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丁寧に解説して頂けて本当にためになりました。ありがとうございます。こういう動画を見たかったと気が付きました。編集等大変だと思いますが、できる限り今のスタイルで続けてほしいです。応援しています。
昨日初めて拝見しました😊今までに無い観点からの解説でとても参考になりました。
非常に興味深い内容です。公開に感謝します。
昨日偶然知り、立て続けに何本も観てしまいました。原文や専門書を読むような力はありませんが古代史は最近皇族の問題もあり少しずつ勉強していましたが、とても丁寧で分かりやすくて一言お礼を申し上げます。
魏志倭人伝こんなに詳しい講義を聴けるとはUA-camならではです。いい時代になったものです。大変聴きやすい声進め方素晴らしいです。学ぶは楽しありがとうございます。このシリーズ大好きです❤🎉🎉
魏志倭人伝は教科書で習う抜粋の何倍もあったのですね。ありがとうございます。
kまさ魏志倭人伝の書かれた背景の解説によりこれまでの疑問に思っていたことの答えがわかりました。素晴らしい解説ありがとうございました。
この歳(75)になり改めて歴史を学ばさせて頂いており、ありがたい教材に出会えました事深謝申し上げます。ご挨拶早々不躾ではございますが下記の点に付き参考文献等ご教示いただけましたら幸甚でございます。日本史12 19:03 からに記載のある 24cm/尺(1尺=**cmの根拠)の根拠が記載された文献等 私は長く手織りと関わってきた者です。尺とmの起源、変遷に関心はあったのですが関われずに来てしまいました。何分の配慮よろしくお願い申し上げます。
素晴らしい!更に更に深堀りして欲しい!
今まで少なかった観点からの考察は非常に良いと思います。ためになりました。
非常にわかりやすく、疑問点が解消しました😊ありがとうございます👍
ありがとうございます全くの素人です→卑弥呼やその時代のことが大変よくわかりました→名前や地名 をスラスラと解説され感動しました→魏志倭人伝が歴史書の一部であったことなど、この動画が、新しい視点での、歴史解説が広がることを、期待しています
素晴らしくも詳しい動画をありがとうございました。
めちゃくちゃ面白い
非常に面白く観させていただきました。司馬氏にとって、都合が悪い事は書かない、功績を持ち上げて書くと言う事は充分理解ができます。魏志倭人伝もそのような背景があって書かれていると言うことがよくわかりました。さて、以前から魏志倭人伝には間違った記述が多いとされており、このため邪馬台国がどこにあるかを考える場合、自論にとって都合よく解釈したり、あえて無視する傾向があります。距離やベタぼめしている事は別として、風俗や産物などは、どの程度信憑性があるのでしょうか。タネ本をなぞるのではなく、邪馬台国がどこにあったか興味を持つものとしては、倭人伝が書かれた背景から一歩進んで、そういったことについてもコメントをいただければ嬉しいです。学術誌ではなく、UA-camだからこそ、そういった自由なことを発信できるのではないでしょうか。
とても、興味深く学習しました。魏志倭人伝のような文書があって、日本にはとても幸いでしたね。他の周囲の国と比べて見ることができますからね。親魏倭王などの印が出てくるといいんですが。
とても面白い内容でした!今までは邪馬台国の場所を 推理する動画ばかり見ていましたが、一部をこねくり回すよりも全体を俯瞰する事の方が面白くて、自分自身の肥やしになりますね!
とても為になる説明でした。、ありがとうございます。初めて魏志倭人伝の内容を知りました。三国志と倭人伝同時代だったのですね。そしてその頃の日本人の外交もまた、面白く視聴しました。もっとこの時代の色々な発見があると卑弥呼についても明らかになるでしょうね。卑弥呼の墓が発見される事も楽しみですね。
「北史」倭国伝 「隋書」東夷伝などもお願いします。
ありがとうございます。
動画の10分のところの内容を見ますと”女王国(邪馬台国)より北には、特別に一人の大率という官を置いた・・・大率は常に伊都国(現在の糸島)を治所とし…”とあります。伊都国以南に邪馬台国があったことを匂わす文面かと思います。私の居住地からかなり近いような気がします。邪馬台国はやはり九州説に軍配があるかと。
まさにこの魏志の時、三世紀前半に"大和"盆地で他に例を見ない規模の纏向遺跡が発達し巨大な古墳が作られ始めるという考古学的証拠は大きいですよ!動画中でも述べられているとおり倭人伝の記述は当時の中国の世界観にそった形で行われているとすると、会稽東冶の東に位置するためには対馬海峡を渡った後は当然南下していくわけで、そこは額面通り受け取る記述ではない気がしますね。
纏向が卑弥呼の墓との確証は何も無いことを悟るべき。女王国の東に海が有ってその向こうにも倭種の国があると云う記述はどう考えても近畿説には当て嵌まらない。魏志倭人伝の記述は九州説で間違い無い。
i love 三国志 ,too much heroes rose up in that period, very romantic
入口紀男『邪馬臺國』(2022年アマゾンより発売)に近い内容です。
壱与はまだ13だから♪
年齢が、今の1年で2歳分だったなら、6~7歳だったってこと??
当時の中国との関わりで向こうの王からの手紙(書状?)で文字というものがあることを当然クニのトップや実際に向こうに行った使者は知っていた訳でその文字を読み書きできる人間を育てなかったはずはないと思う。でも日本で最初の書物ができるのは卑弥呼の時代より何百年も後なんだよなぁ。いくらなんでも間が空きすぎだと思う。
長い動画作成お疲れ様でした。主観も多々入っていましたが立派な出来だと思います。倭国は親魏倭王と評価され呉の背後を付く戦力として期待されていたのに、内乱で魏の援助を受けていたんですね。魏から見たら足を引っ張るなよという感じでしょうか。
おちなつたIr
倭が内乱になったのは卑弥呼が死んで、男王に変わってからということだと思いますが。。魏が親魏倭王の印を卑弥呼に渡したときは、内乱の真っ最中ということではないと思いますが。。
@@脇田昭 随分前のコメントで記憶は確かではありませんが内乱とは倭国大乱のことではありません。狗奴国との争いのことです。倭国に呉への牽制役を期待していたのに足元の狗奴国と戦争になり魏の助けを借りたから頼りないということです。
本当に面白かったです。ありがとうございます。男達は全員入れ墨をしていた、とあったと思いますがそれは漁師たちや下々の者だったのでしょうか、それとも位の高い男達までみんな?? そこが気になります。アボリジニの人達みたいだったんでしょうね。
大変詳しい日本語訳なので とてもわかりやすく説明くださり ありがとうございます。 沖縄の位置について、古くから中国の影響文化圏だったと思いますが、日本と交流がありましたか?
当然です!民族言語共に日本ですよ
当時から今も日本語喋ってるんだから、日本ですよ。
全文の解釈や背景が聞けるとは、これまでの日本の歴史教育やちまたの歴史書は何だったのか・・・??、それにしても詳しい記述なものですね
239年の頃,前方後円墳は造られていたのでしょうか。 (空又 覚造)
とても参考になりました。ありがとうございます。 最近,倭国四国阿波説、それが邪馬台国そして大和政権へとつながっていったという説を、非常に説得力を感じて視聴しました。 これだと不明とされた周船?の意味が浮かんできそうな気がします。
裴注の魏略の暦の項は春秋年を採用している事を言っているのでは無いでしょうか!
魏志倭人伝に関し、距離を置いてなるべく客観的に語ろうとしていた点が、良かったと思います。魏志倭人伝が書かれた背景からは、邪馬臺国までの距離や方角に関して、あまり拘ると大きな間違いを犯すことになることが分かりました。その上で、邪馬臺国九州説では、魏が高く評価するには規模が小さすぎないか疑問に思いました。他方、邪馬臺国本州説には、文身等の風習が伝わらなかった点で疑問が残ります。さらに、魏やその後の南朝との交流の記録が日本側にないのも疑問に思います。九州王朝説にたって、九州王朝の滅亡によって風習も記憶も失われたと言う考え方は、この点では魅力的に思えます。素人考えですが・・・。
魏志倭人伝は魏の国の陳寿が想像で書いたもの、彼は歴史家とは関係なく単なる小説家です。(東北大名誉教授田中英道説)たどっていけば海南島当たりです。
多数の交流が頻繁にあった訳ではないからその国の規模は無関係でしょう
福岡大分熊本が接する辺りで戦いの跡が残ってた筈。 詰まり邪馬台国(現在の佐賀・福岡・大分)と狗奴国(現在の熊本)の戦いは其の辺りで起こったのかも知れない。
大率の地位に就く者は帯方郡からの文書を読んで理解できたってことだね。つまり日本への漢字の伝来は卑弥呼の時代より前と言うことになる。歴史学者は何故このことを認めないの。
徐福が本当に来たかはわかりませんが、卑弥呼より前に中国から人が来ててその際文字も伝わっていると思います。そもそもなんで当時の日本人が中国の存在を知っていたのか?ってとこから考えれば間違ってないかと
@@鈴麗リンリー 以前から関心事の件でしたので、有り難う御座いました❗
読める、話せると使えるは別ですから。でもそういう役所の一部の人間は読み書きできたでしょうねと「学者」も考えてます。ただ証拠がないと発言した段階で嘘にしかならないから言わないだけ。
王仁がその時代に無い”千字文”を伝えて話より客観瀬があると思うけど。
ちゃんと中国視点を忘れていない点は、キワモノ動画がほとんどの中好印象(それが自分の説かどうかは別にしても)。ただ原文は思ってる以上に「倭国」「女王国」「邪馬台国」を使い分けているので訳し方には注意。(女王国=邪馬台国とは限らない)
邪馬台国への距離は伝聞であり測量したわけではないので精度は?と、中国や台湾の歴史学者がそろって言ってますね。
大率は、大宰府の事のようです。それからも卑弥呼は日田にいたと思います。
正始元年(240年)倭王は謝辞を使者に託し魏皇帝に上表したとのことですが、あの時代倭国には未だ文字がなかったと思うのですが、どのような形で謝辞を上表したのでしょうか、大変興味があります。その他文字がなかった時代 魏国とどのようにしてコミニュケーションを取ったのでしょうか、知りたいですね。
恐らく翻訳家が居ると書かれていたので中国語で陳謝してたのではないでしょうか?
畿内や他地域が倭人伝の対象なら、もっと違う記述、表現になると思いました。また、エリアを畿内まで含むとなると、必然的に韓国から畿内の道程のほとんどの国が女王国の支配下にあったことになり、既に大和王権・朝廷が成立しており、その後の中華史も全て畿内王権を指し示すことになりますよね。また、皇帝の権威の称賛のため、距離は盛っても、華人は方位磁針携帯してたので、大きく方角を間違えることはあり得ないと思いました。
ほとんどの人は知りませんが、コンパスはナビゲーションに不可欠なツールですが、六分儀と正確な地図がなければ、コンパスをたどるには運命に頼るしかありません。コンパスは地磁気分布の影響を受けるため、北磁極は過去 120 年間で北に 20 度近く移動しました。非常に小さな動きのように見えるかもしれませんが、航行中は小さなずれが大きな影響を与える可能性があります。
邪馬台国以北に伊都国があることになりますね。近畿説では、このような表現は出来ないでしょう。
1万2000里の解釈は面白い考え方ですねただ紀元前2世紀頃と少し古いですが周髀算経だと1里が76~77mなのでこちらで魏志倭人伝の記述を見ると場所が確定している伊都国くらいまでは大体あってますもし当時の使者が周髀算経を理解して影を使って距離を計測していたとすると周髀算経の距離を使ったという事は考えられないでしょうか?海を渡ったり日本には山を回り込んだりアップダウンがある地形で距離を測るのは容易ではありませんまた注釈の通り春に耕作し秋に収穫しそれを目安として年紀としているなら今の1年は倭国では2年となり日本書紀の天皇の年齢など全て半分にすればかなり辻褄があうのではないでしょうか?確かに古事記や日本書紀には超自然的な力の記述はありますがそれをもって全てが嘘と決めつけるはどうかと思います人物や出来事についてはある程度真実だった可能性があるのではないでしょうか。もし全て出鱈目なら神功皇后という女性は出さずに男性の天皇にするだろうし、兄を殺して天皇になったといった不名誉な事は書かないと思います
素晴らしい!極めて妥当な推測だと思います
卑弥呼に与えた印は対呉国に対する援護の思惑があるようですね。
邪馬台国は伊都国の以北にありと記述されていることから、邪馬台国は筑後平野のどこかではないでしょうか?
なかなか面白かったです!今の大河ドラマにあるように越前国は海流による中国との玄関口という考え方はないのでしょうか。洛陽からの距離は、正しかったとするなら、関東は当てはまらないのでしょうか。2000年前海面は!浸食は!関東以南の伊豆諸島は今より島々があったのではないでしょうか。倭寇に観るように海洋民族ではなかったのでしょうか。教えてください。
生口と奴婢が両方とも「奴隷」なら、違いはなんでしょう。生口は「勾玉を作る職人あるいは下僕」の方がいいみたい
歴史学科 卒業のお方なのですか??
山門国ですよね
「漢末三国」時代の「刺史」は地方の「軍政長官」であり、軍権を掌握していた。漢霊帝の死後、「刺史」はすでに地方の民政、軍政、監察を完全に掌握する全権長官となり、統治下の郡県から軍隊を動かすことができ、実際には塩、鉄を経営する財政権を持っており、劉焉は貨幣を鋳造したことがある。この時期の「刺史」は家族内で世襲でき、すでに朝廷経由で任命する必要はない。刺史下の郡国の太守も、出兵権を持っていた。『三国志』ゲームの様々な勢力になりました。
魏晋時代の「刺史」の多くは使持節、持節、假節、都督諸軍事などの権限を備えており、地方の軍、政長官でもあった。
丁寧な解説ありがとうございます。魏内部の権力闘争を背景に、陸行水行30日の語句は大月氏国に匹敵するように恣意的に盛った記述のように思えます。ですから投馬国と邪馬台国も以外に奴国から近い北部九州に存在したと思います。
そうだと思います
同感です。でも学者間では近畿説の勝利で九州説は絶滅寸前とのこと。
此処まで丁寧に全文口語訳をしているもの、なかなか見当たらず先ずは御礼を…有難う御座います。その上で、私見を幾つか…・邪馬台国は北部九州であると思われる。 其の理由は二つ先ずは引き算。 全行程12000里で不弥迄で10700里。残り1300里では九州以外では無理。関係する国は30余国。 三世紀の遺跡が多数出土している地は、今の処では九州以外無い。・邪馬台国は金印収受に値する。 其の理由は二つご指摘の通り、敵対する呉への遠交近攻策が一つで、もう一つは倭国は案外と「大国」なこと。其れは気候が温暖で稲の栽培に適してたこと。 コメは単位当たりの人口扶養力が麦より高く、更には海産物も多く、大陸や半島諸国より食糧事情が良く人口が多かった。 人口 ≒ 国力 です。
一大率の位置に関するコメントは示唆に富んでいて、興味ぶかかったです。
日本の漢字伝来は卑弥呼の時代よりもっとさきの時期と思います.十九世紀東南アジアの華僑は大陸へ手信(家書)を書く時必ず師爺のような者が代筆してくれます.漢字はすべての大陸人が書き.読みのできる物ではない.ー部の人(村ならば村長と子孫たげ)ができます..英国人が三百年以上も印度を支配しても大多数のインド人は英語を上手に読み書きはできない.日本が八世紀に急に記紀という書藉をすらすら書けるなんてそれは少なとも五十年の蓄積が必要です.例えば藤原不比等が書いたとしても、彼に少なくとも五十オ上の人が教えてくれないと無理です.その先の先を追究すればなん代の蓄積が必要です.古墳時代の出土品に既に文字(和風の名前)が書いてあります.記紀より古い史書が世間に出まわったと記紀の序文にも示しています.難升米が漢字と当時の漢語が出きなければ手ぶリ身ぶりで意思の表達は相当むずかしいと思います.
「政治理念によって邪馬台国への距離・方向」は卓見。
邪馬台国とヤマトの音韻は似ていて、3世紀時点ではまだ九州南部を本拠地としていたのですかね。女王国は故地である九州にありつつ、軍事経済の拠点は大和地方にあったが、どちらもヤマトであったのかも?京都と鎌倉のように、役割の違う首都が複数あったのかなと思いました。
倭人伝とは関係なくて有る本で読んだけど、関西の山(福智山?)の東を山東でヤマトウ、西を山の西の川で河西でカワチと呼ぶと書いてあった。私は九州人なので近畿の土地は良く分かりません。でも面白いから。ついでに福岡の博多の土地は大昔は湿地滞で大潮の満潮時は大宰府や鳥栖辺りまで海水が満ちていたようです。有明海の大川や柳川辺りも大潮の満潮時は小郡まで満ちていたようです。それから船を何十人何百人とかでぴっぱり川を上る事を長征と言う映画が見た事が有るけど、福岡の宇美川を上り宝満川を下ると筑後平野に出る。南に水行で行ける。土素人の私が今から60年昔に中学の社会の先生が話した卑弥呼の話が今でも思い出します。
@@じぐろおなが さん長征という映画ですが中国の映画ですか?
こんだけ証書のやり取りあったのに日本では文字が使われなかったとされてるのはなぜ?
有力な九州説・・関心ある方・・「豊の国古代史研究会・・福永晋三」氏 で検索して見て!
前編冒頭に言われている通り、渡邉義浩氏の著作が骨格になった解説かと思います。魏の詔書つまり公式文書として、クシャーン朝大月氏しか他事例がない親魏〇王という破格の地位が倭に与えられていること。これは魏政権の強い意図が実際あったとみるのが自然だし、それに即して東夷伝倭人条を解釈するのは必要なことでしょう。但し、晋が呉を滅ぼして統一を果たした後に陳寿が三国志を作成し始めたので、呉の後背を狙える勢力とすべく倭の立地を無理に南方に捻じ曲げる等することが陳寿自身の保身(司馬氏への忖度として)にどう繋がるのかはやや不透明。帯方郡イコール司馬氏権益エリアという通念が確立されてたなら魏時代の司馬氏外交成果の持ち上げという見立ても一応可能なんでしょうが…単純に陳寿自身が参照できた倭に関する文書が既に捻じ曲げられていただけな気もします。
わじんではなく、イジンですね。イの国です!
阿波説後、再聴。奈良には黒毛和牛が前300頃から存在(和牛食自慢中)。魏史には牛はい無いと記載。従い、大和▪奈良説は外れる事が確認出来ます。カササギも。旧コメント;100歩余りと書いてるから 約50 Mの墳墓。 二百歩としても 100 m 。箸墓古墳は 墳丘は 150メートルはあるとか。矛盾だなあ~。
行程の最初、原書が諸韓国と倭が陸続きと書いていること、原文を素直に読めば狗邪韓国が倭の一部と読めることに触れてもらえなかったのは不満ですが、力作動画だと思いました。(✴️)原書後半にある、王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国皆臨津捜露伝送文書賜遣之物詣女王不得差錯の訳は、一部不満、一部賛同です。既存の訳、及の字以下のところ、どなたの訳もしっくり来ません。主語と動詞の構造が不揃いな形に解釈されているようで。私見では、及=そして郡=以下の一文の主語使=この文の主動詞で使役の意味倭=この一文の主目的語つまり外交使節の来日にあたっては、その航路、往来について倭国に色々な支援をさせた、というのが私の解釈の肝。そしてその使役の内容が次のとおりで、貴訳にほぼ同じ。1 水路に通じた倭人を郡使が寄港する港すべて(皆)に出張(臨)らせて水路を探(捜露)(して船の進路を教え)させ2 文書と下し物を伝送して女王に差し上げさせ3 手ちがいのないように(使~不得差錯→差錯するを得ざらしむの読み下しははげどうでした、)させたのである。こう解釈すると、各種の動詞が主動詞「使」の目的動詞として並列にならんで文としてスッキリするのでは?と思うのですが、貴解釈、如何でしょうか?(細かいことですみません。)そして1が倭人の仕事であったなら、やはり朝鮮半島南部の一部である狗邪韓国は倭人の領域だったのではないでしょうか?(ちなみに、倭の北岸とは、つまり岸=土が北にあるのなら海はその南側にあるわけで、つまり現代日本語に意訳するなら、倭国である半島南部の南向きの倭の海縁、という意味では?)
伝送する文書があって下賜される品物の数と種類を正確に把握するため魏の使者が倭を訪れた当時すでに倭人は漢字が読めたと言うこと。魏志倭人伝の著者陳寿はかなりいい加減な憶測でこれを書いたものと思われる。そうであれば魏志倭人伝記述全体に疑いが持たれる。
ーー魏が「公孫公」を亡ぼし・・卑弥呼(日巫女?)は速「朝貢に行く」ーー支那大陸を常に見ていて「国の存立に注意していた事が判る」
語りの言葉がぶつぶつ切られて語られるものですからとても聞きづらい。もう少し滑らかに読めないものですか。
卑弥呼が魏の公孫氏滅亡前に遣いを送れたのは、卑弥呼が公孫氏の姫君だったからではないでしょうか?古本屋えりえなチャンネルさんが、古書を引用して卑弥呼は公孫氏と扶余との間の姫君だと話していました。これであれば、姫君の遣いが燕を通過できないのは考えがたいので、魏志倭人伝の記述が誤りだとして1年後ろにずらす必要がなくなると思います。この場合、公孫氏の姫君であったことは燕滅亡後に魏の矛先が女王国に向かないようにトップシークレットとして隠したはずですし、大陸側の公孫氏が討たれることを悟った女王国側が、魏の女王国への侵略を未然に防ぐための生存戦略として、全く燕の公孫氏と関係ない国を装って、魏と仲良くしようとしたのではないでしょうか?
生口は、捕虜を指し、奴隷の事は奴婢と書くと思います7:31 大倭を役職名の表音とするのは無理が有ります大は、東夷伝では「大きい」の表意文字にされてます倭は、東夷伝では「倭国」の表意文字にされてます大きな倭国との交易の話ですね20:22周旋は、土地や人などが行って帰る・戻る事を意味しますぐるりと周る場合は「周」とだけ書きます38:52その場合、長里で里数を書いた事になりますが、長里だと、女王国は、東冶県よりも遥かに東南になりますこれだと「計其道里 當在會稽東冶之東」と矛盾してしまいます実際よりも遠くみせようとした場合、わざわざ東冶之東としませんよ1:00:32 御意
中国の歴史の話おききしました。自分なりの解釈説明ご苦労様,あまり参考にはなりません。
親魏倭王の金印を与える国にしては当て字の文字がひどすぎる。フィクションと考えるのが妥当では?
そんな連中だよ
ここは事実、ここは創作と都合よく考えられますね(笑)仮に事実が含んでいたとしても千に一つ万にひとつなのではないのか!史書としては、限りなく偽書に等しい。卑弥呼の墓と生贄とやらは、どこにあるのでしょうか?いまだ、古墳より殉職した生贄は発掘された例がひとつもありませんが、どこかのお伽話ではないのか!
この動画は魏志倭人伝(三国志正史)の解説ですよ?
古事記や日本書紀に殉葬の様子や禁止について書かれていて、大化の改新でも殉葬禁止令が出されたようなので、そういう事はあったのでしょう。古墳から殉葬者とわかる出土例はないようですが、埋葬者の痕跡すら確認できない墳墓も多いようですし。高温多湿な日本では100人も埋めたら周辺かなりキツイことになるので、実際には埴輪で代用が普通だったのかも。日本側のハッタリ?
骨は溶けちゃってるでしょうし。でも100人は大げさっぽい気もする。本当、埋めるのも大変。
殉葬古墳は九州にはあります
卑弥呼は実在してない人物墓もない。
宇佐神宮の比売大神がありますが?
丁寧に解説して頂けて本当にためになりました。
ありがとうございます。
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昨日偶然知り、立て続けに何本も観てしまいました。原文や専門書を読むような力はありませんが古代史は最近皇族の問題もあり少しずつ勉強していましたが、とても丁寧で分かりやすくて一言お礼を申し上げます。
魏志倭人伝こんなに詳しい講義を聴けるとはUA-camならではです。いい時代になったものです。
大変聴きやすい声進め方素晴らしいです。
学ぶは楽しありがとうございます。このシリーズ大好きです❤🎉🎉
魏志倭人伝は教科書で習う抜粋の何倍もあったのですね。ありがとうございます。
kまさ
魏志倭人伝の書かれた背景の解説によりこれまでの疑問に思っていたことの答えがわかりました。
素晴らしい解説ありがとうございました。
この歳(75)になり改めて歴史を学ばさせて頂いており、ありがたい教材に出会えました事深謝申し上げます。
ご挨拶早々不躾ではございますが下記の点に付き参考文献等ご教示いただけましたら幸甚でございます。
日本史12 19:03 からに記載のある 24cm/尺(1尺=**cmの根拠)の根拠が記載された文献等
私は長く手織りと関わってきた者です。尺とmの起源、変遷に関心はあったのですが関われずに
来てしまいました。何分の配慮よろしくお願い申し上げます。
素晴らしい!更に更に深堀りして欲しい!
今まで少なかった観点からの考察は非常に良いと思います。ためになりました。
非常にわかりやすく、疑問点が解消しました😊ありがとうございます👍
ありがとうございます
全くの素人です→卑弥呼やその時代のことが大変よくわかりました
→名前や地名 をスラスラ
と解説され感動しました
→魏志倭人伝が歴史書の一部であったことなど、この動画が、新しい視点での、歴史解説が広がることを、期待しています
素晴らしくも詳しい動画をありがとうございました。
めちゃくちゃ面白い
非常に面白く観させていただきました。司馬氏にとって、都合が悪い事は書かない、功績を持ち上げて書くと言う事は充分理解ができます。魏志倭人伝もそのような背景があって書かれていると言うことがよくわかりました。
さて、以前から魏志倭人伝には間違った記述が多いとされており、このため邪馬台国がどこにあるかを考える場合、自論にとって都合よく解釈したり、あえて無視する傾向があります。距離やベタぼめしている事は別として、風俗や産物などは、どの程度信憑性があるのでしょうか。
タネ本をなぞるのではなく、邪馬台国がどこにあったか興味を持つものとしては、倭人伝が書かれた背景から一歩進んで、そういったことについてもコメントをいただければ嬉しいです。
学術誌ではなく、UA-camだからこそ、そういった自由なことを発信できるのではないでしょうか。
とても、興味深く学習しました。
魏志倭人伝のような文書があって、日本にはとても幸いでしたね。他の周囲の国と比べて見ることができますからね。
親魏倭王などの印が出てくるといいんですが。
とても面白い内容でした!今までは邪馬台国の場所を 推理する動画ばかり見ていましたが、一部をこねくり回すよりも全体を俯瞰する事の方が面白くて、自分自身の肥やしになりますね!
とても為になる説明でした。、ありがとうございます。
初めて魏志倭人伝の内容を知りました。
三国志と倭人伝同時代だったのですね。
そしてその頃の日本人の外交もまた、面白く視聴しました。
もっとこの時代の色々な発見があると卑弥呼についても明らかになるでしょうね。
卑弥呼の墓が発見される事も楽しみですね。
「北史」倭国伝 「隋書」東夷伝などもお願いします。
ありがとうございます。
動画の10分のところの内容を見ますと”女王国(邪馬台国)より北には、特別に一人の大率という官を置いた・・・大率は常に伊都国(現在の糸島)を治所とし…”とあります。
伊都国以南に邪馬台国があったことを匂わす文面かと思います。私の居住地からかなり近いような気がします。邪馬台国はやはり九州説に軍配があるかと。
まさにこの魏志の時、三世紀前半に"大和"盆地で他に例を見ない規模の纏向遺跡が発達し巨大な古墳が作られ始めるという考古学的証拠は大きいですよ!
動画中でも述べられているとおり倭人伝の記述は当時の中国の世界観にそった形で行われているとすると、会稽東冶の東に位置するためには対馬海峡を渡った後は当然南下していくわけで、そこは額面通り受け取る記述ではない気がしますね。
纏向が卑弥呼の墓との確証は何も無いことを悟るべき。女王国の東に海が有ってその向こうにも倭種の国があると云う記述はどう考えても近畿説には当て嵌まらない。魏志倭人伝の記述は九州説で間違い無い。
i love 三国志 ,too much heroes rose up in that period, very romantic
入口紀男『邪馬臺國』(2022年アマゾンより発売)に近い内容です。
壱与はまだ13だから♪
年齢が、今の1年で2歳分だったなら、6~7歳だったってこと??
当時の中国との関わりで向こうの王からの手紙(書状?)で文字というものがあることを当然クニのトップや実際に向こうに行った使者は知っていた訳でその文字を読み書きできる人間を育てなかったはずはないと思う。でも日本で最初の書物ができるのは卑弥呼の時代より何百年も後なんだよなぁ。いくらなんでも間が空きすぎだと思う。
長い動画作成お疲れ様でした。主観も多々入っていましたが立派な出来だと思います。
倭国は親魏倭王と評価され呉の背後を付く戦力として期待されていたのに、内乱で魏の援助を受けていたんですね。魏から見たら足を引っ張るなよという感じでしょうか。
おちなつたIr
倭が内乱になったのは卑弥呼が死んで、男王に変わってからということだと思いますが。。
魏が親魏倭王の印を卑弥呼に渡したときは、内乱の真っ最中ということではないと思いますが。。
@@脇田昭
随分前のコメントで記憶は確かではありませんが内乱とは倭国大乱のことではありません。狗奴国との争いのことです。倭国に呉への牽制役を期待していたのに足元の狗奴国と戦争になり魏の助けを借りたから頼りないということです。
本当に面白かったです。ありがとうございます。
男達は全員入れ墨をしていた、とあったと思いますが
それは漁師たちや下々の者だったのでしょうか、
それとも位の高い男達までみんな?? そこが気になります。
アボリジニの人達みたいだったんでしょうね。
大変詳しい日本語訳なので とてもわかりやすく説明くださり ありがとうございます。 沖縄の位置について、古くから中国の影響文化圏だったと思いますが、日本と交流がありましたか?
当然です!民族言語共に日本ですよ
当時から今も日本語喋ってるんだから、日本ですよ。
全文の解釈や背景が聞けるとは、これまでの日本の歴史教育やちまたの歴史書は何だったのか・・・??、それにしても詳しい記述なものですね
239年の頃,前方後円墳は造られていたのでしょうか。 (空又 覚造)
とても参考になりました。ありがとうございます。
最近,倭国四国阿波説、それが邪馬台国そして大和政権へとつながっていったという説を、非常に説得力を感じて視聴しました。
これだと不明とされた周船?の意味が浮かんできそうな気がします。
裴注の魏略の暦の項は春秋年を採用している事を言っているのでは無いでしょうか!
魏志倭人伝に関し、距離を置いてなるべく客観的に語ろうとしていた点が、良かったと思います。魏志倭人伝が書かれた背景からは、邪馬臺国までの距離や方角に関して、あまり拘ると大きな間違いを犯すことになることが分かりました。その上で、邪馬臺国九州説では、魏が高く評価するには規模が小さすぎないか疑問に思いました。他方、邪馬臺国本州説には、文身等の風習が伝わらなかった点で疑問が残ります。さらに、魏やその後の南朝との交流の記録が日本側にないのも疑問に思います。九州王朝説にたって、九州王朝の滅亡によって風習も記憶も失われたと言う考え方は、この点では魅力的に思えます。素人考えですが・・・。
魏志倭人伝は魏の国の陳寿が想像で書いたもの、彼は歴史家とは関係なく単なる小説家です。(東北大名誉教授田中英道説)たどっていけば海南島当たりです。
多数の交流が頻繁にあった訳ではないからその国の規模は無関係でしょう
福岡大分熊本が接する辺りで戦いの跡が残ってた筈。 詰まり邪馬台国(現在の佐賀・福岡・大分)と狗奴国(現在の熊本)の戦いは其の辺りで起こったのかも知れない。
大率の地位に就く者は帯方郡からの文書を読んで理解できたってことだね。
つまり日本への漢字の伝来は卑弥呼の時代より前と言うことになる。
歴史学者は何故このことを認めないの。
徐福が本当に来たかはわかりませんが、卑弥呼より前に中国から人が来ててその際文字も伝わっていると思います。そもそもなんで当時の日本人が中国の存在を知っていたのか?ってとこから考えれば間違ってないかと
@@鈴麗リンリー 以前から関心事の件でしたので、有り難う御座いました❗
読める、話せると使えるは別ですから。でもそういう役所の一部の人間は読み書きできたでしょうねと「学者」も考えてます。ただ証拠がないと発言した段階で嘘にしかならないから言わないだけ。
王仁がその時代に無い”千字文”を伝えて話より客観瀬があると思うけど。
ちゃんと中国視点を忘れていない点は、キワモノ動画がほとんどの中好印象(それが自分の説かどうかは別にしても)。ただ原文は思ってる以上に「倭国」「女王国」「邪馬台国」を使い分けているので訳し方には注意。(女王国=邪馬台国とは限らない)
邪馬台国への距離は伝聞であり測量したわけではないので精度は?と、中国や台湾の歴史学者がそろって言ってますね。
大率は、大宰府の事のようです。それからも卑弥呼は日田にいたと思います。
正始元年(240年)倭王は謝辞を使者に託し魏皇帝に上表したとのことですが、あの時代倭国には未だ文字がなかったと思うのですが、どのような形で謝辞を上表したのでしょうか、大変興味があります。その他文字がなかった時代 魏国とどのようにしてコミニュケーションを取ったのでしょうか、知りたいですね。
恐らく翻訳家が居ると書かれていたので中国語で陳謝してたのではないでしょうか?
畿内や他地域が倭人伝の対象なら、もっと違う記述、表現になると思いました。また、エリアを畿内まで含むとなると、必然的に韓国から畿内の道程のほとんどの国が女王国の支配下にあったことになり、既に大和王権・朝廷が成立しており、その後の中華史も全て畿内王権を指し示すことになりますよね。また、皇帝の権威の称賛のため、距離は盛っても、華人は方位磁針携帯してたので、大きく方角を間違えることはあり得ないと思いました。
ほとんどの人は知りませんが、コンパスはナビゲーションに不可欠なツールですが、六分儀と正確な地図がなければ、コンパスをたどるには運命に頼るしかありません。コンパスは地磁気分布の影響を受けるため、北磁極は過去 120 年間で北に 20 度近く移動しました。非常に小さな動きのように見えるかもしれませんが、航行中は小さなずれが大きな影響を与える可能性があります。
邪馬台国以北に伊都国があることになりますね。近畿説では、このような表現は出来ないでしょう。
1万2000里の解釈は面白い考え方ですね
ただ紀元前2世紀頃と少し古いですが周髀算経だと1里が76~77mなのでこちらで魏志倭人伝の記述を見ると場所が確定している伊都国くらいまでは大体あってます
もし当時の使者が周髀算経を理解して影を使って距離を計測していたとすると周髀算経の距離を使ったという事は考えられないでしょうか?
海を渡ったり日本には山を回り込んだりアップダウンがある地形で距離を測るのは容易ではありません
また注釈の通り春に耕作し秋に収穫しそれを目安として年紀としているなら今の1年は倭国では2年となり日本書紀の天皇の年齢など全て半分にすればかなり辻褄があうのではないでしょうか?
確かに古事記や日本書紀には超自然的な力の記述はありますがそれをもって全てが嘘と決めつけるはどうかと思います
人物や出来事についてはある程度真実だった可能性があるのではないでしょうか。もし全て出鱈目なら神功皇后という女性は出さずに男性の天皇にするだろうし、兄を殺して天皇になったといった不名誉な事は書かないと思います
素晴らしい!極めて妥当な推測だと思います
卑弥呼に与えた印は対呉国に対する援護の思惑があるようですね。
邪馬台国は伊都国の以北にありと記述されていることから、邪馬台国は筑後平野のどこかではないでしょうか?
なかなか面白かったです!
今の大河ドラマにあるように越前国は海流による中国との玄関口という考え方はないのでしょうか。
洛陽からの距離は、正しかったとするなら、関東は当てはまらないのでしょうか。
2000年前海面は!浸食は!
関東以南の伊豆諸島は今より島々があったのではないでしょうか。倭寇に観るように海洋民族ではなかったのでしょうか。
教えてください。
生口と奴婢が両方とも「奴隷」なら、違いはなんでしょう。生口は「勾玉を作る職人あるいは下僕」の方がいいみたい
歴史学科 卒業のお方なのですか??
山門国ですよね
「漢末三国」時代の「刺史」は地方の「軍政長官」であり、軍権を掌握していた。漢霊帝の死後、「刺史」はすでに地方の民政、軍政、監察を完全に掌握する全権長官となり、統治下の郡県から軍隊を動かすことができ、実際には塩、鉄を経営する財政権を持っており、劉焉は貨幣を鋳造したことがある。この時期の「刺史」は家族内で世襲でき、すでに朝廷経由で任命する必要はない。刺史下の郡国の太守も、出兵権を持っていた。『三国志』ゲームの様々な勢力になりました。
魏晋時代の「刺史」の多くは使持節、持節、假節、都督諸軍事などの権限を備えており、地方の軍、政長官でもあった。
丁寧な解説ありがとうございます。
魏内部の権力闘争を背景に、
陸行水行30日の語句は
大月氏国に匹敵するように恣意的に盛った記述のように思えます。
ですから投馬国と邪馬台国も以外に奴国から近い北部九州に存在したと思います。
そうだと思います
同感です。でも学者間では近畿説の勝利で九州説は絶滅寸前とのこと。
此処まで丁寧に全文口語訳をしているもの、なかなか見当たらず先ずは御礼を…有難う御座います。
その上で、私見を幾つか…
・邪馬台国は北部九州であると思われる。 其の理由は二つ
先ずは引き算。 全行程12000里で不弥迄で10700里。残り1300里では九州以外では無理。
関係する国は30余国。 三世紀の遺跡が多数出土している地は、今の処では九州以外無い。
・邪馬台国は金印収受に値する。 其の理由は二つ
ご指摘の通り、敵対する呉への遠交近攻策が一つで、もう一つは倭国は案外と「大国」なこと。
其れは気候が温暖で稲の栽培に適してたこと。 コメは単位当たりの人口扶養力が麦より高く、
更には海産物も多く、大陸や半島諸国より食糧事情が良く人口が多かった。 人口 ≒ 国力 です。
一大率の位置に関するコメントは示唆に富んでいて、興味ぶかかったです。
日本の漢字伝来は卑弥呼の時代よりもっとさきの時期と思います.十九世紀東南アジアの華僑は大陸へ手信(家書)を書く時必ず師爺のような者が代筆してくれます.漢字はすべての大陸人が書き.読みのできる物ではない.ー部の人(村ならば村長と子孫たげ)ができます..英国人が三百年以上も印度を支配しても大多数のインド人は英語を上手に読み書きはできない.日本が八世紀に急に記紀という書藉をすらすら書けるなんてそれは少なとも五十年の蓄積が必要です.例えば藤原不比等が書いたとしても、彼に少なくとも五十オ上の人が教えてくれないと無理です.その先の先を追究すればなん代の蓄積が必要です.古墳時代の出土品に既に文字(和風の名前)が書いてあります.記紀より古い史書が世間に出まわったと記紀の序文にも示しています.難升米が漢字と当時の漢語が出きなければ手ぶリ身ぶりで意思の表達は相当むずかしいと思います.
「政治理念によって邪馬台国への距離・方向」は卓見。
邪馬台国とヤマトの音韻は似ていて、3世紀時点ではまだ九州南部を本拠地としていたのですかね。
女王国は故地である九州にありつつ、軍事経済の拠点は大和地方にあったが、どちらもヤマトであったのかも?
京都と鎌倉のように、役割の違う首都が複数あったのかなと思いました。
倭人伝とは関係なくて有る本で読んだけど、関西の山(福智山?)の東を山東でヤマトウ、西を山の西の川で河西でカワチと呼ぶと書いてあった。
私は九州人なので近畿の土地は良く分かりません。でも面白いから。
ついでに福岡の博多の土地は大昔は湿地滞で大潮の満潮時は大宰府や鳥栖辺りまで海水が満ちていたようです。
有明海の大川や柳川辺りも大潮の満潮時は小郡まで満ちていたようです。
それから船を何十人何百人とかでぴっぱり川を上る事を長征と言う映画が見た事が有るけど、福岡の宇美川を上り宝満川を下ると筑後平野に出る。
南に水行で行ける。
土素人の私が今から60年昔に中学の社会の先生が話した卑弥呼の話が今でも思い出します。
@@じぐろおなが さん
長征という映画ですが中国の
映画ですか?
こんだけ証書のやり取りあったのに日本では文字が使われなかったとされてるのはなぜ?
有力な九州説・・関心ある方・・「豊の国古代史研究会・・福永晋三」氏 で検索して見て!
前編冒頭に言われている通り、渡邉義浩氏の著作が骨格になった解説かと思います。
魏の詔書つまり公式文書として、クシャーン朝大月氏しか他事例がない親魏〇王という破格の地位が倭に与えられていること。これは魏政権の強い意図が実際あったとみるのが自然だし、それに即して東夷伝倭人条を解釈するのは必要なことでしょう。
但し、晋が呉を滅ぼして統一を果たした後に陳寿が三国志を作成し始めたので、呉の後背を狙える勢力とすべく倭の立地を無理に南方に捻じ曲げる等することが陳寿自身の保身(司馬氏への忖度として)にどう繋がるのかはやや不透明。
帯方郡イコール司馬氏権益エリアという通念が確立されてたなら魏時代の司馬氏外交成果の持ち上げという見立ても一応可能なんでしょうが…単純に陳寿自身が参照できた倭に関する文書が既に捻じ曲げられていただけな気もします。
わじんではなく、イジンですね。イの国です!
阿波説後、再聴。
奈良には黒毛和牛が前300頃から存在(和牛食自慢中)。魏史には牛はい無いと記載。
従い、大和▪奈良説は外れる事が確認出来ます。カササギも。
旧コメント;100歩余りと書いてるから 約50 Mの墳墓。 二百歩としても 100 m 。
箸墓古墳は 墳丘は 150メートルはあるとか。
矛盾だなあ~。
行程の最初、原書が諸韓国と倭が陸続きと書いていること、
原文を素直に読めば狗邪韓国が倭の一部と読めること
に触れてもらえなかったのは不満ですが、力作動画だと思いました。
(✴️)原書後半にある、王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国皆臨津捜露伝送文書賜遣之物詣女王不得差錯の訳は、一部不満、一部賛同です。
既存の訳、及の字以下のところ、どなたの訳もしっくり来ません。主語と動詞の構造が不揃いな形に解釈されているようで。
私見では、
及=そして
郡=以下の一文の主語
使=この文の主動詞で使役の意味
倭=この一文の主目的語
つまり外交使節の来日にあたっては、その航路、往来について倭国に色々な支援をさせた、というのが私の解釈の肝。
そしてその使役の内容が次のとおりで、貴訳にほぼ同じ。
1 水路に通じた倭人を郡使が寄港する港すべて(皆)に出張(臨)らせて水路を探(捜露)(して船の進路を教え)させ
2 文書と下し物を伝送して女王に差し上げさせ
3 手ちがいのないように(使~不得差錯→差錯するを得ざらしむの読み下しははげどうでした、)させた
のである。
こう解釈すると、各種の動詞が主動詞「使」の目的動詞として並列にならんで文としてスッキリするのでは?と思うのですが、貴解釈、如何でしょうか?
(細かいことですみません。)
そして1が倭人の仕事であったなら、やはり朝鮮半島南部の一部である狗邪韓国は倭人の領域だったのではないでしょうか?
(ちなみに、倭の北岸とは、つまり岸=土が北にあるのなら海はその南側にあるわけで、つまり現代日本語に意訳するなら、倭国である半島南部の南向きの倭の海縁、という意味では?)
伝送する文書があって下賜される品物の数と種類を正確に把握するため魏の使者が倭を訪れた当時すでに倭人は漢字が読めたと言うこと。魏志倭人伝の著者陳寿はかなりいい加減な憶測でこれを書いたものと思われる。そうであれば魏志倭人伝記述全体に疑いが持たれる。
ーー魏が「公孫公」を亡ぼし・・卑弥呼(日巫女?)は速「朝貢に行く」
ーー支那大陸を常に見ていて「国の存立に注意していた事が判る」
語りの言葉がぶつぶつ切られて語られるものですからとても聞きづらい。もう少し滑らかに読めないものですか。
卑弥呼が魏の公孫氏滅亡前に遣いを送れたのは、卑弥呼が公孫氏の姫君だったからではないでしょうか?古本屋えりえなチャンネルさんが、古書を引用して卑弥呼は公孫氏と扶余との間の姫君だと話していました。これであれば、姫君の遣いが燕を通過できないのは考えがたいので、魏志倭人伝の記述が誤りだとして1年後ろにずらす必要がなくなると思います。この場合、公孫氏の姫君であったことは燕滅亡後に魏の矛先が女王国に向かないようにトップシークレットとして隠したはずですし、大陸側の公孫氏が討たれることを悟った女王国側が、魏の女王国への侵略を未然に防ぐための生存戦略として、全く燕の公孫氏と関係ない国を装って、魏と仲良くしようとしたのではないでしょうか?
生口は、捕虜を指し、奴隷の事は奴婢と書くと思います
7:31
大倭を役職名の表音とするのは無理が有ります
大は、東夷伝では「大きい」の表意文字にされてます
倭は、東夷伝では「倭国」の表意文字にされてます
大きな倭国との交易の話ですね
20:22
周旋は、土地や人などが行って帰る・戻る事を意味します
ぐるりと周る場合は「周」とだけ書きます
38:52
その場合、長里で里数を書いた事になりますが、
長里だと、女王国は、東冶県よりも遥かに東南になります
これだと「計其道里 當在會稽東冶之東」と矛盾してしまいます
実際よりも遠くみせようとした場合、わざわざ東冶之東としませんよ
1:00:32 御意
中国の歴史の話おききしました。自分なりの解釈説明ご苦労様,あまり参考にはなりません。
親魏倭王の金印を与える国にしては当て字の文字がひどすぎる。フィクションと考えるのが妥当では?
そんな連中だよ
ここは事実、ここは創作と都合よく考えられますね(笑)
仮に事実が含んでいたとしても千に一つ万にひとつなのではないのか!
史書としては、限りなく偽書に等しい。
卑弥呼の墓と生贄とやらは、どこにあるのでしょうか?
いまだ、古墳より殉職した生贄は発掘された例がひとつもありませんが、どこかのお伽話ではないのか!
この動画は魏志倭人伝(三国志正史)の解説ですよ?
古事記や日本書紀に殉葬の様子や禁止について書かれていて、大化の改新でも殉葬禁止令が出されたようなので、そういう事はあったのでしょう。古墳から殉葬者とわかる出土例はないようですが、埋葬者の痕跡すら確認できない墳墓も多いようですし。
高温多湿な日本では100人も埋めたら周辺かなりキツイことになるので、実際には埴輪で代用が普通だったのかも。日本側のハッタリ?
骨は溶けちゃってるでしょうし。でも100人は大げさっぽい気もする。
本当、埋めるのも大変。
殉葬古墳は九州にはあります
卑弥呼は実在してない人物墓もない。
宇佐神宮の比売大神がありますが?