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とても面白く、たくさんのことを考えさせてくれる作品ですね。確かに、エッグ、梵我一如の境地に至ることできれば、たとえば哀しみや孤独はなくなるかもしれません。ただ、毎分毎秒、孤独の哀しみに暮れている私は、梵我一如にはほど遠いオジサンで、お恥ずかしい限りです。たしかユングでしたよね。「悲しみと釣り合っていなければ『幸せ』という言葉はその意味をなさない」。西部邁もその最期の著書『保守の神髄』で「人間の感情をよく喜怒哀楽と分類するが、最も語るに値するのは『哀しみ』。なにかになりたいと願いなにものにもなれなかった凡百の哀しみが歴史をつくっているのだ」などと言っています。悲しみ(哀しみ)や孤独に苛まれている西部や私なんかは、やはり修行が足りないのでしょうね(^-^)
先日のボーヴォワールの説明でも梵我一如について語っていた通り、ユマニテの概念ともかなり共通しますね。早速リンク先に飛んで読みました。『本気で?人生の意味を訊いているのか?ちょっとベタじゃないか?』とても面白かったです。今年も動画楽しみにしています。
好きな作品を、いつも観ているてつがくちゃんねるさんが取り上げてくださっていることが嬉しい気持ちです。原作短編を読んでから知った「Kurzgesagt(日本版チャンネル: 世界をわかりやすく)」チャンネルのアニメも、映像の質感や音楽が、ウィアー作品自体の静謐で少し寂しくどことなく優しい雰囲気ととても合っていて個人的には大好きです。梵我一如をあまり知らなかったので改めて考えさせられました。途方もない修行...。今はてつがくちゃんねるさんが紹介いただいたプロジェクト・ヘイル・メアリーをAudibleで聴き始めています。いつもいろんな作品や日々の気づきを発信してくださりありがとうございます☺これからも応援しています。
とても面白い世界観で、良いなと思いました。😊
おたまじゃくしのたまご❤かえるになってもまたかえる❤
先日、ゲーム関連の仕事の人から最近はゲームもアニメも転生ものばかりだという話を聞きました。「転生」はブームなんでしょうか。ブームというより、現代でもこれだけ人気なのだから、昔の人が転生を信じるのも当然で、古今東西多くの人を引きつける何かが転生の物語にはあるんでしょうね。私などは唯物論的発想が染みついているので、転生の物語を信じたり、面白いと思ったりはあまりありません。「人間は象徴世界に住む動物だから転生を信じることもあるだろう」と思うくらい。「なぜ人間は転生を信じるのかという問題なら興味深い」みたいな食えない感想しかでてきません。転生の物語には、何か合理的、功利的な理由があるはずだとか。本人よりも、その人が所属する社会を維持するために必要なのではないかとか。あるいは、本人の場合なら、親族、種族、人類などの大きな集団の中の一員として自己の存在を確認することで安らぎや癒しをえることができるのだろうとか。Wikipediaによれば、「転生」には3つほどパターンがあるとのこと。 ①再生型 = 循環 ②輪廻型 = 流転 ③リインカーネーション型 = 成長たしかに、そんな感じはありますね。『The Egg』については、明らかに③のリインカネーション型でしょうね。この世のすべてのもの、人や生物や無生物に生まれ変わり、そのすべてを知ることによって完全なるもの「神」に成長するということでしょうから。Wikipediaには、リインカーネーションは、18世紀ごろ啓蒙主義やロマン主義、進歩史観などを背景に生まれたというような記述もあります。たしかに『The Egg』からは、それっぽい雰囲気は感じられます。とすると、ヒンドゥー教における輪廻転生や梵我一如とは若干異なる部分もあるのかなという感じでしょうか。私が『The Egg』から受ける印象は、ライプニッツの「モナド論」や「予定調和」であったり、スピノザの汎神論に近いイメージですね。ということはシェリングの「同一哲学」に通ずるということになるのかもしれません。しかし、ドイツ観念論以降のショーペンハウアやニーチェ、あるいはヘッセの仏教への関心などをみると、ドイツの思想はたしかにファウスト的なロマン主義から仏教的な輪廻型へと変化の兆しが出てきたような感じはあります。そして「梵我一如」の思想は、ベタに解釈すれば「個と全体の融合」といったことになりますから、全体主義へとつながる一面もあったのではないかという議論もでてくるでしょう。ヘッセの『シッダールタ』は、知としての「悟り」の危険性を指摘しているということでは、むしろ全体主義への批判というふうに読むこともできるでしょうが。なぜ、全体主義の話をするかといえば、我が日本においても西田幾多郎門下の京都学派の面々が全体主義を擁護したというような話も聞くので、「梵我一如」と何か関係があったのではとちょっと思ったからですが。そうした意味でも『The Egg』は、むしろ全体主義というよりは、ニューエイジ的なすべての個人の権利を認めようというような発想に近いものといえるのではないでしょうか。
とても面白く、たくさんのことを考えさせてくれる作品ですね。確かに、エッグ、梵我一如の境地に至ることできれば、たとえば哀しみや孤独はなくなるかもしれません。ただ、毎分毎秒、孤独の哀しみに暮れている私は、梵我一如にはほど遠いオジサンで、お恥ずかしい限りです。
たしかユングでしたよね。「悲しみと釣り合っていなければ『幸せ』という言葉はその意味をなさない」。西部邁もその最期の著書『保守の神髄』で「人間の感情をよく喜怒哀楽と分類するが、最も語るに値するのは『哀しみ』。なにかになりたいと願いなにものにもなれなかった凡百の哀しみが歴史をつくっているのだ」などと言っています。
悲しみ(哀しみ)や孤独に苛まれている西部や私なんかは、やはり修行が足りないのでしょうね(^-^)
先日のボーヴォワールの説明でも梵我一如について語っていた通り、ユマニテの概念ともかなり共通しますね。
早速リンク先に飛んで読みました。
『本気で?人生の意味を訊いているのか?ちょっとベタじゃないか?』
とても面白かったです。今年も動画楽しみにしています。
好きな作品を、いつも観ているてつがくちゃんねるさんが取り上げてくださっていることが嬉しい気持ちです。原作短編を読んでから知った「Kurzgesagt(日本版チャンネル: 世界をわかりやすく)」チャンネルのアニメも、映像の質感や音楽が、ウィアー作品自体の静謐で少し寂しくどことなく優しい雰囲気ととても合っていて個人的には大好きです。梵我一如をあまり知らなかったので改めて考えさせられました。途方もない修行...。今はてつがくちゃんねるさんが紹介いただいたプロジェクト・ヘイル・メアリーをAudibleで聴き始めています。いつもいろんな作品や日々の気づきを発信してくださりありがとうございます☺これからも応援しています。
とても面白い世界観で、良いなと思いました。😊
おたまじゃくしのたまご❤
かえるになってもまたかえる❤
先日、ゲーム関連の仕事の人から最近はゲームもアニメも転生ものばかりだという話を聞きました。「転生」はブームなんでしょうか。ブームというより、現代でもこれだけ人気なのだから、昔の人が転生を信じるのも当然で、古今東西多くの人を引きつける何かが転生の物語にはあるんでしょうね。
私などは唯物論的発想が染みついているので、転生の物語を信じたり、面白いと思ったりはあまりありません。「人間は象徴世界に住む動物だから転生を信じることもあるだろう」と思うくらい。「なぜ人間は転生を信じるのかという問題なら興味深い」みたいな食えない感想しかでてきません。転生の物語には、何か合理的、功利的な理由があるはずだとか。本人よりも、その人が所属する社会を維持するために必要なのではないかとか。あるいは、本人の場合なら、親族、種族、人類などの大きな集団の中の一員として自己の存在を確認することで安らぎや癒しをえることができるのだろうとか。
Wikipediaによれば、「転生」には3つほどパターンがあるとのこと。
①再生型 = 循環 ②輪廻型 = 流転 ③リインカーネーション型 = 成長
たしかに、そんな感じはありますね。
『The Egg』については、明らかに③のリインカネーション型でしょうね。この世のすべてのもの、人や生物や無生物に生まれ変わり、そのすべてを知ることによって完全なるもの「神」に成長するということでしょうから。
Wikipediaには、リインカーネーションは、18世紀ごろ啓蒙主義やロマン主義、進歩史観などを背景に生まれたというような記述もあります。たしかに『The Egg』からは、それっぽい雰囲気は感じられます。とすると、ヒンドゥー教における輪廻転生や梵我一如とは若干異なる部分もあるのかなという感じでしょうか。
私が『The Egg』から受ける印象は、ライプニッツの「モナド論」や「予定調和」であったり、スピノザの汎神論に近いイメージですね。ということはシェリングの「同一哲学」に通ずるということになるのかもしれません。
しかし、ドイツ観念論以降のショーペンハウアやニーチェ、あるいはヘッセの仏教への関心などをみると、ドイツの思想はたしかにファウスト的なロマン主義から仏教的な輪廻型へと変化の兆しが出てきたような感じはあります。
そして「梵我一如」の思想は、ベタに解釈すれば「個と全体の融合」といったことになりますから、全体主義へとつながる一面もあったのではないかという議論もでてくるでしょう。ヘッセの『シッダールタ』は、知としての「悟り」の危険性を指摘しているということでは、むしろ全体主義への批判というふうに読むこともできるでしょうが。
なぜ、全体主義の話をするかといえば、我が日本においても西田幾多郎門下の京都学派の面々が全体主義を擁護したというような話も聞くので、「梵我一如」と何か関係があったのではとちょっと思ったからですが。
そうした意味でも『The Egg』は、むしろ全体主義というよりは、ニューエイジ的なすべての個人の権利を認めようというような発想に近いものといえるのではないでしょうか。