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5万人行った時にやるって言ってた教科書よりちょっと詳しい日本史のコーナー期待してますよ!
小早川秀秋が後世で裏切り者として評されて、特にその酷評される場合の観点としては、当時の武将が最も嫌った「開戦後の寝返り行為」が大きかったと思う。この開戦後の寝返りについても本動画で紹介された決心がつかず動かなかった(家康の砲撃)、関ヶ原の戦い時点で重度の肝機能障害を患っていて行動が遅れた等の説がある。どちらにせよ現在は証拠となりうる資料がないため、決定的なことは分からないけど、秀秋の立場になったら朝鮮出兵に総大将として参加したのに、帰ってきたら減封されて、特に忠義を尽くす理由もないし、むしろ西軍大将の三成には確執があるぐらいだから寝返るのも分からなくはない。現代で例えるなら、会社に頼まれて海外出張行って帰ってきたら、給料減額されて役職も下げられたような感じ。そりゃ背きたくもなる。
小早川秀明は日本一の裏切り者ではなく、日本一の裏切られ者だと思う。
これだけの波乱万丈な人生を送ってきて最後にさらっと21歳で死んだという衝撃
しかもアル中だとか発狂死だとか死してなおボロクソ言われてるという…
北畠顕家と同じ年齢かよ
西軍陣営の武将は「利害がまるで一致してなかったし、ぶっちゃけ出陣の大義名分に乏しかった」ってのが大きかったんだと思う。毛利軍だって「関ヶ原に布陣はしたけど兵は動かさない」を選んでた訳だし。石田三成に「各国大名が忠誠を誓うほどの求心力とカリスマがなく、裏切られても文句言えない総大将だっただけ」とも言えるから一概に裏切った小早川が悪いっていうのは判官贔屓だよね。
日本人の気質的に裏切りのタイミングもあったんだと思う。同じ裏切りのイメージがある松永久秀は、ある種の美学に基づいていたから裏切っても一定のファンがいるが小早川秀秋はそれがないのが最大の違いだと思う。最も、仮に最初から東軍についていても、普段の素行が悪いから早晩改易を食らっていたと思う。
@@ホーエンジョージ 松永久秀は別に裏切り者ではない。むしろ三好嫡流を基準に考えれば忠義者。なお三好長慶を〇したというのは冤罪です。最大の裏切り者は徳川家康。
西軍総大将は関ヶ原に来なかった毛利輝元、秀元と吉川は動かなかったし、敗因は小早川だけじゃなくて小早川含む毛利一族と個人的に思ってる
@@hyoshida55 毛利軍が南宮山に布陣した時点で大垣城に入城するよう要請した三成とは齟齬があったみたい。そもそも一説では三成は首謀者でも何でもないって話があって、関ヶ原後の毛利と徳川の和平交渉で三成ら奉行衆をスケープゴートにした事で後年に首謀者扱いされたようだ。
ホントに日本史シリーズ欲しいです。日本史を通史で学べるようなチャンネルを探したんですが、意外と無いんですよね。歴史系だと受けの良さそうなネタをトピックごとに動画化したものばかりです。
動画だと通史はないよね。まあ、紀伝体で学ぶしかない
コーエーが作った逆転裁判みたいなゲーム「采配の行方」では秀吉に捨てられた恨みを裏切りに結び付けてて非常にいいキャラ立てになってたなあ…と古の記憶が
あれ、カプコンじゃなかったんかい!ビックリした!
@@霧生満 BASARA、無双……うっ、頭が
逆転関ヶ原って呼ばれてたゲームですねw
たしかみなもと太郎の「風雲児たち」でも、小早川秀秋が裏切った理由が「それまで秀吉から大切に扱われていたのに、秀頼が生まれた途端お払い箱にされ、それ以来豊臣家が憎かった」ということにされていました。
秀秋は七才で元服してから接待攻めにあっているからずうっと酒ばかり飲んでアルコール衣存症にかかり関ヶ原の時点では敵味方の区別がつかなくなったとも
巷で言われている「散々迷った挙句砲撃にビビって大谷隊を攻撃した」というのはないと思う松尾山城を乗っ取った時点で敵味方共に「小早川は家康側」と認識していたはずだ
そもそも発破をかける為に小早川軍へ射撃すれば逆効果になるやもしれないからしたとは考え難い。
一説では 家康方、三成方のどちらにも見方せず 戦いに巻き込まれない様に松尾山(当初、関ヶ原から離れた所が決戦地と予想)に陣を敷いたが、予想がハズレて関ヶ原が決戦地❗ 決戦当日の昼までオロオロ😑😩
小早川秀秋って絵で勘違いされるけど、割と猛将で戦上手なんだけどね。
そもそも松尾山城は交通の要所として修築されたものだから、無断で占拠すれば西軍から敵認定されても仕方ない。
@@ra45333 朝鮮で先陣切って暴れまくったものだから秀吉に「総大将の役割を理解してないのか!」って怒られてるしねw
それもだけど、吉川広家が毛利秀元、安国寺恵瓊をブロックしたのはかなり効いていたかと。
高校の時の先生が、秀秋が裏切らずに三成についた場合、三成が勝ってたかも知れないがその場合でも鶴翼の陣の性質上、家康の軍が包囲されて潰されるまでに秀秋軍だけはほぼ確実に全滅させられただろうから、秀秋は裏切るしかなかったって言ってたななんか凄く納得した記憶がある
己が滅する布陣故に裏切った、そしてそれを理解出来るとするならば、死地にて特攻散華した父祖の志と此奴の毀誉褒貶振りには隔世の感がある。当に時代は下るが。
目から鱗。なるほどなぁ…。
その先生がどういう話を元に関ヶ原の合戦を考えていたかは分かりかねますが、小早川の寝返りは一次資料によると通説のような戦いの半ばでのものではなく、始まってすぐのものですので陣形などはあまり関係ないと思います。
@@woodbook1014 貴殿だけで無く皆が皆「いつ、何故、翻意したか」に拘るが、その場に居なかった我としては味方を裏切り茶臼山から崩れ為に、西軍敗北の原緒の一端が小早川にある事を憤るのである。「いつ、何故」を考証するのが学問ならば、裏切りによる結末に忿怒するのは情緒的過ぎるか。兎に角も小早川は美しく無い、ということだ。
@@Kyokusui666 私のコメントに対するものとも思いにくいのですが、とりあえず他人にものを伝えたいのであれば、きちんとした日本語を書かれた方がよいです。 あなたの意見からいうと、島津も美しくないですね。しかし島津にしろ小早川にしろ豊家の家臣であって徳川や石田の家臣ではない。戦場での虚々実々が日常的なこの時代で何をゆうちょうなことを言っているのかと思います。 また、当時の戦場の陣の配置から見て、東軍が小早川勢に対してほとんど抑えの軍隊(例えば毛利に対する浅野や池田)をつけておらず、むしろ西軍が脇坂などを小早川の抑えにつけていたこと、寝返り組みのうち小早川に対してのみ大幅な加増があったことからも東軍へ参加はほぼ規定路線だったと伺えます。
一時期は秀吉の後継者候補として養育されたけど秀頼が生まれた途端邪険に扱われて小早川家に押し込まれたんだから豊臣に恨みを抱かない訳がない。捨てられて、裏切り者の代名詞みたいにいわれて、若くして亡くなって気の毒な人生だ。
似たような境遇の秀次なんてありもしない嘘をでっち上げられて一族郎党皆殺しですからね。秀吉存命中は秀秋にしたら(当時は秀吉の鶴の一声で決まってしまうので)今度は自分かもと考えてもおかしくないですし。
@@ハンニバルバルカ-v6v さん豊臣政権って秀次切腹といい、秀秋の事といい自らの手で首を締めていった感が強いですよね。
後年の秀吉を見ていると羽柴秀長や蜂須賀小六の存在って重要すぎたんだなと思います…この二人が秀吉より長生きしてりゃ豊臣家どころか日本の歴史が相当変わっていたかもしれませんね…
@@Mr1988910 更に秀吉の跡継ぎが諸将並に年相応のときに生まれてて、淀君が側室にならない(なっても子供ができない)という選択肢もですね。
@@炭石安蘭 もしくは秀頼誕生時に既に秀吉に嫡子が存在している場合も相当歴史が変わっていたでしょうね…さすがの秀吉も秀頼誕生時に自身の嫡子、世継ぎと認めた15歳~20歳くらいの息子が存在していれば『秀頼を世継ぎとする』なんて言い出さないでしょうから。
明日は珍しく日本史なんですね🙄
日本史も期待してます!!俺の世界史ch様のせいで、他の日本史youtuberでは満足できなくなってしまいました。このchは圧倒的に面白いです。
関ヶ原の合戦は、徳川VS豊臣ではなく、君側の奸をとり除かんと、豊臣の家臣同士が争ったというのが建前だから、どちらについたにせよ豊臣の裏切りには当たらなかったのでしょうね。ただ、よりにもよって豊臣の血縁者が、天下分け目の合戦で決定的な判断をして、結局豊臣が後に滅んだという構図からして、裏切りの代表格のような扱いになってしまったんでしょうねえ。
関ケ原に行く行程から挙動不審だし戦後たっぷり褒賞貰ってることを考えると、問い鉄砲とか裏切りを躊躇った件は創作でしょうね。大軍だけに西軍からも警戒されてた様で
秀秋の減封は、朝鮮で総大将なのに先頭に出て刀をふるってたのを秀吉に知られて、朝鮮から日本に召喚されて叱責されて減封になった説があったんじゃないかな?
諸説の中には、「元々は所領回復に協力してくれた家康の上杉討伐に加勢するために兵を出したが、大阪に着いたら何故か三成が家康を討つ戦になっていた上に勝手に西軍に組み込まれていて、ハナから自分の所領を奪った三成と共に戦う気など全く無かった」というのもあるな
@スターリン万歳 東軍に行かれないように三成が「関白の座を約束する」とか手紙送っていたらしいけど、秀次の末路見てたらどう考えても嫌がらせか遠回しな死刑宣告にしか受け取られないというw
元々東軍だった説あるねそう考えるとここまで嫌われるのも不憫だなぁまあ自分もゲーム太閤立志伝で道端で出会ったらすぐ斬りかかるくらい嫌ってたけれど
まぁ所領回復は家康のおかげってのはドラマの中だけであって実際所領回復は秀吉の遺言によるものであって家康は全く関係ないのが実情ですちなみに遺言書は現存してますよー
秀秋の行動に関しては、元々あった三成との確執、地理条件や朝鮮出兵での繋がりから武断派と結びつきが強かったって話もあるし、最初から東軍寄りの精神性だったっていうのが個人的にしっくりきます。他方で見かけた考察ですが、元々大軍率いて上杉征伐に従軍するつもりだったのが、決起した西軍が東日本方面への経路を封鎖してしまったために東軍に合流できず西軍側として参陣するしかなった、という読み解きもあって面白いですよね。遠征しているので大津城のような籠城する拠点もなく、なまじ大軍なので兵糧の維持が難しく受け入れてくれる東軍方の城もない。結果的にメンタル東軍のまま西軍の中に組み込まれてしまった19歳の大将とか考えるとドラマの種がたくさんありそう。
個人的に秀秋は軍事に関しては優秀だと思う西軍のまとまりのなさから東軍に勝つのは難しかっただろうが数は揃っており地方諸侯は決着まで時間が掛かるだろうと勢力拡大に動き、家康も本隊をゆっくり道中併呑させながらでも間に合うと思っていた中で一時は西軍に付きながら不審な動きを始めて関ヶ原に引っ張り出し短期決戦での勝利に導き自分を最大級の功労者へ押し上げたその後早死にしたのと後嗣が居なかったことで汚名だけ残すこととなったのが残念
減封理由とかされている朝鮮でも実は結構良い働きしていたとも言われてますよね。
@@tominonojigoku 朝鮮に関しては一次資料で秀秋が参加した形跡がないからそれはないっぽい。だから何で減封されたのかははっきりとは分からない。秀吉の疑心暗鬼としか思えない。
@@野口洋睦 朝鮮出兵が長引くため前線基地の博多を一度豊臣家の直轄地にするためと言われてますよ。ですから越前転封まえの筑前他37万石から越前約21万石になりましたが、その後復帰後は50万石前後に加増復帰しています。参考文献谷2018堀越2016
@@まかいチャンネル そうだったんですね。ただ筑前復帰後50万石ぐらいになったのは初耳ですね。35万石辺りだと思ってました。
@@まかいチャンネル Wikiに復帰後石高が59万石とありますが、関ヶ原後の51万4千石と減っているので、正しくないと思います。恐らく領国の筑前筑後を丸ごと与えられたと編集者が解釈したせいと思われます。ではどれぐらいかというと廃絶時の資料群に33万6千石と40万石の数字があるので復帰後の石高は33万6千石~40万石の辺りだと思われます。
定説の関ヶ原の戦いが現在違うんじゃないか?と議論になっていて新説関ヶ原が出ているけど一番腑に落ちた説が小早川秀秋が陣取っていた松尾山は松尾城という城で関ヶ原前に裏切って西軍と籠城戦していたところを東軍が強襲したという説それなら小早川秀秋が大幅加増されて一緒に西軍を裏切ったとされる朽木、赤座、小川、脇坂が安堵や改易など処遇がわかれているところも辻褄があう
松尾山城には別の武将が入っていたが小早川秀秋が強引に松尾山城に入ったという記録もあるその時点で小早川秀秋は西軍を裏切ったと推測できる
裏切りといっても双方にいい顔していた、どっちつかずだったという前提があるのなら、勝敗がきまれば負けた側からすれば裏切りになりますね。最近だと大谷刑部の布陣は対小早川を想定していて実際に大谷軍への大打撃になったのは、小早川軍に追随した脇坂安治軍による横っ腹への攻撃だったという説もありますね。追随した他の朽木、小川、赤座が裏切りとして勝者から戦後に処罰されたのとは違って処罰なかったのは小早川と同じく元々味方する旨の意思表示を徳川に受諾されていたからとかいうやつで。
西軍は小早川勢を撃つために布陣していたため、福島・加藤・黒田勢を先手とする東軍に「背後から」攻撃されて「一刻も持たず」壊滅したってのは最近の説。
大谷吉継は小早川の裏切りに備えて脇坂以下を用意してたら逆に小早川に連動して襲われたんじゃあ流石に耐えられないだろうなただあらかじめ東軍につくと書簡すら交わしてたなら裏切りどころか最初から家康陣営で、裏切り者と言うには難しい(歴史を決めた裏切りなら朽木、赤座、小川こそ)けどある程度兵力抱えていたし裏切り代表に祭り上げられた感が
日本史もやるんですね~。面白いからOKよ👌
>>一代で成り上がった人間って、やたらと血のつながりを重視するそういう人って自分自身が身一つで成り上がる過程で、かつての同輩や上司を部下として従えたり、主家を潰したり従属させたりしてる事が多いから(秀吉自身も事実上織田家を簒奪してるし)、明確な上下や信頼関係があっても根本的には人を信用しきれないものなのかもしれないですね。それでも後代を託さなければならないので、最も自分に近い血縁(主に息子)にどんどん入れ込んでいってしまうと。成り上がり者でなくとも、「養子をとったのに実子が生まれたから、養子を冷遇して実子に継がせる」というケースも多いですし、功成り名遂げた人全般のマインドかもしれませんが。
ある意味では彼もまた秀吉の被害者といえなくもないか
最近は秀秋は最初から東軍寝返り前提で行動してたという意見が強くなってるよね。関ケ原も短時間で東軍の勝利で終わったし、西軍側は戦力残した状況であっさり解散とか秀頼担ぎ出せなかった時点で勝ち目なんかなかったのかもね。
東軍も西軍も応仁の乱の先例を考えれば大垣での睨み合いによる長期戦を想定していて早期に決着が付くとか思ってなかった。ただ秀秋の松尾山城占拠で状況が激変し、東軍は秀秋の救援、西軍は秀秋討伐と双方が動いた結果、関ヶ原の戦いが起きて結果として家康方の勝利に終わった.......という風に個人的に考えております。
小早川秀秋は、事前に徳川家康から合戦が始まったら裏切るように根回しされていたと、聞いております。しかし、豊臣家や小早川家への恩も感じていたのでしょうか。詳しい解説、ありがとうございます。
この時にできた西と東の別れ方が明治維新を産んだわけだ
この人は「やる夫の関が原戦線異常アリ」がおもしろい
名作ですね!
Koeiの戦国無双シリーズのおねね外伝では、おねねだけに忠誠を尽くして、たった一人で東西両軍に「お仕置き」していくおねねの唯一の味方という設定が面白かった。史実通りに家康軍に銃を撃ち込まれても、「怯むな!鉄砲より、叔母上(おねね)方が怖い!」と、失礼な事をいい、史実じゃ死んでいる服部半蔵に襲われても、「叔母上の方が怖い!」と、大事な事なのか二回も言っているのが笑ったw実際、三成と家康に振り回されただけじゃないかなと思う。
阿国がくるやつだよね
@@メロンパン415 ふざけている割には、そのふざけ方も、歴史的に見れば、「ああ、なるほど」と思わせるのが、さすがはKoei。阿国と前田慶次を絡ませているのも結構面白いよw
あれ自体は荒唐無稽なギャグだけど、関ヶ原にもし一人でも秀秋をコントロールできる人間がいれば、家康に従わなかった可能性もゼロではないよな。例えば本当にこんな風に高台院や秀頼が西軍本陣にいた場合とか。
@@stone3944 滑稽苦闘だけど、歴史ゲームに定評のあるKoeiだけに、妙に説得力あるんですよね。あれで小早川秀秋見る目が変わりましたよ。
まあ史実ではおねねに「家康側に付け」と説得されているんだけどね
小早川云々以前にそもそも石田側の主流である毛利家、宇喜多家も分裂状態だったわけですからね。吉川広家は家康に逆らうのはあり得ないと毛利が石田に就くのに反対の立場ということで安国寺恵瓊と対立していましたし、宇喜多家も秀家といとこの直盛との間のいざこざで分裂していましたし。あとは前田家は徳川に完全屈服し、豊臣家は中立を保っていたという、それだけで勝負あったというものです。
ニコニコ動画にあるdebudaさんという方が製作投稿した『怨念が晴らせない ~KinGo!~』。私はこの動画を見て小早川秀秋のイメージが変わりましたね。「何をか成し遂げたるや 俺の人生は何だ ゆえにいつか輪廻をするなれば ただの平穏なる境涯が欲しい」
大谷刑部との対比が鮮やかすぎるせうで過剰に嫌われてしまった印象よくよく知ると天下人秀吉に人生を大きく狂わされてしまった可哀想な人という思いになる秀吉とねねに早く後継者が生まれていたら多くの人の人生と歴史が変わっていたんだろうなと
もしかして世界史関連が全て終わったら「俺の日本史」が始まるのか?
期待大!
日本史終わったら「俺の宇宙史」行こう
血筋的には豊臣秀吉寄りだけど、徳川家康と近かった人。上杉征伐がそのまま西軍に組み込まれ、関ヶ原に出陣するようになった。後継者をを残さず早死にしたことによって家が潰れてしまったので、裏切りだけがクローズアップされることになってしまった不運な人。
幕末の尾張藩主も越前松平も血統的にはどうかんがえても幕府側だったのに新政府に加担しています
でも小早川秀秋が裏切らなかったら今の日本は無いのか
秀秋が三成に味方する義理が全く無いが家康には恩がある。当然過ぎる決心ではある。
関ヶ原の戦いの時、小早川秀秋はぎりぎりまで戦況を見ていて、有利の方に着こうとしてらしい。小早川は寝返らないし、徳川秀忠も上田城攻略で苦戦して、家康自身は相当焦っていたらしい。だから家康は小早川秀秋の部隊に向けて発砲したらしい。
学生時代に特に勉強せずに某乙女で女性化されてたので名前は知ってたがこういう人物と繋がりだからあのストーリーだったのか・・・改めて歴史の勉強すると何で学生時代遊ぶ事優先して勉強しなかったんだと今なら思ってしまう位に歴史は面白いですね
一番好きな戦国武将が大谷吉継なのでもちろん小早川秀秋は嫌いなんだが、秀吉からの仕打ちを考えたら裏切りたくなるのも当然だよな〜。ちなみにテレビドラマ「戦国自衛隊・関ヶ原の戦い」では藤原竜也が小早川秀秋を演じてたんだけど、「小早川秀秋がこんなかっこいい訳ない!」とツッコミ入れたくなった。
・・・、あ、カブトムシ君か(苦笑)🤣www
当時のツートップとも言える家康と三成を天秤にかけて、お互いからより良い条件を引き出しまくった小早川秀秋が愚者なわけないんだよなあ。
5大老筆頭の家康に比べたら三成は格下ですね。西軍の総大将として同じ5大老の毛利輝元を担ぎ上げる必要がある程の。
愚者だろwそうじゃなければそれ以前に秀吉の命令通り毛利輝元の養子になってるわw実績も今の路面電車の軌道を作ったくらいw
@@osamu0727 小早川家の家臣団のほぼ全てを毛利本家に返して自分の家臣団を一から作り上げ、転封先の北九州の一地方で15000の兵を送り出すとか朝鮮出兵では大将なのに先駆けして味方を救い出してるし(秀吉には大将が前に出るな!と怒られた模様)軍事、内政共に有能な大名なんだよなぁ…
家康と三成なんて今のアメリカと韓国ぐらい格が違う三成が家康に比肩していたのは後世からの注目度だけだ
西軍について勝ったら関白になれたと思う。
小早川秀秋は関ヶ原がどうなっても毛利一門が残るように東側に分けられたって可能性は無いのかな(真田や九鬼みたいにどちらが勝とうと血は残せるし)
最近は戦闘開始直後に大谷勢に突っ込んだってのが有力みたいね。けど、やっぱりどうしていいかわからずオロオロする秀秋さんのほうが面白いな。秀秋「戦況はどうなってるのじゃ」家来「お味方、やや優勢と」秀秋「味方とはどっちじゃ」ってなんかのドラマでやってた
裏切ったまま死んでしまったから、これ以上の評価ができないよね…
世界3大なんか説得力のある肖像画・ジョン失地王・小早川秀秋・晩年のナポレオン
upする内容順が意味深ですなーそそられます。
今度しくじり天皇に後醍醐天皇を加えてほしい日本の皇室をニつに分け大乱を起こし崩壊寸前にした天皇霊夢と早苗に解説してほしい
女官を落とし穴に落とすいたずらをしようとして滑って転んでそのまま死んだアホな天皇も居たような…
別チャンネルとして俺の日本史作ってほしい。異なる東方キャラとオリジナルキャラを投入して
太子と布都とか良さそう
勲一等とも言える小早川秀秋調略を成功させ、東軍勝利のため政戦両略ですごく頑張った黒田長政がその後父親であるシメオン如水に「おめーのせいで関ヶ原が一日で終わったから九州取りそこねたじゃねーか」とキレられた話、可哀想すぎる。
8:25 秀頼に継がせる領地を増やしたいなら、わざわざ秀秋を筑前に復帰させる遺言を残さないと思うのだが…
秀秋が松尾山城に入った時、大垣城に居た報せを聞いた石田三成は関ヶ原まで急いで西軍を引いたと言う話を聞いたこともある。また大谷刑部は最初から松尾山の小早川秀秋軍に向けて陣を構え、小早川軍を幾度と退けていたが、朽木ら他の大名の裏切りで大谷軍は崩壊した共。
この人物。豊臣家政権後期は徳川家の庇護の下だったそうで、家康とも近かった(利用される布石があった)。関ケ原後に変な死に方をした大名の一人。徳川家康得意の毒殺でしょうね。家康(有名なケチ)という人物が領地や金銭を気前よく振る舞う時は注意が必要。決してその場の気分で他人に良い物を与えない。確実に裏がある。
彼の人生を見ると秀吉のために振り回され続けた人生だったという思いが強かったんじゃないかな。小さい頃はいざ知らず、自我が芽生えて来たころに豊臣の養子から小早川に変更させられ、全く自分の意思がない。まああの時代、それが無理なのは分かるが、朝鮮での暴れっぷりを聞くにつけ、やっと自分が自由にできる環境だってなってしまったのかもしれない。その挙句、総大将がなにやってんだと叱責、減封、助けてくれたのが家康の口添え、この家康の…ってのも怪しい感じもするが、面白くない!って秀秋の気持ちの方が納得しやすい。西軍に極力関わらないように、伏見城攻め以降はほぼ傍観。本戦で最初からあるいは途中からかはともかく、関ヶ原のために生まれてきた人生だったように感じてならない。治世の面から再評価されてせめて裏切りの小早川一色から変わってくれればと思ってしまう。
小早川秀秋、脇坂安治は寝返った事について家康から咎めを受けていないので最初から内通していたと考えられる。実際、同じ寝返り組の朽木元綱、赤座直保、小川祐忠の三名は寝返ったことを咎められて取り潰されている。
関ケ原合戦以前の伏見城攻めの直前で秀秋は北政所を訪ねていたらしい。伏見城を守っていた側に秀秋の兄の木下勝俊がいて、そのまま攻めていたら一族同士討ちの危機だったからなのだろうが、どんな会話があったか?
俺の日本史チャンネルもおもろそうでも世界史チャンネルで紹介する日本の歴史は「世界史の中の日本史」として消化して欲しい。主に近代だけど日本も世界に多大な影響与えてるからなぁ
20代で早死にしたから実像がわかりにくいのよね…平岡頼勝とか稲葉正成とかの秀秋の下で働いてた旧臣はなんとでも言えただろうけど
小早川秀秋が一番目立つけど他の参加武将も裏切るタイミング探ったり消極的な動きしてたっぽい話もありますね、大谷吉継は三成の友としてがんばってたせいで全滅したご様子、大谷吉継さん好きです
開戦と同時に豊臣方に攻撃仕掛けたとも言われてるねこの人
豊臣方ではなく三成軍ですね。当時は東西両軍共々豊臣家の為と言って挙兵しましたから。その説は聞いたことがあります。
研究者の間では小早川秀秋が寝返る前に黒田長政が送った書状で私訳になりますが、「おね様が色々活動されてます。戦後おね様の立場が悪くならないように貴方も努めるべきです 」って手紙内容も大きかったのではないかとされていて、理由としは幼少期はおねの所で養育されているなど興味深ったです。
「家康に助力するために上杉討伐の兵を立ち上げたら関所が出来て勝手に東西に分割されてしまったでござる」「何やら豊臣の為に逆賊を討つとか言っているけど奴の言う事は信用ならん」
創作作品では軟弱に描かれる事が多いですが、慶長の役の際に首級をあげる活躍を見せてるんですよね(お膳立て有かもですが)。それを石田三成に「総大将のすることではない」と中央に報告されてしまった事もあり、年相応の血気盛んさを持っていて武断派寄りの考えを持っていてたのかも...。
生きていたら大坂の陣や島原の乱まで活躍したかも。それまでに潰される確率の方が高いけど。
大谷吉継公は、結構いい人みたいになることが多いよなー。
19:48「徳川秀頼」ではなく、「豊臣秀頼」ですね^^;
人望の無い石田三成に肩入れする理由が無かったのかも…
徳川にとっては、返り忠してくれた功労者なのに
肖像画の目の焦点が合っていないのも、幼いころからアルコール漬けだったのなら納得できます。
西軍は人望に欠けていたと言われる石田三成が大将な時点で、狸親父と戦うのはほぼ無理ゲーだったわけね。
19:47 徳川秀頼
相当ストレスを受けたんだね( ´~`)💦21歳で死ぬなんて( T∀T)
三成に伊勢攻めを命じられたけど拒否して近江高宮(佐和山城から見える位置)に1ヶ月止まっているので、関ヶ原につく大分前に裏切りの腹を決めていたと思う。
最も嫌われている男、とはうまい評価だ
脇坂安治、吉川広家も西軍の攻撃妨害したのに小早川君可哀想だなぁ。(´・ω・`)
肖像画がまだ強そうならここまで悪く言われなかった様ななんかいかにも優柔不断で軟弱そうな肖像画だし
人望の無い石田三成を排除しておけば三成憎しの豊臣恩顧の武将達が徳川方に付いて戦う事は無かったのにね。小早川秀秋の次は私の大好きな武将大谷吉継を動画にして欲しい。
戦国の梟雄松永久秀、宇喜多直家も動画にしてほしいですね。
三成より毛利輝元が…あいつがいなかったら三成動けなかったわけだし、輝元は輝元で関が原以外で好き放題やってるし…
排除しておけば…つて誰が?少なくても家康じゃないし…
北政所の侍女に大谷刑部の母がいたことや公家の日記に西軍敗北の報で北政所が徒歩で逃げた、って記録があったりで、最近は別に北政所は親徳川でもなく、三成の方が刑部にのせられていたなんて説もあるみたいですね。戦後に北政所が勝手に木下家の所領増やそうとして家康が激オコだったとかいう史料もあったりはするみたいで。
人望ないなんて今時どの学者も言ってないのに…寧ろ取次ぐであった三成がいたからこそ西軍が成り立ってると証明されてるくらいなのに…事実伊達政宗除けば全員西軍に加入してる(真田毛利斎村佐竹相良上杉島津など
小早川秀秋「自分と同じく豊臣の養子になった秀次が謀反の濡れ衣で切腹させられた上に、自分も冤罪で丹波亀山城を没収されたンゴ……」「朝鮮出兵して帰ってきたら石田三成に難癖つけられて大幅減封されたけど、秀吉が死んで徳川家康がとりなしてくれたから処分取り消しになったンゴ……」「徳川と石田の対立で双方から厚遇の話が来てるけど、どっちにつくかは火を見るより明らかだよなあ!?」そら関ヶ原で東軍に行きますわ
最近の研究だと当時の関ヶ原の戦いそのものも関ヶ原から少し離れた場所で行われ、序盤から東軍の圧勝だったみたい。そして裏切り者として描かれる小早川秀秋も最初から東軍側として行動してたらしい。
関ケ原は少なくとも名目上はあくまで豊臣政権下での派閥争いでした。尾張で武将だった頃の家臣が主流の武断派はねねを支持し計算に強い近江人が主流の文治派は浅井家出身の淀を支持するそういうもっとハッキリとした派閥が存在していたと思う。また真田家が左右に分かれて存続を模索したように毛利家のほうでもいとこの吉川広家が最初から徳川とのコネを持っていたわけで小早川秀秋ももしかしたら最初から家康とのコネを持っていたと考えるべきではないのでしょうか。なんにせよ権力のイッヌへヘイトが集まるのは三国志演義からの世の習い、豊臣家の親族でありながら合戦後に大幅加増、そして急死によるお家断絶という運命をたどった秀秋がいわゆる世間のスケープゴートにされたのはかわいそうな話だと思いますが吉川と小早川の犠牲の上で毛利家が存続し明治維新につながったと思うと運命深いものを感じます。
もっと秀秋視点で丁寧に進めてほしかったな…
俺の世界史ch的な解説でコッチの方が好き 背景も整理されて分かりやすい
「秀吉が生前減封したものを死後加増」なんて真似したら、実質的には加増してくれるのは五大老筆頭として政務を預かる家康な訳で……
実際は家康というより秀吉の遺言によるものですけどね…
@@まかいチャンネル 婚姻や加増転封関連の遺言を結果的に後に破った家康ですから、遺言を守った=加増したのは家康の判断とも言えます逆に三成は秀吉の最側近ですから、減封に関して関与を疑われかねない立場ですつまり秀秋からすれば加増してくれた家康と減封した三成になる訳で、心情的には最初から家康方だったんじゃないでしょうかそれでも当初西軍についていたのは脇坂や長曽我部のように通路を封鎖されて仕方なく、というのと、そもそも小早川自体が西軍総大将である毛利の分家筋で婚姻もしているからでしょうかね
@@貧弱一般未満人 いやいや、なんで遺言守った=加増したのは家康といえるんですか…それは家康であれは秀秋への遺言を無視できる立場って事を言いたいんですか?あと三成は確かに秀吉に近い立場にいましたが、秀秋が越前転封が決まった時は会津にいますよ。ちなみに何故秀秋が越前に移る事になったかは把握してますか?質問多くてごめんなさい
@@まかいチャンネル 上の返信は幾つか事実誤認+一次資料で確認が取れない前提があったのであまり気にしないでくださいただ、『秀吉の遺言でやったことだから家康は全く関係ありません』というのは極論というか暴論の類でしょう 0か100かが過ぎますそもそも転封の際にきっちりフォローが入っていればあのような家臣の散逸などが起こったとは考えづらいので、秀秋にとっても寝耳に水であったと思いますし(事前に秀秋への説明がありました的な一次資料があれば別です、その場合はごめんなさい)『一旦お前転封して石高も減らすけど後で元に戻した上で加増もしてやるから恩に着てくれよな!』なんてのが通るかというとそんな訳ないですしじゃあ浮いた『恩』がどこに行くかというと実際に復帰させる書状を出した5大老、その中でも筆頭である家康に行くというのは自然なように思います(実際には家康というよりも小早川の本家筋で姻戚関係もあった輝元の方が主に動いたんじゃないかなとは思っています ニワカなので参考文献等はありませんが)三成は確かに会津にいましたし個人的にも転封には関わってないんじゃないかとは思っていますが、秀秋がどう思うかは別の話ですし、そもそも貴方の主張している『越前転封は大陸出兵をより円滑に進めるため』と『三成は転封当時会津にいたので関係ない』は矛盾こそしていませんがなんというか噛み合わせが悪いと思います大陸出兵がらみが理由の転封であれば数か月以上前から計画されていてもおかしくありませんし、そうなると会津に出向する前の三成が関与する余地が生まれるからです
@@貧弱一般未満人 別に全く家康は関与してないとは言ってないです。小早川秀秋の領地宛外書に五大老として家康の名前があるので。私が言いたいのは、あくまでも貴方がいう家康のおかげというのは違うって事が言いたい訳です。それに暴論というわけではないですよ。ちゃんと証拠があります。家康が慶長三年八月五日に五大老・五奉行で交わされた起請文の内容にて御知行方之儀、秀頼様御成人候上、為御分別不被仰付以前ニ、不寄誰ニ御訴訟雖有之、一切不可申次之候、況手前之儀不可申上候、縦被下候共拝領仕間敷事、にとあり、 これは家康が「五奉行」に差し出した起請文前書の一部であり、秀頼成人以前における「知行方之儀」については、どのような者から「御訴訟」-ここでは知行の加増を求める訴えをさすのであろう―があっても家康は決してこれについて「申次」を行わず、ましてや自身の知行などは決して要求しないし、たとえもし知行を与えると言われようとも、これを拝領しないとしている。(堀越2016とあり、誓詞により、徳川家康は、どのような者から知行の加増を求める『御訴訟』があっても、決してこれについて「申次」を行わないことを誓っていますちなみに小早川秀秋への筑後筑前を太閤様の遺命により与えるというのが実際毛利家文書に残ってます。参考文献堀越祐一豊臣政権の権力構造2016黒田基樹2017
小早川隆景が生きていたら、三成が輝元を担ぎ出すのを許すはずもなく、西軍の編成自体ができなかっただろう
たしかに一理あるけど、対徳川では組んでいただろう。秀吉死後の家康は全権委任者として前田を屈服させ、次いで上杉征伐まで乗り出した。西国最大で徳川家とほぼ伍する石高を誇る毛利一門を放って置くことは考えられず、隆景も念には念で西軍を編成していたかもしれない。
秀吉が領地を削り、秀頼の代で加増することで秀頼への忠誠度を高めようとしたのかも知れませんね。
たぶんこの思惑が裏目に出た気はする本人からしたら命懸けの戦場から帰ったら領地減らされて、仕えたはずの、ましてや親戚の秀吉死んだら領地増えたやん!こっちはジジババの傀儡ちゃうねんぞくらいのプライドは持ってそう
これ見ても秀吉はボケてたのかと思う。
アル中やないか
喧嘩してるやつと、仲裁してる奴、客観的に見たらどちらにつくべきかは明らかだよな
関ヶ原の裏切り組は脇坂安治は処分なし赤座直保、小川祐忠は改易、朽木元綱は減封されてる小川祐忠は藤堂高虎と内通してたのに改易されてて可哀想
解説お疲れ様です明智光秀「(*´∀`)=3 ホッ」
子供の頃(40年近く前)に読んだ「マンガ日本の歴史」での小早川の扱いはひどかった。一人ではションベンもできない愚か者で、家康におどされて裏切り、その後秀吉の呪いに怯えて死んだって事になってた。
世界史は非常によく学ばれていらっしゃって、勉強になるといつも感じているのですが、日本史はイマイチかと思います関ケ原の合戦は(内心はどうあれ)豊臣秀頼家臣の権力争いで、徳川家康は合戦後秀頼から報奨までもらっています。なので、その時点で豊臣家を守るもの(石田三成)VS豊臣家を潰すもの(徳川家康)と周りは考えておりません。また、近年の研究では小早川秀秋は裏切ったのではなく当初から東軍だったのではという考えも強くなっています。動画内でもおっしゃっていましたが、西軍の陣を奪って松尾山に陣地を引きましたなにより、戦後、徳川家康より小早川秀秋自身は報奨をもらい、他の裏切り者である脇坂や赤座たちは裏切りの罪で罰を与えられています。これは、少なくとも東軍内では小早川秀秋を裏切り者と考えていなかった証と言われています。後世、江戸時代中に彼が裏切り者として扱われたのは事実ですが
木下家は江戸時代ずっと残っていてその中で豊臣秀頼とその息子を助けたのではと言われています、大坂の陣の後二人は生き残っていたというのです。息子はかなり可能性があるのではと僕は観ています。
なんで秀吉にあれだけ世話になったのに豊臣政権を明らかに滅ぼそうとしていた東軍についたんだろう
秀吉に恩はあっても豊臣政権には恩がない。土地を安堵してもらう=前の恩はリセットされる。全国規模で7公3民で麦等の裏作(通常、年貢の対象ではない)にまで年貢の対象になってこれも7公3民の二重課税で物品税(今でいう消費税?)も取るという重税社会で、耕作放棄した土地も強制没収と滅茶苦茶だったらしく、官兵衛も吉川広家宛の手紙に「太閤様は世間では評判最悪だった」と愚痴を漏らしてる…(官兵衛も母方の実家の明石家の人が秀次事件で殺されてる)
秀秋が石田の味方をする理由がないし、石田は秀秋を関白にできる権力はない。
小早川秀秋は鳥居元忠の伏見城攻めに際して伏見城に入ろうとして拒否されたと言われてるね(同じように島津氏も) なりゆきで仕方なく西軍にいたとも言われてるね
この人は可哀想な坊っちゃん。母親も幼児の頃に亡くなり、それからは養子で周りぱっなし。裏切りは別として本当に不幸な武将です。
自分が思っていた待遇、もしくは言質なりを得た待遇を家康からもらえなかったから、やけ酒しまくって急性アルコール中毒で逝ったのかと思ってました。
昔読んだ偉人伝記漫画でも大砲打ち込んだって描いてあったな。そういうの多いな。桶狭間の戦いも全く奇襲じゃ無かったそうだし。
正軍の将 立花宗茂西軍の将 立花宗茂読み方は何方だろうか?
関ヶ原の合戦前に家康が伊賀衆を使って西軍の切り崩し工作を行っていた
明治40年(1907年)時事新報社と実業家・朝吹英二氏が東京帝国大学の渡辺世祐氏に三成の伝記執筆依頼、そして三玄院にある三成のものと思しき墓を「発掘」した。現代は伝記の為に戦国武将の首を発掘してまで書くだろうか?しかし彼らは実際に行った。そして石田三成とおぼしき頭蓋骨を発見して、石膏で型取りし記録、図面、写真、透視図を京都帝国大学解剖学教室の足立文太郎氏がバラバラになっていた頭蓋骨を復元、接合して確認している。その後三玄院に改葬だ・・・同じ京都にある信長の首塚は一切触らせないのにもかかわらず。考古学者としては貴重な事だが気の毒な気がする。しかも京都帝国大学が頭蓋骨の石膏像を「紛失」している、報告書に写真と図面は残っている。ずさんな管理だ。
徳川秀頼。。。。
紀州徳川家にいそうな名前w
5万人行った時にやるって言ってた教科書よりちょっと詳しい日本史のコーナー期待してますよ!
小早川秀秋が後世で裏切り者として評されて、特にその酷評される場合の観点としては、当時の武将が最も嫌った「開戦後の寝返り行為」が大きかったと思う。
この開戦後の寝返りについても本動画で紹介された決心がつかず動かなかった(家康の砲撃)、関ヶ原の戦い時点で重度の肝機能障害を患っていて行動が遅れた等の説がある。
どちらにせよ現在は証拠となりうる資料がないため、決定的なことは分からないけど、秀秋の立場になったら朝鮮出兵に総大将として参加したのに、帰ってきたら減封されて、特に忠義を尽くす理由もないし、むしろ西軍大将の三成には確執があるぐらいだから寝返るのも分からなくはない。
現代で例えるなら、会社に頼まれて海外出張行って帰ってきたら、給料減額されて役職も下げられたような感じ。そりゃ背きたくもなる。
小早川秀明は日本一の裏切り者ではなく、日本一の裏切られ者だと思う。
これだけの波乱万丈な人生を送ってきて最後にさらっと21歳で死んだという衝撃
しかもアル中だとか発狂死だとか死してなおボロクソ言われてるという…
北畠顕家と同じ年齢かよ
西軍陣営の武将は「利害がまるで一致してなかったし、ぶっちゃけ出陣の大義名分に乏しかった」ってのが大きかったんだと思う。
毛利軍だって「関ヶ原に布陣はしたけど兵は動かさない」を選んでた訳だし。
石田三成に「各国大名が忠誠を誓うほどの求心力とカリスマがなく、裏切られても文句言えない総大将だっただけ」とも言えるから一概に裏切った小早川が悪いっていうのは判官贔屓だよね。
日本人の気質的に裏切りのタイミングもあったんだと思う。
同じ裏切りのイメージがある松永久秀は、ある種の美学に基づいていたから裏切っても一定のファンがいるが小早川秀秋はそれがないのが最大の違いだと思う。
最も、仮に最初から東軍についていても、普段の素行が悪いから早晩改易を食らっていたと思う。
@@ホーエンジョージ 松永久秀は別に裏切り者ではない。むしろ三好嫡流を基準に考えれば忠義者。なお三好長慶を〇したというのは冤罪です。最大の裏切り者は徳川家康。
西軍総大将は関ヶ原に来なかった毛利輝元、秀元と吉川は動かなかったし、敗因は小早川だけじゃなくて小早川含む毛利一族と個人的に思ってる
@@hyoshida55 毛利軍が南宮山に布陣した時点で大垣城に入城するよう要請した三成とは齟齬があったみたい。
そもそも一説では三成は首謀者でも何でもないって話があって、関ヶ原後の毛利と徳川の和平交渉で三成ら奉行衆を
スケープゴートにした事で後年に首謀者扱いされたようだ。
ホントに日本史シリーズ欲しいです。
日本史を通史で学べるようなチャンネルを探したんですが、意外と無いんですよね。歴史系だと受けの良さそうなネタをトピックごとに動画化したものばかりです。
動画だと通史はないよね。まあ、紀伝体で学ぶしかない
コーエーが作った逆転裁判みたいなゲーム「采配の行方」では秀吉に捨てられた恨みを裏切りに結び付けてて非常にいいキャラ立てになってたなあ…と古の記憶が
あれ、カプコンじゃなかったんかい!
ビックリした!
@@霧生満 BASARA、無双……うっ、頭が
逆転関ヶ原って呼ばれてたゲームですねw
たしかみなもと太郎の「風雲児たち」でも、小早川秀秋が裏切った理由が「それまで秀吉から大切に扱われていたのに、秀頼が生まれた途端お払い箱にされ、それ以来豊臣家が憎かった」ということにされていました。
秀秋は七才で元服してから接待攻めにあっているから
ずうっと酒ばかり飲んでアルコール衣存症にかかり
関ヶ原の時点では敵味方の区別がつかなくなったとも
巷で言われている「散々迷った挙句砲撃にビビって大谷隊を攻撃した」というのはないと思う
松尾山城を乗っ取った時点で敵味方共に「小早川は家康側」と認識していたはずだ
そもそも発破をかける為に小早川軍へ射撃すれば逆効果になるやもしれないからしたとは考え難い。
一説では 家康方、三成方のどちらにも見方せず 戦いに巻き込まれない様に松尾山(当初、関ヶ原から離れた所が決戦地と予想)に陣を敷いたが、予想がハズレて関ヶ原が決戦地❗ 決戦当日の昼までオロオロ😑😩
小早川秀秋って絵で勘違いされるけど、割と猛将で戦上手なんだけどね。
そもそも松尾山城は交通の要所として修築されたものだから、無断で占拠すれば西軍から敵認定されても仕方ない。
@@ra45333 朝鮮で先陣切って暴れまくったものだから秀吉に「総大将の役割を理解してないのか!」って怒られてるしねw
それもだけど、吉川広家が毛利秀元、安国寺恵瓊をブロックしたのはかなり効いていたかと。
高校の時の先生が、秀秋が裏切らずに三成についた場合、三成が勝ってたかも知れないが
その場合でも鶴翼の陣の性質上、家康の軍が包囲されて潰されるまでに秀秋軍だけはほぼ確実に全滅させられただろうから、秀秋は裏切るしかなかったって言ってたな
なんか凄く納得した記憶がある
己が滅する布陣故に裏切った、そしてそれを理解出来るとするならば、死地にて特攻散華した父祖の志と此奴の毀誉褒貶振りには隔世の感がある。当に時代は下るが。
目から鱗。なるほどなぁ…。
その先生がどういう話を元に関ヶ原の合戦を考えていたかは分かりかねますが、小早川の寝返りは一次資料によると通説のような戦いの半ばでのものではなく、始まってすぐのものですので陣形などはあまり関係ないと思います。
@@woodbook1014 貴殿だけで無く皆が皆「いつ、何故、翻意したか」に拘るが、その場に居なかった我としては味方を裏切り茶臼山から崩れ為に、西軍敗北の原緒の一端が小早川にある事を憤るのである。
「いつ、何故」を考証するのが学問ならば、裏切りによる結末に忿怒するのは情緒的過ぎるか。
兎に角も小早川は美しく無い、ということだ。
@@Kyokusui666 私のコメントに対するものとも思いにくいのですが、とりあえず他人にものを伝えたいのであれば、きちんとした日本語を書かれた方がよいです。
あなたの意見からいうと、島津も美しくないですね。しかし島津にしろ小早川にしろ豊家の家臣であって徳川や石田の家臣ではない。戦場での虚々実々が日常的なこの時代で何をゆうちょうなことを言っているのかと思います。
また、当時の戦場の陣の配置から見て、東軍が小早川勢に対してほとんど抑えの軍隊(例えば毛利に対する浅野や池田)をつけておらず、むしろ西軍が脇坂などを小早川の抑えにつけていたこと、寝返り組みのうち小早川に対してのみ大幅な加増があったことからも東軍へ参加はほぼ規定路線だったと伺えます。
一時期は秀吉の後継者候補として養育されたけど秀頼が生まれた途端邪険に扱われて小早川家に押し込まれたんだから豊臣に恨みを抱かない訳がない。
捨てられて、裏切り者の代名詞みたいにいわれて、若くして亡くなって気の毒な人生だ。
似たような境遇の秀次なんてありもしない嘘をでっち上げられて一族郎党皆殺しですからね。秀吉存命中は秀秋にしたら(当時は秀吉の鶴の一声で決まってしまうので)今度は自分かもと考えてもおかしくないですし。
@@ハンニバルバルカ-v6v さん
豊臣政権って秀次切腹といい、秀秋の事といい自らの手で首を締めていった感が強いですよね。
後年の秀吉を見ていると羽柴秀長や蜂須賀小六の存在って重要すぎたんだなと思います…
この二人が秀吉より長生きしてりゃ豊臣家どころか日本の歴史が相当変わっていたかもしれませんね…
@@Mr1988910 更に秀吉の跡継ぎが諸将並に年相応のときに生まれてて、淀君が側室にならない(なっても子供ができない)という選択肢もですね。
@@炭石安蘭 もしくは秀頼誕生時に既に秀吉に嫡子が存在している場合も相当歴史が変わっていたでしょうね…さすがの秀吉も秀頼誕生時に自身の嫡子、世継ぎと認めた15歳~20歳くらいの息子が存在していれば
『秀頼を世継ぎとする』なんて言い出さないでしょうから。
明日は珍しく日本史なんですね🙄
日本史も期待してます!!
俺の世界史ch様のせいで、
他の日本史youtuberでは満足できなくなってしまいました。このchは圧倒的に面白いです。
関ヶ原の合戦は、徳川VS豊臣ではなく、君側の奸をとり除かんと、豊臣の家臣同士が争ったというのが建前だから、どちらについたにせよ豊臣の裏切りには当たらなかったのでしょうね。ただ、よりにもよって豊臣の血縁者が、天下分け目の合戦で決定的な判断をして、結局豊臣が後に滅んだという構図からして、裏切りの代表格のような扱いになってしまったんでしょうねえ。
関ケ原に行く行程から挙動不審だし戦後たっぷり褒賞貰ってることを考えると、問い鉄砲とか裏切りを躊躇った件は創作でしょうね。大軍だけに西軍からも警戒されてた様で
そもそも発破をかける為に小早川軍へ射撃すれば逆効果になるやもしれないからしたとは考え難い。
秀秋の減封は、朝鮮で総大将なのに先頭に出て刀をふるってたのを秀吉に知られて、朝鮮から日本に召喚されて叱責されて減封になった説があったんじゃないかな?
諸説の中には、「元々は所領回復に協力してくれた家康の上杉討伐に加勢するために兵を出したが、大阪に着いたら何故か三成が家康を討つ戦になっていた上に勝手に西軍に組み込まれていて、ハナから自分の所領を奪った三成と共に戦う気など全く無かった」というのもあるな
@スターリン万歳 東軍に行かれないように三成が「関白の座を約束する」とか手紙送っていたらしいけど、秀次の末路見てたらどう考えても嫌がらせか遠回しな死刑宣告にしか受け取られないというw
元々東軍だった説あるね
そう考えるとここまで嫌われるのも不憫だなぁ
まあ自分もゲーム太閤立志伝で道端で出会ったらすぐ斬りかかるくらい嫌ってたけれど
まぁ所領回復は家康のおかげってのはドラマの中だけであって
実際所領回復は秀吉の遺言によるものであって家康は全く関係ないのが実情です
ちなみに遺言書は現存してますよー
秀秋の行動に関しては、元々あった三成との確執、地理条件や朝鮮出兵での繋がりから武断派と結びつきが強かったって話もあるし、最初から東軍寄りの精神性だったっていうのが個人的にしっくりきます。
他方で見かけた考察ですが、元々大軍率いて上杉征伐に従軍するつもりだったのが、決起した西軍が東日本方面への経路を封鎖してしまったために東軍に合流できず西軍側として参陣するしかなった、という読み解きもあって面白いですよね。
遠征しているので大津城のような籠城する拠点もなく、なまじ大軍なので兵糧の維持が難しく受け入れてくれる東軍方の城もない。
結果的にメンタル東軍のまま西軍の中に組み込まれてしまった19歳の大将とか考えるとドラマの種がたくさんありそう。
個人的に秀秋は軍事に関しては優秀だと思う
西軍のまとまりのなさから東軍に勝つのは難しかっただろうが数は揃っており
地方諸侯は決着まで時間が掛かるだろうと勢力拡大に動き、家康も本隊をゆっくり道中併呑させながらでも間に合うと思っていた中で一時は西軍に付きながら不審な動きを始めて関ヶ原に引っ張り出し短期決戦での勝利に導き自分を最大級の功労者へ押し上げた
その後早死にしたのと後嗣が居なかったことで汚名だけ残すこととなったのが残念
減封理由とかされている朝鮮でも実は結構良い働きしていたとも言われてますよね。
@@tominonojigoku 朝鮮に関しては一次資料で秀秋が参加した形跡がないからそれはないっぽい。
だから何で減封されたのかははっきりとは分からない。秀吉の疑心暗鬼としか思えない。
@@野口洋睦 朝鮮出兵が長引くため前線基地の博多を一度豊臣家の直轄地にするためと言われてますよ。ですから越前転封まえの筑前他37万石から越前約21万石になりましたが、その後復帰後は50万石前後に加増復帰しています。
参考文献
谷2018
堀越2016
@@まかいチャンネル そうだったんですね。ただ筑前復帰後50万石ぐらいになったのは初耳ですね。35万石辺りだと思ってました。
@@まかいチャンネル Wikiに復帰後石高が59万石とありますが、関ヶ原後の51万4千石と減っているので、正しくないと思います。
恐らく領国の筑前筑後を丸ごと与えられたと編集者が解釈したせいと思われます。
ではどれぐらいかというと廃絶時の資料群に33万6千石と40万石の数字があるので復帰後の石高は33万6千石~40万石の辺りだと思われます。
定説の関ヶ原の戦いが現在違うんじゃないか?と議論になっていて新説関ヶ原が出ているけど
一番腑に落ちた説が小早川秀秋が陣取っていた松尾山は松尾城という城で関ヶ原前に裏切って西軍と籠城戦していたところを東軍が強襲したという説
それなら小早川秀秋が大幅加増されて一緒に西軍を裏切ったとされる朽木、赤座、小川、脇坂が安堵や改易など処遇がわかれているところも辻褄があう
松尾山城には別の武将が入っていたが小早川秀秋が強引に松尾山城に入ったという記録もある
その時点で小早川秀秋は西軍を裏切ったと推測できる
裏切りといっても双方にいい顔していた、どっちつかずだったという前提があるのなら、勝敗がきまれば負けた側からすれば裏切りになりますね。最近だと大谷刑部の布陣は対小早川を想定していて実際に大谷軍への大打撃になったのは、小早川軍に追随した脇坂安治軍による横っ腹への攻撃だったという説もありますね。追随した他の朽木、小川、赤座が裏切りとして勝者から戦後に処罰されたのとは違って処罰なかったのは小早川と同じく元々味方する旨の意思表示を徳川に受諾されていたからとかいうやつで。
西軍は小早川勢を撃つために布陣していたため、福島・加藤・黒田勢を先手とする東軍に「背後から」攻撃されて
「一刻も持たず」壊滅したってのは最近の説。
大谷吉継は小早川の裏切りに備えて脇坂以下を用意してたら逆に小早川に連動して襲われたんじゃあ流石に耐えられないだろうな
ただあらかじめ東軍につくと書簡すら交わしてたなら裏切りどころか最初から家康陣営で、裏切り者と言うには難しい(歴史を決めた裏切りなら朽木、赤座、小川こそ)けどある程度兵力抱えていたし裏切り代表に祭り上げられた感が
日本史もやるんですね~。面白いからOKよ👌
>>一代で成り上がった人間って、やたらと血のつながりを重視する
そういう人って自分自身が身一つで成り上がる過程で、かつての同輩や上司を部下として従えたり、主家を潰したり従属させたりしてる事が多いから(秀吉自身も事実上織田家を簒奪してるし)、明確な上下や信頼関係があっても根本的には人を信用しきれないものなのかもしれないですね。
それでも後代を託さなければならないので、最も自分に近い血縁(主に息子)にどんどん入れ込んでいってしまうと。
成り上がり者でなくとも、「養子をとったのに実子が生まれたから、養子を冷遇して実子に継がせる」というケースも多いですし、功成り名遂げた人全般のマインドかもしれませんが。
ある意味では彼もまた秀吉の被害者といえなくもないか
最近は秀秋は最初から東軍寝返り前提で行動してたという意見が強くなってるよね。関ケ原も短時間で東軍の勝利で終わったし、西軍側は戦力残した状況であっさり解散とか秀頼担ぎ出せなかった時点で勝ち目なんかなかったのかもね。
東軍も西軍も応仁の乱の先例を考えれば大垣での睨み合いによる長期戦を想定していて早期に決着が付くとか思ってなかった。
ただ秀秋の松尾山城占拠で状況が激変し、東軍は秀秋の救援、西軍は秀秋討伐と双方が動いた結果、関ヶ原の戦いが起きて
結果として家康方の勝利に終わった.......という風に個人的に考えております。
小早川秀秋は、事前に徳川家康から合戦が始まったら裏切るように根回しされていたと、聞いております。
しかし、豊臣家や小早川家への恩も感じていたのでしょうか。
詳しい解説、ありがとうございます。
この時にできた西と東の別れ方が
明治維新を産んだわけだ
この人は「やる夫の関が原戦線異常アリ」がおもしろい
名作ですね!
Koeiの戦国無双シリーズのおねね外伝では、おねねだけに忠誠を尽くして、たった一人で東西両軍に「お仕置き」していくおねねの唯一の味方という設定が面白かった。
史実通りに家康軍に銃を撃ち込まれても、
「怯むな!鉄砲より、叔母上(おねね)方が怖い!」
と、失礼な事をいい、史実じゃ死んでいる服部半蔵に襲われても、
「叔母上の方が怖い!」
と、大事な事なのか二回も言っているのが笑ったw
実際、三成と家康に振り回されただけじゃないかなと思う。
阿国がくるやつだよね
@@メロンパン415 ふざけている割には、そのふざけ方も、歴史的に見れば、「ああ、なるほど」と思わせるのが、さすがはKoei。
阿国と前田慶次を絡ませているのも結構面白いよ
w
あれ自体は荒唐無稽なギャグだけど、関ヶ原にもし一人でも秀秋をコントロールできる人間がいれば、家康に従わなかった可能性もゼロではないよな。例えば本当にこんな風に高台院や秀頼が西軍本陣にいた場合とか。
@@stone3944 滑稽苦闘だけど、歴史ゲームに定評のあるKoeiだけに、妙に説得力あるんですよね。
あれで小早川秀秋見る目が変わりましたよ。
まあ史実ではおねねに「家康側に付け」と説得されているんだけどね
小早川云々以前にそもそも石田側の主流である毛利家、宇喜多家も分裂状態だったわけですからね。吉川広家は家康に逆らうのはあり得ないと毛利が石田に就くのに反対の立場ということで安国寺恵瓊と対立していましたし、宇喜多家も秀家といとこの直盛との間のいざこざで分裂していましたし。あとは前田家は徳川に完全屈服し、豊臣家は中立を保っていたという、それだけで勝負あったというものです。
ニコニコ動画にあるdebudaさんという方が製作投稿した『怨念が晴らせない ~KinGo!~』。
私はこの動画を見て小早川秀秋のイメージが変わりましたね。「何をか成し遂げたるや 俺の人生は何だ ゆえにいつか輪廻をするなれば ただの平穏なる境涯が欲しい」
大谷刑部との対比が鮮やかすぎるせうで過剰に嫌われてしまった印象
よくよく知ると天下人秀吉に人生を大きく狂わされてしまった可哀想な人という思いになる
秀吉とねねに早く後継者が生まれていたら多くの人の人生と歴史が変わっていたんだろうなと
もしかして世界史関連が全て終わったら「俺の日本史」が始まるのか?
期待大!
日本史終わったら「俺の宇宙史」行こう
血筋的には豊臣秀吉寄りだけど、徳川家康と近かった人。
上杉征伐がそのまま西軍に組み込まれ、関ヶ原に出陣するようになった。
後継者をを残さず早死にしたことによって家が潰れてしまったので、
裏切りだけがクローズアップされることになってしまった不運な人。
幕末の尾張藩主も越前松平も血統的にはどうかんがえても幕府側だったのに新政府に加担しています
でも小早川秀秋が裏切らなかったら今の日本は無いのか
秀秋が三成に味方する義理が全く無いが家康には恩がある。
当然過ぎる決心ではある。
関ヶ原の戦いの時、小早川秀秋はぎりぎりまで戦況を見ていて、有利の方に着こうとしてらしい。小早川は寝返らないし、徳川秀忠も上田城攻略で苦戦して、家康自身は相当焦っていたらしい。だから家康は小早川秀秋の部隊に向けて発砲したらしい。
学生時代に特に勉強せずに某乙女で女性化されてたので名前は知ってたがこういう人物と繋がりだからあのストーリーだったのか・・・
改めて歴史の勉強すると何で学生時代遊ぶ事優先して勉強しなかったんだと今なら思ってしまう位に歴史は面白いですね
一番好きな戦国武将が大谷吉継なのでもちろん小早川秀秋は嫌いなんだが、秀吉からの仕打ちを考えたら裏切りたくなるのも当然だよな〜。
ちなみにテレビドラマ「戦国自衛隊・関ヶ原の戦い」では藤原竜也が小早川秀秋を演じてたんだけど、「小早川秀秋がこんなかっこいい訳ない!」とツッコミ入れたくなった。
・・・、あ、カブトムシ君か(苦笑)🤣www
当時のツートップとも言える家康と三成を天秤にかけて、お互いからより良い条件を引き出しまくった小早川秀秋が愚者なわけないんだよなあ。
5大老筆頭の家康に比べたら三成は格下ですね。西軍の総大将として同じ5大老の毛利輝元を担ぎ上げる必要がある程の。
愚者だろw
そうじゃなければそれ以前に秀吉の命令通り毛利輝元の養子になってるわw
実績も今の路面電車の軌道を作ったくらいw
@@osamu0727
小早川家の家臣団のほぼ全てを毛利本家に返して
自分の家臣団を一から作り上げ、転封先の北九州の一地方で15000の兵を送り出すとか
朝鮮出兵では大将なのに先駆けして
味方を救い出してるし(秀吉には大将が前に出るな!と怒られた模様)
軍事、内政共に有能な大名なんだよなぁ…
家康と三成なんて今のアメリカと韓国ぐらい格が違う
三成が家康に比肩していたのは後世からの注目度だけだ
西軍について勝ったら関白になれたと思う。
小早川秀秋は関ヶ原がどうなっても毛利一門が残るように東側に分けられたって可能性は無いのかな(真田や九鬼みたいにどちらが勝とうと血は残せるし)
最近は戦闘開始直後に大谷勢に突っ込んだってのが有力みたいね。
けど、やっぱりどうしていいかわからずオロオロする秀秋さんのほうが面白いな。
秀秋「戦況はどうなってるのじゃ」
家来「お味方、やや優勢と」
秀秋「味方とはどっちじゃ」
ってなんかのドラマでやってた
裏切ったまま死んでしまったから、これ以上の評価ができないよね…
世界3大なんか説得力のある肖像画
・ジョン失地王
・小早川秀秋
・晩年のナポレオン
upする内容順が意味深ですなー
そそられます。
今度しくじり天皇に後醍醐天皇を加えてほしい
日本の皇室をニつに分け大乱を起こし崩壊寸前にした天皇
霊夢と早苗に解説してほしい
女官を落とし穴に落とすいたずらをしようとして滑って転んでそのまま死んだアホな天皇も居たような…
別チャンネルとして俺の日本史作ってほしい。
異なる東方キャラとオリジナルキャラを投入して
太子と布都とか良さそう
勲一等とも言える小早川秀秋調略を成功させ、東軍勝利のため政戦両略ですごく頑張った黒田長政がその後父親であるシメオン如水に「おめーのせいで関ヶ原が一日で終わったから九州取りそこねたじゃねーか」とキレられた話、可哀想すぎる。
8:25 秀頼に継がせる領地を増やしたいなら、わざわざ秀秋を筑前に復帰させる遺言を残さないと思うのだが…
秀秋が松尾山城に入った時、大垣城に居た報せを聞いた石田三成は関ヶ原まで急いで西軍を引いたと言う話を聞いたこともある。
また大谷刑部は最初から松尾山の小早川秀秋軍に向けて陣を構え、小早川軍を幾度と退けていたが、朽木ら他の大名の裏切りで大谷軍は崩壊した共。
この人物。豊臣家政権後期は徳川家の庇護の下だったそうで、家康とも近かった(利用される布石があった)。関ケ原後に変な死に方をした大名の一人。徳川家康得意の毒殺でしょうね。家康(有名なケチ)という人物が領地や金銭を気前よく振る舞う時は注意が必要。決してその場の気分で他人に良い物を与えない。確実に裏がある。
彼の人生を見ると秀吉のために振り回され続けた人生だったという思いが強かったんじゃないかな。小さい頃はいざ知らず、自我が芽生えて来たころに豊臣の養子から小早川に変更させられ、全く自分の意思がない。まああの時代、それが無理なのは分かるが、朝鮮での暴れっぷりを聞くにつけ、やっと自分が自由にできる環境だってなってしまったのかもしれない。その挙句、総大将がなにやってんだと叱責、減封、助けてくれたのが家康の口添え、この家康の…ってのも怪しい感じもするが、面白くない!って秀秋の気持ちの方が納得しやすい。西軍に極力関わらないように、伏見城攻め以降はほぼ傍観。本戦で最初からあるいは途中からかはともかく、関ヶ原のために生まれてきた人生だったように感じてならない。治世の面から再評価されてせめて裏切りの小早川一色から変わってくれればと思ってしまう。
小早川秀秋、脇坂安治は寝返った事について家康から咎めを受けていないので最初から内通していたと考えられる。実際、同じ寝返り組の朽木元綱、赤座直保、小川祐忠の三名は寝返ったことを咎められて取り潰されている。
関ケ原合戦以前の伏見城攻めの直前で秀秋は北政所を訪ねていたらしい。伏見城を守っていた側に秀秋の兄の木下勝俊がいて、そのまま攻めていたら一族同士討ちの危機だったからなのだろうが、どんな会話があったか?
俺の日本史チャンネルもおもろそう
でも世界史チャンネルで紹介する日本の歴史は「世界史の中の日本史」として消化して欲しい。主に近代だけど日本も世界に多大な影響与えてるからなぁ
20代で早死にしたから実像がわかりにくいのよね…
平岡頼勝とか稲葉正成とかの秀秋の下で働いてた旧臣はなんとでも言えただろうけど
小早川秀秋が一番目立つけど他の参加武将も裏切るタイミング探ったり消極的な動きしてたっぽい話もありますね、大谷吉継は三成の友としてがんばってたせいで全滅したご様子、大谷吉継さん好きです
開戦と同時に豊臣方に攻撃仕掛けたとも言われてるねこの人
豊臣方ではなく三成軍ですね。当時は東西両軍共々豊臣家の為と言って挙兵しましたから。その説は聞いたことがあります。
研究者の間では小早川秀秋が寝返る前に黒田長政が送った書状で私訳になりますが、「おね様が色々活動されてます。戦後おね様の立場が悪くならないように貴方も努めるべきです 」って手紙内容も大きかったのではないかとされていて、理由としは幼少期はおねの所で養育されているなど興味深ったです。
「家康に助力するために上杉討伐の兵を立ち上げたら関所が出来て勝手に東西に分割されてしまったでござる」
「何やら豊臣の為に逆賊を討つとか言っているけど奴の言う事は信用ならん」
創作作品では軟弱に描かれる事が多いですが、慶長の役の際に首級をあげる活躍を見せてるんですよね(お膳立て有かもですが)。
それを石田三成に「総大将のすることではない」と中央に報告されてしまった事もあり、年相応の血気盛んさを持っていて武断派寄りの考えを持っていてたのかも...。
生きていたら大坂の陣や島原の乱まで活躍したかも。
それまでに潰される確率の方が高いけど。
大谷吉継公は、結構いい人みたいになることが多いよなー。
19:48「徳川秀頼」ではなく、「豊臣秀頼」ですね^^;
人望の無い石田三成に肩入れする理由が無かったのかも…
徳川にとっては、返り忠してくれた功労者なのに
肖像画の目の焦点が合っていないのも、幼いころからアルコール漬けだったのなら納得できます。
西軍は人望に欠けていたと言われる石田三成が大将な時点で、狸親父と戦うのはほぼ無理ゲーだったわけね。
19:47 徳川秀頼
相当ストレスを受けたんだね( ´~`)💦21歳で死ぬなんて( T∀T)
三成に伊勢攻めを命じられたけど拒否して近江高宮(佐和山城から見える位置)に1ヶ月止まっているので、関ヶ原につく大分前に裏切りの腹を決めていたと思う。
最も嫌われている男、とはうまい評価だ
脇坂安治、吉川広家も西軍の攻撃妨害したのに小早川君可哀想だなぁ。(´・ω・`)
肖像画がまだ強そうならここまで悪く言われなかった様な
なんかいかにも優柔不断で軟弱そうな肖像画だし
人望の無い石田三成を排除しておけば三成憎しの豊臣恩顧の武将達が徳川方に付いて戦う事は無かったのにね。
小早川秀秋の次は私の大好きな武将大谷吉継を動画にして欲しい。
戦国の梟雄松永久秀、宇喜多直家も動画にしてほしいですね。
三成より毛利輝元が…あいつがいなかったら三成動けなかったわけだし、輝元は輝元で関が原以外で好き放題やってるし…
排除しておけば…つて誰が?少なくても家康じゃないし…
北政所の侍女に大谷刑部の母がいたことや公家の日記に西軍敗北の報で北政所が徒歩で逃げた、って記録があったりで、最近は別に北政所は親徳川でもなく、三成の方が刑部にのせられていたなんて説もあるみたいですね。
戦後に北政所が勝手に木下家の所領増やそうとして家康が激オコだったとかいう史料もあったりはするみたいで。
人望ないなんて今時どの学者も言ってないのに…
寧ろ取次ぐであった三成がいたからこそ西軍が成り立ってると証明されてるくらいなのに…事実伊達政宗除けば全員西軍に加入してる(真田毛利斎村佐竹相良上杉島津など
小早川秀秋「自分と同じく豊臣の養子になった秀次が謀反の濡れ衣で切腹させられた上に、自分も冤罪で丹波亀山城を没収されたンゴ……」
「朝鮮出兵して帰ってきたら石田三成に難癖つけられて大幅減封されたけど、秀吉が死んで徳川家康がとりなしてくれたから処分取り消しになったンゴ……」
「徳川と石田の対立で双方から厚遇の話が来てるけど、どっちにつくかは火を見るより明らかだよなあ!?」
そら関ヶ原で東軍に行きますわ
最近の研究だと当時の関ヶ原の戦いそのものも関ヶ原から少し離れた場所で行われ、序盤から東軍の圧勝だったみたい。そして裏切り者として描かれる小早川秀秋も最初から東軍側として行動してたらしい。
関ケ原は少なくとも名目上はあくまで豊臣政権下での派閥争いでした。
尾張で武将だった頃の家臣が主流の武断派はねねを支持し
計算に強い近江人が主流の文治派は浅井家出身の淀を支持する
そういうもっとハッキリとした派閥が存在していたと思う。
また真田家が左右に分かれて存続を模索したように毛利家のほうでもいとこの吉川広家が最初から徳川とのコネを持っていたわけで
小早川秀秋ももしかしたら最初から家康とのコネを持っていたと考えるべきではないのでしょうか。
なんにせよ権力のイッヌへヘイトが集まるのは三国志演義からの世の習い、
豊臣家の親族でありながら合戦後に大幅加増、そして急死によるお家断絶という運命をたどった秀秋がいわゆる世間のスケープゴートにされたのはかわいそうな話だと思いますが吉川と小早川の犠牲の上で毛利家が存続し明治維新につながったと思うと運命深いものを感じます。
もっと秀秋視点で丁寧に進めてほしかったな…
俺の世界史ch的な解説でコッチの方が好き 背景も整理されて分かりやすい
「秀吉が生前減封したものを死後加増」なんて真似したら、実質的には加増してくれるのは五大老筆頭として政務を預かる家康な訳で……
実際は家康というより秀吉の遺言によるものですけどね…
@@まかいチャンネル
婚姻や加増転封関連の遺言を結果的に後に破った家康ですから、遺言を守った=加増したのは家康の判断とも言えます
逆に三成は秀吉の最側近ですから、減封に関して関与を疑われかねない立場です
つまり秀秋からすれば加増してくれた家康と減封した三成になる訳で、心情的には最初から家康方だったんじゃないでしょうか
それでも当初西軍についていたのは脇坂や長曽我部のように通路を封鎖されて仕方なく、というのと、そもそも小早川自体が西軍総大将である毛利の分家筋で婚姻もしているからでしょうかね
@@貧弱一般未満人 いやいや、なんで遺言守った=加増したのは家康といえるんですか…それは家康であれは秀秋への遺言を無視できる立場って事を言いたいんですか?
あと三成は確かに秀吉に近い立場にいましたが、秀秋が越前転封が決まった時は会津にいますよ。
ちなみに何故秀秋が越前に移る事になったかは把握してますか?
質問多くてごめんなさい
@@まかいチャンネル
上の返信は幾つか事実誤認+一次資料で確認が取れない前提があったのであまり気にしないでください
ただ、『秀吉の遺言でやったことだから家康は全く関係ありません』というのは極論というか暴論の類でしょう 0か100かが過ぎます
そもそも転封の際にきっちりフォローが入っていればあのような家臣の散逸などが起こったとは考えづらいので、秀秋にとっても寝耳に水であったと思いますし(事前に秀秋への説明がありました的な一次資料があれば別です、その場合はごめんなさい)
『一旦お前転封して石高も減らすけど後で元に戻した上で加増もしてやるから恩に着てくれよな!』なんてのが通るかというとそんな訳ないですし
じゃあ浮いた『恩』がどこに行くかというと実際に復帰させる書状を出した5大老、その中でも筆頭である家康に行くというのは自然なように思います(実際には家康というよりも小早川の本家筋で姻戚関係もあった輝元の方が主に動いたんじゃないかなとは思っています ニワカなので参考文献等はありませんが)
三成は確かに会津にいましたし個人的にも転封には関わってないんじゃないかとは思っていますが、秀秋がどう思うかは別の話ですし、
そもそも貴方の主張している『越前転封は大陸出兵をより円滑に進めるため』と『三成は転封当時会津にいたので関係ない』は矛盾こそしていませんがなんというか噛み合わせが悪いと思います
大陸出兵がらみが理由の転封であれば数か月以上前から計画されていてもおかしくありませんし、そうなると会津に出向する前の三成が関与する余地が生まれるからです
@@貧弱一般未満人 別に全く家康は関与してないとは言ってないです。小早川秀秋の領地宛外書に五大老として家康の名前があるので。私が言いたいのは、あくまでも貴方がいう家康のおかげというのは違うって事が言いたい訳です。
それに暴論というわけではないですよ。ちゃんと証拠があります。
家康が慶長三年八月五日に五大老・五奉行で交わされた起請文の内容にて
御知行方之儀、秀頼様御成人候上、為御分別不被仰付以前ニ、不寄誰ニ御訴訟雖有之、一切不可申次之候、況手前之儀不可申上候、縦被下候共拝領仕間敷事、
にとあり、 これは家康が「五奉行」に差し出した起請文前書の一部であり、秀頼成人以前における「知行方之儀」については、どのような者から「御訴訟」-ここでは知行の加増を求める訴えをさすのであろう―があっても家康は決してこれについて「申次」を行わず、ましてや自身の知行などは決して要求しないし、たとえもし知行を与えると言われようとも、これを拝領しないとしている。(堀越2016
とあり、誓詞により、徳川家康は、どのような者から知行の加増を求める『御訴訟』があっても、決してこれについて「申次」を行わないことを誓っています
ちなみに小早川秀秋への筑後筑前を太閤様の遺命により与えるというのが実際毛利家文書に残ってます。
参考文献
堀越祐一豊臣政権の権力構造2016
黒田基樹2017
小早川隆景が生きていたら、三成が輝元を担ぎ出すのを許すはずもなく、西軍の編成自体ができなかっただろう
たしかに一理あるけど、対徳川では組んでいただろう。秀吉死後の家康は全権委任者として前田を屈服させ、次いで上杉征伐まで乗り出した。西国最大で徳川家とほぼ伍する石高を誇る毛利一門を放って置くことは考えられず、隆景も念には念で西軍を編成していたかもしれない。
秀吉が領地を削り、秀頼の代で加増することで秀頼への忠誠度を高めようとしたのかも知れませんね。
たぶんこの思惑が裏目に出た気はする
本人からしたら命懸けの戦場から帰ったら領地減らされて、
仕えたはずの、ましてや親戚の秀吉死んだら領地増えたやん!こっちはジジババの傀儡ちゃうねんぞくらいのプライドは持ってそう
これ見ても秀吉はボケてたのかと思う。
アル中やないか
喧嘩してるやつと、仲裁してる奴、客観的に見たらどちらにつくべきかは明らかだよな
関ヶ原の裏切り組は
脇坂安治は処分なし
赤座直保、小川祐忠は改易、
朽木元綱は減封されてる
小川祐忠は藤堂高虎と内通してたのに改易されてて可哀想
解説お疲れ様です
明智光秀「(*´∀`)=3 ホッ」
子供の頃(40年近く前)に読んだ「マンガ日本の歴史」での小早川の扱いはひどかった。
一人ではションベンもできない愚か者で、家康におどされて裏切り、その後秀吉の呪いに怯えて死んだって事になってた。
世界史は非常によく学ばれていらっしゃって、勉強になるといつも感じているのですが、日本史はイマイチかと思います
関ケ原の合戦は(内心はどうあれ)豊臣秀頼家臣の権力争いで、徳川家康は合戦後秀頼から報奨までもらっています。なので、その時点で豊臣家を守るもの(石田三成)VS豊臣家を潰すもの(徳川家康)と周りは考えておりません。
また、近年の研究では小早川秀秋は裏切ったのではなく当初から東軍だったのではという考えも強くなっています。
動画内でもおっしゃっていましたが、西軍の陣を奪って松尾山に陣地を引きました
なにより、戦後、徳川家康より小早川秀秋自身は報奨をもらい、他の裏切り者である脇坂や赤座たちは裏切りの罪で罰を与えられています。これは、少なくとも東軍内では小早川秀秋を裏切り者と考えていなかった証と言われています。
後世、江戸時代中に彼が裏切り者として扱われたのは事実ですが
木下家は江戸時代ずっと残っていてその中で豊臣秀頼とその息子を助けたのではと言われています、大坂の陣の後二人は生き残っていたというのです。息子はかなり可能性があるのではと僕は観ています。
なんで秀吉にあれだけ世話になったのに
豊臣政権を明らかに滅ぼそうとしていた東軍についたんだろう
秀吉に恩はあっても豊臣政権には恩がない。土地を安堵してもらう=前の恩はリセットされる。
全国規模で7公3民で麦等の裏作(通常、年貢の対象ではない)にまで年貢の対象になってこれも7公3民の二重課税で物品税(今でいう消費税?)も取るという重税社会で、耕作放棄した土地も強制没収と滅茶苦茶だったらしく、官兵衛も吉川広家宛の手紙に「太閤様は世間では評判最悪だった」と愚痴を漏らしてる…(官兵衛も母方の実家の明石家の人が秀次事件で殺されてる)
秀秋が石田の味方をする理由がないし、石田は秀秋を関白にできる権力はない。
小早川秀秋は鳥居元忠の伏見城攻めに際して伏見城に入ろうとして拒否されたと言われてるね(同じように島津氏も) なりゆきで仕方なく西軍にいたとも言われてるね
この人は可哀想な坊っちゃん。
母親も幼児の頃に亡くなり、それからは養子で周りぱっなし。
裏切りは別として本当に不幸な武将です。
自分が思っていた待遇、もしくは言質なりを得た待遇を家康からもらえなかったから、やけ酒しまくって急性アルコール中毒で逝ったのかと思ってました。
昔読んだ偉人伝記漫画でも大砲打ち込んだって描いてあったな。そういうの多いな。
桶狭間の戦いも全く奇襲じゃ無かったそうだし。
正軍の将 立花宗茂
西軍の将 立花宗茂
読み方は何方だろうか?
関ヶ原の合戦前に家康が伊賀衆を使って西軍の切り崩し工作を行っていた
明治40年(1907年)時事新報社と実業家・朝吹英二氏が東京帝国大学の渡辺世祐氏に三成の伝記執筆依頼、そして三玄院にある三成のものと思しき墓を「発掘」した。現代は伝記の為に戦国武将の首を発掘してまで書くだろうか?しかし彼らは実際に行った。そして石田三成とおぼしき頭蓋骨を発見して、石膏で型取りし記録、図面、写真、透視図を京都帝国大学解剖学教室の足立文太郎氏がバラバラになっていた頭蓋骨を復元、接合して確認している。その後三玄院に改葬だ・・・同じ京都にある信長の首塚は一切触らせないのにもかかわらず。考古学者としては貴重な事だが気の毒な気がする。しかも京都帝国大学が頭蓋骨の石膏像を「紛失」している、報告書に写真と図面は残っている。ずさんな管理だ。
徳川秀頼。。。。
紀州徳川家にいそうな名前w