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2:00 ころから澤田 哲生(さわだ てつお。代表世話人)あいさつ。11:50 ころから竹内 純子(たけうち すみこ)あいさつ。14:00 ころから相澤 まゆみ(あいざわ まゆみ)あいさつ。15:35 ころから小田 康弘(おだ やすひろ)あいさつ。17:50 ころから桑原 真明(くわばら まさあき)あいさつ。18:40 ころから櫻井 力也(さくらい りきや)あいさつ。20:30 ころから櫻原 達也(さくらはら たつや)あいさつ。22:00 ころから竹山 浩介(たけやま こうすけ)あいさつ。22:50 ころから道満 治彦(どうまん)あいさつ。23:50 ころから中浦 史晶(なかうら ふみあき)あいさつ。25:00 ころから前野 友里(まえの ゆり)あいさつ。26:10 ころから山本 浩嗣(やまもと ひろし)あいさつ。27:30 ころから竹内。第一部のテーマ「世界的視野で見たときのエネルギー環境問題」(聞き取り)。3E+S の中の地球温暖化問題(気候変動問題)。36:10 ころから就職先として考えうる三択、東電と東電でない電力会社と、それ以外。エネルギー政策をだれがどう決めるべきかの話が多かった。1:04:00 ころから 3E+S の中の安定供給。27:30 ころから全体的に、反原発派は 3E+S の中の安全性について原発を攻撃して、原発容認派は 3E+S の中の経済性または人により専門性を挙げていて、論点が、まったく、かみあっていない状態だった。1:10:40 ころからマエキタ ミヤコ。第二部「これからの日本、どんな国をめざすべきか」(聞き取り)。1:11:30 ころから傍聴席からの指摘。「原発は必ず事故が起きるんだという前提で、したがって、危険なものであるからこそ、どう安全に、原発をすればいいかという研究をやってきた」(日本の新聞等の多くによった 「安全神話」 の、ねつ造の指摘)と、原子力技術による科学技術発展の効果。1:15:00 ころから、電力とエネルギー。1:38:30 ころから(当面またはずっと)原発をなくさないほうがいい理由(根拠)。2:16:00 ころから第三部。
2012. 9. 1 『どうする日本(ニッポン)!?私たちの将来とエネルギー』主催が、日本エネルギー会議。会場が、東京工業大学くらまえホール。の動画らしい
私は失望した。2011 年のあとの先進国、日本国の大学の入学試験に合格した者ら、あるいは院生が集まっても、このていたらくの議論なのかと。根本的、全体的に、原発の危険性が、長期的にみて、他の発電方法と同等または、低い可能性が検討されておらず、科学的な内容とは、いいがたい。また、そもそも原発に無限大の被害など(2:10:25 ころからの議論)物理的にありえない。炉心の燃料の量が限られているし過熱状態では臨界の継続が限られているし放射することで安定化するから「放射性」なので。SR弁がどうこういうまでの話が出ていたわりには動画の議論が一面的かつ非科学すぎた。これまで、さまざまな本などでも、リスクとハザードとのちがいなどについて触れられてきたはずだが、原発には、暗黙的に絶対的に大きな危険があるという前提とされており、基礎的な部分(エントロピーと危険とのちがい)からして、理解されていなかった。自然放射能とエントロピーを指摘しない人らが集まって話したところで、まともな回答は、ただ一人、専門家が話し合ったほうがいいという山本によった主張のみが、科学的に近い回答となってしまっていた。民主主義、多数決を重視されたような回答もあったが、それでは、それでも地球は回っているという表現から、何も学べていない。多数決だと合理的となるものは、行政等に対する治安のみであり、いわゆる民主主義なら、王や大名などの代表者が殺されたりしにくい、だれがつとめても、公務員らが多数いるから行政は続くので、国民の混乱が少なくて済むという行政の安定の面で導入されてきた。宗教的(偏見的、イデオロギー的)でなくて純粋に科学的である答えこそが、その場その場での適切な選択肢である。危険とは、エントロピーが増大する余地(ここでは原発に相当)をも意味するが、その危険は、潜在的な危険であり、危険全体の一部である。エントロピーが、標準で増大してしまっている発電方法(ここでは再発や火発に相当)の危険、ゆでガエル現象について、竹内によって、ばくぜんと指摘されていたが、地球温暖化問題というわくに、とどまっており、ふかん的に理解されていたとは、いいがたい。全体の議論に関連して、議論では、はっきりとは発言されていなかったが、価格(税金や再発賦課金)を上げれば需要が、減ることは事実である。が、それがつまり、国民のまずしい層の人々は、社会基盤である電気を使いにくくなることを意味する。水道料金やガス料金、電話料金の問題と同じ。この価格による平衡の問題は、産業界、経団連などからも、産業空洞化の葛藤、ジレンマとして主張されてきていた。要するに、日本の電気について、どんなに再生可能エネルギーの割合が、ふえたとしても、電力多消費型の産業が、日本国外へ出ていってしまって、その出ていった先の発電方法が、火発や原発では、本末転倒であるという現実である(タックスヘイブン問題とも共通する)。じっさい、戦後の日本で売られていたものの多くが made in Japan であったにも関わらず、高度経済成長期やバブル景気などにより日本の物価が上がったあと、市販品の多くが made in China となったことで、はっきりと確認されてきた。1:11:30 ころから傍聴席からの指摘「原発は必ず事故が起きるんだという前提で、したがって、危険なものであるからこそ、どう安全に、原発をすればいいかという研究をやってきた」 は、きわめて重要。日本の 「新聞」 等の多くが 2011 年のあと主張してきた 「安全神話」 の、でたらめをあばいた生き証人である。そうでなければ昭和 36 年から 「原子力損害の賠償に関する法律」 があった事実と整合性が、とれない。ようするに、原発を(は危ないから)やめようという議論こそが、典型的な魔女狩りであり、スケープ ゴートさがしなのである。相対的に、あぶないものは 2 万人近くが死んでいた国民の木造住宅等であって 0 人が放射線障害で死んでいたガチガチの原発でない。じゃあその 「リスク」 のある木造住宅が、みんな鉄筋製等の免震や耐震で防火耐火の住宅に変えなければならないのか、現実に変わるのか、津波で大量の住宅用太陽光発電パネルが流されたらどうなるかを考えられてすらいなかった。原発さえなければ 「安全」 かのような主張が、一般と同じで、あまりにも多くて、その言論の自由に対しての責任である科学的根拠を示されなければならない内容が欠けていた。
この動画は、教育問題、洗脳問題をも浮き彫りにした。広島出身だという小田による反原発発言をみていても分かるとおり。これまで私は、子には反抗期があり、思春期もあるのだから、親らが教えた内容や地域の雰囲気が、そのままその子らの思想となるわけではない、多様な考えかたも期待できるというものだったが、やや、過大評価であり、甘い考えだったかなと。
2:00 ころから澤田 哲生(さわだ てつお。代表世話人)あいさつ。
11:50 ころから竹内 純子(たけうち すみこ)あいさつ。
14:00 ころから相澤 まゆみ(あいざわ まゆみ)あいさつ。
15:35 ころから小田 康弘(おだ やすひろ)あいさつ。
17:50 ころから桑原 真明(くわばら まさあき)あいさつ。
18:40 ころから櫻井 力也(さくらい りきや)あいさつ。
20:30 ころから櫻原 達也(さくらはら たつや)あいさつ。
22:00 ころから竹山 浩介(たけやま こうすけ)あいさつ。
22:50 ころから道満 治彦(どうまん)あいさつ。
23:50 ころから中浦 史晶(なかうら ふみあき)あいさつ。
25:00 ころから前野 友里(まえの ゆり)あいさつ。
26:10 ころから山本 浩嗣(やまもと ひろし)あいさつ。
27:30 ころから竹内。
第一部のテーマ「世界的視野で見たときのエネルギー環境問題」(聞き取り)。
3E+S の中の地球温暖化問題(気候変動問題)。
36:10 ころから就職先として考えうる三択、
東電と東電でない電力会社と、それ以外。
エネルギー政策をだれがどう決めるべきかの話が多かった。
1:04:00 ころから 3E+S の中の安定供給。
27:30 ころから全体的に、反原発派は 3E+S の中の安全性について原発を攻撃して、
原発容認派は 3E+S の中の経済性または人により専門性を挙げていて、
論点が、まったく、かみあっていない状態だった。
1:10:40 ころからマエキタ ミヤコ。
第二部「これからの日本、どんな国をめざすべきか」(聞き取り)。
1:11:30 ころから傍聴席からの指摘。
「原発は必ず事故が起きるんだという前提で、したがって、危険なものであるからこそ、どう安全に、原発をすればいいかという研究をやってきた」
(日本の新聞等の多くによった 「安全神話」 の、ねつ造の指摘)と、原子力技術による科学技術発展の効果。
1:15:00 ころから、電力とエネルギー。
1:38:30 ころから(当面またはずっと)原発をなくさないほうがいい理由(根拠)。
2:16:00 ころから
第三部。
2012. 9. 1 『どうする日本(ニッポン)!?私たちの将来とエネルギー』
主催が、日本エネルギー会議。
会場が、東京工業大学くらまえホール。
の動画らしい
私は失望した。2011 年のあとの先進国、日本国の大学の入学試験に合格した者ら、あるいは院生が集まっても、このていたらくの議論なのかと。
根本的、全体的に、原発の危険性が、長期的にみて、他の発電方法と同等または、低い可能性が検討されておらず、科学的な内容とは、いいがたい。
また、そもそも原発に無限大の被害など(2:10:25 ころからの議論)物理的にありえない。炉心の燃料の量が限られているし過熱状態では臨界の継続が限られているし放射することで安定化するから「放射性」なので。
SR弁がどうこういうまでの話が出ていたわりには動画の議論が一面的かつ非科学すぎた。
これまで、さまざまな本などでも、リスクとハザードとのちがいなどについて触れられてきたはずだが、
原発には、暗黙的に絶対的に大きな危険があるという前提とされており、
基礎的な部分(エントロピーと危険とのちがい)からして、理解されていなかった。
自然放射能とエントロピーを指摘しない人らが集まって話したところで、
まともな回答は、ただ一人、専門家が話し合ったほうがいいという山本によった主張のみが、科学的に近い回答となってしまっていた。
民主主義、多数決を重視されたような回答もあったが、それでは、それでも地球は回っているという表現から、何も学べていない。
多数決だと合理的となるものは、行政等に対する治安のみであり、
いわゆる民主主義なら、王や大名などの代表者が殺されたりしにくい、
だれがつとめても、公務員らが多数いるから行政は続くので、国民の混乱が少なくて済むという行政の安定の面で導入されてきた。
宗教的(偏見的、イデオロギー的)でなくて純粋に科学的である答えこそが、その場その場での適切な選択肢である。
危険とは、エントロピーが増大する余地(ここでは原発に相当)をも意味するが、その危険は、潜在的な危険であり、危険全体の一部である。
エントロピーが、標準で増大してしまっている発電方法(ここでは再発や火発に相当)の危険、ゆでガエル現象について、
竹内によって、ばくぜんと指摘されていたが、地球温暖化問題というわくに、とどまっており、
ふかん的に理解されていたとは、いいがたい。
全体の議論に関連して、議論では、はっきりとは発言されていなかったが、
価格(税金や再発賦課金)を上げれば需要が、減ることは事実である。
が、それがつまり、国民のまずしい層の人々は、社会基盤である電気を使いにくくなることを意味する。
水道料金やガス料金、電話料金の問題と同じ。
この価格による平衡の問題は、産業界、経団連などからも、産業空洞化の葛藤、ジレンマとして主張されてきていた。
要するに、日本の電気について、どんなに再生可能エネルギーの割合が、ふえたとしても、
電力多消費型の産業が、日本国外へ出ていってしまって、その出ていった先の発電方法が、
火発や原発では、本末転倒であるという現実である(タックスヘイブン問題とも共通する)。
じっさい、戦後の日本で売られていたものの多くが made in Japan であったにも関わらず、
高度経済成長期やバブル景気などにより日本の物価が上がったあと、
市販品の多くが made in China となったことで、はっきりと確認されてきた。
1:11:30 ころから傍聴席からの指摘
「原発は必ず事故が起きるんだという前提で、したがって、危険なものであるからこそ、どう安全に、原発をすればいいかという研究をやってきた」 は、きわめて重要。
日本の 「新聞」 等の多くが 2011 年のあと主張してきた 「安全神話」 の、でたらめをあばいた生き証人である。
そうでなければ昭和 36 年から 「原子力損害の賠償に関する法律」 があった事実と整合性が、とれない。
ようするに、原発を(は危ないから)やめようという議論こそが、典型的な魔女狩りであり、スケープ ゴートさがしなのである。
相対的に、あぶないものは 2 万人近くが死んでいた国民の木造住宅等であって 0 人が放射線障害で死んでいたガチガチの原発でない。
じゃあその 「リスク」 のある木造住宅が、みんな鉄筋製等の免震や耐震で防火耐火の住宅に変えなければならないのか、現実に変わるのか、津波で大量の住宅用太陽光発電パネルが流されたらどうなるかを考えられてすらいなかった。
原発さえなければ 「安全」 かのような主張が、一般と同じで、あまりにも多くて、その言論の自由に対しての責任である科学的根拠を示されなければならない内容が欠けていた。
この動画は、教育問題、洗脳問題をも浮き彫りにした。
広島出身だという小田による反原発発言をみていても分かるとおり。
これまで私は、子には反抗期があり、思春期もあるのだから、親らが教えた内容や地域の雰囲気が、そのままその子らの思想となるわけではない、多様な考えかたも期待できるというものだったが、やや、過大評価であり、甘い考えだったかなと。