@TSUYO S 返信ありがとうございます。 「団体列車」は時刻表にも「空席があれば乗車可能」といった旨が記載されていますね。お盆や年末年始には、そのダイヤを活用して臨時列車として運転されていたことは初めて知りました。当時のダイヤはいろいろ工夫されていたことがうかがい知れて面白いです。ありがとうございます。
@TSUYO S 返信ありがとうございます。 私は北斗星に乗車し、ロビーカーや個室から竜飛海底駅を眺めたのをおぼえています。残念ながら降りる機会がなかったのですが、一度降りてみたかったなと思います。非日常的な空間で、大変良い思い出になったのでしょうね。 夜行列車もそうですが、乗り物関係は「運」というか「縁」というものもありますね。
青い森鉄道になった現在よりも本数が少ないのに驚きました…😳今は朝7時台に普通列車が4本あったりして、通勤通学に使いやすいダイヤになっていますが、当時は長距離列車が中心だったんですね!それにしても「普通上野行き」は衝撃です…!
長距離列車や青函連絡船も恋しいですが、現在の地元民に寄り添った運営にも好感がもてます🥰
出だしから普通上野行きの破壊力よ…
@SEPT MEGANE
ご視聴とコメントありがとうございます。
ほぼすべての列車が長距離運用で、この時代の普通列車のオーラはすごいものがありますね。
このころの時代は普通列車だけでめっちゃ面白い
@@pifuku_channel さん
私が中学の教科書で読んだ、青森出身の作家三浦哲郎(テレビドラマ化された「繭子ひとり」等)のエッセイに、特急列車に酔ってしまった愛娘と普通列車の思い出が綴られていました。
上郡行き普通もあったぞ 到着は翌々日
@@ななしうたひと さん
もしかしたら、奥羽線・羽越・北陸・東海道線経由?
1964年3才のころ札幌から盛岡まで、1才になる妹と母親と出かけた思い出があります。青函連絡船に乗り込むとき煙突の「エ」マークが記憶に残っており、本州にわたってからは、
SLと多分DLのプッシュプルの映像の記憶があります。多分急行以下の列車の旅だったと思います。自分は小柄の利点を生かし前列に曲紛れ込み先に乗り込み座席を確保した記憶があります。
宇都宮住みです。はつかりと言う名前が物凄く好きでした。新幹線開業で特急が無くなって悲しいです。大昔の話しですが。
@かわ
ご視聴ありがとうございます。
新幹線の開業で、在来線の列車のバリエーションが大きく減ってしまいましたね。優等列車がやってこないと、なんとも言えないさみしさがあります。
コメントありがとうございました。
6時22分の上野行の鈍行が凄いですね。翌日の早朝の4時30分着ですから。国電乗継で東京、新宿、両国とかに行く旅客の便を図って居るのかなと、素人考えしました。
次の8時01分も上野着5時39分ととんでも無い位の早朝着でビックリ。
上野行は、優等列車は昼行は早朝の「はつかり」号だけで、後は、夜行の急行列車が主体なんですね。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
山手線外回りの上野駅始発は4時25分でその次は4時43分でした。確かに乗り継ぎは便利ですね。
仰る通りで、夜行列車は急行しかなく、特急がないことが私も意外でした。青函連絡船との乗り継ぎもしっかりと考慮されており、よく練られたダイヤだなと、読むたびに感心します。
いいですねー、普通 上野行き。
15時03分 大畑行き、高校生まで大畑駅近くに住んでました。もちろん国鉄時代から。
九州人です、興味深く拝見しました。 1910の「団体」これは修学旅行や集団就職列車でしょう。 表示されているのは帰省やその帰りの臨時列車の輸送があるからですね。 繁忙期は「品川行き」(山の手貨物線経由)もあったことでしょう。 一番期待したのが最後の「八甲田」で我が「霧島」と並ぶ看板列車ですね。 仙台にスハネ302122を撮影に行ったときに「八甲田」で運用されたと説明がありました。 中途半端な区間、と思ってましたがのちに知り合った仙台出身の知人に「遠いよ」と聞いてなるほどと思いました。 古い時刻表を見る楽しみが増えました、ありがとうございます。
@まさと
ご視聴ありがとうございます。
お褒めの言葉も頂き、大変ありがとうございます。
「団体」列車は、繁忙期は品川行も走っていたのですね。
走行経路も教えて頂きありがとうございます。
東京ー鹿児島を約26時間半かけて結ぶ「霧島」も魅力的な列車ですね。
「八甲田」と違い食堂車も連結されているのも良いなと思います。
どちらの列車も、是非一度乗車してみたいなと心から思います。
コメントありがとうございました。
団体列車と言うのは今のJTBなどの旅行会社が首都圏から北海道への観光ツアーを組み立て、その団体客を乗せる趣旨で作られたものと思います。他の地域にもありますが、空席があれば利用できたのではないでしょうか。お盆や年末年始にはそのダイヤを活用して臨時列車として運転されていたことと思います。
@TSUYO S
返信ありがとうございます。
「団体列車」は時刻表にも「空席があれば乗車可能」といった旨が記載されていますね。お盆や年末年始には、そのダイヤを活用して臨時列車として運転されていたことは初めて知りました。当時のダイヤはいろいろ工夫されていたことがうかがい知れて面白いです。ありがとうございます。
普通一ノ関行きですらすでに破壊力高すぎる
ご視聴とコメントありがとうございます。
一ノ関行きでも、まだまだ序の口と言えるような顔ぶれですよね。
東北の雄はつかり
1964年当時はキハ81のブルドックボンネット気動車で常磐線経由だった
1968年改正後は電車特急として東北本線を縦断した
1982年東北新幹線開業に伴って盛岡始発に短縮して2002年東北新幹線八戸開業に伴って廃止された
客車→気動車→電車と3種類の車両を走った東の名特急だった
(もうひとつは関西~西鹿児島の特急なは)
@政弘樹
ご視聴ありがとうございます。
キハ81は、登場当時は故障が相次ぎ、色々と揶揄されたこともありますが、
「特急はつかり」として堂々とした活躍をしていましたね。
仰るように「なは」も気動車、電車、客車と変化していった特徴のある列車ですね。
コメントありがとうございました。
【かもめ】も客車→気動車→電車から新幹線に出世しましたな。(・ε・` )
@クモハ165
コメントありがとうございます。
「かもめ」は順番に、着実に出世していきましたね。新幹線の名称のルーツを探ってみると、色々と発見があり楽しいですね。
関西から新幹線🚄でも青森まではかなり時間がかかりますね?昔青森から大阪迄白鳥で帰りましたけど12時間ですね。やはりかなり寝台列車が必要かなと思いました。ありがとうございました。
ご視聴とコメントありがとうございます。
関西から北海道や青森へ行くとなると、やはり飛行機が優勢ですね。ですが、寝台列車で北海道に行くときの楽しさは飛行機では味わえませんね。もう一度乗りたいです。
青森~盛岡間でも普通列車で6時間もかかっていたのですね。
@はつかり9号
ご視聴とコメントありがとうございます。
青森~盛岡間は約200㎞。第3セクター化した今でも約3時間30分で移動することができるので、当時はゆっくりと走行していたのだなと思いますね。
@@tomoyankun さん
当時は、仙台以北が非電化だったので、「C61」等が客車列車の牽引に充てられていました(盛岡以北は急勾配区間が有る為前補機にD51を連結)
早発の急行列車には食堂車があると思いますが、遅発の急行列車は夜行なので寝台車と食堂車の両方があります。 そして、青森駅はフェリーターミナルのすぐ隣にあるので、函館からの国鉄フェリーが到着してすぐに出発する時間になっています。
ご視聴とコメントありがとうございます。
乗車する人の利便性であったり、乗り継ぎがしっかりと考慮されていたりしていたことがわかりますね。
年金受給者の父親が中学生当時浅虫温泉駅近くの浅虫中学校(現在の浅虫水族館)に登校中に踏切でいつも青森発上野行きの普通列車を見ていたと言っていました
@ザッキーざっきー
ご視聴とコメントありがとうございます。
浅虫温泉で朝の登校中に見ておられたということは、青森6時22分発の上野ゆき(112レ)か8時1分発の上野ゆき(212レ)のどちらかなのでしょうね。
実際に見たり乗ったりというお話を聞くと、その列車が本当に走っていたのだなと感じ、すごく感慨深いですね。
東海道では新幹線が開通すると言う時代であっても東北本線の長距離輸送は数本の客車急行が中心、しかも青森から上野へは夜行が当たり前と言う時代だったことと思います。はつかりやみちのくは青函連絡船の夜行便を受けるダイヤで青森からの実用には向かない(市内から早朝に青森駅に行ける手段がない)ものでしょうし。
機関車と連絡船の汽笛が絶えず鳴り響いていたであろう当時の青森駅の光景が頭に浮かびます。
@TSUYO S
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
仰る通り、新幹線開業後は東海道本線と東北本線で全く様相が異なってきますよね。1964年9月時点でも、一方は全線電化、一方は非電化区間ありと、設備面でも大きく違っていますね。
確かに、青森からの上京手段は早朝の特急か夜行列車しかありませんね。8時か9時に青森を出発しても当日中には上野駅に到着することは可能だったと思いますので、日中に移動する需要が少なかったのかな? と思います。
当時の青森駅に降り立って、行き交う列車や人を眺めてみたいですね。
この時代、仙台や盛岡から上野へは昼間の列車が存在したものの青森までは客車の急行で13時間以上かかっていたことを考えるとやはり夜行だったのでしょう。
青森発の昼間の上野行き特急はヨンサントウまで早朝のはつかりだけでしたし。数少ない急行列車はかなりの混雑時だったことと思います。
私事で恐縮ですが、青函連絡船は乗りたかったですが、ラストランと大学受験が重なりました。当時のJRの広告を見て試験が終わればあの連絡船に乗れると思い受験に挑みました。
ところが試験が終わっても国立大学の発表まではダメと親から釘を刺され乗船できず。合格はしたものの34年経った今から考えてもあの時乗っておけば良かったという気持ちが残っています。フェリーとは違う人情溢れる光景を楽しみたかったです。
仰る通り、あまりに時間がかかるため、寝ながら移動する方が効率的であったのでしょうね。
青函連絡船に関しては残念でしたね。できなかったことへの後悔はいつまでも悔いが残りやすいと言いますし、大変残念なお気持ちが強いことと思います。夜中や早朝に乗り換え北海道に向かう、あるいは北海道から出ていく人たちと同じ空間を共有したかったです。
@@tomoyankun さま
青函トンネルは2往復利用し、一回は竜飛海底駅からケーブルカーで青函トンネル記念館に行きました。凄いものでしたね。その後は北海道は時間優先で飛行機ばかりで鉄道は利用しておりません。
青函連絡船は乗れず、北斗星はチケットが発売日に取れずに乗れなかったことを考えると自分にとって北海道の鉄道はつくづく運が無かったのかなと思います。デビューしたてのサンライズ瀬戸ですら取れたのに。
@TSUYO S
返信ありがとうございます。
私は北斗星に乗車し、ロビーカーや個室から竜飛海底駅を眺めたのをおぼえています。残念ながら降りる機会がなかったのですが、一度降りてみたかったなと思います。非日常的な空間で、大変良い思い出になったのでしょうね。
夜行列車もそうですが、乗り物関係は「運」というか「縁」というものもありますね。