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今中国人に買われている不動産も秀吉のように没収すべきです。
ヨーロッパやアメリカに買われている不動産は放置か?アメリカに占領されてる在日米軍の土地も放置?
400年前には欧州の帝国と違って中国は日本の危険と思われていませんでした。現代は中国こそ日本の危険に成っているらしいです。
岸田も自民党も腐ってますから。もちろん維新も。
バテレン追放令は素晴らしい。日本は神の国。流石は、豊国大明神。
秀吉はロシアからユだヤ資本を追い出したプーチンみたいだな。
豊臣秀吉は日本の救世主でしたね。もっと秀吉を評価すべきです!
秀次連座制の罪が今日の秀吉の黒歴史
戦後の歴史教育にも首を突っ込んできたグローバリストGHQ
若い頃、晩年は狂って、朝鮮出兵やった!って、書かれた本を何冊かよみました。最近わかって、これも戦争負けたせいだったんだわね。
今の日本には秀吉や家康みたいなリーダーが必要ですね 外国勢力にいいようにやられてるし、外国人からの宗教の押し付けが多くなってきてるし、最近神社仏閣が燃えることが多くなってる気がします
選挙がある以上は有権者の国民も賢くならないと厳しいでしょうね。テレビや新聞なんて半分外国勢力の支配下の情報を鵜呑みにして頭がコントロールされてる人多いし。
また、やってほしい…不法移民追放令
まずはアメリカ進駐軍の追放だよな。日本が核武装して。
昔、さだまさしの長崎を舞台にした映画で、登場人物が長崎はその昔ローマ領だったんだよねえと少し誇らしげに語っていた場面があったが、それを見ていて、こいつは馬鹿かと思ったことを思い出した。あの登場人物の誇らしげな気分というのはさだまさしの気持ちを代弁したものだったんだな。 by 長崎県人
歴史は、面白い‼️茂木先生のお話は、次を聞きたくなる内容です😌
声がまた良い😌お話の仕方もすき👍
岸田は川口がクルド人のせいで酷いことになってるにもかかわらず放置現代にも秀吉が必要だな
殿御乱心状態なのに、岸田政権を何とかしたい
茂木先生のお話は、本当に為になり何より面白い!学校でもこういう授業をしてほしい!
毎日茂木先生回の配信嬉しい~🎉
バテレン追放令は、万民平等というキリスト教の教えが封建体制の維持に害悪だったからだという理由で語られることが多いですが、実際にはこの時は日本人自身のアイデンティティ存亡の危機だったということをきちんと学ぶべきですね。
徳川家康も豊臣秀吉も、バテレンが追い払われない限り日本は欧州の植民地に成れると恐れていたんでしょうか?織田信長こそ将軍になったらどうなった?
初耳情報、満載でした。歴史は面白い!!本日もありがとうございました。
👏👏👏👏👏👏👍本当に良いお話をありがとうございます!
火縄銃を国産化したのがすごい!!
第16世紀の日本の金属加工はとても洗練でした。種子島の刀屋は南蛮の銃器製造法を学んで覚えました。
今の政府に秀吉を見習って欲しいです。国と国民を守る法法を‼️それとこのような真相を知ることができて大変勉強になりました。隠れキリシタンに踏み絵をさせたのも国防がかかっていたからなんですね.。 鉄砲を作れたことで日本と日本文化が滅亡しなくて済んだとわかって、先人の方々に感謝です。 こうやって先人の人たちが守ってきた日本を私たちも守っていかねば!と思いました。
日米安保で国防の主権をアメリカに取り上げられているから無理。
現代の兵法は戦国時代と比べたらもっと洗練だと思っております。ダレカは日本の法律を用いて日本を攻めていますね。
茂木先生の話は毎回面白くて勉強になる。いまの学生が羨ましい。
有難うございます。
茂木先生ありがとうございました。お二人の話の進め方がとてもいいです。
ポルトガルによる日本人(種子島の人々)奴隷を阻止したのは秀吉だったのですね。教科書には出てこない話です。ありがとうございます。
茂木せんせい有難う御座居ます🇯🇵🩷🩷🩷㊗️㊗️㊗️💯✨日本人ってステキ🎌日本人ってカッコイイ❤️🔥嬉しい💕
グローバル売国政策の自民党はカッコ良くない。
秀吉の話おもしろすぎました
この内容が無料で見れるのが素晴らしい!次回も楽しみです。イラネチけーの大河ドラマの監修に茂木先生が必要です。
捏造・反日・国辱放送局で放送して欲しい❤🎉
豊国神社は我が町長浜だけかと思ってました!今浜という地名を秀吉が、信長の長をとって長浜に変えたと教わっております。来月には秀吉ゆかりの曳山まつりもあります。国友の鉄砲も関係があるんでしょうね。地元民なのに不勉強でお恥ずかしい。茂木先生のお話、とても興味深く拝聴いたしました。
いつも有り難うございます😊ひかれて行くばかりです
ポルトガルの日本人に関する最初の記録「彼らは生まれながらに知性がある」
輸入していたのは硝石だけでなく弾の原料の鉛もタイの鉱山からのものだったと、現代の分析で分かっているらしい。また、日本には刀を鍛造で作る技術があったので、鋼を均一に鍛造しており、銃身のバランスが良く世界一の精度と耐久性を兼ね備えていたらしい。
今回も、相当面白いというか、感動しましたね❗👀👏秀吉さんが九州が植民地化されかねない状況を救った様な話だったから、目からうろこの植民地化です😂🎉ありがとうございました!
茂木先生のお話、引き込まれますね。4月6日に愛知県岡崎に来られます、楽しみにしております。家康の生誕地ですから、色んなお話が聞けそうです。
硝石一樽と日本人女性50人という取引をしてたと、どこかで聞いたような。
😱😱😰😰
@@rtpc5 大体、50万人ぐらいの日本人女性が性奴隷として海外に売られたとか。当時の人口じゃあ日本人いなくなる瀬戸際だったわけですね。明治以降この国はカトリックの支配下に入り、この話は教科書や大河ドラマでは載せられない、できないわけですが。今だカトリックの人身売買等はやってるわけでしょ?
茂木先生、話が上手い👏👏👏歴史が好きになる。
流石!茂木誠先生!真実の歴史の説明で、勝る者は居ない。先に生まれたので、知識がある意味の先生だけど・・・。実は僕の方が先に生まれているが、完敗!w
バテレン追放令の真の理由って最近までタブーだったね。
秀吉祀って然るべき
神様です
日本ではタヒんだら善人も悪人もみんな神様になるよ。
秀吉を礼拝している人もいますね。
いつも 貴重 な 情報ありがとう(^人^) ありがとう(v^-゚)ございます
その硝石ですら日本で作る方法を開発して江戸時代には製造していた、白川郷とかでね、😅
民家の床下の土から硝石を得たようですね〜
御蚕さまの糞。
@@machodora様そんなことがあったんですねー。φ(..)
秩父事件の際、反乱側がその方法で
[古土法]という手法ですね
茂木先生のおかげで歴史を学ぶのは面白いし現代の政治に関わる上で非常に役立つのだと感じている最近。子供と一緒に学んでいきたいです☺️
秀吉に感謝
この頃のことがフロイス日本史に詳しく書かれていて面白かった。秀吉目の敵。 超秀才でないとイエズス会には入れないそうです。スペイン人の友人が言ってました。今はどうか知りませんが昔はスパイ養成機関でもあったし。
黒小姓の弥助もスパイだった。
サイコパスではないと思いますよ?大阪市の街区割なんて、未だに当時の都市計画の結果ですから。超天才というか超有能だった印象を持ってます。
フィリピンはスペイン侵略前は、少なくともマニラあたりまではイスラム圏でしたね。いまは9割方カトリックですが、ルソンの山奥とかいけば今でもアニミズム信仰残ってます。
江戸の間に西洋は産業革命して、技術力が逆転してしまったんだね。フィリピンが完全にやられた国だったのか。。これはヤバイって思うね。
幕府は蘭学知識の入日を許しても西洋の産業革命をちゃんと見張っていなかった気がします。アメリカからの黒船はショックを起こしたでしょうね。
歴史面白すぎる
奴隷貿易ってポルトガル側が日本人を買いに来たと思ったら日本人が日本人を売っていたんだ😢
キリシタンになれば異教徒の売買が正当化されるからね。
私は日本語が生まれつきの言葉じゃなくて間違いない有ればごめんなさい。大西洋の奴隷貿易はアフリカ人が宝石や銃器を持って来て売る欧人に虜のアフリカ人を売っていました。統一の日本は戦国時代末から法律で維持されていた概念です。かつて県は「国」と言われて藩と藩の敵意でした。当時に通じる思い方によると欧人に売られている和人が敵の藩の人でいる限り平気でした。
現在は九州どころか北海道もですね その他もところどころ。。。歴史は繰り返されるですね
出島 島原 地形も山と谷オンリー 長崎 、 理由なく貿易地にえらばれないよな~ 何かきっかけはあるでしょと歴史習った時思っていたので、 やっぱりそうかとなりました。 ありがとうございます
岸田政権は勿論、戦後歴代政権は差し詰め大村純忠です。
明治からでしょ。
先生のおヒゲ🥰素敵✨参政党で秀吉さんのことを知ってから、漫画のワンピースのサンジみたいな人だったんだなぁと、認識がどんでんがえりました😅鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス。なんていやらしい人なんだと思っていましたが😳今はその優しさと、心意気🥰一番好きかも😊
豊国神社関東にもあるんですね〜😮今度伺ってみよ🥰ありがとうございました😌
秀吉は生前に神社への寄進はしてます。日吉大社、伏見稲荷大社、津島神社、太宰府天満宮などの楼門は秀吉による物で逸話も残っています。ただ豊臣家は秀吉の死後、幼い秀頼の名前で物凄い数の社寺への寄進をしたので、秀吉の寄進は霞んでしまっているのかな、というのが個人的な感想です。
いつも 深堀り 考察 ありがとう(^人^) ありがとう(v^-゚) ございます
茂木先生、戦国時代の鉄砲🔫はまだ弓矢🏹よりも使い勝手悪かったですよ。
伏見稲荷大社の正門は秀吉が建立したと伝わっています。信仰からなのか、旧士族に対しての礼儀だったのか?
MCさん、秀吉のバテレン追放は政策弾圧じゃないでしょ。その英断が無ければ、日本は無くなってたんだから。
秀吉は朝鮮征伐をやったというのに今の自民党はたるんでるよ。秀吉を見習え!
政策的に外国人を追放するのは、珍しい、ことですね…令和の追放令が、今年6月から、実施されると、理解しています。
失われた技術。。😢
TSMCも似たような流れに感じた
豊国大明神のお話を聞いていて、日本の神話の神々、天照大神や素戔嗚尊も茂木先生の仰る通り、実在の人間だったのではないか、と直感的に思い至りました。日本の神様の成り立ちの筋道としては違ってないと思います。
ホツマはイザナギもイザナミも実在 当たり前でしょう 親がいなくてどうやって子が生まれてくるの?
火器の構造は単純で造りの仕組み&弾丸の発射メカニズムさえ理解出来れば当時の『鍛冶屋』や『鋳鉄屋 』なら誰でも出来たMade inヒノモトの『火縄銃』=さらなる改良が施されより殺傷力(初速&弾丸飛距離&口径…等)を飛躍させのだよ故に侵略戦争に踏み切らなかった…らしい
フィリピン人は名前というより、苗字がスペイン名、または第1苗字か第2苗字がスペイン名だったりしますね。
「究極の商売人」~何故か、秀吉=ドナルド・トランプを思わず連想してしまいました😅「ディール」も一部似ているし・・・でもトランプ氏はクリスチャンとしての信仰は熱心でしたね・・・一方で秀吉さんは❓❓愛国心は十二分にあると思いますが・・・
14:54反仏教信長、敵対しない宗派については保護。
留学・移民は外国文化を知る機会でもあります。私の周りにも真面目に教育研究するドイツ人教授がいてとても好感を持てます。
豊臣秀吉の息子⁈が大坂の神社の立派な屋根をの改修してます、(戦で傷めてしまったので)過去へ思いを馳せ日本国として護るべきモノは大切にされてる。誉田八幡宮(古墳)
戦国 時代 の 武将達 は それなりに 我が国 を 守って いた と いう こと に今更 ながら 気づかされる 日々 ですかつては 体 を はって 自国 を 守って いた 人物 が かなり いた よう ですね
秀吉は平民リセットの明治期も戦後の焼け跡復興期もずっと人気の偉人でした。風向きが変わったのが当時「今太閤」と呼ばれた首相の逮捕劇(1974~)、韓中と続いた「国交正常化」による文禄・慶長の役などに対する自虐的配慮。松平保久ら団塊・ポス団世代のNHK入局(1976~)で、それまで緒形拳・浜田光夫・中村芝鶴・火野正平・勝新太郎などが演じてきた秀吉が、平成以後、竹中直人・香川照之・柄本明・笹野高史・岸谷五郎・小日向文世・ムロツヨシなどのイメージに置き換えられていく。秀吉の印象は作為的に貶められたものです。
フィリピンもシーパワーなのに、なんで発展しなかったのかな。ベトナムみたいに。
イスラム教徒には注意したほうが良さそう
新しいNetflixのドラマ「Shogun」の1話2話で世界分割協定が語られていました。
トルデシリャス条約ね。
長崎が日本じゃなくなったというのは、今も長崎にはロシア領があるのを想い浮かべます
それより日本全国にあるアメリカ進駐軍の占領地帯でしょう。
フィリピン人に聴くと、カソリックともう一つ土着の宗教ありますよ
名古屋市中村区の太閤秀吉の神社を指してるなら地元では豊国(トヨクニ)神社と呼んでますね
茂木先生には第100・101代内閣総理大臣 岸田文雄に、ご教授に願いたいです。
お礼 の 意味 の 長崎 の 寄進 が すでに ーーーー だったの ですね
牛馬と犬猫は同じ理由で食するのは禁止されていましたが、害獣でしかなかった鹿猪(かのしし)はあれやこれやと理由を付けて暗黙の了解で食べられていました。食器に穢れがどうのと言う物だから農具の鋤でかのししを焼いたのが鋤焼きの始まり、これを明治の時代に江戸の寿司の大きさに切ったのが焼き肉の始まりになります、猟師もやってるので今でも鹿猪(かのしし)を食べますが美味しいですよ。
長崎って苦難にさらされる歴史を辿ってきたんですね。奴隷問題もそう、原爆もそう!もしかしたらそういう土地だったから原爆のターゲットになったんですかね?
秀吉の宗教観は商売道具にも似た・・・ということですが、歴史観はどうだったんだろう?弥生時代の大量の渡来人や仏教が入ってきたこと、それを踏まえた上でのバテレン追放だったのだろうか?
たしか、秀吉は、もくじき‐おうご【木食応其】という僧侶を信仰していた。その木食応其は、食事療法を徹底して不思議な力があったとされる。
日本その後硝石をおしっこ発酵させて作った凄いですね
鉄砲を自作コピーしたのは実際はそんな簡単なことではなかったかと。暴発しない材質や何より弾丸。今でも銃器密造で1番大変なのは弾丸製造らしいですね。他の国じゃできなかったわけですからやはりそれだけの技術蓄積があったんでしょう。まあみんな集まっちゃったからあとは伝播効果でできたらあっという間にというところですか。勤勉で手先が器用な日本人ならではの話です。それで、聞き手の人がちょっとうるさいですね。あまり先生の話を遮って自説を喧伝しないでいただきたい。
九州は今でもほぼほぼ日本じゃないんじゃないですか。笑。by 九州人
だから意趣返しにあの県ですか?なじ は知らねど
えっ?信長・・・安土城天守閣の最上階って確か、『オレ、神になる』的な作りだった筈?因みに、明治時代になってから京都と山形県天童市に信長を主祭神とした「建勲神社」が創建されてます。
家康も神になったからね。ちゅーか、日本ではタヒんだら善人も悪人もみんな神様になるって考え方よ。
安土にはこれは俺の化身だから拝めと言う石が祭られていたそうな
秀吉の信仰心は、尾張人の特徴なのかな?
信長は忌部氏の出身、忌部氏は宮中祭司をしてた家系で元はユダヤ人だといわれています。
長篠の戦いで六芒星をつけた集団が信長軍にいたのは有名。
鎌倉幕府の高麗遠征計画(かまくらばくふのこうらいえんせいけいかく)とは、文永の役以後に元軍の根拠地と考えられた高麗に遠征を行って日本侵攻の拠点を制圧しようとした構想のことである。文永の役で元軍を撃退したものの、鎌倉幕府では再度の侵攻を予想して、元軍が行動を起こす前に日本侵攻軍が拠点とするであろう高麗を先に制圧することで遠征を阻止しようとする構想が浮上した。1275年(建治元年)11月に金沢実政が異国征伐のために鎮西(九州)に下向したとされ、翌月には安芸国の守護である武田信時に異国征伐に関する関東御教書が出され、明年3月を目途に異国征伐を行うこと、鎮西で水手が不足した場合には山陰・山陽・南海各道から調達するため、御家人・本所(公家領・寺社領)を問わずに水手を募って博多への派遣準備を進めるようにという内容であった(建治元年(1275年)執権北条時宗・連署北条義政関東御教書案「東寺百合文書」京都府立総合資料館所蔵)。だが、この時は本来鎌倉幕府の支配が及ばない筈の本所にも動員がかけられたことに対する抵抗の動きや同時に行われていた博多湾での石塁構築との二重負担の問題があり、実施されることなく終わった。その後、弘安の役が発生し、1281年(弘安4年)8月には再度高麗遠征論が唱えられ、九州の有力武士であった少弐経資と大友頼泰を大将とし、彼らが支配する九州北部の御家人たちを動員し、更に山城国や大和国の悪徒(僧兵)にも協力を要請するものであったが、これも実施されることなく終わり、以後幕府内の政争などもあって中断されたまま終わった。なお、この出兵の背景には二度の元寇で恩賞が貰えなかった御家人たちに制圧した高麗の土地を与えようとしたとする見方もある。元・高麗連合軍の反応一方、クビライも日本の反撃を警戒し、高麗の金州等に鎮辺万戸府を設置し日本軍の襲来に備えた[1]。参考文献溝川晃司「高麗遠征計画」(『日本中世史事典』(朝倉書店、2008年) ISBN 978-4-254-53015-5)
トルデシリャス条約(トルデシリャスじょうやく、ポルトガル語: Tratado de Tordesilhas, スペイン語: Tratado de Tordesillas)は、1494年6月7日にスペイン帝国とポルトガル王国の間で結ばれた条約[1]。1492年、コロンブスが西大西洋のアジア大陸と思われる地域に到達したことで、ポルトガルとスペインの不安定な関係が危ぶまれた。ジョアン2世が西方への航海のために艦隊を準備しているという知らせを受け、スペイン国王とスペイン女王は新しく発見された土地の所有権と統治権をめぐって外交協議を開始した[2]。スペインとポルトガルの代表団は1493年4月から11月まで会合を開き議論を重ねたが、合意には至らなかった。スペイン国王とスペイン女王はスペイン人で前バレンシア行政官であり、ナポリ王との紛争中であったローマ教皇アレクサンデル6世を使って、「新世界」における紛争をスペインにとって有利に解決するため、教皇アレクサンデル6世に先行する勅書を上書きするように要請した[3]。当時のカメラ・アポストリカ(教皇庁の行政システムにおける中央財政委員会)はスペイン裁判所の延長線上にあるようなもので、ポルトガルの請求権を事実上清算する勅書を次々と確保した[4]。こうした成立上の経緯から1493年の教皇アレクサンデル6世の教皇勅書インテル・カエテラには、ポルトガルとスペインの双方とも全く注意を払わなかった[4]。その代わりに1494年にはトルデシリャス条約を交渉、締結した[5]。概要本条約において西アフリカのセネガル沖に浮かぶベルデ岬諸島の西370レグア(約2000km)の海上において子午線に沿った線(西経46度37分)の東側の新領土がポルトガルに、西側がスペインに属することが定められた。名称の由来は、条約が批准されたカスティーリャのトルデシリャスの地名からとられている。条約調書の原本は2007年にスペインとポルトガルの共同申請で、ユネスコの記憶遺産に登録された[6]。サラゴサ条約もまた同じ意図によって、1529年に両国の間で批准された条約である。トルデシリャス条約「スブリミス・デウス」も参照1492年、クリストファー・コロンブスが「インド」(実際には西インド諸島)に到達し、帰還したことによって、ポルトガル・スペイン両国において「新世界」への冒険的航海がブームとなった。しかしコロンブス以前から、船団の到達先において両国はしばしば争い、抜本的な解決策が求められていた。すでに1481年に布告された教皇シクストゥス4世の回勅『エテルニ・レギス』(永遠の王)で、カナリア諸島以南の新領土はすべてポルトガルに与えられると定められていた。ところが1493年になるとスペイン出身であった教皇アレクサンデル6世が自国に便宜をはかろうとし、カーボベルデの西わずか100レグアの地点を通過する子午線を境界線(教皇子午線)に、それより東側はポルトガルに優先権を認めるにせよ、西側の土地はすべてスペイン領にするという回勅『インテル・チェテラ』を布告した。西方への航海熱が高まっていた時代、当然ポルトガルのジョアン2世にとってこの裁定は面白くなかった。そこでジョアン2世はスペインのフェルディナンド2世と直接交渉し、1494年に教皇子午線からさらに西に270レグア進んだ子午線を境界線とするトルデシリャス条約を締結した。1506年にはアレクサンデル6世の次の教皇、ユリウス2世による確認を受け、この取り決めは教皇庁にも認められることになる。[7]スペインはこの条約のおかげでアメリカ大陸の全域で優先権を持つことができた。ただ、現在のブラジルにあたる領土は1500年にペドロ・アルヴァレス・カブラルが到達したため、ポルトガルに与えられた。この条約はアジアにも適用されると考えられていたが、経度の厳密な測定が困難だったこの時代にはアジアにはどのように適用されるのかよくわからず、再度の論争が起こることになった。ただ、この条約についてスペインもポルトガルも過度にこだわった様子はなく、アメリカ大陸にポルトガルが植民活動をおこなうことをスペインも黙認している。フランス、イギリス(イングランド)、オランダといった国々はこの条約によって領土獲得の優先権から締め出される形となった。この状況を打破するには、スペインやポルトガルの船団に対して海賊行為をおこなうか、(このころはまだ難しかった)教皇の決定を無視するかという選択肢しかなかった。こうして新領土獲得から締め出された国々の心情は、フランソワ1世のものとされる「(新領土から締め出される根拠とされた)アダムの意志とはいったい何か?」という言葉によくあらわされている
サラゴサ条約詳細は「サラゴサ条約」を参照マゼラン艦隊の生き残りを引き継いだフアン・セバスティアン・エルカーノが世界一周航海を成し遂げて1522年にヨーロッパへ帰還すると、新しい疑問が起こってきた。それは地図上に南北に線をひいてスペインとポルトガルの境界を定めていても、地球が丸いなら不完全なもので、もう一本線を引かなければ分割の意味をなさないのではないかという当然の疑問であった。特に両国は当時、東南アジアのモルッカ諸島の帰属をめぐって熾烈な争いを繰り広げていた。モルッカ諸島は当時の貴重品であった香辛料の一大産地だったからである。なお、この時代の「モルッカ諸島」というのは現代でいうところのマルク諸島、ブル島やセラム島を指している。さらにはモルッカ海を囲む島々も「モルッカ諸島」に分類され、香辛料の産地として有名であった。こうしてアジアにおける線引きのための交渉がおこなわれ、新たに発効されたのが1529年4月22日に批准された「サラゴサ条約」である。サラゴサ条約はモルッカ諸島の東297.5レグアを通る子午線を第二の境界とした。これは位置的にはブル島の東1425km、東経144度30分の位置にあたり、この子午線はニューギニア島中央部を通る[8]。ポルトガルはこの条約を結んでアジアにおける地位を保全してもらうかわりに、スペインに賠償金を支払っている。これによってポルトガルのマカオにおける権益が承認された。ただ、この条約もまた、スペイン・ポルトガル両国とも厳密さには執着せず、たとえばスペインはオーストラリア全域における優先権を獲得したが、ポルトガルによる調査を禁止した形跡はない。そして、本来フィリピンは子午線から大きく離れた西側にありポルトガルの優先権が与えられるはずだが、この条約では正式にスペイン領となった。教皇勅書の効果1493年に発布されたアレクサンデル6世の教皇勅書インテル・カエテラの効力はスペイン、ポルトガルの両国において無視され、代わりにトルデシリャス条約を二国間の協議で締結した[4]。1512年、ポルトガルがスパイス諸島を発見したことを受けて、スペインは1518年に教皇アレクサンデル6世が世界を2つに分けたという説を唱えたが[9]、この頃までには他のヨーロッパ諸国は、教皇が新世界のような広い地域の主権を贈与する権利があるという考え方を完全に拒否していた。スペイン国内でもフランシスコ・デ・ビトリアのような有力者がインテル・カエテラの有効性を否定していた。スペインはローマ教皇庁の教皇勅書に基づく領有権を放棄しなかったが、スペイン王家は大西洋の境界線をめぐってローマ教皇の制裁を求めることもしなかった。むしろスペインはポルトガルと直接交渉をすることを選んだ[10]。1537年の教皇勅書スブリミス・デウスによって教皇アレクサンデル6世の教皇勅書インテル・カエテラは無効にされたという[11]。
村山等安の台湾出兵(むらやまとうあんのたいわんしゅっぺい)は、江戸時代初期の1616年(元和2年)に長崎代官の村山等安が計画、実行した台湾への出兵である。なお、本記事内において、村山等安による出兵より前の1593年(文禄2年)に行われた豊臣秀吉の台湾招致、1609年(慶長14年)に有馬晴信によって行われた台湾偵察、そして出兵より後の1627年(寛永4年)、長崎代官の末次平蔵(政直)が江戸幕府将軍徳川家光に台湾住民を引見させた上で台湾全土の献上をもくろんだタイオワン事件についても、台湾との関係性の部分に関して説明する。前史豊臣秀吉による台湾招致豊臣秀吉による天下統一後、豊臣政権は対外政策に熱心に取り組むようになる。秀吉の対外発信文書の文面は、明に対しては対等扱いであったが、朝鮮、琉球などは服属国扱いであった。秀吉の目は台湾にも向けられた。台湾は当時「高山国」と呼ばれ、戦国時代後期に日本人の対外活動が活発化した中で船舶の寄港地や給水場所として利用されるようになっていた。秀吉は1593年(文禄2年)、高山国招致の使者を送った。秀吉の書状では、高山国は朝鮮や琉球並みの服属国扱いであり、日本への朝貢を要求するものであった。しかし実際には高山国という国を見つけ出すことが出来ず、秀吉の台湾招致は失敗した[1]。有馬晴信の台湾偵察豊臣秀吉の没後、徳川家康により開かれた江戸幕府も台湾に関心を持っていた。1609年(慶長14年)2月、幕府は有馬晴信に対して台湾の偵察を命じた。幕命では、シャム、カンボジアなど遠方の国でさえ日本に対して「御礼」をしているのに、それらの国からみても近い高山国が日本と通好しようとしないことは不届きであると非難した上で、台湾への出兵が示唆されていた[2]。その上で幕府は、高山国が日本側の要求を受け入れた場合は同国の要望に応じるべきであること、そして高山国の人々が求める物資を供給して日本に対しての親近感を高めるように指示した。つまり幕府としては日本が高山国の宗主国として振舞うことを念頭においていた。幕府は台湾を明との出会貿易の拠点にしようと考え、首尾よく偵察が成功して高砂国との通好が始まったら、明船と日本船が台湾で出会貿易を開始するように指示し、そのために台湾の良港の調査、そして台湾を隅々まで偵察して様子を絵図として献上するように命じた。またもし偵察の目的が果たされなかった場合には、台湾の住民を連行するように指示していた[3]。幕府の命を受けた有馬晴信は千々岩采女を台湾に派遣した。しかし秀吉の高山国招致と同じく、当時の台湾には国のような政治的まとまりが形成されていなかったため、幕命を受けた有馬晴信による台湾偵察も失敗に終わった[4]。村山等安の台湾出兵長崎代官村上等安村山等安は1592年(文禄元年)に豊臣秀吉に謁見した後、長崎の町政に大きな影響力を及ぼすようになった。等安の出自は安芸とも尾張とも言われ、その素性は明らかでないが、長崎で外国との交渉面などで活躍を見せ、次第に頭角を現したと考えられている。なお、等安は長崎の有力キリシタンとしても知られていた[5]。等安は、江戸幕府の発足後も徳川家康の知遇を得て、1604年(慶長9年)には長崎代官となった。代官としての等安は莫大な収入を得ており、朱子学者の林羅山や平戸のイギリス商館長リチャード・コックスは、著書の中で等安を日本有数の大富豪であると紹介している。そして、村山等安は自身の一大事業として、台湾遠征とそれに続く明との勘合貿易復活の計画を練り、実行に移した[6]。台湾出兵の計画江戸時代になってからも、高山国は日本の貿易船にとって重要な船舶寄港地であり続けた。1612年(慶長17年)には京都の商人津田紹意に澎湖諸島への渡航を許可する朱印状が発給されている。1615年(元和元年)7月、村山等安に対して高砂国渡航許可の朱印状が発給されたが、それは単なる渡航許可証ではなかった。朱印状交付の翌月、リチャード・コックスは、等安に対して中国への出兵計画の有無について確認する書状を出しており、その後まもなく、コックスは等安が台湾出兵の準備を進めている事実を把握するに至った[7]。村山等安の台湾出兵の理由は、豊臣秀頼捜索のため台湾との通商貿易台湾在住民による遭難船襲撃の復讐村山等安が家康に対する信用回復を狙ったもの台湾を対中国貿易の根拠地として利用するための5点が、当時から取り沙汰されていた[8]。豊臣秀頼捜索のためというのは、大坂夏の陣で自害したとされた秀頼が、実は台湾など南方に逃れていたとの風説が流れたために持ち上がった説であるが、これは等安が本来の出兵目的を隠蔽するために偽情報を流したものともみられ、事実とは考えられない。台湾との通商貿易、台湾在住民による遭難船襲撃の復讐も理由としては考えにくいとされている[9]。一方、1615年頃にはキリシタン弾圧が強まっており、家康の信任を失いつつあったと考えられる等安が、信任回復の起死回生策として台湾出兵を断行したとの説は当時から有力であったが、同説では台湾を出兵先として選択した理由がはっきりとしない[10]。結局、台湾出兵の主目的は、5番目の対中国貿易の根拠地として利用するためであると考えられている。室町時代に行われていた明との勘合貿易が途絶して以降、その復活に対する期待は大きかった。台湾出兵の費用はすべて等安の自弁であった。それまで獲得した地位や境遇の維持に不安を感じるようになっていた等安は、対中国貿易の根拠地として台湾を活用することを主目的として、台湾出兵を計画、実行したものと推測されている[11]。
出兵の実行と失敗約半年間の準備期間を経て、1616年(元和2年)3月末、推定約2000〜3000人の兵員を乗せた13隻の艦隊が、長崎から台湾へ向かった。司令官は村山等安の次男の村山秋安が務めた。しかし、長崎出港の翌日に艦隊は五島列島に寄港したが、その後行方が分からなくなった。琉球沖で暴風雨に遭い、各船がバラバラになってしまったのである[12]。目的地である台湾にたどり着いたのはわずかに1隻であった。到着直後、船は即座に現地人に取り囲まれて逃げることもかなわず、乗員たちは切腹して全滅した。なお後述する翌1617年(元和3年)、村山等安が明との交易復活をもくろみ福建に部下の明石道友を派遣した際、福建側交渉担当者からなぜ台湾の淡水を侵擾したのかと詰問されている[13]。他に3隻の船は中国浙江省沿岸を荒らしまくり、1200名あまりの住民を殺害した[14]。この浙江での事態の影響を受け、1616年中は長崎に中国船の来航が困難となってしまい、長崎在住の中国人たちは将軍に訴えることを決心したと伝えられている[15]。遠征隊のうち明石道友が率いた2隻の船は、5月に福建省沿岸に姿を見せた。日本船が来航した福建はパニック状態に陥り、沿岸住民が避難する騒ぎとなった。その中で董伯起という人物が明石道友との交渉に当たり、その結果、道友は董を人質として連行することを条件に福建から退去することにした。人質として日本に連行される際に董伯起は交渉経過を記した書状を福建側に残し、経過を把握した福建は平静を取り戻した[16]。台湾出兵が失敗した要因の一つとして、情報が事前に中国側に漏れていたことが挙げられる。長崎に来航した中国人商人から出兵に関する情報が明当局に流れていたと推測される上に、確実なのは琉球を通じて明側に情報が伝えられていたことである。薩摩藩による琉球侵攻後、琉球は明から10年間朝貢の停止を命じられていた。朝貢停止の解除を願った琉球は、500隻の軍船が台湾を奪う計画を進めていると明へ通報したのである。通報の内容は実際よりも著しく過大ではあったが、明は秀吉の朝鮮出兵を通報した時の前例に倣い、琉球からの使節に褒賞を与えた。しかし肝心の朝貢再開については認めなかった[17]。台湾へ向かう途中、琉球沖で暴風雨に遭ってバラバラになった13隻編成の艦隊であったが、台湾で現地人の攻撃を受け全滅した1隻を除き、残りの12隻については日本に帰還出来たと考えられている。浙江沿岸を荒らしまくったとされる3隻を含む7隻は浙江省付近に到着した後、1616年(元和元年)中に長崎に戻り、明石道友が率いる2隻は前述のように福建に到達し董伯起を人質としてやはり元和元年中に長崎に戻った。そして艦隊の司令官であった村山秋安直属の3隻は、遠くベトナム方面まで流されて翌1617年(元和2年)6月になってようやく長崎に帰還出来た[18]。
等安の勘合貿易復活計画と挫折台湾出兵失敗の翌年、1617年(元和3年)3月、村山等安は、明石道友が前年に人質とした董伯起を伴い、福建に来航して江戸幕府から明の皇帝宛の親書と献上用の装飾を施した武具や丁銀を呈上し、勘合貿易の復活を願った。しかし明側は福建側の交渉担当者から前年の台湾出兵、そして薩摩藩の琉球侵攻、倭寇の海賊行為について厳しく指弾され、退去を命じられた[19]。前年、明石道友との交渉に活躍し、身をもって人質となった董伯起は、日本との内通者ではないかとの憶測が福建において流された。秀吉の朝鮮出兵以降日明関係は緊張が続いており、疑心暗鬼が渦巻いていた。1617年に帰国した董には疑惑の目が注がれたが、彼は明当局に人質生活の中で入手した日本に関する貴重な情報をもたらした[20]。そして、台湾出兵と勘合貿易復活計画が挫折した村山等安は、1619年(元和5年)11月に処刑され、翌年にかけて秋安ら一族の男性も処刑、等安の妻など女性は投獄された。台湾出兵と対明貿易復活の失敗は等安失脚の決定打になったと見られている。等安の後を襲って長崎代官となったのは末次平蔵であった。平蔵は長崎において南洋方面への貿易を手広く行っており、村山等安のライバル的な存在であった[21]。末次平蔵の台湾領有計画日本側による台湾領有の試みは、村山等安の後に長崎代官となった末次平蔵にも引き継がれる。1620年代になると台湾に勢力範囲を広げつつあったオランダと日本側の間にトラブルが起きるようになった[22]。1625年、末次平蔵が派遣した朱印船2隻がオランダ側より10パーセントの関税の支払いを命じられた。しかし日本側は将軍の朱印状を得ている商人であり、そもそも台湾を領有していると主張して支払いを拒んだ。オランダ側は貨物の生糸を没収し、平蔵はこの事件を幕府に訴え出た。末次平蔵は台湾に対する権益を主張し、1627年(寛永4年)に台湾の新港の住民数名を日本に連行し、11月には徳川家光に謁見を求めた上で台湾全土を将軍に献上しようと試みた。しかし幕府側は平蔵の台湾献上要請に応じなかった[23]。1628年(寛永5年)末次平蔵は台湾に2隻の船を派遣し、前年、家光に謁見させようと試みた台湾住民を送還したが、2隻の船には武器や火薬が積載されていた。オランダ側は態度を硬化させ、台湾に帰還した住民たちを逮捕して将軍からの下賜品を没収し、積荷の武器や火薬を押収して船長を抑留した。交渉の結果、妥協が成立するものの今度は日本に来航したオランダ船やオランダ商館を舞台にトラブルが続いた。これらのトラブルをタイオワン事件と呼ぶ。そしてこの間、平蔵は幕閣に対して台湾は自らが支配すべき土地であるとの主張を繰り返していた[24]。1629年(寛永6年)、末次平蔵はオランダ東インド総督に、将軍からの手紙であると称した偽の書状を送った。この書状では1628年(寛永5年)に台湾へ派遣された船で送還された台湾住民を逮捕して将軍の下賜品を没収し、積荷の武器を没収したのは不届き千万である。その償いとしてゼーランディア城を破却してその地を将軍に割譲するよう要求していた。オランダ側はその書状が偽物であることを見抜き、要求を拒否した[25]。幕府としては対外的なトラブルを引き起こし、台湾領有という統治に関わる分野まで口を出す形となった末次平蔵のことを忌避するようになった。1630年(寛永7年)6月、平蔵は江戸で不審死し、後継者となった平蔵の子、末次茂貞は幕府の政策に従順であった。茂貞はオランダ側との紛争は父の問題であり自分は特に事を構えるつもりは無いとのスタンスを取り、タイオワン事件は解決に向かうことになる。いずれにしても台湾領有計画は末次平蔵の独断によるもので、幕府側にはその意図は無かった[26]。1630年代、幕府は相次いで日本人の対外渡航禁止に関する法令を出し、台湾への渡航も不可能になっていく。このような中で江戸時代の日本による台湾領有計画は立ち消えとなっていく[27]。
ヤジロウ(弥次郎、1511年(永正8年)頃? - 1550年(天文19年)頃?)は、史料上確かな最初の日本人キリスト教徒と目される人物[1]。人物ヤジロウは、ヤジロー、または当時の音韻からアンジロウ(アンジローとも)、洋風にアンジェロ(天使の意)ともいわれる。彼はフランシスコ・ザビエルの通訳者、神(デウス)概念や聖句などの翻訳者として活躍し、日本の西日本地域で布教・宣教活動に従事した。彼の出自や本名などについては研究者によって区々である。一説では豪族禰寝氏庶流池端氏の可能性が指摘されている。ザビエル離日後のヤジロウについては、ルイス・フロイスなどの証言があるものの、彼がいかなる人生を送り、どこで亡くなったかは不確かである。生涯ヤジロウは薩摩国あるいは大隅国(両国とも鹿児島)の出身である[2]。彼自身やザビエルの書簡によれば、若い頃に殺人を犯し、薩摩や大隅に来航していたポルトガル船に乗ってマラッカに逃れた。その罪を告白するために、ザビエルを訪ねたという[3]。二人を引き合わせたのは、天文15年(1546年)に薩摩半島最南部の山川にやって来たポルトガル船船長で商人のジョルジュ・アルヴァレスである[4]。ジョルジュは仕事の傍ら米焼酎など日本の文化についての記録も残している[4]。仕事を終えたジョルジュはマラッカへ帰る際、ヤジロウを乗船させ、ザビエルを紹介した[5]。ヤジロウが以前何をしていたのかは不明確であるが、フロイスの『日本史』では八幡(海賊)であったと書かれており[6]、海賊や貿易など海に関わる仕事だったと考えられている。ザビエルの導きでゴアに送られたヤジロウは、1548年の聖霊降臨祭にボン・ジェス教会で、日本人として初めて洗礼を受けた。洗礼により彼は「パウロ・デ・サンタ・フェ(聖信のパウロ)」の霊名を授かった。その後、彼は同地の聖パウロ学院でキリスト神学を学んだ[7]。ヤジロウはザビエルから、日本でキリスト教の布教をした場合を問われ、スムーズに進むだろうと答えた。ヤジロウの人柄と彼の話す日本の様子を聞き、ザビエルは日本での活動を決意した。1549年4月19日、ヤジロウはザビエルに従いゴアを離れ、同年8月15日に鹿児島に上陸。ここに日本におけるキリスト教布教の第一歩を記した。その後のヤジロウの生涯については不詳である。上記の記述によればザビエルの離日後、ヤジロウは布教活動から離れて海賊の生業に戻り、最後は中国近辺で殺害されたという。また、フェルナン・メンデス・ピントの『東洋遍歴記』、ジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』によれば仏僧らの迫害を受けて出国を余儀なくされ、中国付近で海賊に殺害されたという[8]。銅像、記念碑等鹿児島が日本におけるキリスト教発祥の地であることを記念し、ザビエル来航450周年にあたる1999年、鹿児島市のザビエル公園(鹿児島市東千石、カトリック鹿児島カテドラル・ザビエル教会向かい)に設置(ザビエル、ベルナルドとの群像。画像参照)。ヤジロウ伝説鹿児島県には、ヤジロウが身を潜めて宣教を続けていたとする伝承がいくつかある。その一つに日置市伊集院町土橋の県道206号沿いにはヤジロウのものであるとされる墓があり、看板にも「ヤジロウの墓(伝)」と記されている。下甑島の下甑町片野浦にある同地の天上墓はヤジロウの墓であるとされ、クロ教(クロ宗)はヤジロウの伝えた隠れキリシタン信仰であるという伝説がある[9]。参考文献一次史料村上直次郎訳、柳谷武夫編『イエズス会士日本通信』(上)雄松堂(新異国叢書)、1968年。シュールハンマー、ヴィッキ編、河野純徳訳『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』平凡社、1985年。※1994年に同社の「東洋文庫」に所収(全4巻)。松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第III期第1巻(1549年 - 1561年)同朋舎、1997年。ルイス・フロイス、松田毅一・川崎桃太訳『日本史』全12巻、中央公論社、1977 - 1980年。※ヤジロウ関係の記事は主として「豊後編」I(6巻)に所収。入門書、研究文献ヨハネス・ラウレス『きりしたん史入門』ルーベルト・エンデルレ書店、1947年。村上光信(著)/門田明(監)『ザビエル巡礼ガイド/鹿児島編/日本のキリスト教のルーツを訪ねて』ドン・ボスコ社、1999年。ISBN 4-88626-256-2山田尚二『キリスト教伝来と鹿児島』斯文堂株式会社出版部、1999年。ISBN 4-88272-100-7岸野久『西洋人の日本発見 ザビエル来日前日本情報の研究』吉川弘文館、1989年。岸野久『ザビエルと日本 キリシタン開教期の研究』吉川弘文館、1998年。岸野久『サビエルの同伴者アンジロー―戦国時代の国際人』吉川弘文館、2001年。阿部中麻呂「キリスト者から見た「陰陽道」の可能性 4」オリエンス宗教研究所『福音宣教』58巻8号、2004年。 ISSN 0910-7118(2004)津山千恵『フランシスコ・ザビエル 神をめぐる文化の衝突』三一書房、1993年。 ISBN 4380932214根占献一『東西ルネサンスの邂逅-南蛮と禰寝氏の歴史的世界を求めて』東信堂、1998年3月、ISBN 4-88713-284-0
いつも 見させて 頂いて 今 ス
茂木先生ありがとうございました。徳川ジャパンはスペインやポルトガルではなく、プロテスタントの英蘭と通商関係をもっと重視していれば、鎖国せずに開国開放路線を継続できたと思います。しかし英蘭が西葡を完全に打ち負かして覇権を奪うのは17世紀頃ですし。タイミングが悪かったですね。英蘭もそれぞれインドやインドネシアを植民地にすると、アジアではその経営にかかりきりになり、日本との貿易に興味を示さなくなったことも、日本の明治以後の不幸の始まりだったかもしれないと思います。茂木先生が次回の講義で徳川鎖国が日本に与えた影響をお聞かせくださると、うれしいです。特に徳島文理大学の八幡教授が夕刊フジに掲載した徳川鎖国の評論について茂木先生がコメントしてくださることが重要だと、個人的には考えております。私は現代日本の負の側面、特に法律社会制度の問題は、多くが徳川鎖国に由来していると思います。
九州 全体 が 危なかった?
11:11
天正10年の日本年報(ルイス・フロイスの追記)に、信長は自らを神体だ、自分の誕生日を聖日として参拝に来るべし、と表した、とある、とされています。信長は仏教以外の宗教に寛容だったのではなく、自分が神になったのでは?
朝鮮出兵知りたい!
硝石と言えば、いわゆる硝煙反応。。山上容疑者の周囲のビルの上階の硝煙反応は、集めればできたのに、ついにずっと収集されませんでしたね。話を戻しまして、スムーズボア銃、滑腔銃はすぐにコピー生産できてもライフリングが入ったライフルはすぐにできなくて、云々かんぬん。。とかっていうくだりは、あれは本当だったのでしょうかね。。ライフリングが入っているとか、RPGの弾のように回転しながら飛ばなくては、的にまったくあたらないという。その後、相当、時代が後にくだりまして、アメリカ南北戦争の前線でも、相手兵士の眼が識別できる距離まで相手がこないと指揮官は麾下の部隊に防御射撃を開始させなかったとか。
どちらにせよ鎖骨下動脈を貫いて大量出血もせず銃弾の衝撃で身体が大きく反応するわけでもなく自力で演説台から下りる人間がタヒんでるわけがない。
フィリピン は フィリペ と いう 名前 から きていた?
すみません。目からうろこの状況です。のまちがいです!
秀吉の信仰は...お市の方でーす😂
元は山賊だったとも言われる秀吉らしいかな?
信長より遥かにイッてますね…w
今中国人に買われている不動産も秀吉のように没収すべきです。
ヨーロッパやアメリカに買われている不動産は放置か?
アメリカに占領されてる在日米軍の土地も放置?
400年前には欧州の帝国と違って中国は日本の危険と思われていませんでした。現代は中国こそ日本の危険に成っているらしいです。
岸田も自民党も腐ってますから。もちろん維新も。
バテレン追放令は素晴らしい。
日本は神の国。
流石は、豊国大明神。
秀吉はロシアからユだヤ資本を追い出したプーチンみたいだな。
豊臣秀吉は日本の救世主でしたね。もっと秀吉を評価すべきです!
秀次連座制の罪が今日の秀吉の黒歴史
戦後の歴史教育にも首を突っ込んできたグローバリストGHQ
若い頃、晩年は狂って、朝鮮出兵やった!って、書かれた本を何冊かよみました。最近わかって、これも戦争負けたせいだったんだわね。
今の日本には秀吉や家康みたいなリーダーが必要ですね
外国勢力にいいようにやられてるし、外国人からの宗教の押し付けが多くなってきてるし、最近神社仏閣が燃えることが多くなってる気がします
選挙がある以上は有権者の国民も賢くならないと厳しいでしょうね。テレビや新聞なんて半分外国勢力の支配下の情報を鵜呑みにして頭がコントロールされてる人多いし。
また、やってほしい…
不法移民追放令
まずはアメリカ進駐軍の追放だよな。日本が核武装して。
昔、さだまさしの長崎を舞台にした映画で、登場人物が長崎はその昔ローマ領だったんだよねえと少し誇らしげに語っていた場面があったが、それを見ていて、こいつは馬鹿かと思ったことを思い出した。あの登場人物の誇らしげな気分というのはさだまさしの気持ちを代弁したものだったんだな。
by 長崎県人
歴史は、面白い‼️
茂木先生のお話は、次を聞きたくなる内容です😌
声がまた良い😌
お話の仕方もすき👍
岸田は川口がクルド人のせいで酷いことになってるにもかかわらず放置
現代にも秀吉が必要だな
殿御乱心状態なのに、岸田政権を何とかしたい
茂木先生のお話は、本当に為になり何より面白い!学校でもこういう授業をしてほしい!
毎日茂木先生回の配信嬉しい~🎉
バテレン追放令は、万民平等というキリスト教の教えが封建体制の維持に害悪だったからだという理由で語られることが多いですが、実際にはこの時は日本人自身のアイデンティティ存亡の危機だったということをきちんと学ぶべきですね。
徳川家康も豊臣秀吉も、バテレンが追い払われない限り日本は欧州の植民地に成れると恐れていたんでしょうか?
織田信長こそ将軍になったらどうなった?
初耳情報、満載でした。
歴史は面白い!!
本日もありがとうございました。
👏👏👏👏👏👏👍
本当に良いお話をありがとうございます!
火縄銃を国産化したのがすごい!!
第16世紀の日本の金属加工はとても洗練でした。種子島の刀屋は南蛮の銃器製造法を学んで覚えました。
今の政府に秀吉を見習って欲しいです。国と国民を守る法法を‼️それとこのような真相を知ることができて大変勉強になりました。隠れキリシタンに踏み絵をさせたのも国防がかかっていたからなんですね.。 鉄砲を作れたことで日本と日本文化が滅亡しなくて済んだとわかって、先人の方々に感謝です。 こうやって先人の人たちが守ってきた日本を私たちも守っていかねば!と思いました。
日米安保で国防の主権をアメリカに取り上げられているから無理。
現代の兵法は戦国時代と比べたらもっと洗練だと思っております。ダレカは日本の法律を用いて日本を攻めていますね。
茂木先生の話は毎回面白くて勉強になる。いまの学生が羨ましい。
有難うございます。
茂木先生ありがとうございました。
お二人の話の進め方がとてもいいです。
ポルトガルによる日本人(種子島の人々)奴隷を阻止したのは秀吉だったのですね。
教科書には出てこない話です。ありがとうございます。
茂木せんせい有難う御座居ます🇯🇵🩷🩷🩷㊗️㊗️㊗️💯✨
日本人ってステキ🎌日本人ってカッコイイ❤️🔥嬉しい💕
グローバル売国政策の自民党はカッコ良くない。
秀吉の話おもしろすぎました
この内容が無料で見れるのが素晴らしい!次回も楽しみです。イラネチけーの大河ドラマの監修に茂木先生が必要です。
捏造・反日・国辱放送局で放送して欲しい❤🎉
豊国神社は我が町長浜だけかと思ってました!今浜という地名を秀吉が、信長の長をとって長浜に変えたと教わっております。来月には秀吉ゆかりの曳山まつりもあります。国友の鉄砲も関係があるんでしょうね。地元民なのに不勉強でお恥ずかしい。茂木先生のお話、とても興味深く拝聴いたしました。
いつも有り難うございます😊
ひかれて行くばかりです
ポルトガルの日本人に関する最初の記録
「彼らは生まれながらに知性がある」
輸入していたのは硝石だけでなく
弾の原料の鉛もタイの鉱山からのものだったと、現代の分析で分かっているらしい。
また、日本には刀を鍛造で作る技術があったので、鋼を均一に鍛造しており、銃身のバランスが良く
世界一の精度と耐久性を兼ね備えていたらしい。
今回も、相当面白いというか、感動しましたね❗👀👏秀吉さんが九州が植民地化されかねない状況を救った様な話だったから、目からうろこの植民地化です😂🎉ありがとうございました!
茂木先生のお話、引き込まれますね。4月6日に愛知県岡崎に来られます、楽しみにしております。家康の生誕地ですから、色んなお話が聞けそうです。
硝石一樽と日本人女性50人という取引をしてたと、どこかで聞いたような。
😱😱😰😰
@@rtpc5 大体、50万人ぐらいの日本人女性が性奴隷として海外に売られたとか。当時の人口じゃあ日本人いなくなる瀬戸際だったわけですね。明治以降この国はカトリックの支配下に入り、この話は教科書や大河ドラマでは載せられない、できないわけですが。今だカトリックの人身売買等はやってるわけでしょ?
茂木先生、話が上手い👏👏👏
歴史が好きになる。
流石!茂木誠先生!
真実の歴史の説明で、勝る者は居ない。
先に生まれたので、知識がある意味の先生だけど・・・。
実は僕の方が先に生まれているが、完敗!w
バテレン追放令の真の理由って最近までタブーだったね。
秀吉祀って然るべき
神様です
日本ではタヒんだら善人も悪人もみんな神様になるよ。
秀吉を礼拝している人もいますね。
いつも 貴重 な 情報
ありがとう(^人^) ありがとう(v^-゚)ございます
その硝石ですら日本で作る方法を開発して江戸時代には製造していた、白川郷とかでね、😅
民家の床下の土から硝石を得たようですね〜
御蚕さまの糞。
@@machodora様
そんなことがあったんですねー。φ(..)
秩父事件の際、反乱側がその方法で
[古土法]という手法ですね
茂木先生のおかげで歴史を学ぶのは面白いし現代の政治に関わる上で非常に役立つのだと感じている最近。
子供と一緒に学んでいきたいです☺️
秀吉に感謝
この頃のことがフロイス日本史に詳しく書かれていて面白かった。秀吉目の敵。
超秀才でないとイエズス会には入れないそうです。スペイン人の友人が言ってました。今はどうか知りませんが昔はスパイ養成機関でもあったし。
黒小姓の弥助もスパイだった。
サイコパスではないと思いますよ?
大阪市の街区割なんて、未だに当時の都市計画の結果ですから。超天才というか超有能だった印象を持ってます。
フィリピンはスペイン侵略前は、少なくともマニラあたりまではイスラム圏でしたね。
いまは9割方カトリックですが、ルソンの山奥とかいけば今でもアニミズム信仰残ってます。
江戸の間に西洋は産業革命して、技術力が逆転してしまったんだね。
フィリピンが完全にやられた国だったのか。。これはヤバイって思うね。
幕府は蘭学知識の入日を許しても西洋の産業革命をちゃんと見張っていなかった気がします。アメリカからの黒船はショックを起こしたでしょうね。
歴史面白すぎる
奴隷貿易ってポルトガル側が日本人を買いに来たと思ったら日本人が日本人を売っていたんだ😢
キリシタンになれば異教徒の売買が正当化されるからね。
私は日本語が生まれつきの言葉じゃなくて間違いない有ればごめんなさい。
大西洋の奴隷貿易はアフリカ人が宝石や銃器を持って来て売る欧人に虜のアフリカ人を売っていました。
統一の日本は戦国時代末から法律で維持されていた概念です。かつて県は「国」と言われて藩と藩の敵意でした。当時に通じる思い方によると欧人に売られている和人が敵の藩の人でいる限り平気でした。
現在は九州どころか北海道もですね その他もところどころ。。。
歴史は繰り返されるですね
出島 島原 地形も山と谷オンリー 長崎 、 理由なく貿易地にえらばれないよな~ 何かきっかけはあるでしょと歴史習った時思っていたので、 やっぱりそうかとなりました。 ありがとうございます
岸田政権は勿論、戦後歴代政権は差し詰め大村純忠です。
明治からでしょ。
先生のおヒゲ🥰素敵✨
参政党で秀吉さんのことを知ってから、
漫画のワンピースのサンジみたいな人だったんだなぁと、認識がどんでんがえりました😅
鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス。
なんていやらしい人なんだと思っていましたが😳
今はその優しさと、心意気🥰一番好きかも😊
豊国神社
関東にもあるんですね〜😮
今度伺ってみよ🥰
ありがとうございました😌
秀吉は生前に神社への寄進はしてます。日吉大社、伏見稲荷大社、津島神社、太宰府天満宮などの楼門は秀吉による物で逸話も残っています。ただ豊臣家は秀吉の死後、幼い秀頼の名前で物凄い数の社寺への寄進をしたので、秀吉の寄進は霞んでしまっているのかな、というのが個人的な感想です。
いつも 深堀り 考察
ありがとう(^人^) ありがとう(v^-゚) ございます
茂木先生、
戦国時代の鉄砲🔫はまだ弓矢🏹よりも使い勝手悪かったですよ。
伏見稲荷大社の正門は秀吉が建立したと伝わっています。
信仰からなのか、旧士族に対しての礼儀だったのか?
MCさん、秀吉のバテレン追放は政策弾圧じゃないでしょ。
その英断が無ければ、日本は無くなってたんだから。
秀吉は朝鮮征伐をやったというのに今の自民党はたるんでるよ。秀吉を見習え!
政策的に外国人を追放するのは、珍しい、ことですね…
令和の追放令が、今年6月から、実施されると、理解しています。
失われた技術。。😢
TSMCも似たような流れに感じた
豊国大明神のお話を聞いていて、日本の神話の神々、天照大神や素戔嗚尊も茂木先生の仰る通り、実在の人間だったのではないか、と直感的に思い至りました。日本の神様の成り立ちの筋道としては違ってないと思います。
ホツマはイザナギもイザナミも実在 当たり前でしょう 親がいなくてどうやって子が生まれてくるの?
火器の構造は単純で造りの仕組み&弾丸の発射メカニズムさえ理解出来れば当時の『鍛冶屋』や『鋳鉄屋 』なら誰でも出来たMade inヒノモトの『火縄銃』=さらなる改良が施されより殺傷力(初速&弾丸飛距離&口径…等)を飛躍させのだよ故に侵略戦争に踏み切らなかった…らしい
フィリピン人は名前というより、苗字がスペイン名、または第1苗字か第2苗字がスペイン名だったりしますね。
「究極の商売人」~何故か、秀吉=ドナルド・トランプを思わず連想してしまいました😅「ディール」も一部似ているし・・・でもトランプ氏はクリスチャンとしての信仰は熱心でしたね・・・一方で秀吉さんは❓❓愛国心は十二分にあると思いますが・・・
14:54
反仏教信長、敵対しない宗派については保護。
留学・移民は外国文化を知る機会でもあります。私の周りにも真面目に教育研究するドイツ人教授がいてとても好感を持てます。
豊臣秀吉の息子⁈が大坂の神社の立派な屋根をの改修してます、(戦で傷めてしまったので)過去へ思いを馳せ日本国として護るべきモノは大切にされてる。誉田八幡宮(古墳)
戦国 時代 の 武将達 は それなりに 我が国 を 守って いた と いう こと に
今更 ながら 気づかされる 日々 です
かつては 体 を はって 自国 を 守って いた 人物 が かなり いた よう ですね
秀吉は平民リセットの明治期も戦後の焼け跡復興期もずっと人気の偉人でした。風向きが変わったのが当時「今太閤」と呼ばれた首相の逮捕劇(1974~)、韓中と続いた「国交正常化」による文禄・慶長の役などに対する自虐的配慮。松平保久ら団塊・ポス団世代のNHK入局(1976~)で、それまで緒形拳・浜田光夫・中村芝鶴・火野正平・勝新太郎などが演じてきた秀吉が、平成以後、竹中直人・香川照之・柄本明・笹野高史・岸谷五郎・小日向文世・ムロツヨシなどのイメージに置き換えられていく。
秀吉の印象は作為的に貶められたものです。
フィリピンもシーパワーなのに、なんで発展しなかったのかな。ベトナムみたいに。
イスラム教徒には注意したほうが
良さそう
新しいNetflixのドラマ「Shogun」の1話2話で世界分割協定が語られていました。
トルデシリャス条約ね。
長崎が日本じゃなくなったというのは、今も長崎にはロシア領があるのを想い浮かべます
それより日本全国にあるアメリカ進駐軍の占領地帯でしょう。
フィリピン人に聴くと、カソリックともう一つ土着の宗教ありますよ
名古屋市中村区の太閤秀吉の神社を指してるなら
地元では豊国(トヨクニ)神社と呼んでますね
茂木先生には第100・101代内閣総理大臣 岸田文雄に、ご教授に願いたいです。
お礼 の 意味 の 長崎 の 寄進 が すでに ーーーー だったの ですね
牛馬と犬猫は同じ理由で食するのは禁止されていましたが、害獣でしかなかった鹿猪(かのしし)はあれやこれやと理由を付けて暗黙の了解で食べられていました。
食器に穢れがどうのと言う物だから農具の鋤でかのししを焼いたのが鋤焼きの始まり、これを明治の時代に江戸の寿司の大きさに切ったのが焼き肉の始まりになります、猟師もやってるので今でも鹿猪(かのしし)を食べますが美味しいですよ。
長崎って苦難にさらされる歴史を辿ってきたんですね。奴隷問題もそう、原爆もそう!もしかしたらそういう土地だったから原爆のターゲットになったんですかね?
秀吉の宗教観は商売道具にも似た・・・ということですが、歴史観はどうだったんだろう?
弥生時代の大量の渡来人や仏教が入ってきたこと、それを踏まえた上でのバテレン追放だったのだろうか?
たしか、秀吉は、もくじき‐おうご【木食応其】という僧侶を信仰していた。
その木食応其は、食事療法を徹底して不思議な力があったとされる。
日本その後硝石をおしっこ発酵させて作った凄いですね
鉄砲を自作コピーしたのは実際はそんな簡単なことではなかったかと。暴発しない材質や何より弾丸。今でも銃器密造で1番大変なのは弾丸製造らしいですね。他の国じゃできなかったわけですからやはりそれだけの技術蓄積があったんでしょう。まあみんな集まっちゃったからあとは伝播効果でできたらあっという間にというところですか。勤勉で手先が器用な日本人ならではの話です。
それで、聞き手の人がちょっとうるさいですね。あまり先生の話を遮って自説を喧伝しないでいただきたい。
九州は今でもほぼほぼ日本じゃないんじゃないですか。笑。by 九州人
だから意趣返しにあの県ですか?
なじ は知らねど
えっ?信長・・・安土城天守閣の最上階って確か、『オレ、神になる』的な作りだった筈?
因みに、明治時代になってから京都と山形県天童市に信長を主祭神とした「建勲神社」が創建されてます。
家康も神になったからね。ちゅーか、日本ではタヒんだら善人も悪人もみんな神様になるって考え方よ。
安土にはこれは俺の化身だから拝めと言う石が祭られていたそうな
秀吉の信仰心は、尾張人の特徴なのかな?
信長は忌部氏の出身、忌部氏は宮中祭司をしてた家系で元はユダヤ人だといわれています。
長篠の戦いで六芒星をつけた集団が信長軍にいたのは有名。
鎌倉幕府の高麗遠征計画
(かまくらばくふのこうらいえんせいけいかく)とは、文永の役以後に元軍の根拠地と考えられた高麗に遠征を行って日本侵攻の拠点を制圧しようとした構想のことである。
文永の役で元軍を撃退したものの、鎌倉幕府では再度の侵攻を予想して、元軍が行動を起こす前に日本侵攻軍が拠点とするであろう高麗を先に制圧することで遠征を阻止しようとする構想が浮上した。
1275年(建治元年)11月に金沢実政が異国征伐のために鎮西(九州)に下向したとされ、翌月には安芸国の守護である武田信時に異国征伐に関する関東御教書が出され、明年3月を目途に異国征伐を行うこと、鎮西で水手が不足した場合には山陰・山陽・南海各道から調達するため、御家人・本所(公家領・寺社領)を問わずに水手を募って博多への派遣準備を進めるようにという内容であった(建治元年(1275年)執権北条時宗・連署北条義政関東御教書案「東寺百合文書」京都府立総合資料館所蔵)。だが、この時は本来鎌倉幕府の支配が及ばない筈の本所にも動員がかけられたことに対する抵抗の動きや同時に行われていた博多湾での石塁構築との二重負担の問題があり、実施されることなく終わった。
その後、弘安の役が発生し、1281年(弘安4年)8月には再度高麗遠征論が唱えられ、九州の有力武士であった少弐経資と大友頼泰を大将とし、彼らが支配する九州北部の御家人たちを動員し、更に山城国や大和国の悪徒(僧兵)にも協力を要請するものであったが、これも実施されることなく終わり、以後幕府内の政争などもあって中断されたまま終わった。
なお、この出兵の背景には二度の元寇で恩賞が貰えなかった御家人たちに制圧した高麗の土地を与えようとしたとする見方もある。
元・高麗連合軍の反応
一方、クビライも日本の反撃を警戒し、高麗の金州等に鎮辺万戸府を設置し日本軍の襲来に備えた[1]。
参考文献
溝川晃司「高麗遠征計画」(『日本中世史事典』(朝倉書店、2008年) ISBN 978-4-254-53015-5)
トルデシリャス条約
(トルデシリャスじょうやく、ポルトガル語: Tratado de Tordesilhas, スペイン語: Tratado de Tordesillas)は、1494年6月7日にスペイン帝国とポルトガル王国の間で結ばれた条約[1]。
1492年、コロンブスが西大西洋のアジア大陸と思われる地域に到達したことで、ポルトガルとスペインの不安定な関係が危ぶまれた。ジョアン2世が西方への航海のために艦隊を準備しているという知らせを受け、スペイン国王とスペイン女王は新しく発見された土地の所有権と統治権をめぐって外交協議を開始した[2]。スペインとポルトガルの代表団は1493年4月から11月まで会合を開き議論を重ねたが、合意には至らなかった。
スペイン国王とスペイン女王はスペイン人で前バレンシア行政官であり、ナポリ王との紛争中であったローマ教皇アレクサンデル6世を使って、「新世界」における紛争をスペインにとって有利に解決するため、教皇アレクサンデル6世に先行する勅書を上書きするように要請した[3]。当時のカメラ・アポストリカ(教皇庁の行政システムにおける中央財政委員会)はスペイン裁判所の延長線上にあるようなもので、ポルトガルの請求権を事実上清算する勅書を次々と確保した[4]。
こうした成立上の経緯から1493年の教皇アレクサンデル6世の教皇勅書インテル・カエテラには、ポルトガルとスペインの双方とも全く注意を払わなかった[4]。その代わりに1494年にはトルデシリャス条約を交渉、締結した[5]。
概要
本条約において西アフリカのセネガル沖に浮かぶベルデ岬諸島の西370レグア(約2000km)の海上において子午線に沿った線(西経46度37分)の東側の新領土がポルトガルに、西側がスペインに属することが定められた。
名称の由来は、条約が批准されたカスティーリャのトルデシリャスの地名からとられている。
条約調書の原本は2007年にスペインとポルトガルの共同申請で、ユネスコの記憶遺産に登録された[6]。
サラゴサ条約もまた同じ意図によって、1529年に両国の間で批准された条約である。
トルデシリャス条約
「スブリミス・デウス」も参照
1492年、クリストファー・コロンブスが「インド」(実際には西インド諸島)に到達し、帰還したことによって、ポルトガル・スペイン両国において「新世界」への冒険的航海がブームとなった。しかしコロンブス以前から、船団の到達先において両国はしばしば争い、抜本的な解決策が求められていた。
すでに1481年に布告された教皇シクストゥス4世の回勅『エテルニ・レギス』(永遠の王)で、カナリア諸島以南の新領土はすべてポルトガルに与えられると定められていた。ところが1493年になるとスペイン出身であった教皇アレクサンデル6世が自国に便宜をはかろうとし、カーボベルデの西わずか100レグアの地点を通過する子午線を境界線(教皇子午線)に、それより東側はポルトガルに優先権を認めるにせよ、西側の土地はすべてスペイン領にするという回勅『インテル・チェテラ』を布告した。西方への航海熱が高まっていた時代、当然ポルトガルのジョアン2世にとってこの裁定は面白くなかった。
そこでジョアン2世はスペインのフェルディナンド2世と直接交渉し、1494年に教皇子午線からさらに西に270レグア進んだ子午線を境界線とするトルデシリャス条約を締結した。1506年にはアレクサンデル6世の次の教皇、ユリウス2世による確認を受け、この取り決めは教皇庁にも認められることになる。[7]
スペインはこの条約のおかげでアメリカ大陸の全域で優先権を持つことができた。ただ、現在のブラジルにあたる領土は1500年にペドロ・アルヴァレス・カブラルが到達したため、ポルトガルに与えられた。この条約はアジアにも適用されると考えられていたが、経度の厳密な測定が困難だったこの時代にはアジアにはどのように適用されるのかよくわからず、再度の論争が起こることになった。ただ、この条約についてスペインもポルトガルも過度にこだわった様子はなく、アメリカ大陸にポルトガルが植民活動をおこなうことをスペインも黙認している。
フランス、イギリス(イングランド)、オランダといった国々はこの条約によって領土獲得の優先権から締め出される形となった。この状況を打破するには、スペインやポルトガルの船団に対して海賊行為をおこなうか、(このころはまだ難しかった)教皇の決定を無視するかという選択肢しかなかった。こうして新領土獲得から締め出された国々の心情は、フランソワ1世のものとされる「(新領土から締め出される根拠とされた)アダムの意志とはいったい何か?」という言葉によくあらわされている
サラゴサ条約
詳細は「サラゴサ条約」を参照
マゼラン艦隊の生き残りを引き継いだフアン・セバスティアン・エルカーノが世界一周航海を成し遂げて1522年にヨーロッパへ帰還すると、新しい疑問が起こってきた。それは地図上に南北に線をひいてスペインとポルトガルの境界を定めていても、地球が丸いなら不完全なもので、もう一本線を引かなければ分割の意味をなさないのではないかという当然の疑問であった。
特に両国は当時、東南アジアのモルッカ諸島の帰属をめぐって熾烈な争いを繰り広げていた。モルッカ諸島は当時の貴重品であった香辛料の一大産地だったからである。なお、この時代の「モルッカ諸島」というのは現代でいうところのマルク諸島、ブル島やセラム島を指している。さらにはモルッカ海を囲む島々も「モルッカ諸島」に分類され、香辛料の産地として有名であった。
こうしてアジアにおける線引きのための交渉がおこなわれ、新たに発効されたのが1529年4月22日に批准された「サラゴサ条約」である。サラゴサ条約はモルッカ諸島の東297.5レグアを通る子午線を第二の境界とした。これは位置的にはブル島の東1425km、東経144度30分の位置にあたり、この子午線はニューギニア島中央部を通る[8]。ポルトガルはこの条約を結んでアジアにおける地位を保全してもらうかわりに、スペインに賠償金を支払っている。これによってポルトガルのマカオにおける権益が承認された。ただ、この条約もまた、スペイン・ポルトガル両国とも厳密さには執着せず、たとえばスペインはオーストラリア全域における優先権を獲得したが、ポルトガルによる調査を禁止した形跡はない。そして、本来フィリピンは子午線から大きく離れた西側にありポルトガルの優先権が与えられるはずだが、この条約では正式にスペイン領となった。
教皇勅書の効果
1493年に発布されたアレクサンデル6世の教皇勅書インテル・カエテラの効力はスペイン、ポルトガルの両国において無視され、代わりにトルデシリャス条約を二国間の協議で締結した[4]。1512年、ポルトガルがスパイス諸島を発見したことを受けて、スペインは1518年に教皇アレクサンデル6世が世界を2つに分けたという説を唱えたが[9]、この頃までには他のヨーロッパ諸国は、教皇が新世界のような広い地域の主権を贈与する権利があるという考え方を完全に拒否していた。スペイン国内でもフランシスコ・デ・ビトリアのような有力者がインテル・カエテラの有効性を否定していた。スペインはローマ教皇庁の教皇勅書に基づく領有権を放棄しなかったが、スペイン王家は大西洋の境界線をめぐってローマ教皇の制裁を求めることもしなかった。むしろスペインはポルトガルと直接交渉をすることを選んだ[10]。
1537年の教皇勅書スブリミス・デウスによって教皇アレクサンデル6世の教皇勅書インテル・カエテラは無効にされたという[11]。
村山等安の台湾出兵(
むらやまとうあんのたいわんしゅっぺい)は、江戸時代初期の1616年(元和2年)に長崎代官の村山等安が計画、実行した台湾への出兵である。
なお、本記事内において、村山等安による出兵より前の1593年(文禄2年)に行われた豊臣秀吉の台湾招致、1609年(慶長14年)に有馬晴信によって行われた台湾偵察、そして出兵より後の1627年(寛永4年)、長崎代官の末次平蔵(政直)が江戸幕府将軍徳川家光に台湾住民を引見させた上で台湾全土の献上をもくろんだタイオワン事件についても、台湾との関係性の部分に関して説明する。
前史
豊臣秀吉による台湾招致
豊臣秀吉による天下統一後、豊臣政権は対外政策に熱心に取り組むようになる。秀吉の対外発信文書の文面は、明に対しては対等扱いであったが、朝鮮、琉球などは服属国扱いであった。秀吉の目は台湾にも向けられた。台湾は当時「高山国」と呼ばれ、戦国時代後期に日本人の対外活動が活発化した中で船舶の寄港地や給水場所として利用されるようになっていた。秀吉は1593年(文禄2年)、高山国招致の使者を送った。秀吉の書状では、高山国は朝鮮や琉球並みの服属国扱いであり、日本への朝貢を要求するものであった。しかし実際には高山国という国を見つけ出すことが出来ず、秀吉の台湾招致は失敗した[1]。
有馬晴信の台湾偵察
豊臣秀吉の没後、徳川家康により開かれた江戸幕府も台湾に関心を持っていた。1609年(慶長14年)2月、幕府は有馬晴信に対して台湾の偵察を命じた。幕命では、シャム、カンボジアなど遠方の国でさえ日本に対して「御礼」をしているのに、それらの国からみても近い高山国が日本と通好しようとしないことは不届きであると非難した上で、台湾への出兵が示唆されていた[2]。
その上で幕府は、高山国が日本側の要求を受け入れた場合は同国の要望に応じるべきであること、そして高山国の人々が求める物資を供給して日本に対しての親近感を高めるように指示した。つまり幕府としては日本が高山国の宗主国として振舞うことを念頭においていた。幕府は台湾を明との出会貿易の拠点にしようと考え、首尾よく偵察が成功して高砂国との通好が始まったら、明船と日本船が台湾で出会貿易を開始するように指示し、そのために台湾の良港の調査、そして台湾を隅々まで偵察して様子を絵図として献上するように命じた。またもし偵察の目的が果たされなかった場合には、台湾の住民を連行するように指示していた[3]。
幕府の命を受けた有馬晴信は千々岩采女を台湾に派遣した。しかし秀吉の高山国招致と同じく、当時の台湾には国のような政治的まとまりが形成されていなかったため、幕命を受けた有馬晴信による台湾偵察も失敗に終わった[4]。
村山等安の台湾出兵
長崎代官村上等安
村山等安は1592年(文禄元年)に豊臣秀吉に謁見した後、長崎の町政に大きな影響力を及ぼすようになった。等安の出自は安芸とも尾張とも言われ、その素性は明らかでないが、長崎で外国との交渉面などで活躍を見せ、次第に頭角を現したと考えられている。なお、等安は長崎の有力キリシタンとしても知られていた[5]。
等安は、江戸幕府の発足後も徳川家康の知遇を得て、1604年(慶長9年)には長崎代官となった。代官としての等安は莫大な収入を得ており、朱子学者の林羅山や平戸のイギリス商館長リチャード・コックスは、著書の中で等安を日本有数の大富豪であると紹介している。そして、村山等安は自身の一大事業として、台湾遠征とそれに続く明との勘合貿易復活の計画を練り、実行に移した[6]。
台湾出兵の計画
江戸時代になってからも、高山国は日本の貿易船にとって重要な船舶寄港地であり続けた。1612年(慶長17年)には京都の商人津田紹意に澎湖諸島への渡航を許可する朱印状が発給されている。1615年(元和元年)7月、村山等安に対して高砂国渡航許可の朱印状が発給されたが、それは単なる渡航許可証ではなかった。朱印状交付の翌月、リチャード・コックスは、等安に対して中国への出兵計画の有無について確認する書状を出しており、その後まもなく、コックスは等安が台湾出兵の準備を進めている事実を把握するに至った[7]。
村山等安の台湾出兵の理由は、
豊臣秀頼捜索のため
台湾との通商貿易
台湾在住民による遭難船襲撃の復讐
村山等安が家康に対する信用回復を狙ったもの
台湾を対中国貿易の根拠地として利用するため
の5点が、当時から取り沙汰されていた[8]。
豊臣秀頼捜索のためというのは、大坂夏の陣で自害したとされた秀頼が、実は台湾など南方に逃れていたとの風説が流れたために持ち上がった説であるが、これは等安が本来の出兵目的を隠蔽するために偽情報を流したものともみられ、事実とは考えられない。台湾との通商貿易、台湾在住民による遭難船襲撃の復讐も理由としては考えにくいとされている[9]。一方、1615年頃にはキリシタン弾圧が強まっており、家康の信任を失いつつあったと考えられる等安が、信任回復の起死回生策として台湾出兵を断行したとの説は当時から有力であったが、同説では台湾を出兵先として選択した理由がはっきりとしない[10]。
結局、台湾出兵の主目的は、5番目の対中国貿易の根拠地として利用するためであると考えられている。室町時代に行われていた明との勘合貿易が途絶して以降、その復活に対する期待は大きかった。台湾出兵の費用はすべて等安の自弁であった。それまで獲得した地位や境遇の維持に不安を感じるようになっていた等安は、対中国貿易の根拠地として台湾を活用することを主目的として、台湾出兵を計画、実行したものと推測されている[11]。
出兵の実行と失敗
約半年間の準備期間を経て、1616年(元和2年)3月末、推定約2000〜3000人の兵員を乗せた13隻の艦隊が、長崎から台湾へ向かった。司令官は村山等安の次男の村山秋安が務めた。しかし、長崎出港の翌日に艦隊は五島列島に寄港したが、その後行方が分からなくなった。琉球沖で暴風雨に遭い、各船がバラバラになってしまったのである[12]。
目的地である台湾にたどり着いたのはわずかに1隻であった。到着直後、船は即座に現地人に取り囲まれて逃げることもかなわず、乗員たちは切腹して全滅した。なお後述する翌1617年(元和3年)、村山等安が明との交易復活をもくろみ福建に部下の明石道友を派遣した際、福建側交渉担当者からなぜ台湾の淡水を侵擾したのかと詰問されている[13]。
他に3隻の船は中国浙江省沿岸を荒らしまくり、1200名あまりの住民を殺害した[14]。この浙江での事態の影響を受け、1616年中は長崎に中国船の来航が困難となってしまい、長崎在住の中国人たちは将軍に訴えることを決心したと伝えられている[15]。
遠征隊のうち明石道友が率いた2隻の船は、5月に福建省沿岸に姿を見せた。日本船が来航した福建はパニック状態に陥り、沿岸住民が避難する騒ぎとなった。その中で董伯起という人物が明石道友との交渉に当たり、その結果、道友は董を人質として連行することを条件に福建から退去することにした。人質として日本に連行される際に董伯起は交渉経過を記した書状を福建側に残し、経過を把握した福建は平静を取り戻した[16]。
台湾出兵が失敗した要因の一つとして、情報が事前に中国側に漏れていたことが挙げられる。長崎に来航した中国人商人から出兵に関する情報が明当局に流れていたと推測される上に、確実なのは琉球を通じて明側に情報が伝えられていたことである。薩摩藩による琉球侵攻後、琉球は明から10年間朝貢の停止を命じられていた。朝貢停止の解除を願った琉球は、500隻の軍船が台湾を奪う計画を進めていると明へ通報したのである。通報の内容は実際よりも著しく過大ではあったが、明は秀吉の朝鮮出兵を通報した時の前例に倣い、琉球からの使節に褒賞を与えた。しかし肝心の朝貢再開については認めなかった[17]。
台湾へ向かう途中、琉球沖で暴風雨に遭ってバラバラになった13隻編成の艦隊であったが、台湾で現地人の攻撃を受け全滅した1隻を除き、残りの12隻については日本に帰還出来たと考えられている。浙江沿岸を荒らしまくったとされる3隻を含む7隻は浙江省付近に到着した後、1616年(元和元年)中に長崎に戻り、明石道友が率いる2隻は前述のように福建に到達し董伯起を人質としてやはり元和元年中に長崎に戻った。そして艦隊の司令官であった村山秋安直属の3隻は、遠くベトナム方面まで流されて翌1617年(元和2年)6月になってようやく長崎に帰還出来た[18]。
等安の勘合貿易復活計画と挫折
台湾出兵失敗の翌年、1617年(元和3年)3月、村山等安は、明石道友が前年に人質とした董伯起を伴い、福建に来航して江戸幕府から明の皇帝宛の親書と献上用の装飾を施した武具や丁銀を呈上し、勘合貿易の復活を願った。しかし明側は福建側の交渉担当者から前年の台湾出兵、そして薩摩藩の琉球侵攻、倭寇の海賊行為について厳しく指弾され、退去を命じられた[19]。
前年、明石道友との交渉に活躍し、身をもって人質となった董伯起は、日本との内通者ではないかとの憶測が福建において流された。秀吉の朝鮮出兵以降日明関係は緊張が続いており、疑心暗鬼が渦巻いていた。1617年に帰国した董には疑惑の目が注がれたが、彼は明当局に人質生活の中で入手した日本に関する貴重な情報をもたらした[20]。
そして、台湾出兵と勘合貿易復活計画が挫折した村山等安は、1619年(元和5年)11月に処刑され、翌年にかけて秋安ら一族の男性も処刑、等安の妻など女性は投獄された。台湾出兵と対明貿易復活の失敗は等安失脚の決定打になったと見られている。等安の後を襲って長崎代官となったのは末次平蔵であった。平蔵は長崎において南洋方面への貿易を手広く行っており、村山等安のライバル的な存在であった[21]。
末次平蔵の台湾領有計画
日本側による台湾領有の試みは、村山等安の後に長崎代官となった末次平蔵にも引き継がれる。1620年代になると台湾に勢力範囲を広げつつあったオランダと日本側の間にトラブルが起きるようになった[22]。
1625年、末次平蔵が派遣した朱印船2隻がオランダ側より10パーセントの関税の支払いを命じられた。しかし日本側は将軍の朱印状を得ている商人であり、そもそも台湾を領有していると主張して支払いを拒んだ。オランダ側は貨物の生糸を没収し、平蔵はこの事件を幕府に訴え出た。末次平蔵は台湾に対する権益を主張し、1627年(寛永4年)に台湾の新港の住民数名を日本に連行し、11月には徳川家光に謁見を求めた上で台湾全土を将軍に献上しようと試みた。しかし幕府側は平蔵の台湾献上要請に応じなかった[23]。
1628年(寛永5年)末次平蔵は台湾に2隻の船を派遣し、前年、家光に謁見させようと試みた台湾住民を送還したが、2隻の船には武器や火薬が積載されていた。オランダ側は態度を硬化させ、台湾に帰還した住民たちを逮捕して将軍からの下賜品を没収し、積荷の武器や火薬を押収して船長を抑留した。交渉の結果、妥協が成立するものの今度は日本に来航したオランダ船やオランダ商館を舞台にトラブルが続いた。これらのトラブルをタイオワン事件と呼ぶ。そしてこの間、平蔵は幕閣に対して台湾は自らが支配すべき土地であるとの主張を繰り返していた[24]。
1629年(寛永6年)、末次平蔵はオランダ東インド総督に、将軍からの手紙であると称した偽の書状を送った。この書状では1628年(寛永5年)に台湾へ派遣された船で送還された台湾住民を逮捕して将軍の下賜品を没収し、積荷の武器を没収したのは不届き千万である。その償いとしてゼーランディア城を破却してその地を将軍に割譲するよう要求していた。オランダ側はその書状が偽物であることを見抜き、要求を拒否した[25]。
幕府としては対外的なトラブルを引き起こし、台湾領有という統治に関わる分野まで口を出す形となった末次平蔵のことを忌避するようになった。1630年(寛永7年)6月、平蔵は江戸で不審死し、後継者となった平蔵の子、末次茂貞は幕府の政策に従順であった。茂貞はオランダ側との紛争は父の問題であり自分は特に事を構えるつもりは無いとのスタンスを取り、タイオワン事件は解決に向かうことになる。いずれにしても台湾領有計画は末次平蔵の独断によるもので、幕府側にはその意図は無かった[26]。1630年代、幕府は相次いで日本人の対外渡航禁止に関する法令を出し、台湾への渡航も不可能になっていく。このような中で江戸時代の日本による台湾領有計画は立ち消えとなっていく[27]。
ヤジロウ
(弥次郎、1511年(永正8年)頃? - 1550年(天文19年)頃?)は、史料上確かな最初の日本人キリスト教徒と目される人物[1]。
人物
ヤジロウは、ヤジロー、または当時の音韻からアンジロウ(アンジローとも)、洋風にアンジェロ(天使の意)ともいわれる。彼はフランシスコ・ザビエルの通訳者、神(デウス)概念や聖句などの翻訳者として活躍し、日本の西日本地域で布教・宣教活動に従事した。彼の出自や本名などについては研究者によって区々である。一説では豪族禰寝氏庶流池端氏の可能性が指摘されている。ザビエル離日後のヤジロウについては、ルイス・フロイスなどの証言があるものの、彼がいかなる人生を送り、どこで亡くなったかは不確かである。
生涯
ヤジロウは薩摩国あるいは大隅国(両国とも鹿児島)の出身である[2]。彼自身やザビエルの書簡によれば、若い頃に殺人を犯し、薩摩や大隅に来航していたポルトガル船に乗ってマラッカに逃れた。その罪を告白するために、ザビエルを訪ねたという[3]。二人を引き合わせたのは、天文15年(1546年)に薩摩半島最南部の山川にやって来たポルトガル船船長で商人のジョルジュ・アルヴァレスである[4]。ジョルジュは仕事の傍ら米焼酎など日本の文化についての記録も残している[4]。仕事を終えたジョルジュはマラッカへ帰る際、ヤジロウを乗船させ、ザビエルを紹介した[5]。
ヤジロウが以前何をしていたのかは不明確であるが、フロイスの『日本史』では八幡(海賊)であったと書かれており[6]、海賊や貿易など海に関わる仕事だったと考えられている。
ザビエルの導きでゴアに送られたヤジロウは、1548年の聖霊降臨祭にボン・ジェス教会で、日本人として初めて洗礼を受けた。洗礼により彼は「パウロ・デ・サンタ・フェ(聖信のパウロ)」の霊名を授かった。その後、彼は同地の聖パウロ学院でキリスト神学を学んだ[7]。
ヤジロウはザビエルから、日本でキリスト教の布教をした場合を問われ、スムーズに進むだろうと答えた。ヤジロウの人柄と彼の話す日本の様子を聞き、ザビエルは日本での活動を決意した。
1549年4月19日、ヤジロウはザビエルに従いゴアを離れ、同年8月15日に鹿児島に上陸。ここに日本におけるキリスト教布教の第一歩を記した。
その後のヤジロウの生涯については不詳である。上記の記述によればザビエルの離日後、ヤジロウは布教活動から離れて海賊の生業に戻り、最後は中国近辺で殺害されたという。また、フェルナン・メンデス・ピントの『東洋遍歴記』、ジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』によれば仏僧らの迫害を受けて出国を余儀なくされ、中国付近で海賊に殺害されたという[8]。
銅像、記念碑等
鹿児島が日本におけるキリスト教発祥の地であることを記念し、ザビエル来航450周年にあたる1999年、鹿児島市のザビエル公園(鹿児島市東千石、カトリック鹿児島カテドラル・ザビエル教会向かい)に設置(ザビエル、ベルナルドとの群像。画像参照)。
ヤジロウ伝説
鹿児島県には、ヤジロウが身を潜めて宣教を続けていたとする伝承がいくつかある。その一つに日置市伊集院町土橋の県道206号沿いにはヤジロウのものであるとされる墓があり、看板にも「ヤジロウの墓(伝)」と記されている。下甑島の下甑町片野浦にある同地の天上墓はヤジロウの墓であるとされ、クロ教(クロ宗)はヤジロウの伝えた隠れキリシタン信仰であるという伝説がある[9]。
参考文献
一次史料
村上直次郎訳、柳谷武夫編『イエズス会士日本通信』(上)雄松堂(新異国叢書)、1968年。
シュールハンマー、ヴィッキ編、河野純徳訳『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』平凡社、1985年。※1994年に同社の「東洋文庫」に所収(全4巻)。
松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第III期第1巻(1549年 - 1561年)同朋舎、1997年。
ルイス・フロイス、松田毅一・川崎桃太訳『日本史』全12巻、中央公論社、1977 - 1980年。※ヤジロウ関係の記事は主として「豊後編」I(6巻)に所収。
入門書、研究文献
ヨハネス・ラウレス『きりしたん史入門』ルーベルト・エンデルレ書店、1947年。
村上光信(著)/門田明(監)『ザビエル巡礼ガイド/鹿児島編/日本のキリスト教のルーツを訪ねて』ドン・ボスコ社、1999年。ISBN 4-88626-256-2
山田尚二『キリスト教伝来と鹿児島』斯文堂株式会社出版部、1999年。ISBN 4-88272-100-7
岸野久『西洋人の日本発見 ザビエル来日前日本情報の研究』吉川弘文館、1989年。
岸野久『ザビエルと日本 キリシタン開教期の研究』吉川弘文館、1998年。
岸野久『サビエルの同伴者アンジロー―戦国時代の国際人』吉川弘文館、2001年。
阿部中麻呂「キリスト者から見た「陰陽道」の可能性 4」オリエンス宗教研究所『福音宣教』58巻8号、2004年。 ISSN 0910-7118(2004)
津山千恵『フランシスコ・ザビエル 神をめぐる文化の衝突』三一書房、1993年。 ISBN 4380932214
根占献一『東西ルネサンスの邂逅-南蛮と禰寝氏の歴史的世界を求めて』東信堂、1998年3月、ISBN 4-88713-284-0
いつも 見させて 頂いて 今 ス
茂木先生ありがとうございました。徳川ジャパンはスペインやポルトガルではなく、プロテスタントの英蘭と通商関係をもっと重視していれば、鎖国せずに開国開放路線を継続できたと思います。しかし英蘭が西葡を完全に打ち負かして覇権を奪うのは17世紀頃ですし。タイミングが悪かったですね。英蘭もそれぞれインドやインドネシアを植民地にすると、アジアではその経営にかかりきりになり、日本との貿易に興味を示さなくなったことも、日本の明治以後の不幸の始まりだったかもしれないと思います。茂木先生が次回の講義で徳川鎖国が日本に与えた影響をお聞かせくださると、うれしいです。特に徳島文理大学の八幡教授が夕刊フジに掲載した徳川鎖国の評論について茂木先生がコメントしてくださることが重要だと、個人的には考えております。私は現代日本の負の側面、特に法律社会制度の問題は、多くが徳川鎖国に由来していると思います。
九州 全体 が 危なかった?
11:11
天正10年の日本年報(ルイス・フロイスの追記)に、
信長は自らを神体だ、自分の誕生日を聖日として参拝に来るべし、
と表した、とある、とされています。
信長は仏教以外の宗教に寛容だったのではなく、自分が神になったのでは?
朝鮮出兵知りたい!
硝石と言えば、いわゆる硝煙反応。。山上容疑者の周囲のビルの上階の硝煙反応は、集めればできたのに、ついにずっと収集されませんでしたね。話を戻しまして、スムーズボア銃、滑腔銃はすぐにコピー生産できてもライフリングが入ったライフルはすぐにできなくて、云々かんぬん。。とかっていうくだりは、あれは本当だったのでしょうかね。。ライフリングが入っているとか、RPGの弾のように回転しながら飛ばなくては、的にまったくあたらないという。その後、相当、時代が後にくだりまして、アメリカ南北戦争の前線でも、相手兵士の眼が識別できる距離まで相手がこないと指揮官は麾下の部隊に防御射撃を開始させなかったとか。
どちらにせよ鎖骨下動脈を貫いて大量出血もせず銃弾の衝撃で身体が大きく反応するわけでもなく自力で演説台から下りる人間がタヒんでるわけがない。
フィリピン は フィリペ と いう 名前 から きていた?
すみません。目からうろこの状況です。のまちがいです!
秀吉の信仰は...
お市の方でーす😂
元は山賊だったとも言われる秀吉らしいかな?
信長より遥かにイッてますね…w