【岐阜関ケ原古戦場記念館】九度山・真田ミュージアム名誉館長 北川央氏との対談「豊臣から徳川へ」

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  • Опубліковано 8 січ 2025

КОМЕНТАРІ • 11

  • @イシイマチコ
    @イシイマチコ Рік тому +3

    こんな貴重なお話が聞けるとは本当にありがたいですね。
    グラデーションの時代というのが内容からも受け取れました。

  • @takshim2335
    @takshim2335 Рік тому +3

    実に面白かったです。本当に歴史は深いし面白いです。ありがとうございます。

  • @103k-v7d
    @103k-v7d Рік тому +2

    素晴らしい対談でした。
    人物の対抗意識や感情論的な解釈から、
    文書を読み解くことの重要性をあらためて感じました。
    北川先生のグラデーションの時代っていい言葉ですね。

  • @kii1757
    @kii1757 10 місяців тому +2

    いつも考えてしまうのが、秀頼が生まれず、秀次が秀吉を継いでいたら、ということ。
    それなりに実戦経験もあるし文化的教養もあったし、彼がそのまま当初の予定通り豊臣家を継承していたらなんの問題もなかったように思う。

  • @まんまるあやちゃん
    @まんまるあやちゃん Рік тому +3

    今回も贅沢なお話を聞かせて頂きました。
    ちょっと思ったのですが、家康が秀忠に後を継がせるに当たり何やら危惧を覚えたのは、文字通りの危惧が半分、親心が半分だったのでしょう。
    それと、秀吉亡き後のアレヤコレヤについては、やった事はやり返されるの法則に尽きると思います。
    ともあれ、新しい発見に伴い新しい歴史事実が掘り起こされ、新解釈が生まれるのはとても楽しいです。
    勉強になりました。

  • @cancan5892
    @cancan5892 Рік тому +3

    いろいろ学ぶことの多い貴重な対談でした。始めの文書の中で、秀吉の遺言を知った家康が涙をこぼす場面を感涙は感動からではなく嬉し涙だと書かれているのを見て、大笑いしました。当時から家康の狸親父ぶりは有名だったのですね。伊達政宗の手紙で、秀頼を江戸の家康の元に引き取った方がいいいとアドバイスしている点も、私達と変わらない人間臭さを感じました。
    今回の対談で、秀頼のイメージがかなり変わりました。二条城の会見で秀頼の立派さ、賢さを知った家康が、自分の死後を危惧して大坂の陣を構想したというのは知っていましたが、他の外国人らの書簡は初見でした。東インド会社、イエズス会、ドミニコ会が共に、家康死後の大勢を案じ、秀忠への継承がそれほど簡単ではなく、むしろ秀頼の人望の高さ、人気を述べているのが意外でした。確かに成人した秀頼は十分に政務を担えるわけで、当時の流れとしては豊臣の復活も十分可能性があり、家康は近い将来亡くなると誰もが思っていたでしょう。ドミニコ会に至っては、人気のない秀忠に全面的に任せられない父家康が、高齢であるにもかかわらず大坂の陣に乗り出したと書いていて、辛辣な文面に笑いました。外国人らの分析が正しいとは限りませんが、部外者であるだけにある意味真理を突いているとも言えます。この時期は未だ、豊臣家の家名は大きな意義と格を持っていたことが分かります。
    机上の”合戦水”のラベルの武将は誰なのか?!が、気になりました!

  • @野﨑知明
    @野﨑知明 Рік тому +3

    慶長年は、豊臣家と徳川家並立で、面白い時代ですね。

  • @明智実光秀嫡流と作-t9d

    北川央さんは、神戸大学の先輩です。

  • @リエ-l3f
    @リエ-l3f Рік тому +6

    前田利家が要だったんだね。あの人が生きていたら、関ヶ原の戦は起きなかっただろうし、起きてももっと後から何かが起きたんじゃないのかな?

  • @明智実光秀嫡流と作-t9d

    木下秀頼も、人気があり、力を持っていた。それを徳川家康が殺した。