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今回のどうする家康の秀秋、結局は途中で裏切りながらも最初から裏切っていた説も取り入れていたし、何よりかっこよかったのでとてもいい描き方だなと思いました。小早川秀秋は一武将ではなく、豊臣秀次などと同じ豊臣一門衆筆頭と捉えると見方が変わってくると思います。
生まれが遅かったのと出自的に高い身分の状態で生まれてきたがために散々秀吉に振り回されて秀頼が誕生したら邪魔者扱いされて家臣も元々秀吉付きの者が多く、主君と家臣との主従関係が希薄で家中の統率力の図りようがなかったのが不憫。関ヶ原本戦においても元々家康とは内応関係にあったとは言え、松野重元(西軍派)・平岡頼勝(中立派)・稲葉正成(東軍派)と家中分裂してまとまりがなく、加えて家康・黒田長政から目付まで派遣されていたら無言の圧力と散々豊臣家に人生振り回された訳だし東軍に付くよね。
関ヶ原の戦いは、必ずしも「豊臣側vs徳川家」という構図ではないよ
@@cala1075 誰もそんな事言ってませんよ?送り先間違えたのでしょうか。
@@shun1670 「豊臣家に人生振り回されたから東軍に付く…」という部分に対して、そういう訳ではないよと教えているんです。
@@cala1075 西軍=豊臣家 東軍=徳川家という古いお考えを未だにお持ちなのが残念です。
度数は高くないとはいえ幼少からの飲酒ってやばいんだなぁ。うp主の一連の動画を見る前は稲葉正成が東軍に付くよう唆したと思っていたんですが秀秋自身の判断だったんですね。
肖像画からは色白で頼りない印象があるけれど急性アルコール中毒が死因として考えられる程の酒豪で実は180cm程度と高身長なのギャップ萌え。
実は陽キャだったんですね😅
葵徳川3代のデカい秀秋が近いのねイメージは、国広さんなんだけど
関ヶ原の戦い新説の小早川秀秋は元々イメージしていた関ヶ原の戦い以上にキーマンだったと捉える事も出来そうですね。(戦が始まるきっかけという意味でです)
これまで大河等で描かれてた秀秋って、家康の脅しに屈した点や肖像画の感じを考慮されてか、かなり気弱だったり、お人好しな感じな作品もあったと思います。それに比べて今回は、かなり気性の荒い感じに仕上がってて驚きました。ま、7歳から酒を食らってたり、北政所と口論になってるエピソードからして、こちらの方が実情に近いのでしょうね。
叔母甥の間柄とは言え7歳にしてあの北政所に口答え出来るところを見ると、なかなか利発な少年だったのでしょうな😅
漫画のへうげものでは、ダダのアブナイやつでした。
まあ現代でもおじさんがいきなり世界的大企業の社長になって10代で取締役に引き立てられたら狂っちゃうかもね
★ 関ヶ原の戦いは、小牧・長久手の戦いの焼き直し。西軍が防御陣地から出たところを急襲したんだろうな。開戦したらしたで、戦術はナポレオンがよく使用した内線作戦。どれだけ卓越した指揮官であれ、この時の徳川家康に勝利することはできない。守備に回れば「石の壁」ロバート・E・リー。攻撃に回ればナポレオン。当時の理解からすれば、現世にいる神。現存する神に近い。
小早川秀秋は裏切り者と言われたが、秀秋と同じように東軍に寝返った脇坂安治・朽木元綱(関ヶ原に参加していないと言う説もある。)・小川祐忠・赤座直保がいる。脇坂安春の子孫は後に譜代大名になって老中を歴任した者がいる。小川と赤座は東軍に改易された。
秀秋が最初から西軍を裏切っていたことが分かっていたのなら、三成は大谷、脇坂など僅かの兵力で15000の小早川軍を防ごうなんて不可能なことぐらい分かっていたはずなので、裏切りは想定外。この時期、多くの大名は家康、三成の双方から勧誘を受けていたので、手紙や使者の動きだけでは決め手にならない。むしろ三成にとっては、秀秋が伏見城攻めに参加したことが決め手になった。その点、秀秋が伏見城攻めに参加したにもかかわらず秀秋調略の成功を信じて敵前に本軍を動かした家康は凄い。三成の不幸は直江兼続、真田昌幸が傍にいなかったこと。大谷吉継も失明していたことで、毛利家中の状況を想定出来なかった。毛利家のキーマンは当主の輝元でも外交僧の安国寺恵瓊でもなく分家の吉川広家だったのも三成の想定外。
秀吉という社長が亡くなって豊臣政権を三成か家康のどちらに任すか、であれば最期まで秀吉の傍にいて利家と共に秀頼を託された家康を信用出来ても、秀吉が生前明らかに小早川家引き抜いて弱体化を企んでいた毛利輝元を味方にする三成ではその器の差で家康に付く方が安泰を図るのに得策と考えるのが普通。その輝元は豊臣政権下家康との露骨な優遇の差を見せつけられた反動で豊臣家乗っ取りを家康に疑われては困るから三成に心底味方したとは思えません。そういう意味でも上杉征伐そのものが家康の見事なシナリオだったと。
お目目たれてる秀秋君
片倉さんちの重長君へのストーカー行為を取り上げて欲しかったなぁ
7歳で飲酒はさすがにヤバすぎでしょ?若死したのは仕方ないけど、それだけ印象が薄かった武将なんでしょうね。
再三の徳川からの催促が問い鉄砲の由来なのではと。思います。
じいさんの私の小早川秀秋のイメージは上地雄輔だな
私も そう思う。あのチャラぽさがそう感じるが、本当はなかなかの策士なんだな。
自分も小早川秀秋は長らく上地雄輔のイメージがあります。ちょっとオドオドしてる感じが秀秋っぽかったのですが、今回の大河でイメージが変わりそうです。
あの頼りなさげな肖像画でイメージ的にだいぶ損している感じがしますねあの肖像画は秀秋死後に北政所か描かせたものなんですが、養子だったころの子供のころの秀秋の顔で描かせたんですよねあの肖像画、子供のような顔をしているでしょう?肖像画を描かせたときは、秀吉を弔うために高台寺を建築している時で秀吉の肖像画と一緒に秀秋の肖像画も描かせています秀吉の肖像画も非常に華やかで穏やかな表情で描かせていますので、セットで描かせた秀秋の肖像画も華やかで穏やかで且つ子供のころの顔で描かれているんですよ本人は背が高くがっちりとした武闘派だったんですけどね多分顔もいかつかったと思います
肖像画は色白だけど晩年は黄疸が出てたということなので、地肌も不健康な黒さだったんだろうな。
山口宗永の子孫が。あの山口多聞だと聞いて驚きました。
秀吉との血縁関係がないのに養子とされ大切に扱われたのは、当時の秀吉の後継者となるはずだった於次秀勝が重体で先の見通しがなかったからなんですね。それ以降の秀秋の寵愛されぶり、豊臣一門筆頭としての立ち位置から、秀吉寧々夫妻に本当に大切にされていたんだなあと感じました。ただ既に7歳から飲酒習慣があり、かなり泥酔することもあったとはビックリしました。突然の自身の身分の上昇による心理的プレッシャーを感じるには早過ぎるので、彼固有の性癖でしょうか?!素行不良と合わせ、気になります。その後、秀頼誕生による立場の急変で小早川家に行くも、隆景にも望まれていたようですね。毛利家の親族である点からも、吉川、毛利と足並みを揃える必要はあったでしょうから、東軍に最終的に付いたのも道理です。後年、(と言っても若いですが)家臣団の統制に苦しみ重臣が次々いなくなるのは、きつかったと思います。過剰な飲酒癖が祟ってのあまりにも早い死は、彼の短い生涯を終わらせた原因であり、必然であったのかもしれません。寧々が彼を弔ったというのが、せめてもです。実質的な苦労知らずの経歴故の苦悩を感じます。質問なのですが、以前の動画でも解説をされていた”禁制を発する”というのは、実際に何をすることなのでしょうか?
ざっくりですが、禁制は寺院や村において乱暴狼藉を禁じる文書を出すことです。寺院側は禁制に書かれた権力者の名前を出して軍隊や武装勢力による略奪を防ぎました。一般的には寺院側が発給を依頼するので、今回の場合は高宮や柏原では小早川秀秋が現地では頼れる勢力と認められ、多賀大社は福島正則を頼った形になりますね。
@@rekishock さん 迅速な返信ありがとうございます。乱暴狼藉を禁じる文書なんですね。発給を依頼することが信頼されているという証となるということですね。勉強になりました。たくさんのコメントがある中、いつも丁寧に返信して下さり、感謝しています。これからも、よろしくお願いします。
裏切り者と小早川秀秋が良く知られてますが他にも寝返り…裏切り…様子見…あまたいた中で1人取り沙汰されていることに違和感を感じていました。肖像画もあのような目がたれた感じではないと思います。
戦国に裏切りはつきものだが、小早川秀秋と明智光秀のは掟破りすぎるな😅
幼少期から、ちやほやされて、酒と女を覚えたら。
うーん、まだこうだとは断言できる段階ではないような結局は明確に東西こうだと峻別できず玉虫色状態の日和見が多かったかなと(小早川に限らず)
今までの歴史創作を信じるのにこれだけ一次史料が揃っていて「うーん、まだこうだとは断言できる段階ではないような」って相当な思考回路とソレこそ「決断力」が無い創作の天下の愚物・小早川秀秋でワロタw
@@kuma-y2r 別に旧来の説を絶対視してるわけじゃないですよただ最新説=正しい説と鵜呑みにしすぎるのも危ういって話だけでまだあくまでも学会でも諸説ある段階で色々と議論されてる途上なのに実はが強調されるとインパクトが強いからこれが真実だと考えもなしに鵜呑みにしゃう人が多いがらね法律と同じように一次資料も解釈 (またその書き手)によって様々に捉えれるからその解釈の整合性の見当の余地なしにこの人がいってるからこれに違いないは思考停止そのものですね
@user-jo4sc6hh9m 別にインパクトも強くないし「史料」にあることを歴史家が紹介して何が悪い?しかも貴方が述べる旧説とやらは「講談」と「小説」。それを「うーん、まだこうだとは断言できる段階ではないような」で誤魔化す思考回路の方が危うい。思考停止と言うが、何か「史料検証」でもしたの?思考停止は貴方で、更に解釈など言われているが信じたくも無いだけで言い分は完全な「確証バイアス(見たい物だけを見て、見たくない物は見ない)」状態を自己紹介しているが?
黒田は勝手に寧々の名前出しません
ボンボンだったみたいで、幼き頃から、御神酒の味を覚えちゃったのね。そりゃ若死するのも納得だわ、アル中の症状が出てたのは、察する所で、秀吉君もかなり頭が痛かったかなって、寧々女史のほうか、家康君からの調略は有ったらしいんだけれど、決め兼ねてたと言うよりも、呑んだくれてて、苛立った家康君が、鉄砲をぶっ放して催促ってのが、正しいかも、御家騒動気味だったようで、遅かれ速かれ、改易って感じで、病死で獅子が無く断絶で良かったかも?
未完の大器?どこを拡大評価したらそうなる
一門衆として、将来要職につくのは確実だったからかな?
まああんな兜しとるやつがまともなわけないwwww
個人的には好きだけど、前から見たら冬虫夏草みたいではあるな
今回のどうする家康の秀秋、結局は途中で裏切りながらも最初から裏切っていた説も取り入れていたし、何よりかっこよかったのでとてもいい描き方だなと思いました。
小早川秀秋は一武将ではなく、豊臣秀次などと同じ豊臣一門衆筆頭と捉えると見方が変わってくると思います。
生まれが遅かったのと出自的に高い身分の状態で生まれてきたがために散々秀吉に振り回されて秀頼が誕生したら邪魔者扱いされて家臣も元々秀吉付きの者が多く、主君と家臣との主従関係が希薄で家中の統率力の図りようがなかったのが不憫。関ヶ原本戦においても元々家康とは内応関係にあったとは言え、松野重元(西軍派)・平岡頼勝(中立派)・稲葉正成(東軍派)と家中分裂してまとまりがなく、加えて家康・黒田長政から目付まで派遣されていたら無言の圧力と散々豊臣家に人生振り回された訳だし東軍に付くよね。
関ヶ原の戦いは、必ずしも
「豊臣側vs徳川家」という構図ではないよ
@@cala1075 誰もそんな事言ってませんよ?送り先間違えたのでしょうか。
@@shun1670
「豊臣家に人生振り回されたから東軍に付く…」
という部分に対して、そういう訳ではないよと教えているんです。
@@cala1075 西軍=豊臣家 東軍=徳川家という古いお考えを未だにお持ちなのが残念です。
度数は高くないとはいえ幼少からの飲酒ってやばいんだなぁ。
うp主の一連の動画を見る前は稲葉正成が東軍に付くよう唆したと思っていたんですが
秀秋自身の判断だったんですね。
肖像画からは色白で頼りない印象があるけれど急性アルコール中毒が死因として考えられる程の酒豪で実は180cm程度と高身長なのギャップ萌え。
実は陽キャだったんですね😅
葵徳川3代のデカい秀秋が近いのね
イメージは、国広さんなんだけど
関ヶ原の戦い新説の小早川秀秋は元々イメージしていた関ヶ原の戦い以上にキーマンだったと捉える事も出来そうですね。(戦が始まるきっかけという意味でです)
これまで大河等で描かれてた秀秋って、家康の脅しに屈した点や肖像画の感じを考慮されてか、かなり気弱だったり、お人好しな感じな作品もあったと思います。
それに比べて今回は、かなり気性の荒い感じに仕上がってて驚きました。
ま、7歳から酒を食らってたり、北政所と口論になってるエピソードからして、こちらの方が実情に近いのでしょうね。
叔母甥の間柄とは言え7歳にしてあの北政所に口答え出来るところを見ると、なかなか利発な少年だったのでしょうな😅
漫画のへうげものでは、ダダのアブナイやつでした。
まあ現代でもおじさんがいきなり世界的大企業の社長になって
10代で取締役に引き立てられたら狂っちゃうかもね
★ 関ヶ原の戦いは、小牧・長久手の戦いの焼き直し。
西軍が防御陣地から出たところを急襲したんだろうな。
開戦したらしたで、戦術はナポレオンがよく使用した内線作戦。
どれだけ卓越した指揮官であれ、この時の徳川家康に勝利することはできない。
守備に回れば「石の壁」ロバート・E・リー。攻撃に回ればナポレオン。
当時の理解からすれば、現世にいる神。現存する神に近い。
小早川秀秋は裏切り者と言われたが、秀秋と同じように東軍に寝返った脇坂安治・朽木元綱(関ヶ原に参加していないと言う説もある。)・小川祐忠・赤座直保がいる。脇坂安春の子孫は後に譜代大名になって老中を歴任した者がいる。小川と赤座は東軍に改易された。
秀秋が最初から西軍を裏切っていたことが分かっていたのなら、三成は大谷、脇坂など僅かの兵力で15000の小早川軍を防ごうなんて不可能なことぐらい分かっていたはずなので、裏切りは想定外。この時期、多くの大名は家康、三成の双方から勧誘を受けていたので、手紙や使者の動きだけでは決め手にならない。むしろ三成にとっては、秀秋が伏見城攻めに参加したことが決め手になった。その点、秀秋が伏見城攻めに参加したにもかかわらず秀秋調略の成功を信じて敵前に本軍を動かした家康は凄い。三成の不幸は直江兼続、真田昌幸が傍にいなかったこと。大谷吉継も失明していたことで、毛利家中の状況を想定出来なかった。毛利家のキーマンは当主の輝元でも外交僧の安国寺恵瓊でもなく分家の吉川広家だったのも三成の想定外。
秀吉という社長が亡くなって豊臣政権を三成か家康のどちらに任すか、であれば最期まで秀吉の傍にいて利家と共に秀頼を託された家康を信用出来ても、秀吉が生前明らかに小早川家引き抜いて弱体化を企んでいた毛利輝元を味方にする三成ではその器の差で家康に付く方が安泰を図るのに得策と考えるのが普通。
その輝元は豊臣政権下家康との露骨な優遇の差を見せつけられた反動で豊臣家乗っ取りを家康に疑われては困るから三成に心底味方したとは思えません。そういう意味でも上杉征伐そのものが家康の見事なシナリオだったと。
お目目たれてる秀秋君
片倉さんちの重長君へのストーカー行為を取り上げて欲しかったなぁ
7歳で飲酒はさすがにヤバすぎでしょ?
若死したのは仕方ないけど、それだけ印象が薄かった武将なんでしょうね。
再三の徳川からの催促が問い鉄砲の由来なのではと。思います。
じいさんの私の小早川秀秋のイメージは上地雄輔だな
私も そう思う。あのチャラぽさがそう感じるが、本当はなかなかの策士なんだな。
自分も小早川秀秋は長らく上地雄輔のイメージがあります。ちょっとオドオドしてる感じが秀秋っぽかったのですが、今回の大河でイメージが変わりそうです。
あの頼りなさげな肖像画でイメージ的にだいぶ損している感じがしますね
あの肖像画は秀秋死後に北政所か描かせたものなんですが、養子だったころの子供のころの秀秋の顔で描かせたんですよね
あの肖像画、子供のような顔をしているでしょう?
肖像画を描かせたときは、秀吉を弔うために高台寺を建築している時で秀吉の肖像画と一緒に秀秋の肖像画も描かせています
秀吉の肖像画も非常に華やかで穏やかな表情で描かせていますので、セットで描かせた秀秋の肖像画も華やかで穏やかで且つ子供のころの顔で描かれているんですよ
本人は背が高くがっちりとした武闘派だったんですけどね
多分顔もいかつかったと思います
肖像画は色白だけど晩年は黄疸が出てたということなので、地肌も不健康な黒さだったんだろうな。
山口宗永の子孫が。あの山口多聞だと聞いて驚きました。
秀吉との血縁関係がないのに養子とされ大切に扱われたのは、当時の秀吉の後継者となるはずだった於次秀勝が重体で先の見通しがなかったからなんですね。それ以降の秀秋の寵愛されぶり、豊臣一門筆頭としての立ち位置から、秀吉寧々夫妻に本当に大切にされていたんだなあと感じました。ただ既に7歳から飲酒習慣があり、かなり泥酔することもあったとはビックリしました。突然の自身の身分の上昇による心理的プレッシャーを感じるには早過ぎるので、彼固有の性癖でしょうか?!素行不良と合わせ、気になります。その後、秀頼誕生による立場の急変で小早川家に行くも、隆景にも望まれていたようですね。毛利家の親族である点からも、吉川、毛利と足並みを揃える必要はあったでしょうから、東軍に最終的に付いたのも道理です。後年、(と言っても若いですが)家臣団の統制に苦しみ重臣が次々いなくなるのは、きつかったと思います。過剰な飲酒癖が祟ってのあまりにも早い死は、彼の短い生涯を終わらせた原因であり、必然であったのかもしれません。寧々が彼を弔ったというのが、せめてもです。実質的な苦労知らずの経歴故の苦悩を感じます。
質問なのですが、以前の動画でも解説をされていた”禁制を発する”というのは、実際に何をすることなのでしょうか?
ざっくりですが、禁制は寺院や村において乱暴狼藉を禁じる文書を出すことです。寺院側は禁制に書かれた権力者の名前を出して軍隊や武装勢力による略奪を防ぎました。
一般的には寺院側が発給を依頼するので、今回の場合は高宮や柏原では小早川秀秋が現地では頼れる勢力と認められ、多賀大社は福島正則を頼った形になりますね。
@@rekishock さん 迅速な返信ありがとうございます。乱暴狼藉を禁じる文書なんですね。発給を依頼することが信頼されているという証となるということですね。勉強になりました。たくさんのコメントがある中、いつも丁寧に返信して下さり、感謝しています。これからも、よろしくお願いします。
裏切り者と小早川秀秋が良く知られてますが他にも寝返り…裏切り…様子見…あまたいた中で1人取り沙汰されていることに違和感を感じていました。肖像画もあのような目がたれた感じではないと思います。
戦国に裏切りはつきものだが、小早川秀秋と明智光秀のは掟破りすぎるな😅
幼少期から、ちやほやされて、酒と女を覚えたら。
うーん、まだこうだとは断言できる段階ではないような
結局は明確に東西こうだと峻別できず玉虫色状態の日和見が多かったかなと(小早川に限らず)
今までの歴史創作を信じるのに
これだけ一次史料が揃っていて「うーん、まだこうだとは断言できる段階ではないような」
って相当な思考回路とソレこそ「決断力」が無い
創作の天下の愚物・小早川秀秋でワロタw
@@kuma-y2r
別に旧来の説を絶対視してるわけじゃないですよ
ただ最新説=正しい説と鵜呑みにしすぎるのも危ういって話だけで
まだあくまでも学会でも諸説ある段階で色々と議論されてる途上なのに
実はが強調されるとインパクトが強いからこれが真実だと考えもなしに鵜呑みにしゃう人が多いがらね
法律と同じように一次資料も解釈 (またその書き手)によって様々に捉えれるからその解釈の整合性の見当の余地なしにこの人がいってるからこれに違いないは思考停止そのものですね
@user-jo4sc6hh9m 別にインパクトも強くないし「史料」にあることを歴史家が紹介して何が悪い?
しかも貴方が述べる旧説とやらは「講談」と「小説」。
それを「うーん、まだこうだとは断言できる段階ではないような」で誤魔化す思考回路の方が危うい。
思考停止と言うが、何か「史料検証」でもしたの?
思考停止は貴方で、更に解釈など言われているが信じたくも無いだけで
言い分は完全な「確証バイアス(見たい物だけを見て、見たくない物は見ない)」状態を
自己紹介しているが?
黒田は勝手に寧々の名前出しません
ボンボンだったみたいで、幼き頃から、御神酒の味を覚えちゃったのね。そりゃ若死するのも納得だわ、アル中の症状が出てたのは、察する所で、秀吉君もかなり頭が痛かったかなって、寧々女史のほうか、家康君からの調略は有ったらしいんだけれど、決め兼ねてたと言うよりも、呑んだくれてて、苛立った家康君が、鉄砲をぶっ放して催促ってのが、正しいかも、御家騒動気味だったようで、遅かれ速かれ、改易って感じで、病死で獅子が無く断絶で良かったかも?
未完の大器?どこを拡大評価したらそうなる
一門衆として、将来要職につくのは確実だったからかな?
まああんな兜しとるやつがまともなわけないwwww
個人的には好きだけど、前から見たら冬虫夏草みたいではあるな