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大学受験は世界史選択だったので、日本史がはるか記憶の彼方になっていたところ、このチャンネルに出会い、楽しく日本史を再勉強させていただいております。最近では、時代物の舞台を観に行く際に、すんなり時代背景を理解できるようになりました。ありがとうございます。お忙しいとは存じますが、ぜひ無理のない範囲で、動画投稿続けて頂けると嬉しいです!
わかりやすいです!やっぱり内容分かるとり日本は深くて面白い。
わかり易すぎてめちゃくちゃ助かります!本当にありがとうございます!!
こんなクルマも、標識も無い時代に、よくこれだけの距離を使って戦闘できるなぁ。と、つくづく思う。
素晴らしい解説でした。
5:29 自己防衛すきwww
何か歴史を見てると、ワンピースのドフラミンゴの「正義は勝つって!?そりゃあそうだろ、勝者だけが正義だ!!!」という言葉はあながち間違っていないのかもしれないですね。
不破関、鈴鹿関、愛発関は三関として有名ですよね。やはり、これらを押さえたことが勝利に繋がったのだと思います。
歴史の中で一番好きな時代です!諸説は色々だと思いますが、天上の虹(里中満知子)と言う漫画がリアルに心情が描かれてて面白いですよ!
この時代のことはあまり語られる事はないよね戦国時代や幕末・第二次大戦の時代などはよく取り上げられる時代だが七世紀の壬申の乱の時代は、古すぎて親近感もわかないでしょうしそれにこの時代の人々の認知度は低いしな
@@御神誉黎 返信ありがとうございます✨特に近親相関で入り乱れるこの時代に惹かれたのかも知れません。大海人皇子(天武天皇)が好きなのよ💓
大海人皇子はこの乱で皇位に就きましたが、その約100年後の光仁天皇の即位で皇統は天智天皇系に戻り、天武系は途絶えることになるんですよね。天武天皇の皇子は多かったにもかかわらず。
前回に引き続き、国文研の倉本先生によれば、壬申の乱は、本来は起こす必要のなかった戦であり、大海人皇子(天武天皇)と妃の鸕野讃良皇女(持統天皇)が、天智天皇の政治を否定するポーズを国内に示すため、大友皇子をスケープゴートにしたという説を唱えています。というのも、白村江の戦で、中大兄皇子(天智天皇)は唐と新羅が日本に攻めてくると散々に煽っておいて、結果、日本に攻めてこなかったばかりか、国内の有力豪族が異国で殺されて勢力を削がれた挙句に、戸籍まで作成したことで、国内の豪族には「天智天皇に騙された!」との不満が溜まっていました。白村江の戦をサポートしていた大海人皇子は、「あれは兄がやったことで、俺は知らないよ。」というポーズを見せて、天智天皇の政治をリセットしたいという思いがあったので、天智天皇の息子である大友皇子を抹殺するために、大海人皇子は、わざと大津宮を抜け出して、大友皇子に朝廷を主宰させるよう仕向けました。その後、唐から朝廷(大友皇子)に新羅との戦争に協力してほしいという要請があり、朝廷も軍事物資を提供し、兵を朝鮮半島に派遣する決定を下しました。白村江の戦では、主に西国の豪族を派遣しましたが、今回の対新羅戦争には東国の豪族を派遣する方針でした。大海人皇子が村国男依を美濃に派遣したのは、対新羅戦争に派遣する東国の豪族を根こそぎ奪って、大津宮の朝廷攻撃に使うという計画があり、それが見事に成功。対新羅戦争そのものが国内で反発が強かったことから、戦う前から大津宮の朝廷には勝ち目はなく、戦死者も乱という割には非常に少なかったのではないかと推察されています。なお、ここら辺の計画は、主に鸕野讃良皇女が考えたのではないかという説もあるので、面白いですね。
壬申の乱は朝廷側が大海人皇子を攻めようとしたらから起こったと記紀には記されているが大海人皇子の挙兵をしり朝廷は慌てふためいたというから、これを考えれば先に攻撃を仕掛けたのは大海人の側だろう大海人の側には地方豪族が終結して、大友側を凌ぐ勢いになった。天智天皇が中央集権を急ぎ、そのために一番に負担を被ったのは地方豪族であり。さらに天智天皇は恐怖政治を強いた人物でね多くの政敵を粛清している。こうした事の反発が大海人皇子の挙兵につながったのだろうし。実際のところ、天智天皇が崩御した直後から大海人側が挙兵の準備していたとしても不思議はないだろうと思うよ
やる夫が大海皇子になるそうです と やる夫が天武天皇になるそうです の二つ(同一作者の続編なので実質一つ)のやる夫まとめは傑作だった
なるほど。。。なるほど。。こんな日本史の授業あったら己の歴史は変わってたなー!
壬申の乱に敗れた大友皇子が、自害した場所 それが大津市の皇子山。
知らんかった!
壬申の乱当時の瀬田橋の橋脚が80m南の下流で発見されています。合わせて古代の官道も見つかっています。
この辺何度おさらいしても おおあま と、 おおとも が途中で混ざってわからなくなるけど、動画のおかげで前より理解できました!
縁起担ぎで徳川家康が桃配山に陣をひいたのは有名な話でございます!
やかましい
大津瀬田在住の者ですが瀬田の唐橋はこの事から唐橋を制した者は天下を制するとも言われています現在の唐橋は元々下流から3回移動してきており壬申の乱の頃はおそらく 最初の石山寺前付近で北上し簡単な作りの橋で幾度となく架け替えては流されたり壊されて現在地となってる様です瀬田川の対岸には御霊神社として大友皇子をお祀りした神社もあり大津市役所の裏側には弘文天皇(大友皇子)陵が在ります。
要点がギュッと詰めてあってわかり易い
飛鳥時代の続きは不定期で更新されていく形になりますか?
過去動画の再編集版は、祝日の1日前に投稿することが最近では慣例となっています次回の「天武天皇と持統天皇」は文化の日(11/3)の1日前なので11/2に投稿します
ありがとうございます
8:22〜辺り ゴリ押しで面白い好き しかもちゃんと勝ってる
美濃と奈良、2日間で 往復できる 手段は何でしょうか❓️🤔
大海の皇子には戦略あったと思います。まず次の天皇の誘いを自体し出家し天智の子供の大友の皇子に譲り死んで大海の皇子が挙兵し吉野から関ケ原に向けて東北の軍勢と一緒になって瀬田橋が激戦地になって天武天皇となった戦略家だと思う
大海人皇子と額田の大君の恋は和歌で相互に歌われている。額田の王君・・茜さす、紫野行き しめの行き 野守りは見ずや 君が袖振る。大海人皇子・・紫の匂える妹子憎くあらば 人妻ゆえに 我恋めやも。
中大兄に横恋慕された大海人皇子の切ない歌です。
エヴァ弐号機のパイロットモテモテだな…
大海人皇子も自己防衛おじさんなのほんと草
当時の王位継承について、正妻の子でなければならず、大友皇子は采女の子であった。しかし、大海人皇子は天智天皇のごり押しの意向を察知し、危険を感じ早々出家した。この両勢力には、天智天皇側には旧百済残党(この人たちは既に要職に就いていた)大海人皇子側には新羅勢力がついた。そして、戦の前に新羅の渡来人の本拠地の伊勢神宮に参拝した。豪族のほとんどは、天智天皇の圧政に苦慮しており大海人皇子側についた。これが勝者の脚色でなければ良いのだが。
ここ模試に出てた。壬申の乱で瀬田川の東側に軍を配置したのは大海人皇子か?正直,しらねぇよ,って思った。でもこうやって流れで押さえると答えられるんだなぁって
天皇家はめちゃくちゃ血塗られた一族だよな
どうだろ?当時の王位継承慣習から考えても天智と同母弟の大海人皇子が即位しないなんてまず有り得ない。やっぱり引き金は大海人皇子後の大王として、草壁王を擁立させたかった鸕野王女によるものと考えるのが妥当だと思う。壬申の乱後に褒章において大津王や高市王といった実子にすら褒章を与える記述があるけど、鸕野王女にはそういった記述が無い。つまり、鸕野王女こそが壬申の乱を主体となって動かしていた人物かと
関ケ原に行くとこの時代の戦死者の墓があちこちにあるそうです。
小学校二年生です。前まで東ばっかりだから西の島津や大内や尼子や毛利や龍造寺や大友や長宗我部の動画を作ってください。
大体当たって居る~凄い
瀬田の唐橋っちゅうたら高校サボってようあの橋の下で昼寝してたわw
天皇も武士ですね。
日本の歴史もドロドロですよね〜😅
だいたい、歴史書というのは、勝った者が書き残すのです。歴史書では、こう書いているが、ああではないかこうではないかと、いろいろ考察するのが面白いのではないか。
壬申の乱直前、大海人皇子は仏門に入ったんですが、その時点で建前上皇位継承権が無くなってしまったのではないかと思います。乱を起こし大友皇子を破って皇位に就いたのは、謂わば皇位の様に思いますけれど、これを問題にした様子はないんですね、文字通り勝てば官軍なんでしょうね。
その辺は諸説があります。天智天皇は中継ぎの形で大海人皇子に即位させ、その後で大友皇子を即位させる考えだったとも大海人皇子を粛清して、大友皇子を即位させる考えだったので、大海人皇子はそれを察し逃げたとも言われるまあ、あまり知られていないが天智天皇は敵対勢力を次々粛清してきた人です。大海人皇子が警戒するのは無理のない事だったかも知れません
手塚治虫先生の火の鳥太陽編でここら辺が出てました。
なお弘文天皇即位説
叔父と甥が天下分け目の大戦人間は醜い争いが好きだな負けた甥は近年即位していたと見直しの評価を
「壬申の乱」を探してて、あれっ、無い、何で、と思ってました。
矢を防ぐ盾のようなものはなかったのですか。
大友皇子の末裔と、名乗る、方と、お会いした事が、ありますが、彼等は、未だに、大海人皇子の、事をずっ話っと、恨んでおられました。😢
強い兵士が居た東国を利用するのは賢いよなあ
「歴史は勝者によって作られる」て誰の言葉?「歴史は勝者によって書かれた記録」 …だから、真実でないことが多いって話。
令和版”壬申の乱”(笑)。でも、伯父と甥じゃないな。
ライオンキングでスカーがシンバに勝った感じか
壬申の乱は何で「乱」と呼ぶのだろうか?普通反乱を起こした方が勝ったので、本来は「壬申の変」というのがセオリーのはず。
あくまで推測ですが、天武天皇が歴史書を編纂する際に大友皇子の即位を否定し、正統な皇位継承者である大海人皇子に対して大友皇子が叛乱を起こした形にしたからでしょう。
丸ちゃんもしも鎌足が生きていたら?この戦は起きたんだろうか?鎌足の息子はどっちに味方したん?
もしもの話は僕は分かりませんが鎌足が生きていたらほぼ確実に歴史が変わっていたと思います良い方向か、悪い方向かは分かりませんが笑鎌足の息子である藤原不比等は近江朝廷側つまり負けた側についていました(幼いので乱にはほぼ関与していません)しかし不比等はその後、実力によって勝者側に気に入られて藤原氏の基盤を作り直すのが面白いところだと思います(そのうち不比等については動画を作ります)
首吊り自殺とは知らなかったわ。
黙ったまま、この身を滅ぼす訳にはいかぬ
壬申の乱では、百済王一族が騎馬隊として活躍したそうで。
百済王の一族は白村江の戦いの後で百済が完全に滅亡した時に日本に亡命してきたその後、六位程度の中堅から下級貴族の扱いを受けていたはずだ日本は起伏の激しく森林の多い地形からだろう。騎馬隊があまり発達しなかった鎌倉時代から続く騎馬武者も、重騎兵の弓隊という海外には見られないものだった騎馬隊の強さはその突撃力にあるのだが、それが生かせるような平原が少なかった日本ならではだ
@@御神誉黎 信濃は百済の地形自然に似てるので、百済の移民にあてがわれたそうで。
叔父、甥で戦うなんて…。
中大兄皇子
自己防衛www
東瀛島國
👀
天武を天智の弟にすると年代的に辻褄が合わないまぁ血縁関係は遠かっただろな
大学受験は世界史選択だったので、日本史がはるか記憶の彼方になっていたところ、このチャンネルに出会い、楽しく日本史を再勉強させていただいております。
最近では、時代物の舞台を観に行く際に、すんなり時代背景を理解できるようになりました。ありがとうございます。
お忙しいとは存じますが、ぜひ無理のない範囲で、動画投稿続けて頂けると嬉しいです!
わかりやすいです!やっぱり内容分かるとり日本は深くて面白い。
わかり易すぎてめちゃくちゃ助かります!
本当にありがとうございます!!
こんなクルマも、標識も無い時代に、よくこれだけの距離を使って戦闘できるなぁ。と、つくづく思う。
素晴らしい解説でした。
5:29 自己防衛すきwww
何か歴史を見てると、ワンピースのドフラミンゴの「正義は勝つって!?そりゃあそうだろ、勝者だけが正義だ!!!」という言葉はあながち間違っていないのかもしれないですね。
不破関、鈴鹿関、愛発関は三関として有名ですよね。やはり、これらを押さえたことが勝利に繋がったのだと思います。
歴史の中で一番好きな時代です!
諸説は色々だと思いますが、
天上の虹(里中満知子)と言う漫画が
リアルに心情が描かれてて面白いですよ!
この時代のことはあまり語られる事はないよね
戦国時代や幕末・第二次大戦の時代などはよく取り上げられる時代だが
七世紀の壬申の乱の時代は、古すぎて親近感もわかないでしょうし
それにこの時代の人々の認知度は低いしな
@@御神誉黎
返信ありがとうございます✨
特に近親相関で入り乱れるこの時代に惹かれたのかも知れません。
大海人皇子(天武天皇)が好きなのよ💓
大海人皇子はこの乱で皇位に就きましたが、その約100年後の光仁天皇の即位で皇統は天智天皇系に戻り、天武系は途絶えることになるんですよね。天武天皇の皇子は多かったにもかかわらず。
前回に引き続き、国文研の倉本先生によれば、壬申の乱は、本来は起こす必要のなかった戦であり、大海人皇子(天武天皇)と妃の鸕野讃良皇女(持統天皇)が、天智天皇の政治を否定するポーズを国内に示すため、大友皇子をスケープゴートにしたという説を唱えています。
というのも、白村江の戦で、中大兄皇子(天智天皇)は唐と新羅が日本に攻めてくると散々に煽っておいて、結果、日本に攻めてこなかったばかりか、国内の有力豪族が異国で殺されて勢力を削がれた挙句に、戸籍まで作成したことで、国内の豪族には「天智天皇に騙された!」との不満が溜まっていました。白村江の戦をサポートしていた大海人皇子は、「あれは兄がやったことで、俺は知らないよ。」というポーズを見せて、天智天皇の政治をリセットしたいという思いがあったので、天智天皇の息子である大友皇子を抹殺するために、大海人皇子は、わざと大津宮を抜け出して、大友皇子に朝廷を主宰させるよう仕向けました。
その後、唐から朝廷(大友皇子)に新羅との戦争に協力してほしいという要請があり、朝廷も軍事物資を提供し、兵を朝鮮半島に派遣する決定を下しました。白村江の戦では、主に西国の豪族を派遣しましたが、今回の対新羅戦争には東国の豪族を派遣する方針でした。大海人皇子が村国男依を美濃に派遣したのは、対新羅戦争に派遣する東国の豪族を根こそぎ奪って、大津宮の朝廷攻撃に使うという計画があり、それが見事に成功。対新羅戦争そのものが国内で反発が強かったことから、戦う前から大津宮の朝廷には勝ち目はなく、戦死者も乱という割には非常に少なかったのではないかと推察されています。
なお、ここら辺の計画は、主に鸕野讃良皇女が考えたのではないかという説もあるので、面白いですね。
壬申の乱は朝廷側が大海人皇子を攻めようとしたらから起こったと記紀には記されているが
大海人皇子の挙兵をしり朝廷は慌てふためいたというから、これを考えれば先に攻撃を仕掛けたのは大海人の側だろう
大海人の側には地方豪族が終結して、大友側を凌ぐ勢いになった。
天智天皇が中央集権を急ぎ、そのために一番に負担を被ったのは地方豪族であり。さらに天智天皇は恐怖政治を強いた人物でね
多くの政敵を粛清している。
こうした事の反発が大海人皇子の挙兵につながったのだろうし。
実際のところ、天智天皇が崩御した直後から大海人側が挙兵の準備していたとしても不思議はないだろうと思うよ
やる夫が大海皇子になるそうです と やる夫が天武天皇になるそうです の二つ(同一作者の続編なので実質一つ)のやる夫まとめは傑作だった
なるほど。。。なるほど。。こんな日本史の授業あったら己の歴史は変わってたなー!
壬申の乱に敗れた大友皇子が、自害した場所 それが大津市の皇子山。
知らんかった!
壬申の乱当時の瀬田橋の橋脚が80m南の下流で発見されています。
合わせて古代の官道も見つかっています。
この辺何度おさらいしても おおあま と、 おおとも が途中で混ざってわからなくなるけど、動画のおかげで前より理解できました!
縁起担ぎで徳川家康が桃配山に陣をひいたのは有名な話でございます!
やかましい
大津瀬田在住の者ですが
瀬田の唐橋はこの事から唐橋を制した者は天下を制するとも
言われています
現在の唐橋は元々下流から3回移動してきており
壬申の乱の頃はおそらく
最初の石山寺前付近で北上し簡単な作りの橋で
幾度となく架け替えては流されたり壊されて
現在地となってる様です
瀬田川の対岸には御霊神社として大友皇子をお祀りした神社もあり
大津市役所の裏側には弘文天皇(大友皇子)陵が在ります。
要点がギュッと詰めてあってわかり易い
飛鳥時代の続きは不定期で更新されていく形になりますか?
過去動画の再編集版は、祝日の1日前に投稿することが最近では慣例となっています
次回の「天武天皇と持統天皇」は文化の日(11/3)の1日前なので11/2に投稿します
ありがとうございます
8:22〜辺り ゴリ押しで面白い好き しかもちゃんと勝ってる
美濃と奈良、2日間で 往復できる 手段は何でしょうか❓️🤔
大海の皇子には戦略あったと思います。まず次の天皇の誘いを自体し出家し天智の子供の大友の皇子に譲り死んで大海の皇子が挙兵し吉野から関ケ原に向けて東北の軍勢と一緒になって瀬田橋が激戦地になって天武天皇となった戦略家だと思う
大海人皇子と額田の大君の恋は和歌で相互に歌われている。
額田の王君・・茜さす、紫野行き しめの行き 野守りは見ずや 君が袖振る。
大海人皇子・・紫の匂える妹子憎くあらば 人妻ゆえに 我恋めやも。
中大兄に横恋慕された大海人皇子の
切ない歌です。
エヴァ弐号機のパイロットモテモテだな…
大海人皇子も自己防衛おじさんなのほんと草
当時の王位継承について、正妻の子でなければならず、大友皇子は采女の子であった。しかし、大海人皇子は天智天皇のごり押しの意向を察知し、危険を感じ早々出家した。この両勢力には、天智天皇側には旧百済残党(この人たちは既に要職に就いていた)大海人皇子側には新羅勢力がついた。そして、戦の前に新羅の渡来人の本拠地の伊勢神宮に参拝した。豪族のほとんどは、天智天皇の圧政に苦慮しており大海人皇子側についた。これが勝者の脚色でなければ良いのだが。
ここ模試に出てた。壬申の乱で瀬田川の東側に軍を配置したのは大海人皇子か?
正直,しらねぇよ,って思った。でもこうやって流れで押さえると答えられるんだなぁって
天皇家はめちゃくちゃ血塗られた一族だよな
どうだろ?当時の王位継承慣習から考えても天智と同母弟の大海人皇子が即位しないなんてまず有り得ない。やっぱり引き金は大海人皇子後の大王として、草壁王を擁立させたかった鸕野王女によるものと考えるのが妥当だと思う。壬申の乱後に褒章において大津王や高市王といった実子にすら褒章を与える記述があるけど、鸕野王女にはそういった記述が無い。つまり、鸕野王女こそが壬申の乱を主体となって動かしていた人物かと
関ケ原に行くとこの時代の戦死者の墓があちこちにあるそうです。
小学校二年生です。前まで東ばっかりだから西の島津や大内や尼子や毛利や龍造寺や大友や長宗我部の動画を作ってください。
大体当たって居る~凄い
瀬田の唐橋っちゅうたら高校サボってようあの橋の下で昼寝してたわw
天皇も武士ですね。
日本の歴史もドロドロですよね〜😅
だいたい、歴史書というのは、勝った者が書き残すのです。
歴史書では、こう書いているが、ああではないか
こうではないか
と、いろいろ考察するのが
面白いのではないか。
壬申の乱直前、大海人皇子は仏門に入ったんですが、その時点で建前上皇位継承権が無くなってしまったのではないかと思います。乱を起こし大友皇子を破って皇位に就いたのは、謂わば皇位の様に思いますけれど、これを問題にした様子はないんですね、文字通り勝てば官軍なんでしょうね。
その辺は諸説があります。天智天皇は中継ぎの形で大海人皇子に即位させ、その後で大友皇子を即位させる考えだったとも
大海人皇子を粛清して、大友皇子を即位させる考えだったので、大海人皇子はそれを察し逃げたとも言われる
まあ、あまり知られていないが天智天皇は敵対勢力を次々粛清してきた人です。大海人皇子が警戒するのは無理のない事だったかも知れません
手塚治虫先生の火の鳥太陽編でここら辺が出てました。
なお弘文天皇即位説
叔父と甥が
天下分け目の
大戦
人間は醜い争いが
好きだな
負けた甥は近年
即位していたと
見直しの評価を
「壬申の乱」を探してて、あれっ、無い、何で、と思ってました。
矢を防ぐ盾のようなものはなかったのですか。
大友皇子の末裔と、名乗る、方と、お会いした事が、ありますが、彼等は、未だに、大海人皇子の、事をずっ話っと、恨んでおられました。😢
強い兵士が居た東国を利用するのは賢いよなあ
「歴史は勝者によって作られる」て誰の言葉?
「歴史は勝者によって書かれた記録」
…だから、真実でないことが多いって話。
令和版”壬申の乱”(笑)。でも、伯父と甥じゃないな。
ライオンキングでスカーがシンバに勝った感じか
壬申の乱は何で「乱」と呼ぶのだろうか?普通反乱を起こした方が勝ったので、本来は「壬申の変」というのがセオリーのはず。
あくまで推測ですが、天武天皇が歴史書を編纂する際に大友皇子の即位を否定し、正統な皇位継承者である大海人皇子に対して大友皇子が叛乱を起こした形にしたからでしょう。
丸ちゃん
もしも鎌足が
生きていたら?
この戦は起きたんだろうか?
鎌足の息子は
どっちに味方したん?
もしもの話は僕は分かりませんが
鎌足が生きていたらほぼ確実に歴史が変わっていたと思います
良い方向か、悪い方向かは分かりませんが笑
鎌足の息子である藤原不比等は近江朝廷側
つまり負けた側についていました
(幼いので乱にはほぼ関与していません)
しかし不比等はその後、実力によって勝者側に気に入られて
藤原氏の基盤を作り直すのが面白いところだと思います
(そのうち不比等については動画を作ります)
首吊り自殺とは知らなかったわ。
黙ったまま、この身を滅ぼす訳にはいかぬ
壬申の乱では、百済王一族が騎馬隊として活躍したそうで。
百済王の一族は白村江の戦いの後で百済が完全に滅亡した時に日本に亡命してきた
その後、六位程度の中堅から下級貴族の扱いを受けていたはずだ
日本は起伏の激しく森林の多い地形からだろう。騎馬隊があまり発達しなかった
鎌倉時代から続く騎馬武者も、重騎兵の弓隊という海外には見られないものだった
騎馬隊の強さはその突撃力にあるのだが、それが生かせるような平原が少なかった日本ならではだ
@@御神誉黎
信濃は百済の地形自然に似てるので、百済の移民にあてがわれたそうで。
叔父、甥で戦うなんて…。
中大兄皇子
自己防衛www
東瀛島國
👀
天武を天智の弟にすると年代的に辻褄が合わない
まぁ血縁関係は遠かっただろな