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こんな超絶面白い大学の講義みたいなものを無償でみられることに感謝します
わたしは宮崎出身で、宮崎は記紀の神話を大切に県民の誇りのように思っているので、神武東征は信じていましたし、記紀に出てくる地名もあるし、なんで平気で学者は否定するのか不思議でした。宮崎市の市民の森がある阿波岐原には御池(みそぎ池)もあるし。コノハナサクヤヒメに由来する地名として木花地区があるし。宮崎市田野町の本野原遺跡は、旧石器時代~縄文後期に続く定住集落の遺跡で、縄文時代のコクゾウムシ全国出土の50%にのぼるそうで、4000年前の縄文時代から稲作をやっていた事を証明してます。また喜界カルデラの噴火が7300年前で南九州の縄文人は死滅したとされてるが、そんな事は無い事を示しています。
こういう通史が勉強したかったです…
有難う御座います、私も戦後翌年生まれ、中学1年より武道の師から教わった事が真実であった事、日本の歴史を多くの方々に知って頂きたいと心より願います。
小学校から 教えて言って欲しい日出ずる国 今目覚める時教育 から 自国を愛する心頑張って生きる力が湧いてくる有りがとうございました❣️
配信ありがとうございます。何度聞いても面白くて納得のいく解説です。謎でしかなかった日本史がジグソウパズル🧩の様に収まっていくのが本当に嬉しい!感謝致します。
やはり、市町村合併や郵便物の住所が長いからと言って地名の変更はしてはならないと感じる。
長浜氏が科学的に神武東征を立証されたことは、日本国歴史の神話を解き明かす手がかりを掴んだに等しい業績だと思います。本を読んだときの確信を思い出します。
山陰で育つと神話に対する認識がちょっと違います身近に神話に出てくる物がゴロゴロあるわけですから、無かったと言われてもピンときません
大阪の生駒山の麓にそって東高野街道という、京都と高野山を繋ぐ旧街道がありますが、その街道沿いに海に関わるものが発掘されるそうです。弥生時代あたりはちょうど麓のあたりが海岸線だったとか。
12:09あたりで洗脳されたリストの中に東北大の田中英道教授が入っていますが、田中先生は著書『日本国史』で神武天皇が実在したことを詳しく書いてくださっていますよ。
そもそも古文とかって歴史とかと一緒に学ぶことで理解が深まると思うんだけど実際の義務教育の現場では国語、社会(日本史、世界史等)、地理、とかバラバラに授業でやるからなんか違和感ある。今思うと学生時代は国語の授業内での歴史の話しと歴史の授業内での国語の話しのどちらがわかりやすかったと言えば後者だったなぁ。
砂鉄を選別して取るために山を切り崩して川に土砂を大量に流し、その結果海が埋まってしまった場所が日本中にあるみたいですね
江藤淳氏の検閲についての講義を直接受けられたとは羨ましいです。後に書籍化されましたね。
こころが喜んでおります。ありがとうございます。
現在ではアメリカの中学で日本神話を教えています。
マジですか?
18:38の日本書紀の現代文に「まさに難波碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いた。」とありますが、原文は「方到難波之碕、會有奔潮太急」です。この意味は「まさに難波碕に着こうとするとき、幅の広い速く激しい潮流に出会った。」であって、「大変速く着いた」の意味は含まれないと思います。従って、その潮の流れに乗って速く着いたのか、又は潮の流れに逆らって難儀をしたのかはこの文だけでは判らないと思います。長浜氏の以後の論旨展開は「大変速く着いた」ことを根拠に、この神武東征を河内潟時代のことと断定されていますが、「潮の流れに逆らって難儀をした」のであれば、後の河内湖時代でも成立するものと考えますが如何に?
こういうのを専門的に学べる大学コンテンツをUA-camに開設してメンバーシップ集めれば絶対に人集まるんじゃないですか??😆😆😆お金払ってでもこういう貴重な価値ある話は聞きたいですわ。😊😊😊
現在の学校教育でもしっかりと、日本書記、古事記を教えるべきだと思います。
色々と参考になる話をありがとうございます。ただ一つご確認頂きたいのは、百田尚樹氏が神武東征を否定しているとおっしゃられる部分は、違うと思います。百田氏は自身の著書「新日本国紀」の中で、神武東征を信じると書かれております。ただ神武天皇の在位年が紀元前600年代というのは信じられないと書かれていますが。
神武東征:大阪では、子供の頃、大阪の戦前戦後の習俗も学びます。戦後直ぐまで、北河内や大東市界隈あたりの多くが蓮レンコン・水田に覆われた湿地帯。民は、丘を除いて、小舟で移動していたと。私の子供の頃でも、古びた小舟が残っていました。 つまり、たった何十年前まで、湖ほどではないが湿地(水深2m以上、底ぬかるみ粘土質)が多く...古代の西暦3~4世紀くらいまでなら、底が平らな船で移動は可能だったと推測されます。
敗戦というイベントのせいで都合よく無かった事にされるのは絶対におかしい。旧宮家の件もそう。
当時の海面から逆算した東アジアの地形図を題材にそれで歴史を追求すればもっと話しも早いのにといつも思います朝鮮半島や北京あたりの気候も逆算して神武以前は果たして人間の住める気温だったかどうかも大きく通史が覆る可能性がありそうです文献で左右学派ともゴニョゴニョやっているよりも地理学気象学の力が必要
@abcdef 神武以前、明治以前、昭和以前。。。諡号で大まかな時期の区切りを呼称するのは問題ないと思いますよ
どんどん発信をお願いします。もっと根拠となるようなものが有れば教えていただきたいです。
東京や千葉等も今は住宅地やビル街の所でも昔は海岸線が迫っていて貝塚が発見されている所が結構あります。百人一首の開始は、難波津に~、また、難波潟みぢかき葦の~等海を歌ったものばかりで葦が生い茂る遠浅のぐちゃぐちゃな難波だったのだろうと思います。古代中世の水運は鉄道や車を使う私達とは全く別の世界のロマンを掻き立ててくれます。
この動画で長浜先生が示された神武東征の地図なのですが、地図にある「竈山」の位置が明らかに違います。私は和歌山市出身なのですぐに分かりました。「竈山」とは和歌山市にある「竈山神社」にほかなりません。しかるにこの地図でははるか南の御坊市のあたりにあることになっています。長浜先生の書かれた本にもこの地図が使われているので、かつて出版社にハガキでこの誤りを長浜先生に知らせてほしいとお願いしたこともありましたが、伝わらなかったらしく、長浜先生はずっとこの地図をあっちこっちで使い続けています。この動画制作に関わった方にこのことを先生に伝えてほしいと願ってやみません。私がこの動画を見た時は制作後既に約一年を過ぎていますね。また伝わらないかもしれないのが残念であります。
英語化とか止めて、自国の歴史ちゃんと教えるべきですよ。何処まで落ちぶれてんだと思います。
百田氏は大阪で生まれ育ちながら地名に気付かれないのは何故だろう
日本・日本人とは、何者か?中川八洋 著『超先進国日本』渡部昇一 著『かくて歴史は始まる』ボブ・フィックス 著『時を超える聖伝説』千賀一生 著『ガイアの法則』シリーズ
素晴らしい好い研究です。実証的な研究を下敷きにしている。
長浜先生,勘弁してください。東北大学名誉教授の田中英道先生は,神武東征は実際にあったのだと強く主張し,卑弥呼は存在しないとも主張している方です。長浜先生は,その先生を日本書紀を否定している人として紹介しました。事実誤認も甚だしい。田中英道先生は,神武東征は実際にあったと訴える最も代表的な論客の一人ではないですか。たいへん失礼です。正式に訂正し,謝罪してください。
あなたは、田中先生の『決定版 神武天皇の真実』を読みましたか?ここで氏は訳の分からないことを述べていますが、例えば「第一章 神武天皇は第十代崇神天皇だった」と主張しています。そのくせ歴代天皇の順位と崩御年を記していません。これでは、おそらく読者は第一代の天皇は誰だったのか、分からないと思います。このような態度を私は「無責任、いい加減、デタラメ、日本の歴史への冒涜、日本書記否定」と考えています。神武天皇は第一代の天皇なのです。私は「何時でも田中氏と公開討論に応ずる」と言っていますが、田中氏は逃げ回っているのです。
日建設計にいらしたんですね。建物は噓つけません。長浜さんが国史の探究に邁進されているのが興味深いです。真の国史 有難うございます。
間違った発掘もしたがシュリーマンの執念が、トロイの木馬の遺跡など見つけたと思う。日本の神話も、真実と信じて探せば事実を示す遺跡が出てくるのではと思う。
関門海峡はwikiにもあるよう明治になってから安全航行ができるようになりました。当時は、海峡は繋がっているものの、大型船は無理で、小型船も高潮、ベテラン船頭など好条件で無いと通れなかったようです。 何百、何千人を運ぶとなると、行橋から岡水門は陸路では無いかと思うのですが。
😄お見舞い周り中の休憩でアートレス・クラフトティー&コーヒー店で早見で視聴中です😄😄帰宅後にもゆっくり再視聴して教養の勉強にいたします😄
百田直樹がまたまた証拠の無い出鱈目[日本国紀2]を出版しました。一昨年、有本なにがしと[水間政憲]さんの事実本から一部をパクった歴史本でした。それがバレたら虎ノ門なんとかという番組で今後一切執筆しないと言明しながら。恥を知れ百田直樹。長浜さんの本は全て完読しております。すばらしい。
秦氏 京都祇園祭
初代天皇が居なかったと言うのは三菱社員が「岩崎弥太郎は居なかった」と言ってるようなもん←じゃあなんでオマエラ存在してるんだ?って言いたくなる。6:46 宇佐や岡田宮にわざわざ寄ったのはそこが天孫の祖地(高天原)だったからでしょ、本家への御挨拶と軍勢増強の為に寄ったんかと。
初代天皇がいなかったんではなく初代天皇が神武天皇ではないと言うことを言いたいんだろ。実際、日本書紀や古事記などの大化の改新以降の歴史書にしか神武天皇の存在は明記されてなく、物的証拠もないんだから。神話のお話と岩崎弥太郎は違う。物的にも証拠がある最初の天皇は26代の継体天皇。歴史的にもミヤケ制、部民制、氏姓制などの大改革やケイタイノミクスなどを執行ったことからおそらく初代天皇と思われる。藤原氏のライバルであった蘇我氏と大変近い天皇だったので藤原氏が書いた日本書紀や古事記などではしょぼく書いてあるが。
岩崎弥太郎を初代とするか、その原資を作った海援隊の利益と坂本龍馬の資本を、そっくり土佐藩の後藤象二郎から三菱へ、かで考え方は違う。天皇になりすました、アカウントを盗んだルフィが「歴史」には隠れています。「藤原」か「蘇我」か「物部」かあるいは。
説得力ありますね…(-_-;)💧
最近思うのですが、段階の世代前後が一番やっかいな思考を有しているようです。弥生人渡来、アイヌ先住民を頑なに信じています。
古事記によれば 東征の際宇佐に立ち寄り、岡田の宮に立ち寄り1年いた。神武天皇は大倭で即位してから宇佐に国造を置いて、対馬には県を置いている。すなわち北九州には大和に連合する国家があったと考えるのが自然だ。魏の使者が九州の邪馬台国に来たとしてもそれは大和の連合国と考えるのが普通であろう。古事記、日本書紀などの豪族の系譜には真実があり、よく勉強してほしい。
古事記原本を読んで考察されている方が増えてくれるといいのですが。古事記について書かれている本ではなくて原典をです😊
神武東征の時期はそうなのかもしれないが、実態は全然違ったと思います。実態は数百人程度の移民集団で、後々大和で権力を握った者のルーツがその集団だったので、移住物語をかっこよくして後世に伝えたのが実情なのだと思います。つまり移民集団内での言い伝えもとに作った創作だと思います。なぜ神武東征を否定するのかといえば、武装レベルの変わらない集団が何の正統性もなしに本拠地と離れた別の地域に行って急に支配するというのは他の地域の歴史を見ても不可能だからです。
海神の姫が産んだ子が神武天皇の父と思ってました。
戦後史学を席巻した津田左右吉の唱える神武東征架空説を、故古田武彦氏が否定した根拠が、長浜浩明先生の説でした。
それ本当か?邪馬臺国は邪馬壹国の誤りとしてきしたのが1969年頃、それを「『邪馬台国』はなかった」という本に著したのが1971年。「失われた九州王朝」を経て、「盗まれた神話」を上梓したのが1975年だぞ。「盗まれた神話」で古田は徹底的に神武架空説を否定している。1975年には2長沼氏は28歳だったぞ。古田氏が長浜氏説に依拠したなんてあり得ない。
紀元前、倭国が九州・中国地方にあり、近畿には東酉是(トウテイ)国があったので、日本書記で九州から近畿に東征した神武天皇はニギハヤヒのことではないかと個人的に思います。神武東征は九州の話だと思います(九州王朝説)。天武天皇の頃に九州から奈良に遷都したのだと思います(九州火山の噴火が原因)。概して、福永晋三さんの説を支持します。九州説での神武東征は紀元100年頃の話になります。
大王に武力を使わせない。
生島足島神社は長野県上田市にある神社ですよね?確か、摂社は諏訪神社 今でも宮中に生島足島の御祭神が祭られてると何かで読んだことがあります。
アーバンクボタから東征が紀元前50年以前と言える根拠はいずこに? 紀元400年ごろでも生駒山近くまで河内潟(湖)があったとされていますが。
見てないのに、あたかも見たように語るよね。
宇佐や岡田の宮には高天原の仲間がいた。俺は饒速日のところに行くから九州は頼むという相談しに行った。だから即位してすぐ宇佐に近畿以外にただ一つ国造を置いた。対馬には県を置いた。岡田の宮から対馬に渡る海岸線はは天孫族が支配していた。魏の使者が来た頃には倭政権(女王国)の国、即ち邪馬台国が宇佐の近くにあった。邪馬台国は全く別物という貴兄の説はおかしいと思う。
資料の少ない古代史には仮説の領域が大きい。トンデモ説が飛び出してくるのが学問の面白さではありませんか。学問には自由な空気が必要です。それを、自分と意見の違う人達の名前を連ねてこのような場で公開し、GHQにこじつけている。無理過ぎて笑ってしまいましたが、これは誹謗の範疇に入りかねない恥ずべき行為です。研究者としての姿勢が間違っていませんか。田中先生が公開討論に応じないのは相手にされてないからですよ。
天孫降臨は612伝来の大乗仏教系音楽劇の伎楽をモチーフにして描かれている。伝来から150年間は盛況だった。その間に記紀が書かれた。太古の話とその時代のモチーフを組み合わせて描いた。神武東征の浪速の描写も年代の全く異なるモノを組み合わせた可能性がある。
東国の神話 を凡そ まとめたもの 重要 縄文神話 が透けて見えるオトタチバナヒメと東京湾神話 などオノゴロシマ=江ノ島 とか
実証的なお話は参考になりました。但し百田尚樹の日本書紀や神武天皇東征を否定しているとおっしゃってるのは正しくありません。日本国紀では神武東征はあったと書いています。但し年代は2,3世紀とは言ってますが。
🔥グッド☆✨✨✨
自説ですが中国の周王朝の祖の古公亶父の長男の太伯(泰伯)次弟の虞仲(呉仲・仲雍)は日本人の御先祖様です。皇紀はここから始まります。そして子孫は中国から真東にある薩摩硫黄島、そこから真北にある枕崎に定住したのがニニギノミコト。その子である神武はそこから真東北にある日向を目指し、その先も真東北を目指しました。足跡はその方向にある神社を辿ればピタリと符合します。
東征は象徴で 無かった神武天皇は河内の豪族の長
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GHQの占領下における言論統制や検閲を言うのであれば、古事記や日本書紀が編纂された時代的、政治的な背景も充分に考慮に入れるべき。
あなたは古事記や日本書紀を読みましたか? 読んでから判断してください。
@@八咫烏-o9q 私は考察に関して何も判断したつもりはございません。ただ意見を述べさせて頂いただけです。確かに読んでおりませんが、読んでなければ意見を持つべきでないと仰られるなら、どうか無知な者のたわごとしてお聞き流しください。返信ありがとうございました。
天照大御神とは誰なのか。その答えは日本人なら誰もが知る「いろは歌」の中に書かれていますよ。いろは歌を漢字の原文で縦7文字づつにして横(行)へ上段を「以」から左へ「恵」まで読み、そのまま「恵」から「須」まで読むと、〖イセアマラーヤアエ、エビモセス〗となり、つまり〖伊勢(の)天(族)はラー(と&)ヤアエ〗伊勢神宮の天ツ神は「(太陽神)ラー」と「ヤアエ」であり、別名は「エ(ケ)ビ」と「モーセ」だと伝えているのです。ではこの「いろは歌」は誰が書いたのかと言うと、最後に「ん京」と書いて作者は名前を書き記したのです。「ん京」とは「京ん」つまり彫刻家の運慶の事であり、いろは歌の題名を逆(後ろ)から読むと「義音経王勝最明光金」となり〖祇園(の)ケイ(ン)王(は)ショウ(で)最も明るく光るキン〗つまり「ん京」や「京」とは「運慶」であり「ケイ(ン)」だと伝えているのです。旧約聖書の「ケイ(ン)」とはガンダーラのアジア人であり日本人と同族のですよ。そしてこのいろは歌には「ローマ皇帝ネロが咎なくて死んだ事(嵌められた事)、しかも日本に帰って来た事、やイシシス(イシス神)がケイトである事など」も教えています。もちろん普通に漢字の原文で読めば音読み訓読みで二重三重の意味を持たせてその他の事も教えているのです。因みにその「ケイ(ン)」に成り済まし簒奪したのが法隆寺の子供の様に小さな聖徳太子像や大佛(物部、大物主)であり、本物の大国主の系統である聖徳太子像は明治まで白布で隠されていた像であり本物の帝です。
資料を読み間違えたり、意味もなく同じ言葉を繰り返したり、書籍を著すには向いているけれど動画には向かない方のように感じます…炭素 14年代ではなくて、放射性同位体C14を使った年代測定ですよね?地形が現在のようでないのは当たり前ですし、史書の記述はある程度正しいのは間違えありません新しい発見ではなく虚心坦懐に勉学すれば何も不思議ではないこと…今更主張されても、知ってるし、、と感じました
〝間違え〟間違いあります。
これ2年前の動画ですよね?同じ時期に百田尚樹氏は神武東征は銅鐸、銅矛文化圏論をもって結果において事実だったと思うとご自身のチャンネルで考察されてますが...ua-cam.com/video/3oX6Adrf9H8/v-deo.html私自身は長浜氏の説に完全同意してますがこういう勘違い?を残すと氏の論自体の信ぴょう性を疑われると思うので例を出す場合は慎重に裏取りして語って欲しいと思うわけです。
こんな超絶面白い大学の講義みたいなものを無償でみられることに感謝します
わたしは宮崎出身で、宮崎は記紀の神話を大切に県民の誇りのように思っているので、神武東征は信じていましたし、記紀に出てくる地名もあるし、なんで平気で学者は否定するのか不思議でした。宮崎市の市民の森がある阿波岐原には御池(みそぎ池)もあるし。コノハナサクヤヒメに由来する地名として木花地区があるし。
宮崎市田野町の本野原遺跡は、旧石器時代~縄文後期に続く定住集落の遺跡で、縄文時代のコクゾウムシ全国出土の50%にのぼるそうで、4000年前の縄文時代から稲作をやっていた事を証明してます。また喜界カルデラの噴火が7300年前で南九州の縄文人は死滅したとされてるが、そんな事は無い事を示しています。
こういう通史が勉強したかったです…
有難う御座います、私も戦後翌年生まれ、中学1年より武道の師から教わった事が真実であった事、日本の歴史を多くの方々に知って頂きたいと心より願います。
小学校から 教えて言って欲しい
日出ずる国 今目覚める時
教育 から 自国を愛する心
頑張って生きる力が湧いてくる
有りがとうございました❣️
配信ありがとうございます。何度聞いても面白くて納得のいく解説です。謎でしかなかった日本史がジグソウパズル🧩の様に収まっていくのが本当に嬉しい!感謝致します。
やはり、市町村合併や郵便物の住所が長いからと言って地名の変更はしてはならないと感じる。
長浜氏が科学的に神武東征を立証されたことは、日本国歴史の神話を解き明かす手がかりを掴んだに等しい業績だと思います。本を読んだときの確信を思い出します。
山陰で育つと神話に対する認識がちょっと違います
身近に神話に出てくる物がゴロゴロあるわけですから、無かったと言われてもピンときません
大阪の生駒山の麓にそって東高野街道という、京都と高野山を繋ぐ旧街道がありますが、その街道沿いに海に関わるものが発掘されるそうです。弥生時代あたりはちょうど麓のあたりが海岸線だったとか。
12:09あたりで洗脳されたリストの中に東北大の田中英道教授が入っていますが、田中先生は著書『日本国史』で神武天皇が実在したことを詳しく書いてくださっていますよ。
そもそも古文とかって歴史とかと一緒に学ぶことで理解が深まると思うんだけど実際の義務教育の現場では国語、社会(日本史、世界史等)、地理、とかバラバラに授業でやるからなんか違和感ある。
今思うと学生時代は国語の授業内での歴史の話しと歴史の授業内での国語の話しのどちらがわかりやすかったと言えば後者だったなぁ。
砂鉄を選別して取るために山を切り崩して川に土砂を大量に流し、その結果海が埋まってしまった場所が日本中にあるみたいですね
江藤淳氏の検閲についての講義を直接受けられたとは羨ましいです。後に書籍化されましたね。
こころが喜んでおります。ありがとうございます。
現在ではアメリカの中学で日本神話を教えています。
マジですか?
18:38の日本書紀の現代文に「まさに難波碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いた。」とありますが、原文は「方到難波之碕、會有奔潮太急」です。この意味は「まさに難波碕に着こうとするとき、幅の広い速く激しい潮流に出会った。」であって、「大変速く着いた」の意味は含まれないと思います。従って、その潮の流れに乗って速く着いたのか、又は潮の流れに逆らって難儀をしたのかはこの文だけでは判らないと思います。
長浜氏の以後の論旨展開は「大変速く着いた」ことを根拠に、この神武東征を河内潟時代のことと断定されていますが、「潮の流れに逆らって難儀をした」のであれば、後の河内湖時代でも成立するものと考えますが如何に?
こういうのを専門的に学べる大学コンテンツをUA-camに開設してメンバーシップ集めれば絶対に人集まるんじゃないですか??😆😆😆
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現在の学校教育でもしっかりと、日本書記、古事記を教えるべきだと思います。
色々と参考になる話をありがとうございます。ただ一つご確認頂きたいのは、百田尚樹氏が神武東征を否定していると
おっしゃられる部分は、違うと思います。百田氏は自身の著書「新日本国紀」の中で、神武東征を信じると書かれて
おります。ただ神武天皇の在位年が紀元前600年代というのは信じられないと書かれていますが。
神武東征:大阪では、子供の頃、大阪の戦前戦後の習俗も学びます。戦後直ぐまで、北河内や大東市界隈あたりの多くが蓮レンコン・水田に覆われた湿地帯。民は、丘を除いて、小舟で移動していたと。私の子供の頃でも、古びた小舟が残っていました。
つまり、たった何十年前まで、湖ほどではないが湿地(水深2m以上、底ぬかるみ粘土質)が多く...古代の西暦3~4世紀くらいまでなら、底が平らな船で移動は可能だったと推測されます。
敗戦というイベントのせいで都合よく無かった事にされるのは絶対におかしい。旧宮家の件もそう。
当時の海面から逆算した東アジアの地形図を題材に
それで歴史を追求すればもっと話しも早いのにといつも思います
朝鮮半島や北京あたりの気候も逆算して神武以前は果たして人間の住める気温だったかどうかも
大きく通史が覆る可能性がありそうです
文献で左右学派ともゴニョゴニョやっているよりも地理学気象学の力が必要
@abcdef 神武以前、明治以前、昭和以前。。。諡号で大まかな時期の区切りを呼称するのは問題ないと思いますよ
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もっと根拠となるようなものが有れば
教えていただきたいです。
東京や千葉等も今は住宅地やビル街の所でも昔は海岸線が迫っていて貝塚が発見されている所が結構あります。
百人一首の開始は、難波津に~、また、難波潟みぢかき葦の~等海を歌ったものばかりで葦が生い茂る遠浅のぐちゃぐちゃな難波だったのだろうと思います。古代中世の水運は鉄道や車を使う私達とは全く別の世界のロマンを掻き立ててくれます。
この動画で長浜先生が示された神武東征の地図なのですが、地図にある「竈山」の位置が明らかに違います。私は和歌山市出身なのですぐに分かりました。「竈山」とは和歌山市にある「竈山神社」にほかなりません。しかるにこの地図でははるか南の御坊市のあたりにあることになっています。長浜先生の書かれた本にもこの地図が使われているので、かつて出版社にハガキでこの誤りを長浜先生に知らせてほしいとお願いしたこともありましたが、伝わらなかったらしく、長浜先生はずっとこの地図をあっちこっちで使い続けています。この動画制作に関わった方にこのことを先生に伝えてほしいと願ってやみません。私がこの動画を見た時は制作後既に約一年を過ぎていますね。また伝わらないかもしれないのが残念であります。
英語化とか止めて、自国の歴史ちゃんと教えるべきですよ。
何処まで落ちぶれてんだと思います。
百田氏は大阪で生まれ育ちながら地名に気付かれないのは何故だろう
日本・日本人とは、何者か?
中川八洋 著
『超先進国日本』
渡部昇一 著
『かくて歴史は始まる』
ボブ・フィックス 著
『時を超える聖伝説』
千賀一生 著
『ガイアの法則』シリーズ
素晴らしい好い研究です。実証的な研究を下敷きにしている。
長浜先生,勘弁してください。
東北大学名誉教授の田中英道先生は,神武東征は実際にあったのだと強く主張し,卑弥呼は存在しないとも主張している方です。長浜先生は,その先生を日本書紀を否定している人として紹介しました。
事実誤認も甚だしい。
田中英道先生は,神武東征は実際にあったと訴える最も代表的な論客の一人ではないですか。
たいへん失礼です。
正式に訂正し,謝罪してください。
あなたは、田中先生の『決定版 神武天皇の真実』を読みましたか?
ここで氏は訳の分からないことを述べていますが、例えば「第一章 神武天皇は第十代崇神天皇だった」と主張しています。そのくせ歴代天皇の順位と崩御年を記していません。これでは、おそらく読者は第一代の天皇は誰だったのか、分からないと思います。
このような態度を私は「無責任、いい加減、デタラメ、日本の歴史への冒涜、日本書記否定」と考えています。神武天皇は第一代の天皇なのです。
私は「何時でも田中氏と公開討論に応ずる」と言っていますが、田中氏は逃げ回っているのです。
日建設計にいらしたんですね。建物は噓つけません。長浜さんが国史の探究に邁進されているのが興味深いです。
真の国史 有難うございます。
間違った発掘もしたがシュリーマンの執念が、トロイの木馬の遺跡など見つけたと思う。日本の神話も、真実と信じて探せば事実を示す遺跡が出てくるのではと思う。
関門海峡はwikiにもあるよう明治になってから安全航行ができるようになりました。当時は、海峡は繋がっているものの、大型船は無理で、小型船も高潮、ベテラン船頭など好条件で無いと通れなかったようです。
何百、何千人を運ぶとなると、行橋から岡水門は陸路では無いかと思うのですが。
😄お見舞い周り中の休憩でアートレス・クラフトティー&コーヒー店で早見で視聴中です😄
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百田直樹がまたまた証拠の無い
出鱈目[日本国紀2]を出版しました。一昨年、有本なにがしと[水間政憲]さんの事実本から一部をパクった歴史本でした。それがバレたら虎ノ門なんとかという番組で今後一切執筆しないと言明しながら。恥を知れ百田直樹。
長浜さんの本は全て完読しております。すばらしい。
秦氏 京都祇園祭
初代天皇が居なかったと言うのは三菱社員が「岩崎弥太郎は居なかった」と言ってるようなもん←じゃあなんでオマエラ存在してるんだ?って言いたくなる。
6:46 宇佐や岡田宮にわざわざ寄ったのはそこが天孫の祖地(高天原)だったからでしょ、本家への御挨拶と軍勢増強の為に寄ったんかと。
初代天皇がいなかったんではなく初代天皇が神武天皇ではないと言うことを言いたいんだろ。
実際、日本書紀や古事記などの大化の改新以降の歴史書にしか神武天皇の存在は明記されてなく、物的証拠もないんだから。
神話のお話と岩崎弥太郎は違う。
物的にも証拠がある最初の天皇は26代の継体天皇。
歴史的にもミヤケ制、部民制、氏姓制などの大改革やケイタイノミクスなどを執行ったことからおそらく初代天皇と思われる。
藤原氏のライバルであった蘇我氏と大変近い天皇だったので藤原氏が書いた日本書紀や古事記などではしょぼく書いてあるが。
岩崎弥太郎を初代とするか、その原資を作った海援隊の利益と坂本龍馬の資本を、そっくり土佐藩の後藤象二郎から三菱へ、かで考え方は違う。天皇になりすました、アカウントを盗んだルフィが「歴史」には隠れています。「藤原」か「蘇我」か「物部」かあるいは。
説得力ありますね…(-_-;)💧
最近思うのですが、段階の世代前後が一番やっかいな思考を有しているようです。弥生人渡来、アイヌ先住民を頑なに信じています。
古事記によれば 東征の際宇佐に立ち寄り、岡田の宮に立ち寄り1年いた。神武天皇は大倭で即位してから宇佐に国造を置いて、対馬には県を置いている。すなわち北九州には大和に連合する国家があったと考えるのが自然だ。魏の使者が九州の邪馬台国に来たとしてもそれは大和の連合国と考えるのが普通であろう。古事記、日本書紀などの豪族の系譜には真実があり、よく勉強してほしい。
古事記原本を読んで考察されている方が増えてくれるといいのですが。
古事記について書かれている本ではなくて原典をです😊
神武東征の時期はそうなのかもしれないが、実態は全然違ったと思います。
実態は数百人程度の移民集団で、後々大和で権力を握った者のルーツがその集団だったので、移住物語をかっこよくして後世に伝えたのが実情なのだと思います。
つまり移民集団内での言い伝えもとに作った創作だと思います。
なぜ神武東征を否定するのかといえば、武装レベルの変わらない集団が何の正統性もなしに本拠地と離れた別の地域に行って急に支配するというのは他の地域の歴史を見ても不可能だからです。
海神の姫が産んだ子が神武天皇の父と思ってました。
戦後史学を席巻した津田左右吉の唱える神武東征架空説を、
故古田武彦氏が否定した根拠が、長浜浩明先生の説でした。
それ本当か?邪馬臺国は邪馬壹国の誤りとしてきしたのが1969年頃、それを「『邪馬台国』はなかった」という本に著したのが1971年。「失われた九州王朝」を経て、「盗まれた神話」を上梓したのが1975年だぞ。
「盗まれた神話」で古田は徹底的に神武架空説を否定している。1975年には2長沼氏は28歳だったぞ。古田氏が長浜氏説に依拠したなんてあり得ない。
紀元前、倭国が九州・中国地方にあり、近畿には東酉是(トウテイ)国があったので、日本書記で九州から近畿に東征した神武天皇はニギハヤヒのことではないかと個人的に思います。
神武東征は九州の話だと思います(九州王朝説)。天武天皇の頃に九州から奈良に遷都したのだと思います(九州火山の噴火が原因)。概して、福永晋三さんの説を支持します。九州説での神武東征は紀元100年頃の話になります。
大王に武力を使わせない。
生島足島神社は長野県上田市にある神社ですよね?確か、摂社は諏訪神社 今でも宮中に生島足島の御祭神が祭られてると何かで読んだことがあります。
アーバンクボタから東征が紀元前50年以前と言える根拠はいずこに? 紀元400年ごろでも生駒山近くまで河内潟(湖)があったとされていますが。
見てないのに、あたかも見たように語るよね。
宇佐や岡田の宮には高天原の仲間がいた。俺は饒速日のところに行くから九州は頼むという相談しに行った。だから即位してすぐ宇佐に近畿以外にただ一つ国造を置いた。対馬には県を置いた。岡田の宮から対馬に渡る海岸線はは天孫族が支配していた。魏の使者が来た頃には倭政権(女王国)の国、即ち邪馬台国が宇佐の近くにあった。邪馬台国は全く別物という貴兄の説はおかしいと思う。
資料の少ない古代史には仮説の領域が大きい。トンデモ説が飛び出してくるのが学問の面白さではありませんか。学問には自由な空気が必要です。それを、自分と意見の違う人達の名前を連ねてこのような場で公開し、GHQにこじつけている。無理過ぎて笑ってしまいましたが、これは誹謗の範疇に入りかねない恥ずべき行為です。研究者としての姿勢が間違っていませんか。田中先生が公開討論に応じないのは相手にされてないからですよ。
天孫降臨は612伝来の大乗仏教系音楽劇の伎楽をモチーフにして描かれている。伝来から150年間は盛況だった。その間に記紀が書かれた。太古の話とその時代のモチーフを組み合わせて描いた。神武東征の浪速の描写も年代の全く異なるモノを組み合わせた可能性がある。
東国の神話 を凡そ まとめたもの 重要 縄文神話 が透けて見える
オトタチバナヒメと東京湾神話 など
オノゴロシマ=江ノ島 とか
実証的なお話は参考になりました。但し百田尚樹の日本書紀や神武天皇東征を否定しているとおっしゃってるのは正しくありません。日本国紀では神武東征はあったと書いています。但し年代は2,3世紀とは言ってますが。
🔥グッド☆✨✨✨
自説ですが
中国の周王朝の祖の古公亶父の長男の太伯(泰伯)次弟の虞仲(呉仲・仲雍)は日本人の御先祖様です。皇紀はここから始まります。
そして子孫は中国から真東にある薩摩硫黄島、そこから真北にある枕崎に定住したのがニニギノミコト。
その子である神武はそこから真東北にある日向を目指し、その先も真東北を目指しました。
足跡はその方向にある神社を辿ればピタリと符合します。
東征は象徴で 無かった
神武天皇は河内の豪族の長
👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍👍
😊😊😊😊
GHQの占領下における言論統制や検閲を言うのであれば、古事記や日本書紀が編纂された時代的、政治的な背景も充分に考慮に入れるべき。
あなたは古事記や日本書紀を読みましたか? 読んでから判断してください。
@@八咫烏-o9q 私は考察に関して何も判断したつもりはございません。ただ意見を述べさせて頂いただけです。確かに読んでおりませんが、読んでなければ意見を持つべきでないと仰られるなら、どうか無知な者のたわごとしてお聞き流しください。
返信ありがとうございました。
天照大御神とは誰なのか。
その答えは日本人なら誰もが知る「いろは歌」の中に書かれていますよ。
いろは歌を漢字の原文で縦7文字づつにして横(行)へ上段を「以」から左へ「恵」まで読み、そのまま「恵」から「須」まで読むと、
〖イセアマラーヤアエ、エビモセス〗
となり、つまり
〖伊勢(の)天(族)はラー(と&)ヤアエ〗
伊勢神宮の天ツ神は「(太陽神)ラー」と「ヤアエ」であり、別名は「エ(ケ)ビ」と「モーセ」だと伝えているのです。
ではこの「いろは歌」は誰が書いたのかと言うと、最後に「ん京」と書いて作者は名前を書き記したのです。
「ん京」とは「京ん」つまり彫刻家の運慶の事であり、いろは歌の題名を逆(後ろ)から読むと「義音経王勝最明光金」となり〖祇園(の)ケイ(ン)王(は)ショウ(で)最も明るく光るキン〗
つまり「ん京」や「京」とは「運慶」であり「ケイ(ン)」だと伝えているのです。
旧約聖書の「ケイ(ン)」とはガンダーラのアジア人であり日本人と同族のですよ。
そしてこのいろは歌には「ローマ皇帝ネロが咎なくて死んだ事(嵌められた事)、しかも日本に帰って来た事、やイシシス(イシス神)がケイトである事など」も教えています。
もちろん普通に漢字の原文で読めば音読み訓読みで二重三重の意味を持たせてその他の事も教えているのです。
因みにその「ケイ(ン)」に成り済まし簒奪したのが法隆寺の子供の様に小さな聖徳太子像や大佛(物部、大物主)であり、本物の大国主の系統である聖徳太子像は明治まで白布で隠されていた像であり本物の帝です。
資料を読み間違えたり、意味もなく同じ言葉を繰り返したり、書籍を著すには向いているけれど動画には向かない方のように感じます…
炭素 14年代ではなくて、放射性同位体C14を使った年代測定ですよね?
地形が現在のようでないのは当たり前ですし、史書の記述はある程度正しいのは間違えありません
新しい発見ではなく虚心坦懐に勉学すれば何も不思議ではないこと…今更主張されても、知ってるし、、と感じました
〝間違え〟間違いあります。
これ2年前の動画ですよね?
同じ時期に
百田尚樹氏は神武東征は
銅鐸、銅矛文化圏論をもって
結果において事実だったと思うと
ご自身のチャンネルで考察されてますが...
ua-cam.com/video/3oX6Adrf9H8/v-deo.html
私自身は長浜氏の説に完全同意してますが
こういう勘違い?を残すと
氏の論自体の信ぴょう性を疑われると思うので
例を出す場合は慎重に裏取りして語って欲しいと思うわけです。