【ゆっくり解説】関ヶ原の裏切り者...小早川秀秋が迎えた最悪な最期!!!

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  • Опубліковано 7 січ 2025

КОМЕНТАРІ •

  • @たきなか-p8c
    @たきなか-p8c 6 місяців тому +8

    三成や光秀は再評価やらいろんな三成像や光秀像が出てくるんだけど
    この人は一生優柔不断の小早川像だよな

    • @samoed-lk7hp
      @samoed-lk7hp 4 місяці тому

      その2人は歴史の敗北者だから過剰に貶められてきたけど、小早川秀秋は別にそんな経緯も無いから再評価するほど評価が歪んで無いとかあるのかね

  • @daisuke7199
    @daisuke7199 6 місяців тому +3

    25:44 秀秋所用の陣羽織というと「猩々緋羅紗地違い鎌模様陣羽織」が有名ですが、こちらは知りませんでした。あと、その横に写ってる甲冑も秀秋所用らしいですね。岐阜関ケ原古戦場記念館で上映しているシアターでは、さすがに問鉄砲はありませんでしたが、合戦が始まった後家康を恐れて裏切ったみたいに描かれてましたね

  • @matukawatositane
    @matukawatositane 6 місяців тому +30

    単純に酒の飲み過ぎ感はある

    • @もふもふ-x4p
      @もふもふ-x4p 6 місяців тому

      子供の頃から飲んでたもんね

    • @yh6146
      @yh6146 6 місяців тому +1

      同じく幼少から飲酒の福沢諭吉は老年まで生きた。

    • @55tg
      @55tg 6 місяців тому +3

      足利義尚と同じ様に単純に急性アルコール中毒ですよね。

    • @matukawatositane
      @matukawatositane 6 місяців тому +3

      @@yh6146 閾値は一人一人違うのに他に幼少から呑んでて死んでない人がいるからなんなん?

  • @もふもふ-x4p
    @もふもふ-x4p 6 місяців тому +13

    裏切りと言うか東軍加担は必然なんだけどね…
    三成の告げ口で切腹させられそうになるし
    その時に家康が助けてくれたけど
    そしていざとなったら三成に味方してくれって頼まれても
    秀秋にしてみたら はぁ?ってなるよな

    • @yh6146
      @yh6146 6 місяців тому +3

      前田慶次かぶき旅の回想シーンでは三成の親戚の目付が上から目線で嫌な奴で加藤清正を見殺しにしようとしたから秀秋が処罰覚悟で援軍を出した。

  • @松ちゃん工房
    @松ちゃん工房 6 місяців тому +16

    まあ、若年性アル中でしたからね。

  • @図流井
    @図流井 6 місяців тому +7

    史上最年少アル中www
    肖像画の顔が何とも悲しそうな表情で、哀愁がにじみ出ている…

  • @いでたかゆき-r8i
    @いでたかゆき-r8i 6 місяців тому +15

    小早川秀秋は7才のころから酒を飲まされていました

  • @nichirowar
    @nichirowar 6 місяців тому +5

    秀頼成人まで関白になんて条件、義兄の秀次見てれば秀頼成人後出家か自害しろって言われてるようなもんだよ…

  • @yh6146
    @yh6146 6 місяців тому +4

    前田慶次かぶき旅の15巻収録の60話から秀秋の話。先月発売のコミックゼノン収録の65話の最後のページで慶次達に会った1年後に亡くなった。この時には秀詮と改名していてかなりイケメンに描かれていた。

  • @yh6146
    @yh6146 6 місяців тому +6

    7:49 この養女は毛利元就の長女の孫。だから一応毛利の血筋。

  • @林直樹-u8q
    @林直樹-u8q 6 місяців тому +6

    家康が天下人になれた陰の立て役者とも言えるかもしれませんが、やったことを考えると西軍だった者たちの怨念で呪い殺されたというのも、あながち当てはまってるようにも思えますね。仮にそれなりに長く生きたとしても、家自体は加藤や福島のように、何らかの難癖を付けられて取り潰されていた可能性が高いような気もしますね。

  • @sugisinfkk
    @sugisinfkk 6 місяців тому +8

    別に裏切りではないが

  • @山田有鮮
    @山田有鮮 6 місяців тому +6

    まあ、単純に生き残りのためって割り切れればよかったんだろうけどね。戦国時代に生きるには、優しすぎたのかな

  • @nh-hs6yq
    @nh-hs6yq 6 місяців тому +5

    隆景さんは本家のために進んで養子として迎え入れたんでしょうね。
    毛利・吉川は関ケ原で動かず小早川や小川・赤座などが動いたってところは、毛利本家まわりと小早川では取り込まれ方が違っていたのかな。

    • @SuperPi3.14
      @SuperPi3.14 6 місяців тому +1

      東軍有利なら小早川が動き、西軍有利なら毛利が動く戦略だったりして?

  • @MAME-NO-SUKE
    @MAME-NO-SUKE 6 місяців тому +4

    当時はどんなお酒があったのか気になる。

  • @ryousukekanazawa5284
    @ryousukekanazawa5284 5 місяців тому +2

    理由は何気に大谷吉継の亡霊と思いたい😸

  • @アメアメフレフレ
    @アメアメフレフレ 6 місяців тому +2

    西軍についたというよりは周辺の大勢力である毛利に従っただろうな。一応は毛利一族の小早川当主でもあるし。

  • @mocchi2643
    @mocchi2643 6 місяців тому +2

    因みに小早川秀秋に附けられた家老二人の内、稲葉正成は1601年に出奔したけど平岡頼勝は最後まで仕えていた。

    • @yh6146
      @yh6146 6 місяців тому

      大河ドラマ春日局では別の重臣が上意討ちになったのを外出先から城に戻らず屋敷に帰宅して聞いて危険を感じて家族と家臣を連れて隣の藩に出奔した。

  • @通りすがりの赤い人
    @通りすがりの赤い人 2 місяці тому

    秀秋は宇喜田秀家に含むところがあり、関ヶ原の戦功で得た備前美作は自身が望んだという話がある。

  • @藤寅-v5q
    @藤寅-v5q 6 місяців тому +1

    よく出るお馴染みの画像は、子供時代の頃に描かれたらしい。成人した頃の画像もあるが、菩提寺が、あまり見せたりしない為に殆ど知られていない。

  • @show_kazitani
    @show_kazitani 6 місяців тому +3

    ま、そりゃあ木下(豊臣)一族でもない秀頼に家督が行くんだからなぁ、、

  • @レスター-d6t
    @レスター-d6t 5 місяців тому +2

    西軍にとって小早川の裏切りは折り込み済みで直接の敗因は小早川の押さえ込みとして配置した三人の武将が裏切りにある

  • @大坂智義
    @大坂智義 5 місяців тому

    飲酒だけではないだろう。10代の頃から朝鮮出兵と豊臣政権内のゴタゴタと
    秀吉自身にも振り回され続けて精神的にもおかしくなっていたと思います。

  • @村田康一-y4k
    @村田康一-y4k 6 місяців тому +26

    石田三成が秀吉に金吾中納言のことを悪く言い、そのせいで、減封処分にされ、恨んでいたし、その減らされた領地を家康が元に戻してくれたので、恩がある、恨み骨髄の三成が主導する西軍につくなんてことは、到底ありえない

    • @危険なあんこ
      @危険なあんこ 6 місяців тому +10

      感情的に自分に恨みを持っている可能性がある人物を味方に引き込むあたりが、石田三成の戦のセンスがないってことだと思う。

    • @まかいチャンネル
      @まかいチャンネル 6 місяців тому +6

      石田三成が秀秋の事を悪く言うってどの事を言ってるの?
      あとちゃんと動画見た?家康が領地戻してくれたってって言うけど、これは秀吉の遺命によって決められているよ。これは毛利家文書にも残ってる。

    • @九万聖
      @九万聖 5 місяців тому

      @@まかいチャンネル
      朝鮮出兵の際のことを言っていると思われる。
      「総大将自ら敵に突っ込むとは何事か!」と、叱責されたとの説とその報告書のことじゃないのかな?その報告書が残っているかどうかは知らないけど。

    • @まかいチャンネル
      @まかいチャンネル 5 місяців тому +1

      @@九万聖マジか!だとしたらコメ主は本当に動画見てないな。
      動画内でもその時の戦に秀秋は参戦してない。帰国してたって話してたからその事を言ってるとは思わなんだ笑

    • @susa2439
      @susa2439 5 місяців тому +1

      治部はクソ真面目にそのままを伝えただけだから(震え声)
      そのせいで角が立つことも多かったが

  • @moipa808
    @moipa808 6 місяців тому +2

    山口ってどんだけ有能なんだ

  • @TReizei
    @TReizei 6 місяців тому +1

    23:37 アルコール中毒といったらアッティラの死因で本命視されても居ますわな。(暗殺説も根強いけど。)
    2chで広まってる「新妻との初夜でコトに至ろうとして止まらないレベルの鼻血を出した」がよく知られているけど、
    近年イギリスの法医学者が出した新説「鼻血ではなく下血だったのでは?」って見解が注目されてますわ。
    何処かで読んだけど「アル中患者が救急車で運ばれる例の約15%が消化器のダメージによる下血」ともいいますし。

    • @通りすがりの赤い人
      @通りすがりの赤い人 2 місяці тому

      依存症レベルの過度の飲酒は消化器系統に相当のダメージいくからね。
      うちの父は食道静脈瘤破裂で洗面器一杯の血を吐いたことがある。

  • @森山大介-q9c
    @森山大介-q9c 6 місяців тому +1

    なぜ?子どもの時の自画像を教科書にずっと載せいるのかな?元服した後の自画像があるはずなのになぜなんだ

  • @NicoNicoDougaInmuCookieYajuSen
    @NicoNicoDougaInmuCookieYajuSen 5 місяців тому

    子供の頃からアル中だったし
    その後は朝鮮での戦いをずっとしてたから
    かなり激務の人生だよね

  • @たまうさ-s1j
    @たまうさ-s1j 6 місяців тому +6

    司馬遼太郎の『豊臣家の人びと』の中では名門毛利家に卑しい血を入れたくなかったから小早川隆景が涙を飲んで小早川が引き受けた、みたいに書かれていますね。

    • @sakurakaburagi8
      @sakurakaburagi8 6 місяців тому +1

      幼い頃から、変態じみていた。と司馬遼太郎氏には描かれていた。

    • @たまうさ-s1j
      @たまうさ-s1j 6 місяців тому

      @@sakurakaburagi8 さま
      覗きやったりとかね。

    • @yh6146
      @yh6146 6 місяців тому +1

      赤ちゃんの時には可愛かったから北政所は秀秋を養子にしたのに成長して可愛いげが無くなったからどんどん扱いが塩対応になった。しかも秀秋が亡くなった報告を聞いた時も塩対応だった。

  • @Kaito5327
    @Kaito5327 5 місяців тому

    叔母の夫が天下人・豊臣秀吉でなければ、秀秋の人生は穏やかなものだったのだろうか?

  • @massa88m
    @massa88m 5 місяців тому

    日本一の裏切り者として日本人に有名になった。

  • @conekeiba
    @conekeiba 6 місяців тому +1

    戦国時代のアル中カラカラ

  • @にらはね
    @にらはね 6 місяців тому +1

    ○因の候補が軒並み酷すぎる・・・

    • @yh6146
      @yh6146 6 місяців тому +3

      大河ドラマ春日局では一揆を起こした宇喜多の旧臣に殺された。

  • @satosin2660
    @satosin2660 5 місяців тому

    稲葉正成と子孫の生涯、面白いね。
    稲葉正成は出奔した小早川秀秋の死後、浪人になるけど、嫁が徳川家光の乳母になった関係で幕府に出仕、一万石の大名になる。
    ※嫁の春日局とは離婚
    その後、松平忠昌の附家老として二万石を有したが、1624年にまたもや出奔。
    息子の正勝が老中に昇進していたのにもかかわらず、幕府の命に背く行動を起こす。
    ※正勝は独立して別家を立てていたため、そのまま老中職を全う
    その後、三度大名に復帰し、死去。
    春日局との息子である正勝は、父の隠居を待たずに出仕し、旗本の身分のまま(5000石)老中となる。
    ※その後加増され大名となる
    10男である正吉は5000石の旗本であったが、男性関係のもつれで部下に殺害された。
    正吉の長男である正休は、父親の不祥事にも吹き飛ばすような活躍を見せ、7000石もの加増を受け1万2000石の大名になった。
    しかし若年寄であった1684年に、江戸城内で大老堀田正俊を暗殺し、自らもその場で殺された。
    なお、堀田正俊は稲葉正成の曾孫(正成の娘の孫)であり、堀田正俊自身、春日局の養子となる事で独立して大名となった人物であった。

  • @zakzak2097
    @zakzak2097 6 місяців тому +4

    小早川秀秋が裏切者?
    今の日本があるのは彼がいたからこそなんだけど。
    松尾山の山頂に行ったことがありますが1万5000の兵を率いて
    あの山頂から眺めていたら、そりゃ悩むだろうに
    関ヶ原が、戦場が一望できる場所でしたよ