、唐戸市場との行き来に観光向けにも利用されているのかな?
5分で全速力で渡り切ろうとするあの小型ボートは乗っていて迫力を感じる
関門トンネルと言っても3つある。わかんない人もいるので、整理されて、良い。
わかりやすく関門地区の交通の歴史を有難うございました🙇1891年の門司から黒崎間の鉄道開通は、今の戸畑駅経由ではなくて、大蔵経由だったと思います。日清戦争前で、清国の海軍、北洋艦隊の襲来に備えて敢えて内陸に鉄道を建設したと聞いております。個人的には、20XX年関門鉄道トンネル老朽化の為、廃止。同日関門海峡鉄道橋、下関駅~門司駅間開業。下関駅構内まで交流電化されJR九州のほぼ全ての電車が下関駅に乗り入れ可能となる。更に彦島地区に江の浦駅、弟子待駅の二つが開業し、彦島島内から直接九州へ行けるようになる...と書き加えるようになって欲しいです。
コメントとご指摘ありがとうございます。確かに大蔵経由で考慮不足でした。
新幹線新関門トンネルが青函トンネル同様、貨物と新幹線の共用区間となったり、JR九州が小倉浅野~下関にフェリー開設したりして。淡路島を横断する四国新幹線開業と関門鉄道トンネル廃止どっちが先か。
その通りです。後半、関門トンネルの交流化 それは無いと思う。
訂正:鹿児島本線の小倉以西が開通した当初は現在の戸畑経由ではなく、大蔵経由が正しい経路でした。
とても分かりやすい解説、ためになりました。
下関と北九州の道路網の歴史がよくわかりました。
感慨深く見せて戴きました。
関門橋の建設当時、メインケーブルの台座部分を父に連れられて何度かこっそり見に行った事を思いだしました。
山道を抜けて見えたそれはまるでビルみたいに大きかった事。
たまに行く度に工事はどんどん進んでいました。
七歳の時に初めて橋を渡って親元の宮崎に行った事、いつもは関門トンネルを通る筈がいつの間にか橋に乗っていてビックリした事。
まるで空を飛んでいる気分でした。
そんなに昔の事ではないと思っていたのにいつの間にか半世紀近く、
時が流れるのは早いですね。
楽しくみさせていただきました。
日露戦争の前に(船からの砲撃をさけるため)海から線路を離す理由で、今の東小倉駅付近から小倉裏線として足立駅をつくって(国道3号線になっている)南小倉駅の少し南でデルタ状に日豊線と合流して、大蔵駅方面に線路が延びていた。そのため中津口から三萩野間は、戦争の前から今の広さの道路だったと聞きました。
内容と直接関係ないですが、山陽本線の幡生と一ノ宮間のルートは今の下関IC付近経由だったはずです。未だに東駅というバス停があります。
十三間道路のことね、のちの小文字通
足立中学校周辺は平成の初め辺りまでまだ広い土地が残っていました
東駅は長州鉄道の東下関駅のこと
人道トンネルもあるから人力でも行けるのう🐈🐈
4つとも通ってます 一番多いのは新幹線(10回以上)、次に関門トンネル(車)、その次が関門トンネル(鉄道)で最後に高速です
昔の下関駅は数百メートル東の市営細江町駐車場(下関警察署近く)にありました。
当然、九州方面の連絡船もその辺りから出港していました。
中国や朝鮮半島向けの航路も同じく。
関門トンネル開業に併せて現在の下関駅に移設しました。
また、長門一ノ宮駅も現在の新下関駅ではなく、南東方向にある住吉神社付近にありました。
山陽新幹線が博多まで延伸開業するのに併せて山陽本線の路線を現在のルートに変更、駅を移設、駅名も新下関駅に改称しました。
戦前の下関駅から、九州方面・・・ではなく門司行きの連絡船だ
下関からは朝鮮航路しかなかった 鉄道省の釜山行き、川崎汽船の麗水行き
中華民国の天津、上海、イギリスの香港、日本租借地の大連へは、門司から出航していた
外国航路は下関にはなかったのが事実です 朝鮮は日本領でしたので
とても分かりやすかったです。ありがとうございます。
関九フェリーが無くなったのは残念。何気に関門連絡船が健在なのはすごい。
コメントありがとうございます。
関門連絡船は1時間に3往復ですし、唐戸市場との行き来に観光向けにも利用されているのかな?
5分で全速力で渡り切ろうとするあの小型ボートは乗っていて迫力を感じる
関門トンネルと言っても3つある。わかんない人もいるので、整理されて、良い。
わかりやすく関門地区の交通の歴史を有難うございました🙇
1891年の門司から黒崎間の鉄道開通は、今の戸畑駅経由ではなくて、大蔵経由だったと思います。日清戦争前で、清国の海軍、北洋艦隊の襲来に備えて敢えて内陸に鉄道を建設したと聞いております。
個人的には、20XX年関門鉄道トンネル老朽化の為、廃止。同日関門海峡鉄道橋、下関駅~門司駅間開業。
下関駅構内まで交流電化されJR九州のほぼ全ての電車が下関駅に乗り入れ可能となる。更に彦島地区に江の浦駅、弟子待駅の二つが開業し、彦島島内から直接九州へ行けるようになる...と書き加えるようになって欲しいです。
コメントとご指摘ありがとうございます。
確かに大蔵経由で考慮不足でした。
新幹線新関門トンネルが青函トンネル同様、貨物と新幹線の共用区間となったり、JR九州が小倉浅野~下関にフェリー開設したりして。淡路島を横断する四国新幹線開業と関門鉄道トンネル廃止どっちが先か。
その通りです。後半、関門トンネルの交流化 それは無いと思う。