In circa 1930, the New York Central Railroad here in the United States embarked upon a massive expansion of its Harmon Shops facility for servicing both steam and electric motive power and commuter equipment some 34 miles north of New York City on the company's Hudson Division. By 1960, steam was gone from Harmon some eight years; by 1970, long-distance rail passenger service was a shell of its former self with national-carrier Amtrak looming on the horizon. Much of what once made Harmon Harmon was gone, torn out because changing demographics made so much of the facility unnecessary. What was put in circa 1930 barely lasted one generation. Here in this video, Musashino Yard--installed completely from scratch in what could be considered the recent past--lasted basically only half a generation. Unless a local historian or into railroad history, to stand there today one would not know the yard ever existed. Both very interesting and very sad at the same time.
自分の親父が元国鉄職員で、ハンプから切り離された列車に飛び乗り、ブレーキをかける仕事をしていました。
当然事故も多く、同僚は列車の飛び乗りに失敗して巻き込まれ、足を切断してしまったそうです。
当時はどこの会社も安全なんて二の次で、今の時代では考えられない事を普通にしていたそうです。
鉄道に限らず、色んな業界でこうした事故の教訓もあってか、80年代後半以降、日本の企業は安全対策に力を入れていくようになったと聞きました。
この動画を観てとても勉強になりました。
ありがとうございます!
当時武蔵野操車場で働いていました。最初の頃は列車本数も少なく、仕事が楽だったのを覚えています。だんだん本数が増えて来たけれども、その能力を十分に発揮出来ずに終わってしまいましたね。空中写真で見ても、まだ線路を引く用地がけっこうあるのがわかると思います。
そうだったんですね
貴重なお話をありがとうございます!!
みはしのえみはしのえ
記憶が薄れてきましたのでお尋ねしますが、ハンプの横が機関区で道路を挟み北側に総合庁舎でしたよね?
貨車区は一番吉川方でしたっけ?
@@tomiyakaratomikawa はい、記憶されてる通りです。本線の北側に「武蔵野操車場」の総合庁舎がありました。「武蔵野機関区」の西側にゼブラ型の機関車留置線、さらに吉川方が「武蔵野貨車区」でした。今はどれも跡形もありませんね(^_^;)
@みはしのえみはしのえ
そのほかの記憶・・到着が武蔵野操西、発車が武蔵野操東。
構内移動が「飯島交通」さんというワゴン車だった。
貨車区前行きと下り出発行きの2ルートだった。
列車無線の入りはあまり良くなかった。よって列車のブレーキテストはベルで行っていた。
総合庁舎の寝室は機関区だったので待遇は良かった。
大宮操や鶴操と比べて整然としてきれいだった。
他の貨物駅に比べて職員が少なかった。
到着線から一般道路に出るルートが全く記憶に残っていない。
当時もいけないことだが、深夜に武蔵野操西に到着しそのまま入庫の機関車に
便乗して機関区から総合庁舎に向かったことは鮮明に記憶している。
自分の高校生の時、窓からハンプの頂上が見えて、機関車に押されて行く貨車が
ハンプを通り過ぎると連結が解かれ、坂を下って行くのを
授業も聞かずに見ていました。
現在、新三郷の上に有る跨線橋は今では半分くらいになってますが
当時は操車場を横断する形で、跨線橋の真ん中辺から操車場を眺めると
結構な、風景だったと覚えております。
コストコ横のアンダーパスも、当時は長いトンネルで
夜は、けっこう怖い感じがして、友達と夜、わざわざ通った思い出も。
吉川南の近くの新しい霊園は、操車場の管理施設のビルが有った場所です。
操車場が廃止になってバブル崩壊も有り、しばらく開発がされませんでしたが
まさか、商業施設が出来て渋滞するほど、人が集まるなんて想像できませんでした。
なんせ、土曜の午後1時のダイヤは1時間に1本で、冷房無し扇風機付きの101系の
窓を全開で、乗客がほとんどいない先頭車両の長い席を
1人で占領した、夏の土曜日の午後
窓に流れる田園風景が懐かしいです。
三郷市民です
平成初頭の頃はまだ跡地に廃レールや高架跡などが残っていましたが、その後綺麗さっぱり撤去されました...
現在、三郷駅や吉川駅の上下線が操車場方向へ少しづつ離れながらカーブしている、大場川の沿道の壁等に面影が残っていますね
昔居眠りしていて乗り過ごし、新三郷駅で反対側のホームに行こうとしてエライ目に会いました。涙
私もです。
今から20年くらい前の、今となってはかなり貴重な体験♬
私の場合は「南越谷」で降りるはずが寝過ごして‥‥、からのまさに成り行き的な体験でした。
未来の輸送を担うはずだった
明るくも切ない、夢の跡
すごい歴史を5分で知ることができ、
歴史の移り変わりを目で見てわかりやすく視聴できる
最高ですー
50歳の鉄オヤジです。
当時、武蔵野線を使い高校に通ってました。
まだ、吉川美南の駅も無く新三郷の駅ができたばかりでした。
広大な操作場で、2軸のワムなどがずらり並んでいたのを思い出します。
余談ですが、当時武蔵野線は、101系が主力で、103系の高運転台が数本しかなく、又、6両編成でダイヤも少なく、夏の朝夕のラッシュ帯は101系になると冷房が無いので、大変悲惨な思いをして通学をした思い出があります。
長々とすみません。
56歳のオヤジです。
幼少期に北越谷沿線に住んでいましたが、当時は東武伊勢崎線にも貨物列車が走っていました。
しかし、東武の小さな電気機関車と変な色の車掌車そして短い貨物編成が嫌で、また東武の機関車は鉄道図鑑などにもなく、図鑑にある国鉄の機関車が見たかったのです。
そこに武蔵野線が開通して貨物操作場が電車から見れることを知り、東武で蒲生駅まで行き南越谷駅まで歩いて武蔵野線に乗って見に行きました。(間もなくして新越谷駅ができました。)
当時の武蔵野線はガラガラで、何往復もして見ました。本数が少なかったので、日曜日の半分をそれに費やしてました。今思うキセルか無賃乗車ですね。
かつて武蔵野線を題材とした曲もありました。
歌詞もありましたが『ガーーーーー・・・』としか記載無かった記憶があります。
それに新三郷駅は何でもあるし賑やかで、立派な街になりましたよねぇ(*^^*)。
昔とか駅前には不二家とちょっとした店だけで、何にも無かったですよね。
それに吉川と新三郷間の吉川美南の所なんか、夜バイト帰り、線路沿いを自転車で走るのが恐いレベル!アンダーパスはお化けでる噂あって(笑)。
懐かしいなぁ(´・ω・`)
51歳のオヤジです。高校受験で高校の案内書を取りに 初めて武蔵野線を使った時 本数が無さ過ぎて遅刻したら偉い事になると思い その高校の入試はパスした事がありました。
三郷のららぽーとには 一回行った事がありますが まさかあそこが 操車場の跡地だとは思いませんでした。
それが今となっては 別線の様に変わった事に驚いた時がありました。
自分の歳言うの流行ってるの?
これは良質な動画ですね!
新三郷の歴史を語る上でも、また貨物の輸送方式を語るうえでも…。
目の前の早稲田中学校に通ってたが、通学時にはすでに操車場は廃止され、
とにかく不便な新三郷駅、という印象しかなかった(笑)
上りと下りホームの距離が100m以上あった。
こんな歴史があってあの形になったんですね。
大変勉強になりました。
吉川市民です。かつて殺風景だった操車場付近もすっかり綺麗な街になり、当時の面影はほとんどありません。
あっと言う間に変わってしまいましたよね………
俺、三郷団地に住んでたから良く知ってるよ。
武蔵野操車場10年って、実際の所8年稼働なんだよ。
新三郷駅横の中学にも通ってたから、103系混色編成とか良く見てたわ。
80年前後まで、夜間でも貨車の組み換え作業してたんだけど、組成連結時の大きな音が団地に響いちゃってたし、
ヤード灯が凄く眩しくて、一部の団地住民には「光害」だったらしい。
日本初の「億ション」だったさつき平団地計画もあったし、ギャンブルラインだし、貨物よりも集客性を見出しちゃった
のも原因の一つかも。「音」に対してのクレームは凄かったって聞くよ。
自分は4街区だったから、反響音聞いた覚えは無いんだよなぁ・・・。
昔沿線民で新秋津と新八柱が最寄りでした。
その頃の武蔵野線は本数も少なく京葉線直通も無く西船橋までで6両、冷房・非冷房車が混在してました。
しばらくして新三郷駅が開業し当時は上下線のホームがスゴい離れていました。
後に201系が入ったり、8両と混在になったり年月を追う毎に発展の早さを感じました。
沿線を離れてからも吉川美南、越谷レイクタウン駅が開業し面影は無くなりましたね。
久しぶりに武蔵野線乗りたくなりました。
三郷駅から降りた流山側に身内が住んでいたので、電車で良くここを通過しました。その度に子供心になんでこんなに空き地があるんだろうと不思議に思っていたのも、
今では良い思い出です。ホームが離れている件は後替えが大変と噂の東京マガジンでも取り上げられていましたね。
説明のアニメーションを含め、映像が綺麗で見入ってしまいました。
「日本最大級の操車場」ですが、開業当時は「東洋一の操車場」と呼んでいた記憶があります。
それにしても周辺環境は大きく変わりました。
田畑の中を突っ走る新線でしたが住宅も増え、6両編成だった列車は8両となり、本数も大幅に増えました。
時刻表を見ずに利用できるとは開業当時を知る者として夢のような話しです。
当時のわたしの通勤経路が東武伊勢崎線から武蔵野線南浦和方面へ乗り換えるものでした。帰宅時うとうとして乗り越してしまい、目覚めた直後の新三郷駅で折り返そうと反対側ホームへ歩いたわけですが、あまりの距離に「なんじゃあこりゃあ」と思った覚えがあります。
発掘!鉄道記録映像(スカパ!で放送)という番組で武蔵野操車場を見ました。
当時最先端の技術で貨物の仕分け作業をしていたということをしり驚いたのですがわずか10年しか使用しなかったということも驚きました。
路線配置の設計する人って凄いですね。
昔、松戸の叔母さんの家に行く時に、武蔵野線に乗りました。途中で上下線が分かれて間に操車場がありました。
因みに住んでいるのは大阪、吹田で、これまた「東洋一」といわれた岸辺操車場の近くです。昔は貨車を動かす
音がガチャンガチャンと響いていましたが、今は静かですね。
武蔵野線は鉄道施設が沢山あって
見ていて飽きない車窓ですよね
『モーダルシフト』で、再びトラック輸送から貨車輸送が見直され始めている近年です。
また物流の大きな一翼を担って欲しいです。
高校生の時、新三郷駅使ってたけど、真冬は風と寒さが凄くて
通路歩くのが大変だったなぁ。一番線2番線が500m離れた駅でギネスにも乗ったよね。
分割民営化直前ここを通過した時、運送方式変更で余剰になった膨大な貨車達が留置されていて、国鉄の落日を感じました。
数年後、寝過ごして慌ててしまい新三郷で降りてしまって、北口で事情を説明して出してもらい跨線橋を渡って南口の駅員さんにも説明したら、大爆笑されたのも今となっては良い思い出。
良いことを言えば古い技を最新技術で出来るようにした。悪いことを言えば先見性が全くなかったともいえる。
70年代後半だと貨物輸送の変革は見えていた(コンテナの規格化国際会議が頻繁に開かれていた、トラック輸送の増大)
まぁこのときの国鉄はいろいろ問題があったからなぁ。
田んぼしかなかったところに広大な土地を確保してたおかげで、逆に無節操な駅前にならずに済んだという塞翁が馬の例えになりそうな話でもある
操車場の線形だけで頭痛くなるような造り
仕事している人にとっては綺麗に纏まってて便利だと思うけどね
沿線の高校に通ってました。貨物列車が通過するたびにみんなで数を数えて、先生も苦笑しながらその間授業が止まる、なんてこともありました。それにしてもギネスに載ってたとは知りませんでした。
ほんと高クオリティだ…
面白いなぁ〜こういうの
吉川駅には当時の名残を感じるものが多く、通る度に哀愁を感じます
貨車によく書かれてる「突放禁止」の意味がわかった
もともと武蔵野線は貨物専用線として作ろうとしたけど
沿線の人たちから『俺らにも使わせろ』と強く要求されたから貨客両用になったと聞いている。
新座ターミナル・越谷ターミナルと合わせて、貨物取り扱いの拠点にしたかったんだろうね。
その後、国鉄清算事業団の塩漬け土地の象徴になってしまったのは悲しい。
これだけ最先端の技術を取り入れた近代的な設備が10年しか使われないで廃止されるのは惜しいです。
計画性0
だから国鉄はダメだったんだ
車両もそうですが、施設もダメダメですね。もったいない。上越新幹線の施設が今も物語ってます。熊谷駅など無断な造りが多い路線です。
高橋邦彦
熊谷駅は各駅停車タイプしか止まらないくせに
なぜか上り線のホームが二つあるんですよね
(大宮、高崎など主要駅ならまだわかるが)
熊谷駅の構造はダイヤが大幅に乱れた時に熊谷駅行きや退避させることでダイヤ回復を補助する役割をになっているほか、年に何本か臨時熊谷行きがあるので結構重要な設備です。
ちょっと前の世代にはなじみもあったので謎深き存在でしたが本当にわかりやすいです。ありがとうございます。
鉄道に興味ないけど、とても分かりやすくて、興味深かった!こういう「今はない鉄道事情」の動画をもっと見たい!
とても分かりやすい説明でした!素晴らしい!…当時を生で見たかった。色々ロマンが詰まってる…
武蔵野操車場跡地近くに住んでいるので、詳細に取り上げて頂き嬉しいです。
それにしても、ギネスの頃の新三郷駅は通勤が大変でした。我が家は下りホームが遠くて…
今はホームも寄せられ、跡地にららぽーとやCostcoなどが出来たので、生活はしやすくなりました。
いやいやいやいやいや
三井不動産なんだから、これから地獄が始まりますよwwwww
元三井物産社員より
寄せられtのはいいけど、今や上りホームも遠くなってしまいましたねw
主さんの動画を拝見するたびに世の中って知らないことがまだたくさんあるなぁって思う
主さんの動画をみると 小学1年の時に父親といった操車場廃止記念の時にみた たくさんの機関車 貨物 武蔵野操車場 新三郷間まで乗った客車列車、99年まで楽しめた 車内でのジョイント音を思い出します
山陽本線の新南陽駅では1996年までハンプによる貨車仕分けが実施されていて、これが日本最後のハンプヤードだったと思います。
今でもハンプの一部が残り方向仕分線も留置線として使用されているようです。
武蔵野操車場直ぐ近くに住んでいました。昭和50年代前半、夜中も貨車か連結する音が響いていました。
池田邦彦先生の漫画、カレチにも登場していましたが、こんなにも広大な施設だとは知りませんでした。
いつも勉強になる動画を、ありがとうございます。
この辺りはよく利用してましたが、武蔵野操車場のことがよく分かっていませんでした。
この動画で謎だったことが解決できて良かったです。
24年前にテレビニュースで三郷駅の話題が出ていましたので,武蔵野線に乗ってこの駅と,操車場を見に行った事があります
操車場には,まだ線路はありました。
素晴らしい歴史を知る貴重な動画です。受験の時に通過しただけだけど、なんて上下線離れている駅だと不思議に思っていました。
昔この辺に住んでいました。その当時の公団三郷団地は「不人気住宅」でワンルームより広いところが1990年代の終わりで¥33,000+αでした。
行ってびっくり駅前…コンビニ2件と中華屋以外何もないのよ。スーパーは近くにあったけど。
Nice video 👍👍🙋🏻♂️
Best regards Gert from Germany
開業前の武蔵野ヤード建設に従事しました。懐かしい動画です。
小6ぐらいの頃に新三郷駅付近の跡地にあるIKEAに行ったことがありますが、当時はここまで大規模な操車場があったとは思いもしなかったです。
子供のころ…お出かけの際、新三郷で時刻表を探していました。
日中に2本しかなく
「貨物の時刻表か…旅客の時刻表はないのかな?」
「うーん…無いなぁ…あれ?もしかしてこれ?」
と思ったことがある。
吉川の前の広い土地は気になってましたが、あの広い敷地に当時最先端の技術を使った操車場があったんですね
素晴らしい動画、有難うございます。「ハンプ」や「カー・リターダー」。懐かしい単語に感涙です。
とてもわかりやすかったです
あー ここうっかり乗り過ごして降車しちゃうも地獄の乗り換えしなくちゃ行けない新三郷ですね
今はIKEAとコストコになってますけど 当時利用者でしたので今みてもゾッとします
地元を取り上げて頂きありがとうございます😊とても分かりやすい解説でした。
武蔵野操車場跡地に出来たららぽーとには、夢空間のダイニングカーとラウンジ車が展示してあります。
自分はよく越谷レイクタウンに行きますが、近くにこんな操車場があったなんて知りませんでした!今はもうないのが残念です…
今度跡地へ行ってみようと思います🤩
吉川市の公園に記念としてワムが保存される筈だったのですが……結局実現しなくて今は吉川・三郷駅のやたらと広がった線路と、吉川駅の砂利で覆われた線路、三郷駅の線路の残骸たちくらいしか無いです………
新三郷駅┅行った事あります。「どうして上下線がこんなに離れているのか?」と思っていたら、後になって知りました。「武蔵野操車場」があって、その「跡地」だった事を、それまで知りませんでした。
相変わらず、きれいで見やすい編集でとても良かったです。
私が知っているのは新三郷が片寄せされる前までなのですが、駅南側の団地群が1975年当時にすでにできていたことは知りませんでした。
みさと団地は1973年の入居開始と同時に武蔵野線が開業しましたが、当時の最寄り駅である三郷駅からは現在の1駅分の距離があり、武蔵野線の本数は少なく(日中閑散時は40分間隔)、主な交通手段は直線距離で約10km離れた常磐線金町駅からバス(実際の走行距離は12km以上)という、とてつもなく不便な団地でした。1970年代はまだ「住宅難」の時代だったので需要があったわけですが。
In circa 1930, the New York Central Railroad here in the United States embarked upon a massive expansion of its Harmon Shops facility for servicing both steam and electric motive power and commuter equipment some 34 miles north of New York City on the company's Hudson Division. By 1960, steam was gone from Harmon some eight years; by 1970, long-distance rail passenger service was a shell of its former self with national-carrier Amtrak looming on the horizon. Much of what once made Harmon Harmon was gone, torn out because changing demographics made so much of the facility unnecessary. What was put in circa 1930 barely lasted one generation.
Here in this video, Musashino Yard--installed completely from scratch in what could be considered the recent past--lasted basically only half a generation. Unless a local historian or into railroad history, to stand there today one would not know the yard ever existed. Both very interesting and very sad at the same time.
私の父親がここで DE11 に乗ってました。
一緒に乗せてもらったこともあります。
今でわ絶対ダメですけどね。とても良い思い出です。
懐かしく拝見させて頂きました。ありがとうございます。
I love your video. Very nice animation, photos and introduction.
20年以上前は、この操車場の両端っこ部分をまだ武蔵野線が通っていました。その頃はこの操車場は使われていませんでしたが、西行きと東行きの線路がエラく離れていたのは、今でも覚えてます。
でも、新三郷駅がギネス記録に載っていたとは、知りませんでした (^_^)
鬼の様にわかりやすい動画構成のセンスに脱帽しました。
するすると全容が頭に入ってきました。すごい!
日本ではコンテナ化に伴い、広大なヤードが不要になり武蔵野操車場が廃止になりました。
アメリカでは今も広大なヤードがあり(もしかしたら武蔵野操車場より広いかも知れません。)、毎日小麦やとうもろこし、原油なといろいろな貨物列車が(100両近くの)大陸の東西南北をひっきりなしに行きかいます。
この時代にタイムスリップして見に行きたい
最近、地理院地図で地元を眺めてたら、巨大な車両施設があったことにびっくりして調べていたらこのの動画に出会いました。今と昔の写真を比べると跡がくっきり残っていて面白いです。
20年以上前に新三郷駅を一度だけ利用した事があり、上りと下りが随分離れた駅だなと当時記憶してたはずなのに、数年前に通ったら普通のホームになっていたから不思議に思ってました
偶然見つけたこの動画でその疑問が晴れました
御覧の様に昔は上下線が離れていたので霧の濃い日や天気の悪い時は反対側が見えない事はしょっちゅう有りましたね。元々武蔵野線自体も貨物線として計画された物を旅客と貨物の兼用に変更されてますから、未だに府中本町から先、新鶴見迄はトンネルばかりなので旅客化してません。最近は南武線の混雑も酷いので旅客化されたら面白いと思います。
アナログ時代のハイテク素晴らしい‼
「坂埠」と書いてハンプと読むようです。
当時のコンピューターの性能が低い事、記録メディアがパンチテープ、間違いがあると大変だった様です。
当時、最新鋭の設備を誇ったにも関わらず、開業から僅か10年足らずで廃止になった、悲運の鉄道施設ですね。
おお!勉強になりましたぁ!
地元です!
写真に父方の実家と、建つ前の自分の実家が見れて感激!回り何も無かったんだな…。
母方の、おじいちゃんが出稼ぎで線路を轢いたと聞いた事があります。三郷のトンネルなどを見ると1971だったか1972とエンブレムがあるので、それくらいに完成したんでしょうかね?とても為になる動画をありがとうございます!
いつもありがとうございます!
見ていて飽きない!(⊃∀`* )♪
新三郷駅が出来るずっと前から西側の三郷団地に住んでました。動画を見ていて果てしなく続く陸橋を渡った記憶など思い出して懐かしかったです。
この操車場跡地の両端を通すおどろおどろしい地下トンネル道が全国でも有名なS級心霊スポット扱いされてましたが、地元民は普通に通ってました。
配線がめっちゃキレイ!
武蔵野線に乗って車窓を見ていて
新三郷で「反対側へ行くの大変」と思っていた。
今は、「吉川美南駅って、実際に住んでいる人いそうな駅名」と思っている。
吉川美南駅が最寄り駅の吉川美南さん
いたら、いろいろといじられそう
今は亡き父が、国鉄時代に新幹線関連から移り郡山ヤードで開発に携わっていたのがこの「YACS(ヤックス):Yard Automatic Control System」だと思います。操車場の全廃をどのような気持ちでとらえていたか今では確認できませんが、仕事というのはいろいろなことがあるものなんですね。
子供頃に見ていた図鑑に紹介されていました。カーリターダという名前が印象に残っています。遠隔操作の機関車まであったとは知りませんでした。ありがとうございます。
私は子供の頃に現役を見ています。最近この跡地がどの様に変化しているか釣りを兼ねて見にいきました。
カーリターダはレール側に設置され車輪を挟んで減速させる装置ですね。これができる前は車側の手ブレーキに飛び乗って踏んで止めてましたが足を滑らせたり飛び乗りに失敗して足を切断する事故が多かったのでヤードや貨物駅のそばに病院があったりしたそうです。例えば吹田貨物ターミナルのすぐ側に病院があるのですがそれが理由で病院があるかは分かりません。
武蔵野操車場で入換作業に従事していましたが、確かに飛び乗り飛び降りは危険な作業でした。原則として禁止されてはいましたが、実際には列車を組成して据え付ける際には日常茶飯事的に行いました。
ただしハンプから転がす際にはカーリターダがあるので、人がタッチすることはありません。ただ完璧に制御されていたかと言えば、不連結(連結せずに途中で止まってしまう)、ゲンコ(自動連結器を上から見ると、手をグーにした状態で、ちゃんと連結器が噛み合わない)が多発していました。やはり人間によるフォローが必要だったのです。
幸いにして武蔵野操車場では悲惨な事故は無かったように記憶しています。
吉川から三郷間に武蔵野貨物駅があった事は何となく知っていたのですが、昨年5月からちょこちょこ新三郷駅にあるとある飲食店へ行く様になってから、たまに吉川から新三郷へ歩いて散策した際、武蔵野貨物駅がどれだけの広大さかと言うのを歩いて身に感じ、道路線形がまさに武蔵野貨物駅の側道であったかを感じる事が、今回視聴させていただいた事で、新三郷駅の高架道が不自然だと思っていた謎が動画で解決しました、良い資料見させていただいたと思いました。
配線図好きにはたまらないけどここまで複雑だと...
東京北鉄管内のいくつかの通信区を渡り歩いた私の親父が、当初の5~6年ぐらい武蔵野ヤックス管理区所属でした。住んでいた某宿舎(社宅)には併設の武蔵野機関区所属の機関士のおじさん達も多かったです。オヤジ含め皆さん「ブソウ」と呼んでました。宿舎の子供会で見学にも行きました。親父にこの動画を知らせてやりたい所ですが、数カ月前に鬼籍に入ってしまいまして。残念。
私の父親が武蔵野機関区で機関士をしていたので社宅に住んでいました。
@@tpzk795
たぶん当方はtpz改氏の部屋の真下に住んでいた同級生の者です(笑)
おっしゃる通り武蔵野操は「ブソウ」と言ってましたね。
大宮操はそのまま「オオミヤソウ」か「オオソウ」
新鶴見操車場は「ツルソウ」
ハンプヤード式ということは、今はほぼ絶滅危惧種の「突放」を使って貨車を仕分けていたと思います。「突放」はその名の通り、貨車を空繋ぎした状態にし、機関車で一定距離押し上げてブレーキをかけ切り離し、切り離された貨車は残りの距離を惰性運転で目標地まで流す方法です。昔はかなり主流となっていましたが、現在では「突放禁止」の貨車の増加及び、安全面でリスクが大きい方法だったため、廃れてしまいました。(実際、貨車ブレーキ操作するときに巻き込まれたり、惰性スピードの出過ぎで貨車操者が留置中の前方貨車と激突して転落したり、触車する事例が多発していました)ただ、三岐鉄道がまだ現役で行っているようです。
武蔵野操車場(以下「武操」と略)で働いていた者です。
近代的なヤードということもあり、武操では突放作業は行われていませんでした。車両を仕訳する際には、機関車で目的の場所まで押し込みをしました。なぜなら仕訳線に「エンドストッパー」と言う車両が流れないように止めてしまう装置があり、突放しても途中で止まってしまうからです。
ただし例外はあって、武操中心部のやや東、ちょうど新三郷駅の辺りにある「S形矢羽線」は、突放作業を前提とした作りになっていました。
以上、参考になれば幸いです。
話のタネを一つ。
貨車のナンバーを読み取って、情報の入力に使っていましたが、これは機関車にも当てはまりました。
機関車のナンバープレートは金色(砲金製)や銀色(ステンレス製)です(ちなみに貨車は白か黒のペンキ書き)。しかし、武蔵野操車場を通る機関車は、読み取りの精度を上げるため、プレート部を白く塗っていました。なにかペンキ書きのようで、安っぽく感じたものです(^_^;)
以上、知っててももう役にたたない知識でした(^_^;)
今、思い出しましたけど武操の解結通知書って手書きじゃなく
コンピュータで印字された通知書でしたよね?
サムネめちゃくちゃいいな
ついつい見てしまう
大阪駅前の梅田ヤードの移転先がなかなか決まらなかった大阪からみると贅沢な話ですね
突放する時に滑って、巻き込まれて足を失った方や、連結器に指を挟まれて指が潰れてしまった方々の話を聞くと心が痛みますね
それだけ命懸けの作業だったんですね
似た様な場所が大阪府にもありましたよね?大和路(関西)線の久宝寺駅です。ここも基盤整備が進んで上下線が一緒になったとこですよね。
自動化ヤードの関係で、アルミ製のタンク貨車は通過できず、
これらは山手貨物線~田端操~金町経由で常磐線、越中島や京葉臨海鉄道沿線、鹿島地区へ向かっていた。
当然不便故に、
強化したアルミ合金製貨車が登場することになる。
武蔵野操車場で働いていた者です。実際はアルミ製のタンク車も使用されていまして、特定の番線を指定して連結作業を行っていました。車両には「武蔵野操車場通過禁止」の表記がありましたが…(笑)
朗報?です。
吉川駅の新三郷よりにレールが残ってます。(ちょっとだけど)
当時の関係者さんの具体的な話、動画と合わせて貴重だし、感想投稿欄って必要不可欠。
吉川市側には吉川美南駅が出来、武蔵野線の運行上重要な拠点となりました。
イオンタウンも出来て活性化していますね。
操車場シリーズ見てみたいですね
新鶴見や吹田など
ハンプはいわゆる突放ですね。
意図していることは同じなのですが、「突放」は平面上で連結器を解放したまま推進運転して機関車だけ急停止させ、貨車を文字通り突き放して推し出す操作を指すことが多いと思います。もちろん、ハンプ(坂阜・坂埠の字を当てていた)の方が同じ性能の機関車で多くの(総重量が重い)貨車を散転させることができます。
最高!
電車が新三郷駅で通貨電車待ちか何かで長時間停車していて満員の中ずーっと待たされた。記憶ではすごく長い時間だったような気がする。武蔵野線は利用客が多いのにトロトロ走る電車だったけど今でもそうなのかな
ガキの頃、横断橋の上から、ワム車が1両ずつ降りて行くのを見たことがあります。5分で飽きて、去りましたが。
めっちゃデケェ。
こんなデカい操車場がかつてあったんだな。
昔はこれがコンテナよりも合理的に見えたんだろうなあ。