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渡部先生、今日も尊い御説法ありがとうございました。
渡部先生いつも本当にありがとうございます。〜摂取不捨の利益、無碍の一道〜稀有の大弘誓、超世の悲願〜みな知らず多生の宝 仏縁を〜聴聞続けていきます。重ねて心より深く感謝申し上げます。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。釈尊出世の本懐の中の本懐〜大無量寿経〜阿弥陀仏の御本願〜一向専念無量寿仏〜信心正因称名報恩〜南無阿弥陀仏〜三戸拝🙏🙏🙏
わかりやすく 深いお話を本当にありがとうございました。命がけで聞いてもその甲斐があるこのようなお話は、唯一ですね。
先生ありがとうございました。
今晩は。いつも分かりやすい説明有り難う御座います、阿弥陀仏の本願。
ありがとうございます。仰る通り、死を忘れ、死を考えないようにして生きています。まさに、トイレのない生活をしています。これでは心からの安心、満足はありませんね。死に対する準備(生死の一大事の解決)をし、無碍の一道に出たいです。
仏教では、生死の一大願の解決こそ、人生において最も大切なこと。ブッダは生死の一大事が解決した時に、人間に生まれた本当の幸せが得られる。生と死 台所と便所に例えられる意味よく分かりました。死に対する準備がなければ、本当に明るく楽しい充実した人生が送れないこと。渡部先生、よく分かりました。有難うございます。🙏😀
南無阿弥陀仏m(__)m
桜嵐坊さんへの反論はやめたのですか?
生死の一大事というが、何が一大事なのか全く判りません。死ぬことは不幸なんでしょうか?決まっいる訳ではいないでしょう。便所に例えられますが、一休さんの言った通り、人間は食うて糞して寝て起きての生物なので、生きることと死ぬことは一体のものでしょう。地上のあらゆる生命はいつか消えてなくなる。動植物だけではなく、生命とは考えられていない山川や岩石も長い宇宙のタイムスケールで見ればいずれ消えて行く。それを思えば自分の生死などはほんの小さいことです。それを一大事と捉えるのは、ひょっとして仏教者が自分の立場を確保するために叫んでいるだけなのではないか、と勘繰ってしまいます。怖いのは死に至るときの痛み苦しみであり、死ぬこと自体には恐怖を感じることはありません。痛み苦しみがないことを約束してもらえるなら、今すぐに死んでもかまわない。この世に期待することなんて何もない。むしろ死後の世界がもし存在するなら、それが地獄でも天国でも、一度行ってみたい。Desperado的な考えと言われるかもしれないが、そう感じる人間は私だけではないでしょう。生死を一大事と捉え、そこに注目するだけの宗教ならばいずれ衰退することが目に見えています。親鸞聖人の言われたことは、生きるための指針、哲学としては尊敬に値しますが、阿弥陀仏にしても、自力を捨てて他力に頼む生き方の指針には感銘を受けるし、そのような生き方をしたいものだとは思いますが、信仰して帰依する対象とする気にはなりません。それで地獄に落ちたとしても受け入れようと考えています。
渡部先生、今日も尊い御説法ありがとうございました。
渡部先生いつも本当にありがとうございます。〜摂取不捨の利益、無碍の一道〜稀有の大弘誓、超世の悲願〜みな知らず多生の宝 仏縁を〜聴聞続けていきます。重ねて心より深く感謝申し上げます。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。釈尊出世の本懐の中の本懐〜大無量寿経〜阿弥陀仏の御本願〜一向専念無量寿仏〜信心正因称名報恩〜南無阿弥陀仏〜三戸拝🙏🙏🙏
わかりやすく 深いお話を本当にありがとうございました。
命がけで聞いてもその甲斐があるこのようなお話は、唯一ですね。
先生ありがとうございました。
今晩は。いつも分かりやすい説明有り難う御座います、阿弥陀仏の本願。
ありがとうございます。
仰る通り、死を忘れ、死を考えないようにして生きています。
まさに、トイレのない生活をしています。これでは心からの安心、満足はありませんね。
死に対する準備(生死の一大事の解決)をし、無碍の一道に出たいです。
仏教では、生死の一大願の解決こそ、人生において最も大切なこと。ブッダは
生死の一大事が解決した時に、人間に生まれた本当の幸せが得られる。生と死 台所と便所に例えられる意味
よく分かりました。
死に対する準備がなければ、本当に明るく楽しい充実した人生が送れないこと。
渡部先生、よく分かりました。有難うございます。🙏😀
南無阿弥陀仏m(__)m
桜嵐坊さんへの反論はやめたのですか?
生死の一大事というが、何が一大事なのか全く判りません。死ぬことは不幸なんでしょうか?決まっいる訳ではいないでしょう。便所に例えられますが、一休さんの言った通り、人間は食うて糞して寝て起きての生物なので、生きることと死ぬことは一体のものでしょう。
地上のあらゆる生命はいつか消えてなくなる。動植物だけではなく、生命とは考えられていない山川や岩石も長い宇宙のタイムスケールで見ればいずれ消えて行く。それを思えば自分の生死などはほんの小さいことです。それを一大事と捉えるのは、ひょっとして仏教者が自分の立場を確保するために叫んでいるだけなのではないか、と勘繰ってしまいます。
怖いのは死に至るときの痛み苦しみであり、死ぬこと自体には恐怖を感じることはありません。痛み苦しみがないことを約束してもらえるなら、今すぐに死んでもかまわない。この世に期待することなんて何もない。むしろ死後の世界がもし存在するなら、それが地獄でも天国でも、一度行ってみたい。Desperado的な考えと言われるかもしれないが、そう感じる人間は私だけではないでしょう。
生死を一大事と捉え、そこに注目するだけの宗教ならばいずれ衰退することが目に見えています。親鸞聖人の言われたことは、生きるための指針、哲学としては尊敬に値しますが、阿弥陀仏にしても、自力を捨てて他力に頼む生き方の指針には感銘を受けるし、そのような生き方をしたいものだとは思いますが、信仰して帰依する対象とする気にはなりません。それで地獄に落ちたとしても受け入れようと考えています。