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難しすぎてわからないのになぜかまた聞いてる。なんだこれ?
素晴らしい動画ありがとうございます。65才になりますが、私がずっと追求してる内容がわかりやすく解説してくださり、また発声も聴き取りやすく感謝しております。どうか、頑張って今後もご活躍ください。
こちらこそ、御視聴並びに丁寧なコメント、誠にありがとうございます。井筒さんの別の著作も、そのうちまた動画にしたいと願っております。気長にお待ちいただけましたら幸いです。
ありがとうございます♪楽しみです。
素晴らしい👍
このチャンネルの動画を300回ぐらい観ています。いつも素敵な動画をありがとうございます💝🍫💞
繰り返し御視聴いただけるのは本当に嬉しいです。こちらこそ、いつもありがとうございます😊
本を読んでもなかなか言葉が入ってこなくて頭が混乱していたのですが、これを聴いて少しだけ入ってきました。ありがとうございます。
動画、先ず有り難うございました。数年前に『意識と本質』を読み「本質」が判りませんでしたので、ある講演会(東京)で講演終了後に若松英輔氏にそれを質問したのですが、腑に落ちませんでした。その後、若松さんの本(『井筒俊彦』慶應義塾大学出版会)を読み判りました。目から鱗が落ちました。ドストエフスキー・夏目漱石・宮沢賢治・ヘーゲル・ソクラテス・ユング等が繋がりました。今回の動画を拝聴して、まだ完全に読み解いていないことに気付きました。再度・再再度『意識と本質』を読もうと思っています。改めて深謝、深謝。
こちらこそ、御視聴並びに丁寧なコメント、誠にありがとうございます。少しでもお役に立てたのなら嬉しいです。やはり、『意識と本質』は再読するたびに新たな発見を得られる名著ですね。私もそのうちまた読み返したいと願っております。
詩と哲学の本なのですか?凄いですね。この本を読むのは大変そうですね。チャレンジしてみます。
東洋思想を解説するのに古今東西の文学や哲学が引き合いに出されている感じです。チャレンジして損はないですよ。生涯、付き合える名著です。
概要欄の言葉すごく腹落ちします。結局は善く生きること、幸せを感じること、そのための考え方と生き方。正解はなく、間違いもない。各々の考え方。なんとなく感じていたことが言語化されていて嬉しく思いました。今後も動画楽しませてもらいます。
年の瀬になるとなぜか井筒俊彦先生「意識と本質」を読みたくなります、難解なのに何故、、、この本を読むと(その時の自分なりに)なにかをリセット(枠組を外す?)することができるような気がするのです。来年も貴チャンネルの動画配信をこころから楽しみにしています。お身体には気をつけて納得のいく動画を作ってください。※井筒先生の「イスラーム文化」の動画も是非お願いしたいです。
ありがとうございます。井筒さんの本は何冊か積んでいるので、来年は一本くらい動画にできたらな、という感じです。良いお年をお迎え下さい。
@@read- どうもありがとうございます。
意識と本質読み終わりました。だらだら読んでいたので1ヶ月くらいかかりましたが...マラルメ論やリルケ論、古今和歌集、本居宣長についての書かれているところが個人的には特に印象に残りました。僕はよくボードレールやマラルメ、リルケなどを読むのですがこのチャンネルでは詩論について扱うことはありますか?
以前読みましたが、丁寧な解説で再読する必要がないほどいい内容でした、ありがとうございます。他の動画も拝見しており、今回チャンネル登録させてもらいました、あらたな読解よろしくお願い致します。
御視聴ならびにチャンネル登録ありがとうございます。おそらく明日中にはレヴィナスの動画をあげられますので、いましばらくお待ちください。
いつも素晴らしい動画をありがとうございます。動画中のフリー素材の動画が必要ないように感じました。図や本の表紙だけの方が集中できるので
こういう難解な本を読む意味は自分の問題を解決する為に読む訳で別に知識をつけるために読むわけではない。自己の悩みの根源はどこから発生するのかを知り悩みから解脱する為に読む、いわば心の闇を照らし明るく生きるための手段です。無分別の世界から分別が起こり分別から執着が起き執着から煩悩が起き煩悩から苦しみが起きる。結局無分別まで還らないと悩みの根本解決ができないという事。これが唯識
ルドルフシュタイナー「自由の哲学」を一読されることをおすすめします。
意識と本質を読んだのはもう何年も前なので、いい復習になりました。ありがとうございます。最近転職したり小説を書き始めたりして、バタバタしていていたのでUA-camから離れていましたがやっと落ち着きました(小説も最初は軽い喜劇を書くつもりがそれでは欲求不満を覚え『死の欲動が満たされないというか』、やたら暴力的で破滅的なものになったり…) 死の欲動といえば、木村敏という精神病理学者がフロイトのタナトスという概念を批判的に継承していますが(存在者の個別性を取り消して、生成のディオニュソス的世界に回帰しようとする衝動と定義してました。ビオスとゾーエーという概念をもちいて。関係としての自己という本でした)、木村敏さんを取り上げる予定はないでしょうか?最近木村敏さんを集中的に読んでいて、滅法面白いので、押し付けがましいようですが質問させていただきました。なんか支離滅裂な文章になってすいません。最近死の欲動という概念がめっちゃ気になってて…。自分が宗教や芸術に惹かれるのも、死の欲動が強いせいじゃないかと思ったりして。この動画に関係して言えば、個別的に認識する表層意識から無意識へ突き進むのに死の欲動が関係してるような気がして…。
お久しぶりです、コメントありがとうございます😊木村さんに限らず、精神分析を扱う予定はまったくありません。何か、肌に合わないんですよ……。死の衝動についてはバタイユの動画で述べた通り、エロスに含むのが本来であると私は考えています。転職なさったのですね。まだ大変な時期かも知れませんが、執筆とともに無理せず頑張ってください😄
名著の名解説ありがとうございます。自分は本に出てくる嘔吐のような経験をしましたが、考えるにつけ東洋、西洋思想という区別はどうかな?と思うようになりました。なぜなら近代においてどれほどの東洋人が東洋思想をもって生きているのかは疑問です。私の考えでは身体に付くエゴが強く、拒絶反応のような、受け入れがたい反応をしているのではないかと最近は思っています。動画の説明では、著者が言語が影響すると言っていますが、すると意識も脳だけの問題になり、すると宗教家の言うことが個人の脳内で起こっている事だけを説明する事になるようでどうなんだろうかと思います。実際自分の存在含めて、幻想、宇宙の見る夢。それを答えとして腑に落ちるとすれば、別ですが。でも実際この肉体はあるのではないでしょうか?これをどうとらえればよいのか、、、何度も読み返そうと思います。ありがとうございます。
仏教における「妄想」は「もうぞう」と読みまする。(重箱の隅をスマン!😖)
「もうぞうふんべつ」なわけですね。いや、勉強になりました。御指摘いただきまして、誠にありがとうございます(*´ω`*)
いつも興味深い動画を投稿してくださりありがとうございます!この動画を視聴し、天人五衰の最後のセリフ、それも心々ですさかい、を思い出しました。しかし、理性で世界を捉えるってのはしんどいですね、僕は阿呆者ですから自己の肉体への刺激を通してでしか世界を把握できませんw阿呆者の理性など下手の考え休むに似たりですから、僕は肉体への刺激を信ずるのみですwいつか虚空の頂から真理が顕現するを僕の肉体が捉えてくればいいのですがね……w
コメント、ありがとうございます。誰もが五官を通して現実を認識しますよね。その解釈は十人十色で、この点に関して超越論的な要素は入ってきません。例えば、この文章から受け取る「現実」(印象)は、読む人によって異なる。これは、いたって科学的(理性的)な話です。『天人五衰』の最後の台詞は、唯識論ですね。唯識論になると自分の認識しているものだけが実在する、つまり五官を通して感じられるあれやこれやは自分の中だけ真実ということになり、心心ですさかいという台詞に結びつきます。
アリストテレスが『カテゴリー論』という著作で「特定の個人」(たとえばソクラテス)を「第一本質」、「人間」や「動物」など、グループを現す言葉を「第二本質」と言っていたのですが、アリストテレスは個体的本質の人なのでしょうか?
アリストテレス、判らないですごめんなさい。『意識と本質』でも言及されてなかったはず。プラトンのイデア論に反対し、個物に本質は宿ると考え、その本質とは形相(エイドス)であるとしたそうなんですけど、前者を「第一本質」とするなら個体的本質、後者を「第二本質」とするなら普遍的本質な印象を受けます。イスラム哲学がフウィーヤ・マーヒーヤを分類しているように、アリストテレスの哲学もそれぞれの本質を分類しているのかも知れません。……こんくらいしか言えません。どうしても気になるということでしたら餅は餅屋、ネオミンさんにお訊ねになることをお勧めいたします。
アリストテレスは『カテゴリー論』において、特定の基体を語る「本質的述語づけ」とその基体に加える「付帯的述語づけ」をそれぞれ否定したものを実体としました。この実体は、現代において個物という言う意味合いが近いそうです。このことから、アリストテレスは個物を第一とし、個体的本質をメインとしていたと考えられます。
冒頭でおっしゃっていた服による世界の分節化というのは、バルトのことですかね?
バルト及び、バルトを下敷きにした鷲田清一さんの著作を意識して述べています。
@@read- なるほど、鷲田さんの本はかなり分かりやすいものが多いですけど、バルトらしさはありますものね。ありがとうございます。
道(みち)ではなく道(タオ)ではないでしょうか??
読み方は「みち」で間違いありませんが、お望みなら「タオ」でも大丈夫だと思いますよ。
そうか、「みち」とも読めるのか、勉強させていただきました
🙄🌱💙🥀
井筒さんって、語学の才能として日本史上では空海以来の存在ですね。このくらいの天才になると、われわれ愚生では到達できない視点に立っておられのかも知れませんね・・・。なお、ご自分の省察を加えられてのこの動画は拝見していて面白いです。ありがとう!
余裕で空海以上ですね。
難しすぎてわからないのに
なぜかまた聞いてる。
なんだこれ?
素晴らしい動画ありがとうございます。
65才になりますが、私がずっと追求してる内容がわかりやすく解説してくださり、また発声も聴き取りやすく感謝しております。どうか、頑張って今後もご活躍ください。
こちらこそ、御視聴並びに丁寧なコメント、誠にありがとうございます。
井筒さんの別の著作も、そのうちまた動画にしたいと願っております。気長にお待ちいただけましたら幸いです。
ありがとうございます♪楽しみです。
素晴らしい👍
このチャンネルの動画を300回ぐらい観ています。いつも素敵な動画をありがとうございます💝🍫💞
繰り返し御視聴いただけるのは本当に嬉しいです。こちらこそ、いつもありがとうございます😊
本を読んでもなかなか言葉が入ってこなくて頭が混乱していたのですが、これを聴いて少しだけ入ってきました。
ありがとうございます。
動画、先ず有り難うございました。数年前に『意識と本質』を読み「本質」が判りませんでしたので、ある講演会(東京)で講演終了後に若松英輔氏にそれを質問したのですが、腑に落ちませんでした。その後、若松さんの本(『井筒俊彦』慶應義塾大学出版会)を読み判りました。目から鱗が落ちました。ドストエフスキー・夏目漱石・宮沢賢治・ヘーゲル・ソクラテス・ユング等が繋がりました。今回の動画を拝聴して、まだ完全に読み解いていないことに気付きました。再度・再再度『意識と本質』を読もうと思っています。改めて深謝、深謝。
こちらこそ、御視聴並びに丁寧なコメント、誠にありがとうございます。少しでもお役に立てたのなら嬉しいです。やはり、『意識と本質』は再読するたびに新たな発見を得られる名著ですね。私もそのうちまた読み返したいと願っております。
詩と哲学の本なのですか?凄いですね。この本を読むのは大変そうですね。チャレンジしてみます。
東洋思想を解説するのに古今東西の文学や哲学が引き合いに出されている感じです。チャレンジして損はないですよ。生涯、付き合える名著です。
概要欄の言葉すごく腹落ちします。
結局は善く生きること、幸せを感じること、そのための考え方と生き方。正解はなく、間違いもない。各々の考え方。
なんとなく感じていたことが言語化されていて嬉しく思いました。
今後も動画楽しませてもらいます。
年の瀬になるとなぜか井筒俊彦先生「意識と本質」を読みたくなります、難解なのに何故、、、
この本を読むと(その時の自分なりに)なにかをリセット(枠組を外す?)することができるような気がするのです。
来年も貴チャンネルの動画配信をこころから楽しみにしています。
お身体には気をつけて納得のいく動画を作ってください。
※井筒先生の「イスラーム文化」の動画も是非お願いしたいです。
ありがとうございます。井筒さんの本は何冊か積んでいるので、来年は一本くらい動画にできたらな、という感じです。
良いお年をお迎え下さい。
@@read- どうもありがとうございます。
意識と本質読み終わりました。だらだら読んでいたので1ヶ月くらいかかりましたが...マラルメ論やリルケ論、古今和歌集、本居宣長についての書かれているところが個人的には特に印象に残りました。僕はよくボードレールやマラルメ、リルケなどを読むのですがこのチャンネルでは詩論について扱うことはありますか?
以前読みましたが、丁寧な解説で再読する必要がないほどいい内容でした、ありがとうございます。
他の動画も拝見しており、今回チャンネル登録させてもらいました、あらたな読解よろしくお願い致します。
御視聴ならびにチャンネル登録ありがとうございます。おそらく明日中にはレヴィナスの動画をあげられますので、いましばらくお待ちください。
いつも素晴らしい動画をありがとうございます。動画中のフリー素材の動画が必要ないように感じました。図や本の表紙だけの方が集中できるので
こういう難解な本を読む意味は自分の問題を解決する為に読む訳で別に知識を
つけるために読むわけではない。自己の悩みの根源はどこから発生するのかを
知り悩みから解脱する為に読む、いわば心の闇を照らし明るく生きるための手段です。
無分別の世界から分別が起こり分別から執着が起き執着から煩悩が起き煩悩から苦しみが
起きる。結局無分別まで還らないと悩みの根本解決ができないという事。これが唯識
ルドルフシュタイナー「自由の哲学」を一読されることをおすすめします。
意識と本質を読んだのはもう何年も前なので、いい復習になりました。ありがとうございます。最近転職したり小説を書き始めたりして、バタバタしていていたのでUA-camから離れていましたがやっと落ち着きました(小説も最初は軽い喜劇を書くつもりがそれでは欲求不満を覚え『死の欲動が満たされないというか』、やたら暴力的で破滅的なものになったり…)
死の欲動といえば、木村敏という精神病理学者がフロイトのタナトスという概念を批判的に継承していますが(存在者の個別性を取り消して、生成のディオニュソス的世界に回帰しようとする衝動と定義してました。ビオスとゾーエーという概念をもちいて。関係としての自己という本でした)、木村敏さんを取り上げる予定はないでしょうか?最近木村敏さんを集中的に読んでいて、滅法面白いので、押し付けがましいようですが質問させていただきました。なんか支離滅裂な文章になってすいません。最近死の欲動という概念がめっちゃ気になってて…。自分が宗教や芸術に惹かれるのも、死の欲動が強いせいじゃないかと思ったりして。この動画に関係して言えば、個別的に認識する表層意識から無意識へ突き進むのに死の欲動が関係してるような気がして…。
お久しぶりです、コメントありがとうございます😊
木村さんに限らず、精神分析を扱う予定はまったくありません。何か、肌に合わないんですよ……。死の衝動についてはバタイユの動画で述べた通り、エロスに含むのが本来であると私は考えています。
転職なさったのですね。まだ大変な時期かも知れませんが、執筆とともに無理せず頑張ってください😄
名著の名解説ありがとうございます。自分は本に出てくる嘔吐のような経験をしましたが、考えるにつけ東洋、西洋思想という区別はどうかな?と思うようになりました。なぜなら近代においてどれほどの東洋人が東洋思想をもって生きているのかは疑問です。私の考えでは身体に付くエゴが強く、拒絶反応のような、受け入れがたい反応をしているのではないかと最近は思っています。動画の説明では、著者が言語が影響すると言っていますが、すると意識も脳だけの問題になり、すると宗教家の言うことが個人の脳内で起こっている事だけを説明する事になるようでどうなんだろうかと思います。実際自分の存在含めて、幻想、宇宙の見る夢。それを答えとして腑に落ちるとすれば、別ですが。でも実際この肉体はあるのではないでしょうか?これをどうとらえればよいのか、、、何度も読み返そうと思います。ありがとうございます。
仏教における「妄想」は「もうぞう」と読みまする。(重箱の隅をスマン!😖)
「もうぞうふんべつ」なわけですね。いや、勉強になりました。御指摘いただきまして、誠にありがとうございます(*´ω`*)
いつも興味深い動画を投稿してくださりありがとうございます!
この動画を視聴し、天人五衰の最後のセリフ、それも心々ですさかい、を思い出しました。
しかし、理性で世界を捉えるってのはしんどいですね、僕は阿呆者ですから自己の肉体への刺激を通してでしか世界を把握できませんw
阿呆者の理性など下手の考え休むに似たりですから、僕は肉体への刺激を信ずるのみですw
いつか虚空の頂から真理が顕現するを僕の肉体が捉えてくればいいのですがね……w
コメント、ありがとうございます。誰もが五官を通して現実を認識しますよね。その解釈は十人十色で、この点に関して超越論的な要素は入ってきません。例えば、この文章から受け取る「現実」(印象)は、読む人によって異なる。これは、いたって科学的(理性的)な話です。
『天人五衰』の最後の台詞は、唯識論ですね。唯識論になると自分の認識しているものだけが実在する、つまり五官を通して感じられるあれやこれやは自分の中だけ真実ということになり、心心ですさかいという台詞に結びつきます。
アリストテレスが『カテゴリー論』という著作で「特定の個人」(たとえばソクラテス)を「第一本質」、「人間」や「動物」など、グループを現す言葉を「第二本質」と言っていたのですが、アリストテレスは個体的本質の人なのでしょうか?
アリストテレス、判らないですごめんなさい。『意識と本質』でも言及されてなかったはず。プラトンのイデア論に反対し、個物に本質は宿ると考え、その本質とは形相(エイドス)であるとしたそうなんですけど、前者を「第一本質」とするなら個体的本質、後者を「第二本質」とするなら普遍的本質な印象を受けます。イスラム哲学がフウィーヤ・マーヒーヤを分類しているように、アリストテレスの哲学もそれぞれの本質を分類しているのかも知れません。
……こんくらいしか言えません。どうしても気になるということでしたら餅は餅屋、ネオミンさんにお訊ねになることをお勧めいたします。
アリストテレスは『カテゴリー論』において、特定の基体を語る「本質的述語づけ」とその基体に加える「付帯的述語づけ」をそれぞれ否定したものを実体としました。この実体は、現代において個物という言う意味合いが近いそうです。このことから、アリストテレスは個物を第一とし、個体的本質をメインとしていたと考えられます。
冒頭でおっしゃっていた服による世界の分節化というのは、バルトのことですかね?
バルト及び、バルトを下敷きにした鷲田清一さんの著作を意識して述べています。
@@read- なるほど、鷲田さんの本はかなり分かりやすいものが多いですけど、バルトらしさはありますものね。ありがとうございます。
道(みち)ではなく道(タオ)ではないでしょうか??
読み方は「みち」で間違いありませんが、お望みなら「タオ」でも大丈夫だと思いますよ。
そうか、「みち」とも読めるのか、勉強させていただきました
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井筒さんって、語学の才能として日本史上では空海以来の存在ですね。このくらいの天才になると、われわれ愚生では到達できない視点に立っておられのかも知れませんね・・・。なお、ご自分の省察を加えられてのこの動画は拝見していて面白いです。ありがとう!
余裕で空海以上ですね。