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本当にわかりやすい解説ありがとうございます😊私は鹿児島生まれで、西郷さんも大久保さんも、好きですけど、晴天を衝けの影響で、徳川慶喜さんも最近とても好きです。苦渋の選択だったんじゃないかと思ってしまいます。majgihimaさんのおっしゃる通り、様々な人々の生き方を更に知って、学ぶところや感じることも多いです。武士道さん、ありがとうございます😊
みみこさん人っていろんな性格あるし、青天の慶喜は苦悩が良く分かって私も好きです❗でも、誰もが好きって感じては、無いような💦腹のうちをあまり見せないイメージです。ホントのところはわからないけど西郷さんみたいな、この人に付いて行こうと、言う感じでは無いような…。
@@聖子-o7o 専門家でも評価が割れると聞きます。西郷は信頼たる資料が乏しくその実像が分からない。一方、慶喜は残された文書や本人写真など一次資料が充実しているにもかかわらず、結局どんな人だったか分からない・笑。
そこがいちばん気になってた!!ありがとうございます。
英明と言われた慶喜が大阪城から密かに逃げた事は昔から不思議でした。残された家来たちは「えーっ💢」て思いますよね!理解できないところです。でも、やはり彼なりに自分を貫いて明治を生きた事は立派です。
慶喜が開陽丸に乗り込む際、イギリス船(兵庫開港に備えて来てた)に立ち寄っているんですねえ。仲介を頼んだのかも。
逃げたことを批判する人達がいるけど、むしろ戦ってどうすんのよ。何になるの?国家的にマイナスになるだけでしょ。徳川慶喜は戦うなって言ってんだし。もし悪い方をあげるなら、戦を仕掛けた薩長側でしょ。
歴史って勝者が歴史を作り都合の良いように書き換えるからな、、、
Mr.武士道様🌹🌿いつも有り難うございます。「徳川慶喜、敵前逃亡説」に関しては、高校の日本史で学んだ記憶が有ります。ただ、講師の説明曰く「卑怯者」的な意味合いが強く、当時は慶喜の人間性については余り好意的な印象を、私自身持つには至らなかったと記憶しています…今回の武士道さんの解説で、「止むに止まれず〜耐え難きを耐え〜」と言った慶喜の心情を大変理解するに至りました〜唯、残念ながら 残された旧幕府軍の家臣達は、無念の想いで自らの命を落とさざるを得なかったで在ろうと、悲哀の念が湧きました。この動画配信に改めてお礼申し上げます。今後も引き続き宜しくお願い致します。季節の変わり目、武士道様並びにスタッフ皆様ご自愛下さい🌹🌿
慶喜が戦う気がないのはいいけど、だったら大阪城に留まって薩長ときちんと停戦交渉するべきだった。姫路藩とかその後えぐい。
情報ありがとうございます😊
逃亡の理由が「朝敵ではないという意思表示」であったにせよそれをその時皆に(敵にも味方にも)伝えなければ、意味が無いですよね。それを大々的にアピールすれば良かったんですよ。逃げた事よりも、その意思(理由)を伝えなかったことが慶喜の「しくじり」かなぁと個人的には思います。それにしても、ここまでして戦争に導いて天下をつかみ取った西郷と大久保、そして薩摩武士たち・・・しかし彼らが迎えたその末路は・・・という感じですかね。
結果的には長州だけが一人勝ちになったようなものですよね。 歴代の総理大臣を見ても長州側の生き残りや長州地方の人達ばかりですし…。会津藩と所縁のある地域の生まれの私には旧会津藩等の人達の子孫が未だに靖国神社への薩長との合祀を拒否し続ける気持ちは理解できます。
今度また是非鳥羽伏見の戦いについて詳細な動画上げて欲しいです‼️
こんばんは!武士道さん『徳川慶喜は、何故、逃げたのか?』の解説、有り難う御座います秋葉すえみつさんと同じ意見になりますが…水戸学は、天皇への忠誠を重んじていますよね父親である徳川斉昭から『尊皇思想』を学んだ慶喜にとっては、朝廷との対立は望む事ではなかったと思うのです それに、母親の吉子は有栖川宮家の出身で、有栖川織仁親王の外孫にあたるから『錦の卸旗』を見た途端に逃げたのではないでしょうかねぇ?この当時の将軍が水戸藩以外であれば、また状況は違っていたかもですね『鳥羽・伏見の戦い』…青天を衝けでは、どの様に描かれるものでしょうね『鳥羽・伏見の戦い』の原因、本を読むより、動画の方が解りやすいですね
ドラマを見ていて、最近、慶喜の矛盾した行動が分かったような気がする。それは、もう将軍の権威もないのでどうしても戦いたい家来は戦わせて、最小限の被害で終わらせようとしたのではないかということ。また、自害するより蟄居謹慎した方が分かってくれる家来もいると考えたのではないか。
このとき持参した討薩の表は「薩摩藩の責任者を引き渡さないなら止むを得ず誅戮する」という最後通牒のような内容なので「単に上洛したかっただけ」とは言えないように思います。ただ、きちんと作戦計画を練っておらず漫然と大軍を向かわせればなんとかなるという姿勢ではありましたし、臨戦態勢の欠如が敗因だとは思います。
慶喜を補佐する側近が暗殺されてなかったら違ってたかも、でも長引く内戦は避けたかったはずだから慶喜が逃げた事が良い結果に繋がったと思う。
どこがなん?そのせいで会津若松の女子供はほぼ集団自決しましたよ。
理由はどうあれ、部下の将兵たちを置き去りにしたのは、時代や状況に関係なく人としてどうなのよ?な感想はどうしても残る
ご本人があの判断でよかったと回想してるので、現代人がどうこう言っても逃げるでしょう
この時の天皇は孝明天皇は亡くなられて、幼少の明治天皇じゃなかったかな。こうなっては岩倉、三条、長州、薩摩に実権を握られていて徳川方の言い分は、聞いてもらえない状況になってからじゃないかな。江戸に退却して体制を立て直してから、どうするか考えるしかなかったのだろう。結局、内戦を避けて全面降伏する結論に至ったのだろう。そうしなければイギリス、フランスも参戦して、中国清の二の舞になることがハッキリしていた。慶喜の先を読む力が優れていた。
いつも丁寧な解説をして頂き、学ばせて頂けて、有り難うございます。楽しみに見させて頂いております。あくまで私見ですが、慶喜公としても、薩長の狙いが、手段を択ばず、自分を殺すこととわかったので、調整で済むことではないと判断し、逃げざるを得なかったのではないでしょうか。西郷も大久保利通も良い死に方をしなかったのは、このように無理を押し通そうしたことに対して、天罰が下ったのだと思っています。言われているほどには、私は評価していません。この二人は、元々、壊すことはできても、新しいものを創り出す調整能力には欠けていたのではないでしょうか?慶喜公に新政府に入って頂ければ、もっと違った明治政府になったかもしれないと大変残念な気持ちです。なので、私的には、その残念な所は見たくないので「ナレ鳥羽だけ」でも全然OKです。
鳥羽伏見で敗走してきた仲間を見て、大坂城内は主戦論が圧倒的になり、将軍が戦わずに帰るとは、絶対に言えない状況だったんじゃ…。特に大坂城兵は、前将軍の無念の死を間近にしたばかりなので、かなりの動揺と悲憤の中にいたと思います。ここを出るためには、一世一代の大ボラを吹いて、兵を安堵させるしかないと。一方で、首脳級を一人でも残すと、兵に神輿にされて戦争になるから全員連行すると。ところで、首脳陣が巨城の中心から、兵に気づかれずに脱出できたり、大坂城はその後、謎の失火が発生して大半が焼失するなど、かなり統率がとれている(城を捨てる時は、使われないように城を焼くのが決まり。長州に攻められた小倉城も)ので、[逃げる計画]はかなり以前から綿密に準備していたのだろうな、と感じる事件です。大坂城は徳川にとっては出城なので、攻められた際の避難マニュアルが昔からあったのかも知れませんね。
今回の動画、かなり楽しく見させて頂いただに!Mr.武士道殿、これからも楽しみに拝見させて頂くだべ!
大政奉還後の慶喜の不可解な行動について、渋沢栄一が真実を知ろうと(海外にいた間の出来事なので)ずっと後になって慶喜に直接聞き取りをしましたが、慶喜の答えもかなりあいまいだったそうですね(年のせいもあるでしょうが)。「青天を衝け」で二人の対談場面が出てくれば面白いですが、たぶんないでしょうね。
こんにちは!それ、私も期待しているのですが…ないでしょうね
公式ガイドを見るとあるようです。しかしながら慶喜は栄一の問にも決して答えなかった、とありました。
@@佐々木和人-m7i さんおはよう御座います!渋沢栄一は、徳川慶喜にとっては信頼おける人間だから本音を語ってもいいはずなんですが…慶喜自身、口の固い人物だったと見てとれますね それだけ、慶喜にとっては思い出したくなかったのでしょうねぇ『連載終了漫画家・徳永サトシ』を検索して見て下さい漫画で、徳川慶喜の事を紹介してあります 漫画だけど、勉強にはなりました
最初のタイトルを叫ぶところは、あっちゃんのオマージュですよね・・。ちと、声量を落として頂けると、助かりますデス・・
たんに、怖いから逃げたに一票。逃げる時でさえ、ウナギが食いたいだの、刺し身が食いたいだの、家臣に命じていることから、緊張感のカケラもない。
慶喜の意思に反して鳥羽・伏見の戦いがはじまった、戦端の旧幕府軍はあくまで護衛目的だったとのことですが、「西郷の江戸に不逞浪士を放った挑発に対して、高まる「薩摩討つべし」の声を抑えられずに慶喜は開戦を決意」というようによく説明されるかと思います。鳥羽・伏見の戦いのWikipediaにも「慶喜は武力を背景に朝廷を威圧し、京都の新政権と交渉を続けていくつもりであったが、ついに主戦派を抑えきれなくなり、慶応4年(1868年)元日、「討薩表」を発し、朝廷への訴えと薩摩勢討滅のため、2日から3日にかけて京都へ向け近代装備を擁する約1万5千の軍勢を進軍させた」とあります。「討薩表」が元旦、鳥羽での戦端は1月3日とされています。このあたり、事実関係のご認識はいかがでしょうか。もし、参照された資料などご教示いただけましたら幸いです。
言いたいことはわかるがそんな厳しく言わんでも・・・(笑)
横やり入れてすみません。Wikipediaによると、慶喜さんは、天皇の側の奸臣を除くための軍事行動」として「討薩表」を発信し軍を京都に動かしたものの、「旧幕府軍としては、薩摩藩との戦闘は入京後に行うという認識であり、入京するまでは平穏に行軍するよう命令されていた」とのことです。おそらく、朝廷へ訴えて承諾を受けた後で戦うつもりだったと思います。なお、鳥羽伏見での揉め事→戦いまでの流れは、Mr.武士道さんの説明の通りです。
@@toshinoribeck Wikipediaの記載いただいた部分も目を通して上のように書きましたが、確かにWikipediaの内容でも戦闘開始のタイミングについては「慶喜の意思に反して」おり、わかりにくかったですね。ただ動画は、慶喜は戦うつもりがなかったのに薩長から仕掛けられて戦いが始まってしまった、との(慶喜への同情を促すような)論調ではなかったでしょうか。繰り返しになりますがWikipediaの内容では慶喜はすでに「討薩表」を発し軍隊を編成して京都に向かわせていますので、基本的な認識が異なるように感じました。(戦闘開始の時点でもはや進軍中だったのであり、戦いはすでにはじまっていたとも言えるかと思います。慶喜は戦いを有利に始めるために、もしくはひょっとしたら戦にはせずに政治により目的を果たす選択肢も念頭にあったのかもしれませんが、少なくとも戦う用意をした上で、戦闘をせずに兵を京都まで進めてしまおうとし、それが失敗したわけです。戦術上の失策に過ぎません。慶喜に心情的に荷担しようとするための材料としては厳しいように思います)
@@morokesoify ただ鳥羽伏見の戦いの時点では、戦いの用意をしていなかったというのは、Wikipediaに記載されている通りです。多分動画の説明は、鳥羽伏見の戦いの流れから推測されたのだと思いますが、現在残っている資料に基づいたWikipediaの記載と異なっているのは同意見です。ただ、戦いの準備をしていたというとWikipediaの記述と少し違う気がします。Wikipediaの資料から考えると、奸臣を取り除く戦いを意思表示する→入京する(朝廷の許可を得るまでは戦いをしないよう念押ししていたので、銃に弾をこめたりとか何もしなかった)→朝廷に直訴して薩摩を取り除く戦いの許可を得る→薩摩に戦争をすると考えていたと思われます。要は「筋を通してから」薩摩と戦うと考えていたのでしょう。なぜそう考えていたのかは、色々意見があると思いますが、もしかすると薩摩長州が新政府の中枢ではないと誤認されていたかもしれません(推測ですが)。今の私たちからすると、なんで?と思うかもしれませんが、当時はそこまで情報が行き届いていなかった可能性があります。
@@toshinoribeck >鳥羽伏見の戦いの時点では、戦いの用意をしていなかったというのは、Wikipediaに記載されている通りです。「歩兵隊は銃に弾丸を込めてさえおらず」あたりの記載のことをおっしゃっていますかね。もちろんこの時の状況について「戦いの用意をしていなかった」という言い方は可能かと思います。一方で討薩をかかげての京への派兵は軍事行動そのものですから慶喜が「戦いの用意をしていた」と言ってもまた正しいはずです。まあ表現上のことかなと思います。>動画の説明は、鳥羽伏見の戦いの流れから推測されたのだと思いますが、現在残っている資料に基づいたWikipediaの記載と異なっているのは同意見です。動画の内容がWikipediaの記載と異なっていることについては同意見とのお言葉をもらえましたので安心しました。おっしゃるように慶喜は筋を通そうとしたのかもしれませんね。慶喜は戊辰戦争を京で開戦しようとはしていましたが、水戸学伝統の尊王心は確かに慶喜の行動原理のひとつだったと思える場面がいくつかあった気がします。たびたび天皇以外の味方への根回しを欠く政治手法は「性格悪そう」という感想を禁じえませんが、慶喜が幕末を左右した傑物であったことは間違いなく、魅力的な人物だと思います。
いつも拝見しております😃幕末史は、戦国と違って複雑なんで理解しきれてなかったですが、今回の大河と武士道さんの解説で再びはまってます。草彅剛の慶喜も良いですね!吉沢君はまだまだこれからなんで、堤真一亡き今、草彅君にかかってます。(*´∀`)♪渋沢は超長生きなんで、今度こそ慶喜の最晩年まで描いてくれることを期待してます♪過去の慶喜では、八重の桜の小泉孝太郎が好きですね。
意外と忘れられがちなのが禁裏御守衛総督時代禁門の変が勃発した時には前線で防衛戦を指揮していたこと(将軍としては二代目の秀忠以来の実戦経験者)やっぱりあえて戦わなかったんでしょうね
何が幸せかわかりませんが逃げた慶喜、長州の桂は明治の文明開化の日本で優雅な生活をして寿命を全うしました。
こんにちは!桂小五郎は、心血管障害により、43歳で死去したけど…徳川慶喜は、77歳で天寿を全うしましたよね狩りの他、写真撮影、釣り、自転車、顕微鏡、油絵など趣味に興じた人生を送られていますもんね
@@島津つむぎ 木戸孝允はガンだったという説もありますね。岩倉卿はガンでしたが。
@@giantnioinoba さんこんばんは!Wikipediaで調べた所、桂小五郎の死亡は、大腸癌だったようです 私の持っている本には、心血管障害と書いてあったもので…失礼いたしました
西欧列強の植民地の時代の事を思えば、内戦を長引かせなかった事は上に立つ者としは正しかった
逃亡前日に徹底抗戦の大演説をしたそうですし、幕府軍殲滅作戦としか思えません。
慶喜は足利尊氏になりたくなかったからでは。
それ、大河「新選組!」の慶喜のセリフでありましたよ。
長州征伐は止めるべきではなかった。徳川の為にも、その後の日本の為にも。
徳川ナショナリストって"たられば"しか話せないの?
Voicyやめちゃったんですか?
薩長って現代の横文字を使えば、単なるテロリストだったんだな
イギリスフランスの野望
内容はいいけど、話し方が落ち着きが無いから聞き取りづらいのが残念😓
やはり幕府軍の戦死者も靖国神社な祀るべきだよ。
いざとなったら幕府じゃなくて朝廷につけって昔から言われ続けてきたんだから、朝敵として戦えんよ。
水戸学のせいかもな?
幕府軍と新政府軍の口論がこわ
第二次征伐で長州に完敗してる時点で。薩長同盟は1位2位連合みたいなものだから、恭順が正しいと思う。列藩同盟みたいに北海道うることを企むよりははるかに優れた選択
「青天」でこの「鳥羽・伏見」がどう描かれるのか気になっています。ここまでは「とにかく戦いたくない慶喜」ですが(今は国内で戦っている場合ではないという意味で)。あくまでパリ目線がメインでしょうが、まさか「ナレ鳥羽だけ」って事もないでしょうし。あれ?イチコメ?
「手紙鳥羽」でしたね。まあ次回回想シーンという形でやるのでしょうが。
水戸家出身だからってのを、考察すべき?、家康君以降のって、家を建てた息子君の中で、家康君の方針なのか、尊皇傾向に有ったらしいですね。敵対したら、逃げがちだった、
これ長年疑問に思ってたんだけど、慶喜が逃げたのは勝手に戦をはじめて折角の計画をちゃぶ台にされた怒りだと思ってるそんなに戦がしたけりゃお前ら死ぬまでやってろと
新撰組、会津藩が大好きです尊皇だったからという理由があったとはいえ逃げないで欲しかったし幕府のために尽くした会津が薩長の怒りの矛先になり沢山の命が奪われた事が本当に悲しい。どんな理由があろうと慶喜だけは許せない思いです。
👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍
話下手で頭に入ってこん
歴史に興味がなかったのだけど、水戸にルーツを持ち、会津で暮らしたこともある私は、青天を衝けと武士道さんの動画で勉強し、薩長が大嫌いになりました(-_-;)
会桑がかわいそうでならない
よしのぶマジで草まぁ頭のキレる人というから、保身だけでなく色んな事情があるんだろうけど。とはいえあれだけ啖呵きっといて自分だけ退散はないだろ。おもろすぎる。関ヶ原といい、鳥羽伏見といい、日本の歴史は今ひとつ盛り上がりに欠けるよな。正々堂々やりあってほしいわ😅
関ヶ原の小早川秀秋。鳥羽伏見の徳川慶喜。
当時の江戸庶民のように薩摩長洲の田舎侍は嫌いだ
あまりにも会津観光史学的発想の内容
徳川家の恥晒しが戦死した幕臣にあの世で謝れ
本当にわかりやすい解説ありがとうございます😊
私は鹿児島生まれで、西郷さんも大久保さんも、好きですけど、晴天を衝けの影響で、徳川慶喜さんも最近とても好きです。苦渋の選択だったんじゃないかと思ってしまいます。majgihimaさんのおっしゃる通り、様々な人々の生き方を更に知って、学ぶところや感じることも多いです。
武士道さん、ありがとうございます😊
みみこさん
人っていろんな性格あるし、青天の慶喜は苦悩が良く分かって私も好きです❗でも、誰もが好きって感じては、無いような💦
腹のうちをあまり見せないイメージです。ホントのところはわからないけど西郷さんみたいな、この人に付いて行こうと、言う感じでは無いような…。
@@聖子-o7o 専門家でも評価が割れると聞きます。西郷は信頼たる資料が乏しくその実像が分からない。一方、慶喜は残された文書や本人写真など一次資料が充実しているにもかかわらず、結局どんな人だったか分からない・笑。
そこがいちばん気になってた!!
ありがとうございます。
英明と言われた慶喜が大阪城から密かに逃げた事は昔から不思議でした。残された家来たちは「えーっ💢」て思いますよね!理解できないところです。でも、やはり彼なりに自分を貫いて明治を生きた事は立派です。
慶喜が開陽丸に乗り込む際、イギリス船(兵庫開港に備えて来てた)に立ち寄っているんですねえ。仲介を頼んだのかも。
逃げたことを批判する人達がいるけど、むしろ戦ってどうすんのよ。
何になるの?国家的にマイナスになるだけでしょ。
徳川慶喜は戦うなって言ってんだし。
もし悪い方をあげるなら、戦を仕掛けた薩長側でしょ。
歴史って勝者が歴史を作り都合の良いように書き換えるからな、、、
Mr.武士道様🌹🌿
いつも有り難うございます。
「徳川慶喜、敵前逃亡説」に関しては、高校の日本史で学んだ記憶が有ります。ただ、講師の説明曰く「卑怯者」的な意味合いが強く、当時は慶喜の人間性については余り好意的な印象を、私自身持つには至らなかったと記憶しています…
今回の武士道さんの解説で、「止むに止まれず〜耐え難きを耐え〜」と言った慶喜の心情を大変理解するに至りました〜
唯、残念ながら 残された旧幕府軍の家臣達は、無念の想いで自らの命を落とさざるを得なかったで在ろうと、悲哀の念が湧きました。
この動画配信に改めてお礼申し上げます。今後も引き続き宜しくお願い致します。
季節の変わり目、武士道様並びにスタッフ皆様ご自愛下さい🌹🌿
慶喜が戦う気がないのはいいけど、だったら大阪城に留まって薩長ときちんと停戦交渉するべきだった。
姫路藩とかその後えぐい。
情報ありがとうございます😊
逃亡の理由が「朝敵ではないという意思表示」であったにせよ
それをその時皆に(敵にも味方にも)伝えなければ、意味が無いですよね。
それを大々的にアピールすれば良かったんですよ。
逃げた事よりも、その意思(理由)を伝えなかったことが慶喜の「しくじり」かなぁと個人的には思います。
それにしても、ここまでして戦争に導いて天下をつかみ取った西郷と大久保、そして薩摩武士たち・・・
しかし彼らが迎えたその末路は・・・という感じですかね。
結果的には長州だけが一人勝ちになったようなものですよね。
歴代の総理大臣を見ても長州側の生き残りや長州地方の人達ばかりですし…。
会津藩と所縁のある地域の生まれの私には旧会津藩等の人達の子孫が未だに靖国神社への薩長との合祀を拒否し続ける気持ちは理解できます。
今度また是非鳥羽伏見の戦いについて詳細な動画上げて欲しいです‼️
こんばんは!武士道さん
『徳川慶喜は、何故、逃げたのか?』の解説、有り難う御座います
秋葉すえみつさんと同じ意見になりますが…水戸学は、天皇への忠誠を重んじていますよね
父親である徳川斉昭から『尊皇思想』を学んだ慶喜にとっては、朝廷との対立は望む事ではなかったと思うのです それに、母親の吉子は有栖川宮家の出身で、有栖川織仁親王の外孫にあたるから『錦の卸旗』を見た途端に逃げたのではないでしょうかねぇ?この当時の将軍が水戸藩以外であれば、また状況は違っていたかもですね
『鳥羽・伏見の戦い』…青天を衝けでは、どの様に描かれるものでしょうね
『鳥羽・伏見の戦い』の原因、本を読むより、動画の方が解りやすいですね
ドラマを見ていて、最近、慶喜の矛盾した行動が分かったような気がする。それは、もう将軍の
権威もないのでどうしても戦いたい家来は戦わせて、最小限の被害で終わらせようとしたのでは
ないかということ。また、自害するより蟄居謹慎した方が分かってくれる家来もいると考えたの
ではないか。
このとき持参した討薩の表は「薩摩藩の責任者を引き渡さないなら止むを得ず誅戮する」という最後通牒のような内容なので「単に上洛したかっただけ」とは言えないように思います。
ただ、きちんと作戦計画を練っておらず漫然と大軍を向かわせればなんとかなるという姿勢ではありましたし、臨戦態勢の欠如が敗因だとは思います。
慶喜を補佐する側近が暗殺されてなかったら違ってたかも、でも長引く内戦は避けたかったはずだから慶喜が逃げた事が良い結果に繋がったと思う。
どこがなん?
そのせいで会津若松の女子供はほぼ集団自決しましたよ。
理由はどうあれ、部下の将兵たちを置き去りにしたのは、時代や状況に関係なく人としてどうなのよ?な感想はどうしても残る
ご本人があの判断でよかったと回想してるので、現代人がどうこう言っても逃げるでしょう
この時の天皇は孝明天皇は亡くなられて、幼少の明治天皇じゃなかったかな。こうなっては岩倉、三条、長州、薩摩に実権を握られていて徳川方の言い分は、聞いてもらえない状況になってからじゃないかな。江戸に退却して体制を立て直してから、どうするか考えるしかなかったのだろう。結局、内戦を避けて全面降伏する結論に至ったのだろう。そうしなければイギリス、フランスも参戦して、中国清の二の舞になることがハッキリしていた。慶喜の先を読む力が優れていた。
いつも丁寧な解説をして頂き、学ばせて頂けて、有り難うございます。楽しみに見させて頂いております。
あくまで私見ですが、慶喜公としても、薩長の狙いが、手段を択ばず、自分を殺すこととわかったので、調整で済むことではないと判断し、逃げざるを得なかったのではないでしょうか。
西郷も大久保利通も良い死に方をしなかったのは、このように無理を押し通そうしたことに対して、天罰が下ったのだと思っています。言われているほどには、私は評価していません。
この二人は、元々、壊すことはできても、新しいものを創り出す調整能力には欠けていたのではないでしょうか?
慶喜公に新政府に入って頂ければ、もっと違った明治政府になったかもしれないと大変残念な気持ちです。
なので、私的には、その残念な所は見たくないので「ナレ鳥羽だけ」でも全然OKです。
鳥羽伏見で敗走してきた仲間を見て、大坂城内は主戦論が圧倒的になり、将軍が戦わずに帰るとは、絶対に言えない状況だったんじゃ…。
特に大坂城兵は、前将軍の無念の死を間近にしたばかりなので、かなりの動揺と悲憤の中にいたと思います。
ここを出るためには、一世一代の大ボラを吹いて、兵を安堵させるしかないと。
一方で、首脳級を一人でも残すと、兵に神輿にされて戦争になるから全員連行すると。
ところで、首脳陣が巨城の中心から、兵に気づかれずに脱出できたり、大坂城はその後、謎の失火が発生して大半が焼失するなど、かなり統率がとれている(城を捨てる時は、使われないように城を焼くのが決まり。長州に攻められた小倉城も)ので、[逃げる計画]はかなり以前から綿密に準備していたのだろうな、と感じる事件です。
大坂城は徳川にとっては出城なので、攻められた際の避難マニュアルが昔からあったのかも知れませんね。
今回の動画、かなり楽しく見させて頂いただに!Mr.武士道殿、これからも楽しみに拝見させて頂くだべ!
大政奉還後の慶喜の不可解な行動について、渋沢栄一が真実を知ろうと(海外にいた間の出来事なので)ずっと後になって慶喜に直接聞き取りをしましたが、慶喜の答えもかなりあいまいだったそうですね(年のせいもあるでしょうが)。
「青天を衝け」で二人の対談場面が出てくれば面白いですが、たぶんないでしょうね。
こんにちは!それ、私も期待しているのですが…ないでしょうね
公式ガイドを見るとあるようです。しかしながら慶喜は栄一の問にも決して答えなかった、とありました。
@@佐々木和人-m7i さん
おはよう御座います!渋沢栄一は、徳川慶喜にとっては信頼おける人間だから本音を語ってもいいはずなんですが…慶喜自身、口の固い人物だったと見てとれますね それだけ、慶喜にとっては思い出したくなかったのでしょうねぇ
『連載終了漫画家・徳永サトシ』を検索して見て下さい
漫画で、徳川慶喜の事を紹介してあります 漫画だけど、勉強にはなりました
最初のタイトルを叫ぶところは、あっちゃんのオマージュですよね・・。ちと、声量を落として頂けると、助かりますデス・・
たんに、怖いから逃げたに一票。
逃げる時でさえ、ウナギが食いたいだの、刺し身が食いたいだの、家臣に命じていることから、緊張感のカケラもない。
慶喜の意思に反して鳥羽・伏見の戦いがはじまった、戦端の旧幕府軍はあくまで護衛目的だったとのことですが、「西郷の江戸に不逞浪士を放った挑発に対して、高まる「薩摩討つべし」の声を抑えられずに慶喜は開戦を決意」というようによく説明されるかと思います。
鳥羽・伏見の戦いのWikipediaにも「慶喜は武力を背景に朝廷を威圧し、京都の新政権と交渉を続けていくつもりであったが、ついに主戦派を抑えきれなくなり、慶応4年(1868年)元日、「討薩表」を発し、朝廷への訴えと薩摩勢討滅のため、2日から3日にかけて京都へ向け近代装備を擁する約1万5千の軍勢を進軍させた」とあります。
「討薩表」が元旦、鳥羽での戦端は1月3日とされています。
このあたり、事実関係のご認識はいかがでしょうか。もし、参照された資料などご教示いただけましたら幸いです。
言いたいことはわかるがそんな厳しく言わんでも・・・(笑)
横やり入れてすみません。Wikipediaによると、慶喜さんは、天皇の側の奸臣を除くための軍事行動」として「討薩表」を発信し軍を京都に動かしたものの、「旧幕府軍としては、薩摩藩との戦闘は入京後に行うという認識であり、入京するまでは平穏に行軍するよう命令されていた」とのことです。おそらく、朝廷へ訴えて承諾を受けた後で戦うつもりだったと思います。なお、鳥羽伏見での揉め事→戦いまでの流れは、Mr.武士道さんの説明の通りです。
@@toshinoribeck Wikipediaの記載いただいた部分も目を通して上のように書きましたが、確かにWikipediaの内容でも戦闘開始のタイミングについては「慶喜の意思に反して」おり、わかりにくかったですね。
ただ動画は、慶喜は戦うつもりがなかったのに薩長から仕掛けられて戦いが始まってしまった、との(慶喜への同情を促すような)論調ではなかったでしょうか。
繰り返しになりますがWikipediaの内容では慶喜はすでに「討薩表」を発し軍隊を編成して京都に向かわせていますので、基本的な認識が異なるように感じました。
(戦闘開始の時点でもはや進軍中だったのであり、戦いはすでにはじまっていたとも言えるかと思います。慶喜は戦いを有利に始めるために、もしくはひょっとしたら戦にはせずに政治により目的を果たす選択肢も念頭にあったのかもしれませんが、少なくとも戦う用意をした上で、戦闘をせずに兵を京都まで進めてしまおうとし、それが失敗したわけです。戦術上の失策に過ぎません。慶喜に心情的に荷担しようとするための材料としては厳しいように思います)
@@morokesoify ただ鳥羽伏見の戦いの時点では、戦いの用意をしていなかったというのは、Wikipediaに記載されている通りです。
多分動画の説明は、鳥羽伏見の戦いの流れから推測されたのだと思いますが、現在残っている資料に基づいたWikipediaの記載と異なっているのは同意見です。ただ、戦いの準備をしていたというとWikipediaの記述と少し違う気がします。Wikipediaの資料から考えると、奸臣を取り除く戦いを意思表示する→入京する(朝廷の許可を得るまでは戦いをしないよう念押ししていたので、銃に弾をこめたりとか何もしなかった)→朝廷に直訴して薩摩を取り除く戦いの許可を得る→薩摩に戦争をすると考えていたと思われます。要は「筋を通してから」薩摩と戦うと考えていたのでしょう。なぜそう考えていたのかは、色々意見があると思いますが、もしかすると薩摩長州が新政府の中枢ではないと誤認されていたかもしれません(推測ですが)。今の私たちからすると、なんで?と思うかもしれませんが、当時はそこまで情報が行き届いていなかった可能性があります。
@@toshinoribeck
>鳥羽伏見の戦いの時点では、戦いの用意をしていなかったというのは、Wikipediaに記載されている通りです。
「歩兵隊は銃に弾丸を込めてさえおらず」あたりの記載のことをおっしゃっていますかね。もちろんこの時の状況について「戦いの用意をしていなかった」という言い方は可能かと思います。
一方で討薩をかかげての京への派兵は軍事行動そのものですから慶喜が「戦いの用意をしていた」と言ってもまた正しいはずです。
まあ表現上のことかなと思います。
>動画の説明は、鳥羽伏見の戦いの流れから推測されたのだと思いますが、現在残っている資料に基づいたWikipediaの記載と異なっているのは同意見です。
動画の内容がWikipediaの記載と異なっていることについては同意見とのお言葉をもらえましたので安心しました。
おっしゃるように慶喜は筋を通そうとしたのかもしれませんね。
慶喜は戊辰戦争を京で開戦しようとはしていましたが、水戸学伝統の尊王心は確かに慶喜の行動原理のひとつだったと思える場面がいくつかあった気がします。
たびたび天皇以外の味方への根回しを欠く政治手法は「性格悪そう」という感想を禁じえませんが、慶喜が幕末を左右した傑物であったことは間違いなく、魅力的な人物だと思います。
いつも拝見しております😃
幕末史は、戦国と違って複雑なんで
理解しきれてなかったですが、
今回の大河と武士道さんの解説で
再びはまってます。
草彅剛の慶喜も良いですね!
吉沢君はまだまだこれからなんで、
堤真一亡き今、草彅君にかかってます。(*´∀`)♪
渋沢は超長生きなんで、
今度こそ慶喜の最晩年まで描いてくれることを期待してます♪
過去の慶喜では、八重の桜の
小泉孝太郎が好きですね。
意外と忘れられがちなのが禁裏御守衛総督時代禁門の変が勃発した時には前線で防衛戦を指揮していたこと(将軍としては二代目の秀忠以来の実戦経験者)
やっぱりあえて戦わなかったんでしょうね
何が幸せかわかりませんが
逃げた慶喜、長州の桂は
明治の文明開化の日本で優雅な生活をして寿命を全うしました。
こんにちは!桂小五郎は、心血管障害により、43歳で死去したけど…徳川慶喜は、77歳で天寿を全うしましたよね
狩りの他、写真撮影、釣り、自転車、顕微鏡、油絵など趣味に興じた人生を送られていますもんね
@@島津つむぎ 木戸孝允はガンだったという説もありますね。岩倉卿はガンでしたが。
@@giantnioinoba さん
こんばんは!Wikipediaで調べた所、桂小五郎の死亡は、大腸癌だったようです 私の持っている本には、心血管障害と書いてあったもので…失礼いたしました
西欧列強の植民地の時代の事を思えば、内戦を長引かせなかった事は上に立つ者としは正しかった
逃亡前日に徹底抗戦の大演説をしたそうですし、幕府軍殲滅作戦としか思えません。
慶喜は足利尊氏になりたくなかったからでは。
それ、大河「新選組!」の慶喜のセリフでありましたよ。
長州征伐は止めるべきではなかった。
徳川の為にも、その後の日本の為にも。
徳川ナショナリストって"たられば"しか話せないの?
Voicyやめちゃったんですか?
薩長って現代の横文字を使えば、
単なるテロリストだったんだな
イギリスフランスの野望
内容はいいけど、話し方が落ち着きが無いから聞き取りづらいのが残念😓
やはり幕府軍の戦死者も靖国神社な祀るべきだよ。
いざとなったら幕府じゃなくて朝廷につけって昔から言われ続けてきたんだから、朝敵として戦えんよ。
水戸学のせいかもな?
幕府軍と新政府軍の口論がこわ
第二次征伐で長州に完敗してる時点で。薩長同盟は1位2位連合みたいなものだから、恭順が正しいと思う。
列藩同盟みたいに北海道うることを企むよりははるかに優れた選択
「青天」でこの「鳥羽・伏見」がどう描かれるのか気になっています。ここまでは「とにかく戦いたくない慶喜」ですが(今は国内で戦っている場合ではないという意味で)。あくまでパリ目線がメインでしょうが、まさか「ナレ鳥羽だけ」って事もないでしょうし。あれ?イチコメ?
「手紙鳥羽」でしたね。まあ次回回想シーンという形でやるのでしょうが。
水戸家出身だからってのを、考察すべき?、家康君以降のって、家を建てた息子君の中で、家康君の方針なのか、尊皇傾向に有ったらしいですね。敵対したら、逃げがちだった、
これ長年疑問に思ってたんだけど、
慶喜が逃げたのは勝手に戦をはじめて折角の計画をちゃぶ台にされた怒りだと思ってる
そんなに戦がしたけりゃお前ら死ぬまでやってろと
新撰組、会津藩が大好きです
尊皇だったからという理由があったとはいえ逃げないで欲しかったし
幕府のために尽くした会津が薩長の怒りの矛先になり
沢山の命が奪われた事が本当に悲しい。
どんな理由があろうと慶喜だけは許せない思いです。
👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍
話下手で頭に入ってこん
歴史に興味がなかったのだけど、水戸にルーツを持ち、会津で暮らしたこともある私は、青天を衝けと武士道さんの動画で勉強し、薩長が大嫌いになりました(-_-;)
会桑がかわいそうでならない
よしのぶマジで草
まぁ頭のキレる人というから、保身だけでなく色んな事情があるんだろうけど。とはいえあれだけ啖呵きっといて自分だけ退散はないだろ。おもろすぎる。
関ヶ原といい、鳥羽伏見といい、日本の歴史は今ひとつ盛り上がりに欠けるよな。正々堂々やりあってほしいわ😅
関ヶ原の小早川秀秋。鳥羽伏見の徳川慶喜。
当時の江戸庶民のように薩摩長洲の田舎侍は嫌いだ
あまりにも会津観光史学的発想の内容
徳川家の恥晒しが
戦死した幕臣にあの世で謝れ