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今の若い鉄ちゃんが見たら狂喜乱舞するような夢の世界。それが当たり前にあったことが今はもう信じられない。
@@conspiracy_shine 思想強すぎ()事故ったり突然死したり恨み買って563れたり人生に絶望してCheckoutしない限りお前も年寄りになるんやで
一日撮り鉄やろうと思ったらフィルム36枚撮りで何本いるかなぁ・・・・・
こんな特急や急行の合間に普通が走るようなダイヤの中で親が宇都宮から浜松町まで鈍行で通ってたのは凄い…
当時の高崎線・東北本線の中距離電車は、上野〜大宮を後続の特急からギリギリ逃げ切るダイヤが組まれていたので、ゴーサントオ以降は特急がスピードダウンしていたとはいえ、115系の性能で限界まで飛ばさなければならず、大変だったと聞いたことがあります。
特急と京浜東北線が並走している時、京浜東北線の方がスピードが速かったですね
@@ハヤトシ-j5j 現在の中央快速線のような感じですね(最高速度は快速系100km/h、特急95km/h)。1978年10月ダイヤ改正以降、上野〜大宮は線路容量の関係で平行ダイヤが組まれていたので、優等列車が普通列車のスピードに合わせていたことによりますね。普通列車は上野〜大宮で尾久、赤羽と停車しますが、特急は大宮までノンストップ(一部は大宮通過)でしたのでね。
@@ペペ-q4l 時間帯によっては普通列車でも浦和駅を通過してましたね幼少の頃、浦和駅の3番線4番線は普通列車が停まらないのに何でホームがあるのか不思議に思いました
当時付き合っていた彼女が会津出身で、良く上野駅まで、見送りや迎えに行きました。新幹線が無かった頃の上野駅は朝から夜まで、色んな列車が出入りしてホームも活気が有りましたけど、今は寂しい限りですね。あの頃が懐かしいです。
今は無き列車が満載で面白いですが、今も頻繁に運行している小金井行き、籠原行きがこの頃から有るのも面白いですね。昔から運行の拠点だったんだなぁ。
この頃のこの界隈は115系近郊型電車で、上野へは15輌編成でやって来るが、小金井・籠原以遠は11輌編成に減車。
正面改札口の上に木の札が、たくさんあった理由が、良く分かりました♪
新幹線は素晴らしい技術だとは思うけど...この大量の特急を車窓をのんびり眺めながら乗れたと思うと凄い羨ましい
当時、学校が休みの日になると父親の安いカメラを借りて上野駅に行って撮影してました。でもフィルム買うのも現像するのもお金がかかるからシャッター切るのもかなり慎重になりましたね。デジカメを手にした現在、もうあの頃の列車は無くなってしまった・・・。
自分も父から安いカメラを借りたクチです。買ってもらったフィルムは12枚撮。それでも旧客と並ぶはつかり、急行まつしま・ざおうに並ぶ帰省客の写真は「写しておいて良かった!」
こうしてみると、ヘッドマークという地域限定のプレミア感は素晴らしい発明。それをみるために、集まる人もいたわけで。
この頃、上野や大宮に写真撮影によく行きましたね♪こうみると凄い優等列車の数、そりゃ何時間いても飽きない筈だ。反面、自分は宇都宮沿線だったが普通列車こんなに少なかったんだ・・・昭和63年から都内に通いだしたが、こんなに本数少なくなかった。
84年ダイヤ改正と86年11月ダイヤ改正で普通列車大増発しましたからねその分在来線優等列車が激減したってことになりますが
@@HMikimoto さん東北・上越新幹線の上野延伸で、特急・急行が削減された影響もあったようですね、その代わりに、新幹線の不便なエリアを結ぶ、新特急「なすの」「谷川」「草津」「あかぎ」等が誕生しましたっけ。
国鉄華やかかりし頃の懐かしい風景が甦って来ました。上越線五日町駅の近くに住んでたのでこの頃はひっきりなしに列車が走っていました。今は無人駅になってしまった石打止まりの特急があったなんて今の子供たちには想像できないかも。ちなみに自分はこの頃小学4年でした。地元の五日町も無人駅になってしまいました。寂しい限りです。
米山正さん恐らく石打行きは、スキー客用の臨時列車だったと思いますよ。
常磐線普通土浦行きは22:32だけ。土浦に車両基地が無かった時代ですね。この本数で北関東から東京通勤するのは大変だったでしょうね。
72年生まれですが、谷中にお墓があって鶯谷駅からひっきりなしに行き交う長距離特急にワクワクしました。1人で旅行する頃には盛岡まで新幹線が開通してしまいましたが急行「八甲田」や「津軽」を全線乗り通して旅行したのは良い思いでです。もう移動時間を楽しむ旅行は簡単には手に入れられない時代なのかも知れませんね。
2:34の10:13の列車は、このほんのちょっと前までは、一ノ関行きの客車普通列車だった。EF57が牽引していた。客車はドアや、車端部の連結ドアを開けたまま走っていた。懐かしいね~!よく乗ったよ。
とても良い動画感謝します。当時を詳細に思い出すことができました。北千住駅をキハ車両でディーゼル爆音上げて高速で通過した「急行奥久慈号」がとても懐かしいです。
曳舟少年さん「奥久慈」は、上野ー水戸は「ときわ」と併結(その関係で「ときわ」もディーゼルだった)水郡線は普通列車扱いだったようですね。
常磐線のDC急行って、比較的平坦線区という事で1エンジン(キハ28キロ28・180馬力)車両が主体だったようだ。最高速度が95Km/hだったから、通勤電車にも煽られる可能性があったから、南千住過ぎた辺りからは爆走だったと想像できる。
これでは普通列車の増便は難しいですね、新幹線を建設するのは必然だったと思います。でも上野駅の低いホームに並ぶ特急と改札口に掲げられた短冊のような行き先表示は壮観でした。
雪の付いた夜行列車を写真に収めたくて、良く父に朝の上野駅に連れて行って貰ってました♪
1日中駅にいても飽きない
懐かしいなあ。当時10才、まだ東北新幹線開通前で、岩手や秋田にある両親の実家に行くときに、おふくろに手を引かれて、急行いわて、特急はつかりに乗った記憶があります。また、親父に頼み込んで、夏の朝早くに上野駅に連れて行ってもらい、到着する夜行列車を撮影していましたね。新幹線で移動は大変便利になりましたが、それと引き換えに無くなったものたちですね。またあの頃に戻ってみたいです。1日いても飽きないだろうなぁ。
各駅停車はほぼ1時間に2本程度、尾久や東大宮(当時土呂駅など無い)はローカル線に近い。でもそれで乗客が捌けた。貨物列車と485系ばかりで115系が来ると珍しく思えた、植竹踏切で眺めた小学5年生の冬。
普通列車が少ない分、鉄道に並行する路線バスが多く存在しましたね。今でも元気なのは、東武バスの大宮〜上尾くらいでしょうか。
特急の本数も凄いですが、普通列車も長時間運転がなかったり、かと思いきや数分間隔で来たりというダイヤで凄まじい状態ですね。
23時台からが鉄ちゃん大歓喜ですね!
夜行列車の数すごいし、正月はスキー列車が目白押しだから、時刻表も見ていて飽きない。特急新雪(幕張183系)や、急行石打スキー(12系/14系座席の9-12両)は高崎二区のEF58牽引。
この頃になると記憶ある列車も増えて、なおさら懐かしさを感じます。昼行の急行おが奥羽本線経由秋田行きは、全線電化区間を走るキハ58系長編成が板谷峠を越える列車でした。
板谷峠を補機無しでゆっくりと登って行く姿を見たかったですな。(・ε・` )
恐らく、国鉄の経営が厳しく高価な交流直流電車の配置が困難になっていて、いわゆる架線下DC急行が多かった時代ですね。
【赤倉】【しらゆき】【出羽】とかは最後まで非冷房車もあって、真夏の繁忙期とかはお尻にあせもが出来そうですな。ι(´Д`υ)アツィー
@@クモハ165 さんキハ28・58の初期型は、非冷房車両が多く(北海道仕様のキハ26・56を含む)その後冷房化改造された物もありましたが、東北・北信越には非冷房で残った物が多かったんでしょうね。
@@原田寛-e3u さん 九州や四国にはキハ65があったので、勾配区間でも冷房化できたというのもありますな。房総みたいに平坦路ならばキハ28をはさめるでしょうが、勾配の多い東北ではキハ58だけの編成になるのは仕方がなかったでしょうな。(ヽ´ω`)爆音とともにゆっくりと発車して、速度がのってから少し間があって直結になる感じは国鉄型気動車ならでわで好きですが。
1日中ホームで見てても楽しそう😍
確かに懐かしいですが当時の中電は最悪でしたよ。本数少ないから日中でも大混雑。喫煙可なのでタバコの煙がすごいし。あと中電で必ず遭遇する昼間っからワンカップ飲んでスルメ食ってるおっさん達。タバコ臭と相まって車内は激臭でした。
東北新幹線開業前の上野駅黄金時代の時刻表ですね見ていて涙が出てきました
普通列車より特急・急行が多い時代で、きっとこの頃に上野駅にいたらカメラのフィルムが何本あっても足りなかったでしょう。先日、石打に行った時、使われなけなりレールの剥がされたホーム、広い待合室が、この時刻表の時代、列車で旅をしていた時代を物語っていました。貴重な動画、ありがとうございました。
懐かしいです。子供の頃、親に連れられて、里帰りに赤羽駅の4番線から高崎線へ乗車した事を思い出しました。東北線と高崎線が交互に来て、東北線だと、親に『これじゃないよ』と言われたモノです。
当時、遠距離恋愛していたから夜行列車に何度も乗って会いに行ったなあ。津軽、十和田、八甲田とかね。青春していたな。
当たり前ですが、「あさま」は電気機関車繋いで普通に碓氷峠超えて横川→軽井沢→長野を直通していたんですね。感慨深いです😢
今のいわき駅が平駅時代の時刻表ですね。あと、特急ひばり、急行八甲田乗ったなー。
この頃の東北本線、高崎線の普通列車は浦和駅を通過していた時間帯がありましたね
むしろ、浦和通過が標準だった。
産まれる少し前とはいえ懐かしさを感じます。
5:06つばさの福島から先の停車駅は以下の通り。福島ー米沢ー山形ー天童ー(一部: 楯岡(現村山))ー新庄ー湯沢ー横手ー大曲ー秋田上野〜秋田間の所要時間約8時間弱。
当時の時刻表を元にして、今の新しいレイアウトの動画として作るのはすごい。私は昭和56年生まれなので、同世代の時刻表だ。
懐かしい・・10分あっという間でした!
上野発の特急急行のオンパレード東北、上信越、北陸と多彩に躍動昼も夜もひっきりなしに走り回った
家族で軽井沢に行く際には、お昼前に上野駅を出発する特急白山を利用。横川駅に到着する前に食堂車へ移動。食事をしながら車窓から碓氷峠超えを見物。丁度食べ終えるころに軽井沢駅に到着。帰りは特急あさまで横川駅で「峠の釜めし」を買うのが定番でした。今では横川駅~軽井沢間は廃線になりましたが、今となっては、とても貴重な体験だと懐かしんでいます。
東京近郊でも普通列車の本数が汽車なみだったんですね、この頃でも。
懐かしい時刻表ですね
東京から西の80年代ダイヤも楽しみにしてます。大阪・京都発の80年代も待ってます。
この頃は時刻表マニアでした。たまに行く上野駅の雰囲気は小学生ながら特別なものを感じました。今は通勤で上野駅を使いますが、寂しいの一言です。
ロマンの塊です
今基準に考えると普通列車が少なすぎるのに驚愕
もう遠い記憶なんておぼろげなんだけど、大昔、仙台に行くのに23時過ぎの急行に乗った事があって、動画見た感じでは多分まつしま11号かも。だいぶ早朝に着いたの覚えてます。455系だったので多分まつしまです。
そうですね。私も80年に、まつしま11号で仙台へ行ったことがあります。確か仙台着が7:05頃でした。
@@hideyoshizb 懐かしいですよね。
キャンディーズ引退の後楽園球場ライブの日に、小諸から上野まで特急「あさま」に乗車しました。いや、ライブには行ってませんでしたけど💦そういうエポックメイキングな日なので覚えてます。
0:18 喜多方行の直通急行があったとは…。今ではなかなかあり得ない行先ですよね。
新幹線ができる前の時代は在来線の特急・急行・普通列車ともずいぶん行き先のバリエーションが多かったんだな。大宮近辺の住民なので高校生の頃に通学途中に大宮駅で電車を待ちながら色々な列車を眺めていたのが懐かしい。「湯田中」行きってどういうルートなのか不思議に思ったり、冬場は金沢あたりから来た列車に雪が積もってたりして。でもこの頃は高崎線や東北線の普通列車が昼間30分間隔で、特急・急行を2~3本見送ってからようやく普通列車が来る感じだったのが不便だったから、普通列車の本数の点では今の方が格段に便利ですけどね。
当時、長野県更埴市(現:千曲市)の信越本線(現:しなの鉄道)屋代駅より、長野電鉄河東線(後に屋代線と呼ぶようになった・・・2012年廃線)が須坂駅(長野県須坂市)まで通っており、須坂から長野電鉄長野線(長野~湯田中)と合流し、湯田中までのルートがあり、屋代駅先より、JR線が乗り入れ可能でした。当時は、東京から乗り換えなしで、湯田中温泉・渋温泉や志賀高原入口まで行けたので、観光客には大人気でした。新幹線開業後、長野電鉄屋代線は廃止になり、信越本線は、しなの鉄道になったため、二度とない貴重なルートです。今は、東京からですと、新幹線で長野駅に来て、長野電鉄長野線に乗り換える事になります。ご参考になれば幸いです。
長野電鉄にロマンスカーが走っているのを見て、東京から直通しているのかと思う人もいるようで。(ヽ´ω`)チガウヨ!
本数と、区間が変わりましたがそのまま残っているのは仙台までの ひたち くらいかなあと いなほ
3:28はつかりの仙台から先は以下の通り。仙台ー(一部: 小牛田)ー一ノ関ー(一部: 水沢、北上、花巻)ー盛岡ー(一部: 一戸、北福岡(現二戸)、三戸)ー八戸ー(一部: 三沢、野辺地、浅虫(現浅虫温泉))ー青森上野〜青森の所要時間、約8時間半。
22時32分やっと出てきた土浦駅行き
L特急が1時間おきの同じ時刻(1時間とは限らない)だったのは有名でしたが、昼間の高崎線の各駅停車もそんな感じだったんですね。毎時26分と56分です。
こう見ると、今は新幹線で長距離列車がなくなっていて寂しさを感じる。
いわきが平、懐かしい柏に引っ越して平ってどこなんだろうって、中学に上がってまだ時刻表を手にしたこともなく地図帳にも載ってない。特急停車駅の柏も中距離電車は日中しか止まらなかった。15:13平行は客車列車で松戸まで汽車旅気分が楽しめた。
この企画楽しく拝見させて頂いてます、有り難う御座います。それとリクエストもあります、難しいとは思いますが出来ますれば最終到着地とその時間とかも分かると嬉しいです、多層立の列車は分割なので大変だとは思いますがスイマセン余計な事でした。今は鉄道で首都圏や遠隔地迄の移動本当に便利になりました。そう言えば当時を振り返る者として自らの思い出でです😂当時は仙台でも早くても4時間以上かかり、行楽時期や年末年始などの移動は上野駅ホームに何時間も並び座り心地の悪い直角クロスシートに積み込まれ(笑)しかもこの頃の自由席ともなると本当に満員で床に新聞紙引いて座るとか,基本身動きなど取れず運が悪いと車内にタバコの煙が霧の様に漂うこともありましたね確か旧型車両の急行鳥海でした、空調は扇風機や窓全開、扉も結構開いてました。だから列車急行のグリーン車や電車急行、L特急などの冷房車は本当に良かった。でも列車急行の能登号や越前号、電車急行の佐渡号、磐梯号、あずま号にDC急行の飯豊号、阿賀野号、出羽号どれも随分乗りました。本当に大変でしたが良い思い出でもあります、それでは
東京駅よりも上野駅が楽しかったいい時代…。
3:59急行あいづ→特急あいづ(途中停車駅: 上野ー大宮ー宇都宮ー黒磯ー白河ー郡山ー磐梯熱海ー猪苗代ー会津若松)
ひたちとひばりは良く同時発車してましたね。あさまとときはダイヤ上は三分続行、その後ろに補完する佐渡や信州等の急行が続行って言うのがパターンだったんですね。上信越速達列車は高崎までこのままかな?東北本線はひばりとはつかりやまびこが続行、ばんだいまつしまざおうあたりの補完急行列車が更に続行、仙台まで追いかけっこかな。尾久駅に居たら時間を忘れそうだ。急行列車の多層建て運行で支線までくまなく運転して特急が通過する駅にも停まって補完するのは、国鉄のダイヤ編成の美点だったと思う。
まだ普通列車が30分ヘッドの頃ですね。ここから20分ヘッド、15分ヘッド…そして池袋系統を加えた1時間5本体制、湘南新宿ライン本格開業による1時間6本体制、そしてコロナ禍などによる減便へ。普通列車の運転間隔も随分変わりましたね
2:36やまびこの仙台から先は以下の通り。仙台ー小牛田ー一ノ関ー水沢ー北上ー花巻ー盛岡上野〜盛岡の所要時間は約6時間半。
はつかりに譲った分もその停車パターンだったんででしょうね。
高崎駅バージョンもやってもらいたい…
まさに北の玄関口
10:43普通日光行き懐かしい
・さん恐らく、115系か165系(「なすの」の間合い運用か「日光」の格下げ)でしょうね。
1曲目がめちゃくちゃ好き
間違えていたらすみませんが。。8:03つばさ1号(485系)9:03臨時のつばさ51号(14系)12:03つばさ3号(485系)13:33 つばさ5号だと思うのですが。。どれも、利用したことがあるものですから気になりまして。
上野駅にまた仙台行特急ひたちが復活して嬉しい! いつか乗り通してみたい
5:11 15時06分発のなすの55号水戸行、入力ミスでしょうか?
今だと常磐線の特急が仙台まで直通で行ってるくらいやね…
特急 平行き 今は いわき行きを 忘れないでやっぱり 駅名変わるとだいぶ 印象変わるよね
皮肉にも震災のお陰でいわきでの系統分割を免れました。
東北、高崎形と常磐の同時発車好きでした。
あさまとひたち/スーパーひたちが同時発車していたのは見たことありますが、当時はひばりとひたちが同時発車だったのでしょうね。
動画興味深く拝見。本数が多すぎて冗長ですが東北・常磐方面の夜行列車を見るにはこの方がいいのでしょう。上野始発の日光行と急行まつしま1号は東海道線の夜行列車から乗継いで利用しました。この当時は弘前に転じて急行八甲田や津軽1号を利用していたかな。はつかり11号が上野15時30分発になっているから、電車特急が宇都宮、高崎まで減速運転する時代になっていたと思います。翌1981年に尾久駅近くに転居しました。普通列車が今のように本数がなくて都電荒川線、京浜東北線を利用する方が多かったですね。
常磐線の普通は平まで行くのが多かったですね
6:15発の高崎行き普通列車は、高崎機関区所属のEF58が牽引する旧型客車だったような記憶が…違ったかなぁ
私が高校生だった時は、EF62+12系でした。
ん?急行あいづ?・・・このころはすでに特急だったような・・・あと、新星は、当時すでに数少なくなっていた寝台急行だった。それにしても、今では考えられない、トリッキーな設定もありますなぁ・・・(東北本線経由八戸・弘前行きとか、東北本線経由勝田行きとか、高崎線経由小山行きとか)
両毛線や水戸線といった地方間路線も駆使してましたね。
普通の後の特急のスレスレ具合尾久・赤羽の次が大宮だったとは言え、多分特急が信号に引っかかってノロノロ汗
1980年10月の時刻表によると、一部を除き上野から大宮まで25〜27分、高崎、宇都宮まで80〜85分程度ですね。
私も作ってみたいのがあるのですが、リクエストしても良いですかね。海水浴臨全盛の房総夏ダイヤを(錦糸町または千葉駅基準で)
急行おががすごいですね。朝から走って何時間かかるのやら。
8時33分発はつかり3号 (485系12両) 途中停車駅大宮-宇都宮-郡山-福島-仙台-一ノ関-北上-盛岡-三戸-八戸-三沢-野辺地-浅虫12時33分発はつかり7号(583系13両) 途中停車駅大宮-宇都宮-郡山-福島-仙台-一ノ関-水沢-花巻-盛岡-一戸-三戸-八戸-三沢7号が1980年7月26日(日)3号が1981年の夏休みに上野~三戸まで2年連続で乗ったのが思い出に残っています。
うわ~ まるっきり、テレ朝ドラマ「鉄道公安官」の時代じゃん!
このときの上越線経由新潟方面行きの一部が新宿口に振り分けられてJR化後に快速ムーンライト、そしてムーンライトえちご号になったのかな。上野発村上行き急行佐渡号が特に臭いますね。車両も165系ですし
「高崎(東北本線経由)」「勝田(東北本線経由)」とかいうパワーワード屋代から長電に直通して湯田中まで行くのは熱いですよね熊谷から秩父鉄道に直通したり
昔はローカル私鉄への乗り入れは珍しいもんではなかった。東北筋以外では大井川鐵道や富山地鉄にも頻繁に乗り入れしてたよ。
@@mako9574 かつては681系が富山地鉄に乗り入れていましたね。その関係で和倉温泉行きが9両、富山行きが3両とかいう事態になっていましたが。
四角のパックのお茶、冷凍みかん、列車名と行き先の書いてあるぶら下がりのボード
当時は中距離普通列車は上野駅でさえ各方向昼間2~3本程度の列車ダイヤだったようですね。貨物線が別にあっても線路容量ギリギリ。途中数キロまでは3複線や複々線だったりするのが救い。大宮や取手始発の下り普通はあったのでしょうか?
大宮始発はそこそこあった記憶があります。取手始発は無かったような…普通列車が少なかったので、鉄道に並行する路線バスが多く存在しました。地域輸送のかなりの部分を、地域のバス会社が担っていたのです。
こんばんは😃🌃両毛線の沿線住民です🚋10:23と12;06に急行「あかぎ1号」小山行(高崎経由)が二度登場しますね。12:06は、急行「いわて1号」・「ばんだい5号」盛岡・喜多方行かと思われます。19:23急行「あかぎ5号」「ゆけむり11号」桐生行(高崎経由)・宇都宮行は、前橋行・水上行かなと?特急「はくたか」(上越線経由)かなと?でしゃばりまして、すみません。
ダイヤを見ただけでも、東北の玄関口と呼ばれていただけありますね。特急あけぼののルート、今現在、建設候補に上がっている奥羽新幹線と同じですね。もし建設された場合、「あけぼの」の名前を付けてもいいと思います。
「あけぼの」とは、いかにも朝らしくて夜行に使われていました。だから難しいかも。でも、上越新幹線で「あさひ」が使われていたので、なんとも言えませんね。
@@トドの祭り-u5n さん【あさひ】は朝日連峰に由来していかと。(*´ω`*)
新幹線開業前で在来線特急、急行が多数、撮り鉄も多かった時代、さらに夜行列車が東北、上信越方面多数、周遊券があったからこそこれだけあったと思います。現在は新幹線、ビジネスホテルの開業ラッシュで夜行列車もなくなり、夜行高速バスも東北より関西方面に集中、現在のバスタ新宿の関西方面夜行高速バスの便数が、かつて上野駅の夜行列車を思い出します。
20番線まであった時代ですね
上野でワクワクしながら飽かず眺めていたあの頃にドンピシャ‼️なんという俺得動画なんだありがとうございます。当時の上野駅は、本当にワンダーランドだった。地味に目玉は、1日2本の「普通 仙台行(常磐線経由)」これ旧型客車をEF80が牽いてたんですよねー。田舎が平だったので、実際に午後便に乗ったこともあります懐かしい。
時刻表の列車番号コード (末尾のDやM)を入れてくれると気動車か電車か客車列車なのかがわかって妄想がさらに膨らんでいいのですが……。
個人的には臨時列車が特に気になりますな。(*´・∀・)ナニガクルノカ?
やまびことはつかりの停車駅が今の新幹線とほぼ同じだ…
当時の普通電車で平(いわき)とか黒磯とか長野って相当ロングランやなその時代行ってみたいなぁ
3月のダイヤ改正まで上野東京ラインで熱海発黒磯行きはありましたけどね…
深夜の急行長野行きは、時刻表の本片手にゆっくりと早朝到着だった…
やっぱり通勤路線でこの普通列車の少なさは致命的ですね。
Nobutaka Imaiさん山手線は、別枠でしたからね、
大宮始発で、宇都宮・高崎方面の普通列車もありました。大宮まで、京浜東北線を利用した記憶があります。
上野駅って19番線まであったんだね
深夜のスキー列車に時代を感じます。
今は夜間高速バスでゲレンデ直通で行けますが、この頃のスキーブームがスキー🎿⛷旅行の期間商品の元祖なんでしょうかね?
ゴハチと12系客車を連想しますな。
10:10 急行 戸狩スキーの行き先桑名川は飯山線の駅
この頃は もう 常磐炭鉱は 閉山してるから これより 前の 閉山前はさらに 貨物列車で 大量の石炭が常磐線で 東京に 運ばれてたんだから常磐線は 昔は 華やかだったんだなあと思う
新幹線に引き継がれた名前:やまびこ、なすの、つばさ、とき、あさま結構引き継いでるよね金沢行きに白山が使われなかったのは漢字だったからかねぇあと、「はやぶさ」よりは「はつかり」だと今でも思ってますよ
個人的には長野経由の金沢行きは「はくたか」よりも、ひらがな書きでも「はくさん」が良いと思います。あと「はやぶさ」は名称は九州に譲渡して「はつかり」にするのが良いかと思います。
東北新幹線が開通する前まではいわて3号で父の田舎行ってた
BGM聞き覚えがあるけど、何の曲か思い出せない……
3曲目はわからないので、説明できなくて申し訳ないですが、1曲目は「Recollections」2曲目は「into the light」です。いずれもDova-syndromeのbgmです。
今の若い鉄ちゃんが見たら狂喜乱舞するような夢の世界。それが当たり前にあったことが今はもう信じられない。
@@conspiracy_shine 思想強すぎ()
事故ったり突然死したり恨み買って563れたり人生に絶望してCheckoutしない限りお前も年寄りになるんやで
一日撮り鉄やろうと思ったらフィルム36枚撮りで何本いるかなぁ・・・・・
こんな特急や急行の合間に普通が走るようなダイヤの中で親が宇都宮から浜松町まで鈍行で通ってたのは凄い…
当時の高崎線・東北本線の中距離電車は、上野〜大宮を後続の特急からギリギリ逃げ切るダイヤが組まれていたので、ゴーサントオ以降は特急がスピードダウンしていたとはいえ、115系の性能で限界まで飛ばさなければならず、大変だったと聞いたことがあります。
特急と京浜東北線が並走している時、京浜東北線の方がスピードが速かったですね
@@ハヤトシ-j5j 現在の中央快速線のような感じですね(最高速度は快速系100km/h、特急95km/h)。1978年10月ダイヤ改正以降、上野〜大宮は線路容量の関係で平行ダイヤが組まれていたので、優等列車が普通列車のスピードに合わせていたことによりますね。普通列車は上野〜大宮で尾久、赤羽と停車しますが、特急は大宮までノンストップ(一部は大宮通過)でしたのでね。
@@ペペ-q4l 時間帯によっては普通列車でも浦和駅を通過してましたね
幼少の頃、浦和駅の3番線4番線は普通列車が停まらないのに何でホームがあるのか不思議に思いました
当時付き合っていた彼女が会津出身で、良く上野駅まで、見送りや迎えに行きました。新幹線が無かった頃の上野駅は朝から夜まで、色んな列車が出入りして
ホームも活気が有りましたけど、
今は寂しい限りですね。
あの頃が懐かしいです。
今は無き列車が満載で面白いですが、今も頻繁に運行している小金井行き、籠原行きがこの頃から有るのも面白いですね。昔から運行の拠点だったんだなぁ。
この頃のこの界隈は115系近郊型電車で、上野へは15輌編成でやって来るが、小金井・籠原以遠は11輌編成に減車。
正面改札口の上に
木の札が、たくさんあった
理由が、良く分かりました♪
新幹線は素晴らしい技術だとは思うけど...この大量の特急を車窓をのんびり眺めながら乗れたと思うと凄い羨ましい
当時、学校が休みの日になると父親の安いカメラを借りて上野駅に行って撮影してました。
でもフィルム買うのも現像するのもお金がかかるからシャッター切るのもかなり慎重になりましたね。
デジカメを手にした現在、もうあの頃の列車は無くなってしまった・・・。
自分も父から安いカメラを借りたクチです。買ってもらったフィルムは12枚撮。それでも旧客と並ぶはつかり、急行まつしま・ざおうに並ぶ帰省客の写真は「写しておいて良かった!」
こうしてみると、ヘッドマークという地域限定のプレミア感は素晴らしい発明。それをみるために、集まる人もいたわけで。
この頃、上野や大宮に写真撮影によく行きましたね♪こうみると凄い優等列車の数、そりゃ何時間いても飽きない筈だ。
反面、自分は宇都宮沿線だったが普通列車こんなに少なかったんだ・・・
昭和63年から都内に通いだしたが、こんなに本数少なくなかった。
84年ダイヤ改正と86年11月ダイヤ改正で普通列車大増発しましたからね
その分在来線優等列車が激減したってことになりますが
@@HMikimoto さん
東北・上越新幹線の上野延伸で、特急・急行が削減された影響もあったようですね、その代わりに、新幹線の不便なエリアを結ぶ、新特急「なすの」「谷川」「草津」「あかぎ」等が誕生しましたっけ。
国鉄華やかかりし頃の懐かしい風景が甦って来ました。上越線五日町駅の近くに住んでたのでこの頃はひっきりなしに列車が走っていました。今は無人駅になってしまった石打止まりの特急があったなんて今の子供たちには想像できないかも。ちなみに自分はこの頃小学4年でした。地元の五日町も無人駅になってしまいました。寂しい限りです。
米山正さん
恐らく石打行きは、スキー客用の臨時列車だったと思いますよ。
常磐線普通土浦行きは22:32だけ。土浦に車両基地が無かった時代ですね。この本数で北関東から東京通勤するのは大変だったでしょうね。
72年生まれですが、谷中にお墓があって鶯谷駅からひっきりなしに行き交う長距離特急にワクワクしました。1人で旅行する頃には盛岡まで新幹線が開通してしまいましたが急行「八甲田」や「津軽」を全線乗り通して旅行したのは良い思いでです。もう移動時間を楽しむ旅行は簡単には手に入れられない時代なのかも知れませんね。
2:34の10:13の列車は、
このほんのちょっと前までは、一ノ関行きの客車普通列車だった。
EF57が牽引していた。
客車はドアや、車端部の連結ドアを開けたまま走っていた。
懐かしいね~!よく乗ったよ。
とても良い動画感謝します。当時を詳細に思い出すことができました。北千住駅をキハ車両でディーゼル爆音上げて高速で通過した「急行奥久慈号」がとても懐かしいです。
曳舟少年さん
「奥久慈」は、上野ー水戸は「ときわ」と併結(その関係で「ときわ」もディーゼルだった)水郡線は普通列車扱いだったようですね。
常磐線のDC急行って、比較的平坦線区という事で1エンジン(キハ28キロ28・180馬力)車両が主体だったようだ。
最高速度が95Km/hだったから、通勤電車にも煽られる可能性があったから、南千住過ぎた辺りからは爆走だったと想像できる。
これでは普通列車の増便は難しいですね、新幹線を建設するのは必然だったと思います。でも上野駅の低いホームに並ぶ特急と改札口に掲げられた短冊のような行き先表示は壮観でした。
雪の付いた夜行列車を写真に収めたくて、良く父に朝の上野駅に連れて行って貰ってました♪
1日中駅にいても
飽きない
懐かしいなあ。当時10才、まだ東北新幹線開通前で、岩手や秋田にある両親の実家に行くときに、おふくろに手を引かれて、急行いわて、特急はつかりに乗った記憶があります。また、親父に頼み込んで、夏の朝早くに上野駅に連れて行ってもらい、到着する夜行列車を撮影していましたね。
新幹線で移動は大変便利になりましたが、それと引き換えに無くなったものたちですね。またあの頃に戻ってみたいです。1日いても飽きないだろうなぁ。
各駅停車はほぼ1時間に2本程度、尾久や東大宮(当時土呂駅など無い)はローカル線に近い。でもそれで乗客が捌けた。貨物列車と485系ばかりで115系が来ると珍しく思えた、植竹踏切で眺めた小学5年生の冬。
普通列車が少ない分、鉄道に並行する路線バスが多く存在しましたね。
今でも元気なのは、東武バスの大宮〜上尾くらいでしょうか。
特急の本数も凄いですが、普通列車も長時間運転がなかったり、かと思いきや数分間隔で来たりというダイヤで凄まじい状態ですね。
23時台からが鉄ちゃん大歓喜ですね!
夜行列車の数すごいし、正月はスキー列車が目白押しだから、時刻表も見ていて飽きない。
特急新雪(幕張183系)や、急行石打スキー(12系/14系座席の9-12両)は高崎二区のEF58牽引。
この頃になると記憶ある列車も増えて、なおさら懐かしさを感じます。
昼行の急行おが奥羽本線経由秋田行きは、全線電化区間を走るキハ58系長編成が板谷峠を越える列車でした。
板谷峠を補機無しでゆっくりと登って行く姿を見たかったですな。(・ε・` )
恐らく、国鉄の経営が厳しく高価な交流直流電車の配置が困難になっていて、いわゆる架線下DC急行が多かった時代ですね。
【赤倉】【しらゆき】【出羽】とかは最後まで非冷房車もあって、真夏の繁忙期とかはお尻にあせもが出来そうですな。
ι(´Д`υ)アツィー
@@クモハ165 さん
キハ28・58の初期型は、非冷房車両が多く(北海道仕様のキハ26・56を含む)その後冷房化改造された物もありましたが、東北・北信越には非冷房で残った物が多かったんでしょうね。
@@原田寛-e3u さん
九州や四国にはキハ65があったので、勾配区間でも冷房化できたというのもありますな。房総みたいに平坦路ならばキハ28をはさめるでしょうが、勾配の多い東北ではキハ58だけの編成になるのは仕方がなかったでしょうな。(ヽ´ω`)爆音とともにゆっくりと発車して、速度がのってから少し間があって直結になる感じは国鉄型気動車ならでわで好きですが。
1日中ホームで見てても楽しそう😍
確かに懐かしいですが当時の中電は最悪でしたよ。
本数少ないから日中でも大混雑。喫煙可なのでタバコの煙がすごいし。あと中電で必ず遭遇する昼間っからワンカップ飲んでスルメ食ってるおっさん達。タバコ臭と相まって車内は激臭でした。
東北新幹線開業前の上野駅黄金時代の時刻表ですね
見ていて涙が出てきました
普通列車より特急・急行が多い時代で、きっとこの頃に上野駅にいたらカメラのフィルムが何本あっても足りなかったでしょう。
先日、石打に行った時、使われなけなりレールの剥がされたホーム、広い待合室が、この時刻表の時代、列車で旅をしていた時代を物語っていました。
貴重な動画、ありがとうございました。
懐かしいです。子供の頃、親に連れられて、里帰りに赤羽駅の4番線から高崎線へ乗車した事を思い出しました。東北線と高崎線が交互に来て、東北線だと、親に『これじゃないよ』と言われたモノです。
当時、遠距離恋愛していたから夜行列車に何度も乗って会いに行ったなあ。津軽、十和田、八甲田とかね。青春していたな。
当たり前ですが、「あさま」は電気機関車繋いで普通に碓氷峠超えて横川→軽井沢→長野を直通していたんですね。感慨深いです😢
今のいわき駅が平駅時代の時刻表ですね。あと、特急ひばり、急行八甲田乗ったなー。
この頃の東北本線、高崎線の普通列車は浦和駅を通過していた時間帯がありましたね
むしろ、浦和通過が標準だった。
産まれる少し前とはいえ懐かしさを感じます。
5:06
つばさの福島から先の停車駅は以下の通り。
福島ー米沢ー山形ー天童ー(一部: 楯岡(現村山))ー新庄ー湯沢ー横手ー大曲ー秋田
上野〜秋田間の所要時間約8時間弱。
当時の時刻表を元にして、今の新しいレイアウトの動画として作るのはすごい。
私は昭和56年生まれなので、同世代の時刻表だ。
懐かしい・・10分あっという間でした!
上野発の特急急行のオンパレード
東北、上信越、北陸と多彩に躍動
昼も夜もひっきりなしに走り回った
家族で軽井沢に行く際には、お昼前に上野駅を出発する特急白山を利用。横川駅に到着する前に食堂車へ移動。食事をしながら車窓から碓氷峠超えを見物。丁度食べ終えるころに軽井沢駅に到着。帰りは特急あさまで横川駅で「峠の釜めし」を買うのが定番でした。今では横川駅~軽井沢間は廃線になりましたが、今となっては、とても貴重な体験だと懐かしんでいます。
東京近郊でも普通列車の本数が汽車なみだったんですね、この頃でも。
懐かしい時刻表ですね
東京から西の80年代ダイヤも楽しみにしてます。
大阪・京都発の80年代も待ってます。
この頃は時刻表マニアでした。たまに行く上野駅の雰囲気は小学生ながら特別なものを感じました。今は通勤で上野駅を使いますが、寂しいの一言です。
ロマンの塊です
今基準に考えると普通列車が少なすぎるのに驚愕
もう遠い記憶なんておぼろげなんだけど、大昔、仙台に行くのに23時過ぎの急行に乗った事があって、動画見た感じでは多分まつしま11号かも。だいぶ早朝に着いたの覚えてます。455系だったので多分まつしまです。
そうですね。私も80年に、まつしま11号で仙台へ行ったことがあります。確か仙台着が7:05頃でした。
@@hideyoshizb
懐かしいですよね。
キャンディーズ引退の後楽園球場ライブの日に、小諸から上野まで特急「あさま」に乗車しました。いや、ライブには行ってませんでしたけど💦そういうエポックメイキングな日なので覚えてます。
0:18 喜多方行の直通急行があったとは…。
今ではなかなかあり得ない行先ですよね。
新幹線ができる前の時代は在来線の特急・急行・普通列車ともずいぶん行き先のバリエーションが多かったんだな。大宮近辺の住民なので高校生の頃に通学途中に大宮駅で電車を待ちながら色々な列車を眺めていたのが懐かしい。「湯田中」行きってどういうルートなのか不思議に思ったり、冬場は金沢あたりから来た列車に雪が積もってたりして。でもこの頃は高崎線や東北線の普通列車が昼間30分間隔で、特急・急行を2~3本見送ってからようやく普通列車が来る感じだったのが不便だったから、普通列車の本数の点では今の方が格段に便利ですけどね。
当時、長野県更埴市(現:千曲市)の信越本線(現:しなの鉄道)屋代駅より、長野電鉄河東線(後に屋代線と呼ぶようになった・・・2012年廃線)が須坂駅(長野県須坂市)まで通っており、須坂から長野電鉄長野線(長野~湯田中)と合流し、湯田中までのルートがあり、屋代駅先より、JR線が乗り入れ可能でした。当時は、東京から乗り換えなしで、湯田中温泉・渋温泉や志賀高原入口まで行けたので、観光客には大人気でした。
新幹線開業後、長野電鉄屋代線は廃止になり、信越本線は、しなの鉄道になったため、二度とない貴重なルートです。今は、東京からですと、新幹線で長野駅に来て、長野電鉄長野線に乗り換える事になります。ご参考になれば幸いです。
長野電鉄にロマンスカーが走っているのを見て、東京から直通しているのかと思う人もいるようで。(ヽ´ω`)チガウヨ!
本数と、区間が変わりましたが
そのまま残っているのは
仙台までの ひたち くらいかな
あと いなほ
3:28
はつかりの仙台から先は以下の通り。
仙台ー(一部: 小牛田)ー一ノ関ー(一部: 水沢、北上、花巻)ー盛岡ー(一部: 一戸、北福岡(現二戸)、三戸)ー八戸ー(一部: 三沢、野辺地、浅虫(現浅虫温泉))ー青森
上野〜青森の所要時間、約8時間半。
22時32分やっと出てきた土浦駅行き
L特急が1時間おきの同じ時刻(1時間とは限らない)だったのは有名でしたが、昼間の高崎線の各駅停車もそんな感じだったんですね。毎時26分と56分です。
こう見ると、今は新幹線で長距離列車がなくなっていて寂しさを感じる。
いわきが平、懐かしい
柏に引っ越して平ってどこなんだろうって、中学に上がってまだ時刻表を手にしたこともなく地図帳にも載ってない。特急停車駅の柏も中距離電車は日中しか止まらなかった。15:13平行は客車列車で松戸まで汽車旅気分が楽しめた。
この企画楽しく拝見させて頂いてます、有り難う御座います。それとリクエストもあります、難しいとは思いますが出来ますれば最終到着地とその時間とかも分かると嬉しいです、多層立の列車は分割なので大変だとは思いますがスイマセン余計な事でした。今は鉄道で首都圏や遠隔地迄の移動本当に便利になりました。そう言えば当時を振り返る者として自らの思い出でです😂当時は仙台でも早くても4時間以上かかり、行楽時期や年末年始などの移動は上野駅ホームに何時間も並び座り心地の悪い直角クロスシートに積み込まれ(笑)しかもこの頃の自由席ともなると本当に満員で床に新聞紙引いて座るとか,基本身動きなど取れず運が悪いと車内にタバコの煙が霧の様に漂うこともありましたね確か旧型車両の急行鳥海でした、空調は扇風機や窓全開、扉も結構開いてました。だから列車急行のグリーン車や電車急行、L特急などの冷房車は本当に良かった。でも列車急行の能登号や越前号、電車急行の佐渡号、磐梯号、あずま号にDC急行の飯豊号、阿賀野号、出羽号どれも随分乗りました。本当に大変でしたが良い思い出でもあります、それでは
東京駅よりも上野駅が楽しかったいい時代…。
3:59
急行あいづ→特急あいづ
(途中停車駅: 上野ー大宮ー宇都宮ー黒磯ー白河ー郡山ー磐梯熱海ー猪苗代ー会津若松)
ひたちとひばりは良く同時発車してましたね。
あさまとときはダイヤ上は三分続行、その後ろに補完する佐渡や信州等の急行が続行って言うのがパターンだったんですね。
上信越速達列車は高崎までこのままかな?
東北本線はひばりとはつかりやまびこが続行、ばんだいまつしまざおうあたりの補完急行列車が更に続行、仙台まで追いかけっこかな。
尾久駅に居たら時間を忘れそうだ。
急行列車の多層建て運行で支線までくまなく運転して特急が通過する駅にも停まって補完するのは、国鉄のダイヤ編成の美点だったと思う。
まだ普通列車が30分ヘッドの頃ですね。
ここから20分ヘッド、15分ヘッド…そして池袋系統を加えた1時間5本体制、湘南新宿ライン本格開業による1時間6本体制、そしてコロナ禍などによる減便へ。
普通列車の運転間隔も随分変わりましたね
2:36
やまびこの仙台から先は以下の通り。
仙台ー小牛田ー一ノ関ー水沢ー北上ー花巻ー盛岡
上野〜盛岡の所要時間は約6時間半。
はつかりに譲った分もその停車パターンだったんででしょうね。
高崎駅バージョンもやってもらいたい…
まさに北の玄関口
10:43普通日光行き懐かしい
・さん
恐らく、115系か165系(「なすの」の間合い運用か「日光」の格下げ)でしょうね。
1曲目がめちゃくちゃ好き
間違えていたらすみませんが。。
8:03つばさ1号(485系)
9:03臨時のつばさ51号(14系)
12:03つばさ3号(485系)
13:33 つばさ5号
だと思うのですが。。
どれも、利用したことがあるものですから気になりまして。
上野駅にまた仙台行特急ひたちが復活して嬉しい! いつか乗り通してみたい
5:11 15時06分発のなすの55号水戸行、入力ミスでしょうか?
今だと常磐線の特急が仙台まで直通で行ってるくらいやね…
特急 平行き 今は いわき行き
を 忘れないで
やっぱり 駅名変わると
だいぶ 印象変わるよね
皮肉にも震災のお陰でいわきでの系統分割を免れました。
東北、高崎形と常磐の同時発車好きでした。
あさまとひたち/スーパーひたちが同時発車していたのは見たことありますが、当時はひばりとひたちが同時発車だったのでしょうね。
動画興味深く拝見。本数が多すぎて冗長ですが東北・常磐方面の夜行列車を見るにはこの方がいいのでしょう。
上野始発の日光行と急行まつしま1号は東海道線の夜行列車から乗継いで利用しました。この当時は弘前に転じて急行八甲田や津軽1号を利用していたかな。
はつかり11号が上野15時30分発になっているから、電車特急が宇都宮、高崎まで減速運転する時代になっていたと思います。
翌1981年に尾久駅近くに転居しました。普通列車が今のように本数がなくて都電荒川線、京浜東北線を利用する方が多かったですね。
常磐線の普通は平まで行くのが多かったですね
6:15発の高崎行き普通列車は、高崎機関区所属のEF58が牽引する旧型客車だったような記憶が…違ったかなぁ
私が高校生だった時は、EF62+12系でした。
ん?急行あいづ?・・・このころはすでに特急だったような・・・
あと、新星は、当時すでに数少なくなっていた寝台急行だった。
それにしても、今では考えられない、トリッキーな設定もありますなぁ・・・(東北本線経由八戸・弘前行きとか、東北本線経由勝田行きとか、高崎線経由小山行きとか)
両毛線や水戸線といった地方間路線も駆使してましたね。
普通の後の特急のスレスレ具合
尾久・赤羽の次が大宮だったとは言え、多分特急が信号に引っかかってノロノロ汗
1980年10月の時刻表によると、一部を除き上野から大宮まで25〜27分、高崎、宇都宮まで80〜85分程度ですね。
私も作ってみたいのがあるのですが、リクエストしても良いですかね。
海水浴臨全盛の房総夏ダイヤを(錦糸町または千葉駅基準で)
急行おががすごいですね。朝から走って何時間かかるのやら。
8時33分発はつかり3号 (485系12両) 途中停車駅
大宮-宇都宮-郡山-福島-仙台-一ノ関-北上-盛岡-三戸-八戸-三沢-野辺地-浅虫
12時33分発はつかり7号(583系13両) 途中停車駅
大宮-宇都宮-郡山-福島-仙台-一ノ関-水沢-花巻-盛岡-一戸-三戸-八戸-三沢
7号が1980年7月26日(日)
3号が1981年の夏休みに上野~三戸まで2年連続で乗ったのが思い出に残っています。
うわ~ まるっきり、テレ朝ドラマ「鉄道公安官」の時代じゃん!
このときの上越線経由新潟方面行きの一部が新宿口に振り分けられてJR化後に快速ムーンライト、そしてムーンライトえちご号になったのかな。上野発村上行き急行佐渡号が特に臭いますね。車両も165系ですし
「高崎(東北本線経由)」
「勝田(東北本線経由)」
とかいうパワーワード
屋代から長電に直通して湯田中まで行くのは熱いですよね
熊谷から秩父鉄道に直通したり
昔はローカル私鉄への乗り入れは珍しいもんではなかった。東北筋以外では大井川鐵道や富山地鉄にも頻繁に乗り入れしてたよ。
@@mako9574 かつては681系が富山地鉄に乗り入れていましたね。その関係で和倉温泉行きが9両、富山行きが3両とかいう事態になっていましたが。
四角のパックのお茶、冷凍みかん、列車名と行き先の書いてあるぶら下がりのボード
当時は中距離普通列車は上野駅でさえ各方向昼間2~3本程度の列車ダイヤだったようですね。貨物線が別にあっても線路容量ギリギリ。途中数キロまでは3複線や複々線だったりするのが救い。大宮や取手始発の下り普通はあったのでしょうか?
大宮始発はそこそこあった記憶があります。取手始発は無かったような…
普通列車が少なかったので、鉄道に並行する路線バスが多く存在しました。地域輸送のかなりの部分を、地域のバス会社が担っていたのです。
こんばんは😃🌃
両毛線の沿線住民です🚋
10:23と12;06に急行「あかぎ1号」小山行(高崎経由)が二度登場しますね。
12:06は、急行「いわて1号」・「ばんだい5号」盛岡・喜多方行かと思われます。
19:23急行「あかぎ5号」「ゆけむり11号」桐生行(高崎経由)・宇都宮行は、前橋行・水上行かなと?
特急「はくたか」(上越線経由)かなと?
でしゃばりまして、すみません。
ダイヤを見ただけでも、東北の玄関口と呼ばれていただけありますね。
特急あけぼののルート、今現在、建設候補に上がっている奥羽新幹線と同じですね。
もし建設された場合、「あけぼの」の名前を付けてもいいと思います。
「あけぼの」とは、いかにも朝らしくて夜行に使われていました。
だから難しいかも。
でも、上越新幹線で「あさひ」が使われていたので、なんとも言えませんね。
@@トドの祭り-u5n さん
【あさひ】は朝日連峰に由来していかと。(*´ω`*)
新幹線開業前で在来線特急、急行が多数、撮り鉄も多かった時代、
さらに夜行列車が東北、上信越方面多数、周遊券があったからこそこれだけあったと思います。
現在は新幹線、ビジネスホテルの開業ラッシュで夜行列車もなくなり、
夜行高速バスも東北より関西方面に集中、現在のバスタ新宿の関西方面夜行高速バスの便数が、かつて上野駅の夜行列車を思い出します。
20番線まであった時代ですね
上野でワクワクしながら飽かず眺めていたあの頃にドンピシャ‼️
なんという俺得動画なんだありがとうございます。
当時の上野駅は、本当にワンダーランドだった。
地味に目玉は、1日2本の「普通 仙台行(常磐線経由)」
これ旧型客車をEF80が牽いてたんですよねー。
田舎が平だったので、実際に午後便に乗ったこともあります懐かしい。
時刻表の列車番号コード (末尾のDやM)を入れてくれると気動車か電車か客車列車なのかがわかって妄想がさらに膨らんでいいのですが……。
個人的には臨時列車が特に気になりますな。(*´・∀・)ナニガクルノカ?
やまびことはつかりの停車駅が今の新幹線とほぼ同じだ…
当時の普通電車で平(いわき)とか黒磯とか長野って相当ロングランやな
その時代行ってみたいなぁ
3月のダイヤ改正まで上野東京ラインで熱海発黒磯行きはありましたけどね…
深夜の急行長野行きは、時刻表の本片手にゆっくりと早朝到着だった…
やっぱり通勤路線でこの普通列車の少なさは致命的ですね。
Nobutaka Imaiさん
山手線は、別枠でしたからね、
大宮始発で、宇都宮・高崎方面の普通列車もありました。大宮まで、京浜東北線を利用した記憶があります。
上野駅って19番線まであったんだね
深夜のスキー列車に時代を感じます。
今は夜間高速バスでゲレンデ直通で行けますが、この頃のスキーブームがスキー🎿⛷旅行の期間商品の元祖なんでしょうかね?
ゴハチと12系客車を連想しますな。
10:10 急行 戸狩スキーの行き先
桑名川は飯山線の駅
この頃は もう 常磐炭鉱は 閉山してるから これより 前の 閉山前は
さらに 貨物列車で 大量の石炭が
常磐線で 東京に 運ばれてたんだから
常磐線は 昔は 華やかだったんだなあと
思う
新幹線に引き継がれた名前:やまびこ、なすの、つばさ、とき、あさま
結構引き継いでるよね
金沢行きに白山が使われなかったのは漢字だったからかねぇ
あと、「はやぶさ」よりは「はつかり」だと今でも思ってますよ
個人的には長野経由の金沢行きは「はくたか」よりも、ひらがな書きでも「はくさん」が良いと思います。あと「はやぶさ」は名称は九州に譲渡して「はつかり」にするのが良いかと思います。
東北新幹線が開通する前まではいわて3号で父の田舎行ってた
BGM聞き覚えがあるけど、何の曲か思い出せない……
3曲目はわからないので、説明できなくて申し訳ないですが、
1曲目は「Recollections」
2曲目は「into the light」です。
いずれもDova-syndromeのbgmです。