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毎年、苗穂工場まつりの時には、入換え機関車を使ってC62 3を動かしてはいますが、やはり自力で走るのとは違いますね。C62重連はさすがに実現しませんでしたけれど、C62が牽引するにふさわしい客車もすでにありませんから、夢を叶えるとすればもう3DCGの世界だけかもしれません。
全くの同感です。C11でさえ、出張運転を行うと沿線は大騒ぎになります。ましてやC62なんかが復活した日にゃあ、どえりゃあ騒ぎになって大変なことになりますね。でも、JRにとって収入はほとんど期待できません。超大金持ちや企業が広大な敷地に専用線を敷設し、そこでリーズナブルな入場料を取って走らせることでもしない限り、まあ無理でしょう。
バブルの残像・・・
C62は男の子の中の男の子! 素晴らしく格好が良い!しかし、戦後のGHQが無かったら、この機関車C62も存在しなかったかも知れないね。
C62をSLの女王、C57を貴婦人などと言う人、マスコミがありますが、やはりその容姿、迫力は男性的です。DLの開発が遅れていたら、C63が実現したかもしれず、歴史はいいも悪くもしばしば予期せぬ方向へ突っ走りますね。
復活したC623の姿を堪能させていただきました。実際に列車を牽引しているとはいえ、何か物悲しさが伝わってきます。当方、現役時代のC62重連等の写真をスライドショウにして公開したのでよろしかったらご覧ください。
スライドショーを拝見しました。感動ものです。やはり現役時代の姿はいいです。復活は所詮イベントであり、見世物です。C62牽引の急行「ニセコ」は3度しか拝んでいませんが、写真は全部失敗、大撃沈でした。当時中坊だった私には、C62の迫力はとてもつなく圧倒的でした。
C62懐かしい‼️もう一度、函館山線を走って欲しかったですね‼️三位一体に、なっていたら。🚂まだまだ、走っていたと思うけど。
蒸機を運行するにはとにかくお金がかかります。その負担を誰が負うのか。全般検査だけでも2億円とか3億円とか言われており、その他の日常的な整備でも費用が発生し、維持するのは車輛だけでなく、専用の設備や工具、そして何より整備士の存在が不可欠です。後継者の育成も必要です。「C62ニセコ号」は満員御礼であっても赤字運営でした。寄付だけで運営するには限界だったのだと思います。平坦地を客車10輌くらい連ねての運転なら少しは黒字になるかもしれませんけど、果たしてそれだけの集客が北海道で可能なのか。いずれにしてもそう簡単な話ではありません。
@@matunokura6028 三位一体となっていたら、西の山口号のような感じで走っていたかも。🚂
@@user-vr7um7ul8y 様国鉄自身が運行を開始した「SLやまぐち号」と、民間がJRに依頼して運行を始めた「C62ニセコ号」とでは、最初の土俵からして違いますね。
確かに、心向き棒は、上を向いていて、いつでも工場に入れて、整備して、本線に復帰する事が出来るように…その先には、熱心な鉄道ファンが待っている事でしょう!それにしても、C62-2号機との重連運転が見たかった…密かにウワサされていた見たいやったけど…
このビデオ懐かしいなぁ。まだ家に置いてあります。父がとても蒸気機関車が好きで自分もよくこのビデオを見ました。やっぱりC623はビデオでも迫力があって青のスハフと言えばC623だと思い込んでいました。今も鉄道雑誌などに時たまC62が取材されていますが当時自分が生まれていれば…………。と何度も思いました。ピカピカの蒸気機関車はSLじゃ無いと言う言葉を父から聞くのですが自分は確かに現役時代の泥まみれの姿も男らしくて好きですが、復活蒸気は整備を受け持ってる人達や、復活の際に多くの人が努力をしたからこそ、ピカピカの綺麗な状態で走っているので自分は父と意見は合いませんでした。しかし梅小路に行くとやはり自動給炭機を外された2号機を見ると少し物足りないとなるんです。3号機は本当に自分が大好きな蒸気機関車なので必ず一度は力走する姿を見てみたいものです。
相当過去のことになりますが、お買い上げありがとうございます。この作品は、私にとって市販第一号となる記念すべき作品でした。素人に毛の生えたレベルと言われても仕方のない部分もありますが、作品作りを意識して撮影するきっかけともなりました。苗穂運転所の入出区のシーンは、友人3人、そしてJR北海道の協力で撮影できました。蒸気機関車は、ピッカピカに磨かれた姿はまさに芸術品です。お召し列車は、編成全体が走る芸術品。生で見たことはありませんが、入念に整備されたその姿には、鉄道マンの矜持と心意気を感じました。多くの写真集を見ると、煤でうす汚れた機関車は北海道に多く、私自身、正面のナンバープレートが読めないほど汚れた機関車には何度か会って悔しい思いをさせられ、少しは真面目に磨いておけよと思ったものです。それに対して対照的なのが九州のカマで、黒光りではなく、地金のシルバーに輝くほどに磨き上げられた機関車がいました。ほとんどがモノクロ写真なので、そのシルバーの輝きは実感として伝わってきませんが、やはり手を掛けた機関車は美しいです。煤で汚れた機関車には汗まみれの労働者のイメージが、ピッカピカの機関車には晴れ舞台に立つ千両役者のイメージがあるように思うのですが、私はどちらの姿も好きです。ナンバープレートが読めさえすれば。因みに、急行「ニセコ」を重連で牽引したC62の圧倒的なド迫力は、「C62ニセコ号」の10倍はあったでしょうか。その分、煙も激しくて乗客には不人気でした。
まさか、ビデオを作られた方とは、本当にビデオ再生機が壊れた時には二度と見れないテープだと思いUA-camにあれば良いな程度で探したらあって感動ものです。オープニングのC62が走りたいと願うシーンや冒頭の音楽と共に流れる走行映像は再生機が壊れてからもたまに思い出すものでした。引退間際になるとディーゼルが客車を押している所を見て少し涙が出たもんです。2号機が白鷺号を引っ張り全力で走っている動画がありますが自動給炭機が外されて12系客車を牽くいる2号機より、やはり自分は旧型客車を率き山線を駆ける3号機が好きですね。お召し列車は見たこともなければ乗った事も勿論無いですが、友人のご先祖様がD51の牽くお召し列車の運転手をしていたみたいで、今は何か情報は掴めないかと探しています笑D51といえば現役のC62重連時代にごく稀に前補機にD51が引っ付いた時があったそうです。
@@hiro0663 様そこまで思っていただいていたなんて、制作者冥利に尽きます。DE15のプッシュは、C62 3が落ち葉によって空転を起こしたことによる対応策だったようです。C62は軸重軽減を受けていることもあってか、空転し易かったようです。お召列車の機関士は、その機関区で一番腕の立つ人が務めるものなので、余程運転技術に長けていたのでしょうね。時間正確、停止位置正確、煙は極力出さない。速度計を見なくても、ブラスト音だけで速度が判断できたと言います。お召列車に関しては、鉄道図書刊行会発行、星山一男著の「お召列車百年」という本に明治時代から詳しく書かれています。ただ、個々のお召列車の運転については概要的なところもあり、パーフェクトではありません。昭和48(1973)年初版の古い本なので、古本で探すしかありませんが、ヤフオクで結構高値で出品されているのが難点です。急行「ニセコ」は前補機で重連となっていましたが、何かの都合でD51になることはままあり、私がたまたま乗車した時もD51でした。なめくじの27号機。でも乗車しているので残念感は微塵もありませんでしたが、沿線で撮影しているファンは相当なショックだったでしょうね。D51はスピードこそ出ませんが、上り勾配ではぐいぐい列車を引っ張ってくれたそうです。
落ち葉による空転で対策されたんですね。空転の動画もありますが3号機に不具合が起きたのか?と思っていました笑お召し列車に関しては友人も運転していた人の名前までは分からず、ひいお爺さんのようなのですがD51の何号機やどこで牽いたのかも分からないです。友人は鉄道に関してあまり興味を持っていないですが分かるなら知りたいと言っていたので分かったら教えてあげたいですね。C62とD51の重連に乗ったのは僕からしたら羨ましいです笑でも確かに沿線のファンからはD51との重連は残念でしょうね。しかしD51との重連など東海道時代でもありえないと思いますし、北海道に来てからも珍しい光景なので自分だったら少しラッキーだと思います笑蒸気機関車EXと言う本にも書いてましたね。C62が検査などで出ない時はD51が出てたみたいで本務機のC62が頑張ってたみたいです。しかし本にも書いてある通りで自動給炭機がついたC62とD51じゃパワーも違うからC62が頑張らないとダメというのも納得が行きますね笑
@@hiro0663 様確かにC62 3に不具合が発生してDLが代役で牽引したこともありました。その時には「C62ニセコ号」のビデオは全く撮れないまま、夏休みは終わってしまいました。急行「ニセコ」を撮影しに来たファンは、間違いなく全員が「C62重連」を捉えたい一心でカメラを構えていたでしょうから、D51が先頭だったならば「事故」以外の何物でもありません。茫然、愕然、唖然としたでしょうね。3号機ではありませんが、呉線では回送扱いでしょうけれども、C62重連やC59との重連運転もあったようです。C62にストーカーが装備されていたのは石炭をバカ食いして、必要な蒸気を作るのに人力投炭では間に合わなかったからです。そのバカ食いのために吐き出す煙の量も半端なかったです。シンダも多く、「ニセコ」の乗客はさぞ迷惑だったと思いますよ。因みにストーカーはC62の他にC61やD52、D62にも装備されていましたが、JR東日本のC61 20からは撤去されています。
まだぜんぜん走れますよ!今走ったらやばいだろうなー
ボイラーが劣化していたらアウトかもね。
0:59 姿はC62ニセコ号を牽いていた当時のままだ。
思い出の姿のままというのは嬉しいものです。
北斗星を牽いても似合っただろうな…。
もちろん、重連でね。
東に譲渡してくれないかな・・
宝の持ち腐れだし、私が社長だったらあげちゃう。いや、まだ使えるキハ40と交換して下さい。
東に預けたらストーカー外されてコンクリで埋められてしまいますがな。それなら梅小路で静態保存して貰う方がなんぼもマシ。
ひろ 東のC61がゆっくり運用されてるのを見ると、適任は北海道しかないのかも知れませんね…西日本なら高速走行は期待できるがそもそも山口線の基盤が弱すぎて入線できないとか…
東に渡され、ストーカー外されてコンクリで埋められてしまうくらいなら、苗穂で静かに眠らせてあげた方が良いと思います。C623は北海道が良く似合うカマだと思いますから、北海道から出る必要はないでしょう。
Very nice at the beginning
いいね
男ってやっぱり、カメラとか機関車が好きだねぇ♪Nーゲージの 2016-4 北海道形 ギースルなんたらとか狭い部屋をめいっぱい使って、線路を敷いたけど… たまらんわ👀
その昔、ズバリ「カメラと機関車」という本がありました。たまにヤフオクで高額出品されています。最近は女性にもカメラと機関車が好きな人が現れているし、もはや鉄道趣味の世界も汗臭い男だけのものではなさそうです。
たぶん 車内アナウンスは 枝さん だな
息子さんも車掌になったような気が。
最後のSL夕張号(171)の時機関士を枝さん2世が担当していました。
あ、機関士、運転士でしたか。失礼しました。
毎年、苗穂工場まつりの時には、入換え機関車を使ってC62 3を動かしてはいますが、やはり自力で走るのとは違いますね。
C62重連はさすがに実現しませんでしたけれど、C62が牽引するにふさわしい客車もすでにありませんから、夢を叶えるとすればもう3DCGの世界だけかもしれません。
全くの同感です。C11でさえ、出張運転を行うと沿線は大騒ぎになります。ましてやC62なんかが復活した日にゃあ、どえりゃあ騒ぎになって大変なことになりますね。でも、JRにとって収入はほとんど期待できません。超大金持ちや企業が広大な敷地に専用線を敷設し、そこでリーズナブルな入場料を取って走らせることでもしない限り、まあ無理でしょう。
バブルの残像・・・
C62は男の子の中の男の子! 素晴らしく格好が良い!
しかし、戦後のGHQが無かったら、この機関車C62も存在しなかったかも知れないね。
C62をSLの女王、C57を貴婦人などと言う人、マスコミがありますが、やはりその容姿、迫力は男性的です。
DLの開発が遅れていたら、C63が実現したかもしれず、歴史はいいも悪くもしばしば予期せぬ方向へ突っ走りますね。
復活したC623の姿を堪能させていただきました。実際に列車を牽引しているとはいえ、何か物悲しさが伝わってきます。当方、現役時代のC62重連等の写真をスライドショウにして公開したのでよろしかったらご覧ください。
スライドショーを拝見しました。感動ものです。やはり現役時代の姿はいいです。復活は所詮イベントであり、見世物です。
C62牽引の急行「ニセコ」は3度しか拝んでいませんが、写真は全部失敗、大撃沈でした。当時中坊だった私には、C62の迫力はとてもつなく圧倒的でした。
C62懐かしい‼️もう一度、函館山線を走って欲しかったですね‼️三位一体に、なっていたら。🚂まだまだ、走っていたと思うけど。
蒸機を運行するにはとにかくお金がかかります。その負担を誰が負うのか。全般検査だけでも2億円とか3億円とか言われており、その他の日常的な整備でも費用が発生し、維持するのは車輛だけでなく、専用の設備や工具、そして何より整備士の存在が不可欠です。後継者の育成も必要です。「C62ニセコ号」は満員御礼であっても赤字運営でした。寄付だけで運営するには限界だったのだと思います。平坦地を客車10輌くらい連ねての運転なら少しは黒字になるかもしれませんけど、果たしてそれだけの集客が北海道で可能なのか。いずれにしてもそう簡単な話ではありません。
@@matunokura6028 三位一体となっていたら、西の山口号のような感じで走っていたかも。🚂
@@user-vr7um7ul8y 様
国鉄自身が運行を開始した「SLやまぐち号」と、民間がJRに依頼して運行を始めた「C62ニセコ号」とでは、最初の土俵からして違いますね。
確かに、心向き棒は、上を向いていて、いつでも工場に入れて、整備して、本線に復帰する事が出来るように…
その先には、熱心な鉄道ファンが待っている事でしょう!
それにしても、C62-2号機との重連運転が見たかった…
密かにウワサされていた見たいやったけど…
このビデオ懐かしいなぁ。まだ家に置いてあります。父がとても蒸気機関車が好きで自分もよくこのビデオを見ました。
やっぱりC623はビデオでも迫力があって青のスハフと言えばC623だと思い込んでいました。今も鉄道雑誌などに時たまC62が取材されていますが当時自分が生まれていれば…………。と何度も思いました。ピカピカの蒸気機関車はSLじゃ無いと言う言葉を父から聞くのですが自分は確かに現役時代の泥まみれの姿も男らしくて好きですが、復活蒸気は整備を受け持ってる人達や、復活の際に多くの人が努力をしたからこそ、ピカピカの綺麗な状態で走っているので自分は父と意見は合いませんでした。しかし梅小路に行くとやはり自動給炭機を外された2号機を見ると少し物足りないとなるんです。
3号機は本当に自分が大好きな蒸気機関車なので必ず一度は力走する姿を見てみたいものです。
相当過去のことになりますが、お買い上げありがとうございます。この作品は、私にとって市販第一号となる記念すべき作品でした。素人に毛の生えたレベルと言われても仕方のない部分もありますが、作品作りを意識して撮影するきっかけともなりました。苗穂運転所の入出区のシーンは、友人3人、そしてJR北海道の協力で撮影できました。
蒸気機関車は、ピッカピカに磨かれた姿はまさに芸術品です。お召し列車は、編成全体が走る芸術品。生で見たことはありませんが、入念に整備されたその姿には、鉄道マンの矜持と心意気を感じました。
多くの写真集を見ると、煤でうす汚れた機関車は北海道に多く、私自身、正面のナンバープレートが読めないほど汚れた機関車には何度か会って悔しい思いをさせられ、少しは真面目に磨いておけよと思ったものです。それに対して対照的なのが九州のカマで、黒光りではなく、地金のシルバーに輝くほどに磨き上げられた機関車がいました。ほとんどがモノクロ写真なので、そのシルバーの輝きは実感として伝わってきませんが、やはり手を掛けた機関車は美しいです。
煤で汚れた機関車には汗まみれの労働者のイメージが、ピッカピカの機関車には晴れ舞台に立つ千両役者のイメージがあるように思うのですが、私はどちらの姿も好きです。ナンバープレートが読めさえすれば。
因みに、急行「ニセコ」を重連で牽引したC62の圧倒的なド迫力は、「C62ニセコ号」の10倍はあったでしょうか。その分、煙も激しくて乗客には不人気でした。
まさか、ビデオを作られた方とは、本当にビデオ再生機が壊れた時には二度と見れないテープだと思いUA-camにあれば良いな程度で探したらあって感動ものです。オープニングのC62が走りたいと願うシーンや冒頭の音楽と共に流れる走行映像は再生機が壊れてからもたまに思い出すものでした。引退間際になるとディーゼルが客車を押している所を見て少し涙が出たもんです。2号機が白鷺号を引っ張り全力で走っている動画がありますが自動給炭機が外されて12系客車を牽くいる2号機より、やはり自分は旧型客車を率き山線を駆ける3号機が好きですね。お召し列車は見たこともなければ乗った事も勿論無いですが、友人のご先祖様がD51の牽くお召し列車の運転手をしていたみたいで、今は何か情報は掴めないかと探しています笑
D51といえば現役のC62重連時代にごく稀に前補機にD51が引っ付いた時があったそうです。
@@hiro0663 様
そこまで思っていただいていたなんて、制作者冥利に尽きます。
DE15のプッシュは、C62 3が落ち葉によって空転を起こしたことによる対応策だったようです。C62は軸重軽減を受けていることもあってか、空転し易かったようです。
お召列車の機関士は、その機関区で一番腕の立つ人が務めるものなので、余程運転技術に長けていたのでしょうね。時間正確、停止位置正確、煙は極力出さない。速度計を見なくても、ブラスト音だけで速度が判断できたと言います。
お召列車に関しては、鉄道図書刊行会発行、星山一男著の「お召列車百年」という本に明治時代から詳しく書かれています。ただ、個々のお召列車の運転については概要的なところもあり、パーフェクトではありません。昭和48(1973)年初版の古い本なので、古本で探すしかありませんが、ヤフオクで結構高値で出品されているのが難点です。
急行「ニセコ」は前補機で重連となっていましたが、何かの都合でD51になることはままあり、私がたまたま乗車した時もD51でした。なめくじの27号機。でも乗車しているので残念感は微塵もありませんでしたが、沿線で撮影しているファンは相当なショックだったでしょうね。D51はスピードこそ出ませんが、上り勾配ではぐいぐい列車を引っ張ってくれたそうです。
落ち葉による空転で対策されたんですね。空転の動画もありますが3号機に不具合が起きたのか?と思っていました笑
お召し列車に関しては友人も運転していた人の名前までは分からず、ひいお爺さんのようなのですがD51の何号機やどこで牽いたのかも分からないです。友人は鉄道に関してあまり興味を持っていないですが分かるなら知りたいと言っていたので分かったら教えてあげたいですね。
C62とD51の重連に乗ったのは僕からしたら羨ましいです笑
でも確かに沿線のファンからはD51との重連は残念でしょうね。しかしD51との重連など東海道時代でもありえないと思いますし、北海道に来てからも珍しい光景なので自分だったら少しラッキーだと思います笑
蒸気機関車EXと言う本にも書いてましたね。C62が検査などで出ない時はD51が出てたみたいで本務機のC62が頑張ってたみたいです。しかし本にも書いてある通りで自動給炭機がついたC62とD51じゃパワーも違うからC62が頑張らないとダメというのも納得が行きますね笑
@@hiro0663 様
確かにC62 3に不具合が発生してDLが代役で牽引したこともありました。その時には「C62ニセコ号」のビデオは全く撮れないまま、夏休みは終わってしまいました。
急行「ニセコ」を撮影しに来たファンは、間違いなく全員が「C62重連」を捉えたい一心でカメラを構えていたでしょうから、D51が先頭だったならば「事故」以外の何物でもありません。茫然、愕然、唖然としたでしょうね。3号機ではありませんが、呉線では回送扱いでしょうけれども、C62重連やC59との重連運転もあったようです。
C62にストーカーが装備されていたのは石炭をバカ食いして、必要な蒸気を作るのに人力投炭では間に合わなかったからです。そのバカ食いのために吐き出す煙の量も半端なかったです。シンダも多く、「ニセコ」の乗客はさぞ迷惑だったと思いますよ。因みにストーカーはC62の他にC61やD52、D62にも装備されていましたが、JR東日本のC61 20からは撤去されています。
まだぜんぜん走れますよ!今走ったらやばいだろうなー
ボイラーが劣化していたらアウトかもね。
0:59 姿はC62ニセコ号を牽いていた当時のままだ。
思い出の姿のままというのは嬉しいものです。
北斗星を牽いても似合っただろうな…。
もちろん、重連でね。
東に譲渡してくれないかな・・
宝の持ち腐れだし、私が社長だったらあげちゃう。いや、まだ使えるキハ40と交換して下さい。
東に預けたらストーカー外されてコンクリで埋められてしまいますがな。
それなら梅小路で静態保存して貰う方がなんぼもマシ。
ひろ 東のC61がゆっくり運用されてるのを見ると、適任は北海道しかないのかも知れませんね…
西日本なら高速走行は期待できるがそもそも山口線の基盤が弱すぎて入線できないとか…
東に渡され、ストーカー外されてコンクリで埋められて
しまうくらいなら、苗穂で静かに眠らせてあげた方が
良いと思います。C623は北海道が良く似合うカマだと
思いますから、北海道から出る必要はないでしょう。
Very nice at the beginning
いいね
男ってやっぱり、カメラとか機関車が好きだねぇ♪
Nーゲージの 2016-4 北海道形 ギースルなんたらとか
狭い部屋をめいっぱい使って、線路を敷いたけど…
たまらんわ👀
その昔、ズバリ「カメラと機関車」という本がありました。たまにヤフオクで高額出品されています。最近は女性にもカメラと機関車が好きな人が現れているし、もはや鉄道趣味の世界も汗臭い男だけのものではなさそうです。
たぶん 車内アナウンスは 枝さん だな
息子さんも車掌になったような気が。
最後のSL夕張号(171)の時
機関士を枝さん2世が担当していました。
あ、機関士、運転士でしたか。失礼しました。