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【補足と訂正】同一メーカーかつデザイン案が酷似していたことから「東急8500系のボツ案の流用」と書いてしまったんですが、登場時期を考えると時代関係の前後が逆な可能性がありましたので、訂正させて頂きます。なお、一連のデザインのルーツはシカゴ交通局2200形(1969)と思われ、同車は東急車輛と関連の深いバッド社製であったようです。
元東急車輛の土岐實光さんが鉄道ファン誌で連載していた「ある車両技術者の回想」では 東急8500系(75年登場)は当初小田急9000形(72年登場)と酷似した前面のデザイン案だったが 当時の東急では切妻にするという決まりがあった為にボツになった 的な記述がありました。ただ あのデザインなら 前面は普通鋼製かFRPにしないと出来なかったでしょうね。
小田急9000形のガイコツデザインが、東急の新形式車両のボツ案だった話は私も聞いたことがあります。東急は8000系がローレル賞の最終候補に残ったものの、デザイン面に工夫がないとして、授与が見送られたことから、次の車両はデザインを一新しようとして、その案の一つだったらしいです。
@@user-yl6pk7tp1v さんでも その工夫のないデザインを前面 高運転台+赤帯程度の手直しで出した8500系は 無事ローレル賞を受賞しましたね。因みに8000系から同賞をさらったのは 元祖「額縁フェイス」の大阪市交 60系でした。
@@toriri-service 東急8000系とローレル賞を競ったのは、名鉄軌道線600形ですよ。最終的には名鉄に軍配が上がりましたが、しかしこのジャッジには疑問の声も多く出たため、後にローレル賞は甲乙つけがたい場合、複数選べるようになりました。ちなみに東急8500系は、国鉄キハ66、富士急5000形と同時受賞でした。
@@user-yl6pk7tp1v さんあぁやっぱり。いやはやこりゃまた失礼しました💦私も前に見た資料で 名鉄モ600と競ったと書いてあったように記憶していたのですが 8000系は69年に登場しているので 70年の受賞対象と勘違いしてました🙇確かに複電圧式の意欲的な路面電車用の車両でしたが足回りは釣り合い梁台車の旧品流用で 「こいつに負けたのか」といったムードもあったでしょうね。8500系と共に受賞した 冷房付きセミクロスシートで 当時としては意欲的な地方私鉄用電車だった 富士急5000形と これまた破格の転換式クロスシートの汎用気動車キハ66・67は納得の受賞です。
小田急9000形が関西で運行されて居たら更新を済ませ令和時代の今でもまだまだ頑張って活躍されて居ただろう。
何時も混雑を避けて先頭車に乗車していたが、9000型は、迫力あるモータの唸り音が聞けて好きだった。こんな迷要素が有ったことは勉強に成りました。
期待に応えようとして頑張ったら、いつの間にか心身共にボロボロになってたって感じですね
9000形は小田急で初めて一段窓を採用しましたが、雨水がたまりやすく腐食が進んだことや床下も重装備で保守・運転現場にとっては評判のいい車両ではなかったのも引退を早めた理由の一つです。後輩の8000形は新製時から車体の一部にステンレスを採用していることもあり老朽化はそれほど感じさせないのですが、9000形はその後の小田急通勤車のベースになったという点での功績はあると思います。
子供の頃、千代田線に乗るとき103系はうるさい、抵抗のあの嫌な臭いがするなど嫌だったが逆に9000系が来ると嬉しかったなぁ。地上専用になった後も小田急利用では9000系が来ると乗ってました。ガイコツ顔が斬新な感じを出していたのも事実。
登場時「小田急急行10両編成記念」の9000形が描かれた長大な記念切符を買った記憶があります。それまでの標準型だった「小田急顔」からかけ離れたデザインの9000形は、明らかな「新世代」を感じる斬新さがありましたが、他方「ガイコツ」などというありがたくない「愛称」までついて、あんまり変わりすぎるのもよくないのかな、と子供ながらに思ったものです。
今なら、地下鉄直通用の加速度3.3/km/s2と、在来線の特急用車両用の最高速度130km/hが同じ足回りでもなんとか行けてしまいますから、技術の進歩はすごいですよね。
小田急の「スカルフェイス」こと9000形登場のインパクトは凄かった!
東武8000系の前面改造車両と間違い易かったです。😅💡
ホントそれ!自信愛称「シーボーズ」
他社の界磁チョッパ車とは一味違う重厚なモーター音でした。比較的高音が多い小田急車にあって、国鉄165系を思わせるような起動時の重低音が好きでした。
子供の頃9000形を見た時「カッコイイ」と言ってファンになったのを思い出しす。
ありがとうございます。そのような背景があったのですね。昭和47年、弟が生れた梅丘産婦人科の窓から見た9000、あの驚きは今でもはっきりと覚えています。近所のおばさんに、「窓がこうなってるの!」と、傾いた前面の形を説明したものです。ありがとうございました。
小田急9000形は走行音が西鉄5000系の走行音に似ていますね。😃💡
もしも6両もサハ2両だけでも先に廃車にして全部8両にしたら少しだけでも延命出来たのか?その答えは誰も知らない
デザインは最高なんやけどなぁ。今の新型車両よりずっとカッコイイのな。
現役当時はただカッコイイ車両だと見ていました。退役後にこの動画の様な色々を聞くこととなり、まあ使用する側は大変だったのだなぁ、と。しかしこの後の8000、1000への橋渡し役になったのは幸い。
かっこいいですよね。総武線沿線住民だったので、小田急や千代田線に乗ることは滅多になかったけど、「気合入れて作った形式のはずなのになぜ冷遇されているのか?」とは疑問に思ってました。こんな裏話があったとは。
千代田線直通は国鉄の103の方が良く取り沙汰されるけど、小田急でも大変だったんですねぇ…(今では3社直通という技術革新的なアレ
前面のインパクトなら、営団6000系に匹敵するものがあったと思う。でも、9000形は前面展望があまり望めなかったのが子供の頃は大変残念に思ってた。ちなみにアルゼンチンで、9000形のそっくりさんが走っています。(主要機器が東芝製なのでToshibaという名前がついています。)
機器が多かったからですね。😅💡新型の丸ノ内線2000系もそんな感じです。😃💡
朝のラッシュ時間の7時台新宿方面に、遊園にやってきた9000系は7時35分頃発準急綾瀬行の1本だった。9000系にそんな事情を抱えているとは思わなかった。まだまだ冷房できない古い車両もあったんで斬新に見えました。準急だけど、当時は経堂駅は6両しか停車できないから、10両の千代田線直通は停車しなかった。今では狛江に停車する。ドアを開けないだけで、当時は複々線ではないから線路の上に電車が数珠つなぎでした。まだ走っているだろうと思ったら、廃車になっちゃったんだ。富山地方鉄道とか北陸鉄道で生き残る道はなかったんかな?見てみたかったな。
9000形は車体が重装備であり、運転やメンテナンス現場では評判の良い車両ではありませんでした。また、1段窓を初めて採用しましたが、雨水がたまり、腐食が進行していたことも早期廃車の理由に挙げられます。ちなみに後輩の8000形は車体の一部にステンレスを採用し、大規模更新も受けたこともあり、現在でも車体の状態は良好です。
当時の走行音や夏の冷房使用中の車内の匂いが蘇りましたw相互乗り入れ前は日比谷線利用で北千住駅行ってたので地下鉄線内走る走行音が格段に静かになった思い出があります。日比谷線は窓全開でキーキーガーガーバリバリ音が凄かったです。地下鉄線内冷房効いた9000形がとてもお洒落に見えましたw路線バスの冷房化も同時くらいか数年後だったかな。有難う御座います。
3000形TIOS搭載6両と9000形4両の連結は相性が最悪だったらしいです
2000年代初頭に3000形がデビューしましたが、3000形のワンハンドル車(電気指令式ブレーキ)にツーハンドル車(電磁直通ブレーキ)を連結させると相性が悪かったり、ツーハンドル車側の自動放送の音量が小さい、といった問題はありました。同じような例は東武本線(伊勢崎線・日光線系統)でもあり、ツーハンドルの10000型グループがワンハンドル車の30000型と連結すると相性が悪く、その結果30000型は全編成東上線所属車になりました。
新製当初、9010×4という編成が居たんだけど、中間2両を追加して6連になっています。晩年、4連は中間車化されてライトを撤去した車両がありましたが、9004×4と9009×4はそのまま。検査で片割れの編成と組むことが多かったですね。デビュー当時、小田急顔ばかりだったので、9000形はヒーローだったんですよ!
2006年3月に引退した小田急9000系は千代田線初代直通運転に設計された車両で、72年1月から本線で運用が始まりましたが先頭車両は仕切り板で塞がれ、地下鉄や地上夜間になるとカーテンで密封され展望が見れなかったのも事実で、結局仕切り板窓工事設置は最後迄見送られました。
9000形は他の小田急車と連結すると連結部分がガクガク音がしてましたね!
営団6000系と並んでも引けを取らない小田急9000形は、千代田線利用者からみても好いイメージでした。なかなか来なかったけど。下降窓腐食問題と聞いて、国鉄157系を思い出しました。なかなか大変だったんですね。
9000形は重装備であったことや1段窓を採用したものの、腐食が避けられなかったこともあり初代・5000形よりも早く廃車されました。1段窓でも8000形は車体の一部にステンレスを採用していることもあってか、腐食は目立っていないように感じます。ただ、直流電動機搭載のまま残った8255Fの末期は車体の痛みだけでなく、乗務員室内にある行先設定機の調子が悪かったのは記憶に新しいです。9000形と同じ1972(昭和47)年にデビューした京王6000系に関しても外板が薄かったこともあり、老朽化が早く、平成生まれの車両は20年で廃車になってしまいました。
小田急線9000系、良く乗りました❗❗懐かしい❗❗
子供のころ9000型大好きだったなぁ。新宿駅にあんまり来てくれないのが残念だったけど、たまに乗れるとうれしかったわ
外見的には不気味な印象だったので「ガイコツ」と呼ばれたけど、この正面窓三枚のうち両側の窓を大きくするか黒塗りで大きく見せて、中心の貫通口の窓を小さくするタイプのフェイスは、後の数々の通勤車両にも採用される事になりました。そういう意味ではパイオニア的な車両でしたね。
8500系がこの顔だったら確かに微妙だw
京急2000形も3扉改造後は小田急9000形と同様の立場に京急の中でなってしまいましたね!
京急2000形は先頭車に非常扉が未設置だったため、泉岳寺駅に乗り入れることはできませんでした。A快特が日中泉岳寺発着になってからは日中は動かかない車両となり(2010年に横浜方面の「エアポート急行」が新設されたことで日中運用が再開)、さらに3ドア改造により老朽化がますます進行した点では小田急9000形と同じだったかもしれません。
カッコ良くって小田急の中では一番好きな車両でした。マイクロエースからかつて発売された9000形のNゲージも持ってますよ。
6000系が全滅しても千代田線の走りだしを見るとついチョッパの物まねが口に出てしまいます。😃💡
骸骨マスク💀かっこいいね。
何だか、東武の30000系にも当てはまるように思えてなりませんね。(今は東上線では10両編成で組まれているので、性能をダウンさせることは無くなりましたが。)ちなみに1000形は千代田線内は加速度は3.3、小田急線内は2.7?と変更させることが出来たみたいですね。
小田急9000形にしろ、東武30000型に共通して言えるのは地下鉄直通に入れるまでの期間が長かったことです。千代田線直通は1974(昭和49)年度を目指していたのが複々線化並びにオイルショック等が重なり1978(昭和53)年3月31日に延期され、半蔵門線直通は2000(平成12)年春を予定していたのが、営団地下鉄の減収が重なったりで2003(平成15)年3月にようやく実現しました。一方で9000形は車両が重装備であり、一段窓を初採用したものの車体の一部にステンレスを採用した8000形と違い腐食がひどく先代の5000形より早く引退しました。東武30000型のほうは東急田園都市線のラッシュ時間帯において中間運転台が邪魔な存在だったこと、また当時の西新井工場(現・リライズガーデン西新井)は10両固定が非対応で(南栗橋に移転されたことで解消)、栃木・群馬エリアの支線運用を考慮し「4+6」で製造しなければならなかったなど、それなりの要因を抱えていました。
うぽつです。冷房装置があっただけでも天国だったんでしょうねえ・・・(あ、でも地下鉄線内はどうせ切ってただろうし同じか...)
けど当時の小田急は雨の日は冷房機を動かさずに送風と扇風機だけの時がありました。確か理由が「冷風吹き出し口が結露で水滴となりお客様の頭上へ滴ることを防ぐため」だったような。当時の通勤通学客はギュウギュウジメジメの車内で新宿までノロノロ運転で良く耐えたと思います。
まだこの当時だと、吊り掛け駆動方式の電車も沢山残っていて、中型車などもいる小田急でカルダン駆動+大型車両というのは製造コストが吊り掛け式よりも高くなるから一気に製造というのは難しいですよね。これ東武や国鉄もそうですが、103系で吊り掛け駆動車を置き換えるのに昭和38年から随分と時間をかけて置き換えていったそうですからね。私鉄とかでもそうだけど、新性能電車の料金はかなりコストが掛かるそうな.......。
今に繋がるガイコツ顔の元祖ですかね?
そうですか、東急8500系のデザイン案とは関連は無さそうなのですね。この顔が東急で走っていたとすれば、それはそれで非常に興味深いと思います。ちなみに歴代の小田急通勤型車両のなかで、この9000形が一番好きですね。
国鉄時代、211系が初お目見えした当時、子供心に『小田急9000形のパクリじゃね?』って第1印象を持ったなぁ(笑)
9000形はデザインが良く気に入ってましたがあっという間に消えた感覚でした当時乗り心地とかそんなに気にしてなかったが どの形式と組んでも暴れて 特にVVVF車と組むと更に暴れたと聞きましたね追記 主幹制御器は2600形廃車発生品を流用したそうです ウィキより
シングルアームパンタグラフに変わった時に9000形のマスコンは2600形(初代4000形もあったかもしれませんが・・・)の廃車再生品に変わっていたのは今でも記憶に残っています。一方で、転落防止ほろは設置されませんでした。
その気になればJR直通が可能だったのか。1000形や9000形のJR直通、103系や203系の小田急直通見てみたかった。
かつて千代田線にも投入されていた営団5000系も小田急線内を走る姿が見たかったです。
1978(昭和53)年当時、千代田線は5000系と6000系の2車種が走っていました。しかしながら、小田急との直通運転は今とは比べ物にならないほど本数は少なく(平日ダイヤの朝晩14往復のみ)、5000系は小田急の直通改造工事を受けていません。それ以外にも6101Fは車体寸法の関係、現在中央快速線で活躍している209-1000番台も少数派形式という理由から小田急の直通改造工事を受けませんでした。
9000形が千代田線直通してた頃はそもそも小田急直通の本数が少なくて千代田線内で9000形に出会う事自体がレアだった。
平日朝夕ラッシュ時でその本数もわずかでしたので、小田急線内で千代田線6000系が来るとちょっと嬉しかった。
朝 綾瀬に着いた9000形は 16時頃まで千代田線内を行ったり来たりして その後 側面に準急 綾瀬↔本厚木の表示を出して 小田急に戻って行きましたね。因みに ドア窓が小さく 戸袋窓も無く 側窓も小型の2段窓で開口部も小さい物だった6000系は 小田急ユーザーの皆さんから「監獄電車」と呼ばれていたそうですね。うまい事を言うなと思いました。
千代田線直通が9000形から1000形になり(1990年3月)、1991(平成3)年3月のダイヤ改正からは土休日も設定されましたが、毎時間ではなく、現在と比べ物にならないほどの本数しかありませんでした。毎時間走るようになったのは2000(平成12)年12月改正からになります。
同じ72年にデビューした京王6000系とともに旧来の私鉄通勤車両にない洗練さを感じた。細かいところだけど行先表示が黒抜き白字な部分とか。
1:33 初っぱなから「東急8500型の没案の流用」は草。製作お疲れさまでした。しかし、「ぼくのかんがえたさいきょうのつうきんでんしゃ」みたいな9000型に対して、地下から急行までできて保守整備の欠点なくも車体更新までしてもらえた1000型の凄さがよくわかりますねw
東武30000系のように全力疾走できなくて残念だった。
子供の頃は古臭い(保守的と言うべきか)印象の小田急の普通電車にしては偉く垢抜けたデザインだと衝撃を受けました、営団6000系と並んで今尚通用し得る先進的なデザインだと思います。
同じ大きさのライトとテールランプが二組の紅白まんじゅうのように並べてあって、それがデザイン上の決め手になっている。それぞれライトの縁取りが銀色に輝いていて、都会っぽいスマートさを演出している。
現場「前面展望が見られないorz」
💀というあだ名がついていたOER9000形。電動比率が高く保安部門から敬遠されたという諸説など、いろいろ嫌われていたようですが私は好きでしたよ。
こうなると、06も是非!
ハイデッカーによって早めに引退10000系、20000系、機器更新が大変50000系小田急って機能求めすぎて早め引退多いな笑笑
因みにその「東急8500系のボツ案流用」は後の8090系での伊豆箱根鉄道の主力車である3000系のデザイン案の一件と混同だと思います。これについては、当時の東急車輛製造の専務だった方がある鉄道誌でその事を書かれていたので、それもあったのだと思います。その上で、同時に今回の動画の主役である9000系と伊豆箱根の3000系は前回りが全面非常ドアの有無の違いでほぼ似ているデザインなので、関連性はあると思いますね。
路面電車・登山電車・ATO装備の地下鉄電車という1人3役で全長1mあたりの価格が新幹線より高いと言われる京阪800系と似ていますね。インバータ制御が当たり前の現代だから金さえかければ何とかなったのでしょうけれど直流モータ+界磁チョッパの時代ではいろいろ無理があったのですね。
回生ブレーキが失効したら発電ブレーキに切り替えるシステムってJR東海の373系や313系3000番台とかで採用されてますから。時代を先取りしすぎたんですね。
9000形が快速急行かなその一番列車に使用された時、化粧板邪魔で前面展望見えなかったという話を聞いたことがあります。
乗り入れ撤退が早かったせいか千代田線内での走行音が意外と公開されていないと言うか無いに等しいのがなんとも。平日だけの僅かな本数だったから録りにくかったのかなと。
2000(平成12)年12月改正までは小田急から千代田線へ直通する列車は朝晩が中心であり(当時は一日14往復だったような気が・・・)、今みたいに毎時間走っている列車ではありませんでした。昭和から平成に変わり、1991(平成3)年3月改正からは土・休日ダイヤにおいても直通列車が走るようになりますが、当時は少ないものでした。
9000形の付属編成、MT比の関係でよく新車の甲種輸送牽引や、保存車両の牽引を担当してましたね。
後にフロントマスクが「ガイコツ」と揶揄されるものの、当時は「京王は6000系、小田急は9000形とモデルチェンジが早いぜ」と、小田急沿線小学生知り合いに、京王線はディスられました。
京王6000系はいかにもコストダウンしました感がありありだったからね。側面窓も角型のユニットサッシ、貫通路ドアもドアチェックなし。
@@taka480 おっしゃる通り。「市民団体風」の方々の著書で、6000系の乗降ドアがガタついているなど、酷評された記憶があります。
今こそ小田急の常磐緩行線乗り入れは当たり前になったが、当時の小田急の千代田線乗り入れ車9000形電車。千代田線や常磐緩行線乗り入れを想定して営団ATCの装備(常磐緩行線も同じ保安装置)と常磐アンテナの準備工事を備えていたし、国鉄の信号煙管もあった(他の私鉄車は国鉄に乗り入れる際に備えなければならない)。小田急車も常磐緩行線に乗り入れる事を想定したが、実際は綾瀬止まりだった。反対に国鉄103系1000番は小田急保安装置や無線アンテナがなかった為に乗り入れは出来ず、代々木上原止まりで唯一3社乗り入れ出来るのは営団の6000形で取手~本厚木間のロングランで運用していた。今はメトロ、小田急、JR東の3社共通の保安装置や無線機器を備えた小田急4000形とJR東日本のE233系2000番、東京メトロの16000系と行き来している。
5000形は残ってるのに何故好きだった9000形が先にと、当時思っていましたが、そのような理由があったのですね。小田急カラーの8000形が改修されて延命してますが40年近いので何時まで走れる事やら。
通学で乗ってた頃、確かにこいつだけ揺れが酷いよなーと思ってたけど、構造からしてしゃーないものだったわけか。
多摩線開業日に永山駅で9000形をバックに撮った母親と幼き私のスナップ写真があります。
ガイコツ9000系の顔はホームで待っててコレが来たら結構恐怖に感じた。中間運転台撤去後も運転室は撤去しなかったから客室のスペースが確保されたわけじゃないんだよね…。撤去後数年で廃車が始まっちゃったくらいだから、そこまでの大掛かりな工事はしたくなかったんだろうけど。4両編成側は全M車だったことで車両搬入時とかに機関車代わりに使われたりもしてたみたいだね。今は1000系がやってるみたいだけど1000系廃止したらどうするんだろう。
車内の乗務員室との仕切りが他の小田急車両と違って、前面展望が扉にある窓以外出来ない構造、103系高運転台の様な感じ、でしたが、そこにブルーリボン賞のワッペンがあったかな。先頭車がM車というのも営団の規格、故障した編成を押し進める事が出来る事を過剰に意識してる様な。小田急自体が某電機メーカーと繋がりが深い関係もあったんだろうけど。
連結部渡るの怖そう
おつです。9000系見なくなりましたね。今じゃ多くが3000系で。最近だと床が木目のやつまで出てきていて隔世の感ありますねぇ。しかし、性能の違いで車両の組み合わせが難しいなんてね。開発方向性の違いでこんなに運用が厳しいとは。直通運転は必要でも色々、犠牲にする部分も多いのですね。
小田急9000形と言えば、営団6000系との共通点が外観デザインが海外のパクりという事も😅
9000形の顔の祖先は大阪市交60系。9000形は窓ガラスを傾斜させて額縁状にデザインして洒落っ気を出した。なぜか9000形由来の額縁状フロントマスクは関西私鉄で流行った。(阪急8000/8300系初期車や阪神8000系、南海9000系、額縁でないけど8810系以降の近鉄通勤型)
そう考えると東武9000系や東急8500系抵抗制御でも名鉄100系は逆に成功した地下鉄直通運転用私鉄電車だったかな
103系1000番…と言うより鉄板焼き電車「ガイコツくんも色々あったんだねー♩」
9000と付く形式ってなんか不遇な印象。南海にしろ京阪にしろ
作者さん、この動画を作る際にやおいの人を意識してそう
チョッパ車だから省エネではなく、電力回生ブレーキがあるから省エネになるわけである。省エネと言いながらMT比は大きいし、チョッパ車であっても力行時には熱を出す。営団6000系より、後年東西線で界磁添加励磁制御に改造された営団5000系の方が回生に優れて省エネである。
小田急2600系界磁位相制御みたいに各駅停車寄りの性能にして運用も2600系寄りに急行運用は2400系 5000系に任せるのが良いけどな
どうせ運転最高速度は100km/hだから精々105km/hからブレーキ良くて東急8000系シリーズと同じ110km/hからブレーキで良くないかな。東武8000系や西武101系と同じ速度しか出してないし。
横槍を入れる様ですが・・・(汗)小田急9000形は通称”ガイコツ”と呼ばれ鉄道友の会から「ローレル賞」を受賞しています。保守サイドからしたら”何言うてんねん!!”と異議が出そうですが・・・
それでも 私鉄電車に「前面額縁スタイル」を流行らせた「ガイコツ」9000形の功績は大きい。登場時は常磐線直通を考えて 屋根に常磐線無線アンテナ取り付け用の台座が付いていたそう。この頃の小田急は 形 でなく 系 を使っていましたね。
9000形の常磐線直通、103系の小田急乗り入れとか見てみたかった。
@@Central313 さん本気出したらかなり速かった103系1000番台。小田急で「準急 本厚木」の表示を出して快走する姿を私も見てみたかったです。
小田急が車両形式の呼称に「系」を使っていた時期があったとは初耳ですね。確認したいんですがどこに書いてあるんでしょう?
@@superkamoi さん1980年頃までの趣味誌や解説本を見ると 「小田急5000系(5200形)」とか「7000系LSE」と記されていました。吉村光夫氏も75年頃 当時の「鉄道ジャーナル」誌上で小田急新宿駅のリポートをした際に「4000 系 でも急行仕業に就けるほど急行の速度は落ちている。」と述べておられましたし昔知り合いだった小田急の社員の方も「〇〇系」と呼んでいました。いつ頃から 形 と呼ぶようになったのかはわかりません。「鉄道ピクトリアル」のアーカイブ的な書物(小田急電鉄1960〜1970等)を見てみると良いかもしれません。昔の記事がそのまま載っていますので。
このデザインの元祖は大阪市営地下鉄60系(民鉄との相直車両という共通項あり)だったけど、フロントガラスを傾斜させて洒落っ気を出したのが9000形の特徴。後年になって登場した阪急8000系や阪神5500系、南海8200系など、額縁フェイスはなぜか関西私鉄で流行った印象があります。
千代田線内で塗装車(小田急9000形)が来るとホッとした😄😄
デビュー時の白黒写真、ホーム端の柵の上によじ登っているヤツがいる。今だったら「これだから撮り鉄は・・・・」とSNSで拡散されてもおかしくない。ていうか、昔からこういうマナーの悪い撮り鉄は存在してたというのがよくわかんだね。
6両側の性能は2600形や新性能改造の4000形6両とは近く4000形4両は出力不足気味に見えるが
あんた、玉川学園住んでるだろ、2:21でわかる
ご視聴ありがとうございます。LSEの写真ですかね?でしたら多分撮影場所はそれで合っているのですが、小学生時代に玉川大学で行われたイベントに参加した折に撮ったもので、住んでいたことはありません(生粋の埼玉県民です)。
骸骨💀こと9000形は小田急に於ける個性的な通勤車の元祖。其れ迄小田急顔と称される没個性的なスタイルから脱却し、当時としては斬新なStyleで話題を呼び🎖ローレル賞🏆迄受賞したという名車両✨以降はデザインを変えながら新しい通勤車を導入されたが、📺の様に角張った没個性的な(SE車では無い)3000形は全く味ッ気ないですね、オマケに狭そうだし。そいつと比べれば長年親しまれた"昭和の小田急顔"の方が断ッ然好かった♡
設計が面倒くさいカネが掛かると手抜きをした103系より良い車両だと思います
先輩格の5000系グループよりも先に引退してしまったのは、そういう理由からだったんですね。なんだかかわいそうです。
【補足と訂正】
同一メーカーかつデザイン案が酷似していたことから「東急8500系のボツ案の流用」と書いてしまったんですが、
登場時期を考えると時代関係の前後が逆な可能性がありましたので、訂正させて頂きます。
なお、一連のデザインのルーツはシカゴ交通局2200形(1969)と思われ、同車は東急車輛と関連の深いバッド社製であったようです。
元東急車輛の土岐實光さんが鉄道ファン誌で連載していた「ある車両技術者の回想」では
東急8500系(75年登場)は当初小田急9000形(72年登場)と酷似した前面のデザイン案だったが 当時の東急では切妻にするという決まりがあった為にボツになった 的な記述がありました。
ただ あのデザインなら 前面は普通鋼製かFRPにしないと出来なかったでしょうね。
小田急9000形のガイコツデザインが、東急の新形式車両のボツ案だった話は
私も聞いたことがあります。
東急は8000系がローレル賞の最終候補に残ったものの、
デザイン面に工夫がないとして、授与が見送られたことから、
次の車両はデザインを一新しようとして、その案の一つだったらしいです。
@@user-yl6pk7tp1v さん
でも その工夫のないデザインを前面 高運転台+赤帯程度の手直しで出した8500系は 無事
ローレル賞を受賞しましたね。
因みに8000系から同賞をさらったのは
元祖「額縁フェイス」の大阪市交 60系でした。
@@toriri-service
東急8000系とローレル賞を競ったのは、名鉄軌道線600形ですよ。
最終的には名鉄に軍配が上がりましたが、しかしこのジャッジには
疑問の声も多く出たため、後にローレル賞は甲乙つけがたい場合、
複数選べるようになりました。
ちなみに東急8500系は、国鉄キハ66、富士急5000形と同時受賞でした。
@@user-yl6pk7tp1v さん
あぁやっぱり。
いやはやこりゃまた失礼しました💦
私も前に見た資料で 名鉄モ600と競ったと書いてあったように記憶していたのですが
8000系は69年に登場しているので 70年の受賞対象と勘違いしてました🙇
確かに複電圧式の意欲的な路面電車用の車両でしたが
足回りは釣り合い梁台車の旧品流用で 「こいつに負けたのか」といったムードもあったでしょうね。
8500系と共に受賞した 冷房付きセミクロスシートで 当時としては意欲的な地方私鉄用電車だった 富士急5000形と これまた破格の転換式クロスシートの汎用気動車キハ66・67は納得の受賞です。
小田急9000形が関西で運行されて居たら更新を済ませ令和時代の今でもまだまだ頑張って活躍されて居ただろう。
何時も混雑を避けて先頭車に乗車していたが、9000型は、迫力あるモータの唸り音が聞けて好きだった。こんな迷要素が有ったことは勉強に成りました。
期待に応えようとして頑張ったら、いつの間にか心身共にボロボロになってたって感じですね
9000形は小田急で初めて一段窓を採用しましたが、雨水がたまりやすく腐食が進んだことや床下も重装備で保守・運転現場にとっては評判のいい車両ではなかったのも引退を早めた理由の一つです。後輩の8000形は新製時から車体の一部にステンレスを採用していることもあり老朽化はそれほど感じさせないのですが、9000形はその後の小田急通勤車のベースになったという点での功績はあると思います。
子供の頃、千代田線に乗るとき103系はうるさい、抵抗のあの嫌な臭いがするなど嫌だったが逆に9000系が来ると嬉しかったなぁ。地上専用になった後も小田急利用では9000系が来ると乗ってました。ガイコツ顔が斬新な感じを出していたのも事実。
登場時「小田急急行10両編成記念」の9000形が描かれた長大な記念切符を買った記憶があります。それまでの標準型だった「小田急顔」からかけ離れたデザインの9000形は、明らかな「新世代」を感じる斬新さがありましたが、他方「ガイコツ」などというありがたくない「愛称」までついて、あんまり変わりすぎるのもよくないのかな、と子供ながらに思ったものです。
今なら、地下鉄直通用の加速度3.3/km/s2と、在来線の特急用車両用の最高速度130km/hが同じ足回りでもなんとか行けてしまいますから、技術の進歩はすごいですよね。
小田急の「スカルフェイス」こと9000形登場のインパクトは凄かった!
東武8000系の前面改造車両と間違い易かったです。😅💡
ホントそれ!自信愛称「シーボーズ」
他社の界磁チョッパ車とは一味違う重厚なモーター音でした。
比較的高音が多い小田急車にあって、国鉄165系を思わせるような起動時の重低音が好きでした。
子供の頃9000形を見た時「カッコイイ」と言ってファンになったのを思い出しす。
ありがとうございます。そのような背景があったのですね。昭和47年、弟が生れた梅丘産婦人科の窓から見た9000、あの驚きは今でもはっきりと覚えています。近所のおばさんに、「窓がこうなってるの!」と、傾いた前面の形を説明したものです。ありがとうございました。
小田急9000形は走行音が西鉄5000系の走行音に似ていますね。😃💡
もしも6両もサハ2両だけでも先に廃車にして全部8両にしたら少しだけでも延命出来たのか?その答えは誰も知らない
デザインは最高なんやけどなぁ。今の新型車両よりずっとカッコイイのな。
現役当時はただカッコイイ車両だと見ていました。
退役後にこの動画の様な色々を聞くこととなり、まあ使用する側は大変だったのだなぁ、と。
しかしこの後の8000、1000への橋渡し役になったのは幸い。
かっこいいですよね。
総武線沿線住民だったので、小田急や千代田線に乗ることは滅多になかったけど、「気合入れて作った形式のはずなのになぜ冷遇されているのか?」とは疑問に思ってました。こんな裏話があったとは。
千代田線直通は国鉄の103の方が良く取り沙汰されるけど、小田急でも大変だったんですねぇ…(今では3社直通という技術革新的なアレ
前面のインパクトなら、営団6000系に匹敵するものがあったと思う。でも、9000形は前面展望があまり望めなかったのが子供の頃は大変残念に思ってた。
ちなみにアルゼンチンで、9000形のそっくりさんが走っています。(主要機器が東芝製なのでToshibaという名前がついています。)
機器が多かったからですね。😅💡
新型の丸ノ内線2000系もそんな感じです。😃💡
朝のラッシュ時間の7時台新宿方面に、遊園にやってきた9000系は7時35分頃発準急綾瀬行の1本だった。9000系にそんな事情を抱えているとは思わなかった。まだまだ冷房できない古い車両もあったんで斬新に見えました。準急だけど、当時は経堂駅は6両しか停車できないから、10両の千代田線直通は停車しなかった。今では狛江に停車する。ドアを開けないだけで、当時は複々線ではないから線路の上に電車が数珠つなぎでした。まだ走っているだろうと思ったら、廃車になっちゃったんだ。富山地方鉄道とか北陸鉄道で生き残る道はなかったんかな?見てみたかったな。
9000形は車体が重装備であり、運転やメンテナンス現場では評判の良い車両ではありませんでした。また、1段窓を初めて採用しましたが、雨水がたまり、腐食が進行していたことも早期廃車の理由に挙げられます。ちなみに後輩の8000形は車体の一部にステンレスを採用し、大規模更新も受けたこともあり、現在でも車体の状態は良好です。
当時の走行音や夏の冷房使用中の車内の匂いが蘇りましたw
相互乗り入れ前は日比谷線利用で北千住駅行ってたので地下鉄線内
走る走行音が格段に静かになった思い出があります。
日比谷線は窓全開でキーキーガーガーバリバリ音が凄かったです。
地下鉄線内冷房効いた9000形がとてもお洒落に見えましたw
路線バスの冷房化も同時くらいか数年後だったかな。有難う御座います。
3000形TIOS搭載6両と9000形4両の連結は相性が最悪だったらしいです
2000年代初頭に3000形がデビューしましたが、3000形のワンハンドル車(電気指令式ブレーキ)にツーハンドル車(電磁直通ブレーキ)を連結させると相性が悪かったり、ツーハンドル車側の自動放送の音量が小さい、といった問題はありました。
同じような例は東武本線(伊勢崎線・日光線系統)でもあり、ツーハンドルの10000型グループがワンハンドル車の30000型と連結すると相性が悪く、その結果30000型は全編成東上線所属車になりました。
新製当初、9010×4という編成が居たんだけど、中間2両を追加して6連になっています。
晩年、4連は中間車化されてライトを撤去した車両がありましたが、9004×4と9009×4はそのまま。
検査で片割れの編成と組むことが多かったですね。
デビュー当時、小田急顔ばかりだったので、9000形はヒーローだったんですよ!
2006年3月に引退した小田急9000系は千代田線初代直通運転に設計された車両で、72年1月から本線で運用が始まりましたが先頭車両は仕切り板で塞がれ、地下鉄や地上夜間になるとカーテンで密封され展望が見れなかったのも事実で、結局仕切り板窓工事設置は最後迄見送られました。
9000形は他の小田急車と連結すると連結部分がガクガク音がしてましたね!
営団6000系と並んでも引けを取らない小田急9000形は、千代田線利用者からみても好いイメージでした。なかなか来なかったけど。
下降窓腐食問題と聞いて、国鉄157系を思い出しました。なかなか大変だったんですね。
9000形は重装備であったことや1段窓を採用したものの、腐食が避けられなかったこともあり初代・5000形よりも早く廃車されました。1段窓でも8000形は車体の一部にステンレスを採用していることもあってか、腐食は目立っていないように感じます。ただ、直流電動機搭載のまま残った8255Fの末期は車体の痛みだけでなく、乗務員室内にある行先設定機の調子が悪かったのは記憶に新しいです。
9000形と同じ1972(昭和47)年にデビューした京王6000系に関しても外板が薄かったこともあり、老朽化が早く、平成生まれの車両は20年で廃車になってしまいました。
小田急線9000系、良く乗りました❗❗
懐かしい❗❗
子供のころ9000型大好きだったなぁ。新宿駅にあんまり来てくれないのが残念だったけど、たまに乗れるとうれしかったわ
外見的には不気味な印象だったので「ガイコツ」と呼ばれたけど、この正面窓三枚のうち両側の窓を大きくするか黒塗りで大きく見せて、中心の貫通口の窓を小さくするタイプのフェイスは、後の数々の通勤車両にも採用される事になりました。そういう意味ではパイオニア的な車両でしたね。
8500系がこの顔だったら確かに微妙だw
京急2000形も3扉改造後は小田急9000形と同様の立場に京急の中でなってしまいましたね!
京急2000形は先頭車に非常扉が未設置だったため、泉岳寺駅に乗り入れることはできませんでした。A快特が日中泉岳寺発着になってからは日中は動かかない車両となり(2010年に横浜方面の「エアポート急行」が新設されたことで日中運用が再開)、さらに3ドア改造により老朽化がますます進行した点では小田急9000形と同じだったかもしれません。
カッコ良くって小田急の中では一番好きな車両でした。
マイクロエースからかつて発売された9000形のNゲージも持ってますよ。
6000系が全滅しても千代田線の走りだしを見るとついチョッパの物まねが口に出てしまいます。😃💡
骸骨マスク💀かっこいいね。
何だか、東武の30000系にも当てはまるように思えてなりませんね。
(今は東上線では10両編成で組まれているので、性能をダウンさせることは
無くなりましたが。)
ちなみに1000形は千代田線内は加速度は3.3、小田急線内は2.7?と変更させることが
出来たみたいですね。
小田急9000形にしろ、東武30000型に共通して言えるのは地下鉄直通に入れるまでの期間が長かったことです。千代田線直通は1974(昭和49)年度を目指していたのが複々線化並びにオイルショック等が重なり1978(昭和53)年3月31日に延期され、半蔵門線直通は2000(平成12)年春を予定していたのが、営団地下鉄の減収が重なったりで2003(平成15)年3月にようやく実現しました。
一方で9000形は車両が重装備であり、一段窓を初採用したものの車体の一部にステンレスを採用した8000形と違い腐食がひどく先代の5000形より早く引退しました。
東武30000型のほうは東急田園都市線のラッシュ時間帯において中間運転台が邪魔な存在だったこと、また当時の西新井工場(現・リライズガーデン西新井)は10両固定が非対応で(南栗橋に移転されたことで解消)、栃木・群馬エリアの支線運用を考慮し「4+6」で製造しなければならなかったなど、それなりの要因を抱えていました。
うぽつです。
冷房装置があっただけでも天国だったんでしょうねえ・・・(あ、でも地下鉄線内はどうせ切ってただろうし同じか...)
けど当時の小田急は雨の日は冷房機を動かさずに送風と扇風機だけの時がありました。
確か理由が「冷風吹き出し口が結露で水滴となりお客様の頭上へ滴ることを防ぐため」だったような。
当時の通勤通学客はギュウギュウジメジメの車内で新宿までノロノロ運転で良く耐えたと思います。
まだこの当時だと、吊り掛け駆動方式の電車も沢山残っていて、中型車などもいる小田急でカルダン駆動+大型車両というのは製造コストが吊り掛け式よりも高くなるから一気に製造というのは難しいですよね。これ東武や国鉄もそうですが、103系で吊り掛け駆動車を置き換えるのに昭和38年から随分と時間をかけて置き換えていったそうですからね。私鉄とかでもそうだけど、新性能電車の料金はかなりコストが掛かるそうな.......。
今に繋がるガイコツ顔の元祖ですかね?
そうですか、東急8500系のデザイン案とは関連は無さそうなのですね。この顔が東急で走っていたとすれば、それはそれで非常に興味深いと思います。
ちなみに歴代の小田急通勤型車両のなかで、この9000形が一番好きですね。
国鉄時代、211系が初お目見えした当時、子供心に『小田急9000形のパクリじゃね?』って第1印象を持ったなぁ(笑)
9000形はデザインが良く気に入ってましたがあっという間に消えた感覚でした
当時乗り心地とかそんなに気にしてなかったが どの形式と組んでも暴れて 特にVVVF車と組むと更に暴れたと聞きましたね
追記 主幹制御器は2600形廃車発生品を流用したそうです ウィキより
シングルアームパンタグラフに変わった時に9000形のマスコンは2600形(初代4000形もあったかもしれませんが・・・)の廃車再生品に変わっていたのは今でも記憶に残っています。一方で、転落防止ほろは設置されませんでした。
その気になればJR直通が可能だったのか。
1000形や9000形のJR直通、103系や203系の小田急直通見てみたかった。
かつて千代田線にも投入されていた営団5000系も小田急線内を走る姿が見たかったです。
1978(昭和53)年当時、千代田線は5000系と6000系の2車種が走っていました。しかしながら、小田急との直通運転は今とは比べ物にならないほど本数は少なく(平日ダイヤの朝晩14往復のみ)、5000系は小田急の直通改造工事を受けていません。それ以外にも6101Fは車体寸法の関係、現在中央快速線で活躍している209-1000番台も少数派形式という理由から小田急の直通改造工事を受けませんでした。
9000形が千代田線直通してた頃はそもそも小田急直通の本数が少なくて
千代田線内で9000形に出会う事自体がレアだった。
平日朝夕ラッシュ時でその本数もわずかでしたので、小田急線内で千代田線6000系が来るとちょっと嬉しかった。
朝 綾瀬に着いた9000形は 16時頃まで千代田線内を行ったり来たりして その後 側面に
準急 綾瀬↔本厚木の表示を出して 小田急に戻って行きましたね。
因みに ドア窓が小さく 戸袋窓も無く
側窓も小型の2段窓で開口部も小さい物だった6000系は 小田急ユーザーの皆さんから「監獄電車」と呼ばれていたそうですね。
うまい事を言うなと思いました。
千代田線直通が9000形から1000形になり(1990年3月)、1991(平成3)年3月のダイヤ改正からは土休日も設定されましたが、毎時間ではなく、現在と比べ物にならないほどの本数しかありませんでした。毎時間走るようになったのは2000(平成12)年12月改正からになります。
同じ72年にデビューした京王6000系とともに旧来の私鉄通勤車両にない洗練さを感じた。細かいところだけど行先表示が黒抜き白字な部分とか。
1:33 初っぱなから「東急8500型の没案の流用」は草。
製作お疲れさまでした。しかし、「ぼくのかんがえたさいきょうのつうきんでんしゃ」みたいな9000型に対して、地下から急行までできて保守整備の欠点なくも車体更新までしてもらえた1000型の凄さがよくわかりますねw
東武30000系のように全力疾走できなくて残念だった。
子供の頃は古臭い(保守的と言うべきか)印象の小田急の普通電車にしては偉く垢抜けたデザインだと衝撃を受けました、営団6000系と並んで今尚通用し得る先進的なデザインだと思います。
同じ大きさのライトとテールランプが二組の紅白まんじゅうのように並べてあって、それがデザイン上の決め手になっている。それぞれライトの縁取りが銀色に輝いていて、都会っぽいスマートさを演出している。
現場「前面展望が見られないorz」
💀というあだ名がついていたOER9000形。
電動比率が高く保安部門から敬遠されたという諸説など、いろいろ嫌われていたようですが私は好きでしたよ。
こうなると、06も是非!
ハイデッカーによって早めに引退10000系、20000系、機器更新が大変50000系
小田急って機能求めすぎて早め引退多いな笑笑
因みにその「東急8500系のボツ案流用」は後の8090系での
伊豆箱根鉄道の主力車である3000系のデザイン案の一件と混同だと思います。
これについては、当時の東急車輛製造の専務だった方がある鉄道誌で
その事を書かれていたので、それもあったのだと思います。
その上で、同時に今回の動画の主役である9000系と伊豆箱根の3000系は前回りが
全面非常ドアの有無の違いでほぼ似ているデザインなので、関連性はあると思いますね。
路面電車・登山電車・ATO装備の地下鉄電車という1人3役で全長1mあたりの価格が新幹線より高いと言われる京阪800系と似ていますね。インバータ制御が当たり前の現代だから金さえかければ何とかなったのでしょうけれど直流モータ+界磁チョッパの時代ではいろいろ無理があったのですね。
回生ブレーキが失効したら発電ブレーキに切り替えるシステムって
JR東海の373系や313系3000番台とかで採用されてますから。
時代を先取りしすぎたんですね。
9000形が快速急行かなその一番列車に使用された時、化粧板邪魔で前面展望見えなかったという話を聞いたことがあります。
乗り入れ撤退が早かったせいか千代田線内での走行音が意外と公開されていないと言うか無いに等しいのがなんとも。平日だけの僅かな本数だったから録りにくかったのかなと。
2000(平成12)年12月改正までは小田急から千代田線へ直通する列車は朝晩が中心であり(当時は一日14往復だったような気が・・・)、今みたいに毎時間走っている列車ではありませんでした。昭和から平成に変わり、1991(平成3)年3月改正からは土・休日ダイヤにおいても直通列車が走るようになりますが、当時は少ないものでした。
9000形の付属編成、MT比の関係でよく新車の甲種輸送牽引や、保存車両の牽引を担当してましたね。
後にフロントマスクが「ガイコツ」と揶揄されるものの、当時は「京王は6000系、小田急は9000形とモデルチェンジが早いぜ」と、小田急沿線小学生知り合いに、京王線はディスられました。
京王6000系はいかにもコストダウンしました感がありありだったからね。
側面窓も角型のユニットサッシ、貫通路ドアもドアチェックなし。
@@taka480 おっしゃる通り。「市民団体風」の方々の著書で、6000系の乗降ドアがガタついているなど、酷評された記憶があります。
今こそ小田急の常磐緩行線乗り入れは当たり前になったが、当時の小田急の千代田線乗り入れ車9000形電車。
千代田線や常磐緩行線乗り入れを想定して営団ATCの装備(常磐緩行線も同じ保安装置)と常磐アンテナの準備工事を備えていたし、国鉄の信号煙管もあった(他の私鉄車は国鉄に乗り入れる際に備えなければならない)。
小田急車も常磐緩行線に乗り入れる事を想定したが、実際は綾瀬止まりだった。反対に国鉄103系1000番は小田急保安装置や無線アンテナがなかった為に乗り入れは出来ず、代々木上原止まりで唯一3社乗り入れ出来るのは営団の6000形で取手~本厚木間のロングランで運用していた。
今はメトロ、小田急、JR東の3社共通の保安装置や無線機器を備えた小田急4000形とJR東日本のE233系2000番、東京メトロの16000系と行き来している。
5000形は残ってるのに何故好きだった9000形が先に
と、当時思っていましたが、そのような理由があったのですね。
小田急カラーの8000形が改修されて延命してますが
40年近いので何時まで走れる事やら。
通学で乗ってた頃、確かにこいつだけ揺れが酷いよなーと思ってたけど、構造からしてしゃーないものだったわけか。
多摩線開業日に永山駅で9000形をバックに撮った母親と幼き私のスナップ写真があります。
ガイコツ9000系の顔はホームで待っててコレが来たら結構恐怖に感じた。
中間運転台撤去後も運転室は撤去しなかったから客室のスペースが確保されたわけじゃないんだよね…。
撤去後数年で廃車が始まっちゃったくらいだから、そこまでの大掛かりな工事はしたくなかったんだろうけど。
4両編成側は全M車だったことで車両搬入時とかに機関車代わりに使われたりもしてたみたいだね。
今は1000系がやってるみたいだけど1000系廃止したらどうするんだろう。
車内の乗務員室との仕切りが他の小田急車両と違って、前面展望が扉にある窓以外出来ない構造、103系高運転台の様な感じ、でしたが、
そこにブルーリボン賞のワッペンがあったかな。先頭車がM車というのも営団の規格、故障した編成を押し進める事が出来る事を過剰に意識してる様な。
小田急自体が某電機メーカーと繋がりが深い関係もあったんだろうけど。
連結部渡るの怖そう
おつです。9000系見なくなりましたね。今じゃ多くが3000系で。最近だと床が木目のやつまで
出てきていて隔世の感ありますねぇ。しかし、性能の違いで車両の組み合わせが難しいなんてね。
開発方向性の違いでこんなに運用が厳しいとは。直通運転は必要でも色々、犠牲にする部分も多いのですね。
小田急9000形と言えば、営団6000系との共通点が外観デザインが海外のパクりという事も😅
9000形の顔の祖先は大阪市交60系。9000形は窓ガラスを傾斜させて額縁状にデザインして洒落っ気を出した。
なぜか9000形由来の額縁状フロントマスクは関西私鉄で流行った。
(阪急8000/8300系初期車や阪神8000系、南海9000系、額縁でないけど8810系以降の近鉄通勤型)
そう考えると東武9000系や東急8500系
抵抗制御でも名鉄100系は逆に成功した地下鉄直通運転用私鉄電車だったかな
103系1000番…と言うより鉄板焼き電車「ガイコツくんも色々あったんだねー♩」
9000と付く形式ってなんか不遇な印象。
南海にしろ京阪にしろ
作者さん、この動画を作る際にやおいの人を意識してそう
チョッパ車だから省エネではなく、電力回生ブレーキがあるから省エネになるわけである。
省エネと言いながらMT比は大きいし、チョッパ車であっても力行時には熱を出す。
営団6000系より、後年東西線で界磁添加励磁制御に改造された営団5000系の方が回生に優れて省エネである。
小田急2600系界磁位相制御みたいに
各駅停車寄りの性能にして
運用も2600系寄りに
急行運用は2400系 5000系に任せるのが良いけどな
どうせ運転最高速度は100km/hだから
精々105km/hからブレーキ
良くて東急8000系シリーズと同じ
110km/hからブレーキで良くないかな。
東武8000系や西武101系と同じ速度しか出してないし。
横槍を入れる様ですが・・・(汗)
小田急9000形は通称”ガイコツ”と呼ばれ鉄道友の会から「ローレル賞」を受賞
しています。保守サイドからしたら”何言うてんねん!!”と異議が出そうですが・・・
それでも 私鉄電車に「前面額縁スタイル」を流行らせた「ガイコツ」9000形の功績は大きい。
登場時は常磐線直通を考えて 屋根に常磐線無線アンテナ取り付け用の台座が付いていたそう。
この頃の小田急は 形 でなく 系 を使っていましたね。
9000形の常磐線直通、103系の小田急乗り入れとか見てみたかった。
@@Central313 さん
本気出したらかなり速かった103系1000番台。
小田急で「準急 本厚木」の表示を出して快走する姿を私も見てみたかったです。
小田急が車両形式の呼称に「系」を使っていた時期があったとは初耳ですね。確認したいんですがどこに書いてあるんでしょう?
@@superkamoi さん
1980年頃までの趣味誌や解説本を見ると 「小田急5000系(5200形)」とか「7000系LSE」と記されていました。
吉村光夫氏も75年頃 当時の「鉄道ジャーナル」誌上で小田急新宿駅のリポートをした際に「4000 系 でも急行仕業に就けるほど急行の速度は落ちている。」と述べておられましたし
昔知り合いだった小田急の社員の方も「〇〇系」と呼んでいました。
いつ頃から 形 と呼ぶようになったのかはわかりません。
「鉄道ピクトリアル」のアーカイブ的な書物(小田急電鉄1960〜1970等)を見てみると良いかもしれません。
昔の記事がそのまま載っていますので。
このデザインの元祖は大阪市営地下鉄60系(民鉄との相直車両という共通項あり)だったけど、
フロントガラスを傾斜させて洒落っ気を出したのが9000形の特徴。
後年になって登場した阪急8000系や阪神5500系、南海8200系など、額縁フェイスはなぜか関西私鉄で流行った印象があります。
千代田線内で塗装車(小田急9000形)が来るとホッとした😄😄
デビュー時の白黒写真、ホーム端の柵の上によじ登っているヤツがいる。
今だったら「これだから撮り鉄は・・・・」とSNSで拡散されてもおかしくない。ていうか、昔からこういうマナーの悪い撮り鉄は存在してたというのがよくわかんだね。
6両側の性能は2600形や
新性能改造の4000形6両とは近く
4000形4両は出力不足気味に見えるが
あんた、玉川学園住んでるだろ、2:21でわかる
ご視聴ありがとうございます。LSEの写真ですかね?
でしたら多分撮影場所はそれで合っているのですが、小学生時代に玉川大学で行われたイベントに参加した折に撮ったもので、住んでいたことはありません(生粋の埼玉県民です)。
骸骨💀こと9000形は小田急に於ける個性的な通勤車の元祖。其れ迄小田急顔と称される没個性的なスタイルから脱却し、当時としては斬新なStyleで話題を呼び🎖ローレル賞🏆迄受賞したという名車両✨
以降はデザインを変えながら新しい通勤車を導入されたが、📺の様に角張った没個性的な(SE車では無い)3000形は全く味ッ気ないですね、オマケに狭そうだし。そいつと比べれば長年親しまれた"昭和の小田急顔"の方が断ッ然好かった♡
設計が面倒くさいカネが掛かると手抜きをした103系より良い車両だと思います
先輩格の5000系グループよりも先に引退してしまったのは、そういう理由からだったんですね。なんだかかわいそうです。