【戦前時刻表】1940年9月新宿駅 中央本線 JAPAN SHINJUKU station; CHUO LINE time table 1940
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- Опубліковано 2 жов 2024
- 1940年9月の新宿駅中央本線線下り時刻表です。
頻繁に走る電車の合間を縫うように、
長野方面へ向かう列車が走っています。
当時からかなりの利用客で混雑していたことが想像できます。
長野行き夜行普通列車に乗る人も多かったでしょうね。
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ワスレナグサ/作(編)曲 : まんぼう二等兵 様
#国鉄 #鉄道 #昭和15年 #日本国有鉄道 #発車時刻表 #時刻表 #中央本線 #新宿駅 #キハ58 #過去鉄 #戦前
今日は戦前の新宿駅ですね!で篠ノ井線経由の長野行多いですね(甲府まではED16が牽引していたそうです)。後この5年後に湯の花トンネル列車銃撃事件の被害者で419列車がありますね・・・。
動画お疲れ様です。
今でこそ特急街道の中央本線も戦前は普通列車が走る路線でしかなかったというのがよくわかります
新宿からの中央夜行普通といえば、戦後のかつては青白の115系のボックスシートに、中央アルプス南アルプス八ヶ岳奥秩父に登山しに行く山男が巨大な装備と共に乗り込み、硬いシートや床に寝転んだりしてましたが、1940年だと2等とはいえ寝台車付きだったんですね(驚)
あと中野行きの最終が今よりかなり遅かったのもw
しかも今と変わらない7分で中野到着なのも凄いわ
甲府までの電化工事が始まったのが、戦前の1929年4月、電化が完成し、甲府までの電気運転を開始したのが1931年4月1日。
浅川までの電車運転は1930年12月20日、中央線は私鉄の甲武鉄道が電車をはしらせてましたから。
一部の普通列車は快速運転したり、2等寝台車を連結してましたが、本格的な優等列車の運転は、戦後の経済復興してからですね。
戦前ですが、吉祥寺とか立川まではかなりの頻度で電車を走らせてます。驚きですが、都市化が進んでいたのでしょう。
流石に塩尻から先の名古屋方面直通列車は設定されてない様です。
これは驚きです。いくら1940年とは言え、開戦前でローカル線ダイヤとは意外です。今のように優等列車が充実したのは戦後なんですね。
たぶんこれ電車は大幅に省略して列車だけのせてる…(冒頭で東京中野間は4分ヘッドで電車を運転してるって書いてるし)
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
仰る通りで、始発と終電の時間帯しか記載されていなかったため、大幅に省略せざるをえませんでした。
動画内の説明が不足していたように思います。申し訳ありませんでした。
補足コメント、ありがとうございました。
@@tomoyankun さん、そこは大丈夫です。ちゃんと動画内で触れられていますし。あくまで甲府や塩尻などへ行く優等列車の話ですので。(1964年版だと準急や急行が、今のあずさのように多数走っていますが、この時代はないので不思議だと感じました。)
普通列車は今も大月などで乗り換えるパターンが多いですが、この当時も立川や八王子で通勤電車から近郊列車に乗り継ぐパターンも多かったと推測されます。
@@nori-tabiさま
長距離の普通列車の列車番号が奇数で続いていることを考えるとほぼ全てが新宿駅から出ていたものと思います。その間に各駅停車が頻発していました。
戦後には東京発で甲府方面への70系の普通電車が出ていたようですが、高尾までの混雑の激化で4つドアの通勤型の快速電車ばかりになり、甲府方面は立川や八王子乗り換えが主になりました。
@@TSUYOS185 さん、なるほど、詳しい分析ありがとうございます。
今と事情が違うにせよ、優等列車が全くないのが意外です。
定期的にUPしてくださり、ありがとうございます。お体はいかがですか?
中央本線ほどの幹線が普通列車のみというのが驚きでした。まだ戦前ですし、特別ダイヤという訳でもないんですよね?
この頃はまだ、かいじやあずさのご先祖さまに当たる列車すら走ってなかったんですね。
戦前の中央本線は、夜行列車はあったけど、優等列車がないのに驚きです。
日中の時間帯はL特急の如く整った時刻で発車しているところが印象的です。幹線はどこもランダムダイヤとは限らないという事がわかりました。
えっ?たったこれだけしか走っていなかったのですか?
さすがに三鷹あたりまでは通勤客がたくさんいたかと思われますが。これでは到底通勤に利用できないような気がしますが。
これはあくまでも長距離列車のみであり、三鷹や立川あたりまでは別の時刻表があると理解してよろしいでしょうか?
この時刻表ですが、今に例えると高尾始発の211系の列車のみで、東京始発のオレンジ色の電車は始発と終電の時間帯のみになっています。
新宿時点での中距離列車が基本で、例外として終電は記載しているってパターンですかね?
あと、そのほかにも浅川(現高尾)発着便も当時からあったかと思います。
今でもそうですが、中央線は高尾までは通勤電車メインで中距離列車は高尾からというのが基本ですし
この当時
鉄道省編纂時刻表
旅行案内社(俗に言う三本松)
東亜旅行社(後のJTB)
があります
近郊区間内の電車は始発、終電のみ表記(現代も同じか)
鉄道省のものが一番詳細に記載されています
浅川以西への直通列車
この当時、始発は浅川ではなく八王子です
八高線、横浜線、京王などがありましたから浅川発着にするのは1駅の為にデメリットが大きいのです
@@石井宏和-k7j さま
列車番号が奇数で二番おきに続いていることを見るとこの当時は長距離列車のほとんどは新宿発だったことと思います。
今の飯田橋のホテルメトロポリタンがあるところにはかつて飯田町の貨物駅や客車区があり、客車区から新宿駅まで回送していました。
1933年の御茶ノ水~中野の複々線化の前は飯田町発の客車列車もあったようです。
戦後は東京発の甲府方面への70系電車もありましたが、荷物輸送を兼ねたもの。昭和50年代の初頭でもクモニ83を繋いだ鈍行が数本走っていました。
これも宮脇俊三氏の時刻表昭和史からですが
確か三鷹か吉祥寺か忘れましたが軍需工場があって
その関係で中央線の通勤需要がかなり高く、
宮脇氏も勤労動員でその工場で働いていたという描写があったと記憶しています。
間違っていたらすみません。
武蔵境には中島飛行機の工場がありました。戦後その土地は国際基督教大学(ICU)となっています。他には軍需工場の跡地が公園になったところも。
吉祥寺ですね。戦争が激しくなるにつれて駅から学校まで工員でひしめき、初めより一本早い電車に乗らないと遅刻するようになる…とか、長距離の切符販売が制限されていた中で、宮脇俊三の学友が吉祥寺駅員と親を通して知り合いだった事から、コネで切符を難なく手に入れて、戦況悪化の中、長野や新潟へ英気を養いに出かけた…などが描かれてました。
この時代に立川や三鷹着1時30分の列車の需要なんてあるのか?と思いましたがコメントで納得しました。
現在普通列車はかつて浅川を名乗った高尾駅で乗り換えを余儀なくされますが昔は新宿から普通列車が出ていたのですね。しかもすでに蒸気機関車から電気機関車に替わっていたとは...
新宿発の普通列車は昭和の終わり頃まではありましたが、少なくなっていった感じでした。
車両は横須賀線と同じ色の115系でした(もっと昔は70系)。
電気機関車だったのは、小仏トンネルや笹子トンネル等長いトンネルがあることと、勾配が急だからではないでしょうか。
当時はスイッチバック駅もたくさんありました。
新宿発だったのは荷物輸送の側面もありましたね。
昭和50年代初頭でも新宿発の普通電車はクモニ83を連結していました。
中央本線は、蒸気機関車だと笹子トンネル等の煙害が酷いため、昭和初期に甲府まで電化されました。
もっとも、電気機関車による運用がメインで、長距離列車は甲府で蒸気機関車に付け替えていたようですが。
往年の夜行急行アルプス、山岳夜行115系長野行き、上諏訪行きの大先輩を見た気がしました
国電は除外してるんですよね?
浅川や立川、三鷹に終電の中野行きって中距離列車を利用した入出庫運用でしょうか
立川行きの終電が0時50分ってコロナ前までの武蔵小金井以遠への終電(0時41分、各駅停車高尾行き、いちじき豊田行き)より遅い
当時から中央線の国電は頻繁に走っていたと思いますし
今でもそうですが、全国版の時刻表は電車特定区間(かつての国電区間)は始発と終電近く以外は間隔のみで表示されています。ダイヤはあったものの紙面の都合で省略していたのでしょうね。
この頃は新宿着の客車は回送で飯田町(今のホテルメトロポリタンのあたり)の客車区に入りました。浅川、三鷹、中野への電車はごく普通の通勤電車だったことと思います。そんな電車でも2等車が連結されていたのが驚きです。数年後に投入される中央線のグリーン車はその再来と言えそうですね(戦前の2等車の歴史を知る人はほとんどいないこととは思いますが)
湯の花トンネルの悲劇があった419列車、あの事件が起きた当時は新宿発が12時台でなく、10時過ぎだった。5年の間、どこかで時刻が変更になったのだろうか…
17年11月号では12時台、19年5号では10時台なので、この間ですね。
列車削減時に415が長野から甲府行きになり1時間繰り上げ、長野行417が2時間繰り上げされた為419も2時間繰り上げされた様です。
19年では新宿12時台の列車は421となっています。
♪8時ちょうどの〜405列車で〜 と旅立つ人は、どれくらい居たんでしょうね。特急どころか急行もなかったのか!
1940年は塩尻行きですが
5年前はちゃんと現代と同じ松本行きでしま
戦前の新宿発中央本線(下り)とは、珍しい時刻表をありがとうございました。
東京〜名古屋を結ぶ「海線」の東海道本線に対して「山線」の中央本線でしたが、1940年時点で新宿からの名古屋直通列車が1本も走っていなかったというのは意外でした。
篠ノ井線は開通当初は中央東線とされていたとは言え、1940年時点でも現代のように中央本線は関東と信州方面を結ぶ幹線として、重宝されていたということなのでしょうね。
中央本線と信越本線だったらどっちが早かったんだろう
この時代の信越本線は碓氷峠をアプト式の機関車で越える必要があり、輸送力が低かったことから中央線も重要な役割を果たしていたのでしょう。
ただ、時間的に見ると信越本線経由の方が速かったとは思いますが。
中央本線が昭和30年代になるまでそれほど重視されていなかったのは、個人的には謎です。
海沿いルートは外から(軍艦などにより)攻撃されるため、軍は内陸部ルートの整備を強硬に主張していたはずなのですが。
ただ、信越本線ルートは日本海側に抜けるルートとして早くから建設されたこともあり、戦前から急行列車が走り、幹線化していたようです。
碓氷峠越えは難所でしたが、中央本線も笹子トンネルを蒸気機関車で通過することの煙害の問題があり、メインルートにはしにくかったのかもしれません。
あと、結局は塩尻から名古屋に向かうルートのみになってしまい、松本から長野に抜ける篠ノ井線はスイッチバックが多く、これも結構難所だったのでは?(ちなみに、戦前は大糸線は開通していません。)なので、日本海に抜けるルートなら、信越本線の方が距離も短く速いということなのでしょう。
@@kataakeo7730さま
笹子トンネルは長大トンネルと言うことでこの時点で既に電化されていました。新宿からの列車は甲府まで電気機関車牽引でした。
その先はD51クラスの貨物用の機関車で韮崎~小淵沢の急勾配を越え、さらには岡谷からは辰野経由で塩尻、そして松本へ。塩嶺トンネルが出来て短絡化されたのは1982年でした。
中央本線はスイッチバックの駅も多く、距離の割には相当な時間を要していました。
今はスイッチバックは存在しませんが、初狩駅の保線基地がその名残です。
今や新宿から松本まで2時間半と言うのが驚きですね。
@@TSUYOS185 そうですね。別でコメントした通り、笹子トンネル等の長大トンネルの煙害対策で、昭和初期には中央本線は東京~甲府まで電化されています。中央本線(東線)がスピードの出せない路線だったことはわかりました。篠ノ井線も同様でしょう。だから信越本線ほど活用されなかったのでしょう。
信越本線は碓氷峠のアプト式と長野~直江津間のスイッチバックはあるものの、その他は比較的走りやすいルートだった(あと日本海に抜けるルートとしては距離が短かった)ので、幹線として活用されたのでしょう。
戦時中の中央東線のダイヤ、えらく本数が少なかったのですね。日中なのに2時間とか3時間も空くケースもザラ。現代では考えられない程の、過疎ダイヤだったとは‥‥。
作成お疲れ様です。
いつかは中央本線が来ると思ってました。
何気に楽しみにしてました。
この頃は全て普通列車で、特急や急行、快速といったものはなかったのですね。
とはいえ、普通長野行…。
今となっては考えられない、レア列車が走ってたのですね。
終電時間がのんべえと社畜にやさしい1940年
今より終電おそいね
今のような保線用の機器の少ない時代、深夜の保線や信号の点検も短時間で終わらせなければならなかったのが驚きです。
@@TSUYOS185 これから4年後には中央線国電の終電は東京発0:03の中野行になります。浅川行終電は23:08(浅川0:30)になります。
時代は2000年~以外ならいつでもいいので岡山駅をやって欲しいです
岡山駅なら、1972年の山陽新幹線岡山開業時の動画が2つありますよ。このチャンネルのトップ画面から検索すれば出てくるでしょう。
@@kataakeo7730 知らなかったです!ありがとうございます!
いつも貴重な動画をありがとうございます。
中央線の高尾から先への列車はこの頃はほぼ全てが新宿発だったのですね。戦時であっても体力錬成の観点から登山用の臨時列車(409列車)まで設定されていたのが驚きです。
401、403、405列車は浅川から先でも少し通過駅の多い準急(今で言う快速列車)として当時多数存在したスイッチバックの駅を通過して所要時間を短縮していたのでしょう。
各駅停車の電車の間を縫う客車の普通列車は加速とブレーキの連続で運転も苦労したものと思います。
昭和15年当時、東京~中野間は現在と同じ複線と複々線、中野~浅川間複線。浅川以西が単線
この頃はまだ時刻表通りに動いていたことを考えるとこの5年後は動かすことが如何に大変だったのかが分かります。
湯の花トンネルの襲撃事件は戦争が終わる10日前に起こった鉄道空襲を中では最大の犠牲者を出した悲劇。ここは通ると分かるのですが、本当に狭い山の中です。あの山の中をP-51が飛んで来て機銃掃射するって恐怖以外の何物でもないです。
今ではこの場所の上に圏央道の八王子ジャンクションがあるのですよね。まるであの悲劇を覆い隠すかのように…。
1964年の湊町駅お願いします
大半がキハ35の快速と普通列車になりそうですが、名古屋への準急のかすが号と奈良経由の東京行きの急行の大和号はありましたね。
@@TSUYOS185 行先の多さで言うなら亀山の方がいいんですかね?
@@ひかり-h6nさま
いえいえ、そんなことはありませんよ。
快速は奈良だけではなく遠くは亀山や名古屋、さらには和歌山線直通もありましたからね。キハ35で加太越えをしていたのが驚きです。さらにはキハ35の構造上冬はドアからのすきま風。長時間乗られる方にはきつかったことでしょう。
普通列車も柏原~湊町以外の列車の一部は久宝寺通過という現代なら考えられないものもありました。
仮に今の大和路線にあたる部分が戦前に電化されていれば良かったのかもしれませんが、戦時中に不要不急路線として王寺~奈良が単線にされたほどですから国鉄もさほど重要視していなかったのでしょうね。
(中央線とは関係のない話になってしまいましたが)