平生昌の生涯 定子の出産のために屋敷を提供するも敵と勘違いされた忠臣【光る君へ】
Вставка
- Опубліковано 10 лип 2024
- 参考文献
法蔵館『角田文衛著作集 第4巻 (王朝文化の諸相)』
amzn.to/4cSFv12
安藤重和『枕草子「大進生昌が家に」の段をめぐる史的考察』
(愛知教育大学国語国文学研究室『国語国文学報』39,1982)
cir.nii.ac.jp/crid/1050845763...
河北騰『枕草子「大進生昌が家に」の一考察』
(立正大学國語國文学会『立正大学國語國文』33 1996)
dl.ndl.go.jp/pid/4418988/1/29
-----------------------------------
平生昌は、配流地から密入京した藤原伊周のことを道長に密告した人物とされ、定子を迎える際も道長に密かに通じ、自邸の門を貴人用の四足門ではなく質素な板門屋のまま迎えて定子に恥辱を与えたとされてきました。
ですが、実際の生昌は、伊周 定子のために働こうとしており、定子出産時も貴人用の四足門で迎えたばかりか、1年半に渡って定子を数少ない味方として支えています。
さらには、定子の死後も残された敦康親王や脩子内親王に仕え、自邸を脩子内親王に献上するなど、定子が出家した后として貴族社会で嫌われる中、権力者道長の圧力を気にせず尽くしたというのが本当の姿です。
今回は、不器用な性格ゆえに裏切り者と誤解され、清少納言ら女房衆からも嫌われてしまったものの、実際は一途に定子に忠義を尽くし続けていた平生昌の生涯について紹介します!
-----------------------------------
レキショック 公式Twitter
/ reki_shock_
中の人 個人Twitter
/ rekishock0919
レキショック WEBサイト
rekishock.com/
【画像引用】
大河ドラマ光る君へ公式サイト
www.nhk.jp/p/hikarukimie/ts/1...
#光る君へ #平生昌 #定子 #大河ドラマ
今までの動画で平生昌のことは参考文献を鵜呑みにして悪者扱いしていましたが、ちゃんと調べてみるとかなりの忠臣でした…
枕草子のイメージが先行していますが、この人なしでは定子の晩年は語れませんね。
間の悪さで未来永劫、状況を知らない人にまで詰られる事になろうとは。
この動画を見なければ、私は今後もずっと平生昌のことを誤解し続けていたことでしょう…。
誰もがなかなかできないことをし得た立派な人物だと思いました。
1000年前に、不器用にも誠実に生きていた人がいたことや、人間味ある人柄に親しみも覚えつつ、感慨深く拝聴しました。
たくさんの人に見てもらいたい動画です!
これこそ、明らかなとばっちりのようですね。定子や子供達に尽くし力添えしてきたのに、正反対の裏切り者呼ばわりを後世までされ気の毒です。伊周の入京では小右記の記録が漢文だから、ニュアンスが変わり伝わってしまったのでしょう。生冒がこの件での恩賞を受けていないのなら、やはり主要な関係者ではなさそうです。善意から伊周を支援しようとしていたのに、不憫です。門の格式でも、たまたま定子一行を歩かせる羽目になったようで、それが人目についてしまったため、黙っていられないタイプの清少納言にいろいろ非難され、その後も意地悪い言葉も浴びせられたと感じます。それでも、そういう当の本人を学識の高さで褒める生冒は、ちょっとお人好しでその場の空気を読めない気の利かなさが、余計清少納言の不興を買ったのだと思います。世慣れない生冒も、邸宅をバーターに播磨国司の官職を得るくらいは平安貴族だったことに、少し安心します。しかし、傾いた家運の者には誰も敢えて近づきたがらない中、生冒の存在は定子一家にとってはとても大きな支えだったろうと思うと、彼の行動を責めることはできません。一人物のイメージが大きく変わる動画でした。
清少納言の当たりがきついのは
兄惟仲のスケープゴートに
なっていたという見方もありますね
定子の出産に屋敷を提供したのに、清少納言始め女房の対応は理解できないと思っていました。いろいろ分かってきました。ありがとうございました
平生昌「不器用ですから」
枕草子のイメージか強かったので、動画の内容におどろきました。レキショックさま、たいへん勉強になる動画をありがとうございました!
生昌さん、数少ない定子様の味方であり、脩子さまへも忠実にお仕えしたのですね。惟仲の弟とは知りませんでした。兄が異例の出世を遂げたのに、よく腐らず実直に生きたと思います。清少納言のディスりがきつくて大変でしたね。
清少納言が定子さまを敬愛する姿には共感するけれど、身分で人を判断し、人柄を見て判断することをしない人だったのかな?(身分の低い者の家に 雪が降り積もっているありさまは良くないといったとか…?)
だとしたら残念です。身分制度の時代だから仕方ないとはいえ、人としての憐れみの心が薄い人だったのかなと。
でも、定子さまは人を見抜ける賢明なお方で、生昌さんも誠実な方だったのですね。
いつも配信楽しみにしています。
定子に一生懸命尽くしてたんですね
生没年不明のようで
結局、受領階級としてキャリアを終えた。中関白家が継続していたら、公卿に離れたかもしれない。
大河ドラマでは清少納言や宣孝が貧しい子らを侮蔑する様子もさらりと描かれていて、
当時平安京に於いてまひろのような博愛平等主義者は極めて珍しかっただろうなと改めて感じました