【迷列車で行こう】#69 東京・上海間のメインルートを担った!明治時代から続いた名門寝台鈍行・ながさき号に迫る

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  • Опубліковано 29 чер 2023
  • #迷列車で行こう #国鉄 #長崎本線 #寝台列車 #夜行列車
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КОМЕНТАРІ • 49

  • @user-ky5ki6cz3r
    @user-ky5ki6cz3r 2 місяці тому +1

    停車のたびに起こされそう

  • @user-vv4hs3qh3n
    @user-vv4hs3qh3n Рік тому +5

    夜行列車の良き時代の列車ですね。80年以上も運転されていたのはすごいです。ながさき号が廃止された1984年は鉄道貨物輸送の大整理が行われた年で列車内での郵便仕訳作業が全廃されています。

  • @587qfpcb
    @587qfpcb Рік тому +10

    今は夜行バスが夜間移動の需要を担ってますからね…

    • @psychedelicraspberry517
      @psychedelicraspberry517 Рік тому

      福岡~長崎に夜行バス🚍️ね~だろ!😜

    • @fujisakishigemichi5920
      @fujisakishigemichi5920 Рік тому +3

      ​@@psychedelicraspberry517
      まあそれでも6:00から22:30まで便はあるから補完はしてるのではないかと

  • @AnotherSky787
    @AnotherSky787 Рік тому +4

    この鈍行(普通列車)の「ながさき」号も北九州市の黒崎の最寄りに住んでいたころに実車を見ました。寝台車は編成中ほどに1輌、10系客車のオハネフ12がつないであった記憶です。編成の車端では無かった記憶で、おそらくはもともと時間稼ぎもあって「ながさき」は門司港発で長崎本線、肥前山口から佐世保線で早岐経由で佐世保行きを分割、長崎行きは大村線経由で長崎行きという列車でしたので、早岐駅でも併解結の関係で中間に寝台車があったと考えています。
    しかし、懐かしいなあ。
    この普通列車「ながさき」を見たのは上り列車で早朝の黒崎駅でのことで、家族旅行で宮崎に向かうためにホームにいたらそいつがきた!という状況でした。ちなみに、その宮崎に向かう家族旅行は特急にちりんではなく、博多経由で肥薩線経由の「特急おおよど」での旅行でした。(帰りは急行えびの) キハ82系はその当時で博多から西鹿児島まで直通の1往復で使用された「にちりん」とこの「おおよど」だけしか九州内での運用はなく、そのほかでは「まつかぜ」の1号と4号が本州から博多までの運用で顔を出していたほどです。
    「まつかぜ」と「おおよど」は乗車経験はありますが、ディーゼル「にちりん」だけは見たことはあってものったことのない列車となりました。
    懐かしい。今は亡き母と妹との家族旅行でした。なんか色々思い出してきたなぁ。ちなみに親父は留守番です。

    • @psychedelicraspberry517
      @psychedelicraspberry517 Рік тому

      上りだと、B寝台の前は機関車&座席車、後ろは郵便📮・荷物📦️車😉

  • @psychedelicraspberry517
    @psychedelicraspberry517 Рік тому +2

    6:02 この頃の九州内夜行は急行は「かいもん」のみで、後の「日南」は普通列車、他に門司港~肥薩線経由~都城の普通列車と、この「ながさき」(まだネーミングされてないけど)があった😉

  • @oratorio51
    @oratorio51 Рік тому +4

    ちょっとだけ補足いたしますと…
    06:14の「特急かもめ」「急行出島」が幅を利かせていたのは昭和51年からでして、それまでは「特急かもめ」は京都~長崎・佐世保(43年9月末までは付属編成は宮崎行)の1往復のDC特急、門司港・小倉・博多~長崎は「準急ながさき」(41年に急行格上げ)→昭和43年より「急行いなさ」→昭和50年より「急行出島」が運行していました
    昭和40年までは長崎行の始発は博多06:50「準急第1ながさき」だったのが、何故か繰り下げられてしまいました
    「ながさき」の列車名は上記の準急→急行から、「いなさ」に改称されたと同時に東京~長崎間の不定期急行(寝台専用)として45年9月末まで運行していました
    07:47 ここでの普通列車の命名ですが、紀勢本線は「南紀」で昭和53年10月に特急の列車名になってから「はやたま」に改称されました

    • @TSUYOS185
      @TSUYOS185 Рік тому +4

      横からすみません。追加させていただきます。
      本来長崎本線は新幹線の博多開業と同時に電化の予定でしたが、国鉄が大赤字を抱えたこともあり電化は一年半遅れることに。
      その間は急行の出島号が10往復していたこともありました。

    • @AnotherSky787
      @AnotherSky787 Рік тому +2

      @@TSUYOS185 様
      さらに追加しますと、当時の長崎本線は電化されたにも関わらず、ほとんどこの架線から電気を取って走るという列車はなく、特急かもめ、特急みどりと寝台特急さくらを牽引するEF70、ED72、73だけというくらいで、寝台特急みずほの長崎行きは電化されたあとも長らくDD51単機による牽引でした。
      普通列車はディーゼルのキハ20系シリーズに運用落ちしたキハ55系シリーズやらキハ30、35系やらの雑客編成で3〜5輌程度が基本で運用されていた記憶です。
      長崎本線沿いに母方の祖父母の家(お婆ちゃんの家)があり、子供の頃はとかく電線(架線)があるのになんで?と思ったものでした。それくらい「電車」は来なくて、本当にかもめとみどりだけ。上述したように、みずほや貨物列車もDD51牽引でしたので、なんというムダな架線だろう?と思っていました、子供心に。まぁ、大人の事情があったのは明白でしたけど。
      それにしても、ごく幼少期の私は新幹線博多開業の頃、たしかあの当時は佐賀駅も地上駅だったとうっすらと記憶しています………
      記憶違いなら申し訳ありません。

    • @TSUYOS185
      @TSUYOS185 Рік тому +2

      @@AnotherSky787 さま
      私も新幹線の開業で話題になった武雄温泉が実家でその頃良く伺っておりました。
      電化されても時間の都合で急行の弓張号を使っていました。ディーゼルカーでしたね。
      普通列車では下り深夜、上り早朝の415系の快速電車、そして1本だけ客車列車がありました。他はおっしゃるとおりディーゼルでした。

  • @tetsu0804
    @tetsu0804 Рік тому +3

    53.10時の上り【ながさき】は、「早岐」で50分停車。運転士が「早岐」から「佐世保」までタクシーで佐世保編成を取りに行っても間に合うような。

  • @user-ei5eh8wk2i
    @user-ei5eh8wk2i Рік тому +3

    🎵夜汽車の窓にウォウウォウオ
    藤井フミヤが早岐で連結手をしていた頃は「ながさき号」最末期の頃だったんだなぁ
    もっとも本人曰く、歌に出て来る夜汽車は特急さくらをイメージしてたらしいけど

  • @user-ni8jp6bh2c
    @user-ni8jp6bh2c Рік тому +3

    ながさき号…懐かしいな!遡る事約40年。初の九州旅の途中、長崎を夕方過ぎの列車で佐世保へ。勿論佐世保は地平駅。そこで時間を潰し、早岐で長崎発の本体に連結されるたった二両の客車に乗り、早朝の鳥栖で下車…筑豊本線接続の原田は通過だったので、確か421系普通電車に乗り換えて原田から筑豊本線に入ったっけ。

  • @MikiLauda0000
    @MikiLauda0000 Рік тому +5

    記憶が間違っていなければ、「ながさき」門司港行きは寝台車に通勤客が入ってこないように車両間は締め切りで移動できなかったような…

    • @user-dt3it7nq2y
      @user-dt3it7nq2y Рік тому +3

      種村直樹先生の「鈍行列車の旅(JTB)1979年初刊」に記述あります。

  • @user-bl4lw1og1y
    @user-bl4lw1og1y Рік тому +4

    昔、長崎に旅行に行った際(何故かパック旅行)朝の集合時刻までの時間を活用したくて早朝の長崎駅にながさきを観に行きましたよ(笑)DD51牽引でしたね…

    • @psychedelicraspberry517
      @psychedelicraspberry517 Рік тому +3

      早岐~長崎はね😉

    • @user-bl4lw1og1y
      @user-bl4lw1og1y Рік тому

      @@psychedelicraspberry517 え?そなの!ソレまでは何が曳いてるの?75?76?まさかの81?

    • @psychedelicraspberry517
      @psychedelicraspberry517 Рік тому +3

      @@user-bl4lw1og1y 私が昭和57年&58年に乗った際は門司港~早岐はED76でした。しかも、ED76は運転上は付属(編成)の方にくっつき佐世保まで牽引😉

  • @user-df3fg3jj1u
    @user-df3fg3jj1u Рік тому +3

    門司港駅の「御手洗い」って、本当に「御手洗い」なんですよね。
    (🚾では無い。)

  • @averageguy365
    @averageguy365 Рік тому +11

    '80年代初頭、家族で長崎にある親戚宅に車で向かっている途中、深夜の国道を並走している『ながさき』を
    見付けた時は、「時刻表でしか見たことの無い珍しい列車を生で見られた!」と子供心に感動しました。

  • @shiromizu-owarai
    @shiromizu-owarai Рік тому +2

    高校生の頃に「ながさき」乗りました。
    普通車もB寝台も両方。
    門司港から乗るときはそうでもなかったのですが、門司に到着すると大垣夜行からの乗り換え客で押し寄せ、小倉では通勤客が押し寄せる光景がありましたね。(^^;
    で、しかも大垣夜行組は風呂に入ってないので人に寄っては3、4日入浴してない方も居て・・・(^^;
    当時はいろんな意味ですごかったです。
    ちなみに寝台は10系寝台で窓も開きましたが、ベッドの幅が52㎝と痩せた私でも狭かった印象が残っています。

  • @user-xo2xf6eh6g
    @user-xo2xf6eh6g Рік тому +2

    1942年11月に関門トンネルが開業したことで、従来の門司港発着に加えて東京→長崎港と長崎→大阪の夜行普通列車(大村線経由)が誕生しました。そのためこの時期の長崎本線には夜行普通列車が2往復存在しました。その後戦争の激化に伴い1944年頃には東京発→糸崎発と大阪着→門司港着(上りのみ新線経由に変更)に変更されました。そして終戦の頃には廃止されたようです。※本州直通列車が設定された1942年11月に従来の門司港発着の列車は、大村線経由から新線経由に変更されました。その後1944年には上記の変更の影響を受けて、上りは諫早→門司港(大村線経由)に変更されたようです。そして終戦の頃には、従来の門司港~長崎(大村線経由)になったようです。

  • @TSUYOS185
    @TSUYOS185 Рік тому +4

    郵便だけでなく下り列車は福岡などで印刷した新聞を各地に運ぶ役目をもっていたものと思います。
    朝刊の記事の締め切り時刻にも違いがあり、深夜に特ダネや大事件が入ると地域により一面が大きく違っていたことも。
    寝台車は福岡と長崎を横になって休む人のためにありましたが、かもめ号の充実、さらには都市間バスの九州号が使われるようになったことから夜行需要が減少したものと思います。

    • @user-cg6eb3gp7d
      @user-cg6eb3gp7d Рік тому +2

      子どもの頃は新聞のナイターの結果が全国紙だと7回くらいまでしか書かれてなくて、たまに地元の地方紙を見ると最終回まで書かれてあって、(・ε・` )?と思いましたな。

    • @user-dt3it7nq2y
      @user-dt3it7nq2y Рік тому +1

      @@user-cg6eb3gp7d さま。
      あー、それ、‘70年代後期迄にはありましたよ。
      地方でスポ新購入して「何コレ⁉」なんて事が…
      まさしく「目が点」とは、この事でした。

    • @jjjj6075
      @jjjj6075 6 місяців тому

      ​@@user-cg6eb3gp7d日経新聞は一面を大幅に差し替えることがあり、同僚の読む日経と全く違う紙面ということが頻繁にありました。

  • @sunami808
    @sunami808 Рік тому +2

    ながさきは何度か乗りましたが、寝台車は高校生には敷居が高かった。当時時給600円もない時代ですからね

    • @N--jv3go
      @N--jv3go 10 місяців тому

      寝台車はS50年頃から値上げし過ぎたために料金面での競争力を失った。適正な料金なら利用者は有ったと思う。

    • @user-nak7etahew
      @user-nak7etahew 7 місяців тому

      ​@@N--jv3go
      「適正な」料金、ですか…。一例として、
       普通運賃 5,280円
       急行料金 1,200円
      程度の距離を走る、ありふれていた急行列車を考えます。
      急行用座席車(定員88名)ならば、たとえ自由席でも満席収入570,240円分の定員が確保されていることになりますが、
      同額の満席収入を確保するためには、
      20系B寝台車(定員54名3段式)だと寝台料金を4,080円に、
      14系14形B寝台車や24系24形B寝台車(定員48名3段式)だと寝台料金を5,400円に、
      14系15形B寝台車や24系25形B寝台車(定員34名2段式)だと寝台料金を10,300円に、
      それぞれしなければなりません。
      結局「設備と料金との関係性に、乗客側が不満を感じない」範囲内の寝台料金を設定することは困難なわけで
      得られる結論としては「寝台列車なんか走らせても、採算が取れるわけない」ということです。

  • @hannshinn1985
    @hannshinn1985 Рік тому +6

    スーツさんが、キハ66系を貸し切って同列車のダイヤに沿う団体列車を運行しました。

    • @TSUYOS185
      @TSUYOS185 Рік тому +2

      あの時は驚きました。スーツさまだけでなく運転を実現させたJR九州の皆様にも感謝の限りですね。

    • @N--jv3go
      @N--jv3go 10 місяців тому +2

      @@TSUYOS185 その後に415系を貸し切って日南も運行されています。

  • @user-lt5ee8ht2r
    @user-lt5ee8ht2r Рік тому +2

    8:12
    この時点では郵便局は民営化を考えてません。
    単に「合理化」を推進するため、郵政省が国鉄を見限ってトラック輸送に振り分けたものです。
    (なお、59.2.1時点ではオユ10等での車内での区分扱が廃止されましたが、締切大郵袋輸送を拠点局間で行う「護送便」の運行は61.9.30まで行ってました)

    • @user-nak7etahew
      @user-nak7etahew 7 місяців тому

      ここでチャンネル主がおっしゃっているのは
      「国鉄の」民営化に備えた
      という意味なのではないでしょうかね。実際「荷物輸送は、国鉄の民営化までに全廃しよう」と考えていたそうですから。

  • @user-mg4oo7mx3f
    @user-mg4oo7mx3f 10 місяців тому

    かもめがL特急になったのは、1976年7月改正で、長崎本線及び佐世保線が電化のときで1972年の10月改正ではありません。もう少し調べてから動画を上げてください。

  • @user-ry6cz2ti1p
    @user-ry6cz2ti1p 8 місяців тому

    中華民国っていわゆる台湾のことだけどそんなルートってあったか?

    • @kurata5523
      @kurata5523 8 місяців тому

      長崎での上海航路への連絡は、戦前(1945年以前)の話です。
      1949年の中華人民共和国の成立まで、上海を含む中国全体が中華民国でした。1949年以降、中華民国の実効支配地域は台湾に限定されるようになって現在に至ります。

    • @user-nak7etahew
      @user-nak7etahew 7 місяців тому

      そもそも、東京から上海へ行くのに「東京~下関~門司~長崎~上海」という陸海路で行くのが当然、なルートとして紹介されているわけですから、
      戦前の話だと見当がつきそうなものですが、
      コメント主は、第二宇宙にお住まいですか?
      台湾?当時は日本の領土でしたけれど、何のお話でしょうか?

    • @user-nak7etahew
      @user-nak7etahew 7 місяців тому

      ​@@kurata5523
      リプライに完全同意です。

  • @kazu-nr9zx
    @kazu-nr9zx Рік тому +3

    中華民国ってまさか中国のこと?ちゃんと調べてから書いてください。

    • @koppe_233
      @koppe_233  Рік тому +8

      ご視聴ありがとうございます。
      上海連絡が行われていた1925-43年のうち、28年以降中華民国は国際的に承認されていました。国民党が実権を握ったのはさらに前であることから、複雑な表現を避けるために動画では中華民国という言葉でまとめています。このような調査の上で動画を制作しておりますが、以上を踏まえても調査不足な点があるとお思いでしたら、具体的な資料と合わせてご提示いただけますでしょうか。

    • @sunami808
      @sunami808 Рік тому

      1949年以前なら支那は大陸まで中華民国だぞ?まさか台湾だけが中華民国って思ってるんかな?敗戦までは台湾は大日本帝国

    • @AnotherSky787
      @AnotherSky787 Рік тому +3

      この手のことはなかなかどこで線引きをすれば良いのか迷いそうなところですが、基本的には蔣介石さんの動きを基準に考えますとある程度には「そっかー」と良い悪いは別として、なんとなく判断はつくのではないかと思う次第です。

    • @user-nak7etahew
      @user-nak7etahew 7 місяців тому +1

      チャンネル主に同情いたします。
      コメント主は、中華民国が戦前から存在することすら、ご存じないのでしょうかね。
      「ちゃんと調べてから」コメントなさってはいかがでしょうか。

    • @user-nak7etahew
      @user-nak7etahew 7 місяців тому +2

      そもそも、東京から上海へ行くのに「東京~下関~門司~長崎~上海」という陸海路で行くのが当然、なルートとして紹介されているわけですから、
      戦前の話だと見当がつきそうなものですが、
      コメント主は、第二宇宙にお住まいですか?