誰しも大人になるという不条理『ノルウェイの森|村上春樹』【雑談
Вставка
- Опубліковано 11 лют 2025
- ◻︎協賛スポンサー
農おおはし
www.instagram....
ハイッテイル株式会社
note.com/wp_op...
Mohuwa
mofuwa.jp/
※※スポンサー募集中!!(個人も可)
哲学チャンネルの活動を応援してくださる方を募集中です。
ご協力いただける場合はXのDMにてご連絡ください。
◻︎本日紹介した書籍
ノルウェイの森|村上春樹 (講談社文庫)
amzn.to/40ibzXq
◻︎読んでみたい本やあると便利な機材や生活物資など。もしよろしければご支援いただけると幸いです!
www.amazon.co....
◻︎関連性の高い過去のコンテンツ
時間をどう味わうか『魔の山|トーマス・マン』【雑談#86】
• 時間をどう味わうか『魔の山|トーマス・マン』...
◻︎メインチャンネル
/ @哲学チャンネル
◻︎Xやってます。フォロー嬉しいです。
/ tetsugaku_ch
◻︎noteでは不定期で哲学関連の記事を更新しています。
note.com/tetsu...
#哲学チャンネル
#ノルウェイの森
#村上春樹
何かの映画で「二十代の時のサックスは特別だったけど、40代になっていつもの同じホテルで売れない女優を抱いてるのに何も感じない」とありました。
ずっと監督になりたいという夢を追っている作品で多分わかると思います。
ずっと動画を拝聴していたので、この作品が紹介された事自体が少し感慨深いです。(笑)
大好きな作品で、私の場合初めて読んだのは大学生の時でした。自分の情緒的な性格がマスキュリニティ的に嫌で、務めて論理的であろうとしていた時だったので、この作品が多くの人に支持されている事に安心した記憶があります。(このような感傷的な感性を保持していてもいいんだなという安堵感)
ただ、十分に歳を取ってから最近読み返した時の感想は、「もうこの(あの)頃には戻りたく無いなぁ」というものでしたが、、、。
私としては、「名のあるキャラクターとの交わり」というイベントについては九鬼周造の「いきの構造」における媚態のようなものを連想します。
"媚態とは、自と他が互いに相手と関わろうとしながら、決して束縛・固定される事を許さない緊張した関係を維持すること"
交わる前は、緊張感のなかで、それぞれは兄弟でも友達でも恋人でも何者でも無い、不確定性が担保されたコドモでいられる。
交わった後は、相手との関係性が、不確定性の解消として固定されるオトナになるか、もしくはその関係性自体が喪失されなければならない。
レイコとのそれは、それぞれ心に区切りがついた後、これ以上はお互いが交差しない事を理解した諦めのなかでの、通過儀礼としてのそれだったのではないかと思っています。
「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」もいつかお話聞いてみたいです✨
とても深読みしがいがあって、哲学や考えることを大切にしている人には是非読んでいただきたいです🫢
一年前の動画(独り言10)で『ノルウェイの森』のわからなさをコメントしましたが、『海辺のカフカ』の動画と今回の説明で、わからなさが多少緩和されたような気はしました。
まず、この小説が60年代の学生運動の時代の回顧という形で書かれていたということです(すっかり忘れてましたが)。村上の歳を考えれば全共闘世代ですから当然といえば当然なんですが。自らの青春時代の体験、戸惑いなり混乱なりを赤裸々に語った小説だったのではと思い直しました。あまりにストレートすぎて考えにくことではありましたが。一種のノスタルジーとでもいうか。それなら、それまでの「ファンタジー&ポップで乾いた文体」から、いきなり「リアリズム&重く湿った文体」に豹変した理由も理解できるような気はします。もっとも、人気のプロ作家として確信犯的にそれをやったということなんでしょうが。
私のイメージとしては「いちご白書をもう一度」(荒井由実作曲)でしょうか。若い人には何のことやらでしょうけどね。つまり、学生運動で大はしゃぎしていた連中が、運動が下火になると何事もなかったかのようにネクタイを締めて企業面接を受けにいき、平然と企業社会の中に吸い込まれていった。それが大人になることさといわんばかりに。村上自身はそれを苦々しく見つめていたんでしょう。ノンポリではあっても世の中が変わることに本気で期待をかけていたのかもしれません。まあ、喪失感といえばそうだし、ノスタルジーといえばそうなんでしょうね。
さらに、私のその時代の乏しい連想としては『赤頭巾ちゃん気をつけて』、『されどわれらが日々』、『二十歳の原点』みたいなものも浮かんできます。そして、前者の二つはいずれも芥川賞をとってるんですよね。
村上は、当初はそうした小説のパロディとして、この小説を企図したんじゃないかという疑いが湧いてきました。パロディなのかオマージュなのか。俺ならもっとうまく書けるぞみたいなつもりだったのか。たしかに当時の村上は人気作家ではあっても、まだ純文学作家という括りには入れられていないかんじはありました。さすがにもう芥川賞にこだわる状況でもなくなっていたでしょうが、このへんでひとつ文学文学したパターンもひとつ出しておくかぐらいな気持ちはあったのかもしれません。それが、自分が若い頃に置き去りにしてきたもやもやに結着をつけることにもなるし。
実際、今になって考えると『ノルウェイの森』以前の初期作品にしても、本質部分は変わっていなかったような気もしてきました。つまり、一貫して村上春樹の文学は「反抗の文学」だったんじゃないかということですが。60年代に流行ったカウンターカルチャーなどの流れもあったでしょう。村上はそれをひきずり、ある意味、取り残された人になった。さすがに70-80年代にそのスタイルのままでいるわけにもいかず、時代の装いとして編み出したのがあの「ファンタジー&ポップで乾いた文体」だったのではないか。「羊男」の羊の皮の下には、反抗の意志を固めた村上の姿があったということなんでしょうか。
私としては、村上の初期作品については、都会の中で社会や他者に依存せず自立して生きる生活スタイルを新鮮に感じていました。たとえば、当時は若い男性が自分でスパゲッティを作るようなことなどあまりなかった。しかもトマトソースにオレガノを入れて煮込んだりとか。社会的に成功して物質的な豊かさを享受するといったことでなく、自分の身の回りのことをきちんとやるみたいなとりたててどうということもない話ではあります。しかし、この自立がどこからきたかといえば、システムに対する反抗からと言えないこともないですよね。
だいたい「反抗の文学」といえば大御所はカミュということになりますよね。カミュといえば『異邦人』ですが、『異邦人』と『ノルウェイの森』ってどことなく似たところがありませんか。ママンの葬式のあとで昔の恋人とビーチで遊んでセックスして挙げ句に人を殺して太陽のせいだと嘘ぶいているという。具体的に言うと面倒なので省きますが、要するに「不条理性」という点で似通ってるんです。私はここでワタナベ君はムルソーであるという新説(珍説?)を唱えたいと思います。傍証としては、この小説が村上が地中海旅行をしているときに書かれたものであるという点もあげておきます。
まあ、「革命」ごっこの挙げ句、あっさり「システム」の中に去っていった人々に対して、村上は「反抗」によってシステムに対峙し続けることを選んだといえそうな気はしますね。サルトルに対するカミュのようにも見えてきましたが。
サルトルは社会を変革することを目指しましたが、カミュはむしろ個人の内面に深く働きかけることでシステムへの抵抗を試みようとした。村上は、やはりカミュの系譜を引き継ぐ作家といってもいいんじゃないでしょうか。
ちなみに話は逸れますが。村上龍と村上春樹をサルトルとカミュに見立てて解釈することもできるのではとちょっと思いました。もちろん、龍がサルトルで春樹がカミュということですが。春樹が個人の内面の解明に向かったのに対して、龍の方はある意味で社会の変革のほうに向かったといえるんじゃないか。だいたい「カンブリア宮殿」とかやってるわけですから。だれかが「否定性」対「肯定性」といってたような気がしますが、だれだったかはっきりしません。
そこで、村上春樹のいう「システム」とはいったい何かということです。
一般には「システム」といえば「体制」でしょうが、村上の場合、政治や社会の体制の下に、もう一段、深い層があり、そこを解明しないと問題解決にはならないと考えているふしが感じられます。それは、「生」と「死」の構造であるとか「種」と「個人」の構造といったものではないでしょうか。あるいは人間存在の不条理とか、人間存在自体の「壁」とかいったかんじかもしれません。
そもそも、どうせ死ぬのになぜ生きるのかという問題(不条理)があります。自分のためか社会のためか。自分のための社会なのか。社会のための自分なのか。それらが「生」と「死」によって構造化され意味づけられている。
そして、セックスは個人の快楽のためでもあるが、種の維持のための本能でもある。個人の快楽と種の存続は本来、別ものであり、これをひとつのものとして受けいれるのはそれなりに高いハードルであるはず。様々な儀式やら社会的しくみやら意識変容(あるいは本能)によってこのハードルを超えたとき、それを大人になったと世間はみなすらしい。
学生運動という儀礼をへて企業社会に吸収されていった者たちは「生」や「種」のためというできあいの構造の中に意味を見いだし、それを大人になることだと錯覚して自分を納得させているが、村上はあくまで意味を押しつけてくるシステムに抗い、「個人」や「死」にこだわって意味を探し続ける子どもの側に留まることを選んだといえそうですね。
以上から、『ノルウェイの森』には、不条理性という普遍的な問題意識があることがわかりました。しかし、これが人気の要因かというと、まだ足りないような気がします。
もうひとつ、『ノルウェイの森』と夏目漱石の『こころ』の対比、類似から、人気の原因を考えようとしましたが、ずいぶん書き過ぎたし、面倒なので省くことにします。
まったく本を読まない同僚が、よく読んでいる同僚からほぼ初めて『ノルウェイの森』を勧められて読後にやさしい口調で「○○○○(あだ名です)いい本を教えてくれて、アリガトね、面白かった。」という場面がありました。ふたりはヒロトとマーシーのように仲が良く、ワタシは羨ましかった。
その時、急にこの作品の味を感じたような気になりました。
今更ですが、主様はすごい。あらゆる分野の、どんなに晦渋で長編の本も読み解き、噛み砕いで解説できる。主様がエベレストだとすると、ボクなんかはホントそこらへんの石ころ。この差は生まれ持ったものだから何ともならない。ボクには村上春樹なんて一生縁がないです。今回も大変に勉強になりましたm(__)m
村上春樹の物語が私には必要の無い理由が解りました。
じゃりン子チエ的な、汚れた泥の河で生まれ育った私だからなのでしょう。テレビ版のエヴァンゲリオンにも、カヲルを殺して逡巡する主人公問いかける女性上司の場面があります。
私は大人になって汚れてでも生きて行く本質の持ち主だった。
村上春樹氏の中学生の頃の同級生と話す機会があり、生まれて育った世界が違うと知った事も思い出しました。
小林緑です