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いつも動画を興味深く拝見しています。今回も興味深い話しをありがとうございました。音楽と教養、ということについて、感じたこと、思い出したことがいくつかありますので列挙したいと思います。まずは、故桂米朝師匠のお書きになった、「落語の話」について。今回のお話と関係があるように思いましたので書きたいと思います。この本は今手元にないのでうろ覚えですが、落語家は大して教養もないが、落語を通していろいろ知るようになるという話しだったと思います。落語を演じるには、時代背景やその時代の風物、風俗などを知る必要があるから、落語家はそういうことを必然的に学ぶようになる。また、落語は聞いてわからなければ面白くないので、落語家はそういうことの説明を落語に入れ込んでいる。だから落語を聞いているうちに時代背景や風俗に精通するようになるという話しだったと思います。つまりクラシックをより楽しむには教養が必要だし、クラシックを聴くことでその時代についての理解が深まると言うことだと思います。次に「教養」について感じたことをお伝えしたいと思います。教養とは英語の「リベラルアーツ」の訳語で、翻訳すれば、自由になるための技術となります。考える幅を広げる技術、というわけです。私がクラシックを(自分から)聞くようになったのはごく最近ですが、その理由は、「これまで聴いてこなかった音楽を聴きたい」ということからでした。私は演奏家でも何でもないので、正直音楽を聴いても、取り立てて何かがわかるわけでもありません。そんな私でも最近は、バッハやヘンデルを聴いて、ああなるほど風雪に耐えた音楽というのは素晴らしいなあ、ぐらいのことを感じるようになりました。そうすると意外や意外、ジャズやブルース、ファンクも、クラシック音楽を聴く以前よりも楽しく聞けるようになりました。まあつまり音楽の幅が広がったと感じているわけです。教養のために音楽を聴くというとちょっと誤解があるかも知れませんが、クラシック音楽と縁がない私のような人でも、クラシック音楽と出会うことで人生が豊かになることはあると思います。音楽の入り口はいろいろだと思います。サラリーマンが商談のために音楽を聴くことも、まあそんなこともありかも、と思っていただければと思います。
今回も有難うございました!いつもワクワク聞かせていただいております。先生の、昔の授業中の読書青年ぶり、へぇぇ!それは見事!と感心しちゃいました(笑)音楽で心をときめさせ、深い感動を味わうことと「教養」は相入れないものかと思います。感動した音楽について、また、作曲家や演奏者について知識を増せば、さらに、感動の波が大きくなるのは、素晴らしいことではありますが。私は最近まであの慕うべき「幻想即興曲」がショパンの遺志に反して弟子がこっそり世に出したから今残っていることを知りませんでしたから、知った後は、「幻想即興曲」をより慕う気持ちが湧いています。
教養とは「経験や知識をしっかりと身につけることで養われる心の豊かさや品格」だそうです。だとしたら、好きという気持ちだけで聞いている人たちはそれプラス教養を兼ねる目的も加えて聞いたらもっと感性が磨かれるかもしれませんよね。
私はクラシックもロックもカントリーもブルースもフォークもカンツォーネもシャンソンも演歌も歌謡曲も皆同列に好きです。バッハやベートーベンを聴いているから教養があるなど思った事はありません。どんな音楽も全て心を癒してくれたり元気を与えたりしてくれます。でも、それぞれの音楽について知識を得る事はより以上楽しみで心を豊かにしてくれます。
バッハを例に挙げたお話をしていただいて、バッハファンとしてうれしいですね😊音楽を「教養」として聴くのでは、感動できないし面白くないですよね。クラシック音楽の場合は大昔の古い音楽ですので、その曲に関する教養があればより深く理解でき感動できるかと思います。私が10代で初めて「マタイ受難曲」をCD(リヒター盤)で聴いた時には、バッハやドイツ語やキリスト教の知識がほとんどなかったのであまりの長さに途中で寝落ちしまいましたが、冒頭の合唱だけでもこれはものすごい作品なんだと直感的に思いました。全曲聴けるようになるために、ドイツ語を勉強したり聖書を読んだりして最低限の「聴くための教養」を身に着けてから全曲通して聴き終えた時は、ものすごく感動したのを覚えています😄
激しく知的好奇心が刺激され音楽聴きたい欲が湧いてきますが、最後まで拝見すると激しく食欲が刺激され…です。😁
私はアマチュアオーケストラとそのメンバーとの室内楽演奏等をやってますが、分かりやすく言えば会社の同僚のやっているゴルフや草野球と同じですね。教養みたいな高尚なイメージは無いです。道楽?いや、煩悩?欲望の対象のような感じですね。お勉強は嫌いです😅でも車田さんの話は面白すぎて困ります!日本時間午前3時40分、また寝不足確定ですわ😆
クラシック音楽を聴くのに教養は不要だと思いますが、それを演奏するのには、特にプロの演者ならば、演奏する音楽に対する深い理解が必須だと思います。それを教養の一部と言っても良いかも知れません。それにしても、教養について話をすると、たいてい自慢話か嫌味になるなか、先生はそんなところが全くなくて、お話も考えることが多く大変勉強になりました。ありがとうございました。
同感です❣️私も音楽が好きで健康上プロには成らなかったけど80代後半に成っても歌って居ます🎶若い車田先生のお陰で癒されて学ばせて戴いて居ます💓🍀🍀🙏
私は、幼き時は、家の中で父がかけるレコードで、いろんな音楽を聴いておりました。その後、大きくなってからは、その曲が、どうして作られたのかを、いろいろな本で調べるようになりました。その事はよって、よりその曲が、理解できるようになりました。私は、こんなやり方でした。
物事を知るということには長い時間がかかる,私も自分の経験からそう思います。例えば私は中学生ぐらいから Goethe の Faust が大好きになり,以来大学でドイツ語を専攻するまでの間に様々な訳本を集めながら読んでいました。そのうちにある論文から,この Faust の台詞を音楽にした作曲家がいることを知りました。Liszt Faust-Sinfonie, Mahler Symphonie Nr.8, Schumann, Berlioz "Damnationn de Faust", Gounod "Margarete", Boito "Mefistofele", Buzzoni "Dr. Faust" etc. しかしながら,1970年代後半の日本ではこれらの音楽のレコードはほとんどなくて,輸入盤で見つけるしかありませんでした。お小遣いを握りしめて,秋葉原の輸入レコード店に通って随分探しました。すこしづつ目当てのレコード(当時は演奏家を選ぶほどこれらの曲には種類がなかったです)を見つけては買って聞きました。聴きながら,大好きな Faust の原文のどこを曲にしているのか注目しました。そうすると,同じ部分でも作曲家によって随分違ったアプローチがあるのだな,ということも楽しめるようになりました。例えば Liszt と Mahler では Faust の最後の部分「神秘の合唱」 Alles Vergängliche ist nur ein Gleichnis ... につける曲想が全然違う。また,Faust 本文ではなく別にリブレットを作っている Boito や Gounod, Berlioz の作品の台詞について考えてみたり…。これらを教養というのかどうか分かりませんが,時間を掛けて体験したことが,自分の身についた自覚できる知識にはなっています。そして視野が広がっていったことは確かです。
今日も、大きな啓発と励ましをありがとうございます。この国においては、音楽や文学やアート(広義)と言うアクセサリーを身につけている素敵な人々が大勢いいます。例えば、若者は、"Love & Peace” を掲げ、中南米の流行の歌い回しや奇抜なファッションを取り入れたりして街を闊歩しております。私も、音楽は愛であり、音楽は、私たちの活動力の証として実際に耳に聞こえてくる像であると信じております。また、音楽には、人を実際の行動に促すに足る大きな動機付けをもたらすパワーを秘めているとも信じております。それは、国境と国語と人種を超えた異文化に対して「謙遜に立ち向かう勇気」を醸しだすに足るパワーです。バッハが言う、行動が伴わない愛や信仰は無価値なものであると、これに、私も同意します。また、私たちの唇は、音楽を持って「愛」を触れ告げるツールなのだとも信じてております。
音楽にはいろいろなパワーがありますね😊😊
確かに未だに貴族が政治もスポーツもビジネスも独占していた時代の名残というのはありますよね。炎のランナーではハロルド・エイブラハムスがパリへ向かう船内でピアノ伴奏の歌を披露したり。私もなんか企業エリートの集まりみたいなところで結構ピアノが弾ける人が多いのを見るにつれ、ああピアノも教養なのかなと思うことがあります。
教養と雑学の違い、良くわかって頭がスッキリしました😊
教養の話とは、直接関係はしませんが、ある笑えるエピソードがありました。 大学でドイツ文学を講義している先生たちが、何かの集まりだったか、旅の徒然に、ドイツ文学者としては当然読んでいなければならない本(原語で読んだことがあるかではなかったと思いますが)なのに実は読んだことのなくて恥ずかしい本の題名を告白していくというゲームを始めました。最初のうちは、あまり一般に知られていない本ばかりを実は…、と言って告白していたのですが、だんだんとゲームに熱が入ってきて、ついにある教授があろうことか「ファウスト」の題名を叫んでしまったというものです。ドイツ文学者ですから、ファウストを読んでいないでドイツについて講義するのですから、とんでもないといえばとんでもないのですが、知識なんてなくても、大学の講義はできてしまうというのは、大学が悪いのか、学生が悪いのか、それとも文学なんてそんなものなのか…。鉄面皮で大学教員はできてしまうのでしょうかね? また、ドイツを専攻とする大学教員なのに、実は学生の時からドイツ語をやったこともなく、行ったこともない人が、教員に採用されてしまった、という話(大学もまさかその人がドイツの知識がほとんどないなんて思わないので、細かいドイツ(語)に関する知識の試問を面接でしなかったらしい)もありますが…。後でそれが大学にバレたのかまでは、当方は関知していません。では、また…
😊😊
昔はLPのジャケットを聴くたびに繰り返し読んだものですが、最近のサブスクだと解説はおろか演奏者の情報すら無かったりします。スコアの解説は数十年前のものがそのままだったり、なかなか手頃で信頼性の高い、良いガイドが少なくなった気がします。先生の解説は貴重ですね。
車田先生いつも素晴らしい投稿を拝聴させて頂く度「このようにお話する事ができれば。。。」と思い勉強させて頂いております。素敵なお声で決して押しつけがましくなくしかし本質をしっかりブレずにはっきり説得力をもってお話になるその姿勢がチャンネル登録者様が増えている要因ですね(*^_^*)私は3歳からピアノを弾いており高校から音楽科に進みました。ですから、普通科の音楽の授業をどのように進めるべきか試行錯誤を重ねて参りましたが車田先生の投稿を拝聴する度「私、結構イケてる授業かも」とほっとして自画自讃しております(爆)私も現在もピアノのレッスンに通っております。大学在学中に宮内庁の楽師から雅楽を学びました。笙と仕組みを同じくするパイプオルガンに興味をもち20年前からパイプオルガンも演奏を始めました。そのご縁でライプツィッヒのニコライ堂教会のコンサートに出演させて頂いたことでフランス音楽専門の私ですがドイツが好きになりました。海外でご活躍されながら日本に愛情を持ってをご覧になり発信していらっしゃり本当に素敵だなとリスペクトです!事後報告で失礼かつ僭越ながら私のマユミージチャンネルで海外でご活躍のオペラ歌手でクラッシック音楽の神髄と本質を語られていらっしゃる素敵なチャンネルとして車田先生の御投稿のご紹介を何度かさせて頂いております(^_^)毎回、本当に楽しみに致しております(^-^)これからもますますのご活躍を期待しております♬現役高校教師ピアニストマユミージュことMayumi
いつも楽しく拝見しています。今回は教養と音楽のお話しでした。「教養」とは何か?、難しい問題だと思います。私は教養とは相手を思いやる心かなー、と思ったりしています。
私もまさに、そう思うようになりました。知識を深めると、思いやりに繋がる、それ無しの知識は空しい、と。
学校の音楽の授業は、知識のみを問うテストがありました。「だからダメ」と言う意見もありそうですが、実技が全くダメな私にとっては、知識を問うテストは、大嫌いな音楽の授業で、唯一嫌いで無かった分野です。そして、大人になって、クラシック音楽にも興味が出てきた現在、少しはその時の知識が役に立っています。
私も、音楽が好きなので聴いている派です。音楽の事をもっと知りたくて、その音楽に関する情報を集めて学んでいるかんじです。音楽を深めるためには教養も必要だと感じています。
おっしゃるとおり知ったかぶりでマウント取ろうとしたりって多いですよね。合わせなきゃいけないのがめんどくさいです...が、ギスギスした状態で演奏したくもないですし。
「教養」を意識して音楽を聴いた事はないですが、曲の背景を知る事はとても楽しいです☺️ 背景を知ると演奏を深めれるような気がします🎵
背景を知ると、その曲の感情が理解しやすくなったりしますね😊😊
私は音大ピアノ専攻にいましたが、車田先生と意見同感です
音楽というかクラシックを聴くことは日常の1コマです。気に入った曲があれば何回も繰り返して聴くし、別の演奏家のも聴いたりもします。レコードとかCDにはライナーノートがついててそういったものを片手に聴くこともあります。うちの場合、音楽についての知識とかはライナーノート読んでるうちに身についたように思えます。クラシックカフェのような音楽番組を聴いて気に入った曲あったら、グーグルとかUA-camにある動画で調べて、ショップでCDとか買って聴くのもありかな、とは思うよ。好きだから聴く、それでいいと思うよ。
ブームっていかにも日本らしいです。音楽は教養?個人差はあるでしょうけど、私にとっては好きな物の一つです。(食べ物と大差はないです。W)
教養とは何かで思い出すのは 昔読んだ本に捕虜となった日本兵が一日一首万葉集の和歌を書いて極限にある自分を励ましたという話で 夜用を足すときに紙に書いたのか それとも小枝で地面に書いたのかもううろ覚えですが それが本当の教養だと思うとその作家は述べていました。先生のお話を聞いて改めて思い出しました。音楽も同じですね。自分を豊かにし時には救済にも伴侶ともなるそんな聴き方が出来たら最高だなぁと思います。
私は別に音楽が好きなことを触れ回っているわけではないのですが、雑学大好きな人から「音楽が好きなのにこんなことも知らないの」と煽られることがあります。じゃあその人が音楽について詳しいのかというと、ただ知識があるだけで音楽を多く聞いてきたわけでもありません。音楽が好きな人間同士だと「この曲のここがいいよね」とか、「この曲の半音の使い方がいいよね」みたいな会話ができて楽しいのですが、雑学大好きな人は知ってるか知らないかしか内容がないので、まったく楽しくもないですし、悔しい思いをすることもありません。特に最近になってこのタイプの人が増えたような気がしています。もはや「理解を深めること」は時代遅れなのかと思うことさえあります。なんだか浅い時代になりましたよね。
これは難しい問題ですね。クラシック音楽を深く知ろうとする時に知識は必要です。しかしそれが進みすぎた状況が日本にはあって他のジャンルを見下している傾向があります。日本の劇場に初めて訪れた観客は2度と来ないという方が多いのが何故か演奏家と製作側は知らねばなりません。
知識や雑学と、教養を分けて話されて頂いて分かりやすかったです。確かに、芸術は感覚だと思います。ある絵を見て引き込まれたから画家について調べる。ある曲を聴いて震えたから色々知りたくなった。というところから始まって、関連する歴史が知りたくなって、その国に行きたくなって。と広がって行って結果教養になる。だからそこに感情や感覚がなければ真の教養ではないのかも。
教養を意識する、って何なんでしょうねw私の場合は、単に好きだから、単に幸せな気持ちになれるから聴いているんですが。教養として音楽を聴いて、それは楽しいのでしょうか??「趣味はオペラ鑑賞です」「すごいね」別にすごくないんですが。。。単に音楽のジャンルの一つなんですが。。。深く追及する姿勢がないと失格なんでしょうかね。。。
同感です☺️好きだから聴いている、好きだから もっと知りたい。ただ、それだけなのに、、。「ピアノを聴きに行くの」「すごいねー❗️良いとこの お嬢さんみたい❗️」、、えっ?なにが?って、なります😅
@@あさ-u7w 失礼ながら良いとこのお嬢さん「みたい」がツボにはまってしまいましたw
@@MrMizyu1963 そうなんです💦「みたい」で、実際は一般小市民なんです~😂 本当のお嬢さまだったら、そんな事言われないですよねー😅
とても有益な動画だと思います。友人に共有させていただきます!
音楽から歴史が解ってくることが、モーツァルトの親父さんが幼い姉弟を連れてヨーロッパ中を旅行したとか、ハイドンが何故リストラされたのか歴史が判れば納得できますし。ショパン何故ワルシャワからなぜパリ行かないと行かなければ成らなかったのか。
車田さんが本がお好きと聞いてとても親しみを感じました。私も子どもの頃から本好きなので!おっしゃるように、本を読んでいて中に出てくる他の本や音楽、知りたくなってあれこれ探して読みますよね。教養とは、仕事やそんな積み重ねの中で身につくものだと思います。クラシック音楽を聴くようになって思うのは、キリスト教をもっと知っていたら…ということです。急がすマイペースで学べたらと思っていますけど…
知識偏重で音楽そのものはあまり深く聴かず… というのは、「ガイドブックに頼りすぎの観光旅行」と少し似ているかも。旅行である土地を訪ねても、ガイドブックで得た知識の再確認だけで通り過ぎてしまう…知識も大事だが、自分だけの深い体験で得たもの、学びも大切と思いました。
教養のために音楽を聞くって、聞いていても、楽しくない、どこがいいの?と魅力がわからないのでは‥💧
いつも楽しいお話ありがとうございます。自分はバッハのマタイ受難曲を聴いていて、生意気にも、プロの演奏家でもこの指揮者は楽譜を追っているだけでバッハの事をあまり知らないんじゃないかなぁ、なんて思う事もあります。鈴木雅明さんの指揮されたマタイ受難曲を始めて聴いた時、余りの素晴らしさに圧倒されました。他の著名な指揮者で聴いても心に響かなかったマタイ受難曲が感動的に心に響いたのです。鈴木氏の血肉となっている深い教養と信仰に裏打ちされた演奏であるからこそ感動的に響いたのだと思いました。ただ楽譜を追っているだけの演奏とはまるで違うと思いました。
バッハのことを知ったからとて指揮が上手く出来るなんてことはあり得ないことです。知識で音楽が上手く成る程音楽は安っぽくないです。それに指揮者だけが音楽をやっているのではありません。演奏家の腕前の方がもっと大事です。野球で言えば、いくら監督が良くても選手がダメなら勝てないのと同じですね。信仰心が強ければいい演奏が出来るのですか?信仰心がなければいい音楽家になれないのでしょうか?世界一流の演奏家でも宗教や神様などくそくらえ、という人もいくらでもいます。公に口には出さないですが。そういう人を何人か個人的に知っているので言わせてもらいました。音楽は宗教に左右される程安っぽくはないです。音楽はもっともっと上のレベルです。
@@daikimoto6725 バッハの事を知るとは、例えばマタイ受難曲を振るという段になって、合唱をどの位のサイズにするか、オケのサイズをどうするか、バランスをどうするかまたテンポとダイナミクスをどうするか、録音された場合どういう響きになるのかという事に対して明確なヴィジョンをもった指揮者であるのか?或いはそうではないのか?という意味です。ここでこの演奏はマタイには聴こえないという演奏を挙げるのは遠慮したいと思います。そういう細心の注意を払った演奏を自分は鈴木氏の演奏に感じました。そう感じない人ももちろんいる事は分かっています。それは個人の感性であると思います。信仰という意味で言えば鈴木氏にはカテドラルで多くの演奏をしてきた、という経験があります。カテドラルで一回も演奏した事のない指揮者とは響きの点で明確に違います。マタイ受難曲の例えば第1曲目、“娘たちよ、共に嘆きなさい“を音響的に聴いた場合、少年合唱が天からふりそそぐ音響が不可欠です。自分には天からふりそそぐ様に聞こえない演奏はマタイには聴こえません。此れも個人の感性ですので、いや、そうではないとか、演奏はそんなに安っぽいものではないとか個人が感じる事に対して論争をしても仕方のないものではないでしょうか。
@@ヒロヤン-x4t すみません、何度も。カテドラルの音響はそれぞれです。どのカテドラルも違った音響を持っています。録音もマイクをどこに置くかで決まってしまいます。音の帰りが遅い場合は不協和音になってしまいます。それは指揮者ではなくエンジニアが決めることです。カテドラルで多く演奏したから信仰心がある、というのはおかしいではないですか。信仰心を持たない人でもカテドラルで演奏出来ます。音楽は全ての壁を超えています。僕は47年間ヨーロッパに住んで音楽をやっていますが教会でのコンサートの時に信仰心がどうとか考える人はいないです。みんな音楽を聴きに来ているだけです。日本人はキリスト教というとすぐ神聖だと思う傾向にありますがそれは大きな間違いです。法王であれ神父であれみんな普通の人間です。悪いこともいっぱいしています。日本ではあまり報道されないかも知れませんが全世界で教会内での子供や青少年への性的虐待が大問題となっています。何百年も続いていたことですがここ30年くらいで段々と告発する人が増えて来ています。ドイツでは3千人を超えています。ヨーロッパでは脱退者が増えて教会の運営も段々と苦しくなっています。修理するお金がなく朽ち果てた教会もたくさんあります。ごめんなさい、音楽とは関係ないことを言って。でも教会と音楽を結びつけることは僕には理解できないのです。信仰心があればいい音楽が出来るとか、僕には想像出来ないです。マタイにしても合唱団の歌う一言一言が理解出来て初めて本当の感動があると思いますが。
@@daikimoto6725 カテドラルで多く演奏したから信仰心があるとは一言も言っていません。そもそも信仰心とは言っていません。文章をお確かめ下さい。鈴木氏が幼少よりプロテスタントであったという事は御本人も述べているとうりですが、鈴木氏にどの様な信仰心があるかは知る由もありません。信仰心とは別に幼少よりバッハのカンタータ等の教会音楽に触れる機会は信仰のない方より多かったと想像出来ます。つまり、バッハのカンタータやコラールはこの様に鳴らすべきという音が、幼少より自然に身体に染み付いていたと想像出来ます。鈴木氏のバッハのカンタータの録音は多数ありますが全て非常に残響の多い普通のクラシック音楽の録音のレベルからすればライヴネスが過ぎる位の音です。これがエンジニアが決めた音でしょうか?BIS には他にも尾高忠明氏の録音の中に同じエンジニアによる録音がありましたので聴いてみましたが普通のクラシック音楽の録音でした。そこから察するにこの音は鈴木氏が望んだ音という事になります。演奏家は演奏するだけ、音に関してはエンジニアまかせという演奏家は全くいないという事ではないと思いますが、少なくとも鈴木氏の録音に関しては鈴木氏の望んだ音という事が言えると思います。
@@ヒロヤン-x4t あなたは考え過ぎですよ。録音などというのはいつも思った通りには行かないのです。いつも条件が違うのです。僕はもう50年以上プロ生活をしていて数え切れない程の録音をやって来ました。指揮者の思った通りにも行かないしエンジニアの思った通りにも行かないのが現実なのです。テストにそんなに時間もかけられないし、ましてやお客がどれ程入るかで音響も変わって来るんです。夏と冬の服装でも音が違って来ます。毎回毎回条件が違うのです。演奏の出来もあるし。再生装置によっても音が全然違って来ます。理想の録音などないのです。みんなあなたが思っているような細かいことは考えていません。あなたにどれだけ現場での経験があるのか知りませんが。録音して半年も経てば色々なミスもどっちでもいいように思うようになるんです。聴く人にはそういうことは分からないですが。そんなものですよ。
知識と教養の違いですね。知識は手に入れれば満足。教養は深めていくことの喜びで、ゴールは無い。
グレゴリオ聖歌からお勉強ですね🎵あとは、民族音楽。五線譜はなかった時代の事やどの時代に流行りが流行ったのか‼️等の深い音楽史や西洋史などが不可欠かと。。。
ありがとうございます!!自分はとてもシンプルにクラシックが一番自分の心にフィットするからで、教養は後付けのようなものだと思っています。興味を持てば絶対にその作品の背後にあるものを知りたくなってしまい、自分で調べてしまいます。そして、自分にとってのクラシックはロックンロールみたいなものです(この表現伝わりますでしょうか?)。ポップスやロックというメジャー、メインストリームに対する一種の反抗心もあります。
バーンスタイン×ニューヨークフィルの、デュナーミクを効かせた情熱的な名演が一番好きだけど、それが「教養」だと思ったことは無いなぁ…
とっても良い話でした😊私も高校時代は図書館フル活用で、世界の文学をかじってました。やっぱ一番はドストエフスキーの「白痴」かな!読み終えた後、主人公の美しすぎる心に号泣。海外のものばかり読んでいたので、社会人になってから村上春樹を読んでしまいまして・・・春樹ファンには申し訳ないけど、ドストエフスキーの感動を知ってから読むと、「ライトノベル」でしかなくて😅教養を身につけるために音楽や小説を嗜むのは・・・、自然と小説やクラシック、哲学を読み漁るようになった私には理解できない考え方だけどまあ、人それぞれなのかな😉
おかげさまで、どんどんクラッシックが好きになっています。ありがとうございます
そもそも知的好奇心が無ければ教養は身につけられないと思います。クラシック音楽が好きでなければ音楽の知識は身につけられないし意味がない。好きではないものを知ったところでそれは雑学と変わらない。
「クラシック音楽っていうのは昔の流行音楽なんよ」と学生時代に友人から教えてもらったことがあります。今でも残っているということは当時のベストな音楽で、いいものなんだから気楽に聞け、という主張でした。今はネットなどに各種解説があって、当時の社会システムや産業技術レベルも知ることができますから、もっともっと楽しめるはずです。コミュニケーションツールにもなるはずです。それがすなわち教養なのだと思います。さらに最近は激安楽器もありますから、その気になれば演奏する側に立つこともできます。そうすればプロのすごさも分かってさらに面白いのですけどね。
教養が大切なクラシック音楽も、教養がなくても楽しめるものも、どちらも魅力的に感じています。これから先、長い年月をかけて音楽を理解出来るようになれたなら、人生がより豊かになりますね。いつも興味深いテーマのお話を聞かせていただき、ありがとうございます。
教養には「基本的に持つべき知識」のような意味があると思いますが、我々のように趣味で音楽をやったり聴いたりしている人間にとって音楽は確かに教養ではありません。ですが音楽を仕事にしている人はどうでしょうか。音楽家にとって、音楽の知識は「基本的に持つべき知識」になったのではないですか。音楽家が音楽の知識を持っていなければ、それは勉強不足、怠慢と言わざるを得ません。ただの人が音楽家になった瞬間から、その人の音楽の知識は「実践的教養」に昇華するのだと私は考えます。
賛成➰‼️
いつも動画を興味深く拝見しています。今回も興味深い話しをありがとうございました。
音楽と教養、ということについて、感じたこと、思い出したことがいくつかありますので列挙したいと思います。まずは、故桂米朝師匠のお書きになった、「落語の話」について。今回のお話と関係があるように思いましたので書きたいと思います。
この本は今手元にないのでうろ覚えですが、落語家は大して教養もないが、落語を通していろいろ知るようになるという話しだったと思います。落語を演じるには、時代背景やその時代の風物、風俗などを知る必要があるから、落語家はそういうことを必然的に学ぶようになる。また、落語は聞いてわからなければ面白くないので、落語家はそういうことの説明を落語に入れ込んでいる。だから落語を聞いているうちに時代背景や風俗に精通するようになるという話しだったと思います。つまりクラシックをより楽しむには教養が必要だし、クラシックを聴くことでその時代についての理解が深まると言うことだと思います。
次に「教養」について感じたことをお伝えしたいと思います。教養とは英語の「リベラルアーツ」の訳語で、翻訳すれば、自由になるための技術となります。考える幅を広げる技術、というわけです。私がクラシックを(自分から)聞くようになったのはごく最近ですが、その理由は、「これまで聴いてこなかった音楽を聴きたい」ということからでした。私は演奏家でも何でもないので、正直音楽を聴いても、取り立てて何かがわかるわけでもありません。そんな私でも最近は、バッハやヘンデルを聴いて、ああなるほど風雪に耐えた音楽というのは素晴らしいなあ、ぐらいのことを感じるようになりました。そうすると意外や意外、ジャズやブルース、ファンクも、クラシック音楽を聴く以前よりも楽しく聞けるようになりました。まあつまり音楽の幅が広がったと感じているわけです。
教養のために音楽を聴くというとちょっと誤解があるかも知れませんが、クラシック音楽と縁がない私のような人でも、クラシック音楽と出会うことで人生が豊かになることはあると思います。音楽の入り口はいろいろだと思います。サラリーマンが商談のために音楽を聴くことも、まあそんなこともありかも、と思っていただければと思います。
今回も有難うございました!いつもワクワク聞かせていただいております。先生の、昔の授業中の読書青年ぶり、へぇぇ!それは見事!と感心しちゃいました(笑)
音楽で心をときめさせ、深い感動を味わうことと「教養」は相入れないものかと思います。感動した音楽について、また、作曲家や演奏者について知識を増せば、さらに、感動の波が大きくなるのは、素晴らしいことではありますが。
私は最近まであの慕うべき「幻想即興曲」がショパンの遺志に反して弟子がこっそり世に出したから今残っていることを知りませんでしたから、知った後は、「幻想即興曲」をより慕う気持ちが湧いています。
教養とは「経験や知識をしっかりと身につけることで養われる心の豊かさや品格」だそうです。だとしたら、好きという気持ちだけで聞いている人たちはそれプラス教養を兼ねる目的も加えて聞いたらもっと感性が磨かれるかもしれませんよね。
私はクラシックもロックもカントリーもブルースもフォークもカンツォーネもシャンソンも演歌も歌謡曲も皆同列に好きです。バッハやベートーベンを聴いているから教養があるなど思った事はありません。どんな音楽も全て心を癒してくれたり元気を与えたりしてくれます。でも、それぞれの音楽について知識を得る事はより以上楽しみで心を豊かにしてくれます。
バッハを例に挙げたお話をしていただいて、バッハファンとしてうれしいですね😊
音楽を「教養」として聴くのでは、感動できないし面白くないですよね。
クラシック音楽の場合は大昔の古い音楽ですので、その曲に関する教養があればより深く理解でき感動できるかと思います。
私が10代で初めて「マタイ受難曲」をCD(リヒター盤)で聴いた時には、バッハやドイツ語やキリスト教の知識がほとんどなかったので
あまりの長さに途中で寝落ちしまいましたが、冒頭の合唱だけでもこれはものすごい作品なんだと直感的に思いました。
全曲聴けるようになるために、ドイツ語を勉強したり聖書を読んだりして最低限の「聴くための教養」を身に着けてから
全曲通して聴き終えた時は、ものすごく感動したのを覚えています😄
激しく知的好奇心が刺激され音楽聴きたい欲が湧いてきますが、最後まで拝見すると激しく食欲が刺激され…です。😁
私はアマチュアオーケストラとそのメンバーとの室内楽演奏等をやってますが、分かりやすく言えば会社の同僚のやっているゴルフや草野球と同じですね。教養みたいな高尚なイメージは無いです。道楽?いや、煩悩?欲望の対象のような感じですね。お勉強は嫌いです😅
でも車田さんの話は面白すぎて困ります!日本時間午前3時40分、また寝不足確定ですわ😆
クラシック音楽を聴くのに教養は不要だと思いますが、それを演奏するのには、特にプロの演者ならば、演奏する音楽に対する深い理解が必須だと思います。それを教養の一部と言っても良いかも知れません。
それにしても、教養について話をすると、たいてい自慢話か嫌味になるなか、先生はそんなところが全くなくて、お話も考えることが多く大変勉強になりました。ありがとうございました。
同感です❣️
私も音楽が好きで健康上
プロには成らなかったけど80代後半に成っても歌って居ます🎶
若い車田先生のお陰で癒されて学ばせて戴いて居ます
💓🍀🍀🙏
私は、幼き時は、家の中で父がかけるレコードで、いろんな音楽を聴いておりました。その後、大きくなってからは、その曲が、どうして作られたのかを、いろいろな本で調べるようになりました。その事はよって、よりその曲が、理解できるようになりました。私は、こんなやり方でした。
物事を知るということには長い時間がかかる,私も自分の経験からそう思います。
例えば私は中学生ぐらいから Goethe の Faust が大好きになり,以来大学でドイツ語を専攻するまでの間に様々な訳本を集めながら読んでいました。そのうちにある論文から,この Faust の台詞を音楽にした作曲家がいることを知りました。Liszt Faust-Sinfonie, Mahler Symphonie Nr.8, Schumann, Berlioz "Damnationn de Faust", Gounod "Margarete", Boito "Mefistofele", Buzzoni "Dr. Faust" etc. しかしながら,1970年代後半の日本ではこれらの音楽のレコードはほとんどなくて,輸入盤で見つけるしかありませんでした。お小遣いを握りしめて,秋葉原の輸入レコード店に通って随分探しました。すこしづつ目当てのレコード(当時は演奏家を選ぶほどこれらの曲には種類がなかったです)を見つけては買って聞きました。
聴きながら,大好きな Faust の原文のどこを曲にしているのか注目しました。そうすると,同じ部分でも作曲家によって随分違ったアプローチがあるのだな,ということも楽しめるようになりました。例えば Liszt と Mahler では Faust の最後の部分「神秘の合唱」 Alles Vergängliche ist nur ein Gleichnis ... につける曲想が全然違う。また,Faust 本文ではなく別にリブレットを作っている Boito や Gounod, Berlioz の作品の台詞について考えてみたり…。これらを教養というのかどうか分かりませんが,時間を掛けて体験したことが,自分の身についた自覚できる知識にはなっています。そして視野が広がっていったことは確かです。
今日も、大きな啓発と励ましをありがとうございます。
この国においては、音楽や文学やアート(広義)と言うアクセサリーを身につけている素敵な人々が大勢いいます。
例えば、若者は、"Love & Peace” を掲げ、中南米の流行の歌い回しや奇抜なファッションを取り入れたりして街を闊歩しております。
私も、音楽は愛であり、音楽は、私たちの活動力の証として実際に耳に聞こえてくる像であると信じております。
また、音楽には、人を実際の行動に促すに足る大きな動機付けをもたらすパワーを秘めているとも信じております。
それは、国境と国語と人種を超えた異文化に対して「謙遜に立ち向かう勇気」を醸しだすに足るパワーです。
バッハが言う、行動が伴わない愛や信仰は無価値なものであると、これに、私も同意します。
また、私たちの唇は、音楽を持って「愛」を触れ告げるツールなのだとも信じてております。
音楽にはいろいろなパワーがありますね😊😊
確かに未だに貴族が政治もスポーツもビジネスも独占していた時代の名残というのはありますよね。
炎のランナーではハロルド・エイブラハムスがパリへ向かう船内でピアノ伴奏の歌を披露したり。
私もなんか企業エリートの集まりみたいなところで結構ピアノが弾ける人が多いのを見るにつれ、ああピアノも教養なのかなと思うことがあります。
教養と雑学の違い、良くわかって頭がスッキリしました😊
教養の話とは、直接関係はしませんが、ある笑えるエピソードがありました。
大学でドイツ文学を講義している先生たちが、何かの集まりだったか、旅の徒然に、ドイツ文学者としては当然読んでいなければならない本(原語で読んだことがあるかではなかったと思いますが)なのに実は読んだことのなくて恥ずかしい本の題名を告白していくというゲームを始めました。最初のうちは、あまり一般に知られていない本ばかりを実は…、と言って告白していたのですが、だんだんとゲームに熱が入ってきて、ついにある教授があろうことか「ファウスト」の題名を叫んでしまったというものです。ドイツ文学者ですから、ファウストを読んでいないでドイツについて講義するのですから、とんでもないといえばとんでもないのですが、知識なんてなくても、大学の講義はできてしまうというのは、大学が悪いのか、学生が悪いのか、それとも文学なんてそんなものなのか…。鉄面皮で大学教員はできてしまうのでしょうかね? また、ドイツを専攻とする大学教員なのに、実は学生の時からドイツ語をやったこともなく、行ったこともない人が、教員に採用されてしまった、という話(大学もまさかその人がドイツの知識がほとんどないなんて思わないので、細かいドイツ(語)に関する知識の試問を面接でしなかったらしい)もありますが…。後でそれが大学にバレたのかまでは、当方は関知していません。では、また…
😊😊
昔はLPのジャケットを聴くたびに繰り返し読んだものですが、最近のサブスクだと解説はおろか演奏者の情報すら無かったりします。スコアの解説は数十年前のものがそのままだったり、なかなか手頃で信頼性の高い、良いガイドが少なくなった気がします。先生の解説は貴重ですね。
😊😊
車田先生
いつも素晴らしい投稿を拝聴させて頂く度
「このようにお話する事ができれば。。。」と思い勉強させて頂いております。
素敵なお声で決して押しつけがましくなく
しかし本質をしっかりブレずにはっきり説得力をもってお話になるその姿勢が
チャンネル登録者様が増えている要因ですね(*^_^*)
私は3歳からピアノを弾いており高校から音楽科に進みました。
ですから、普通科の音楽の授業をどのように進めるべきか
試行錯誤を重ねて参りましたが
車田先生の投稿を拝聴する度
「私、結構イケてる授業かも」とほっとして自画自讃しております(爆)
私も現在もピアノのレッスンに通っております。
大学在学中に宮内庁の楽師から雅楽を学びました。
笙と仕組みを同じくするパイプオルガンに興味をもち
20年前からパイプオルガンも演奏を始めました。
そのご縁で
ライプツィッヒのニコライ堂教会のコンサートに出演させて頂いたことで
フランス音楽専門の私ですがドイツが好きになりました。
海外でご活躍されながら日本に愛情を持ってをご覧になり発信していらっしゃり本当に素敵だなとリスペクトです!
事後報告で失礼かつ僭越ながら
私のマユミージチャンネルで
海外でご活躍のオペラ歌手でクラッシック音楽の神髄と本質を語られていらっしゃる素敵なチャンネルとして
車田先生の御投稿のご紹介を何度かさせて頂いております(^_^)
毎回、本当に楽しみに致しております(^-^)
これからもますますのご活躍を期待しております♬
現役高校教師ピアニストマユミージュことMayumi
😊😊
いつも楽しく拝見しています。今回は教養と音楽のお話しでした。「教養」とは何か?、難しい問題だと思います。私は教養とは相手を思いやる心かなー、と思ったりしています。
私もまさに、そう思うようになりました。知識を深めると、思いやりに繋がる、それ無しの知識は空しい、と。
学校の音楽の授業は、知識のみを問うテストがありました。「だからダメ」と言う意見もありそうですが、実技が全くダメな私にとっては、知識を問うテストは、大嫌いな音楽の授業で、唯一嫌いで無かった分野です。そして、大人になって、クラシック音楽にも興味が出てきた現在、少しはその時の知識が役に立っています。
私も、音楽が好きなので聴いている派です。音楽の事をもっと知りたくて、その音楽に関する情報を集めて学んでいるかんじです。音楽を深めるためには教養も必要だと感じています。
おっしゃるとおり知ったかぶりでマウント取ろうとしたりって多いですよね。合わせなきゃいけないのがめんどくさいです...が、ギスギスした状態で演奏したくもないですし。
「教養」を意識して音楽を聴いた事はないですが、曲の背景を知る事はとても楽しいです☺️ 背景を知ると演奏を深めれるような気がします🎵
背景を知ると、その曲の感情が理解しやすくなったりしますね😊😊
私は音大ピアノ専攻にいましたが、車田先生と意見同感です
音楽というかクラシックを聴くことは日常の1コマです。気に入った曲があれば何回も繰り返して聴くし、別の演奏家のも聴いたりもします。レコードとかCDにはライナーノートがついててそういったものを片手に聴くこともあります。うちの場合、音楽についての知識とかはライナーノート読んでるうちに身についたように思えます。クラシックカフェのような音楽番組を聴いて気に入った曲あったら、グーグルとかUA-camにある動画で調べて、ショップでCDとか買って聴くのもありかな、とは思うよ。好きだから聴く、それでいいと思うよ。
ブームっていかにも日本らしいです。
音楽は教養?
個人差はあるでしょうけど、私にとっては好きな物の一つです。(食べ物と大差はないです。W)
教養とは何かで思い出すのは 昔読んだ本に捕虜となった日本兵が一日一首万葉集の和歌を書いて極限にある自分を励ましたという話で 夜用を足すときに紙に書いたのか それとも小枝で地面に書いたのかもううろ覚えですが それが本当の教養だと思うとその作家は述べていました。先生のお話を聞いて改めて思い出しました。音楽も同じですね。自分を豊かにし時には救済にも伴侶ともなるそんな聴き方が出来たら最高だなぁと思います。
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私は別に音楽が好きなことを触れ回っているわけではないのですが、雑学大好きな人から「音楽が好きなのにこんなことも知らないの」と煽られることがあります。じゃあその人が音楽について詳しいのかというと、ただ知識があるだけで音楽を多く聞いてきたわけでもありません。音楽が好きな人間同士だと「この曲のここがいいよね」とか、「この曲の半音の使い方がいいよね」みたいな会話ができて楽しいのですが、雑学大好きな人は知ってるか知らないかしか内容がないので、まったく楽しくもないですし、悔しい思いをすることもありません。特に最近になってこのタイプの人が増えたような気がしています。もはや「理解を深めること」は時代遅れなのかと思うことさえあります。なんだか浅い時代になりましたよね。
これは難しい問題ですね。クラシック音楽を深く知ろうとする時に知識は必要です。しかしそれが進みすぎた状況が日本にはあって他のジャンルを見下している傾向があります。
日本の劇場に初めて訪れた観客は2度と来ないという方が多いのが何故か演奏家と製作側は知らねばなりません。
知識や雑学と、教養を分けて話されて頂いて分かりやすかったです。確かに、芸術は感覚だと思います。ある絵を見て引き込まれたから画家について調べる。ある曲を聴いて震えたから色々知りたくなった。というところから始まって、関連する歴史が知りたくなって、その国に行きたくなって。と広がって行って結果教養になる。だからそこに感情や感覚がなければ真の教養ではないのかも。
教養を意識する、って何なんでしょうねw
私の場合は、単に好きだから、単に幸せな気持ちになれるから聴いているんですが。
教養として音楽を聴いて、それは楽しいのでしょうか??
「趣味はオペラ鑑賞です」「すごいね」
別にすごくないんですが。。。単に音楽のジャンルの一つなんですが。。。
深く追及する姿勢がないと失格なんでしょうかね。。。
同感です☺️
好きだから聴いている、好きだから もっと知りたい。ただ、それだけなのに、、。
「ピアノを聴きに行くの」「すごいねー❗️良いとこの お嬢さんみたい❗️
」、、えっ?なにが?って、なります😅
😊😊
@@あさ-u7w 失礼ながら良いとこのお嬢さん「みたい」がツボにはまってしまいましたw
@@MrMizyu1963 そうなんです💦
「みたい」で、実際は一般小市民なんです~😂 本当のお嬢さまだったら、そんな事言われないですよねー😅
とても有益な動画だと思います。
友人に共有させていただきます!
音楽から歴史が解ってくることが、モーツァルトの親父さんが幼い姉弟を連れてヨーロッパ中を旅行したとか、ハイドンが何故リストラされたのか歴史が判れば納得できますし。ショパン何故ワルシャワからなぜパリ行かないと行かなければ成らなかったのか。
車田さんが本がお好きと聞いてとても親しみを感じました。
私も子どもの頃から本好きなので!
おっしゃるように、本を読んでいて中に出てくる他の本や音楽、知りたくなってあれこれ探して読みますよね。
教養とは、仕事やそんな積み重ねの中で身につくものだと思います。
クラシック音楽を聴くようになって思うのは、キリスト教をもっと知っていたら…ということです。
急がすマイペースで学べたらと思っていますけど…
知識偏重で音楽そのものはあまり深く聴かず… というのは、「ガイドブックに頼りすぎの観光旅行」と少し似ているかも。旅行である土地を訪ねても、ガイドブックで得た知識の再確認だけで通り過ぎてしまう…
知識も大事だが、自分だけの深い体験で得たもの、学びも大切と思いました。
教養のために音楽を聞くって、聞いていても、楽しくない、どこがいいの?と魅力がわからないのでは‥💧
いつも楽しいお話ありがとうございます。自分はバッハのマタイ受難曲を聴いていて、生意気にも、プロの演奏家でもこの指揮者は楽譜を追っているだけでバッハの事をあまり知らないんじゃないかなぁ、なんて思う事もあります。鈴木雅明さんの指揮されたマタイ受難曲を始めて聴いた時、余りの素晴らしさに圧倒されました。他の著名な指揮者で聴いても心に響かなかったマタイ受難曲が感動的に心に響いたのです。鈴木氏の血肉となっている深い教養と信仰に裏打ちされた演奏であるからこそ感動的に響いたのだと思いました。ただ楽譜を追っているだけの演奏とはまるで違うと思いました。
バッハのことを知ったからとて指揮が上手く出来るなんてことはあり得ないことです。
知識で音楽が上手く成る程音楽は安っぽくないです。
それに指揮者だけが音楽をやっているのではありません。
演奏家の腕前の方がもっと大事です。
野球で言えば、いくら監督が良くても選手がダメなら勝てないのと同じですね。
信仰心が強ければいい演奏が出来るのですか?
信仰心がなければいい音楽家になれないのでしょうか?
世界一流の演奏家でも宗教や神様などくそくらえ、という人もいくらでもいます。
公に口には出さないですが。そういう人を何人か個人的に知っているので
言わせてもらいました。
音楽は宗教に左右される程安っぽくはないです。
音楽はもっともっと上のレベルです。
@@daikimoto6725
バッハの事を知るとは、例えばマタイ受難曲を振るという段になって、合唱をどの位のサイズにするか、オケのサイズをどうするか、バランスをどうするかまたテンポとダイナミクスをどうするか、録音された場合どういう響きになるのかという事に対して明確なヴィジョンをもった指揮者であるのか?或いはそうではないのか?という意味です。ここでこの演奏はマタイには聴こえないという演奏を挙げるのは遠慮したいと思います。そういう細心の注意を払った演奏を自分は鈴木氏の演奏に感じました。そう感じない人ももちろんいる事は分かっています。それは個人の感性であると思います。信仰という意味で言えば鈴木氏にはカテドラルで多くの演奏をしてきた、という経験があります。カテドラルで一回も演奏した事のない指揮者とは響きの点で明確に違います。マタイ受難曲の例えば第1曲目、“娘たちよ、共に嘆きなさい“を音響的に聴いた場合、少年合唱が天からふりそそぐ音響が不可欠です。自分には天からふりそそぐ様に聞こえない演奏はマタイには聴こえません。此れも個人の感性ですので、いや、そうではないとか、演奏はそんなに安っぽいものではないとか個人が感じる事に対して論争をしても仕方のないものではないでしょうか。
@@ヒロヤン-x4t すみません、何度も。
カテドラルの音響はそれぞれです。どのカテドラルも違った音響を持っています。
録音もマイクをどこに置くかで決まってしまいます。音の帰りが遅い場合は不協和音になってしまいます。それは指揮者ではなくエンジニアが決めることです。
カテドラルで多く演奏したから信仰心がある、というのはおかしいではないですか。
信仰心を持たない人でもカテドラルで演奏出来ます。音楽は全ての壁を超えています。僕は47年間ヨーロッパに住んで音楽をやっていますが教会でのコンサートの時に信仰心がどうとか考える人はいないです。みんな音楽を聴きに来ているだけです。
日本人はキリスト教というとすぐ神聖だと思う傾向にありますがそれは大きな間違いです。法王であれ神父であれみんな普通の人間です。悪いこともいっぱいしています。日本ではあまり報道されないかも知れませんが全世界で教会内での子供や青少年への性的虐待が大問題となっています。
何百年も続いていたことですがここ30年くらいで段々と告発する人が増えて来ています。ドイツでは3千人を超えています。
ヨーロッパでは脱退者が増えて教会の運営も段々と苦しくなっています。修理するお金がなく朽ち果てた教会もたくさんあります。
ごめんなさい、音楽とは関係ないことを言って。でも教会と音楽を結びつけることは僕には理解できないのです。信仰心があればいい音楽が出来るとか、僕には想像出来ないです。
マタイにしても合唱団の歌う一言一言が理解出来て初めて本当の感動があると思いますが。
@@daikimoto6725
カテドラルで多く演奏したから信仰心があるとは一言も言っていません。そもそも信仰心とは言っていません。文章をお確かめ下さい。鈴木氏が幼少よりプロテスタントであったという事は御本人も述べているとうりですが、鈴木氏にどの様な信仰心があるかは知る由もありません。信仰心とは別に幼少よりバッハのカンタータ等の教会音楽に触れる機会は信仰のない方より多かったと想像出来ます。つまり、バッハのカンタータやコラールはこの様に鳴らすべきという音が、幼少より自然に身体に染み付いていたと想像出来ます。鈴木氏のバッハのカンタータの録音は多数ありますが全て非常に残響の多い普通のクラシック音楽の録音のレベルからすればライヴネスが過ぎる位の音です。これがエンジニアが決めた音でしょうか?BIS には他にも尾高忠明氏の録音の中に同じエンジニアによる録音がありましたので聴いてみましたが普通のクラシック音楽の録音でした。そこから察するにこの音は鈴木氏が望んだ音という事になります。演奏家は演奏するだけ、音に関してはエンジニアまかせという演奏家は全くいないという事ではないと思いますが、少なくとも鈴木氏の録音に関しては鈴木氏の望んだ音という事が言えると思います。
@@ヒロヤン-x4t あなたは考え過ぎですよ。録音などというのはいつも思った通りには行かないのです。いつも条件が違うのです。
僕はもう50年以上プロ生活をしていて数え切れない程の録音をやって来ました。
指揮者の思った通りにも行かないしエンジニアの思った通りにも行かないのが現実なのです。テストにそんなに時間もかけられないし、ましてやお客がどれ程入るかで音響も変わって来るんです。夏と冬の服装でも音が違って来ます。毎回毎回条件が違うのです。演奏の出来もあるし。
再生装置によっても音が全然違って来ます。理想の録音などないのです。
みんなあなたが思っているような細かいことは考えていません。あなたにどれだけ現場での経験があるのか知りませんが。
録音して半年も経てば色々なミスもどっちでもいいように思うようになるんです。
聴く人にはそういうことは分からないですが。
そんなものですよ。
知識と教養の違いですね。知識は手に入れれば満足。教養は深めていくことの喜びで、ゴールは無い。
グレゴリオ聖歌からお勉強ですね🎵あとは、民族音楽。五線譜はなかった時代の事やどの時代に流行りが流行ったのか‼️等の深い音楽史や西洋史などが不可欠かと。。。
ありがとうございます!!
自分はとてもシンプルにクラシックが一番自分の心にフィットするからで、教養は後付けのようなものだと思っています。
興味を持てば絶対にその作品の背後にあるものを知りたくなってしまい、自分で調べてしまいます。
そして、自分にとってのクラシックはロックンロールみたいなものです(この表現伝わりますでしょうか?)。
ポップスやロックというメジャー、メインストリームに対する一種の反抗心もあります。
バーンスタイン×ニューヨークフィルの、デュナーミクを効かせた情熱的な名演が一番好きだけど、それが「教養」だと思ったことは無いなぁ…
とっても良い話でした😊
私も高校時代は図書館フル活用で、世界の文学をかじってました。
やっぱ一番はドストエフスキーの「白痴」かな!
読み終えた後、主人公の美しすぎる心に号泣。
海外のものばかり読んでいたので、社会人になってから村上春樹を読んでしまいまして・・・
春樹ファンには申し訳ないけど、ドストエフスキーの感動を知ってから読むと、「ライトノベル」でしかなくて😅
教養を身につけるために音楽や小説を嗜むのは・・・、自然と小説やクラシック、哲学を読み漁るようになった私には理解できない考え方だけど
まあ、人それぞれなのかな😉
おかげさまで、どんどんクラッシックが好きになっています。ありがとうございます
😊😊
そもそも知的好奇心が無ければ教養は身につけられないと思います。クラシック音楽が好きでなければ音楽の知識は身につけられないし意味がない。好きではないものを知ったところでそれは雑学と変わらない。
「クラシック音楽っていうのは昔の流行音楽なんよ」と学生時代に友人から教えてもらったことがあります。今でも残っているということは当時のベストな音楽で、いいものなんだから気楽に聞け、という主張でした。今はネットなどに各種解説があって、当時の社会システムや産業技術レベルも知ることができますから、もっともっと楽しめるはずです。コミュニケーションツールにもなるはずです。それがすなわち教養なのだと思います。さらに最近は激安楽器もありますから、その気になれば演奏する側に立つこともできます。そうすればプロのすごさも分かってさらに面白いのですけどね。
教養が大切なクラシック音楽も、
教養がなくても楽しめるものも、
どちらも魅力的に感じています。
これから先、長い年月をかけて
音楽を理解出来るようになれたなら、
人生がより豊かになりますね。
いつも興味深いテーマのお話を聞かせて
いただき、ありがとうございます。
😊😊
教養には「基本的に持つべき知識」のような意味があると思いますが、我々のように趣味で音楽をやったり聴いたりしている人間にとって音楽は確かに教養ではありません。
ですが音楽を仕事にしている人はどうでしょうか。
音楽家にとって、音楽の知識は「基本的に持つべき知識」になったのではないですか。
音楽家が音楽の知識を持っていなければ、それは勉強不足、怠慢と言わざるを得ません。
ただの人が音楽家になった瞬間から、その人の音楽の知識は「実践的教養」に昇華するのだと私は考えます。
私も、音楽が好きなので聴いている派です。音楽の事をもっと知りたくて、その音楽に関する情報を集めて学んでいるかんじです。音楽を深めるためには教養も必要だと感じています。